藤井康一ライブの話、まで行かなかった その2

 昨日買ったPONTA BOXのCDを今聴いているのだが、これが実に大当たり、大当たりの海水浴場って、それをいうなら大洗の海水浴場ですが、いや、吉田美奈子のボーカルが素晴らしいのは当然として、1曲目の「バードランドの子守唄」のヤノピがしびれます。佐山雅弘のリリカルなピアノにバカボン鈴木のベースがからんで、あれ、ポンタの太鼓は?と思わせるところがミソですな。こういうの聴くと、やっぱしロックはクソガキの音楽で、いい歳こいた大人が聴くものじゃない、50過ぎた人間はロックなんか聴いたらいかんと特定年齢者制限ロック禁止法案みたいなものが、必要ではないか。そういう国民運動を起こして真のポンニチ人たらしめんといかんのではないか、などという考えが浮かぶくらい素晴らしいのだ。

 えーと、そういうヨタ話はさておき、藤井君のライブを見てきた話を完結しないとどうも収まりが悪いのだが、はっと気がついてみたら彼のライブから早1週間以上、正確に云うと10日は経過してしまっていて、いったいぜんたいどうしてそういうことになったかというと、これは連日仕事が忙しくて、残業しても追い付かず家に持ち帰ってなんとかしのぐなどという、まあ、仕事でけへんやつが一杯資料持ちたがるんですよ、僕なんかこれだけですよ、これだけと片手にパイプ持って頭髪は9:1というか見方によっては1:9の分け方をしている関西弁のオッサンは最近見かけないな、あのオッサンが出ていた「ルックルックこんにちは」って番組も最近見かけないが、どうしているんだろう。江本の子供を産んだんじゃないかと噂された、ってもういい。いったいいつの話をしているのか、混乱してしまう今日この頃でした。

 いや、言い訳するわけじゃないけど、実はこの週末、そう金曜の夜か土曜日には藤井君の話を書いてしまおうと思っていたのだが、金曜の夜にナニゲニ、某ヤマダ電気というところに行ったのが運のつき。そこでばったり、昔の同窓生に会った。このblogにもたまにコメント書いてくれるYKZ君である。実はこの男、高校の同窓生であると同時に、僕の実家の斜め向かいに家があり、まあご近所さんでもあるのだ。高校に入って、そうそう、同じクラスだったS尾君のいとこということで、親しくなり、ちょくちょくレコードの貸し借りをしたり、終わりのない話を延々としたり、さらに彼は生徒会の役員(あれ、会長じゃないし副会長でも無かった、会計だったかな、忘れた)だったこともあり、僕が計画した文化祭アフターファイブ総決起大会(懐かしき旧制高校はしょっちゅうこういうことをしていたのではないか的ファイアーストーム)が未遂に終わった時も、その一部始終を見ていたはずだ。

 まあ、世間一般的には腐れ縁とでもいうような関係でもあるのだが、確か彼は東京の会社で働いていたのだが、今回の震災で東京の事務所が大変なことになり、大阪の事務所に単身赴任しているなんてメールを今年の春先に貰ったきり、そのままになっていた。そうだ、もうひとつ思い出した。こういうことを書くとアレなのだが、僕は現役で大学に進んだが彼は一浪して進学した。そんなことはどうでもいいと言えば、どうでもいいのだが18,9歳の時に立場が大学生であるのと浪人生であるのは雲泥の差があって、まあ、そういうときのエピソード話です。

 当時の僕の実家は平屋で、その一番端っこの東側の4畳半(フォージョーハーフという日本のロックバンドもありましたが)の部屋が僕の部屋でした。そして75年の夏、7月の下旬に帰省してきた僕は、その4畳半で昼夜逆転の生活をしていたのだが、ある晩のこと例によってもう深夜零時を過ぎた頃、ぼんやり煙草を吸っていた僕はただならぬ気配に気がついた。「殺気!」、このあたりの感覚は伊賀の影丸をリアルタイムで読んでいた方にはおわかりだろうが、どこかで誰かがこちらを見ているという感覚、しかもそれは単なる感覚ではなく、現実的に物音として聞こえた。我が家とYKZ君の家の間にある生垣がガサガサ揺れたかと思うと、何とランニング姿のYKZ君が登場したのだ。「うす」とかなんとかいって、片手をあげて、窓を乗り越えて僕の部屋に入ってきて、机にあったハイライトを1本とって火をつけて旨そうに吸う。僕はあっけにとられて「なんや、お前、何しに来た?」と聞いたら「いや、受験勉強に行き詰って、気分転換に大学生の方のお話を伺いに参りました」などと、こちらを持ち上げる。窮鳥懐に入れば、なんとやらというが、要するに毎日受験勉強で汗水たらして苦しんでいるのに、ふと下を眺めると(彼の部屋は確か2階にあった)、極楽とんぼみたいなアホ大学生が訳の分らぬ音楽を流していたり、ときにはチャイニーズタイルをがちゃがちゃ言わせて「あ、それポン、ドラ3ね」とか、「あー鳴くな、鳴くな、この流れがいいんや、下手に食うと積られる、ほら、見てみいや」とか「ローン、単騎は西(シャー)で待てって、ほんまやな」とか、言語明瞭意味不明瞭な会話を伴った亡国遊戯をしていたり、まあ、要するに、人が遊んでいるのを見ながら己は苦行を強いられるという、賽の河原的状況に日々あったので、夜の受験勉強の合間ちくっと息抜きに来たということらしい。

 まあ、こちらも一人で暇をしていたのでいい話相手が来たと思い、なんだかんだバカ話をして、明け方の5時くらいになると「ほな」とかいって帰って行った。まあ、受験勉強の毎日でストレスがたまっているんだろうな、オレなんか偶然現役で大学行けたから良かったけど、ひょっとしたら浪人して今頃は彼のようにストレス抱えて勉強していたかもしれん、情けは人の為ならずというし、今日はいいことをしたと思いながら夏の朝のまだ陽が昇る前の涼しい時間に布団に入り惰眠をむさぼったのである。

 しかし、ちょっと考えてみると僕は現役で大学に入ったが、それは決していいことではなかったのではないか、という考えもある。だいたい、D大に進学したのも高3のぎりぎりの時に父親がそれまで絶対ダメだと言ってた私立大学の受験を関西だったらいいと許可してくれて、そんなに情報収集もしてなかったワタクシが蛍雪時代をぱらぱらめくって決めた進学先で、しかも大学入ったのか学生会館に入ったのか良く分からないような学生生活だったわけで、ああいうことなら浪人して初志貫徹すべきだったのではないか、そうしておけば今頃は、などと考えても詮無いことなので止める。

 で、僕は夏休みの寄生虫、ちごた、帰省中だったので、そのまま寝てしまったがYKZ君は補修科の授業があるので高校に行ったはずだ。あ、補修科というのは、僕たちの通っていた高校の独自の制度というか、予備校が産業として成り立たなかった時代の宮崎県の高校教育の補完物というか、高校を卒業したけど大学受験に失敗した生徒を格安の授業料で補習授業してくれるという、官製予備校みたいなもので、僕の高校の補修科は結構名前が通っていたため宮崎県内のあちこちの高校から通っている生徒もいた。この補修科に通っている連中は全員高校を卒業しているわけだから、今考えれば私服でも構わないと思うのだが、全員制服で授業時間もほぼ高校に準じていて、まあ校舎の外に出るのは自由、じゃなかったのかな、夏休みに帰ってきた僕は補修科に遊びに行って、自主学習していたS尾君を喫茶店に誘って駄弁った記憶があるが、彼が次の授業は出ておかないと講師がうるさいとか言っていた。

 この補修科というのは、現役高校生にとってはタブーというか、お前は補修科に行けと担任から言われることすなわち現役合格は無理だということなので、オレは補修科には絶対行かんぞ、そのためだったら大学はどこでもいいという極論を言いだす連中も多かった。僕が体験した補修科エピソードにはこういうのがある。僕の高校の近くに美味しいラーメン屋があって、まあ、名前は英雄軒とでもしておこう。そこのラーメン屋は土曜の午後とか平日の夕方は僕の通っていた高校の生徒で占領されるお店で、特に中間テストや期末テストの頃は、そこでラーメン食べて英気を養い、それから自宅に帰って何時間もテスト勉強をするというのが、典型的高校生であった。あるとき、高校3年の定期テストの時だったが、午前中の試験が終わり、腹をすかせた僕は英雄軒にまっしぐらに行き、そこで麺デら(麺デラックスの略で、いわゆる大盛り。ちなみに肉デラというのもあって、そちらはチャーシューメンのこと)を食べた。当然、店に置いてある週刊マンガを見ながら食べた。で、なんのマンガだったかは忘れたのだが、どうにも話の筋が良く分からないものがあり、これはバックナンバーを確認しないといかんと思い、それから手元に以前の雑誌を持ってきて本格的に読みだした。多分10冊以上は読んだと思う。ようやくストーリーが分かり、一人納得してふと周りを見ると誰もいない。先ほどまでは芋の子を洗うような人口密度だったのに、今は広い座敷にたった一人。ローンリー、アイムミスタロンリーなどとJET STREAMのテーマを口ずさみたくなるような光景であった。

 そのとき、誰かが刺すような視線でこちらを見ているのに気がついた。おそるおそる、その視線のほうを見ると店のオバちゃんで「あんた、そんげマンガばっかり読んじょったら、あれじゃ、来年は補修科じゃわ」とボソっと呟いた。その言葉を聞いた瞬間雷に打たれたように僕は立ち上がりダッシュで家に帰り、試験勉強をした、と思う。ま、そういう感じのね、公立予備校みたいなものでした。

 で、そのYKZ君、それ以来味をしめたのか、毎晩僕の部屋に来て寛いで駄弁って、煙草を吸いまくっては明け方に帰るという日々が、かれこれ1週間くらい続いただろうか。その日も「ほなまた」と片手をあげて、颯爽と生垣に消えた。消えたと思ったらすぐに「コラッ、タカシ、お前はなんしよっとか!!」という罵声が聞こえた。間違いであって欲しいが、どう聞いてもYKZ君の父上の声である。書き忘れたが、彼の父上は立派な教育者である。その教育者の息子が、夏のまだ朝明るくなったばかりの時間に生垣から、パジャマ姿で出て来るというのは一体どういうことか、いや、どうみても勉強するふりしてサボっていたというのが丸見えである。僕は、徹夜明けのぼんやりした頭で、朝一番から父親の説教食らっているYKZ君の姿を想像して、気の毒だけど、まあ自業自得だよな、だいたいあいつは人の煙草を吸うばかりで一度も買ってきたことが無い、手土産は一度だけ猿酒を持ってきただけだもんな、オレは悪くないよな。あいつが勝手に人の部屋に来て、タバコ吸って喋っていただけだから、みたいな言い訳を頭に浮かべながら爆睡してしまった。

 それからしばらくは流石に夜なかに遊びに来ることは無くなったが、ほとぼりが冷めた頃やってきた。当然、親にばれたときの話になったが、まあ、煙草を吸っていたことはばれなかったようで(いや、僕はばれていたと思う。親が気がつかないふりをしてくれたんだろう)、さんざん説教されたが、まあ気にしてないみたいなことをいっていた。あああ、ダメです。もう寝る。この話も中途で終わり。次回はちゃんと落ちのある話を書くので、それまでしばし、休憩なのだ。藤井君のライブの話に行きつくのか、不安になってきた。しかたがないので、若い頃の藤井君の人柄がしのばれる動画を貼っておきます。もしもオーティスが…。



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久しぶりのフルモトで



先週末にアップした話は、藤井君のライブレポートまで辿りつけなかったので、早く続きを書かねばの娘なのだが、連日の雑用に追われ、それどころやなかったんや(by T.F田)

で、この週末、もうすぐ来る車検の費用を少しでも安く上げようと見積を頼みに行ったら、悪いところがボロボロ出て来て、涙溢れ何もみえなかったというのはウソで、某ブコフがあったので入りました。

すると大当り。通常500円の中古CDが半額、つまり250円。適当に探してみたら、BAHOの『TREMENDOUS』、憂歌団の『GON-TA』、ポンタボックスと吉田美奈子のジョイント・アルバム、さらにポンタのセッション・アルバムの都合4枚をゲット。さらに千円札を出したら、レジのおねいさんが間違って、お釣りを9000円くれた、というのはウソですが大漁だったのは間違いない。ニコニコしながら音楽聴いていたら携帯がなり、車検の最終見積の金額を聞いて、またもや涙溢れて何も見えなくなった。藤井君の話を書く気力が消え失せたので、また今度。

藤井康一ライブの話、まで行かなかった

ライブチラシ

 行ってきました。見て来ました。およそ4年ぶりの藤井康一、ウクレレ抱いた渡り鳥のソロ・ライブ。以前のエントリーに書いたように、ライブ会場が普通のライブハウスで無いことは、その立地からも分かっておりました。何せ、ビルの名前が西銀座ビル。ザギンですよ、ウェストザギン。場所も宮崎の夜のメインストリート、中央通りの雑居ビルだけに、一抹の不安はあったのだが、それはいい意味で裏切られた。まあ、いいか、せっかく藤井君の楽しいライブの話を書くのだ。ゆっくり、のんびり現在と過去を行ったり来たりしながら書いていこう。

 そもそも、ワタクシと藤井康一君の出会いは、あの銀閣寺にあったサーカス&サーカスのおかげである。正確に云うと、そこでバイトをしていたサークルの仲間であるS戸君のおかげなのだ。場所はサークルのBOXだったか、僕の下宿だったか、それともS戸君の下宿だったか、今では定かではないのだが、彼が僕に「おまえ、サラ金ブルースって知っとる?」「は、サラ金、何?」「サラ金ブルースや、歌っとるのはウシャコダちゅうブルース・バンドなんやけどな」「ブルース・バンド、また辛気臭い話やな」「いや、それが、もうめっちゃおもろいバンドなんや。ギター投げ飛ばしたり、肩車したり、飛び上がったり、ああ、もう説明するのは無理やさかい、次ライブあるとき呼んだるわ。千葉のバンドやけど、ヤマハのイースト・ウェストの78年のグランプリバンドやで」「へえ、関東の8.8ロックディみたいなやつやな、イースト・ウェストて」。というような会話が行われたのが79年の春先だったか。



 というのも、ウシャコダを初めて見たのはS戸君のバイトしていたサーカス&サーカスであるのは間違いないが、夏場のエアコンの利いているときだったのか、それとも冬のちょっと寒い時だったか曖昧なのだ。さらにサーカスでは最低でも3回以上は確実に見ているはずだし、拾得には先輩のT原さんも一緒に行ったし、磔磔でも一度見ている。で、その頃のデータがどこかに無いかと考えたところ、そうだ、磔磔の過去のライブデータを見ればいいと気がついて、78年から81年3月まで見なおしたところ、ウシャコダは79年の5.24と80年の6.3の二回に渡って磔磔では演奏している。京都でライブをするのに、磔磔だけということは無いので、確実にその時サーカスや拾得にも参戦しているはずだから、磔磔の履歴から79年の春に最初に見たんだろう。もうひとつ年代を特定する方法としては、79年当時すでに大学5回生だった僕より、上の先輩だったT原さんと一緒に拾得(この時は冬に間違いない。熱燗飲んだ記憶がある)では見ているし、その時にはアンコールに「ザンバ」コールをしたので、結構ウシャコダ常連さんになっていたはずだ。つまり、T原さんが大学にいたときなので80年ということはあり得ない。よって79年の冬には、何度目かのライブを見ていたのだから、初見は79年春という結論が導き出せる。これが演繹法だよ、ワトソン君。あ、違った?

 いや、実はこのエントリー書くために、これまでのウシャコダに関してのエントリーをぱらぱらと見なおしてみたら、結構書いてるんだな、これが。単なる名詞としてウシャコダという名前が出て来る話から、どっぷりまるごとウシャコダ話まで全部で20も書いていた。で、たいていはS戸君の紹介があって、ザンバという遊びがあって、それから30年近くたってmixiで珍教祖(ベースの恵副君のことです)とマイミクになれた話と、宮崎でリトルジャイヴボーイズのライブを見た話、でまとまっている。もっとも、ウシャコダがどんなバンドで、そのバンド名の由来だとかデビューのきっかけの話はまだそんなに書いてないので、その辺を少し。

 さっきのS戸君の話に出てきたイースト・ウェストってのは、当時ヤマハが主催していたバンドコンテストの関東エリアで、8.8ロックディというのはそれの関西エリアなのだ。ちなみにD大花の75年度生トリオと勝手に僕がネーミングしている、元気な中年トリオの一人であるPurple_Hazeさんも、8.8ロックディの76年の決勝大会にコッキー・マスターというグループで参加、見事に入賞しております。ちなみにこの花の75年度生トリオはPurpleさんがロックバンドのギタリストで女の子をキャーキャー言わせておりました。もう一人のTHIS BOYさんはS戸君のバイトしていたライブハウス、サーカス&サーカスでオープンの頃からバイトしており、お客さんの女の子にワルイことを一杯していました。残る最後の僕は別館にこもって、女の子とは無縁の学究生活をしておりました。まあ、その反動があって今では、って話がそれた。

 つまり、そのアマチュアバンドの登竜門であるイースト・ウェストの78年度大会のグランプリバンドがウシャコダなのだ。藤井君のインタビューを読んでみると、バンドメンバーが勝手にイースト・ウェストに申し込みしてきたので、大慌てで2曲練習して衣装やステージアクションを研究したらしいが、それがまともというか普通のバンドの発想じゃないんだよね。要するに自分たちは千葉県松戸市の百姓バンドなんだというコンセプト、まあ藤井君曰くアース、ウィンド&ファイアを意識したらしいが、麦わら帽に首から手拭い、野良着、腰巻、まあなんというか彼らのファーストアルバムが『土一揆』というタイトルで、田んぼの真ん中で野良仕事の服を着て、かがり火を振り回しているというジャケットから、そのコンセプトを想像して欲しい。

 さらに、バンドのメンバー・プロフィールが凄かった。これは彼らのホームページからそのままコピペします。

「ウシャコダ」千葉県松戸市、ジョーヂア州金作(キンサク)農場で生まれた快男児6人!各地のコンサートなどにおいて大好評を博し、今回のデビューをかざることにあい成る!
'78イースト・ウエスト大会最優秀グランプリ受賞!
*メンバー・プロフィール
藤井ヤクハナ(ボーカル)土地は命ぢゃ。
若山ゲゾミ(キーボード)のれば都ぢゃ。
レイパー陰ぢ(ギター)マブチモーター入り電動バイブギター。このおやぢのわざ、三段スライド・チョーキングがでるか?
中むらホラレ(ギター)名器船橋OS335がぬめる!!
胃の珍味(ドラムス)…私、ピンクのサウスポー。
種なしエッグ(ベース)…語り草にもある恐怖のだっこくベース・サウンド


 ちなみに本名はそれぞれ、藤井康一(Vo)、若山光一郎(Kb)、菅野賢二(Gr)、中村智(Gr)、井野信司(Dr)、恵福浩司(Bs)。もっとも、僕がライブを見始めた頃は、キーボードがいない5人編成だった。

 ウシャコダのデビューはイースト・ウェストでグランプリを獲得したことがきっかけだったが、このイースト・ウェストのグランプリ受賞グループは売れないというジンクスがあったみたいだ。なにしろ76年から行われているが、その最初の年のグランプリはASOCAというバンド、あ、そうかなどと洒落ている場合ではなくその年のベストギタリスト賞には野呂一生がである。つまりカシオペアも出ていた。翌77年にグランプリ獲得したのは、たぬきブラザーズ、って一体どんな連中だ!?なお、この年にはシャネルズも出ているし、サザン・オールスターズも登場して、桑田はベストボーカリスト賞を取っている。そして78年はウシャコダがグランプリなのだが、彼らの名誉のために書いておくとバンドとしてグランプリを取っただけでなく、ベストボーカリスト賞、キーボード賞、ベーシスト賞も取っている。審査員の名前を見て驚かないで欲しい。相倉久人、小倉エージ、竹田和夫、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫という当時としては、ある意味最強の審査員である。しかし、ウシャコダの演奏を見た相倉さんや小倉エージの顔を見てみたかったな。

 で、脱線ついでだけど、その頃はワタクシ京都にいましたので、イースト・ウェストのことは風の便りくらいしか知らず、77年のサザンのことも高校時代の同窓生がギターで参加していたのでO森のバンドが入賞したけど、なにやら凄いボーカルがいるらしいくなんて噂しか知らなかった。だって、僕たちにはハチハチがあったから。

 ということで、8.8ROCK DAYのこともちょっとだけ。8.8はイースト・ウェストより2年早く74年から始まっている。この年入賞したのは、オープン・チャック、ストロベリー・ジャム、山本憲一とアビーロード、ELECTRIC BANANA、ほとんど僕は知らない。入賞していないだるま食堂(当時の関西ハードロック界のドン)やウェストロード(ご存知、D大ライラックレインボウ出身の伸ちゃんのバンド)、ZOOM(飛んで、飛んでのヒットを出す前の円広志のいたバンド)などは、サーカスを始めとしたライブハウスや円山の野音なんかで見た。そして75年は凄かった。優秀バンド賞にはスターキング・デリシャス(通称スタキン、”That’s how strong my love is”を♪好っきゃで~、すっきやでぇ~、ベイビーと絶叫していたな)、ZOOM、激突モモンガ・パートII(いやあ、物凄いバンド名です)。そして個人賞のボーカルにはスタキンの大上留理子、キーボードはアイドル・ワイルド・サウスのチャールズ清水(レイジー・ヒップのデビューアルバムでもキーボード弾いていて、挙句はボーカルの千秋と結婚したっけ)。そうそう、それとこの年は高知からツインドラムのトラベリンバンドが参加していて、サウストゥサウスを解散したキー坊が自分のバックバンドにしましたな。その演奏は後年円山の野音でジミー・クリフの前座として見ました。



 この75年というのは僕が大学に、正確に云うとDRACに入った年であることは何度も書いたので繰り返さないが、この75年の8.8のライブアルバムはとにかくしょっちゅうBOXで誰かがかけていた。スタキンの演奏から始まる1枚目も良く聴いたが、それこそ擦り切れるほど聴いた(かかっていた)のは2枚目のほう。C面は山岸潤史スーパーグループwith北京一の「かたつむり」。この曲が流れだすと必ず誰かが、♪わっかいかたつむりが家を出た~と真似をしたものだ。片面に2曲しか入っておらず(それだけ演奏が長いのだが)、もう1曲は前のメンバープラス石田長生の「ストーンジャンキーブルース」。好漢八尾の浅吉親分の歌である。



 で、もっと凄いというか当時話題になったのは、D面に入っている沖縄のバンド、紫であった。紫=Purple、そうディープ・パープルに触発されたハードロックバンド。パープルのコピーも上手かったけど、オリジナルの「デビル・ウーマン」(山本翔にも同名異曲があったな)も良かったけど、やはり「ダブル・ディーリング・ウーマン」にとどめを刺すだろう。まあ、とにかくこのアルバムは繰り返し繰り返しかかったというか聴いたな。BOXに持ってきたのは大阪出身のF水さんだったと思う。ちょっと75年に時間かけすぎたので、あとは駆け足で行くと76年はサザンブリード、コールド・ラビッシュ、ファッツ・ボトル・ブルースバンドが優秀バンド。77年はグランプリが花伸(憂歌団のベーシスト花岡献治の弟、伸二のバンド花岡伸二を略して花伸というのと、ちょうどその頃のNHK大河ドラマの花神から取ったのではないかという噂もあり)、この年は後に原田伸二やチャーと一緒にROCK御三家の一人である世良正則がツイストで参加、もっともドラムの金太は金太バンドとして参加していた。

 こういうことを書いていくと切りが無いので、もう止める。ところで、今気がついたがイースト・ウェストは1回目からグランプリってのがあったけど、8.8は77年からだ。そのあたりのいきさつは昔、誰かから教わった気がするが忘れた。どなたかご存知の方はご教示ください。

 えーと、全然ウシャコダから話がそれてしまったのと、もうひとつ、ウシャコダのバンド名の由来について書いてなかった。「ザ・ブルース」とかいう音楽雑誌が昔あって、かなりマニアックなものだったが、僕のサークルにもそういう雑誌を定期購読している人間が二人いた。京都の綴喜郡という山奥から通ってきていたO崎、通称マス坊とディープ大阪から通ってくる、まいどのO畑という根クラコンビである。人数の少ないブルース班の貴重なメンバーで、どっちが教えてくれたのか、多分マス坊だと思うけど、「drac-obはん、ウシャコダの名前の意味知ってはりますか?」と聞くので「知らん、知らないことを知らないというのは決して恥ずかしいことではないと孔子も言ってる」などと素直に教えてくれといえないワタクシでしたが、「あれはブルースの歌詞にある”I wish I could”ちゅうフレーズを“うっしゃこっだ”と聞き間違えたのが理由みたいです」などと言うので、「そんなん誰から聞いたんや」と尋ねると「ザ・ブルースに書いてありましてん」。

 しかし仮定法過去完了形を聞き間違えてバンド名にしたっていうのも、なんだか分かるようでよく分からないのだが、藤井君のインタビューによると「『ウシャコダ』の名前の由来は、ジャマイカのミュージシャンが“Wish I Could”(できるならこうありたいと望む)という言葉を歌った時、“ウシャコダ”と訛って聞こえた事」とあったけど、それも何だかよく分からない。

 というような話はいい加減やめて、さっさとライブの報告をせんかという声は聞こえないが、僕自身もちょっと疲れてきたので、19日のライブ当日に戻る。

オレはいつでもOKだぜ



藤井君のライブを聴いた後、街に出た。ワタクシ、これからジャガーチェンジします。ケダモノに変身します。

ガオー!


※で、当日の収穫ですが、索敵活動に勤しんだものの対象を発見できず、一時的に撤収致しました。もちろん、後日再度の索敵活動に入る予定です。断じてこれは、言い訳ではありません。いつの日にか、必ずや成果を報告できると確信しております。以上、報告終了!!

さて、これから



藤井ライブである。ガソリンは満タンだ。突撃。

何年たってもお前を、忘れはしないさ

 藤井康一が宮崎にやってくる。僕の記憶によれば、前回見たのは2007年のクリスマス・イブだから、ええと、およそ4年ぶりである。4年ぶりといえば閏年と同じである。オリンピックも、ワールドカップも4年に1度である。その昔、確か小学生の頃だと思うのだが、学校で「うるう年は4年に1回です」と教わり、当時からイチビリだった僕は「ああ、うるう年というのはオリンピックと同じだ」と大声を上げてしまい、担任の先生はちょっと困ったような顔をして、「うーん、オリンピックとは違うけど」と言われたが、「え、でも4年に1回だったら同じですよ」と言い張り、「だから違うと言ってる。いつまでも笑ってはいないぞ」みたいな恫喝をくらって、それでもオリンピックと同じだと、まさに地動説を主張するガリレオのように自分の意見を曲げなかったおかげで、人生大いにつまづいたりころんだりしている。

 おっと、そんな話ではなく藤井康一のライブが19日宮崎で行われる。その前日の18日は延岡で、翌20日は高鍋である。延岡はちょっと遠いが、高鍋はいけない距離ではないというか、以前ZEK3を追いかけたときは宮崎、高鍋と連荘で見たのだが、今回はさすがに2日続けてライブを見に行くなどというと、我が家のシホン家階級である配偶者からいったいどこにそんな無駄なお金があるのかという追及もあるだろうし、ええい、やかましいわ、大の男が好きなライブ見に行くのにいちいちオンナコドモに許可を取って行けるか、ボケェなどという真実の叫びは、まあ言わぬが花ということもあるので、止めておく。

 しかし、うれしいよな。できればバンド形式で見たかったので、前回の様にリトル・ジャイブ・ボーイズとして来てほしかった、いや、本当の本音はもちろんウシャコダとして来て欲しかったが、贅沢は言うまい。藤井ソロのウクレレ弾き語りを十分堪能しよう。ところで、前回の記憶を取り戻すために、自分で書いたエントリーを読み直したら、いろんなことを思い出した。前回はニュー・レトロ・クラブという藤井君曰く「古いんだか新しいんだか良く分からない」ライブハウスで行われたライブだったが、チケットを確保しようと電話してみたら、店の人がバンドの名前を知らなくて、ちょっとむっとしたことがあった。まあ、それはこちらの早とちりで、前回はリトル・ジャイブ・ボーイズとしての単独ライブではなく、地元の楽器演奏サークルのパーティにゲスト出演という形式だったのだ。

 そういえば、そのパーティでピアノの大西さんとボーカルの香月さんを初めて見て、それから彼女の追っかけを始めたという懐かしい思い出もある。そうそう、それと今回なんだけど、4月25日には藤井君のHPで宮崎ライブの情報をキャッチしたのだが、場所は「宮崎 カリビアン」としか書いて無くて電話番号も乗っていない。しょうがないのでネットで調べて、それらしきお店の場所と電話番号を見つけたのだが、万が一にも間違いがあるといけないと思い昨日の夜電話したが誰も出ない。月曜日だから定休日かもしれないと思い、今日も電話したけど出ない。留守電にもならない。こりゃもしかしたら電話が違うというか別のお店ではないかと再度ネットで検索したら、延岡のライブをmixiで頻繁に更新しまくる「のべおかんさん」(これハンドルネーム)が、告知を出しているから間違いなく宮崎で演奏はあるはずだと思い、夜遅くなったが9時半くらいに電話した。が、出ない。大体電話というのは、まあこれは固定電話の頃の話だが、コールが3回鳴ると電話した人間は先方は留守かなという気持ちになり、それでも5回6回くらいは鳴らす。それで出なけりゃ電話を切ってしまう人がいるから電話は必ず3コール以内に取れということをJEPで習ったな。

 で、そのお店だけど5回6回鳴らしても出ず、ヤバいと思っていたらようやくつながったけど、ずいぶん小さく低い声の男の人が出て、それもまるで普通の家みたいで、つまりライブハウスというかそういうお店みたいに音楽とか喧噪とかなくて、「もしもし」って出たんだよね。で、思わず「すいません。そちらはカリビアンさんで宜しかったでしょうか」と思わずへりくだって聞いてしまい、あ、なんでぇ、こっちは見込み客だ、何を遠慮する必要があるかと思ったけど、お店の人がへそを曲げてライブ中止なんてなったらバイヤーなので低姿勢に低姿勢にお訊ねしたところ、間違いなく19日に藤井君のライブはある。ただ彼のHPにはオープン19:30、スタート20:00と書いてあったけど、何だかその辺は怪しくて19:00くらいから店は開いてるとか多分20:00くらいからライブみたいな返事で。

 まあそれでも久しぶりの藤井康一、大いに楽しみである。ということで、最後にリトル・ジャイブの演奏を貼るけど、そのまえにネットラジオでのインタビューも聞いてもらえると嬉しい。しょっぱなに藤井君がギャグかますけど、相変わらずなんだよね。それと、バンド名のいわれの実にいい加減なことと、珍教祖のベース抱えてうさぎ跳びとかウッドベースを横に弾く話とかとにかく面白かった。「荻窪ルースターポッドキャスト Vol.16」です。



小話 ノーモア・コミックス

 例によって、遅い昼飯を食べながらYahoo!のニュースを携帯でチェックしていたら、本日は大当たり。石巻でピザ配ったり、69,000円募金したり、このところ意気盛んなところを見せていた、日本のロケンロールの親分、内田裕也がパクラれた。それも交際していた女性と復縁を迫ったためという、もう、なんというかいかにもチープなロックンロールな生きざまをさらしてくれたのだ。御年71歳だぜ、ベイビー。で、相手の人の情報は分からなかったけど、夜ネットのニュースを見たら50歳とあった。歳の差21か。ということはオレのターゲットは28歳までになるからスージー姫は対象外だな。などという悲しいウソをどうしてオレは毎度毎度書いてしまうのか。おっと、話がそれた。今日のこのニュースのヤフコメで、思わず膝は叩かなかったが、お上手、おじょうずなモモナリさんと、これはマジでつぶやいてしまい、近くで一緒に飯を食ってた若い奴から「誰ですか、それ?」と聞かれたコメントはこれです。「危機希林」。

 おあとがよろしいようで…。



ちょっと昔の話だけど

 このあいだ、ああいうエントリーをアップしておきながら更新するのもナニだが、ちょっと訃報が続いたので日記を書いておきたい。本日、遅い昼飯を食べながら例によってヤフーのニュースを携帯でチェックしていたら、ビンボーで大家族を自慢していたタレントが自殺したようで、芸能ニュースはそれ一色という感じだった。どうせ碌なコメントは無いだろうと思いながらも、活字中毒者の悲しいサガでそれらを読んでいて、まったくもうどうしようもない奴が多いよな、これだからネットの書き込みは便所の落書きだなんて言われるんだよな、などと独り言ちていたら、ポンと膝を叩きたくなるようなコメントがあった。いや、本当に膝を叩くわけはないのだが、つい文章表現的に書いてしまうのは言文一致ではないな。で、どういうコメントだったかというと『自殺したら、「どうして…?ご冥福をお祈りします」生きて活躍してたら「ブス。生意気。ムカつく。」ここのコメントはおかしい。(5/12 09:15)』。

 結局、どっちにころんでもコメラー(この表現にもびっくりしたが、一連のコメントの中にこう書いているものがあったのだ。なんでも「アー」を付ければいいと思ってるのだろうか。それともおこがましくて「コメンテイター」といえないのだろうか)の書きたい放題だってことか。や府※(=ヤフコメの誤変換、気に入ってるのだ)で、このタレントは相当叩かれていたみたいで、そのことに触れているコメントが多かったな。個人的には好きでも嫌いでもない感じの女の子だったが、生まれ育った島での生活、とりわけ家族や兄弟の話をしているときの表情が明るくて、わるい印象は無かった。

 もっとも、僕自身はいわゆる芸能情報なんてのは疎いので、気になった訃報というのはこれではない。東映の岡田茂氏の訃報もちょっと感じるものがあったけど、それからこのあいだコメントでちょっと書いた元ブントの荒岱介の死も、時代を感じたけど、一番うーんとうなってしまったのは作曲家の宇野誠一郎氏の訃報だった。なんつったってああた(巨泉風に発音してください)、あの『チロリン村とくるみの木』ですよ、『ひょっこりひょうたん島』ですよ、『空中都市008』は富田勲だったから違うけど、『ネコジャラ市の11人』ですよ。1956年という「もはや戦後ではない」と言われた年、日本とソ連(今のロシアね、ソビエト連邦という国名すら最早死語になってるような気がするな。昭和はファーラウェイである)が国交を回復した年ですよ、プレスリーがメジャーに移籍してロックンロールが誕生した年ですよ、ついでに不肖drac-obが生まれた年ですよ。その年から一貫して天下のNHKの人形劇のテーマ曲を作曲してきた方です。



 さらに、アニメのテーマ曲もいい曲をたくさん作っていました。『ちびっこ怪獣ヤダモン』のテーマでは♪ボ、ク、ヤダモン、腹減った~というフレーズが、当時まだ昭和の貧しさ、米だけを主食に出来ない貧乏な家庭が多くて、それでもバクシャリ(分からない人はチャボの1枚目のソロアルバムの中の「ONE NITE BLUES」という名曲・名演を聴くこと。余談だけど、オレあの歌の中の♪大磯まで逃げられりゃ、ってとこを♪オー、磯まで逃げられりゃと思い込んでいて、海岸まで逃げたって船かボートでもなけりゃ逃げ切れないはずだがと不思議に思ったことは、今考えてみても恥ずかしい話である。って、相変わらず本文よりカッコの中の文章のほうが長くて読みにくい、ハズなのに~)なんぞ食べられるのは御の字で、ほとんどの家庭では大根飯というのを主食にしていた、などというのは大噓である。大磯ならぬ、大噓、なんちゃって。

 えー、気を取りなおすと『悟空の大冒険』なんて愉快痛快奇奇怪怪の怪物くん的面白さのマンガもあり、そのテーマ曲も大好きでした。



 オープニングのテーマも好きだったけど、一等好きだったのはエンディングテーマ。特に1番の歌詞「学校が 好き 好き 好き、勉強が 好き 好き、おそうじ 好き 好き 好き、留守番 好き 好き、そんなやつが 悟空の大冒険をいっぺん見たら、びっくりして ひっくりかえって、ドインてなことに なってしまう (カモネ)」というのが大のお気に入りで、要するに学校や勉強や掃除や留守番が好きだなんていうオリコウサンや優等生がこういう俗悪で低級なマンガ(ちょっとまじめな話だが、このアニメが放映されていた時代はいわゆるPTAの悪書追放運動華やかなりしころで、マンガは『一休さん』、これも宇野さんの作曲なんだが、とかはいいけど、その他多くのマンガはダメゼッタイみたいな風潮あったんだよね。それを再現しようとしているのが、キツリツした男性性器を障子に突き刺す小説で売れた某都知事ね)を見たら「コペルニクス的転回」をしてしまう、かもね、とおちょくっているのである。こういうおちょくりというか、おふざけがガキの頃から大好きだったんだよな。

 ほかにも『W3』なんて、手塚治虫の初期名作もこの人の作曲。あ、ダブルサンなんて読むなよ、平成ボーイズ&ガールズ。これはむろん『ワンダースリー』である。♪へんてーこ天使、ぷっこ、ぽっこ、のっこ、星から来た仲間さ~である。テーマ曲は明るいが、実はストーリーは結構ハードSFで、要するに地球人が心正しい存在であればそのまま生存を許すが、そうでなければ反陽子爆弾で消滅させるという結論を持った銀河連盟からの使者が地球人である星真一(むろん、あの偉大なる星新一から拝借した名前)少年に3匹の動物に変身して、1年間ともに生活し調査するというお話。ラジカルな思想を持つ兄と弟なんて、のちの『高校生無頼控』なんかにつながるようなサイドストーリーもあった。あ、男ムラマサの話はまた今度ね。

 とまあこんな風に書いていくときりがない位、大好きだった音楽家である。おっと、『ムーミン』を忘れるところだった。いやいや『小さなバイキングビッケ』はどうした。ビッケといってもアーント・サリーのギターじゃないぞ。それどころかアン・サリーのタイプミスでもないぞ。などと話は混乱、話題はごちゃごちゃになりそうなので、終わりにします。

 あ、それともう1つ、大きな訃報。戦前からあったタバコの『チェリー』が今度製造中止になるそうです。独特の匂いがあるタバコで嫌う人も多かったけど、僕がタバコを覚えたときに吸っていたのがこれだった。赤いパッケージはまだまだ覚えているけど、僕がタバコを止めてから、もう7年がたつ。月日の経つのは本当に早いな。

これも愚痴ですな

 去年の今頃だったか、フルモトで『ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言』という新書を読んだ。なるほどなぁ、と思うことがたくさん出ていた。ライターの中川淳一郎という人にちょっと興味を持ったのだが、その時はそれで終わった。で、この連休後半にフルモト巡回をしていたら、続編ともいうべき『ウェブを炎上させるイタい人たち 面妖なネット原理主義者の「いなし方」』というのが出ていて、それも読んだら、こちらも、うんご尤もと思うところが多くて、なんだかんだ屁理屈つけていたけど、要するにblog更新なんて単なる暇つぶしなんだなと思って、大体こんなしょうもないエントリー誰が読むんだよ、誰のために書いているんだ、自分自身の備忘録として書き始めたのに、いつの間にか妙な癖がついてしまいしょうもないお茶らけ入れたりくすぐり入れたり。もうそんなしょうもないことは止めるべきじゃないかなんて考えていたのだ。

 それと、ネットをやっていると確実に読書の時間が少なくなり、それでなくてもチーハクに近いワタクシの脳みそぐるぐるが、ますますファイラーと化してこれから南国、暑さもひとしおの時期が始まるというのに、さらには今年はエアコンや扇風機は極力我慢しなくちゃいけなくなりそうだというのは、これもネット経由の陰謀というかデマというか、もう七面倒くさい話になりかねない。

 最近、昼休みに弁当食べながらヤフーのニュースを携帯でチェックするのだが、まあ、原発関係のニュースが多いのだが、それに付けられるコメントの品と知性の無さというか、まあ出鱈目、適当、純粋正義感の人たちのコメント読んでいるとむかむかしてくるから、読まなきゃいいのだが、僕自身が活字中毒者であり、何か読んでいないと落ち着かないというある意味活字依存者でもあるので、今日もむかむかしながら読んでいたら、こんなコメントがあった。

 「ヤフコメ住人は無責任な意見ばかり書いてないで真面目にハローワークに通えwww」、だって。

 最初は、大笑いして大いに溜飲を下げたのだが、良く考えてみたら、いや良く考えなくてもここに表れているのは他人に対するさげすみの視点だよな、どうしてこんなことがぬけぬけと言えるんだろうと考えたら、やっぱりネットの持つ匿名性であり、無責任性であり、まあ早い話が人前では決して言えないこともネットの闇にまぎれて言えば怖くないってところか。なんて、偉そうなこと書いてもしょうがないし、まあそんなこんなで当面は更新は全くもって不定期になる予定です。って、いちいち告知しなくてもいいか。あと、オマケで先月だったかUSTで、ずっと原発関係のチャットルームがあってそこで見つけた、あああ、こういう人(達)がいるんだというのをちょっと貼っておきます。こういうの見るのも疲れるんだよな。

電力供給余力があるのに、東京直下型地震を引き起すための最新水爆起爆のために多量な電力を利用するために無計画停電計画ですか?

東京湾の海ほたる付近だけでなく、富士山断層付近でも電力量を多く使う最新水爆を利用して何度も人工地震を試みてるみたいですね!

金融ユダヤ人の計画は、福島原発問題に衆目を集めておいて、毎日、東京湾で小型核を使った断層破壊が段階的に進められている。

CFR clans are indeed scheduled to initiate the last tokyo The Great Tokyo Earthquake terror is planne

東京直下型の地震発生位置が5回連続全く同じ所で、放射線量が検出されたとしても、それは絶対に最新式水爆を使った人工地震なんかじゃない!といえますか?

海ほたる上空に不審な爆発雲が発生。最新式水爆使用後のものと思われます。付近の方は是非放射線量を観測してみてください。

大地震テロを行うための核弾頭を積んだ米潜水艦の相互ソナーにより、3/4に大量の鯨が方向感覚を失って陸地に漂着しました。

こうしたツイートをしていると、「人工地震なんてバカじゃん!」という励ましの言葉を頂く。あらゆる可能性を検討しない貴方がたこそが思考停止人間

効果が期待できない原発施設に放水しなければいけない理由は、爆弾式水爆を仕掛けた証拠隠滅の目的です。911の時と一緒です。

静岡地震の震源地を地図でプロットすると、富士山を囲んだ見事な正方形になるけど、これって自然現象?

ちなみに、ニュージーランド大震災も同じく地中深くに核爆弾を仕掛けて地震を誘導したものです!日本列島に起こす前哨戦です!

人工地震を否定する権力のお犬様。インテリジェンスがあるのなら、あらゆる可能性を模索してみなさい!貴方がたには否定する論拠もないだろ!
人工地震を信じない方へ。1944年に米国で行った地下核爆発による大津波発生の実験結果をご覧ください。

地中深くに核弾頭(純粋水爆)を仕掛けると、地表で地震となります。常識です。


 スペルミスはあるし、僕が考えている常識とは全然違う常識を主張するし、まだまだ腐るほどこういうこと書いてはるんですが、もうコピペしてても気分が悪くなったからこれでおしまい。

今年もやってきたみやざき国際ストリート音楽祭2011 ラスト

帰り道に見た飛行機雲

のっけから種明かしみたいなことを書いてしまうが、本日は5月4日の夕方近く、黄金週間後半の中日である。実は、気がつかないうちに拙blogも5年目を迎えていて、よくよく思い出してみると始めてのエントリーをアップしたのが2006年4月29日、旧テンタンの日であった。この手の記念日なんていうのは、世界中に定められていて(by 電車・電車)一番最近の悲しい記念日は3.11だろうし、アメリカ万歳、なんでもやったもん勝ち、他所の国に土足で入ってそこの軍隊に追いかけられそうになっても主旨貫徹、ジェロニモなんて暗号名にも差別意識が充満してるな、白人至上主義者どもめ、と、いささか憤っている5.1あるいは5.2なのかよく分かりませんが、まあそういうものもある。そういう世界史的な記念日とは一切関係の無い、どうでもいいような記念日がワタクシのblogにもあったという話で、どうしてそれを思い出したかというと、その当日、つまりはストリート音楽祭の当日だったのだがK平先輩からお祝いメールを頂き、ああ、そういえばそうだったっけと思い出した次第。ま、どうでもいい話ですが。

 で、そのストリート音楽祭の続きなんだけど、路上のベンチに腰掛けて昼チュウを決めていたら、どこかのオジサンに挨拶され、もしかしたら同級生だったかもしれないという謎を残しつつ、やや体力の回復した僕たちは本日のメインイベント、山下洋輔一派による60分一本勝負を見にBステージに戻った。既にピアノやパーカッション、PAなどのセッティングが始まっていたが、いかんせん、開演時間までに小一時間以上あったにも関わらずパイプ椅子に腰かけていたのは、おお、あの小学生を連れたストライク・ゾーンの人妻(こらこら、母親だろうが)、それとこいつら本当にモノ好きというかズージャ好きなんだろうなと思えるような連中が三々五々陣取っていた。僕たちはステージに向かって最前列、最左翼(なんだかこのあたりの表現にボーリョク学生的な雰囲気を感じますが)に腰掛けて紙コップの焼酎をちびちびやっていた。しかし、空飲みは体に良くない上に小腹も減ってきて、さてどうしたものかと思案していたら、例の小学生がケチャップをたっぷりつけたフランクフルトをほうばっているのが見えて、そうだ、その手のつまみを買って来ようと思い席を立った。

 ステージの反対側の道路に屋台があったと思い、そちらに行こうとしたら道端のところに座り込んでいる人が僕のほうを見て会釈した。ん、誰だと思ってよく見たら、このストリート音楽祭の実行委員長であり、高校の大先輩であり、春と秋にすばらしいインストア・ライブを企画実行しているH高社長であった。「あ、どうも、お世話になってます。」と挨拶するや否や、「おう、お前、明日のチケット買ったか、まだならこれから売るぞ」などといきなり生々しいことをおっしゃる。「え、いや、Y尾に頼んでもう買ってますけど」「そうか、それならいいが、他に誰か買いそうな奴はおらんか」「え、いや、そうですね。何人かには声かけてますけど」「とにかく1人でも多く声かけてチケット売ってくれ。このイベントも無料だろう。やりくりが大変なんだ。有料のイベントで資金を回収して、この無料イベントの赤字を少しでも埋めんとやっていけんぞ」。いやー、そうですか、そうですよね。いくら地元の企業からカンパ受けても、スタッフもボランティアでやっていても、ドンバに払うギャラもいるだろうし、楽器のレンタル、テントや椅子、ステージのレンタル費用なんてバカにならないだろう。こちとらはお気楽に音楽を享受しているだけだが、実行委員の皆さま方は大変なご苦労があるのだろう、と思いながらも、ま、そこはそれ、役割分担。イベントなんてのはやる人・見る人・企画する人、みんながそろって初めて成立するわけだし「ワタシ作る人・僕食べる人」世代であるワタクシ達に難しいこと言われても、って別に何も言われてないか、あ、そうか、と勝手に納得しておつまみを買いに行った。

洋輔ソロ

 屋台に行ったら、先ほど子供たちが食べていたフランクフルトと地鶏の炭火焼があったので即座に購入。席に戻り焼酎のつまみとしてバクバク食べた。地鶏は前のエントリーに写真をアップしたが脂が乗り切っていて、肉質もジューシーでとても美味でございました。で、ステージでは相変わらずセッティングが行われていて、ピアノの調律やPAの音決めなど着々と進み嫌でもライブへの期待が増してくる。時計を見ると17時回っている。ステージ横に可愛いおねいさんも出てきた。ん、もしかしたら彼女がMCなのか。もちろん、その通りでした。時間になるとステージに上った彼女が、本日の大トリのライブであることを説明し始めた。山下洋輔 SOLO & MOREと題したこのイベントの説明と明日行われるホールコンサートのチケットがまだ若干あるとかアナウンスしていく。「で、この山下洋輔さんはコクリツ音楽大学をご卒業されて…」。え。「コクリツ」じゃなくて「クニタチ」だろ、原稿を読み間違えたのかな。「で、サックスの米田裕也さんも同じコクリツ音楽大学のニュータイドジャズオーケストラご出身で…」。え、悪びれていない、もしかして本当に「クニタチ音楽大学」を「コクリツ音楽大学」と思っているんだろうか。彼女のMCの原稿書いた人間はチェックしなかったのか。ま、でも可愛いから許す。と僕が言ったら、Y尾君は真剣な顔をして「可愛いからいいというもんでもないが」と渋い。が、しかし、本人を目の前にしたら絶対手のひら返すことは間違いないので、僕はスルーしておいた。

間違えたっていいじゃないか、人間だもの

 それはさておき、いよいよ御大山下洋輔の登場である。サックスの米田裕也とパーカッションの熊本比呂志と3人で1曲演奏した。聴きやすい。メロディがはっきり見える。あれ、ヨースケってこんなに聴きやすかったか?オレが初めて山下洋輔を見たのは70年代、今は亡きフェニックス・ジャズ・インで坂田明のサックスに小山彰太のドラムスで強烈な演奏を聴かせてくれた。未だに覚えているのは、確か演奏時間が深夜2時、3時くらいだったと思うが、一緒に行ったYKZ君がいとこのS尾君に「今日のヨースケの演奏は『深夜喫茶ハイミナールジャズ』か『牛乳配達おはようジャズ』か、どちらか。句読点を含んで500字以内で答えろ」と問題提起して、酒も飲まないS尾君がナチュラル・ハイの状態で「それは『深夜喫茶ハイミナールジャズ』に間違いない、なぜならオレがそう思うから」という見事な論理を披露し、あまりのばかばかしさと脳内を駆け回るアルコールの余波で大笑いし、そのあとの演奏の凄まじさに思わずみんなで「ヨースケー、サカター、ショーター」とアンコールを求めて絶叫したことがあった。あまりの印象の強烈さに、京都に戻ったらすぐさま十字屋に行き『モントルー・アフター・グロウ』を購入した。



 その後もジャズインで国仲勝男と武田和命というメンバーでの演奏も見たし、もともと山下洋輔の書くエッセイは大好きだったので、バランス的には活字7割音楽3割くらいだったか、いや、今チェックしてみたらアナログのレコードも『暖流』や『ホット・メニュー』や清志郎の『レザー・シャープ』、RCの『カバーズ』、ニューヨーク・トリオの『クレッシェンド』などなんだかんだで購入していたし、もっとも愛聴盤というところまでは聴きこまなかったというか、自分の精神がヨースケ的ワールドを必要としているときに、それは例えば深夜だったりすることが多かったのだが、そういうときにヘッドホンをして次々に聴き狂ったりしたこともあった。何というのか、活字で読む山下洋輔と演奏者としての山下洋輔は僕にとって別人28号だったのだ。

 一番最後に山下洋輔を見たのは多分90年代前半で、これも宮崎の、ええとこういう表現は誤解を招くかもしれないがいわゆる知的障害者の人たちが社会復帰するためのリハーサルとして運営している喫茶店みたいなところがあって、もちろんそれは精神科の病院が管理しているのだが、それのこけら落としみたいなイベントがあり、野外のステージに、ちょうどその日夕立みたいな大雨が降ったりしたので、ブルーシートを天井にかぶせ、それでもそのブルーシートに雨水がたまるので、スタッフの一人がデッキモップでつついて水を落とし、その様子がおかしくて会場の笑いを誘い、その状況を見た山下洋輔がすかさずメンバー紹介みたいな感じでそのスタッフの名前を連呼して拍手をもらっていた、なんて光景を覚えている。サウンドはどうだったかというと、これはヨースケのサウンドとしかいいようのない、こぶしもひじ打ちも演奏のクライマックスと連続して登場し聴いてる人間を圧倒して文句を言わせないものだった。それから多分10年以上は生の洋輔サウンドは聴いておらず、一番最近では岡林信康のアルバムのバックで弾いていたのを聴いたのが最後だったか。

 そういう意味では、おおいに久しぶりの山下洋輔と、こちらは2年ぶりの曲者太田恵資の音楽を聴けるのだから期待は大きかった。で、さっきの感想なのだが、久しぶりのヨースケサウンドは大変に聴きやすく、また選曲も分かりやすいものが多くて楽しめた。やはり、フリーライブというのと不特定多数の市民が聴くストリート音楽祭ということで選曲したのだろうが、なんと「チュニジアの夜」だとか「コーヒールンバ」なんてやってくれたのだ。「チュニジアの夜」のMCでは、このディジー・ガレスピーの歴史的名曲はチュニジアには全く関係なく、単なる雰囲気でつけられたタイトルであるのだが、自分はそのチュニジアに行って「チュニジアの夜」を演奏したが、当然と言えば当然かもしれないが「チュニジアの夜」を知っているチュニジア人は一人もいなかったとか、このあたりの喋りは一連の彼のエッセイを読んでるようで大いに楽しめた。

MOREのみなさん

 しかし、今回のメンバーは太田恵資以外は初めて聴いたのだが、上手いし個性的で味がありました。サックスの米田裕也は、物凄い肺活量で表情一つ変えずブローしまくるまさしく人間発電機的サクソフォン・プレイヤーであった。あまりフリー・フォームな演奏はしなかったが、翌日のホールコンサートでちらりと聴かせたフレーズは、うーむジャズ者であるなという印象。パーカッションの熊本比呂志は、こちらは表情豊かに叩きまくるのだが、途中手がしびれたみたいなアクションを入れて会場を沸かせたり、時にスティックを持ちかえてみたり、見せるところも十分あり、そうそう、素手で叩くところからモントルーのボンゾーを連想したりした。

トリオの演奏

 あっという間に1時間の演奏は終わり、当然ながらアンコールは無かったが翌日のホールコンサートではみっちり2時間以上の演奏をしてくれるはずだからと、楽しみを次につなぐいい演奏だった。演奏が終わった後のステージというのは寂しいもので、スタッフが撤去作業を始めるし、あれほど大勢いた観客もいつの間にか散り散りになり、ストライクゾーンだった人妻(こらこら、何度も言うけど母親だろうって)も見失い、Y尾君はもう帰るというので、僕は一人でまだ演奏をやってるDステージに向かった。もっとも、そちらももう終わりかけていてラストでメンバー全員でジャンプなんかしていて、乗り遅れた僕はしょうがないから来た道をとぼとぼ帰ろうとしていた。

 「やっぱり来てたんですか」という華やいだ声が聞こえたので、顔を上げると香月さんだった。お兄さんの姿は陽太の演奏の時見かけたのだが、妹の保乃さんは見てなかったのでちょっと驚いた。ちょっとした雑談をした後「そうそう、ニューヨークにはいつ行くの」と聞くと「多分8月くらいになりそうです」。なんとこの歌姫はボーカルとユーフォニウムの勉強のためニューヨークに単身向かうのだ。もっともちょっと前にも半年近くニューヨークに勉強に行ってたこともあるので、ちょいと東京に行ってきますみたいな感覚かもしれない。いいな、若い人は、などとオッサンみたいな感想を口にしたら笑われた。今年見たときは歌を1曲も歌わなかったから、それ以来ライブの足が遠のいてるとちょっと嫌味なことを言ったら、最近はまた歌ってるから是非とも来てくださいといわれ、そうなると分かった、みなまで言うなと安請け合いする悲しいサガであった。

 香月さんとも別れて歩いていると、先ほどエキセントリックなバイオリンとボーカルを聴かせてくれた太田さんが機材の撤去をやっていた。どうしようか迷ったが意を決して話しかけた。もっとも「今日の演奏は良かったです。明日も期待しています」くらいしか言えないんだよね。本当にいい演奏を聴いたとき、人は無口になるんだ。もっとも太田さんはカルメン・マキの時に2回見ていたので、その時の話をしたら随分喜んでくれて握手もしてくれた。そうなるとずうずうしい性格が頭を持ち上げて、「太田さん、実は僕同い年何です。1956年生まれですよね」などと話して、さらに「鹿児島大学ですよね」などとさも身内みたいな態度で話していたのだが、外見通り大人の太田氏はニコニコ笑いながらこちらの相手をしてくれて、最後には「今日は話しかけてくれてありがとうございました」などとお礼まで言ってくれたのだ。

演奏終わった太田氏

 まあ、そういういろんなことがあるから、みんな書を捨てて街に音楽聴きに出ようね。というのが3回続いたエントリーの結論でした。来年も行くぞ!!

今年もやってきたみやざき国際ストリート音楽祭 その2

 メンバー紹介を忘れていた。歌心溢れるピアノをいつも聴かせてくれる大西洋介がキーボード、ドラムは井ノ上智宏、ギターはTaNNy(今日のプレイは良かったぜ、次も頑張れよ)、さらに本日確実に間違った名前が刷り込まれたベースが大西映光、そしてアルトとソプラノ・サックス担当でバンドリーダーの宮里陽太、若干1名夜早く寝る前期高齢者のメンバーがいるが、他は元気いっぱいの若いバンドだ。最後の2曲はパーカッションも加わってにぎやかになったBattito del Soleの演奏が終わり、ヒデマツコールで大受けした女性MCが陽太にインタビューしていたが、僕はBステージで既に始まっているmullhouse(前回までは大文字で表記していたけど、クレジット見ると小文字みたいなので、君子はジャガーチェンジして訂正する)の演奏が気になっていたので、宮里さんに挨拶もせずゲルニを決めた。以前のストリート音楽祭の時にステージ同士が近くて、それぞれの音が反響して音楽に集中できなかったことがあったが、今回のDステージとBステージの距離は結構あり、小走りで移動したのだがドーム型のテントのついたBステージに辿り着いたのは15時近かった。演奏はとっくに始まっていて、林栄一のサックスの音が鳴り響いていた。

mullhouse アップ

 mullhouseのメンバーは、ほとんどLIFETIMEで別のグループやバックで見たことがあるミュージシャンだが、ベースの上村勝正だけは今回初めてである(と思う)。ぱっと見た感じが、「お。鈴木ヒロミツ」(このニュアンスも伝わりにくくなっただろうな、合掌)というか、「あれ、たまのドラムというか、いつもランニングでおむすびをくれという放浪癖のある画家に良く似た人」という感じ。演奏する姿がやや猫背で、普段から姿勢の良さだけは誰にも負けないワタクシとしては見ていて、非常につらい。非常につらいといえばタイコの外山明は例によって中腰で叩いている。ああいう姿勢で良くドラムが叩けるものだという不思議感と、その独特のリズム感にしばし浮遊してしまう。そういうやや白昼夢的というと聞こえはいいが、転寝的まどろみというかゴールデン・スランバーが訪れるコンマ5秒前というところに栄一っつあんのサックスが炸裂して目が覚める。あ、ギターの石渡は最初こそ、うーんと唸らされたが、後半はやや、いえ、それはワタクシだけの感想なので、まあ、好きな人には許して欲しいのだが、イマイチね、ピンとこなかったのよ。多分、その原因はY尾君が気をきかせて買ってきてくれたビール(紙コップだったけど泡のバランスがとても良くて渇いた喉に最高でした)のせいだと思いたい。

 「あれ、太田さんじゃないか」というY尾君の声につられてステージと反対の方向にあるホテルのコーヒーテラスに、それ風な帽子をかぶった人がいる。遠目でよく見ると、間違いない。カルメン・マキの最強トリオで二度ほど見た、太田恵資がテーブルを前にコーヒーを飲んでるようだ。彼が登場する山下洋輔Solo & Moreの演奏は17時10分からなので、後1時間ちょっとある。演奏前のリフレッシュ・タイムなんだろうか。ビールの酔いも回ってきて、ぼんやり客席を眺めるとみんな幸せそうな顔つきで音楽を楽しんでいる。視線をステージのほうに向けようとして、僕はあるものが目に入った。おにぎりである。おにぎりを握った小学生が、1番前の列の椅子に座っている。その横には、先ほどストライク・ゾーンと判定した母親が。その横を見ると、もう一人、先ほどBattito del Soleの演奏をデジカメで録画していた小学生が。ちょっとびっくりして、もう一度周囲を見渡すと、客席に結構小学生がいる。先ほどのファンク系の演奏なら分からないでもないが、こういう、ちょっとフリーフォームな演奏を、小学生が退屈せず聴いているとは。もしかしたら宮崎の小学校で今一番流行っているのはジャズではないか。そういえば、小学校で英語教育が始まるなんて話もある。アフロでちりぢりゼンマイヘアー(by 「ぶりきのがちょう」)の黒人の先生が、小学校で”Dig America? OK,so,you dig JAZZ”なんて会話をしているのだろか。

 ということは絶対といっていいくらい無いはずなので、ビールの影響もあった僕はトイレに行きたくなった。あたりを見渡すとトイレと書いた大きな看板があったので、そちらに向かった。そこは宮崎の商工会館で、今日のイベントのためにトイレを開放しているようだったが、その入口に書いてある文字を見て一瞬酔いが覚めそうになった。そこには「鳥インフルエンザ 新燃岳に関する特別相談室」と書いてあったのだ。そうか、まだまだ自然災害が続いていたんだよなとマジになったが、まあ、とにかく今日は年に1度の音楽祭なので明るく行こうと自分に言い聞かせ、トイレを済ませステージに戻った。あっという間にmullhouseの演奏は終わってしまい、多分僕たちが来たのが少し遅かったせいもあったのだろうけど、なんだか乗り遅れてしまった。

トイレ入り口の張り紙

 「どうする、次もビールにする」とY尾君が言うので、「いや、毎年某焼酎メーカーがカンパ100円で焼酎のロックを飲ませてくれるはずだし、次の洋輔のライブまで時間があるから会場を少し回ろう」と返事をして、まだ見ていない他のステージに移動した。先ほどのBattito del Soleを見たDステージでは宮崎に根を張っているコドモソウルが元気よく歌っていた。その横を通ってCステージに向かうと、物凄い人だかりがしている。大勢の人たちの頭越しに見ると、なんだかどこかで見たような赤のチェックのシャツを着た女の子たちが歌ってる。確かキャンディーズ、違う、ピンクレディ、違う、モーニング娘、違う、あの、なんだ、ほら、女の子がわらわらいる、その昔おニャん子クラブとかいってたのとよく似た、BBAはベック・ボガード・アピスか、それじゃなくて、AKB48のモノマネか(って、かなりくどいな)。

こういうのが楽しい年ごろだろうな

 よーく見たら市内の各中学の吹奏楽部の発表で、その中の1つの中学校がAKB48の曲を演奏して、フロントで歌を歌ってるようだった。申し訳ないが、ロリではないので、どちらかというと人妻関係が好きなので、あ、これは余計か、とにかく興味は無いのでそのまま先に行った。Gステージではウッドベースを抱えた長髪の男の人がソロで演奏していた。あ、クラシックだからチェロというのか。ちょっと興味があったが、ステージが建物の庇の下で暗そうだったのでスルーしたのだが、なんと演奏していたのは渡辺香津美のツアーにも参加したこともあり2005年に日本人としては初めて9.11ワールド・トレーディング・センターの犠牲者のために「アメイジング・グレイス」を演奏した吉川よしひろだったらしい。うーむ、もう少し事前の調査をしておくべきだった。

 と、ここで今回の音楽祭への苦言というか建設的提言というか、まあ、ワタクシの意見ですが、事前の情報量が少なすぎです。NPOの宮崎文化本舗のホームページにプログラムが全部出たのは、確か当日の少し前じゃ無かったかな。気になってちょくちょく覗いていたのだが、いつ完全版になったのか分からなかった。それと出演バンド及びミュージシャンの情報が、当日ボランティアの青少年が手配りでくれた号外みたいなのだけで、内容は大変充実したものだったので、あれをHPにアップするとか事前配布するとか出来なかったんだろうか。当日来て、プログラム見てスケジュール決めるのもいいけど、もう少し予定組みして回りたかったな。あ、それと何年か前は道路に花が飾ってあって、その花の間にアマチュアの人たちが歌ったり、演奏したりしていてとてもいい雰囲気だったんだけど、今回は花も少なかったし、ステージ以外のところで音楽をやってる連中がいなかったのは残念。ステージに出る力は無くても、来年の出場を目指している若い連中がいるはずだし、当日飛び込みでも演奏したいと思うセミプロみたいな人もいると思うんだよね。このあたり、来年への課題として提案したい。ま、関係者は誰もオイラのblogなんか見てないだろうから、言いたい放題ですが(笑)。

 さて、途中で焼酎のロックを手にした僕たちはさらに前へ進んでいった。そう、ストリートで一番大きいステージ、一番のキャパを占めるクラシックのAステージである。もともとストリート音楽祭というのは、みやざき国際音楽祭の前夜祭的プログラムで、宮崎の街をクラシック音楽で彩る前に、まあズージャとかロックとか、そのあたりの下々のものが喜ぶようなものを1日だけやらせてみるのも一興じゃ、のう三太夫、みたいな発想だったか、それは分からないのだが、やはりメインはクラ・ッス・ィック(ここ発音に注意してください。中州産業大学の森田教授の発音を参照されるといいでしょう)。ムチモーマイなロイクが調律狂った楽器で訳のわからない旋律流したり、下層階級の不良少年が粋がって絶叫するロケンロールとやらは、ほんの余興、ホホホ、というような笑い声がどこかで起こっているのではないかというのは、これはワタクシの取り越し苦労というか被害妄想です。

クラシックってどうもね

 しかしながら、Aステージにセットされたグランドピアノや、その前にヴィヨロンを持ってスタンドバイミーされてる徳永先生などのお姿を見ると目が潰れそうになり、リハで流れたメロディ聴いただけで、あ、こういう光あふれる世界の住民とオレは違うもんね、どっちかというと薄暗い別館4階のBOXの奥にいたほうが居心地いいもんね、というひがみ根性丸出しで、そそくさ逃げ出したdrac-ob(by マラパラ)。歩いてBステージに戻る途中で焼酎が無くなってしまい、その辺のコンビニで2合パックでも買うかと探したが、見当たらない。しょうがないので、先ほど買った屋台に行き200円出して紙コップに2杯の焼酎のロックをもらった。こぼさないように慎重に歩いていたのだが、いかんせんBステージは遠い。その上喉も乾く。我慢と辛抱が利かない年になったワタクシ達は、歩道の端にバス停用に置いてあるベンチに腰掛けて焼酎を飲み始めた。夕方とはいえ、まだまだ日は高いし、見ようによっては人間の屑である。その僕たちの目の前を初老の夫婦が通りかかった。

 その旦那さんと視線が合い、最初は嫌悪感丸出しだった旦那さんの口から「こんにちは」という挨拶の言葉が出た。自慢ではないが、僕は挨拶の人である。挨拶は人間関係の基本である、ということを最初に入った会社(ああ、北関東とは何時出会うのだろうか…)で徹底して教え込まれたし、後年はそのことを新入社員やパート、アルバイト社員に口がすっぱくなるほど叩きこんだワタクシである。腹の底では「なんでぇ、このクソ親父」と思いつつも、明るく元気な声で「こんにちは」と挨拶を返した。その旦那、一瞬足を止めて僕のほうを見て「やっぱり覚えてないんだな」と、一言ボソッと呟き、足早に立ち去って行った。僕は空耳かと思い「あいつ、誰だ」と口に出したらY尾君が「高校の同級生じゃないか」などと言った。「え、それはないやろ、あんなオッサンと俺らが同級生のはずが無い。あれはどう見てもオッサンやで」と言うと、Y尾君は厳かに「いや、俺たちは十分オッサンになった」と悲しいことを言った。そうか、そうなのか、俺たちは既にオッサンだったのか、と歴史的事実に気がついたところで本日はおしまい。このエントリーは後1回で終わります。トリは山下洋輔のライブですが、その翌日のホールコンサートも凄かった。まさに「芸」を見せてもらいました。というところで、連休前半はこれにて失礼。



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