踏んだり蹴ったり


ちょっと事情があって、今ネットが出来ない環境にいる為エントリーは携帯から送っている。文字が小さいのは、そのせいだ。さて昨日メガネが壊れた話を書いた。で、さっき晩飯を食べて、まあ汚い話だが水で口の中をグチュグチュとゆすいでいたらカチンという音がした、あれ?と思った瞬間、奥歯に空間を感じた。そう、歯の詰め物が取れたのだ。

やれやれ、今度は歯医者のお世話になるのか。そういえば我が家のPC、最近電源入れるとなにやら物凄い音がするけど、あれもメンテが必要なんだろうか。そうだ、車もオイルの減りが早いけど大丈夫だろうか。

ここまで書いて最初のところを読み返したら、僕の体で悪くなったのは、最初が目、次が歯、ん、その次は…。いや、そんな事はゼッタイない。あってたまるか!!!

えー、わからない方はスルーして下さい(笑)。で、写真は地元の新聞の健康コラム。以前、「天気あたま」の話を書いた事があり、その時はこの言葉は方言かも知れないと書いたが実際にあるらしい。以下、引用する。

…「曇天には頭痛を感じるなど天気のいかんにより故障を感じやすき頭」。1936年刊の「大辞典」より。お天気博士の倉嶋厚さんのエッセイから、らしい。
スポンサーサイト

壊れかけの…メガネ


長年使っていたメガネのフレームを傷めてしまったので、購入したメガネ〇ーパーに行った。店員が調べて、フレームの接続が金属ではなくゴム製なので修理のしようがないと言ってきた。金属だと熔接すれば何とかなるが、ゴムだから切れたら終わり。なるべく大事に使ってくださいとも言われた。

調べてもらったら、かれこれ7年前に7万ちょっとで購入してた。『な、七万円か…』と、Baby,途方にくれてるのさ(by ストリート・スライダース)的な顔をしていたら、店員が少し早口になり今なら5万とちょっとでも作れますとも言った。どちらにせよ、痛い出費なので少し検討すると言って店を出た。お見送りはなかった。

家に帰り配偶者に言ったら、どっちにしても作らないと困るけど、一度眼鏡〇場に行ってみたらと言われた。以前、配偶者と子供たちのメガネを作った事があり、その時かなり安くてサービスもよかったらしい。

あまりあてにせず、今日行ってみた。壊れかけのメガネを店員に渡し、同じ物を作るとしたら、ナンボ、と投げやりに聞いたら、一万八千九百円と言う。「ふ、フレームは別やろ」と尋ねたら、ベンベン(意味はない)、「もちろん、コミです」。パリコミューン万歳、万国のプロレタリアート団結せよ。もちろん、すぐにお願いした。カードで金利がかからないよう二回払いにする、というテクも使った。オマケにレンズの厚みをカバーするためにカラーコーティングをしたらという提案までしてくれた。最後は、お見送りまでしてもらった。満足である。






ん、ちょっと待て。じゃ、最初のメガネ〇ーパーは何だったのだ(怒)!!

風疹顛末記 学生時代のフィールドワークより

 いやー、人間の記憶なんてのは当てにならない。前回書いた銭湯の洗髪代だが、K平先輩のコメントで思い出したが、少なくとも75,6年の修学院時代は払ってなかったな。そうすると77,78年の出町時代か79,80年の烏丸中学前時代のどちらかないし両方だと思うがはっきり思い出せない。もしかすると完全な記憶違いで、洗髪代などなかったのではないかという気もしてきた。まあ、所詮人生なんてうたかたの夢、幻なんだからどうでもいいか。などと、姑息に話を誤魔化そうとしているのだが、早速前回の続きを書いて早く寝なければ。

 深夜、多分午前2時前後だと思うが、洗面所の鏡に映った己の姿を見てクリビツテンギョウ。顔といい胸といい腕といい、要するに皮膚で覆われているところは全て赤いテンテンが出ている。いや、赤い色は決して嫌いではない。どちらかというと積極的に好きな方だが、テンテンはあかん。第一気持ちが悪い。テンテン、ノーノーである。まあ、どうやら間違いなく風疹にかかったと自己判断して、ベッドに戻り崩れるように寝た。その前に、多分熱が出るだろうと予想していたので、電気ポット(最近のボタン一つで再沸騰したり、沸かしたお湯をそのまま保存できるような洒落たものではない。今時の方はご存じないだろうが、外側は真鍮だろうか、いわゆるポットの形状をしていて底部にニクロム線が入っていてコンセントにつなぐとジーッという音がして数分するとカタカタカタカタとお湯が沸騰しその蒸気の力で上の蓋が動き出し、慌ててコンセントを抜いて数分すると冬場なんかはもうお湯がほとんど水に戻ってしまうという悲しい電化製品だった。ちなみに僕はその電気ポットいや先ほどネットで調べたら保温機能がないものは電気ケトルというらしいので、電気ケトルにインスタントラーメンをぶち込み沸騰させ、勿論粉末スープもケトルの中にぶち込み、取っ手の部分を持ってそのままラーメンを食べ、スープは注ぎ口からそのまま飲むというワイルドな調理&食事をしたことが何度もある。どうや!!)に水を一杯入れて、念のため冷蔵庫に入れておいた水差しにも水をタップリ注いでおいた。

 さて、それから数日間というものは高熱が続き、全身が痛く食欲は全くなし。ただ水だけを飲み、気がついたら下着を替えて、全身の汗を拭く、という毎日だった。この間奇跡的に誰一人下宿に来ず、電話もなく下宿の仲間といったって一番親しかったAさんはT原さんのドーカツで下宿を引き払っていたし、2階の京大連中とは全く付き合いはなく、向かいの社会人の人も生活の時間帯が違うので声をかけてくることもなく、いや正直心細いのとしんどいのでこのまま死んでしまうのではないかと思ったこともあった。下宿の電話は僕の住んでる棟には置いてなくて、別の棟にあるのだが起きてそこまで電話をかける気力も体力もなく、ただひたすら寝ては水を飲むという生活であった。あ、勿論トイレには行ったがそれも半分這うような状態で行って部屋に戻るという有様だった。

 体温計を持っていたので、ときどき測ったが最初のうちは39度以上ありそれを見ただけで目が回るような状態だった。しかし、ひたすら水分補給して汗を拭いて下着を着替えるという作業をしていくうちに3日目くらいになるとどうにか身体も多少は動けるようになり、このまま寝ていてもどうしようもないと思い近くの病院に行った。待合室に入ったら、同じ赤いテンテン仲間が数人いた。名前を呼ばれて診察室に入ったら、医者が開口一番「あ、風疹だね。いつから?」などと気楽に聞いてきた。僕はそれまで抱いていた疑問をぶちまけた。「先生、僕は3歳のときに風疹かかって免疫あるんです。それなのになんで又風疹にかかったんでしょうか」。医者の答えは明快だった。「あ、免疫って永久的にあるもんじゃないんですよ。風疹なんかはせいぜい5年(ここ正確な数字は忘れたが、え、たったそれだけしかないのってくらいの数字だった)。じゃ注射してお薬出しときますから。そうそう、それからこの治りかけの時期が一番人にうつすからくれぐれも人のいるところには出ないように。そうだな、あと3,4日は自宅で安静にしておくようにね」

 『人を見て法を説け』という言葉がある。その意味は「相手の人柄や能力を見て、それにふさわしい助言をすべきである。人(にん)を見て法を説け。」(デジタル大辞泉より)ということだが、この先生は僕という人間をあまりにも知らなさ過ぎた。僕が下宿で七転八倒していた3日間、誰一人として僕の見舞いには来なかった。いや、僕が病気で苦しんでいるかどうかは分からなかったかもしれない。しかし学校の授業には出ないが別館のBOXを2日空けることはゼッタイない、この僕が3日も姿を現さなければ、普通何かあったんじゃないか、もしかしたら北×鮮に拉致されたんじゃないか、とか誰か心配して電話するなり下宿に様子を見に来るなりしてくれてもいいだろう(実はその後、月の半ばにお金がなくなりBOXに顔を出さないことがあった。そのときは先輩のT原さんやS賀さん達が米や味噌を買ってきてくれたことがあった。一応彼らの名誉のために書いておく。もっともそのときに味噌をケチった味噌汁を作り、それからしばらくはマラソンランナーといわれた。その心はセコ選手っても知らねーよな。SBに所属して婚約者いるのにセコセコ見合いしていた男だ)。

 まるで「走れメロス」の導入部のように怒り心頭に発した僕は(いや、どう考えても誤爆ですが)、医者の忠告どおり病院を出た足で別館に向かった。心なしか今出川通りを逆方向から歩いてくる人が大きくよけて道を開けてくれた。おお、モーゼのジュッカイだ、気持ちは駆け足で、しかしながら体力全然ないのでフラフラしながら別館の階段を4階まで上った。

 BOXの黄色いドアを開けると、中には数人のサークル員がいた。全員が僕の方を見て「ウワー」と叫んだ。「どしたん、オマエ、何があった!!」「水疱瘡か?」「なんやその斑点は」「オマエ、これ風疹やろ、出てきたらあかんやないか」「このどあほ、風疹うつしにBOXきたん違うか」。最後の発言はS戸君であった。流石に1回生からの付き合いで僕の性格を良く知っている。僕はみんなのおびえる姿が嬉しくて「おう、正真正銘の風疹や、たった今、医者から宣告された120%混じりけなしの風疹や、どや。お前ら知らんやろ、風疹は免疫きかんのやぞ。熱が39度以上でるんやぞ。水しか飲めんのやぞ。まともにメシ喰えんのやぞ。バナナも缶詰も食べられへんのやぞ…」と、最後の方はただ単にお金が無いだけではないかと突っ込まれそうな話なのだが、一応みんなしんみりと聞いてくれた。口々に大変だったろうとか、腹減ってるなら学食でうどん買ってきてやろうかとか、飲みかけのハイシー果汁100%やるわ、とか何とか早めに僕に帰って欲しくて心にもないことを言い続けていた。

 そうこうするうちに僕はちょっと目眩がして立ってるのもしんどくなった。「あかん、帰るわ、でも途中で倒れるといかんからS戸、下宿まで一緒に付き合ってくれ」と万一のことを考えてS戸君に下宿まで送らせた。

 それから2,3日してすっかり元気になってBOXに顔を出すと、皆からもう風疹は大丈夫かとか、ちゃんと薬は飲んだかなど言われたが、僕を下宿まで送ってくれたS戸君の顔が見当たらない。「あれ、S戸は今日は授業出てるんか?」と尋ねたら、ケペル先生に良く似た男が「あほ、あいつ風疹かかってエライ目にあっとるわ。おかげでうちの北白川の下宿も風疹はやってえらい迷惑や」と。振り向くとF田君が、お、お前はおたふくにかかったのかといいたくなるくらいほっぺたを膨らませていった。「ほんまか、S戸、風疹かかった?で、お前は?」と尋ねると、「あほ、オレはそれどころやなかったんや」。何がそれどころではなかったか、まあ間違いなくどうでもいいことだろうから僕はスルーした。

 数日後、まだ顔のあちこちに斑点が残ったS戸君がBOXにやってきた。僕をさんざんののしるので、流石にちょっと悪いことをしたかと思い僕の行った病院を紹介して、そこに一緒に行ってやった。待合室で待っているとS戸君が憮然とした表情で出てきた。「どうや、やっぱりオレのがうつったんやろ」と聞くと、彼は首をふり「いや、先生が言うにはこの病気には潜伏期間があって、オマエの風疹からうつったんじゃないんやて。どうも、オレもお前も同じ時期に多分同じ人間からうつされたんやないか、やて」。

 結局、誰が風疹のブリンガーだったのか分からないままこのフィールドワークは終了した。しかし、考えてみたら当時はしょっちゅう雀荘で麻雀したり、河原町今出川のキングやラッキーでパチンコしていたから、そのあたりでもらってきたのか。はっ、今思い出したけど、その頃エイリちゃん、風疹かかってなかった?などと、自分が不利になるとすぐ誰かを巻き込もうとするワタクシでした。ああ、やっと終わった。

この前の話の続きだが完結せず 学生時代のフィールドワークより

 この前、出町の下宿時代の話を書いたが、実はあれはああいう話ではなかった。いや、確かに実際にあった話なのだが、最初書こうとした話ではなかったということだ。状況的には77年の5月の連休が過ぎた頃で、Aさんが不本意にも下宿を引き払った頃ではあるのだが。ということで、今日は前回書き忘れたというか、急遽北北西に進路をとったために危うく記憶の底に沈んでしまいかけた話を書いてみたい。例によって、くだらない馬鹿話になること請け合いなのでお忙しい方や今のわが祖国ポンニチを憂える方などは読まずに無視して頂いた方がいいかもしれない。

 皆さんは「風疹」という病気をご存知だろうか。いわゆる「三日はしか」というやつである。この病気は6~9年おきに大流行する傾向があるのだが、ここ最近はあまり見聞きしない。実は77年というのは、その風疹が大流行した年で新聞やテレビ・ラジオでも結構取り上げられていた。僕は3歳くらいの頃にかかった記憶があり、免疫があるので大丈夫だと思い込んでいた。そう、あの日銭湯から帰ってくるまでは。

 貧乏学生時代、風呂代というのは結構馬鹿にならなかった。特に、当時は男性でも長髪がブームであり、身なり風体に一切気を使わないフーテン学生たちはずいぶん髪を伸ばしっぱなしにしていた。K平先輩など、そのあまりにも長い髪とルックスから「ミュータント・サブ」などと呼ばれていたこともある(覚えてますか?F田君がよくそういってました、ってまさしく「センパーイ、あんなこと言ってますよ、良いんですか~」といいたくなるようなフレーズだ)。おっと話がそれた。つまり風呂代(当時120円くらいだったか?ここを参照)が単に風呂代だけではなく、髪を洗うかどうかで追加料金が取られていた時代なのだ。銭湯というのはエントランスが2つに分かれていて、通常「男湯」と「女湯」とある。その真ん中の少し高い位置に番台というところがあり、独身男性にとってベストプレイスと呼ばれていて、実際、その前を通るときは何故か「おかみさ~ん、時間ですよ~」と叫びたくなる摩訶不思議な関門であった。

 そう、関門、そこで風呂代を払うのだが、セコな野郎はなるべく札を出して、番台の人がおつりを出す間、それとなく女湯をのぞくなんて風情もあった。いや、オレはやったことないけど。で、話がもう支離滅裂だが、そこで風呂代を払うときに、髪の毛を洗うかどうか自己申告して、髪を洗うときは洗髪代として別途おあしを払わなければならなかったのだ。と、ここまで書いて、先ほどの銭湯料金のHPを見直してみたら、東京は昭和45年以降洗髪代は廃止になったと書いてあった。うーん、少なくとも京都はあったぞ、これはどういうことだ。やはり、学生の町京都なので、洗髪代を徴収しないと銭湯の経営上差しさわりがあったのだろうか。

 いや、問題は洗髪代ではなくて、要するに風呂に入るのに100ウン十円払うというのは、貧乏学生にとっては結構大きな出費で、何せ、王将の餃子が120円であと40円出せば揚げそばが食えたわけだから、そうしょっちゅういけるものではない。これはきれい好きであるかそうでないかという問題ではなく、あくまで経済の問題なのだ。1ヶ月の収入に占める銭湯代は貧乏学生にとってはエンゲル係数並みに頭を抱え込む問題だった。

 前振りが長くなったが、そういうわけで久しぶりに銭湯に入り、髪もしっかり洗って出町の下宿に帰り着いた夜10時。いつもはお酒を飲むか、仲間とマージャンするか、ヘッドホンで音楽を聴くかという時間帯だが、その日は疲れていたのか早めに寝ることにした。パジャマに着替えて、Y田さんから譲ってもらったシングル・ベッドにもぐりこんで、いつもは寝つきが悪いのに、何故かすやすや眠りについてかれこれ数時間。海でおぼれかけてる夢を見て目が覚めた。起きてびっくり。全身汗だらけ、パジャマもそれこそそのまま海に入ってきたようにずぶぬれといってもいいくらいびっしょりぬれていた。そうそう、せっかく洗った頭もずいぶん汗をかいたようでぬれていた。あまりの気持ちの悪さに乾いたタオルで胸や背中を拭いていたが、顔がべたべたして気持ちが悪いので洗面所に行った。

 思いっきり水を流して、顔を洗って目の前の鏡を見て腰が抜けた。なんとそこには全身ブツブツの赤い物体がいるではないか。「え゛」などと声にならない声を上げて、よく見ると顔といい、体といいあちこち、いや全体に隙間なく赤い斑点が出ていた。「ふ、ふうしん?」と力なくつぶやきながらそのままベッドに倒れこんだ。

 えー、というところで時間になりました。続きはまた次回。

強風波浪注意報


せっかくの日曜日なのに部活がある子供を学校に送っていった。天気予報で半井さんが指摘していたように、物凄い風である。その昔、栗塚旭が主演していた時代劇を思い出した。さらに走っていると、やたら景色が霞む。いかん、疲れが目に来たと身構えたが原因は黄砂だった。DEVOの「モンゴロイド」を思い出した。

で、10時になったら今度は迎えにイカネバの娘である。オレはアッシーかっっ!?

※補足説明
半井さんといえば「午後7時28分の恋人」です。



DEVOといえば「モンゴロイド」、ホンマかいな?


同じ穴のムジナ?


某TSUTAYAの書籍コーナーに某原理研のドンの本が山積みされていた。一体全体世の中どうなっているのか。♪上から読んでも下から読んでも よーのなーかばかなのよ~

いかん、シャイロックのスピリッツを継承したジャスラックから金を巻き上げられるかも知れない。それとも壷や人参の営業部隊の襲撃を受けるかも知れない。などと考えながら写真をみたら、文さんの横にいるのは、今は亡きジャンボ鶴田のそっくりさん。その下には、元自民党総裁候補(ただし自称)。

うーん、某TSUTAYA書籍コーナー、侮りがたし…。

合唱の日


下の子の合唱の発表会に行って来た。アンジェラ・アキの「手紙」とか、いきものがかりの歌等はいいのだが、その他の所謂、合唱曲はあきまへん。悲しいかな、こちらにそういう素養が無いのだ。

それでも、最後は観客と一緒に「翼を下さい」の大合唱で、それなりに盛り上がった。個人的には「インターナショナル」の大合唱の方が盛り上がるのだが、そういう時代じゃないもんな…

どういう意味だろう


交差点で信号待ちしてる時、目に入った。

ボタンを押すと『渡る時間が長く』なる?

イミフだ…

無茶苦茶な話 学生時代のフィールドワークより

 この間、出町時代の話を書いたらなんだかいろんなことを思い出した。僕は京都に6年間住んでいて最初の2年は修学院、次の2年が出町(正確には相国寺西入ル上ル相生町という住所だったっけ)、最後の2年が烏丸中学前に下宿していた。修学院時代は大学に入ったばかりで全てのものが珍しく、サークルでも1番下の兵隊さんだったので良く「1回生ダッシュ」などといわれてこき使われた想い出が(腐るほど)ある。また最後の2年を過ごした烏丸中学前は、住んでいた下宿に同じサークルの後輩が2人いたし(というより、もともとその下宿に住んでいた後輩がいて、彼の部屋にしょっちゅう遊びに行ってたのだが、その居心地の良さと他の部屋の住人がいい連中ばかりだった。それが引越しを決意させた大きな理由)、何しろ別館がすぐ近くだったのでしょっちゅうサークルの連中が出入りして、そうとう濃い想い出がつまっている。ところが、出町時代というのは大学の3,4回生の頃で、それはそれなりに想い出はあるものの、イマイチ印象が薄かった。よくよく考えてみると「マーマレード」なんていうミニコミをやっていたのもこの時期で、結構面白い話もあったけどどことなくぼんやりした霞にかかっていたような時代だったのだ。しかし、前回大学ノートに書いてあった話を入力しているうちに、ちょっと思い出した話で面白かったのを今日は書いてみよう。あ、注意して頂きたいのは、面白かったと感じたのは、あくまで僕であって、このエントリーを読んでくれているあなたがどのような感想を持つかは別の話だ。

 そういえば前回のエントリーのサブタイトルに「学生時代のフィールドワークから」なんて付けたのは、当然諸星大二郎の「稗田礼二郎のフィールド・ノートより」からパクッたものだが、今回の話もそのサブタイトルを付けたいくらいの、ちょっと怖い話、いや寒い話である。時期は77年の春先、5月の連休が終わりキャンパスにもようやく静けさが訪れ始めた頃だ。僕が当時住んでいた下宿は、外観は普通の一戸建て風で1階に6畳の部屋が3部屋、それに共同の台所(ガスコンロがたしか2つあった)とトイレ(個室が2つ、和風タイプだったな。そういえばあの時代は洋風便座ってまだまだ少なかった。ウォシュレットなど見たことも無かった)、2階にも6畳の部屋が4部屋あった。

 と、ここまで書いてきて、そうそう、今思い出した話だがこの下宿に入ったばかりの頃もうひとつ強烈な話があった。下宿を変わって先ずやることは、他の住人への挨拶なので最初に向いの部屋の入居者に挨拶した。その人は京都の有名な和菓子屋、鶴屋×信に勤めている男の人だった。部屋にビートルズのポスターが貼ってあったので、ステレオ鳴らしても大丈夫だなと安心した。もう一つの部屋は近所の会社の労働組合の部屋で月に2,3回夜集まって会議みたいなことをしていて、昼間は誰もいないし夜も泊まる人がいない、まあ空き部屋みたいなものだった。2階の住人にも挨拶に行ったけど、4部屋中3部屋は京都大学の真面目な学生さんで、あまり印象が無い。そして残りの部屋のヌシが同じ大学で学年も同じだけど三浪して、しかも夜間の経済学部に通ってる目のギョロッとした人だった。名前がどうにも出てこないので、ここではAさんとしておく。

 このAさんは、外見がまるでインドの哲学者という風貌で、話すこともクソ真面目でシェークスピアが大好きという堅物だった。出身はどこだったか忘れたが、とにかく高校卒業してからは親から1円も仕送りなど貰わず、全てバイトして予備校の授業料や生活費を稼ぎ出してる刻苦勉励の人であった。大学も夜間に通うのは、昼間バイトを掛け持ちして生活費を稼ぐためだといっていた。とにかくいろんなバイトをしていて、その中で一番長く続いているのは四条のステーキ屋だといっていた。なんと来日したカーペンターズも食べに来たらしい。一度残り物の肉を持ってきてくれて、それを焼いて食べたが世の中にこんなにやわらかくて美味しい肉があるのかと涙がちょちょぎれたほどだ。

 そんな人だから、生活も切り詰めて無駄を省いていたが、月に何度か安い居酒屋に行くことがあり最初のうちはちょくちょく誘ってもらった。しかし閉口したのは、酒が少し回ると「今の学生は親のスネカジリで、ロクなもんじゃない」とか「drac-ob君は英文科なんだからシェークスピアくらいは原書で読まないとダメだ。福田恒存の翻訳で読んだような気になってるなんてのは論外だぞ」とか「男として生まれた以上は後世に名を残す、立身出世こそが男の本懐だ、そのために今は苦労してもいいんだ」とか「しかし、うちの大学で何が情けないかというと、いい年してヘルメット被って棒振り回してる連中だな。そんなにちゃんばら好きなら太秦でやればいいんだ。親が泣くぞ」とか、まあ一応は目上の人のいうことだからとハイハイと聞いていたが、そのうち鬱陶しくなってきて誘われても口実を作って行かなくなった。そうなると、人間やはりお互いに敬遠しあうようになり4月にはあれほど親しげにしていたのに5月の終りくらいには下宿ですれ違っても朝晩の挨拶をするだけになってしまった。

 ある晩、サークルの1年先輩で鹿児島出身のボーリョク学生T原さんが僕の下宿に泊まることになった。多分いつものように室町今出川のグリーン(雀荘の名前)で麻雀して10時過ぎたので追い出され、そのまま帰るのも面白くないので帰宅途中の僕の下宿に寄ったのだろう。当時T原さんは下鴨神社の近くに住んでいたと思うのだが、一人で帰るのも寂しいのでよく僕たちの下宿を泊まり歩いて無茶ばかりしていた。その日も近所のカジマヤという酒屋で黒の50という当時1000円で買えたニッカのウィスキーを買って部屋で飲み始めた。僕は控えめにステレオのスイッチを入れて、二人で音楽の話や女の子の話や意味の無いバカ話を延々としていたのだろう。突然、コンコンとノックの音がした。ドアを開けるとAさんが迷惑そうな顔をしてこういった。「盛り上がってるところ悪いんだけど、明日のバイトが早いので声と音楽を小さくするか、出来ればやめて欲しいんだけど」。

 ごもっともである。いくら若気の至りとはいえ真面目な勤労学生が怒って怒鳴り込んできたならまだしも「音を小さく」するか「出来ればやめて」欲しいとお願いしているのだ。長幼の序という言葉を身体にしみこませている僕は当然二つ返事で「すいません。ちょっと先輩が来ていて話に夢中になってました。ステレオは止めます。ただもう少し起きていると思うので、声は小さくして話しますから」と頭を下げた。相手はわかったとか頼むとか言ってすぐに2階の部屋に戻っていった。僕は部屋のドアを閉めてからT原さんの方を見た。

 「なんや、今の男は」と明らかに酔っ払った声でT原さんが言った。「いや上の部屋に住んでるうちの大学の二部の学生なんやけど」と僕は、彼が学年よりも3つも年上(当然T原さんよりも年長)で、苦学生でシェークスピアの愛読者で親のすねをかじってるボーリョク学生が大嫌いだという話をした。黙って話を聞いていたT原さんは「話を聞けば聞くほど不愉快な奴やな。どついたらなあかん」と言い出して「おい、drac-ob、オマエも来い」と何とか静止しようとする僕を無視して物凄い足音させて二階に上っていった。そのまま部屋に残った僕の耳に「なんや、オマエ、何考えてんねん、バイトするのがエライんか、自分の金で学校行くのがそんなに偉いんか、なめとったら承知センゾ、ボケィ」とこりゃどうきいても893関係の方としか思えないような暴言を吐き散らすT原さんの声が聞こえてきた。その大声の罵声の後にAさんがか細い声で何とかかんとか言ったかと思うと、その3倍くらいのボリュームでまた恫喝するT原さん。いくら酔っ払っていてもこりゃちょっとひどすぎると、僕もおっとり刀で駆けつけて間に入った。

 まあ、僕も学生時代の酒癖は悪かったが、このT原さんは別格だった。口も悪いし手も早い。あるときはコンパでまだ高校を卒業したばかりの1回生の頭をビール瓶でごんごん殴っているのをみたこともあった。「先輩、あかん、なにしてますの」と止めたら「教育的指導や」などと居直ったこともあったし、いや、こういう事例は枚挙に暇が無い。で、そのときの騒ぎだが、僕も止めに入り他の部屋の住人も迷惑そうな顔して出てきて、ようやくT原さんも少し落着いて僕の部屋に戻った。酔っ払った上に大騒ぎしたものだから、それからはすぐ寝てしまった。翌日起きたときは、当然Aさんはバイトに行っていた。T原さんも「昨日はちょっと無茶言い過ぎたな。あいつ帰ってきたら謝っといてくれ」と勝手なことを言って自分の下宿に帰っていった。で、その晩待っていたのだがAさんは帰ってこなかった。昼・夜連続のバイトをすることもあったので特別なんとも思わなかった。

 それから2,3日後の午前中、車の音で目が覚めた。人の声とドカドカ足音がする。一体何事だと思って、寝ぼけマナコで外を見ると軽トラが停まっていて男の人が二人で荷物を運んでいる。誰か引越しかと思って、玄関に出ると頭に鉢巻したAさんがいた。「Aさん、どうしたんですか、引越し?」と声をかけると、僕をチラッと見たAさんは「drac-ob君、朱に交われば赤くなるって言葉知ってる?」と返事が来た。「知ってますけど…」「あんな先輩と付き合ってると碌なことはないよ。あれは学生じゃない暴力団だ、ヤクザだよ」「まあ、確かに血の気の多い人ですけどね。で、どうして引越し、え、まさか、この前の…」「いや、あんな人が出入りする下宿には住めないから、友達に頼んで別の下宿に移ることにした」「いやAさん、あんなん単なるヨッパライのたわ言ですよ、気にせんといてください」。それから先は何を話しかけてもAさんは答えてくれなかった。随分気の小さい人だったんだ。しかし、あんないい人追い出したりしたらバチが当たります。そのバチが当たった話はまた今度。

負けるもんか


危ないぜ、危ないぜ

やけっぱちのルンバ


どうにでもなれと、さあ殺せと言ったのはどこのどなたさま~

怒りの日、といってもソースの話ではない

 今日は朝からカリカリ、イライラしていた。先ずは、通勤途中の車のラジオだ。8時過ぎに始まる「鈴木杏樹のいってらっしゃい」てのを毎日聴きながら走っている。今週は何やら二十四節気の話をしていたのだが、今日は風の季語みたいな話をしていてその中で「東風(こち)」という単語が出てきた。桐山襲ファンの僕としては「東風」と来れば「南風(はえ)」の話は出ないかとちょっと聞き耳を立てた。それがいけなかった。東風から始まる有名な歌を彼女が紹介したのだが、「こちふかばにおいおこせよ、うめのはな、あるじなしとてはるをわすれじ」。ん、今、なんつった。「はるを、わすれじ?忘れじといえばグローリアだろうが」などと70年代のヒットポップスでポルナレフの洗礼を受けた人間でないと分からないことを叫んでしまった。



 しかし、「東風吹かば」の歌の最後は「春な忘れそ」という「な~そ」で禁止の意味がある、などと古文の陰険教師から散々教わった旧課程の人間としては、「春を忘るな」ならまだしも、「春を忘れじ」なんてどういうこっちゃ、と怒りまくったわけだ。まあ、鈴木杏樹があまり好きではないというのも大きな理由なのだが。所詮、たかが女優風情が(おーっと、ここベサツじゃないのか、職業に貴賎は、あるか)原稿をそのまま読むだけで何も考えていないだろうし、思い込みってのは誰でもあることだから仕方がないといえばそうだけど。で、日中は当然、いろんなことに怒りまくって、それでもならぬ堪忍するが堪忍で耐え難きを耐え忍びがたきを忍んで夜8時過ぎに家に帰った。

 帰ると大皿の上にご飯がよそってあり、その上に赤茶っぽくてなにやらドロリとしたものがかかっている。配偶者が「どう、これ」と聞くので「昨日もカレーの残りを食べたのに、また今日もカレーか」と言うと烈火のごとく怒り出し「これはハヤシライス、カレーとは全然違うでしょうが。下の子が食べたいというので、滅多に料理をしないお姉ちゃんが一生懸命作ったのになんていう言い草ね」。「ハヤシライスもカレーライスもおんなじようなもんじゃん。うん、なんか食べたらケチャップの味がするぞ」と正直に答えたら、配偶者、下の子、上の子3人してギャーギャー喚き始め、頭に来た僕は一言も発せずさっさと飯を食い布団を敷いて不貞寝した。なんなんだ一体。

 しかしお風呂にも入らないといけないので不貞寝を止めて起き上がり、PCのウィルスチェックをしている間にさっさとフロに入った。出てきて、昨日のエントリーの米返しを書こうとして、zappy君の貼ってくれたリンク記事を読んだらまた怒りがふつふつとたぎってきた。クソJASRACの記事だ。僕は全然興味ないのだが今大流行しているツイッターに歌詞を書き込むと著作権に引っかかりクソJASRACにお足を払わないといけないらしい。つまり『「ツイッター」は個人がプライベートで勝手につぶやくものと思っている人もいるが、ホームページやブログと同じネットメディアであり、ヒット曲などの歌詞を書いた場合、著作権法に抵触すると説明する。それはJASRACの管理楽曲に関わらず、著作物全てに共通なものだとも指摘した。』ということらしい。しかもご丁寧に『ネット上はプライベートの場所ではないことをみなさんに認識して欲しい』と、さらに『著作権等管理事業法に則り、どのように取り扱うかを現在検討しているところ』だが、『曲のタイトルだけでは著作権法に抵触しない』らしい。

 あーりがーたや、ありがたや、お、いかんいかん、添田唖蝉坊のチョサッケンたらいうもんを辛亥革命したかもしれん。物言えば唇寒し春の空ですなぁ。あ、今のも誰かの表現のチョサッケンを心外したかもしれんぞ。まあしかし「あきれてものも言えない」世の中になってしまったなぁ。たしかに「いい事ばかりはありゃしない」けど、「言論の自由」すら保障されない「恐るべきジェネレーションの違い」だぜ。しかし「たとえばこんなラブ・ソング」もうっかり歌うと誰かの「自由」を侵してしまうのか。JASRACのトップに「ボスしけてるぜ」なんていったら「共犯者」にされて「山のふもとで犬と暮らしてる」生活を余儀なくされるかもしれない。しかし「この世は金さ」と主張する「忠実な犬」がなんと多いことか。

 「うるせえ!」と叫んでみても「あふれる熱い涙」は止まらないので、もう「うんざり」だ。じゃ、今日はこれで「失礼スルゼ」。


わけの分からない話 学生時代のフィールドワークから、なんつって

 もう3月である。このところ憂鬱な問題に引っかかっていて、気持ちが晴れない。問題点を整理するためにも、エントリーに書こうと考えたが踏ん切りが付かない。何しろリアル社会の話で生々しいもんで、関係者なんてのも出てきたりするし。何かぱっとした話はないかなと部屋でうだうだしていたら、大学時代のノート(この前押入れの中から見つけ出したやつ)が目に付き、ぱらぱらやってたら京都は出町に住んでいたときのちょっと変な話を見つけたので、ここにアップしてみる。時代はかれこれ30年以上遡る、確か77年の出来事だ。分かりにくいところは括弧で説明を入れておく。

 つい数日前、寝ているときに幻聴というか耳鳴りとはちょっと違う経験をした。僕の部屋(当時住んでいた出町の下宿のこと)は駐車場の奥にあり、普段人通りはほとんどないのだが、学校に近いせいかいろんな連中が勝手な時間にやってくる。まあ僕自身も時間に無節操で約束の時間には遅れるし、午前3時くらいに寝てる奴をたたき起こす癖があるので、一方的に彼らを非難できないのだけれども。まあそれはさておき、僕は寝つきが悪く、ベッド(当時はサークルの先輩に貰ったベッドで寝ていた。もっとも二段ベッドの下になってたやつで、ちょっと寝相が悪いとすぐに底板が外れるという危険なものだった。それ以外にサークルの会長だったY田さんから貰ったものはない。あ、そういえばこの出町の下宿を世話してくれたのはY田さんでした、すんません)に入っても寝返りを打ったり、その日の出来事を考えたりして寝るのも一大事業なのだが、その日はすぐに睡魔が襲ってきた。うつらうつらしていると窓のところで―僕のベッドは窓と直角の位置にあり、枕元から窓がまっすぐ見える―どうもS戸らしい声がする。

 「オイ、寝ているのか」とか言ってるようなので、「いいや」とか言って起きてみると誰もいない。おかしいなと思ったが、寝ぼけたのだと思い、またすぐ横になった。こういうときの僕はなんとなくイライラしてきて、眠れないことが多いのだが、その日はすぐに再びうつらうつらしてきた。すると今度はベッドのそばで、やはりS戸らしき男が何か話しかけてくるのだ。そのときおかしいなと感じたのは、右の耳だけから聞こえてきて、左の耳からは何も聞こえないということだ。今度は少し頭にきて、本当にS戸の奴が嫌がらせをやっていると思ったので、ガバッと飛び起きてみると、やはり誰もいないのだ。書き忘れたが僕は目が悪く、裸眼では1メートル先もかすんで見えるくらいなのだ。

 二度目になると流石にぞっとして、少し考え込んだ。おかしい。第一S戸とは、さっきまで麻雀(もちろん室町にあった雀荘グリーンでです。当然松之家のヤキソバ大盛りを食べたはずだ)をしていて、彼が僕の部屋に用があるはずがない。それに右の耳しか聞こえないというのはSFじみていて絶対おかしい。僕は幻想小説が好きで(当時は嵌って読んでいました。最近はほとんど読まないけど、たまにはチャールズ・ボーモントとかジャック・フィニィなんか読みたくなる)、人間の感覚の異常さをネタにした小説もいくつか知っているが、こういう風なものはなかった。何となく背筋がぞっとしてきて窓を閉めて、ドアのカギをかけ、落着こうと思い『アビー・ロード』に手を伸ばしたが、そんな自分がとってもみっともなく思えたので、半ばやけになりベッドにもぐりこんだ。ちょっと興奮しており、頭の中で『アビー・ロード』のA面を思い出したりして、とにかく寝ようと身構えた。でも、何となく目が冴え続けて、頭の中の音楽も「ゴールデン・スランバー」のあたりまで来ていた。



 時計を見ると午前3時前で、いかんと思い全身の力を抜いて横になった。”Boy, you gonna carry that weight, carry that weight,a long time”などと頭の中で繰り返すうちにいつしかまたうつらうつらとしてきた。そのとき、今度は耳元で「オイ、オマエハ…」という声がした。恐怖心を押さえて聞いていると、僕しか知らないことをその声が話しかけてくる。突然パンタの♪あたまのねじは巻きすぎて切れちまい~という一節が浮かび、我慢の限界を超えた僕は「うるさいっ!!」と怒鳴って飛び起き、右手でその声のするあたりを殴りつけた。僕の右手は当然空を切って、僕は完全に目が覚めた。気が付くと全身汗でびしょぬれで、身体が冷え切っているのが分かった。もう寝るどころではなく、部屋の明かりを点け、コタツのスイッチを入れてじっとしていた。レコードを聴く元気もなく、何故こんなことが起ったのか考えてみた。別にそれほど疲れているわけでもない。酒の飲みすぎかもしれないと考えたら、なるほどそうかもしれないが、どうもそれで全てが解決するほど簡単なことでもないみたいだ。

 いろいろ原因を探してみたが、これというものも思いつかないうちにいつしかコタツの中で寝入ってしまった。結局その後は何も聞こえなかったが、何となく自分の部屋で寝るのが薄気味悪く、翌日は銀閣寺のH居の下宿に行き泊めて貰うことにした。H居というのは楽天家で現実しか興味のないわりに非科学的な男で、この話をしたらキツネのタタリなどというわけの分からないことを言い始めた。しかしH居の部屋で彼のユニークな話とか、レコードなんかを聞いていると、なんとなく今日は大丈夫だという気がしてきた。でも少し恐怖心が残っていたので、先に寝ることにした。目を閉じてしばらくするとザーッという音が聞こえてきた。ドキッとしてH居に「雨か?」と聞いたら、本当に雨で安心して寝付いてしまった。

 何時くらいだったろう、いきなり笑い声が聞こえてきて飛び起きたのは。しかし何のことはなかった。H居のアホが寝言を言ってただけだ。しかし、非常にハッキリした寝言で誰かに話しかけてるみたいで、まあでも、H居の寝顔を見ながら寝言を聞いていると、何となく笑い出したくなり、幸福な気持ちで寝ることが出来た。翌朝そのことをH居に話すとキツネのタタリが僕からH居に乗り移ったとか言い出して、真っ青になった。という話なら僕も痛快なのだが、H居は根っからのアホらしく何も心配していないようだった。

 なんでこんな話をわざわざノートに書き留めていたのか、未だに不思議である。しかし、このときの出来事は良く覚えている。出町の下宿は河原町今出川の交差点を1つ西に入ったところで、途中に王将やアーケードがあって、そこを過ぎると古い小さな造り酒屋があり、その奥にちょっと広い駐車場があって、そこに2階建ての家が2棟建っていた。手前側の1階には男子学生が2階には女子学生が住んでいて、僕が住んでいたのはそこではなく、もう1棟のほうだった。隣が問屋の労働組合の会議室(したがって普段は空き家同然で、出入り自由だったので2部屋借りてるようなものだった)だった。しかし、一体何のためにこんな話をノートに書いていたのだろう。もしかしたら数十年後、blogのネタに使えるなんて、考えるわけないな。

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索