今年もやってきたみやざき国際ストリート音楽祭 その1

 だから早く決断しておけば良かったのだ。空腹のまま、正確には昼ご飯を食べずに出かけるべきだった。ところが、何事にも心配性で万一、とか不測の事態に備えるという傾向のあるワタクシは、まあ、多少神経質なのかもしれないが、当日午後1時にはストリート音楽祭の会場に入り、各ステージの配置と周辺の屋台の確認、ベストポジションの座席はどのあたりかをリサーチするはずだったのに、昼飯を食べていないという事実に気がついてしまい、時計はそろそろ午後1時になろうかという頃だったのに、会場で適当なつまみを買って食べたほうがいいのか、あるいは自宅の保存食の類を探したほうがいいのか迷ってしまい、最終的には国民的インスタントラーメンの決定版であるサッポロ一番味噌ラーメンを作ることにし、それでも具が全然ないのは悲しいので野菜室で見つけた長ネギと、こちらはワタクシ以外にふり返るもののいない魚肉ソーセージをぶつ切りにして、一気に煮込んでハフハフと食べて、ああ、満足と時計を見たら1時半近かった。大慌てで着替えて、デジカメも持って小走りに会場に向けて出発したのは当然である。

 前日、電話でY尾君から1時半に陽太のライブステージであるDステージで待ち合わせと約束していたのだが、その時間はまだ自宅から出るか出ないかの状態で、会場入り口の交差点に近いところで携帯の着信に気がついた。Y尾君からだった。多分、すでにステージについたがどこにいるかという連絡だろうと思い、折り返してみると彼もまだ移動中とのことで一安心し、それでも陽太のオープニングの1時50分まであと10分くらいだったので、周囲の様子を見る余裕もなくDステージに向かった。僕は会場の南口から入って行ったのだが、最南端のBステージ(ここはMULLHOUSEと山下洋輔という本日の2大ライブのステージでもあるのだが)から、Dステージまでは結構距離があり、急ぎ足で歩いている僕の耳にかすかに音楽の音色が響いてきた。当日は天気晴朗なれど風強しという天候で、そのせいかいつもなら会場のざわめきや花火の音が聞こえるはずなのだが、イマイチ静かでなんだかちょっと先行き不安な状態だった。それでも音楽が聞こえて来るというのは、もしかしたらオープニングの時間が早くなったんだろうかと焦ったが、ステージについてみたらバンドのリハの音だった。

ブラスバンドの更新、ちがうわ、行進

 ここ何年かは宮里陽太カルテットとして、この音楽祭に登場しているのだが、今回はBattito del Sole(バッティト・デル・ソーレ)というグループで演奏すると聞いて、正直不安があったのはこの前のエントリーに書いたとおりだ。ステージの前から2列目くらいの椅子が空いていたので腰をかけると、すぐにY尾君もやってきた。ステージでは陽太がちょっと不機嫌そうな感じでモニターチェックをしている。音響のスタッフも、やや不安げな顔であちこちステージ上をうろついている。僕は周囲を見渡してみた。去年はちょっと早めに来て、演奏前の陽太と立ち話をしたり、お父さんである宮里さんや陽太夫人などと挨拶も出来たのだが、今回は遅刻ギリギリだったので周りを見渡す余裕もなかったのだ。それでもテント前に陽太のお父さんである宮里さんの顔を見つけて手を振ったら、気がついてくれたようだ。

 「ここいいですか」と野太い声がしたので見上げると、顎髭だらけでサングラス、首からタオル、Tシャツにジャージという恰好の、若いくせにその体型はなんだ、若年性メタボかといいたくなるような男がそこにいた。僕の座った席は丁度通路の端だったので、中の椅子に座ろうとするには、僕がどいてあげないと入れない位置関係だったのだ。同じ音楽を聴こうというのだから、むろん異議など無く、「どうぞ、どうぞ」とダチョウ倶楽部のウエジマ作戦のように体をねじって場所を空けた。もっともその髭男が入るのではなく、連れの女性が二人ほど「すいません」といって僕の前を横切って中ほどの椅子にかけた。そろそろ演奏が始まりそうだと思い、前を向くとその髭男はなにやらぶつぶつ言いながら席を立ち、僕の横の通路からステージのほうに向かった。あれ、関係者かなと思って見ていたら、ビデオの準備をしたりステージの後ろに行ったりうろうろしていたと思うとまた席に戻ってくる。しかし、会場の関係者か音響の関係者か知らないが、普通その手のスタッフが客席で椅子に座るってどういうことだ。さらにステージのほうに出るのに、堂々と通路を通り、ステージ前で背をかがめることもせず横切る。無神経なクマで大変不愉快な奴だった。

 ちょっとむかついていたが、司会者のフリーアナウンサーのなんたらいう女性が挨拶を始めたので注目した。3.11の震災のこともちょっと触れて、宮崎も去年から大変(口蹄疫に鳥フルに、今年は新燃岳の噴火だもんな)だったことも触れた。それからバンドの名前の由来を話した後にメンバー紹介したのだが、ベースの大西映光(ひでみつ)を「おおにし、ひでまつ~」と紹介、メンバー苦笑、客大爆笑。しかし、おそ松君の6つ子じゃないんだから「ひでまつ」は無いよな、などと思わぬ言い間違いから会場が明るい雰囲気になり、リラックスしたムードで演奏が始まった。昨年結成されたグループでリーダーが宮里陽太、キーボードが大西洋介、それにベース、ドラムス、ギターという編成だ。演奏聴く前は、オンナコドモに受けようとした軟弱クラブジャズだろうという偏見に満ちていたワタクシであったが、なんのなんの。大変カッコいい、ファンク・バンドでした。いやー、大西さん、普段はビル・エバンスチックなキーボードなのに、ここではファンキー大西と呼びたくなるくらい黒くて良かった。

ヒデマツと陽太

 さらに、特筆すべきはギター。顔が大きい。いや、その、音も大きいってか、いい音色してるんだ、これが。何曲目だったか忘れたが、陽太のサックスとギターがユニゾンで演奏する曲があり、これがリズムもばっちり決まってノリの理、ちごた、ノリノリで楽しめた。後半にパパ・ファンク・グロウズの曲をやったが(そうそう、そこでベースのソロがあったのだが、客席からは「ひでまつ~」という明るい声援が飛び交っていた)、その時の演奏は、若い頃の山岸の雰囲気がちょぴりありました。ていうのは、褒めすぎかもしれんが、気持ち的にはそういう感じで応援したくなったね。後で宮里さんからギターの彼だけがアマチュアと聞いて驚いたが、これからが楽しみな感じでした。あ、いわゆるジャズのギタリストじゃないけどね、フュージョンとか、ソウル、ファンク系のギターかな。

顔の大きいギタリスト

 陽太のバンドはいきなり3曲立て続けに演奏した。いやー、この3連チャンで、偽JJオジサンの心配は一気に消し飛んで、うん、やっぱりどういうスタイルでやっても陽太は陽太だと納得した。

 そうそう、僕の前の席に小学校5,6年生くらいの子供とその母親らしき人が座っていて、まあそのお母さんがなかなかにストライク・コース(by Purple_Haze)だったのだが、いや、そういうことじゃなくて、その小学生の男の子二人が陽太の演奏に乗りまくっていて、体は揺さぶりまくるわ、手拍子・足拍子叩くわ、挙句はデジカメ持ってるから写真撮ってるかと思ったら動画を撮っていました。いやー、いまどきの子はデジタルに慣れてるんだなと妙なところで感動。

 風が凄く強かったせいもあり、譜面が飛んだり、マイクスタンドが倒れそうになったりしたが、なんとか無事に演奏は進んだ。あ、思い出した。あの髭男、やはり音響スタッフだったのか、大西さんのキーボードの譜面が飛んだときに拾って手で押さえたりしてたな。陽太もMCをあまりいれずにどんどん演奏していったのだが、この1時間の演奏時間で7曲だったか、そのうちの1曲はパパ・ファンク・グロウズの「Mutha Funk Ya’ll」だったが、あとはすべて陽太のオリジナル。僕は彼のサックスが好きで聴いているのだが、そのサックスのフレーズに負けないくらいいい曲を作る。メロディ・メーカーなのだな、うん。個人的には「ベーコン・レタス・エッグ・サンド」をやってくれなかったのは心残りだが、もう陽太のスタンダードといっていい「マイ・ツリー」は、例によってしみじみ聴かせてくれた。

 そして陽太が3.11の東北大震災のニュースを見た後に、音楽でなんとか復興支援をしたいと思い作曲した「アゲイン」というバラードだが、メロディもいいし、そうそう、この曲からはゲストでパーカッション・プレイヤーも参加し一気にラストまで持っていくのだが、ちょっとした裏話も披露してくれた。というのも、今回のストリート音楽祭の演奏曲はすべて決めて、バンドとしての練習もバチっと決めていたのだが、演奏前日にどうしてもこの新曲をやりたいと思い、陽太曰く「焼酎のロックを一気に飲んだ後」メンバー全員に譜面とデータをPCから送ったらしい。で、他のメンバーは起きていたのだが、キーボードの大西さんだけはすでに就寝中だったそうで、翌朝というか本番当日ですな、大慌てだったようだ。そのエピソードを披露した時に客席から「年寄りは早く寝るから」という失礼な野次が飛んだが、それは白状します。ワタクシでした。



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宴の終わりに



久しぶりに耳が鳴っている。耳鳴り、いや歳のせいじゃねーよ。いい演奏聴いたあとのカタルシスだ。

地鶏をつまみに待機中



ヨータの後はヨースケということでただいま待機しております。先程リハーサルで太田氏のバイオリンを聴いた。楽しみである。

みやざき国際ストリート音楽祭なう



ヨータ、すまん。昨日のエントリーに好き勝手書いたが、やはりヨータはヨータであった。音響が悪かったが、そんなもの何するものぞ。ファンキーでゴキゲンな演奏でした。

明日はストリート音楽祭、極私的楽しみ方

 明日から黄金週間である。今年の連休は、大型10連休なんてところもあるようだが、こちとらカレンダー通りで何の不満もない。というか、僕は、個人的にはだらだら連休が続くより飛び石連休というやつが好きなのだ。たとえば水曜日が休みになると、うれしい。月・火と働いて1日休み、木・金(職種によっては木・金・土というところも多いだろうが)仕事してまた休み、なんてほうが夜更かしも楽しいし、ちょっとどこかへ出かけようかなんて気にもなる。まあ、これも本来が出不精で家族そろって旅行に行くなんてことはめったにないものだから、出かけるといっても基本的に日帰り、下手すると午後から出かけて夕方前に戻るなんてのでも、ワタクシは十分なんです。十分なんですが、いわゆるオンナコドモには大変受けが悪い。俗にいう配偶者とか嫡子とかいう連中ですな。他所の家庭は知りませんが、我が家ではワタクシは諸悪の根源、ごくつぶし、反面教師、こうなったら人間アウトだけど、ごみの日に出すわけにもいかないからとりあえず家に置いておくというような扱いである。まあ、昔から家庭の幸せ諸悪の元などというので、気にしません。気にしませんが、愚痴を言いたくなることもあるわけよ。まあ、世間の幸せなご家庭ではこういうことはないのかね、そう、ないのか。じゃ、しょうがない。

 などとひねくれたり、いじけたりするのがカワイイとか言われる時代はとうに過ぎているので早速本日の主題、というか、この連休前半の予定というやつですが、ついに来ました。年に一度のカーニバル、待ちに待ったみやざき国際ストリート音楽祭が明日行われる。例の3.11、それに付随した原発人災の影響で、本来の目玉のクラシックの演奏家がずいぶん来宮をキャンセルして、一時は開催が危ぶまれたのだが、捨てる神あれば拾う神ありで、人がいかないなら行きましょうという心意気の紅毛碧眼人もいて、なんとかイベントは計画通り行きそうだ。もっとも、ワタクシはかの歴史と伝統のあるD大レコード音楽研究会のOBではあるが、僕の入学した年にはクラシック班は幽霊班というか、はっきりいうと活動するメンバーがいなかった(後期になってから復活するんだけどね)。ま、それ以上にこちとらにクラシックに対する愛情も熱意もなく、堕落したシホン主義社会の落とし子であるズージャとかロックなんかにうつつを抜かしていたので、その後社会人になってもその習慣は抜けず、まあ、マンガもいい年こいても毎週必ずチェックしてるし、いつまでたってもクソガキみたいな音楽の趣味で大変恥ずかしいのであるが、明日の音楽祭も期待しているのはズージャ関係なのだ。

 ここ数年は、宮里陽太のカルテットを聴くのが楽しみだったのだが、今年はなんとBattito del Sole(バッティト デル ソーレ、イタリア語で『太陽の鼓動』を意味するらしい)という宮崎地元のミュージシャンのバンドメンバーとして登場する。キーボードは香月さんといつもやってる大西さんで、ほかのメンバーもたぶん何度か見た(聴いた)ことはあると思うのだが、バンド名やメンバー構成を見ると、どうもこれはオンナコドモの好む「スムースジャズ」とか「クラブジャズ」とかいう演奏になるのではないか。いや、いーんだよ、ヨータのサックスと大西さんのヤノピが聴ければ、ワタクシ不満は申しません。確かにヨータはルックスもいいし、ファッションも今風で若い女の子たちにきゃーきゃー言われる要素はあります。でもね、でも、「男は黙ってバップ」なんだよ、分かるかなぁ…。いや、観客にきれいなおねいさんが大勢いることに不満はない、不満はないどころかユーアーウェルカムである。いいんだ、いいんだと、流行り歌口にして~などとどさくさでセンチの初期のヒット曲を口ずさんだりして。でも、去年、一昨年と海太郎の強烈ドラムとヨータのサックスの絡みを楽しみにしてきた偽JJオジサンとしては、うーん、クラブジャズもいいけど1曲くらいはズシッと腹に響く演奏してくれんか、無理か、無理なら次のLIFETIMEのライブを期待するか。

 えー、なんだかんだ書きましたが、楽しみは楽しみなんですよ。陽太のBattito del Soleは13:30から14:50まで橘通り2丁目交差点(お菓子の日高前)です。雨が降ったら若草通りステージ。まあ、確率的には晴れそうだ。晴れたお日様がさんさんとそそぐ中、ビールでも片手に、おっとつまみに地鶏も用意して軽快なアルトやソプラノ聴いてハイになるべえや、若い衆よ。このあたりの表現はちょっとトノさんぽかったりして(笑)。

 で、あとのお楽しみは今週の初めに高鍋町でライブをやったMULLHOUSE。メンバーは石渡明廣 (g)林栄一 (as) 上村勝正 (b) 外山明 (ds)というところかな、えーと林栄一は今回参加してたっけ、その後山下洋輔がSolo & Moreと題して、カルテットプラスゲストみたいな演奏やるので、林栄一も乱入などというパターンを期待したいのだが。おっと、MULLHOUSEとして聴くのは初めてだが、参加ミュージシャンはこれまであちこちで聴いてはいる。ただ、ちょっと不幸な出会いをしたミュージシャンも入ってるので、さあ今回はどうなるだろうか。たぶんこのころにはビールのお代わりか、あるいは新燃岳噴火フンサイ闘争の一環として黒霧島のロックをがんがんいってる可能性があるので、気に入らない演奏だったりすると紙コップ投げ込んで、ついでにモロトフカクテルなんて、ぶるる、めっそうもない、そういう世界からは足を洗った。もう、堅気。

 まあ、強烈なフリーの演奏になる可能性も高いが、まさか春の戸外の音楽祭で脳天ファイラーな演奏はしないだろうが、スムースジャズだとかクラブジャズをやるはずもないので要注意だ。で、最後の御大、山下洋輔は、翌日はホールで見る予定なので、レパートリーはどういうのをやるのか楽しみだし、一番楽しみなのはあの鬼才バイオリニストの太田恵資と山下ピアノがいかに格闘するか、ここですよ、ここ。太田恵資は、カルメン・マキの最強トリオとして宮崎で2回見たが、板橋の迫力あるピアノに真っ向から勝負を挑んで見事ローリング・クラッチ・ホールドでピンフォールを取り、判定に納得いかない板橋仮面が場外乱闘に持ち込んで、結果はノーコンテストだったというのを見ているので、大いに楽しみである。あ、もう夜中だ。早く寝ないと明日に障るな。では、ストリートでお会いしましょう。



別に疲れてるわけじゃない、それだけの話

 今日は、なんだか無性にケンタッキー・ウーマンのチキンが食べたくなり、晩御飯用に買ってきて2ピースぱくついた。久しぶりなので缶ビールも開けて、うぐうぐ飲んで、350mlが1本じゃ何となく寂しくて、もう一杯いかがなんて妙に色っぽいシチュエーションでもないのだが、ムーディーズも「ワン・モア・タイム・トゥー・リブ」などと歌っていたではないかと自分自身を納得させて、缶を開けたのはいいのだが途中ちょっと行き詰ってしまい、というのもチキンの油っこさがしつこくて3本目に手が出ず、かといって口の中は脂がぎとぎとで気持ちが悪い。お、そうだ、こういうときのためにコールスローがあるのだ。と、思い出して、早速袋から取り出してサラダを食べながら何とかビールも飲みほした。しかし、昔だったらとても考えられないくらいすべてに弱くなっているな。いや、ビールもチキンも。いつまでも若い若いと思っていたが、そうでもないんだな、などと最後は少ししんみりして、でも久しぶりのアルコールのせいで目はとろとろしてきて結局、夜の散歩に出る元気もなくこれから寝ようと考えている。もうすぐゴールデンウィークだけど、今年は恒例のみやざき国際ストリート音楽祭に出かけるくらいしか予定が無い。あ、そうでもないか。29日は音楽祭だけど、その翌日は浮世の義理でチケットを購入した山下洋輔のコンサートだ。でも、それくらいか。しょうがないから後の休みは日がな一日、本でも読んで過ごそう。こういう休日の過ごし方からもジジィになったと思われるかもしれないが、僕は昔から出不精だったんで、そのあたりは全然変わってないのだ。で、いつもだったらここからまた締まりのない話がだらだら続くのだが、このところちょっと考えることもあり、結論めいたものも何もなくこのエントリーは終了する。だからどうした、という話。ああ、消耗する毎日だ。そういえば昔、T原さんがデモ帰りにBOXで「ああ、消耗した」とつぶやいたら、それを聞いたS賀さんが、「そうか、消耗したか。どこがしょうもうしたか見せてくれ。オレは今まで消耗した人間を見たことが無い」と本気なのか冗談なのかつかないことを言い出して、それ以来「消耗した」という言い方はしないようにしてたけど、ついポロリとでてしまったな。いや、別にそれだけの話だけど。あ、今度もしかしたらアップするかもしれない「みんなのうた」の話だけど、「だーれも知らないここだけの話」っていいよな。いや、それだけの話だけど。って、きりがないのでこれで本当に終わり。



昨日は間違いですんで良かった、けど文章はもうズタボロ

 いやー、良かった、よかった。陰性で良かった。昨日はもう目の前真っ暗だったが、朝のニュースで都城の牛は検査の結果、口蹄疫ではないということが無事判明した。陰性で喜ぶなんてことは、小学校じゃ考えられませんでした。だって陰性だとイターイ注射をもう一度打たれるので、何とか陽性にしようと腕を叩いたりひっかいたりして、赤い反応を出そうとしなかったでしょうか、皆様は。陽性が無理なら、せめて疑陽性でもなどと無駄なあがきをした覚えはないでしょうか、その昔。一体何の話ですか、などととぼける平成ボーイズ&ガールズには分からないだろうな。ツベルクリン反応ってやつだよ。ほら、ハードロックを確立した、ジミー・ペイジの率いたロックバンド。レッド・ツベルクリンって…、ゴホン、そうじゃくて、BCGというやつです。BCGとは、ベック・チャー・ギャラガーという個性派ギタリストの頭文字では残念ながら、ない。これは、その昔ジェンナー先生が苦労を重ね、天然痘の予防として牛痘を接種することを発見して、天然痘の予防が出来るようになったのだ。と、この部分を書くために今ちょっと調べたら、ワタクシの子供の頃はジェンナーは天然痘の予防に効き目があると信じて、我が子に接種してその効果を明らかにした、という美談を聞かされ、なるほど、紅毛碧眼人といえども立派な人がいるものだと感心したのだが、先ほど念のために調べてみたら、あなた、ジェンナー先生は使用人の子である8歳の少年に牛痘を接種したそうではないですか。なんだ、こいつはと思って更に調べてみたら、早とちりしたらいかんなぁ。ちゃんと自分の子供にもその前にテストでいろいろやっていました。まあ、教科書に取り上げたときに(明治時代の修身の教科書だそうですが、さすがに現代史の生き証人であるワタクシも道徳は習ったが修身は習わなかったな。しかし、我が身を修める勉強だからきっとワタクシのココロに響いたはず、間違いない)、手っ取り早い美談に仕上げたようです。

 ところで昔のBCGの注射の跡は汚かったけど、何年か下になるとハンコ注射などと言葉も可愛げになり注射の跡も目立たなくなって、さらに年が下がるともうほとんど注射の跡はない、てなところまで来てるんだってねぇ。いやー、恐れ入り屋の鬼子母神ですわ、まったく。しかもですよ、僕が小学校の頃はこのツベルクリン反応の注射は必ず打たれて、その注射の跡が「・」みたいな、小さな点だと「ハイ、陰性、こっちきて」と言われて、物凄く痛い注射を打たれるものだから、まあひっかいたり定規で叩いたり、とにかく点だとまずいので赤い反応を出そうと手を変え品を変えやったんだけど、そこは百戦錬磨のお医者さんや看護婦さん、あ、今は看護婦さんっていったらいかんらしいが、んなもん、看護婦さんは看護婦さんやないか、オレはもう絶対嫌だけど万が一入院した時は絶対看護婦さんにケアしてもらいたい。野郎の看護士なんか来たら、絶対口も利かないことをここに公然と宣言します。えーと、熱くなった。要するにガキの小細工は一切通用しなかったということです。あ、それと今はもう接種時期は乳児期というか3ケ月から6か月の間の1回だけで、しかもツベルクリン反応検査はせずに一律だなんて、ちっとも知らなかった。まあ、身の回りに乳児や幼児がいなくなったから知らなくても当然だな。

 しかし、昨日は大いに心配したけど、結果オーライで良かった。昨年の口蹄疫の教訓で早期発見・早期対策のいい意味でのリハーサルになったと思う。この手の「オオカミ少年」パターンはあっても全然かまわない。一番怖いのは怠慢と慢心だ。人間横着になって、まあいいか、なんてやったら碌なことはない。自戒の意味も込めてつくづくそう思う。例によってまとまりのないだらだらの感想だけど、今はもうこんなもんよ、こんなもん。北関東との出会いも音楽話もちょっと気合入れないと、ついついそのままにしてしまうダメなワタクシでした。以上。あ、動画は別に意味なし。ホントは「ハッピー」を貼りたかったけど、無かったので。



何かに魅入られているのか、またもや赤い悪夢が

 このところ毎日、夜8時過ぎから9時くらいまで近所を散歩している。以前はちゃんとした習慣になっていたウォーキングだが、今年は4月になっても寒い日が続いていたので歩いたり、歩かなかったりだったが、桜が咲き始めた今月の中旬くらいからまた復活したのだ。それでただ歩いているのもさびしいので、iPodやmp3なんかを聴きながら歩いている。音楽はシャッフルにしたり、アルバム1枚を聴いたり、自分なりに作っているベストを聴きながら歩くのだが、ときどき携帯でメールをチェックしたり、yahooのニュースを見たりしている。今日も、いつものようにスポーツウェアに着替えて、耳にイアホン差し込んで歩き始めたそのとき、何となくニュースを見たくなって携帯を見たその瞬間、大げさでなく軽く立ちくらみがした。そこにはこういうニュースが出ていた。

宮崎・都城の畜産農家の牛、口蹄疫感染の疑い
読売新聞 4月25日(月)20時29分配信
 農林水産省は25日、宮崎県都城市の畜産農家の牛が、口蹄疫に感染している疑いがあると発表した。
 遺伝子検査し、26日朝に感染しているかどうか判明する。
 同省によると、25日朝、農家が口内にただれがある牛を見つけ、同県に通報。県が調べたところ、飼育する10頭のうち、5頭で口内や舌にただれが見つかった。口蹄疫の典型的な症状の発熱やヨダレはないという。
 検体を東京都内の動物衛生研究所の施設に送り、詳しく検査する。県はこの農家の20キロ圏内の牛や豚農家に対し、家畜の移動自粛を要請した。
 宮崎県は昨年、口蹄疫で牛や豚計30万頭を殺処分している。


 そういえば去年の今時分だった。調べてみたら4月20日に川南町で感染が確認されて殺処分が始まったのだ。それからの悲惨な歴史は、まだまだ地元の人間にとっては記憶に新しい。今年の3.11以降、新聞の1面は東北の震災被害と福島の原発の人災事故についてばかりだが、地元のローカル新聞にはときどき再開し始めた畜産農家の話や、それでも口蹄疫が怖くて廃業、あるいは様子を見ている農家の話がぽつぽつ出始めた時期なのだが。もっとも、ちょっと前のエントリーにも書いたが、誤解を恐れずに言えば「たかが口蹄疫」なのだ。東北の様に、人の生き死にの問題じゃない。じゃないが、経済的には完ぺきに追い詰められた。東北の復興支援のために、昨年大いなる支援を頂いたお返しに宮崎が経済復興しその売り上げでお返しができるんじゃないか、などと考えたのは絵に描いた餅になるかもしれない。

 しかし、どうしてまた、宮崎ばかり口蹄疫が発生するのか。例によってネットでは、某国の陰謀だとか、さまざまな陰謀論が大手を振って歩き始めてるようだ。例によって「ここだけの話」、「誰も知らない真実」、「至急拡散希望」なんてのが飛び交うんだろう。もういい加減にしてほしいが、こうも不幸が続くと陰謀論に加担して何も考えず、仮想敵作ってそいつらを罵倒してウサ晴らすという気持ちが分からなくでもない。いかん、いかん、そんなことじゃ。外を眺めればかすむ空気と人の渦、なにやってんだ、どうした、何を慌てて無様にこける、空、ちょっと見りゃ富士に太陽ちゃんとある、などと初期のエレカシのフレーズでも口ずさみながら、事実は事実として受け入れ、昨年も圧倒的なスピードと畜産王国のメンツをかけて防御した都城に期待したい。県もさっそく対策を考えている。一番は検査の結果が陰性であることだが、こればかりは明日にならないと分からない。もう、あの殺処分の地獄の再現だけはお断りだが。最後は逆説的なナンバーを貼り付けて、今日の日記は終わる。本当は今日はこの前テレビで放送された「みんなのうた」について書くつもりだったけど、それはまた改めて。



バイバイ、スー吉、ありがとう微笑み返し

 今日は、例の鹿沼のクレーン車「事故」と筒井康隆の断筆宣言のもとになった『無人警察』の話でも書こうと思い、それにしても「発作をおこす病気」の薬を飲んでいなかったなどと、どうしてオブラートに包んだものの言い方しか、しない・出来ない社会になったのか、にぎやかな未来は実はキレイキレイな未来で、でもその本質はトイレの無いマンションっていうか、あるけど本当は誰にも見られないように隠している世界じゃないのかなぁ。結局のところ、汚いものは一切ないことにしてみんながみんな「手を取り合ってこのまま行こう、愛する人よ」なんていう社会がいつの間にか作られていて、でもそういう世界は住みにくいというか嫌だなぁ、みたいなひねくれた話を書こうと思っていたけど、スーちゃんが死んだというニュースを見て、もうどうでもいいやとさあ殺せと言ったのはどこのどなたさま、みたいになっちまった。

 でも、スーちゃん、まだまだ若い、若杉でしょう。ちょっと前の水谷豊のインタビューで年に1回か2回くらい彼の家に3人集まって同窓会みたいなことしてる、なんて話聞いたのに。しかし、あまりに早すぎる彼女の死に合掌。あ、今、訃報記事見て驚いた、オレと歳が一緒だ…。



ワタクシと北関東(JEP)の出会い ようやく研修の峠を越えたかな編

 ちょいと脱線してしまうが(毎度のことなので気にしないよね、いい子のみんなは)、この前の日曜日にどえらいことがあった。実は今連載中のエントリーに、そのうち登場する予定だった元常務が20数年ぶりに宮崎に出没したのだ。あ、今、研修を受け持っている常務じゃないのよ、これが。エントリーで僕たちを研修している常務はE本常務といって、当時は学習指導部の責任者だった人で、日曜に会った常務はT部常務といって、僕が入社したころは営業部の次長で、すぐに部長になり、それから数年もしないうちに常務取締役になった人。営業のセンスが鋭くて、どんな商品でも売れる人だったし販売システムや営業トークなんかを作らせたらピカイチの人だったけど、グループ会社の社長になった後いろいろごたごたして自発的に退職した人でもある。そのときの事情は良く分からなかったが、今回およそ四半世紀ぶりに真相、実はあの時の退職には改革の議長だったS藤さんが大いに関係していて、そこからJEPの没落が始まったのだ、なんて話も聞いて、うーん、これは大河ドラマじゃないが、「ワタクシと北関東(JEP)の出会い」はネバー・エンディング・ストーリーになりそうだと感じた次第。あ、でも、ダメ。これ以上はもう少しほとぼりが冷めないとマズイので大急ぎで時間を遡り、研修の続きをかき揚げ用、ワハハハ、かき揚げ用ってなんだよ、「書き上げよう」だっちゅうの。告白します。我が家のIMFじゃないやIMEはアホです。

 「というわけでプログラム学習の5原則は分かったかな。スモール・ステップの原理、積極的応答の原理、即時確認の原理、マイペースの原理、そしてリピート、つまり繰り返しの原理、これらの5つの原理がすべて入っている視聴覚教育機器は、このマイ・ティーチャーだけだ。学校にも導入されている素晴らしい商品なんだ。だから二人は自信を持って一人でも多くのお客さんを見つけてほしい」。常務はそういうと僕たち二人を見てにっこり笑った。僕は、まあどうでもいいというか、騙されたワタクシがアホだからしょうがないけど、ちょっと引っかかるところがあって質問した。「あのー、僕たちの仕事はこのパチモンいや、この文部省が認定したつまり国家権力が素晴らしさを認定した、この機械ちゃうわ、教材を売ることが仕事じゃないんですか?」。

 「うーん、××君は人の話を聞いていないね」と、これはある意味間違ってるとは言えない指摘を受けた。「前も言ったけど君たちはセールスマンなんかじゃないんだ。アポインターなんだよ、分かるかい?」。そんなもん分からんから質問しているんである。が、セールスマンじゃないという言葉を再度聞いてちょっと安心して、僕たちは常務の説明を待った。「××君は英文科だったね。じゃアポインターの意味が分かるだろう」「えーと、アポイントメントは分かります。約束のことですよね」「長ったらしいことを言うんじゃない。お母さん方は機械も苦手だが難しい言葉も苦手なんだ(いや、これ僕が言ったのと違います。普段からオンナコドモは、などと小馬鹿にしたようなことを書いたりしますが、女の人が難しい言葉が苦手だなんて、ちょっとしか、いや、そのでんでん思っていません)。アポイントでいい、そうアポイントつまり約束を取る人だからアポインターというんだ」「…、えーと、”apointer”という単語はおそらく無いと思います。あ、いわゆる和製英語なんでしょうか」という僕の質問は軽いフットワークでスルーされた。「アポインターにはもう一つ意味があるんだ。アポインターという言葉は二つの言葉に分けられるが分かるかな、H田君」。今度は真面目なH田君に質問が飛んだ。つまり、真面目な話に移るということだ。「えーと、『アポ』と『インター』でしょうか」「惜しいな、しょうがない、××君」「もしかしたら『ア』と『ポインター』ですか」「そうだ、『ポインター』というのは、猟犬だね。『ア』は『ひとつ』とか『一匹』という意味があるから、『アポインター』すなわち『機敏に走り回る猟犬』という意味もある」。おい、いったいどこに『機敏』だとか、『走り回る』なんて単語が入ってるんだ、という突っ込みをする気力もなく、僕はハクチ的に頷いた。

 「つまり、君たちの仕事はマイティーチャーの存在を知らないお客さんを探すことなんだ。そして、そういうお客さんを見つけたら、クローザーにつなぐ、それだけだよ。セールスマンだなんて、とんでもない」と常務はニコニコしながら僕たちに話しかけた。「すいません。セールスマンじゃないというのは、何となく分かりましたが、どうやってお客さんを探すんでしょうか」とH田君が、なかなか鋭い質問をした。「うん、じゃあ反対に私から質問だが、今ここから見えるいろいろなアパート、マンション、一軒家、これらの中にマイティーチャーを知らない家庭がどこにあるか、教えてくれないか。H田君でも××君」でも、どっちでもいいぞ」と常務が何やら禅問答みたいな質問をした。僕はとりあえず考えてみた。まあ、手っ取り早いのはアンケートか何かで聞くことだろうか、それとも、え、いや、もしかしたら、そんな、それはないだろ、いくらなんでも、まさか見ず知らずの他人の家にいきなり訪問するなんてないよな、と揺れる心でいたら、そういうのはすぐに見抜かれるようで「お、××君は何かいい方法を考えたようだな、ハイ、言ってみよう」と常務。

 「え、あの、アンケートとか」「どうやって?」「その学校の前で配るとか」「子供にそんなもの持たせても回収はどうするんだ」「あ、だから次の日の放課後待ってて」「君、小学校には何人の児童がいるんだ。しかも、見込み客は小学生だけじゃない、中学生もいるし幼児だっているんだぞ。」「あ、だから小学校とか中学校とか幼稚園の」「そんな効率の悪い方法はダメだ。ヒントはポインター、つまり猟犬のイメージだ」「あ、その、まさかだとは思いますが、ひょっとして、その、他人様のお宅を突然訪問する…」「そうだ、分かったかね。一見無駄なようだが、一番確実な方法は一軒一軒のお宅を回り、その家に子供がいるか、いなければ近くに子供のいる家はないか、訪問しながら聞いていくんだ」「え、でも迷惑ちゃいます、そんな」「迷惑にならないようにちゃんと挨拶して訪問するんだぞ。黙って人の家に入るのは泥棒だから」。この説明を聞いた瞬間、僕とH田君は目を合わせて固まってしまった。

 「じゃあ、これからお客さんの家に訪問するときの挨拶、お辞儀、そしてアポを取るための話し方、これをアポンター・トークというけど、それを一緒に勉強しよう」。常務はついに本題に入って来た。僕たちは、いや少なくとも僕はこの段階で、大いに異議あり、ナンセンスと叫びたかった。だって話が違うだろう、何が悲しゅうて見ず知らずの他人の家に突然「ごめんください」なんて入って行って、教材の話を聞いてくれなんて頼まなくちゃいけないんだ。だいいち、そういう仕事だなんて一言も言わなかったじゃないか。最初にこういう仕事だと話を聞いていたら、誰が入社なんかするもんか。と、ここまで考えたときに、ようやく合点がいった。これまで何度質問しても仕事の内容を説明しなかったこと、会社の先輩たちが帰社時間や仕事に関することを質問してもすっとぼけたような反応だったのは、実は僕たちに入社を拒否されないための戦術だったのではないか。しかし、たぶん同じようなことを考えているはずのH田君は、全然動じた様子もなく常務の話を聞いているので、僕だけ文句をいうのも大人げないかと思い直した。今、考えるとこれが間違いの第一歩だった。この瞬間に革命的星一徹主義を貫徹して、机をひっくり返して宮崎に帰るべきだったのだ。

 「ごめんください。こちらのお母さんですね。私、ニホンキョウイクキカク(正式社名です)の××と申します。今日はこちらの地域のお子さんのいらっしゃるお宅を一軒一軒お伺いしております。失礼ですが、こちらのご家庭にはお子さんはいらっしゃいますでしょうか」。かなり憮然とした表情で僕は言った。「ダメ、ダメ、そんな暗い顔と声じゃ、頭からお客さんに断わられる。人間は相手の顔を見て反応するんだ。まずは笑顔。大きな声で挨拶、そして要件。この順番でやること、やり直し」と常務のダメだし。黒板に話の流れを書いた後、自分たちだったらどういう風にお客さんの家に行くか、練習しようということで始まったロール・プレーングである。もっとも、ロープレー、ロープレーと常務は言うので、最初は意味が分からなかった。(営業力アップのための)役割練習のことだと分かったのはずいぶん後になる。僕がダメだしされたら次はH田君がやった。彼は言葉はあまりスラスラ出て来ないが、挨拶やお辞儀、態度がスポーツマンらしくきびきびしていて常務から一発でOKをもらった。そうなると、人間やはり悔しいので僕も目一杯作り笑顔と開き直りのバカ声で何とか合格させてもらった。

 結局、午後からはずっとロール・プレーイングの連続で、なんとか話も多少は出来るようになった。その段階で、ようやく仕事の全体像の説明があった。僕たちがこれから取り組む仕事はグループ・セールスという販売方法で、まず訪問する地域を設定しそこに車で乗り込む。車は公民館や空き地や道路の広いところに止めておき、その車の置いてある場所を母船と呼んだ。その母船から、まずアポインターが四方に散って子供のいる家を探す。鬼ごっこではないので、子供のいる家があったらそれで終わりではなく、それが始まりだ。その家の母親に子供の年齢や学年などを聞き、その年齢に応じた教育の必要性を話し教材は何を使っているか尋ね、今回はマイティーチャーという「素晴らしい教材」を紹介している。無料で実物を見ることが出来るので一度話を聞いてくれマンモスみたいなことを言って、当然「うちは結構」「いいです」「お断りします」「またお願いします」「次でいいです」などという、さまざまな断り文句をかいくぐり、興味を持ってくれた、あるいは何とかかんとか興味付け出来た家庭にクローザーと呼ばれる、まあ、こちらがいわゆるセールスマンを連れて行くという段取り。あとはクローザーが商品説明(デモンストレーション、通称デモと呼んでいた。僕がこの仕事が嫌だったにもかかわらず、足を洗えなかったのはこの言葉に魔力があったからに違いない。若いころはデモが大好きだったんだ、なんつって書いていて悲しい)して、契約できるかどうかという流れである。

僕たちアポインターの仕事というのはゼンリンの地図のコピーを持って、1軒1軒のお宅を回り話をした結果をそこに記入する。子供のいない家はバツ印、子供がいるが断られた家はNG、アポが取れた家には学年や年齢を記入して花丸つけてクローザーの元に行き、そのお宅を案内し、お客さんにクローザーを紹介し商品説明するために上に上げてくれるようお願いする。そうそう、子供のいない家は飛ばして回れば効率がいいだろうと思うのは素人の浅はかさ。そういう大雑把なことをしていると地図に載ってない家や、家と家の後ろに隠れている家などに子供がいたりするし、もっとはっきりいうと子供のいる家だけ回ると圧倒的多数に断わられてしまい、どんなに神経の図太い人間でもめげてしまうのだ。それを紛らわすために子供のいない家で世間話をしながら地区の情報を聞いたり、子供のいる家を教えてもらったり(もちろん皆さんセールスマンは嫌いなので露骨なウソつかれたことも沢山あるけど)、たまーにではあるが、爺ちゃん・婆ちゃんがお茶でも飲んでいけなんて言ってくれることもあるのだ。あ、3流AVにあるような若奥様とセールスマンという危険な関係のブルースはでんでんない。えーと、なかったはずだ。友部正人も「なにもなかったことにしましょう」といってるではないか。いや、そんなことはないだろう、絶対何か隠しているだろうと疑う方は、個別にメールを頂きたい。実録××シリーズをお届けします、って何を書いているのだオレは。

 そうそう、ひとつ思い出したエピソード。アポを取った家の情報は大きなクリップボードにはさんだ用紙に時間帯と年齢または学年、入手した情報(使用教材や教育の決定権、マイティーチャーの認知など)を記入することになっている。さらに待機しているクローザーに「アポです。×年生です。お母さん美人です」みたいなことを言って、小学生が得意なクローザーとか幼児を良く決めるクローザーとか個性があるので、そこのリーダーがアポの割り振りをするのだが、小学生はS1とかS3などというし、中学生はT1なんていうのだが、何故か幼児は「Rの3歳」とか「Rの6歳、来年小学校です」なんて言うのだ。小中学生のSやTは頭文字だとすぐわかるがどうして幼児はRなのか、僕はずっと疑問だった。現場に出て初めて使っていた用語だったので、最初はそんなもんだと深く考えなかったが、どうにも気になって九州の先輩や上司の人に聞いたがどうもはっきりしない。昔から使っていたから、と誰も理由を知らないのだ。その疑問はのちに北関東の本社に転勤になり最初に出て来たT部さんが教えてくれた。「なんだ、お前、大学行ってたのに英語が苦手なんだな。幼児は小さいだろ。小さいことを英語でリトルって言うっぺ。そんなことも知らねえで教育産業の仕事するなんて、おめーはほんとにデレ助だな。」。

 「えーと、リトルは”Little”で頭文字は”L”なんですが」、と答えた僕に「ごちゃごちゃ言ってねーで、さっさと売りに行ってこ、このごちゃっぺ」と怒鳴られたのは言うまでもありません。

 えー、なんとか研修の最終日近くまで持ってきました。あとちょっとだ。うん、峠は越したはずだ。続く。


ワタクシと北関東(JEP)の出会い マイティーチャー理論学習、脱線編

 「プログラム学習の5原則というのは、まずスモールステップの原理だ」。常務は黒板にその言葉を大きく書いた。「これはどういうことかというと、たとえばH田君、君が階段を上るとしたらこういう階段とこういう階段はどちらが上りやすいかい?」と、質問しながら階段の踏み上げが極端に大きいものと小さいものと2つの階段の絵を描いた。「当然、右側、1段1段が小さいものです」と、H田君はあまりにも当然だと言わんばかりに答えた。「そう。こっちだよね。こちらのほうは1段1段が高いから足を上げるのも大変だ。また降りるときも急なので躓いて転んでしまう危険性もある。勉強もこれと同じで、分かっているところから1歩1歩少しずつ進めたほうが理解が早いし、万一分からなくなっても1段下がり、それでも分からなければもう1段というように、最初に分からなくなったところはどこかを確かめることもできるね」などと得意そうに常務が言うので、根がネガティブ(お、ここ意図せざるシャレになってる)な僕は「でもそれだと時間がかかりすぎるのと違います?しかも、アホはそれでもいいかもしれんけど、僕みたいなカシコはそんなんかったるくてやってられません」。賢明な皆様は当然お気づきでしょうが、当然後半部分は大きな声で心の中で叫んだ部分です。

 「そうだね、学校の授業は配当時間もあるし制約もあるからあまりこの原理にこだわるわけにはいかないが、しかし原則的にはこういう教え方をしているんだ。まあ、私たちが扱う商品は家庭学習の教材だから、当然時間を気にする必要はない。1人1人その家の子供のペースでやればいいということだ」。ふーん、そんなもんですかね、みたいな反発はあったが、まあご尤もではある。「次の原理は積極的応答の原理だ」。常務は2つ目の項目も黒板に書いていった。「さっきのシートを聞いているときに、ときどきポーンという音がしたね。あの音がしたらこの真ん中のボタンを押してシートをいったん止めるというのが、マイティーチャーの約束事だ。つまりこのチャイムの音は授業中に先生が『この問題分かる人』って聞いて児童に当てるよね。『ハイ、××君、うーんちょっと違うな。ハイ、H田君、そう、流石はH田君良く分かってるね』みたいな感じでね」。

 研修も3日目に入ると僕とH田君の性格の違いというかキャラの違いもはっきり分かってくるようで、大体おりこうさんの役はH田君、イチビリのアホダンラ役は僕と決まって来た。「ここで二人に聞きたいんだけど、授業中に先生に当てられたときはどんな気持ちがした」。「いや、やっぱりドキドキしたというか緊張しましたよね」とこちらは模範解答のH田君。「別に、それほどでもなかったっす」とこれはひねくれの僕。当然僕の発言はスルーされ「そう、みんな緊張しただろうけど、でもそういう時のことって良く覚えていないかい?」と常務。その言葉を聞いたとき、僕は生まれて初めての授業参観、つまり小学校1年生の時の授業参観の一コマを思い出した。それは算数の授業だった。

 担任の先生が立方体、つまりサイコロの大きなものを手に持って「ハイ、これは不思議なかたちをしていますね。どこから見ても「ましかく」です(小学校1年生だから正方形なんて言葉は習ってなくて「ましかく」と「ながしかく」(=長方形)と呼んでいたわけだな)。ほらこっちから見ても、こっちから見ても」といいながら先生は立方体の模型をくるくる回してどの方向から見ても正方形であることを子供たちに教えていた。僕はそれは違うとすぐに気がつき「せんせい、ちがいます」と大きな声で手を挙げながら叫んだ。のちに母から聞いたが、以前から少し突飛なところのある子供だったがいったい何を言い出すのか顔から火が出そうだったということだ。先生はそりゃ当然小学校1年生の担任を受け持つくらいのベテランだから僕が傷つかないように「××君。どうしたのかな。これはどこから見ても真四角でしょう」と微笑みながら言う。僕は「ちがいます。そういう見方じゃない。」と答えたが、先生は模型をいろいろな方向に回しながらも「ほら、こっちから見ても真四角。こっちから見ても真四角。あ、反対側から見ても…、やっぱり真四角だね」

 「そうじゃない、そうじゃないんです。真四角じゃないところがあるんです」と僕は、「それでも地球は回る」と言ったガリレオのように諦めわるく叫んだ。「うーん。そこまで言うならこちらに来て手に持って説明しなさい」と、流石のベテラン先生も僕の強情ぶりにやや気分を害したように言った。僕は我が意を得たりとばかりに教壇に進み、先生から模型を受け取った。「先生は平らなところからしか見てないから真四角になるんです。でもこうやってこの尖った方から見たら真四角じゃないです」と僕は立方体の頂点のところをみんなに向けて説明した。参観日だから子供たちの後ろには着飾った府警が、違った父兄が、いや父兄と書いたが実際は母親ばかりだが、その人たちに向かって話した。僕の予想ではここで「ホーゥ」という溜息というか歓声が上がって「凄い、流石は××君、誰も気がつかないところをよく気がついた」という賞賛というか絶賛の嵐が吹きまくるはずだった。

 しかし、どんな反応が来たか。皆さんは想像がついたでしょう。つまり、要するに、所詮オンナコドモは立体図形の考えが理解できんのじゃ!!!大爆笑されたわ!!!!僕は当時まだそんな単語は知らなかったが、知っていたらこうつぶやいていただろう。「アンビリーバブル」と。その後どうやって自分の席に着いたか記憶にない。担任の先生からなんと言われたのかも良く覚えていない。たぶん「そういう見方はしたらイケナイ」とか「そういう見方は決まりと違う」みたいなことをやんわり言われたような気もするが、全然覚えていないのだ。ここであえて断言する。この時、先生が男気を出して「うん、そうだね。そういう見方もあるね。ただ、今習っているところでは、この平らな方から見るという約束で教えているからね。君の見方は間違いじゃないけど点から見ているからちょっと角度が違うんだ」みたいな説明か「うーん、これは空間図形という考え方だけど、それは3年生で習うから心配ないよ」みたいなことを言ってくれていれば、たぶん僕はもっと素直ないい子で親のいうことや学校のいうことも良く聞いて後年ボーリョク学生などと言われることも、ましてや留年の揚句中退するようなことも無かったはずだ。

 ということは、間違いなくJEPとの出会いはなく、したがって夜に四半世紀以上も前の出来事を思い出しながらエントリーをアップすることも無かったはずだ。そうか、そうだったのか。と、話は全然別の流れに行ってしまったので、本日はここまで。次回こそマイティーチャー理論研修を終了させ、たいなぁ。

 ということで、本日の動画はステップつながりで美晴ちゃんの「ラブステップ」。いやー、越美晴好きだったなぁ~。ポスター貼ってたなぁ~。




ワタクシと北関東(JEP)の出会い マイティーチャー理論学習編

 「…しなさい」、ポーンというチャイムの音がしたかと思うと突然ガチャンという激しい音がした。ちょっと厳しい顔をした常務が僕たちをにらんでいて、まずはH田君に「H田君、今このマイティーチャーはなんていったかな」と口調は優しそうだが目は決して笑っておらずじっと彼の反応を見ていた。事務所の暖房が効きすぎていたせいか、常務のマイティーチャーの研修が始まったばかりではあるが、僕とH田君は共に夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いません、が、つい油断してゴールデン・スランバーがやってきそうだったのだ。いや、オープニングは覚えていた。常務がいかにも種も仕掛けもありませんというような手つきでシートをマイティーチャーにセットし真ん中のボタンをガチャンと押したら「このシートではなんたらかんたらすったらもんだの、…しなさい」かなんか無機質の女性の声が流れたと思ったら、ポーンとチャイムの音が、それもあんまり鋭角的な音ではなく、そう田舎の有線放送というか、あの農家の庭先にある机の上にバイブというかビブラフォンというか、あのマレットで叩くやつ、あれを叩いて緊急連絡とか農協からのお知らせなんてのを流していた時代があるのだが、知らんか?そうか、知らんか。まあいい。

 要するに、あきらかに居眠りしかけていたというかもう少し好意的に書けば、緊張感を無くしかけていた僕たちに、今このシートが言ったことは何だったか復唱してみろという指示である。H田君は、こういうところがやはり体育会系というか、爽やかスポーツマンで「すいません、聞いていませんでした」と潔い。自発的にごめんなさいしたH田君と違って、こちとら諦めの悪さは天下一品、あ、オレはチャーシューの大ね、ネギ大目、ニンニクも入れてや、ってそりゃ京都の名物ラーメンだっちゅうの。そうじゃなくて、往生際が悪い僕は、「あ、僕は聞いてました。はい。確か『このシートではかっこを使った式の勉強をします』、うん、そうです、間違いなくそう言いました」と必死で頭の中に残っていた音声を再現して答えたが、そのあとに何か言ったような気もしていた。僕たちをにらんでいた常務はいきなり破顔一笑という感じで、にっこり笑い「はい、これが学校の授業だったらどうだ?先生が何か言いました。でもぼんやりしていたH田君と××君は聞きもらしてしまいました。実は、その聞きもらしたところがその日の一番大事なところだったらどうする?」



 今度は柔らかな感じで質問してきた、こういう風に大声で怒った後急に優しくして心理的に不安定な状態にさせておいて、都合のいいことだけ信じさせようというのは典型的な洗脳というか、学生時代にコノヤロと石を投げつけてやった十一教会(あ、マジで十一で検索しないでね、ほら合同結婚式のあそこだよ)とか、こっちは本当だかどうだか知らんが、草加せんべいみたいな宗教団体なんかが良く使う手なので、僕は眉に唾をつけながら聞いていたが、先ほど居眠りを指摘されたH田君は名誉挽回とばかりに「いや、それは勉強が分からなくなる原因だと思います。ちゃんと聞きなおしをしないといけないと思います」などとマジでレスしたもんだから、常務の機嫌ますます良くなり、「そう、それが大事なんだけど、どうだい、実際、小学校だと1クラス40人近くの児童がいるが(何度もエクスキューズが入って読みにくいかもしれませんが、当時は1クラス40人前後というのが標準的な小学校だったかな。確か44人になると2クラスに分けることが出来たと思うが、このあたりはguevara129さんあたりに聞いてみないと、もしかしたら違っているかもしれん)、その中で一人だけ手をあげて質問できるかい?」と今度は僕に同意を求めてきた。

 「あ、僕、いや私は手を上げましたね。そういう時は、はは、昔からイチビリだったんですわ。手を上げて注目されるのが快感みたいなところもあって…」と答えた僕をスルーして常務は話を続けた。「まあ××君みたいなのは、確かに1クラスに1人くらいいるけど、そういうのは特殊であって、たいていの子供たちは、やはり手を上げたら笑われるんじゃないかとか、先生から怒られるんじゃないかと心配になって手は上げられないもんだ。学校でそうやって聞きもらしたところはそのままでいいかな、H田君」と常務はひねくれモノの僕を見捨てて、素直に返事をするH田君に質問した。「いや、家で復習しないと、落ちこぼれちゃいますよね」などと、当時流行した落ちこぼれなんて単語を入れながら真面目に答えるH田君であった。

 「そう、H田君はいいことを言ったね。家で復習するのは大事だ。学校で聞きもらしたところ、または分からなかったところ、さらには間違えて覚えたところを補うのが家庭学習だ。その家庭学習のやり方はいろいろなものがある」とここで常務はいわゆる家庭学習の必要性とその方法について解説した。細かく書いてもしょうがないので、簡単に書くと問題集やプリント類は授業で習ったことを正しく覚えているかどうかを確認するにはいい方法だが、もし覚えていなければ当然問題も解けないし、興味も持てない、投げ出してしまうのも当たり前だ。学校で分からないところを補うといっても、家庭には先生はいないから母親が先生代わりにならざるを得ない。しかし、母親は料理や掃除、洗濯はプロだが勉強を教えるプロではない(このあたり、若干女性蔑視的な考えというか「わたし作る人」「ぼく食べる人」的なベサツ意識があるのではないか、本来、女性のみが家庭を守るべき、子供を育てるべきだというのは間違っているのではないか、などと当時のワタクシは考えて質問しようと思ったが、まあ黙っていた。

 「さらに、お母さんたちが小学校の頃と今の小学校の授業は同じだと思うかね、××君」と今度は突っ込みようのない質問をしてきた。「いや、変わってるはずです。確か、つくば中教審路線が、いや、その、僕たちは旧課程でしたが2年下の後輩は新課程で、僕たちが習った等差級数なんか習わなかったなんていってましたから。あ、逆に僕たちは命題とか証明は教科書に出てなくて、数学の教師が手作りのプリントで、逆は必ずしも真ならずなんて…」「あー、もういい。聞かれたことだけ答えるように」と常務はこれからがオイラの本領発揮、あることないこといって煙に巻いて結局問題点はなんだったんだという詭弁テクニックをしっかり封じ込んだ。流石は研修の講師を任されるだけある、って当たり前だのクラッカーだが。

 「今、××君がちょっと言ったように教科書は10年に1回大きく変わります。細かく言うと1/4改定というのもあるけど、これはもう少し先で勉強すればいい。今の段階では10年に1回の大改定で教科書の中身ががらりと変わり、お母さんたちが習ったやり方と全く違うやり方で子供たちは勉強するんだ。だから昔算数や数学が得意だったというお母さんたちも学校の先生の教え方とは違った教え方をしてしまってかえって子供たちを迷わせることになる場合が多いんだ」と説明した常務は、例として「右」という漢字と「左」という漢字の書き順が違うとか、足し算の繰上りの考え方が違うとか具体例を入れて教えてくれた。そのあと教師用指導書を持ってきて、そこで今の算数・国語の教え方の違いなどを詳しく教えてくれた。

 「で、学校の授業で習ったことを全部覚えていればいいけど、それは無理だし、子供の集中力にも限界がある。そこで、家庭学習が必要になり、ただその家庭学習も分かるところだけやっても意味が無くて、分からないところを分かるようにしかもお母さんがヒステリーを出しながら教えるのではなく子供たちのペースで分かり易く学べるのがこのマイティーチャーなんだ」と話はやはり自社の商品に戻って行った。「つまり最初に君たちに質問したこと。このシートが何と言ったかという質問は学校の先生の授業だとすれば、君たちは聞きもらしをしてしまったわけだ。さあ、聞きもらしをしたらどうすればいい」と常務が聞いてきた。思わず僕は「聞きなおせばいい」と反射的に答えてしまった。

 にっこり笑った常務は「そう、聞きなおせばいいんだ」と言いながら、マイティーチャーのボタンの一つを押し続けた。また再生が始まった。『このシートではかっこを使った式の計算をします。(1)の問題を読みなさい』、もう一度ポーンとチャイムの音がして、またもや常務がガチャンと音を立てて機械を止めた。「ほら、聞きなおしができただろう。こういう風に聞きもらしたところが何度でも聞き返せるんだ。しかもこのマイティーチャーは決して叱らない。手を挙げて叩いたりもしない」などと当たり前だのクラッカーみたいなことを言う。「いや、それは当たり前…」と言いかけると、「何が当たり前だ?君はマイティーチャーをテープレコーダーなんかと同じように考えているだろう」「違うんですか」ちょっとキレ気味に僕は答えた。

 「違う、ちがう。マイティーチャーはプログラム学習の5原則に基づいて作られた視聴覚機器なんだよ。単なるティーチングマシンではない。」重々しそうに常務は言った。「プログラム学習の5原則、ですか」「そうだ、スキナー教授という心理学者は知ってるだろう」「え、いや、その心理学は般教で落としてしまって、いやその、教育学部ではなかったので」「なんだ、知らないのか、だったら黙って話を聞きなさい」

 というところで今日は終わり。さあ、プログラム学習の5原則などと、ちょっと硬い言葉も出て来ました。これからどうなるのだ、僕。

閑話休題

コーセーネンキン会館

この間ずっと、我が青春のJEP物語ばかりで書いてる僕も疲れてしまった。今日はパーティーアトザ中島(by F田敏雄)ではないが、浮世の義理でこういう場所に来ている。別に不満はないが…。







きれいどころがいない。おねいさんがいない。今夜も愛を探しにイカネバの娘である。

ワタクシと北関東(JEP)の出会い いよいよ登場マイティーチャー編

 で、胸につのる思いどころか胸に湧くどす黒い疑惑を口先三寸のセールスマンの言葉に見事丸め込まれた僕たちは、って、この段階では先輩社員方がまさかセールスマンだとは夢にも思っておらず、とにかく明日の夜は研修の打ち上げも兼ねて飲みに行こうとHM田課長に誘われ、勤務時間に対する疑問や仕事はいったい何をするのかという疑問を持ち越したまま3日目の朝を迎えた。掃除の時間や朝礼、朝のミーティングは前回と同じなので今回は省略。そしていよいよ研修3日目、座学最終日がやって来た。黒板を前にした常務は改まった口調で「今まで二人から質問されていた仕事の内容ですが、これから説明します。二人は企画部門を希望していることは重々わかっていますが、面接で話したようにまずは営業を経験してもらいます。わが社の男性社員は全員1度は営業を経験して、そこから企画、経理、指導部その他の部署に移るという決まりがあります。」

 などと、今考えると、なーにが「二人は企画部門を希望」だ、この野郎。最初から企画部門に行かせるつもりなんか無かったんだろうが、もっとはっきり言うと82年当時、企画部門ってのはS藤課長(後年、改革の議長になった人、議長当時は顎鬚が渋かった)とH山主任(顔ははっきり覚えているのだが名前が出て来なくて、N山としていたが、違う違う、とっちゃん坊やみたいな顔したH山主任、のちに係長だったな)の二人しかいない部門で、しかもそれは水戸にしか部署が無かったやないけ、などという泣きは言いません。だって大人だもの。大人の会社には大人の事情があるんだもん、それを我が侭で自分の行きたい部署にって勝手やってたら組織って駄目になっちゃうもん、などと妙に女々しい口調になったが、これは今だから言えることであって、当然まだ20代半ばだった頃のヤングdrac-obはコーマンの怒りでもって、あ、違った、満腔の怒りでもって糾弾したかった。今更言っても詮無いことだが。

 それはさておき、いよいよ自分たちの仕事内容に入るということで僕たち二人はかなり真剣なまなざしで常務を見つめていたのだが、彼はすっと身を引いて事務所の奥の倉庫みたいなところに行き何やら持って黒板の前に来た。手に持っていたものをマグネットで(あ、マグネットだ、マグネット、いや前回「ボッチ」などと書いて「ロボタンの登場人物ではない」とエクスキューズ書いたのに誰も何も言ってくれなくて悲しい思いをしていた、あのホワイトボードなんかに紙を挟んだり、何かの目印に磁石の力でぺったんことくっつく大きさは3センチとか5センチとか大きいのは10センチくらいの直径の表面プラスティックで後ろの磁石ついてるやつ)、何やら黒板に張り付けた。問題集の1ページみたいなもので、上の題名のところに「かっこを使った式の計算」などと書いてあって、その下になにやら式だとか答えとか書くようになっていた。

 「君たちが販売するのはこれだ。カメラやコピーのメーカーでリ■ーという会社があるが、そのグループ会社のリ■ー教育機器が製造しているマイティーチャーだ」。聞いた瞬間めまいがしたというか、意味が良く分からなかった。リ■ーのマイティーチャーというのは知っている。昔、少年サンデーとかマガジンの裏ページに広告が出ていたり、ちょこっとだけテレビコマーシャルを流していた時期があり、女性の声で♪リ■ー・マイティーチャー~というメロディは覚えている。しかしあれはたしか昭和40年代の代物ではなかったか。まだ、そういうものがあったのか。という素朴な驚きだ。隣のH田君も目を白黒させている。常務は何だか知らないがエンジンがかかったというか、それから怒涛のごとくこの商品についての説明が始まった。「まず、この紙のことをシートというんだ。ほら手に取って見てごらん。表は普通の問題集見ただろう。でも上に2か所、下に1か所小さな穴が開いている。裏返してみると茶色だろう。さあ、これをいったいどうすると思う」

 などと常務は盛り上げようとするのだが、僕は裏の茶色い部分を見て『ああ。テープというかそういう感じの音声教材なんだろうな』と見当はつけていた。「なんと、この紙は魔法の紙でね、この紙から先生の声がでてくるんだ。そして子供たちひとりひとりに分かり易く勉強を教えてくれる。まるで家庭教師が家にいるみたいだろう。だからマイティーチャーというんだ」。僕はそんなん、家に来るから家庭教師やんけ、外におったら外部講師と違うんかいという突っ込みをしたかったがこらえて話の続きをきいた。「もちろん、紙から声が出るといっても、この紙を眺めているだけでは何も起こらないのは分かるだろう。だからこの紙をセットするものが必要なんだ」と言って、毎日先輩社員が会社から出るときに持っていく茶色いバッグのジッパーを開き、その中からなにやらひとかかえある物体を出してきた。「これがマイティーチャーの本体だ」といいながら机に置いたのは、見るからに不恰好で重たそうな白い機械だった。「なんだ、機械か」と僕とH田君は思わず声に出して言った途端、「機械、なんていうな、女の人は機械が苦手なんだ。お母さん方の中には機械アレルギーの人だっているんだ」と突然怒鳴る。僕は何故いきなり女の人とかお母さん方などという言葉が出るのか質問した(というか、ある意味物凄い女性蔑視というか、問題発言だな、今思うと。むろん本人にはそういう気持ちはさらさらないんだろうけど)。

これはE-200タイプ

 「何故か、だって?君は小学生の勉強は誰が見るか知らないのか。」と小馬鹿にしたような口調で常務が言うので、ちょっとムキになり「そりゃ、母親でしょうけど」と答えた瞬間謎が解けた。そうか、俺たちの仕事は母親にこのマイティーチャーという機械を売ることなんじゃないか。でも、そんなことは今まで一言も言ってなかっただろう。学校に視聴覚機器を導入している仕事をしているチームもいる、みたいな話は聞いたけど、などともう心は乱れ、頭は混乱の極みであった。「で、結局、これを売る、いわゆるセールスマンが僕たちの仕事なんですか?」と恐る恐る僕が尋ねたら、常務はまたもや意外なことを言い出した。

 「セールスマン?何だい、セールスマンって」「いや、こういうバッタもんを、いやちごた、こういう教材は世間的にはセールスマンが口先で丸め込んで売るというイメージがありますが」ともうこの際開き直った僕は鋭く突っ込んだ。「君たちが想像していることは分かるよ。この器具(そういえば絶対機械って言わなかったな、当時の常務は)をぶら下げてあちこちの家に押しかけて売りつけるというイメージだろう」「違うんですか」「はっはっはっは、まったく違うね。君たちはアポインターになるんだよ。アポインターの仕事をまず覚えてそれをマスターしたらアポクロになって最終的にはクローザーになるんだ」「あぽいんたー?あぽくろ?くろーざー?」と僕とH田君ははいからパクチーのように一緒に声を出した。そうえいえば朝先輩方が現場に出る直前にHM田課長が「H田くぅん~、しっかり研修受けるようにね。今日帰ったら飲みに連れていくけどその前に決め手七則を覚えたかどうか質問するからね」というなんだかわけのわからないことを言ったっけ。そのときにH田君が常務に「決め手七則って何ですか」と質問したら、「あれはクローザーの、あ、いや、気にしなくていい。今日、ちゃんと教えるから」とあいまいにしたことがあった。あのときにすでに布石は打たれていたのか…。しかし、聞きなれないアポインターとかクローザーとか一体なんだろうという疑問をはらみつつ今日のお話はここまで。続く。



ワタクシと北関東(JEP)の出会い 研修2日目が終わり、そして編

 というわけで、話が少し先に行ったが実はまだ研修2日目の午前中だったことを思い出した。そう、2日目の午前中に「挨拶」の話が出て、そこからN沢社長の宮崎支社屋上の権力闘争(おい、いつの間にか名前が変わってるぞ)の話になり、まあせっかくだからもうちょっとN沢社長の人となりを書いておこうということで昨日のエントリーになったわけだ。しかし、その研修2日目にどういう話があったか、正直大分忘れている。それでも断片的というか多少記憶が前後しているかもしれないが覚えているエピソードはこういうものがあった。

常務が「ある日本人がニューヨークのレストランでライスを注文したら嫌な顔をされた。なーんでか?」などとおちゃらけた言い方ではなかったが、まあ休憩を兼ねて問題を出したのだ。僕は、たぶん”a rice”とかなんとか言ってしまって通じなかった、こういう時は”a cup of”とか”a dish of”とかつけるんだみたいな、英作文ミニテストみたいなことかと思ったら、どうやらその日本人は「ギブミーライス」と言ったために”Give me lice”と受け止められて、相手に嫌な顔をされたんだって(要するに”rice”=“お米”ではなく”lice”=”シラミ(複数形)”となっていたからという落ち)。日本人はアールの発音が苦手なので、「ライス」と発音するのではなく、気持ち「ぅ」という音声を入れて「ゥライス」と発音すると通じる、何しろ私(でたー、社会人は自分のことを「私」というのだぞ、と厳しく教え込まれたなぁ)は、コンテストの表彰式で何度も海外に行ったから、と最後は何だか良く分からない自慢話をされたり。

 あ、あともう一つ覚えているのは漢数字の書きかた。「H田君、黒板の前に行って1から10までの数字を書きなさい」などという指示が大真面目で出て、意味が良く分からないままH田君は黒板の前に行き、チョークを取って1から10まで順番に数字を書いた。「じゃ、その数字の下に漢字で1から10まで書いて」と、なんだ、こっちが本命の質問だったのかと焦りながらH田君は書いたが、どうも自信は無さげだった。「ハイ、××君(オレのことね)、笑ってないで今度は君が書きなさい」と指示されて、正直な話「壱」は書けたが、「弐」が出て来ない。確か「武士」の「武」に似ていたはずだが、と思い出そうとするが出て来ない。そうするうちに「三」は「参」では無かったか、いや「四」は「支」では無かったかともう頭は混乱して収拾がつかず、黒板の前で立ち往生していると、常務から「大学まで行って何習ってきたんだ、こんなもの小学生でも書けるぞ」などと嫌味を言われる。

 その瞬間カチンときて、『てやんでー、こちとらまともに出た授業なんか数えるくらいじゃ、ボケェ、試験フンサイのストはバンバンやったけどよ』、などと言ってしまえば採用取り消し間違いなしなので、ぐっとこらえて「小学生は漢数字は書けないと思いますが」と力なくカウンターを返すしかなかった。こちらのカウンターを余裕でダッキングした常務は「じゃ、いいよ。次は100、1000、10000という漢字をそこに書いて」と言うので、今度は自信たっぷりに「百」と書き、「千」は確か左側にコザト遍が付いたはず、「萬」は間違うわけがない、麻雀でマンズには全部これがついていた、と今度は何とか書くことが出来てメンツが保てた。しかし一体全体これは何の研修だろうと怪訝な顔をしていたら、「君たちもこれから仕事でお客さんに領収書を書くことがある。領収書にはアラビア数字と漢数字の両方を書かないといけないことくらいは知ってるだろう(何、知らない、これだから最近の学生は、というような表情をしたことをワタクシは見逃さなかった)。その漢数字の練習だ。じゃ今から正しい書き方を教えるから今日中に必ず覚えてるように」なんて言われたな。いや、もちろん今時の領収書はアラビア数字だけで十分だけど、まだ昭和のその頃は漢数字で記入して確認するなんて商慣習は残っていたと思う。

 まあ、そういうエピソードみたいなものだけではなく当然本格的な講義というか授業もあった。そう、研修2日目の午前中だというのに、僕とH田君はいまだにどんな仕事をするか教えてもらっていなかったのだ。そのことを尋ねると「教育の仕事だよ。教育産業の仕事」などとあいまいなことを言うのだが、2日目の午後になってついに「教育理論」をやると言い出した。そこで最初に聞かれたのは「どうして教育は必要か」という、こりゃまた哲学的というか、答えに困るような大雑把な質問だった。どういう答えを出したらいいか、もう考えるのも面倒だったので「読み書き計算が出来ないと生活できない」とか「人が生きていく最低限度の知識であり、手段だと思います」みたいなことを二人で交互に応えていたら、「うーん、正解は正解だけどな、もうちょっと絞って、そうだね、今の日本という国で考えたらどうだ」などと、これまた雲をつかむようなことを言う。

 もういい加減疲れたから、「武士ゲバルト権力の最終形態であった江戸幕府の鎖国政策以降、海外との交流が無かった後発帝国主義国家である日本が、先進帝国主義に追いつき追い越すために『富国強兵・殖産興業』のスローガンのもと、下級武士と公家によるクーデターである明治維新を貫徹し、自らの国力を確保増強するために、軍事力を確保するために読み書きの徹底、正確な情報伝達の手段として教育を位置づけ、ええと要するにブルジョワ教育フンサイ、ツクバチューキョーシン路線断固粉砕、闘争貫徹」みたいなめちゃくちゃ言うたろかと思ったが、僕の座右の銘である「ならぬ堪忍するが堪忍」という言葉を思い出して、ぐっとこらえて耐えていた午後1時45分という情景があった。いや、はっきりはもう覚えていないのだが、先ほど書いたようなこともあながち間違いではなく「義務教育と徴兵制」の話などもあったし、まあまとめると資源の無い我が国では加工貿易で経済を成り立たせていたが、今ではモノを加工して輸出するだけではなく技術そのものを加工して輸出していくことが、世界経済の中で成長を続けていくために必要であり、そういう技術を世界の競争からぬきんでて勝ち取るためにもより質の高い教育が必要である、みたいな話だったかな。そういえば、その少し前だと思うがソニーの井深大氏が『幼稚園では遅すぎる』なんていうベストセラーを書いて、幼児教育の必要性を訴えたりしていた、まあそういう時代だったのだ。

 そういうわけで、とりあえず僕もH田君も教育産業の会社に就職したわけだし、これから自分たちが働く教育産業についての研修、訓話はさすがに真面目に聞いていたのだが、それでも実際に何をどうする仕事なのか良く分からない。そのことを常務に質問すると、「焦らない、あせらない、ひとやすみ、一休み」とまるテレビの一休さんみたいなことを言って、インスタントコーヒーを勧めるのであった。結局、2日目の研修も学校教育の必要性とか指導要領の改訂だとか、まあそういう包括的な話だけで終わり、夕方にはまた3人で薩摩料理のお店に行き、今更何を言われても気にしないぞという態度でビールを飲んで飯を食って、さすがに2日目は先輩たちが返ってくるまで寮で待っていようとH田君と話し合った。

 その日も何時になっても誰も帰ってこなかった。10時過ぎには二人とも風呂にも入り、その日の研修で習ったことが翌日テストされると言われていたので、ノートや参考資料なんかを眺めていたのだが、あ、そうそう僕たちの部屋ではなかったがHM田課長と経理のH高さん(もちろん男性)の部屋にはテレビがあり、夜見ても構わないと言われていたので、11PMなんか見ながら「遅いなぁ。まさかこんな時間まで仕事してるとか」などと、気にはなっていたのだが、それを言ったらおしまいじゃないか、でもどうしても口に出して言いたかったという決定的なフレーズがH田君の口からでて、それを聞いた僕は「まさか、だって面接のときに就業時間は9時から18時、ただ営業だから多少遅くなることはある、と言ってたけど」「でも××君、昨日、今日の研修聞いてて何だかおかしいと思わんか。いったい何の仕事をするのかいまだに教えてくれないし、黒板に赤い丸い磁石でくっつくやつ(正式名称はいまだに知らないのだが、僕たちはその物体を『ボッチ』と呼んでいた。残念ながらロボタンの登場人物の名前ではない)が何個か貼り付けてあったけど、あれも何か意味があるはずだよね」「うん、HM田課長のところに2個、O山主任のところに1個ついてたよね。明日常務に聞いてみようか、ていうか今日、先輩たちが帰ってきたらちゃんと聞こうや、勤務時間とか仕事の内容とか」

 というような会話をしていたが深夜零時を過ぎても誰も帰ってこない。もう二人とも眠くて仕方がないのだが、どうしても先輩たちに会って話を聞きたい、いったいどうなってるんだという疑惑の心で起きて待っていた。ボーンと時計の音がした。「あ。1時」と思った瞬間玄関のドアが開き、大きな声で話声がした。「お疲れ様です」、こういうときは元体育会系だったH田君が素早い。帰ってきた先輩の前に座り頭を下げて挨拶だ。僕も右へ倣えである。「どーしたの、君たちは。こんな遅くまで。あしたも研修でしょう、寝た寝た」とHM田課長。「すいません、先輩たちに伺いたいことがあって待っていました。質問よろしいでしょうか」とやはり体育会系は上下関係を重んじた発言をする。「なに、どうしたの」「はい、昨日もお帰りが遅かったんですが毎日こんなに遅いんでしょうか、あんまり遅いと心配です」「あ、いや、ほら私たちはみんな話し好きなんだよ。いや、会社にはもっと早く10時、いや9時過ぎには帰ってきてたんだけど、これからの会社をどうしようかとか話しているうちに遅くなったんだよ。あ、そうそう、二人ともお酒が強いんだって、明日、一緒に飲みに行こう。うん、明日は9時過ぎには帰ってくるから」

 という会話があったのは間違いない。しかし、どう考えてもHM田課長の答えはおかしかった。いかに話好きであっても仕事が終わってから4時間も話し続けることができるんだろうか。お酒を飲みながらではないのである。営業して帰ってきて、そのまま事務所で4時間?正直信じられなかったが、まだこの段階ではそういうことも世の中では、堅気の会社では、シホン主義の会社ではあるんだろうな、という気持であった。これがトンデモナイ大噓であることは翌日バレルのであるが、とりあえず今日はここまで。明日はいよいよ幻のリ■ー・マイ・ティーチャーが登場する、かも。



ワタクシと北関東(JEP)の出会い どてらい立身出世編

 歳月人を待たず、とは昔の人はいいことをいったもんだ。あれこれしているうちに、もう4月、新年度がスタートしたわけですが僕は依然として北関東に出会うことが出来ず迷路の中にいます。だいたい前回、といってもこの前アップしたのが3月の24日とかれこれ10日近く前なので拙blogをお読みいただいている皆様方はストーリーの続きがお分かり頂けるかどうかはなはだ心もとないのだが、まあかまわない。前回はどてらいN沢社長のエピソードをちらりと書いたが、話の行きがかり上もう少しこのN沢社長のことを書いていきたい。前回登場した時はまだ部長だったが、僕が入社した時は勿論社長であり会社案内の最初の見開きのページに満面笑みをたたえた写真があったっけ。しかしながらワタクシが入社した82年当時の会社案内は白黒で、そこに乗っていたN沢社長の顔写真も当然白黒で、果たして写真映りのせいなのか、それとも掲載された写真がずいぶん古かったせいか、そこで笑みをたたえているN沢社長は髪は真っ黒で、見た感じは30代後半くらいにしか見えなかった。今思えばそれが不幸な出会いのアプリオリであった。

 話は一気に飛んで、僕たちの研修が終わり、現場に配属になった頃だから82年の2月の後半あたりだったか、あ、そうだ、オレ、最初研修は鹿児島で1週間だけと言われて、当然着替えやその他もろもろの荷物などは1週間分しか持ってきてなかったのに座学の研修3日間が終わるやいなや現場に出され、それでもなんとか週末を迎え来週からは自宅から通える、ようやくプライバシーというかプライベートな時間が持てる、イェイ、なんて喜んでおったら、鹿児島の支店長というかまあ、九州の支社長なのだがHM田課長が「あ、××君もせっかくH田君といっしょに研修を受けて仲も良くなったことだから、今月いっぱいは鹿児島で仕事したらどう、うん、それがいいわ、そうしよう」とこちらの意見は一切言わせず、無理やり予定組みされたので、ここはひとつしっかり抗弁しておかないとこのままズルズルベッタリで押し込まれたらあかんと本能的に判断し「あ、すいません、お言葉ですが両親にも1週間の研修と言ってきていますし、第一着替えなどもありません。お金も1週間分しかないので、この週末は宮崎に帰していただかないと」と話しながら、あれ、ヤバい、こういう話し方だと「じゃ、週末宮崎に戻ってご両親に事情を話し、着替えやお金を、あ、お金はいいよ、会社で仮払い出すから、心配しなくてもいい。××君は免許持ってないんだよね。だったら往復の電車代もいるでしょう。それも会社で立て替えるから」と言われたらどうするのだ、と慌てていたら、大体想像していた通りのことを言われて週末、つまり土曜の夕方現場から西鹿児島駅に送ってもらい電車で宮崎に戻り、着替えなどを準備してまたもや灰の降る鹿児島に戻ったのだった。

 で、泣く泣く鹿児島でグループセールスの仕事をしていたのだが、普段からジーンズにスニーカーという生活をずっとしていたため(要するに大学6年間)、革靴になじめない僕は膝を痛めてしまい、2月の終わりの頃は足を引きずって歩く、ええと差別だなんだと言われるとあれだが、要するにビッ■を引いていたのだ。■の中に入る単語は残念ながら「チ」ではないって当たり前だのクラッカーである。えーと、回りくどい話だが、要するにある雨の午前中に僕たちは確か記憶では伊敷町の団地のあたりだったと思うのだが、そこをテリトリーとして営業活動をしていた。その日、K波多さんという関西出身の面倒見のいい先輩が私用のため遅れて現場に合流するという話を朝のミーティングの時に聞いていた僕は、雨に煙る道を1台の黄色い軽自動車が走ってくるのを見て、「お、あれはK波多さんに違いない。気がつかないといけないので合図を送ろう」と思って、持っていた傘を思い切り上下左右に振っていたら、こちらを認識したようでその軽はスーッと僕の前に停まった。

 ドアが開いて、覗き込むと見たことのない中年のオッサンがにこにこしながら僕の方を見て「君が××君か、足は大丈夫か?まあ乗れよ、車に」と馴れ馴れしく話しかけてくる。まだ入社してそれほど日が経っていなかったが、こういう人は見かけたことがない。大体、当時の鹿児島の社員は支社長のHM田さんが26歳、最年長のO山主任が27歳、あとは全部20代半ばから前半くらいの人ばかりだったので、研修を受け持った常務以外、オッサンみたいな人はいなかった。しかしながら会社の営業車(汚い軽のポンコツだけど)に乗って現場に来るし、僕の名前や足を痛めいていること、出身が宮崎だということなども良く知っていて「どうだい、この仕事は。大変だろうが、今は理屈抜きで思いっきり汗をかいて覚えればいいから。焦らなくても大丈夫だぞ」などと話しかけてくるので、ハイ、ハイと返事はしていたけれど、いったいこのオッサン何者やという気持ちに勝てず、つい言ってしまった言葉が「あのー、大変失礼ですがどちら様でしょうか」。

 運転していたオッサンは腹から大声を出して笑いだして、その笑い声はしばらく止まらなかった。そしておもむろに僕の方を向いてこういった。「社長だ」。

 やってもうた、もうアウトや、お前の体はフェイドアウトや、消え入り果てていくんや、と頭の中で町蔵の歌声と演奏がガンガン響き渡るが、しかし、なにくそ、就職氷河期を、いや単にオレが留年して自ら作り出した氷河期ではあるのだが、そこを突破して2時間以上の面接もクリアして、脳みそ腐りまくりそうな研修も我慢して(エントリーではまだ2日目の途中までしか書いてないが)、ようやく入れたこの会社、こんなことで首になっては申し開きが効かんと、もう心の中は半泣き状態で「失礼しました。申し訳ありません。お顔は会社案内で拝見しただけだったので、分からなくて、というか、あの写真は髪が真っ黒で、いや、そのイメージも別人28号で、ビルの町にガオー、夜のハイウェイにガオーで」ともう言い訳にもならないことを言ってるうちに車は全員が集まっている場所に着いて、「おお、みんな揃ってるな。ちょっとコーヒーでも飲もう」と社長の鶴の一声で全員喫茶店に集合して30分ほど雑談をした。僕はもう生きている心地がせず、『おまえもういいから』、かなんか言われて首、というか、万一そんなことを言ってきたら不当解雇糾弾、我々は戦うぞと一発、いや、あかん、あかん、折角堅気を装って会社入れたのに、そんなこと言うてあいつはちょっとアブナイ奴と違うかなどと痛くもない腹を探られるのは、いやこの場合明らかに痛い腹を探られるというか身から埃はぼろぼろ出るから、ってオレは何を考えているのだ状態で全くコーヒーを味わうどころではなかった。

 結局、セイガクあがりのアホ社員が社長の顔も知らんと仕事しとったんか、ということをその日の夜HM田課長にねちねちと説教があったのは言うまでもない。しかし、「オレもずっと社長をやって来たが、今日ほど情けない思いをしたことはない。社員から『あんた誰ですか』と言われたのと同じだぞ、HM田ぁ!!!!お前は何を教育してるんだ、そんなことだから九州は売り上げも上がらない。ボーナスも自分たちで稼げないから関東から金を送らないと経営がなりたたん、そんな会社があるか!!!!」みたいな話が間違いなく2時間はあったと思うね。このWho are you?事件の顛末はHM田課長が仙台の支社長として異動になるときに初めて聞かされて、大変申し訳なく思ったっけ。ま、アフターマスじゃねーや。アフターフェスつまり後の祭りってもんですな。

 とまあ、僕とN沢社長はこうして無事出会うことが出来たのだが、折角なのでこの人のお話をあと少し書いておく。N沢社長の出身は信州の山の中である。JEPが羽振りの良かった頃はお盆休みや正月休みの時に営業成績の良かった拠点のマネージャーや、いわゆるトップ・セールスの人はN沢社長の自宅に呼ばれて、そりゃもう物凄い酒池肉林というか、まあゴーセーな接待を受けたらしい。もちろん単なる中間管理職だった僕などお呼びがかかるわけもなく、まあ直接招かれた人から聞いた話では、確かに信州の物凄い山の中だが家は旧家みたいで、真田の六文銭の旗や刀、ようするに真田家のゆかりの家だと。このあたりは僕は聞いた話なのでなんとも言えないけど、真田は真田でも幸村一派はほとんど壊滅状態だったはずだから、兄貴の方の一派なんだろうか、などと考えても良く分からない。まあ、そういう家の出身だということ。

 それで、高校を卒業した後、縫製というかスーツの仕立てみたいな仕事に就きたくて東京に出て来たそうだ。で、このあたりはちょっと記憶が定かではないのだが、銀座の赤鬼とか青鬼だったか、まあそういう通り名で呼ばれる腕のいい仕立職人がいて、そこに弟子入りしたのだがその鬼は茨城出身で口が出る前に手が出るというか、何一つ弟子には教えず嫌がらせみたいなことばかりされたらしい。で、ちょっとでも泣きを入れそうになると「こでができねならぐにさけぇれ」(これが出来ないなら田舎に帰れ、みたいなことを茨城訛りで言ったと思ってください)、などと言われ夜みんなが寝静まったときに悔し涙を流しながら「絶対茨城の人間と仕事なんかするもんか」と誓っていたらしい。もっともこの手のどてらい話に付きものの、最初は冷たく突き放すけどそれは愛情の裏返し、お前に伸びてほしいからだよ、てな、まあ今でいうツンデレってやつだったらしく、その赤か青の鬼のところを辞めて、自分で商売を始めようとしたら、普段ろくすっぽ話をしない師匠が何やら紙に書いた書付をくれたらしく、それを見ると「熱、誠意、努力」と書いてあり、人間どんなに落ちぶれてもこの3つがあれば必ず道は拓けると教わり、以来その言葉はN沢社長の座右の銘となり、おかげでJEPの社訓として毎朝唱和させられる羽目になった。

 仕立ての仕事というか、たぶんに衣料関係、今でいうアパレル関係の仕事がN沢社長の最初の仕事だったらしいが、そこを独立したのが20代後半で、何故かこの人雀荘のマスターになるのだ。このあたりが良く分からないのだが、とにかく自分で商売がしたい、アパレル関係でため込んだ小金を使って、安い物件を手に入れてそこで雀荘を開いてマスター、マスターと呼ばれていい気になっていた(これはご本人から間違いなく聞いたな)らしい。その雀荘を30前までやっていたが、ある日徹マンが終わったテーブルに投げ銭の様にゲーム代が置いてあるのを見て、このままじゃいかん、このままでは自分はろくなものにはならんと思い、すっぱり雀荘経営を辞めた。

 辞めたものの、遊んで暮らせる身ではないので何か働かないといけない。それもこれまで雀荘などというバクチのあぶく銭をかすり取るような仕事をしていたので、精神がなまってしまっている。ここは自分を追い込んで厳しい仕事をしようとやり始めたのが車の配送の仕事。当時、新車を納入するには製造工場で出来た車(シートがまだ設置されておらず、ブリキの缶を座席替わりにしていた、というが本当なのか分かりません)を、指定された時間に届けるという陸運の仕事があったらしい。それも乗用車ではなく2トントラックとかその手の工事関係の車を雪が積もった山を越えて横浜から山梨までとか、まあ何だか良く分からないがその手の仕事をしていたらしい。当時の車だから当然クラッチだし、座席はブリキ缶だし、外は雪景色でタイヤがスリップする中、涙を流しながら走ったらしい。この話はたぶん僕が在籍していた13年間の間で、年に最低3回は聞かされたので約40回ほど聞いた。その話を聞くたびに、なんでそんな涙流すような仕事をしなければならないのかちっとも分からず、とはいうものの、そんな態度はおくびにも出さずうーん、と頷いたふりを良くしていました、ハイ。

 で、その運送の仕事をしたあと、しばらくぶらぶらしていたがある日新聞に求人募集が出ていて教育の仕事というフレーズにひかれて訪れたのが水戸の市役所の隣にあった茨城教育機器株式会社、つまりイバキョウ。要するにのちのJEPである。そしてその何年かのちに宮崎の屋上でのバトルがあり、見事N沢さんは会社の最高権力を奪取するのであった。ちょっと駆け足で、昔のノートも見ずに記憶頼りで書いたので多少事実誤認のところがあるかもしれませんが、まあこういうどてらい話があったんですわ。で、雀百まで踊り忘れずという言葉があるようにN沢社長、最初のファッション関係の仕事をどうしてもやりたくてもともとは教育産業の会社なのにカタログ通販の仕事なんかやるんですな。まあ、目標がシアーズ・ローバックだったというのもあるんだろうけど。さて、次回こそは研修2日目の続き、いよいよ僕たちがどんな仕事をするのかベールを脱ぐ時がやってきそうです。ま、種明かしをもうこのエントリーでちょっとしてるけどね。というとこで、また。

 おっと、最後になりましたがここ最近で一番感動した話のリンク貼っておきます。エガちゃん、男やのう!!

これで平成も…?

昭和の終わりに買った本

いいだもも逝去。この本の奥付が1988年12月20日(奇しくもワタクシの誕生日の翌日)。それからざっと四半世紀過ぎたのか。

そういえば五月原課長のマンガ描いてた人も亡くなったな。





合掌。

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