女心と梅雨の空、なんて言葉なかったね

 しかし、何とかならないものだろうか。我が思い込み。またもや、やってしまったのだ。それも一人で大騒ぎして、よーくよーく見たらなんてことのない見間違い。実は無料で様々なライブ音源が聴ける、Wolfgang's Vaultというサイトがあって、ここから毎週末にメールが届く。土曜日の朝早く届いているのだが、そのメールをチェックするときは半分寝ボケているものだから、僕の目には「アート・ガーファンクル死亡」という記事に見えたのだ。ア、アーティが死んだ、うーん、最近はあまり情報を聞かなかったけど、どこか悪かったのだろうか、まあ、しかし、自分の身の回りだって結構不幸事が増えていて、若い頃は寿マークの封筒が届くたびに、ああ、また万札が飛ぶと嘆いていたが、最近は朝刊の訃報記事を読むのが怖い今日この頃だから、自分たちが中学・高校の頃聴いていたミュージシャンが亡くなるのもむべなるかな、などと悟ったような気持ちでいて、それでも、どうしてそういう音楽サイトが突然ミュージシャンの訃報記事を配信するのだろうと、ちょっと不思議な気がして、文面を良く読んでみると…。

 『All Grateful Dead Downloads $5』、えーと、グレイトフル・デッドの音源をダウンロードをしないかという営業メールだった。これが『Art Garfunkel Dead』に見えたのよ。わはは、はは。ちなみにGrateful Deadのことを「偉大なる死」と訳して、大恥をかいた話はしない。高校時代のことだ、時効じゃ時効。それと今日、もうひとつ妙なことに気がついた。東京ロッカーズではないが、ほぼ同時期にP-MODELやプラスチックスと肩を並べていたテクノ・バンドでヒカシューというグループがあった。「20世紀の終わりに」だとか「プヨプヨ」とか「すいかの行進」だとか、そうそう、巻上のソロだったが「イヨマンテの夜」なんかも歌ってたな、まあ、ちょっと癖のあるバンドだった。そのヒカシューの名前が頭に浮かんだときに、何故か金色の耳としっぽの大きなネズミがイメージされた。ピカチュウである。ヒカシューとピカチュウって似てるな、などと一人呟くのは誰かに聞かれると大変危険だと思う。

 そもそも、この暑さがいかんのだ。先週末から今週一杯は半井さんデータではずっと傘マークだったのに、とんと雨が降らない。おかげで雨の曲特集として仕入れていたネタをアップする気にもなれず、さらにアーティが死んだから、こりゃS&Gの追悼記事を書かねばの娘になりかけたが、それがガセだと分かって(いや、単なる思い込みだって)、とたんにエントリーを書く意欲が薄れた週末から週初めという日々であった。しかし、そういうことではいかん。初心貫徹、ここはひとつ雨の曲特集をぶちかましていこうではないか、すべての学友諸君!!ということで、梅雨時にふさわしい雨の曲をだらだらと、しまりなくアップしていきます。

 で、本当はここにブライアン・フェリーを入れて、そこから初期のロキシー・ミュージックの話とイーノの話をするつもりだったが、うっかりフェリーは「はげ雨」のほうで使ってしまったので、ちょっと趣向を変えてデレク&ドミノスにスカイ・ドッグが、要するにクラプトンとデュアン・オールマンの掛け合いで「Let it rain」を聞いてくれってことです。この曲、クラプトンのソロアルバムの演奏よりデレク&ドミノスのライブのほうが圧倒的にいいと思います(ちょっと古いか)。



 やや音は悪いが、後半の盛り上がりは流石ですな。この動画見つけた後、ほかの動画も見ていたらYOU TUBEのコメント欄にやたら「DATD」という単語が出てくるので何だろうと考えてみたら「デレク&ザ・ドミノス」のことだった。いやー、外人は何でも略すからいかんな、我が国の若いもんもすぐそれを真似て誰かが亡くなるとやたらRIPなんて書きやがって、最初見たときは口紅と葬式と何の関係があるんじゃと怒り狂ったもんだ。えー、RとLの区別がつかないのは日本人の悪いところだという実証です、ってええ加減なこと書いたらあかんで、おっちゃん、堪忍や、きゃいんきゃいん。

 で、僕のいいところはこれであっさりデレク&ドミノスというか、クラプトン、オールマンは終わり。ぐちゃぐちゃ細かいことは書かない。しょうもないトリヴィアリズムを振りかざしてもしょうがないのよ。要は、その音楽聴いてあんたはどう思ったの、何を感じたのってことだ。ま、いいんだけど。いや、やはりよくないかな。実は今日、70年代関西ロックシーンを実際に体験した人のblog(2006年で更新終わってるけど)を偶然読んで、いろいろ考えることがあったのだけど、結構ややこしい話になるので、もう少し自分の考えがまとまってから書いてみたい。

 んで、雨の曲第2弾は、ニルソンの「レインメーカー」をアップしようと思ったら、なんと元モンキーズのマイク・ネスミスがカバーしてました。これはまったく知らなかったな。元々はニルソンにしてはロックっぽいサウンドなんだが、これをカントリー・ロックに仕立て上げています。うーん、というよりやはり良質なアメリカン・ポップスってとこでしょうか。



 マイク・ネスミスは「シルバー・ムーン」以外にヒットはなかったように記憶しているけど、この曲聴いたらもっとたくさんヒットは出せたんじゃないかと思うが、どうなんでしょう。以前、モンキーズのDVDを見てたら、でっぷり肥っていかにもやり手のビジネスマンみたいになったマイクを見てちょっと引いてしまったことがあった。モンキーズの頃はいつも毛糸のベレー帽被って、ちょっとクールを気取った二の線をやってたけど、彼のキャラクターは好きだったな。

 外人(うーん、これはベサツ用語なんだろうか、基地の外の人はマズイかもしれんが、外人は外人だもんな。スポーツ新聞なんかじゃ害人なんて書くこともあるから、いいか)ものが2曲来たのでお次は我がポンニチもので。まあ、雨の歌、雨の曲ってのは枚挙に暇がないが、あくまで今の僕の気持で選ぶのだ。まずは最近どうしてるのかな、柳ジョージとレイニー・ウッドで「雨に泣いている」。



 若い頃は気取って、英語バージョンばかり聴いていたけどやはり日本語バージョンのほうが気持ちが伝わるな。この曲がヒットしたころは「スマイル・オン・ミー」なんて曲も出したりして遅咲きの柳ジョージ、結構のってました。僕は彼の「酔って候」という歌も大好きで、ある時確かNHKのFMか何かで柳ジョージがDJしていて、この「酔って候」というのは、ご存知司馬 遼太郎の小説のタイトルなのだが、そのネーミングを気にいったジョージが司馬 遼太郎にタイトル使用の承諾を貰いに行って、最初はダメだといってたが最後は根負けして承諾してもらえたということを実に嬉しそうに話していて、ああ、ジョージさんっていい人なんだな、と思ったことがあった。もっともシーモネータ的には「酔ってソウロウ」はおかしい、「チロウ」ではないかという突っ込みもありだが、しまった、こういうネタはズトさんのコミュでやればいいんだ、ちとソウロウ気味でした、っておっちゃんずいぶん下品やで。

 んでもって、何やら今年は60年安保50周年記念の年らしい。そういえば京都に居た頃、80年安保までにシオミ・タカハラ両同志を奪還するという張り紙を京大の吉田寮で見たな。1980行動委員会という名義で出ていて、こりゃ絶対何かあるはずだと思って、わざわざ大学も75年度生だったにも関わらず80年もバリバリ現役の大学生だった、っておっちゃん留年したのをそういうごまかししたらあかんのちゃうか、と、今日はやたら良心様が出て困る。えーと、なんだったっけ。そうそう60年安保といえば「アカシアの雨」でしょうが。もっともこの動画に出てくるのは東大闘争のやつみたいですが。



 戸川純ってのは、独特の感性というか声というか女ブライアン・フェリーみたいなところがあるな。ま、僕の勝手な思い込みかもしれないが。しかし、昔の歌をこういう感じで取り上げるのは結構好きなのだ。リスペクトだとかアスペクトだとかサスペクトなんて、どうでもいいのだ。おもしろけりゃいいんだって。要は「芸」として成り立っているかどうかなのだ。表現者が「芸」として出したものが面白くて気にいればお金を出して買うという単純な構造なんだけど、そこにいろんな魔手や策略、陰謀がからんでくるんだよな、ってこれは別の話。あああ、眠くなってきたので今日は後1曲で終わり。ラストは原田真二で「てぃーんずぶるーす」のロック・バージョン。雨がタイトルに無いって?歌詞を良く聞いてみて。♪えきーにはしーるみちはあめーでかわーのようにぼくーのずっくはびしょぬれー、ってほら雨の情景でしょう。しかし、流石は松本隆、いや、原田真二のメロディと歌詞が見事にマッチングしてるな。というところで、本日はおしまい。気が向いたら続編もあり。向かなかったら、70年代日本のロックの総括に進む、かな?



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激しい雨が怒りを悲しみに、ってガラじゃないか

 昨日はピーカンに晴れたいいお天気だったが、今日は梅雨の本領発揮というか最近の流行り言葉で言えばゲリラ豪雨といってもいいような土砂降りだった。もっとも、というか幸いなことにというか、豪雨は断続的で猛烈な雨風が吹きまくったかと思うと、一瞬にして静まり返り、下手すると雨雲の隙間からちょっと青空がのぞいたりした。それで、安心していると突然嵐の如く(どっかで聞いたようなフレーズだ)、またもや大雨と強風が吹きまくり傘の骨が折れるわ、靴はずぶぬれになるわ、正しく踏んだり蹴ったりの日だった。何しろ竜巻注意報まで出る始末。しかし、竜巻をどうやって注意したらいいのか分からない。このあたりは一度、午後7時28分の恋人である小首傾げの半井さんに手取り足取り教えていただきたいものだ。いや、その変な意味ではなく、って下心十分だっちゅうの。

 などと、能天気な事を書いておりますが、梅雨真っ盛りのこの時期に雨の曲特集を組むという正しく陳腐なアイデアが浮かび、しかし、人生ひねくれて生きてきた僕がそんなに素直なエントリーを書いてもしょうがないだろうと思い、まあ雨の曲特集はやるにせよ、本日はその前段階武装蜂起ということで大雨、土砂降りの歌特集でもやってこまそうかと考え、そしたら例のあの、雨が降ります、大雨が降るという「A Hard Rain's A-Gonna Fall」をいろんな人が歌っているので、ちょっとそれを僕の感想つきでアップしたらどうだという安易なことを考えて、今実行しているとこなのだ。

で、「A Hard Rain's A-Gonna Fall」は、邦題「はげしい雨が降る」で、まあ何の異議もないのだが最初にディラン(これは大塚まさじのいた喫茶店の名前ではなく、ユダヤ系アメリカ人の歌手の名前です、って誰も間違えないっちゅうの)のシングル「風に吹かれて」のB面で出されたときは「今日も冷たい雨が」というタイトルで、まるでランディ・ニューマンの「I think it’s gonna rain today」かハイ・ファイ・セットのヒット曲みたいなタイトルだったらしい。もっとも僕がこの曲のタイトルを聞いて、最初に連想するのはブライアン・フェリーである。彼のロキシー時代のファースト・ソロ・アルバム『愚かなり、わが恋(These Foolish Things)』の冒頭1曲目に入っている。雨音のSEと同時にあの独特の、ある意味気色の悪い声でせつせつと歌い上げるのを大学に入ったばかりの頃、修学院の下宿で、そうそれも丁度今時分の梅雨時に何度も何度も聞いたものだ。



 YOU TUBEにフェリーのこの曲のPVがアップされてて、それを貼ろうと思ったのだが出来ず、探していたら77年のこのライブ映像が見つかった。バックはドラムこそロキシーのメンバーだが、ギターはフィル・マンザネラではなくクリス・スペディング!!である。カッコイイのだ。そしてフェリーの服装が渋い。丁度この頃初来日したんじゃなかったっけ。僕も行きたかったのだが予算がなくて、ライブを見た故M原君が「まるでキタあたりにいる酔っ払いのサラリーマンみたいにだらしなくネクタイ下げて、シャツを腕まくりして歌った」と話していたが、まさしくその格好で歌っている。オトモダチのK野Y二さんが観客でいないかと探したが残念ながら見つからなかった。町中にピンクがあふれ出さないと出てこないのかな、などとこれはP-Modelだった。

 で、次に登場するのは御大レオン・ラッセル。この前、花の75年度生のPurple_Hazeさんがblogで特集していて思い出したのだが、確かNHKのヤング・ミュージック・ショーでもこの歌を歌い、曲が終わるときの合図で両手を軽く上に上げてそれを降ろすシーンが印象的だった。あの時は「Roll away the stone」や「Sweet Emily」なんかもやってたな。日本でヒットした「Tight rope」を演奏しなかったのが残念だった。1995年に宮崎でもライブをやってくれた(今、記念に買ったTシャツで確認したので、95年で間違いない)のだが、そのときにこの曲はやってないと思う。レオン・ラッセルのライブの話はとっくの昔に書いたと思っていたのだが、意外や意外、まだ詳しく書いてなかった。当時も今もだがレオン・ラッセルのような大物、ロック史に名を残すようなVIPが宮崎くんだりに良く来たものだと思われるかもしれないが、実はそこには涙なくしては語れない裏話があるのだ。

 というのも、宮崎でこの手のライブを企画していたMという会社があったのだが(ここ過去形になってるのに注意してください)、そこに勤めている人とちょっとした知り合いになり、その人からレオン・ラッセルが来るという話を聞いたのは95年の結構初めだったと思う。僕は最初信じられなくて、まあ、この手の話はドタキャンになる事が多いし、適当に聞いていたのだがテレビに予告が流されるようになって、クリビツテンギョウ。勿論、チケットはすぐその人にお願いしたのだが、心配したのはレオン・ラッセル見に来る人はそんなにいないというか、あれだけのミュージシャンなのに、こと宮崎においては知名度がないというか、ま、宮崎みたいなど田舎で、そらバートランド・ラッセルも知らん人間がうじゃうじゃいる宮崎で、レオン・ラッセルに客は来ないだろうって。しかしがらがらの会場で御大に恥をかかせるわけにもいかんし、かといってオレが動員できるのも限界あるし、いや、一体全体どういう企画で宮崎に、と、あれから15年もたつのに未だに取り乱してしまうような嬉しいライブだったのよ。



 で、結論から言うと企画したM社の経営陣がレオン・ラッセル大好きで採算度外視で宮崎に呼んだとの話で、記念Tシャツもわざわざ特注で作ったのだが、やはりというか、まあ予測できたことなのだが1000人規模のホールに200人くらいの入りで、流石に客の年齢層も高く、それなりに落着いた(勿論盛り上がるところは盛り上がりました、ラストの「ジャンピン・ジャック」のカッコよさったらなかったね)、いぶし銀のようなライブだったが、いかんせん客が少なく物販もでんでんあかん、ちゅうやつでした。そうそう、そのときはTシャツのほかにCDも買ったんだっけ。残念ながらサインは貰えなかったけど。しかし、その日はS藤君と一緒に見に行ったのだが、二人して通ぶって「どうせ、この手のライブは時間通りには始まらない。ライブ前にお祝いでビールでも飲もう」と会場の1階にあるレストランで夕ビー(夕方のビールね)をいっちゃって、開演時間のブザーと同時に会場に入ったら、突然幕が上り左手にパーカッション、右手にベーシストを従えたレオン・ラッセルがピアノを弾きながら歌いだしたのには驚いた。大慌てで椅子に腰掛け(大変悲しいことにステージ前から3,4列目でもがらがらに空いておりました)、それから3人組の演奏で小一時間、ちょっと休憩してレオンがシンセ使ってソロを30分ほど(「ア・ソング・フォー・ユー」もこのときやってくれました)、そして最後にまたトリオになって「ジャンピン・ジャック」で締めるというステージでした。アンコールなかったのと「グルーピー」(カーペンターズが「スーパースター」という名前でヒットさせた曲)が無かったのが残念だったけど、地元宮崎でもうかなりの高齢になっていたはずのレオンのライブを見れたことは、本当にありがたかった。そして、この画期的なイベントをプロモートした会社はもう存在しないことは、とても悲しい。目先の売上げだけにあくせくして、しょうもないイベントばかりやってる会社は残って、こういう良心的な会社がなくなるってのは、やはりどこかおかしい。トムスキャビンも…。

 むさいオッサンが二人続いたので、このあたりで一服の清涼剤を。「バラクーダ」や「ネバー」が大ヒットしたハートのお姉ちゃんの方、アンが歌うバージョンを。こちらはちょっとジャズっぽいアレンジだけど、なかなかに渋い。ハートといえば、2枚目のアルバムでブレイクしたのだが、77,8年あたりに良くフィルムコンサートで「バラクーダ」がアップされていた。おっと、フィルムコンサートってなんだろう、などと小首かしげている若者よ、そういうポーズは半井さんに任せておけばいいのであって、要するにだ。70年代後半といえども、動画で洋楽ミュージシャンを見るなんて機会はそうなかったということだ。何しろ、その頃の京都では『ポップス・イン・ピクチャー』という30分のローカル番組が唯一の情報源。あ、それと超不定期にNHKの『ヤング・ミュージック・ショー』があったくらいか。だから映画の『ウッドストック』や『バングラデッシュ』、そしてビートルズの映画なんてのはお宝だった。ストーンズの『ワン・プラス・ワン』は結局、関西には来なかったんじゃなかったっけ、いや、随分後に来たか。だから80年代の『MTV』にはビックリしました。もっとも今じゃYOU TUBEやあちこちの動画サイトでただで見られるからいい時代になったもんだ。



 と、まあ勝手なことばかり書き続けてきたが、実は僕は怒っています。理由は今週号の週刊ポストの記事。所詮、ポストの3面記事と無視してもいいのだが、コンビニで立ち読みしていて怒りで目が眩んだ。ようするに宮崎は口蹄疫で火事場泥棒的に焼け太りしているというのだ。まず、パチンコ屋に昼間から農家の車が殺到してパチンコしまくってる、とか実際に牛や豚を市場に出すより高額で買い取ってもらえるとか、もちろん畜産農家は今の殺処分された家畜の代金だけではとても無理だが2,3年は国が援助することが決まってるとか、おい、一体どこからそんなヨタが出てくるんだ。パチンコ屋については、口蹄疫関係なく、農家の人が勤め人ではないのだから平日の昼間行くことも多いだろうが、ウイルスを撒くのではないかと必要以上に神経質になってる畜産農家の人たちがパチンコ三昧だという証拠を示してみろ。データはどこだ、などと怒りが収まらないのだが、このあたりの話は改めて。しかし、時代は変わらないよ、まったく。おっと、最後に本家ディランの歌をと思ったが、ジョーン・バエズが後半ディランの物まねしている動画アップして終わります。



突発的DRAC興亡史 大ダイジェスト版

 いきなり思い出す話というものがある。ほんのつい先ほどまで、全然記憶の底にも残ってなかったはずなのに、突然浮かびあがるあの光景、あの景色。実は今日、家でやらなければならない、なんというか勉強しなくてはいけないことがあり、多分それはやってもほとんど焼け石に水というか、糠に釘というか、暖簾に腕押しというか、まあ、早い話やるだけ無駄なのだが、世の中にはそれでもやらねばの娘ということがある。勝負とは勝ち負けではないという坂田明の名言もあるが、しかし、とにかく、やるだけやってみようじゃないか。夕日に向かって走ってみようじゃないか。やってくるのは大きな自由だ、と最後は何故かS戸君じゃなかった、豊田勇造が出てきたが、これからの話に多少関係はあるのでご容赦を。

 上記のようなフケいやいやー的気分(どんなんや一体、というより♪フケいやいや~というCMソング覚えてるほうが少数派だな)でPCの前にいたものだから、本当はいけないことなのだが、考えるふりをしながらあちこちのblogをのぞいていた。心の中で、これは遊び半分でネットサーフィンしてるんじゃないんだ、僕は受験生の頃からながら族で深夜放送聞きながら勉強した口だから、遊んでいるように見えるかもしれないが、これも勉強なんだよと自分の良心様(by 天才アケタ)に言い訳をしていた。その流れで『鳥肌音楽』にも顔を出してみたら、ビートルズのジャケット・シリーズの話のところにK平先輩のコメントがあり、なになに、ファミリーのレコードを同級生から譲り受けた、その同級生はF森、ン、F森さん?その瞬間、僕の頭の中にはスポーツ・カーの爆音と本格的プログレッシブ・ロック・バンドの生音とちょっと色気のあるおねーさんの匂いがしたのだ。いやー、脳細胞ってすごいね。

 えー、どういうことかというと、僕のサークルの1年先輩であるF森さんという人のことを、それまで確実に30年以上忘れていたのに一瞬で思い出してしまったのだ。それほど親しい付き合いだったわけでもないし、第一F森さんは自宅生だったのでお互いの下宿を行き来することもなかったし、麻雀やお酒もあんまり、いや、もしかしたらかなりいけたのかもしれないが、少なくともサークルの中ではその手の付き合いはほとんどしない人だった。一度、キャンパスでF森さんが地元の友達と一緒にいるところに出くわしたことがあったが口調も態度もサークルとは別人28号であった。つまり、友達にはいかにも大阪の遊び人というかナンパなあんちゃんという感じで話していたのに、サークルではこちらからは話しかけないとほとんど何もしゃべらず、ただにこにこしているだけの人だった。

 ただ、音楽には詳しい人だった。専門はアメリカ系(僕はどっちかというとブリティッシュ系だったので、そのあたりもF森さんとちょっと距離があったのかもしれない)だったが、それ以外のロックにもかなり詳しく、さらに自分でドラムも叩くような人だったっけ。日本のアマチュア、セミプロ的なバンドのことも良く知っていた。もっとも、それを鼻にかけるようなところはなく、研究会でも指名されない限り自分から意見を言うような人ではなかった。そんなF森さんと親しくなったのは、76年の夏からである。サークルの夏合宿がいつものように鳥取の民宿に決まり、ほとんど全員が電車で行くのに幹事長だったO西さんと会計のY本さんはF森さんの自家用車で行くという情報を僕はゲットした。実は、その合宿用にと準備していたお金を僕は「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」などと豪語して浪費してしまい、ついには合宿に行くのをやめようとしていたのだが、2年先輩のU村さんという美人の先輩から「あなたたちがこれからのDRACを背負っていくんだから、合宿行かないとダメ。お金は私が女の子に言って貸してもらえるようにするから、合宿には来なさい。そうだ、F森君たちが車で行くと言ってたから乗せてもらえば交通費の節約になる、うん、そうしなさい」。あ、思い出した。この時ですがな。同級生のHさんにお金借りたの、あははは、やばいやばい。時効じゃ、時効。うん、思い出したぞ、ジョンじゃないけど”Remember, when you were young”だ。

 で、このU村さんの口利きで合宿費用を女の子たちから借りることが出来て、往復の足も確保できたのだ。あ、それと、このときU村さんがとても親切にしてくれたのは、もしかして僕に気があったのじゃないかと構えていたが、大変残念ながら、あれはあくまで後輩に対する親切心であって、愛ではなかった。おかしいな、単なる親切以上の、といまだに思い出すと胸がいっぱいになる76年の夏だった。ってこらこら話し終わらしたらあかん。

 えー、とまあ、そういうことで京都から鳥取までF森さんのいすゞクーペでブッ飛ばしたのだが、覚えているのは助手席のO西さんとY本さん、F森さんの3人で話が盛り上がり、僕一人蚊帳の外だったことだけ。あ、それと僕はてっきり車代はタダだと思っていたのだが、合宿が終わって僕の下宿まで送ってもらったそのときにしっかりガソリン代を割り勘で請求されたことくらいか。ん。ということは、あんまりこの時は親しくなってないんだな。記憶というのは整理してみると結構アイマイミーマインである。って、ギャグも中学生並みやで、オッサン、きゃいんきゃいん。

 じゃ、いったいいつF森さんと親しくなったかというと76年の秋だ。間違いない。当時2回生だった僕はサークルのEVE実、つまり学園祭の役員になったというかならされた。そうだ、そうだ。誰がEVE実をやるか、鳥取の合宿の時に会議で決めたんだ。みんな、この手の役員はやりたがらないが、僕はなんといってもシホン主義を否定する原始キョーサン主義者だったから(早い話がお金の管理が出来ないという事だ。三つ子の魂百までとはよくいったもので、いまだにお金の管理が出来ない。禁治産者である。あ、今は禁治産者なんていわないのか)、この手のことは何でもやりたがるF田君か、でもあいつはいい加減な男だから、当時から計画的にお金を使う事が出来た経済学部のS戸君(これが大きな間違いであることは後年「天下一家の会事件」で明らかになる。そのセンセーショナルなレポートはしばしお待ち頂きたい)が適任ではないかと発言したのだが、会議はこう着して進まない。結局、推薦ということで僕に決まったのだが、Hさんも僕に清き1票を入れてくれた。いや、今にして思えば僕に投票してくれたのはみんなお金を貸してくれた人たちだ。そうか、サークルの仕事に縛ってればトンヅラしないと思ったのだろう。ああ、情けない。

 ま、理由はともかく、僕はEVE実として上部団体の鬱陶しい会議にも参加し、いろいろな規制をクリアして学園祭にはディスコ「リップスティック」(この店の名前は僕が決めた。もちろん多数決ではあるが、そこはそれ反対意見はドーカツで封じるという学生ならではの手法でいけたのよ、へっへっへ。ちょうど映画「リップスティック」が封切られたころで、ヘミングウェイの孫が女優として出ていたことと、音楽をミッシェル・ポルナレフが担当していてちょっとカッコ良かったことが理由だ)をオープンすることにした。実はオカマ喫茶をやりたかったのだが、先ほどのS戸、F田両名が頑として聞き入れず、なくなくディスコになったのだ。もっとも1年前もディスコ「王将」という名前で生バンドいれてやったという実績はあった。で、75年のバンドは僕の高校の先輩がたまたま京都にいてバンドをやっていたので、ほとんどノーギャラに近い形で出てもらった。で、76年も頼むと言われていたのだが、F森さんから自分もバンドをやってるし先輩バンドでものすごくうまい連中がいる、是非そちらを使ってくれと依頼され、確かその時は決定権を僕は一任されていたのか、それとも僕の独断専行でやったのか、はっきりしないが、ともかく学園祭のバンドはF森さんの先輩バンドに決定した。



 で、EVEの当日、朝一番で楽器の搬入が始まったが結構いい楽器があった。バンドのリーダーとも打ち合わせしたが、何故かその人が標準語でしゃべったことを良く覚えている。プロを目指してるので関西弁ではダメなのだみたいな説明をF森さんから聞いたような気もするが、はっきりしない。で、学園祭の初日、呼び込みやサクラの動員、そうそう。こういうときはE副という二枚目が役に立った。女の子を次々引っ掛けてくるのだ。いっつみらくる、と僕たちはよだれを流し…、ごほん、もといっ!!えーと、「ソウル・ドラキュラ」や「セクシー・バス・ストップ」だとかリッチー・ファミリーの「ディスコは恋の合言葉」とかおよそ知性のある人間が口にすることはない単語をちりばめたレコードをかけて盛り上げたのだ(今、ちょっと考えたのだが、これらの曲は75年のヒットだったような気がするが、まあ、その手の流行りの音楽です、要するに)。

 場所は至誠館という、素晴らしい名前を持つ某D大学の建物の地下第4教室だった。窓にはカーテンを閉めて照明はそれなりに落として、いよいよバンドが登場した。こちらはバックステージから大声で盛り上げた。チューニングの音がして、マイクテストも終わった。カウントがかすかに聞こえてきて、いきなり大音量のギターの音が響いた。あれ、どこかで聞いた、あ、キャメルの『ムーン・マッドネス』の中の「コード・チェンジ」だ。凄い、完璧にコピーしてる。ピーター・バーデンスのフレーズもまんまだ。こりゃすげーと興奮する間もなく、店内の雰囲気が固まった。そりゃそうだろ、ディスコで盛り上がろうとしてるので出てきたバンドがプログレでっせ。客は棒立ち。演奏途中で出る客も多く、入口にいた僕に「おまえんとこはアホか、こんなんで踊れるか」「アマバンのライブならどっか別のホールでやれや」「M前のプロレス見に行くわ」などの罵声が投げかけられた。



 これはやばいと思って、1曲目が終わったらすぐにリーダーのところに行き「すんません、踊れるやつ頼みます。ここディスコですし」と言ったら、ちょっと不満気だったが頷いてくれた。しかし、その直後のMCを聞いて僕は再度目が点になった。「次はPFMのブギーをやります」。シンセサイザーの雄たけびもたくましく「せーれぶれーしょん~ぶらーらら、らーらら、らーらーらーら~」。いや確かにブギで乗れるけど、女の子と一緒にはおどれないっちゅうの。というような、ステージをがんがん見せつけられて、それでも途中から完全に手抜きでディスコナンバーやったりしたが、とにかく1日目は腰が抜けるかと思った。いや、バンドのあまりの巧さとお店のミスマッチが、です。そういえば、その日バンドのリーダーが帰る前に「楽器保険かけてないので、くれぐれも注意して下さい。総額ウン百万はしますから」と言ってたのに、僕は見た。K平さんがギターでF森さんがドラムの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を。



 というようなことがあって、学園祭打ち上げのコンパで、普段はあまり飲まないF森さんがずいぶん飲んで「オレはうれしかった。EVEのときに、オレは先輩にバンドの肩ばっかり持ったのに、drac-obも他のみんなも文句言わず受け入れてくれたのが、オレはうれしい」と、これは完全な酔っ払いのパターンで何度も何度も繰り返し喜んでいた。そのあたりから、あまり意識せずに話が出来るようになったのかな。

 で、最後に覚えているの78年の2月。サークルの追い出しコンパのときだ。普段はあまり飲まない先輩たちも卒業という時期にセンチになっていたのか、二次会が終わっても解散せず、なんとなく流れで岡崎のほうにあったI上さんのアパートに集まった。ええと、その時はもちろんアパートの住民のI上さんとF森さん、僕、そして何故か1年下の女の子(あえて匿名ね、K平先輩分かります?)。I上さんのアパートは当時にしては珍しく二間続き、6畳と4.5畳だった。京都の2月の深夜というか、すでに未明だったが、とにかく寒いのでみんなでこたつに入って、ストーブも付けて、最後の盛り上がりをしていた。その時、それまでおとなしかったF森さんがジャガーチェンジ。いきなり、オヤジになってしまい一緒にいた女の子に「お前、こういうとこについてくるちゅうことは、どうなってもええちゅうことやな」などと言い出したので、まあたちの悪い冗談だとスルーしたら、次は「お、この部屋隣もあるやないか。よっしゃ、みんなでこの女の子、×××したろ。な、お前もするやろ」と、まあ物凄いことを口走り始めて、終わらない止まらない。一体どうしたんだF森さんと、I上さんと二人して必死になだめているうちに、F森さんからすー、すーと規則正しい寝息が聞こえてきて、ふと見ると瞼を開けたまま寝ていた。I上さんが、その上に布団をかけてやりながら「しかし、F森も実は結構ワルだったというのは本当だったのかもしれん」と。どういうことですかと聞いたら、F森さんが普段から一緒にいるのは大阪方面でも名うてのナンパグループで、結構ヤバイ事やってるという噂だったけど、サークルのF森さんしか知らないのでそんなのは嘘だろうと思っていたと教えてくれた。そうか、F森さん、実は結構プレイボーイ(死語?死語だったら教えてね)だったのか、だったらもっと早くいろいろ教わっておくべきだったと、いや、その、もといっ!!

 で、結局I上さんもそのまま寝てしまい、なんとなく目が冴えてしまった僕はその女の子と一緒に、あ、ここから先は誰が読むか分からないので、内緒。内緒。というような思い出が一気に湧き出してきて、ふと時計を見るともうすぐ零時。ああああ、しまった。僕の左手に置いてあるこの資料は何だった。後悔先に立たず、とはこの事でした。寝よう、とりあえず寝て、後は明日考えよう。♪明日の風は明日吹くから、今日は今日の風に吹かれて行こう、と下地勇の歌でも口ずさもう、力なくだけど。

夫婦漫才は、東京だけでお願い、帰ってこないでね!!

 昨日は久しぶりにバカ話をアップして、このところ暗くて深刻な口蹄疫の話ばかりで、拙blogらしくなかった雰囲気を変えることが出来た。まだまだ大変なのだが、ちょっとの間、音楽の話や昔話、バカ話を書いてストレス発散しようと思っていたのに。故郷の大変さを一切知らん顔して、人騒がせなあのセンセがまた登場してきた。今回は、奥方もご乱心でござるかと、言いたくなるような話。産経新聞の記事からそのまま引用します。

中山恭子元拉致担当相が自民離党届
6月18日19時49分配信 産経新聞

 自民党参院議員の中山恭子元拉致問題担当相(70)は18日、党本部に離党届を提出した。夫の中山成彬元国土交通相(67)が7月11日投開票の参院選にたちあがれ日本から出馬の意向を固めたのが理由。ともに、たちあがれに入党する方針だ。
 自民党幹部は中山氏の処分について、比例代表選出であることを理由に除名も含めて検討せざるを得ないとの考えを示した。
 たちあがれは結党時の今年4月にも、中山氏の入党を勧めていたが、成彬氏の出馬がその時点では決まらなかったため、拒否していた。


 しかし、昔から貧すりゃ鈍すというけど、自民党も舐められたものだな。江藤拓議員の嘆きも良く分かる。しかし、中山ご夫婦、ニッキョーソを粉砕する前に、地元宮崎のコーテーエキを粉砕してくれや。こっちは参院選どころじゃないんだ。梅雨に入って大雨が降って、埋却処分も進まないし、消毒作業も大変なんだよ、バカヤロー!!もう本当に呆れてものも言えない…。お、じゃ動画はRCだな、と思ったあなたは甘い。僕はもっと怒っているんだ。ふざけるんじゃねえよ、てめえの善人面をいつかはぶっとばしてやらぁ。



空耳というか空目というか、人生は思い込みである

 もともと粗忽な性格だったのに、最近は寄る歳波に勝てずボケが始まった上に思い込みも激しいため、このところ心休まる日がない。今日も何気に仮想電脳空間をうろうろしていたら(早い話がネットを適当に眺めていたら)、心臓が止まるかと思う記事に当たった。いわく「加藤登紀子 離婚」という見出し。え、いや、加藤登紀子の旦那はもうとっくに亡くなったよな、ほれ、あの元社青同の、えーと、元全学連委員長、で、その後無農薬の野菜作りを始めて『うちの野菜はうちの嫁と同じで見かけは悪いが味はいい』などと、まるで日向カボチャの宣伝文句みたいなことを言った、ほら、あの人、あの人だったろう。と、かように人の名前が出て来ず、その人の顔形や様々なつまらない経歴や発言内容は出てくるのだが、いくら考えても名前が浮かばず、苦し紛れにググってようやく名前が分かった頃には一体何のためにこの名前を一生懸命探していたのか、その理由が分からなくなるというありさまだ。

 で、よくよく元の文章を見ると「加藤紀子 離婚」であって、登紀子ではなかったという事が分かって、『人騒がせな』と自分の早とちりは棚に上げて、されど、加藤紀子ってのはいったいぜんたい何者だと、今度はこちらをググってみたら、何やら人気のある役者のようでCDも何枚か出してあり、フレンチ・ポップスに造詣が深く2005年のアルバムは全曲フレンチ・ポップスなどと出ていたので、『ほう、フランソワーズ・アルディとかシルヴィ・バルタンなんか歌ってるんだろうか』などと、およそ発言した人間の世代というか年代というか明らかに「ナウでガッツでチャレンジするヤング」ではないことがバレバレで、まあ、そういう事はいまさらどうでもいいが、止せばいいのにわざわざAMAZONで試聴までしたら、『ふざけるんじゃねぇ、これのどこがフレンチ・ポップスだ、この野郎』と怒り狂って激怒に震えて目が血走ってピンクにチェンジ(by P-Model「MOMO色トリック」)してしまう有様だ。しかし「Volare」のどこがフレンチ・ポップスだこの野郎、という僕の怒りはあながち不当なものではないと思うがいかがなものか。



他にも「マラッカ」なんて曲名があったんで、ちょっと機嫌を直して『お、若いのにパンタ&HALのカバーか、なかなかやるやないけ』と聞いてみたら、そら、誰が一体♪腹にたらふく詰め込んだアラビアン・ミディ~なんて歌うものか、かすむ目でじっくり曲名を見ると「マライカ」と書いてある。もはや怒る気も失せてしまい、されど我らが日々(by 柴田翔)などと力なく呟くのであった。似たようなことはしょっちゅうあり、こと音楽関連の失敗というか、聞き違い、思い込み違いは甚だしいものが多い。拙blogにちょくちょくお運びいただく同志友人諸君(笑)は、ご存知のように僕は学生時代京都に住んでいて、ちょうどパンク・ニューウェイブの連中があちこちでライブを始めたころ、その渦中の周辺にいた(妙な表現だが、まあ、雰囲気は伝わるだろう)。したがって関西のアングラ・シーンというか、早い話がマイナーなバンドのライブも結構見たし、その中で思い入れのあるバンドも結構ある。で、何の話かと言うと、ここ最近といっても7,8年くらい前からだが関西女性パンク・シンガーであったPhewのバンド時代の音が再評価されていると思い込んでいた。つまりAunt Sallyなのだが、たった1枚のアルバムしか出さなかったけど、PASS RECORDからリリースされ、しかもプロデューサーは坂本龍一という、知る人ぞ知るアーント・サリーという文字を良く見聞きするようになったと思い込んでいたのだ。

 もちろん、世の中そんなに暗い歌が好きなはずはなく、アーント・サリーではなくてアン・サリーという別人28号だったのは言うまでもない。もっともアーント・サリーも当時カリスマ的人気があったが、僕は何度ライブを見てもレコード聞いても好きになれず、彼女の才能を高く評価していた故M原君やJUST MY IMAGINATIONのN部君なんかから、「オールド・ウェイブやで、オッサンは」などと良くからかわれたものだ。で、今日、何気にYOU TUBE見たら「aunt sally subeteurimono 」という文字が見えたので、『あかん、いよいよあかん、メ・ハ・×ラというが、この3点セットだけはしっかりせんとアカン、まあ、3点セットもどうしてもというのなら前者2項目は多少妥協するとして最後のひとつだけは妥協せんぞ、これが男の生きる道』などと、余計なところに力を入れて、いったい何の見間違いだろうとかすむ目に目薬さしながら見直してみると、なんと、本物のアーント・サリーの「すべて売り物」でした。もっとも動画は実写だけど音はレコードの音でした。なんせ、あのアルバムの中で一番好きな歌だったし、ライブでもこの曲のときだけは真剣に見ていたんだよね、あ、Bikkeというギターの女の子はちょっとお気に入りだったりして。



 と、まあこのような話は枚挙にいとまがないのだが、もうこれ以上書くと僕のイメージダウンになるので(いや、イメージダウンもへったくれもないのは百も承知ですが、カッコつけたい年頃なのよ)、話を変える。

 最近、20代・30代・40代の女の人たちと話す機会があり、何かの拍子にカルメン・マキと僕が口走ったら、全員から妙な顔をされた。変だなと思いながらも、話を進めていたら、そのうちの一人が「あ、あの男の人っていうか、ニュー・ハーフの走りみたいな人と違うんですか」と聞かれた。「アホ、それはカルーセル真紀だろうが、オレがいってるのはカルメン・マキ、歌を歌うほうの」と力説したが反応が鈍かった。かろうじて40代の人が「時には母のない子のように」を知っていたが、その後のOZ時代や最近の音楽活動については全然知らなかった。何しろ、その中の一人が「全然知りません、何ですか、オーゼットって」と聞かれ、「オーゼットぉ?アホ、それはオズと読むんじゃ、ボケェ」と怒り狂って激怒に震えて目が血走ってる、ピンクにチェーンジ、見た目にとってもかわいらしいから…。と、僕及び僕周辺の思い込み違いと無知蒙昧は権利の放棄と四捨五入も正義感のうち(いやー、やたら初期P-Modelのフレーズが出てくるな、何かの前兆だろうか)という出来事はまだまだ続くのだ。



We are real Nowhere Men

 昨日は慌しい一日だった。先ず、梅雨に入った。平年より随分遅い。遅いが、やはり梅雨は来る。人間がどんなにあがいても自然は変わらないということか。それから、新しい首相がやってきた。口蹄疫対策で、前政権との違いを見せつけて政権の支持率アップと選挙対策の一環だろう、などと憎まれ口の一つでも叩きたくなるくらいこちらは逼迫している。某赤松元大臣や某鳩元首相らは、宮崎に来ても被害地の視察は全く行わず、県庁や役場関係を軽く回ってジ・エンドだったのに比べると、曲がりなりにも元「市民派」だけに、とりあえず佐土原町のワクチン接種農家(この人は伝説の種雄牛「安平」の育ての親だが、現在飼育している61頭の牛は既にワクチン接種を受け、来週には殺処分される)を訪問して現場の声を聞いたことと「国家的危機」という認識は良しとしたい。良しとしたいが、それでもこの雨の中24時間体制で消毒作業に当たっている人たちや、児湯・西都、とりわけ被害の甚大な川南の殺処分現場などを直接見て欲しかったという気持ちも強い。

 えびの市の移動制限は解除されたが、児湯・西都地区は相変わらず新たな口蹄疫にかかった農家が出ている。さらに、宮崎の畜産基地ともいえる都城市(正確には平成の大合併以前は高崎町と呼ばれていた地区)に、そして防衛の一つの目途としてきた小丸川を超えて南は宮崎市に、北側はさらに進んで日向市までウイルスは侵出してきた。地図で見たら、すぐ分かると思うが、最初に発生した児湯郡を中心として国道10号線で北は日向、南は宮崎、そして西は都城とワクチン接種包囲網を突き破ってウイルスが広がっている。もちろん、原因は特定されていないが、この広がり方からしてやはり交通網、つまり車がウイルスを運んでいるのではないか。幹線道路には消毒液をしみこませたマットが置いてあったり、まるでSF映画に出るような格好をした作業員の人が背中にしょったタンクから消毒液を噴霧したりするのだが、車がさびるからといって拒否する人や、消毒ポイントを避けて裏道を通る人もいるらしい。てめえの都合しか考えない奴というのは何時の時代にもいるものだが、ここは是非協力をお願いしたい。もはや、市や県の力ではどうにもならない、もしかしたら国家権力をもってしても押さえ込むことが出来ないかもしれないのだ。

 前首相が来県した頃は、新規の発生も少なくなりつつあり、特にえびの市が押さえ込みに成功しつつあったので、危機的状況の中でもようやく何とか改善されつつあるのかなという希望が見えた。しかし、都城で、日向で、宮崎市で新たな患畜が出たというニュースはとどめに近かった。いや、決して諦めていませんよ。「我々は最後の最後まで闘いぬく、我々の邪魔をするものは容赦なく…」という気持ちでいるのだが、それでも、どうやっても止められないのか、押さえられないのかという無力感が湧いてくるのは否定できないのだ。正直、周囲で聞く話は暗いものばかりだ。

 配偶者が昨日げっそりした顔で研修が中止になったと話してきた。職場の研修が市の施設で行われる予定があり、そのときはレポートを書かないといけないからといって、上の子に代筆のアルバイトをしないかといって、教条主義者の娘に叱られたりしていたのだが、レポートどころか研修そのものが中止になった。また、ママさんバレーやミニテニスなどのスポーツを楽しんでいる団体も公共の体育館や施設(中にはソフトバンクのキャンプ地で有名な生目の杜運動公園や、ジャイアンツでおなじみの木花の運動公園を初めとした)が全て無期限閉鎖になったため、活動停止に追い込まれている。さらには、これから夏の甲子園の予選もあるのだが、県の高野連の通達で県外遠征や対外試合が禁止、児湯地区の高校はグラウンドも練習場所もままならない。

 下の子供がこの前学校の先生から聞いたといって話してくれたのは、今埋却作業に県立高校の先生方も駆り出されているらしく、朝一番で集合し1台のバスに分乗して現地に入るそうだ。もちろん処分される牛や豚の数は半端な数ではないので、死体をクレーンで吊り上げて穴に埋めるのは専門の作業員がいるのだが、その応援で手伝ってる間に内臓を飛び散らした牛や豚の死骸を数限りなく見るので、お昼に配られる弁当を誰一人として手をつけないそうだ。そういった現場をやはり、国の偉い人たちは見るべきではないのか。その状況を目に焼き付けた中で、これ以上の不幸を発生させないために20日までに埋却作業を完了させろという指示と具体的方法、応援の物資、予算などを手配するのが本来ではないのか。

 先日、口蹄疫に対するささやかな抵抗として仲間と街に出て宮崎牛のホルモンを食べに行った。週末の金曜日だというのに、人出は少なかった。それまでも、そんなに活気のある街ではなかったが、それでも週末はそれなりに賑わっていた。ここでも口蹄疫の影響が出ているんだろう。酔っ払った頭でちらっと考えたのは、今、獣医さんや警官、自衛官など県外から大勢の人が来てくれているが、殺処分の現場の悲惨さや、消毒スポットでの大変さなどを刷り込まれてしまい、今後二度と宮崎に観光に来たいなどとは思わなくなるだろうな、ということだった。一般の暮らしにもさまざまな影響は出ている。図書館も無期限閉館だ。夏祭りやさまざまなイベントも中止に追いやられている。

 僕のblogを読んでくれる数少ない同志・友人諸君(!)は、拙blogのパターンとして週末は家族でどこかに出かけて、そこでお父さんが一人疎外されてスねまくるという毎度毎度のワンパターンエントリーを何度か読まれたことがあると思う。しかし、この口蹄疫が広まって以来、自分自身の生活感からすると5月の連休明けからはどこにも行けない日々が続いています。いや、決して強制されているわけではないのですが、自分の行動がウイルスを広げることになるかも知れないと思うと、気分転換やレクレーションなどどうでもいい、早くこの災害が治まらないかということだけを考えて、気持ちも盛り上がらないんです。ましてや、この災害と全力で闘おうとしている人たちの前で参議院選は予定通り行います、これは「天災その他避けることのできない事故」の場合ではないから「繰延投票」に該当しないなんて見解を出してくれるありがたい総務省。さらに、これは怪文書なんですかと尋ねたくなる平成22年6月11日付けの内閣官房長官仙石由人名義の「口蹄疫対策に関する指示書」の2項目。『県や町の瑕疵等の問題は脇に置いて』という表現。県や町の『瑕疵』でここまで被害が広まったと、国は全力で対応したと、反省するところは何もないといいたいのだろうか。ああ、ええかげんにせんと気ぃ狂て死ぬ(by INU)。

 とにかく、日々こういう精神状態でいつものような話が書けません。もちろん、現場の人たちのご苦労に比べたら「屁」みたいなものですが、今宮崎ではワールドカップどころじゃないんだよね。日本全国みんなおなじ関心興味だと思ったら大きな間違いなんだよな。ま、もっともそういう辺境の地は切り捨てろというのはあの戦争の頃から変わらないのだろうけど。あ、ちょっといい話で宮崎出身の今井美樹とコブクロの黒田と町田先生を殴ったことで男を上げた布袋で宮崎応援の歌を作ってくれたらしい。素直にありがたい。ああ、もうこんな時間か(午前0時56分)、寝よう。ストレス溜まってるし、頭の中は何も考えられないので今日はこれでおしまい。



 こんなのどかな日がもう一度やってきますように。

宮崎日日新聞「激震 口蹄疫」

これが『終わりの始まり』ではないように祈りたい

 ついに恐れていた事態が発生した。えびの市の口蹄疫がようやく収まりつつある中、都城市で口蹄疫が発生したようだ。何とかここで食い止めないと、悲惨なことになる。

6月10日、ついに今日は宮崎市と日向市にも口蹄疫が発生した。国道10号線ラインと西環状線ラインだろうか…。えびのの対応を教訓として、何としても食い止めなければならない。消毒は積極的に協力して行こう。不要な外出は極力控えよう。昨日は子供たちが、今年はどこも夏祭りがないのかと聞いてきた。それどころの話ではなくなった。終わりの終わりにするのだ。

あの頃の女の子の話(羊頭狗肉とも言います)

 懐かしい声を聞いた。多分、いや間違いなく30年以上聞いてなかった声だ。今日、昼食を取っていたときに携帯の青ランプに気がついた。着信のしるしだ。画面を見るとK平先輩の名前が出ている。平日の、しかも月曜日のランチタイムにいったいぜんたい何だろうと思ってかけなおしてみた。「あ、車の運転してたの?」と聞きなれた声がしたので「いや、今飯食ってたんですけど電話バイブにしてたもんで、気がつきませんでした」と、こちらは後輩なのでちゃんと敬語で話した(このあたり、某sugarmountain君あたりは見習って欲しいものだ。『長幼の序』という美しい言葉もあることを学んで欲しいものだ、っていい加減くどいですか、そうですか)。電話の回りはずいぶんにぎやかで、K平さんもどこかの出先から電話しているようだった。時候の挨拶が済んで、「…じゃあ、サプライズ・ゲストに代わるからちょっと待って」と言ったかと思うと、突然、明るい女性の声が響いた。「××君(僕の苗字)?うわー、久しぶり、もうかれこれ30年以上やね」と話しかけてくるその人は、サークル時代の同級生、Hさんではないか。

 実は、この電話での再会には先ほど登場したsugarmountain君も関係しているのだ。彼は79年度生だから、75年度生のHさんとは面識はないのだが、あれ、僕も同じ75年度生なんだけど、面識があるどころか彼の面倒は2年間見てやったはずだ(一人で喫茶店にも入れない、見た目と裏腹の地方出身の彼を何とか人前に出せるようにしたのは、オリテやEVE実などで僕がこきつかってあげたおかげである)おかしいな、計算が合わないが、まあ細かいところはどうでもいいか、いや、早い話が僕が6年間大学にいたからなんだけど、その手の話はまた今度。ええと、sugarmountain君が『鳥肌音楽』というblogをやっていて、そこにPurple_Hazeさんがちょくちょくコメント書いたりしてたのだが、いつ頃からか僕もそこに乱入することが多くなり、その僕の書いたコメントからPurple_Hazeさんが僕と同学年だったことに気付きお互いのblogを行き来するようになり、さらにそこから岐阜のTHIS BOYさんも花のD大75年度生だという事が分かり、まあ、それ以来親しくさせていただいていた。

 で、今年の2月初めだったか、Purpleさんから突然メールが来て(ちょっと、余計な話だが、この「突然メールが来て」という言い回しは僕もよく使うが、表現としてはおかしいんじゃないだろうか。「突然~が来る」というのは、予想も予測もしていなかった物や事がやってくるということであって、人間は神様じゃないから「お。もうすぐ誰かからメールが来そうだな」などと考えることはあまりないのではないか。いや、絶対ないとは言わないが、多分にないことのほうが多いような気がする。だから、「突然メールが来て」などと書かずに「メールが来た」と書けばいいようなものだが、そこはそれ、本人がまったく予想してなかったというニュアンスを出したいので、ついつい、こう書いてしまうんだよな。ま、多めに見てちょ。ちなみにこういうカギカッコの中の話を蛇足という、いやー勉強になりますね)、その中にD大75年度生のHさんの名前が出ていたのだ。要するにPurpleさんは学部・学科も同じ、ゼミも同じだったのだがどうもはっきり思い出せない、HさんもDRACにいたらしいので、何か情報は知らないか、というような内容だった。

 今、思い出したが、ちょうどその時期に僕は長い間押し入れにしまいこんでいたアルバムなどが出てきて、そこには70年代のああ恥ずかしい、肩まである長髪、ベルボトム・ジーンズのわが姿や薄汚いアーミー・ジャケットにストレートのブルー・ジーンズ姿や、これはいったい何をトチ狂ったのか理解に苦しむが水色のツナギ(見ようによってはちょっとDEVOぽく見えなくもない)を着て鳥取の海を眺めている写真や、パンク・ニューウェーブ全盛期の髪の毛バッサリ、色鮮やかな緑のパンツに派手なカラーシャツにバッジをいっぱい付けた、見るからにハクチ的な写真などが出てきて、これらはすべて無かったことにしようと思ったが、それでも僕の学生時代の写真というのはあまりにも少ないので、ま、笑ってごまかせるものは残そうと整理を始めた時だったのだ。そういえば緑のオーバーオールを僕は着ていた時期があり、しかもその時の履物はかかとの高いサンダル、ま、ポックリみたいなものだが、そういう恰好をして今出川界隈を平気で歩けたというのは若さの特権だったのだろう。早い話が、人間若いころはバカだということだな。ま、今でもバカではないかと問われればあえて否定はしないというか、できないのだが。その一連の写真の中に大学2回生のときの鳥取合宿の写真があって、そこにHさんが映ってるものもあり、それをPurpleさんにメールしたのだ。

 そこから、Purpleさんの記憶も鮮明に蘇り無事Hさんとネット上の再会を果たし、僕もHさんから直接メールをもらい、お互いの近況を情報交換したのだが、彼女はなかなかにシャイな人で僕やPurpleさんのblogにコメント書くこともなかった。というところで、ちょっとまた空白の期間はあったが、本日、無事30年ぶりにお互い声を聞くことができたという話である。しかし、こうやって考えてみるとネットの力はすごいものがある。もしネットが存在してなければ、今日、このエントリーに書いた人たちとの再会はなかった(いや、中には学生時代には面識すらなかった人もいるわけで、そうするとネットがなければ、あるいは僕がblogを始めてなければまったく縁がなかったことになるな。うーん、何だか不思議な感じだ)。で、ずいぶん前ふりが長くなったが、今日はそのHさんの話というか、僕のいたサークル、DRACの女性について覚えていることを書いてみよう。あ、これは、75年以降のDRACという狭い社会の話なので、関係者以外は全然つまらない話になるかもしれないので、あらかじめお断りしておきます。

 サークルに入ったばかりの頃の話は以前「DRAC興亡史」シリーズとして書いたことがある(あ、このシリーズも竜頭蛇尾というか、確か75年の前期で終わってるな、EVEの話はまだ終わってなかったはずだ、反省)。75年の5月の連休後に入会して、そのときに会った先輩や同級生の印象ははっきり覚えているのだが、女子部員の印象が薄い。いや、これは別段気取っているわけでもなんでもなくて、まず第一に女子部員の数が圧倒的に少なかったことと、1学年上にとんでもなく苦手というか、性格が合わないというか虫が好かないというか、ええい、じれったい、はっきり言うと大嫌いな人がいたのよ。しかも、オレはその大嫌いだった先輩の操を守るため、頭のぶっ飛んだお兄ちゃんにブッ飛ばされて、先ほど書いたかかとの高いサンダルを使えなくされ、一番気に入っていたベルボトムのジーンズの膝に穴があくという悲劇に見舞われたこともあるのだ。このあたりの話は「アウトオブザブロークンマインド 後編」に書いてあるので、興味を持たれた方はどうぞ。

 うーん、今トイレに行って、それから過去のエントリーを見直してみたけど、やはり入会して最初に会った女子部員は誰だか覚えていない。可能性としてはS本さんが高いのだが、僕の中の何かがそれを拒否している。無意識の意識だ、などと書いてもしょうがないか。今、とにかく思い出すのは僕をいつもからかっていたT永さん(通称、アサさん)、しかし、このアサさん優しいところもあって、出町時代に何故か部屋でご飯を作ってもらった記憶がある。非常に残念だが1対1ではなくて、たしか同級生のN谷と故M原、あと何人か後輩がいたと思う。いったいどうして、そんなことになったのか、確かEVEの準備か何かで遅くなって僕の部屋に米や味噌はあるが、あとは何もないとかこぼしていたら同情してくれたのだろうか。鰹節で出汁を取ってお味噌汁を作ってくれたこと、その鰹節をすくのにフライパン返しを使ったこと、生野菜を適当に切ってそこにサラダオイルと味塩をかけるだけで、結構おいしいサラダが出来たことなどを覚えている。女の子がそうやって甲斐甲斐しく作業するのを見て、一瞬胸がキュンとなりアサさんのことを好きになりかけたが、下品なことでは人後に落ちないN谷がニヤニヤしながら「お前なんかヤラシイこと考えてるのと違うか」などとズバリ指摘され、いや、その、恋愛というのは錯誤からうまれることもあるのだなと。え、その時の感情?気の迷い、気の迷い。あ、そういえばそのときHさんも一緒に、いなかったよな、うん。

 おっと、話が一気に飛んだが、まあ、そのT永さんと今日、久しぶりに声を聞いたHさん、後女子大の子でK谷さんって子がいた。この子は結構化粧も派手で、ミニスカの似合う子だった。しかし、大変残念なことに1年もしないうちに辞めてしまった。そうなのだ。我がDRACはもともと女子部員が少ないうえに、入ってもすぐ辞めてしまうのだ。当時は1年上のS本さんが、全男子部員の注目を集めたいから女子部員が入ったらいびって追い出すのだという説がまことしやかに流布した。発生元はF田君だったか、それとも先輩たちだったかもう覚えていない。しかし、今冷静に考えてみると、もともと女の子の相手をするには野暮ったいというか、薄汚い野郎どもばっかり(例外はE副くらいだったっけ、あ、先輩の中にはK平さんを始めモテモテの人もいたけど、と、さりげなく上の人に花を持たせる、憎いね、この、ってオレ頭大丈夫だろうか)だったので、せっかく入会した女の子も居心地が悪くなって辞めていったのだろう。

 と、ここまで書いてえらいことに気がついた。じゃ、3回生までしょっちゅうDRACに入り浸っていたHさんやT永さんはどうなるのだ。あわわ、世の中知らないほうが幸せなこともあるんじゃないか。ゴホン、えー、話がまとまらないので、ここは僕とHさんの思い出の曲で締めたいと思います。もちろん、モット・ザ・フープルです。Hさん、普段はおとなしいけどモットの研究会のときだけはブイブイ言ってたよね。そうそう、1年下にはストーンズ関係は誰にも文句言わさんぞというI川女史もいたなぁ。彼女も4年間しょっちゅうBOXに来たけど、いや、その、別に行くところがなかったなんて誰も言ってない、などと、今気がついた。僕は自分で墓穴を掘るタイプだ。



梅雨が来る前に、あ、あれは冬が来る前にだったっけ

※あらかじめお断りしておきます。今回久しぶりの馬鹿話を書こうとしましたが、この間の怒りの日々のため、書き方を忘れてしまいました。したがって落ちも何もありません。ただひたすら、だらだら思い出したことを書いてるだけです。怒っちゃやーよ。

 6月に入って、天気がどうも落ち着かない。きれいに晴れていたかと思うと、急に雲が出てきて、かと思うと、いつのまにかしとしとしとしと雨が降り出して、このまま梅雨に入るのかな、鬱陶しいななどと思っていたら、まるで滝のような大雨になり、ひどい降りだな、びしょぬれだなどと思ってしばらく経つとピーカンに晴れていたりする。この国のトップが替わるとか、口蹄疫だとか沖縄の普天間の問題だとか、この間いろいろなことがあったが今日は好きな音楽のことや馬鹿な話を書いてこれまでの憂さを晴らそう。しかし、今ネットのニュースをぱらぱら見てたけど「新首相の奥さんは年上の従妹」だとか「実は4月に鳩山総理は辞意を漏らしていた」とかもうどうでもいいというか、コロタマ野郎の話ばっかりでいい加減厭になる。あ、コロタマ野郎というのは、さっき思いついた造語。コロンブスの卵野郎という意味である。

 で、やっぱり恐るべきはYOU TUBEというか、実は先ほど自分のblogのアクセス解析をしていたら、「嘘みたい」という検索ワードで来訪された方がいて、その先をたどっていくとなんと昔懐かしいといっても、ごく一部の深夜放送マニアしか反応ないかもしれないが、いや、これまたカルト的なC級アイドル好きがもしかしたら反応するかもしれないが、っていい加減前ふりがしつこくてスマン。えーと、つまり、カルメンの「嘘みたい」がアップされていたのだ。それも1年前から。アップ主は、なんとこの前の「変な歌」シリーズでソルティ・シュガーや「ケメ子の唄」なんかでもお世話になった方であった。結構、物好き、いや、その、ゲテモノ、いや、あわわ、マイナー盤愛聴友の会のメンバーではないかと思われ…、いい加減にして貼ります。いやー、しかし懐かしい。ご存知の方はご一緒に歌いましょう。♪なーぜ、おーとこはみーんな~



 もちろん、この歌は初めて聞いたというヤング(いや、どう考えてもオイラのblogにヤングが来るとは思えないが、もしかしたら貴重な20代がいるかもしれないので、っていい加減に若者のことを「ヤング」と呼ぶのは止めたらどうだという声も聞こえるが、「声なき声」は聞かなくていいというか、そんなものは存在しないのだというのを60年安保の岸君からついこの前のハトちゃんまで我が国の歴代権力者が態度で示してくれたから、刷り込まれてしまったのよ、こんな時代に誰がした、って人のせいにしたらいかんがな、おっちゃん、堪忍や、キャインキャイン)にも、非常に聞きやすかったのではないか。とりわけ60年代末から70年代のヒット・ポップスが好きな人には思わずにやりとしてしまうフレーズがあちこちに入っていたことに気付かれただろう。コーラスがなんていうか、チューリップぽいというか、下手なビートルズだよね。で、後半のコード・チェンジの後のサウンドは、音の絶対量が不足しているウォール・オブ・サウンドって矛盾した言い方だけど、分かる人には分かってもらえると思う。そういえばジャケット写真は国会前の横断歩道を歩いている写真(カルメン本人が映っているらしいが)だが、どことなくアビー・ロードに見えなくもない。

 この歌は2年後にゴールデン・ハーフ・スペシャル(確かそのうちの一人が元サザンの大森の嫁さんのハズ)が、シングル・カットしたけど、それほどヒットしなかった。しかし、である。この歌作ったのは、あの「初めてのチュウ」を作った実川俊晴氏、そしてなんと演奏にはギターにクリエイションの竹田和夫、ドラムはつのだひろだ。凄いメンバーだけど、あんまり真剣にやってないというかオフザケという感じだな。でも、そのちょっと脱力した感じにカルメンの微妙にフラットする声がマッチしていて、受験勉強で巻きすぎた頭のねじ(by Pantax’s World)を緩めるのにちょうど良かった。というほど、熱心に受験勉強はしてなかったかな、なにぶんにも大昔のことなので後で歴史年表で調べてみないと何ともいえない。

 で、そのちょっと前くらいの時期だったか、五輪真弓という人がいて、いや、カルメンとは全然関係ないのだが、凄いバックミュージシャンつながりというのと深夜放送で良く聞いたという共通項で話をつなげるのだが、今、Purple_Hazeさんがご自身のblogで「無人島の10枚」という企画物を書いていて、そこにキャロル・キングの話が出ていて、そういえば五輪真弓がデビューした時はデビューアルバムがロサンゼルス録音でキャロル・キングのレコーディングメンバーやキャロル・キング本人がセッションに参加したことが凄く話題になり、当時ほぼ同時にデビューしたユーミンなんかよりはるかに広告費をかけてCBSソニーからプッシュされたのだ。しかし、デビュー作の「少女」(シングル、アルバムとも)はちょっと暗くて、後年大ヒットする「恋人よ」(ちなみにこの曲は辛気臭くて僕は全然ダメです)の片りんをうかがわせるところもあるのだが、どうにも苦手でした。しかし、この歌を初めて聞いたときに、その歌詞の良さ、演奏の良さ、もちろん五輪真弓の独特の声がぴったし合って、深夜一人で感動していたことを思い出した。それでそそくさとライブアルバムを買ってライナー読んだら(本人がライナー書いていた)、「この歌は初めて作ったメジャーの曲です」とあり、なんだ、この人は今まで作った曲はすべて短調の曲ばかりだったんだと変な所に感心した。またもや、YOU TUBEからだけど、これは1977年10月10日(当時は体育の日で祭日でした)に放映されたものだ。



 五輪真弓はピアノではなくキーボードを弾きながら歌っているが、歌もいいけど演奏もいいでしょう。僕が買ったライブアルバム『冬ざれた街』は渋谷のジァンジァンのライブでアルバム最後にこの歌が入っていた。ほかにも「It’s too late」や「You’ve got a friend」なんかもやっている。そして、そのときのライブのメンバーというのが、石川鷹彦(アコギ)、村上ポンタ(ドラムス)、深町純(キーボード)、大村憲司(E・ギター)という超豪華絢爛、当時の最強メンバーではないかというもの。で、このヨルヒのバンドマンたちは、ドラムはポンタ、キーボードは深町、ギターは大村だと思うが、ベースは吉田健?ちょっと自信がない。で、記憶というのはあてにならないもので、僕は『冬ざれた街』に「酒酔草」が入っていたと思い込んでいた。♪もう少し飲みましょうよ、今夜はとてもいい夜だから~というサビがとても印象的な歌だったよな。五輪真弓には、もう1曲大好きな歌があって、これはこれからの季節に多分繰り返しテーマソングとして聞くだろう。「ミスター・クラウディ・スカイ」だ。そうか、「空」は男性名詞なのか、と高校生だった当時思ったな。



 イントロのおおらかな歌いだし、バックのリラックスしつつそれでも緊張感を持った演奏、途中スタッカートで歌われるところなど、大好きなのだがこの歌どうもニール・ヤングの「See the sky about to rain」に発想も音のイメージも似てるんだよな。どちらも74年の発表だし、まさか、パックリさんじゃないだろうな、ま、どっちでもいいけど。で、ニール・ヤングには「be about to」というイディオムを教わったが、前にも書いたが「locomotive」の意味を調べなかったせいで試験の点数が取れなかった苦い思い出がある。今となってはどうでもいいが。そうそう、先ほどの「酒酔草」が『冬ざれた街』にインクルードされていたと錯覚した原因が分かった。『冬ざれた街』を気にいった僕は、その足で四条の十字屋に行き五輪真弓のオリジナル3作目である『時を見つめて』を買ったのだ。1曲目に「ミスター・クラウディ・スカイ」が入っているこのアルバムに「酒酔草」が入っていて、当時大学1回生でようやく日本酒の味を覚えた僕に♪もう少し飲みましょうよ、今夜はとてもいい夜だから~と誘ってくれるおねーさんが、いつの日か現れるはずだと固く信じながら夢見ていたんだよな。あれから幾星霜、いまだにそういうことを言ってくれるきれいなおねーさんは出てこない。だから♪今夜も愛をさがーして~と孤独な日々が続くのだ。って、ほら、久しぶりの馬鹿話だから落ちが決まらなかった、これもすべて時代のせいだ。

最終指令自爆せよ、ということなのか!?

 午前中ネットのニュースで鳩山総理の辞任を知った。昨日、たかだか2時間宮崎に来てなんだかんだ言ったのは一体何だったのか。通りで何一つ具体的なことを言わず、被害の現地にも行かずハイさようならだったんだな。いい加減なめきっている。このニュースを聞いてすぐに頭に浮かんだ歌があった。懐かしいNHKの朝のドラマ、『鳩子の海』の挿入歌だ。♪ニッポンよ、ニッポン~(中略)、まだ守れぞ、時間はあるぞ、というフレーズだが、「まだ守れる」のだろうか、本当に「時間はある」のだろうか。鳩山首相の宮崎入りについて、いろいろ書きたいこともあったが、もはや言葉も出ない。しかし、最高権力者が簡単に職務を放棄できる、我が祖国ポンニチは素晴らしい新世界だなぁ…。



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