額に汗して働けや!!

 ゴマキからメールが来た。ウソじゃない。いつの間にかこっそり届く秘密のメールってやつだ。以下コピペする。

タイトル: 元モー娘。後藤真希さんからのメッセージです。
[一言]
やっと外出もできるようになったの。宮崎駅前のセブンイレブンで会えないかな
?今…時間あるよ私。携帯で


 続きはこちらとURLがリンクされている。

 えーと、宮崎駅前のセブンイレブン、1ヶ月以上前から閉店してシャッター降りてますけど、何か?

 このメールの原作者に友川かずきのこの唄を捧げる。てめえ、恥ずかしくないか!!



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長ければいいってもんじゃないぜ

 このところ、エントリーはショート・ショートでお茶を濁しているが、かつての僕の長文エントリーが懐かしい、などと思ってくれる奇特な人はいないのだろうか。などと、ちょっと拗ねてみたが、本日もみじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ、でいってみよう。この前のエントリーであの時代は「拙者」とか「おぬし」なんて言い方が流行ったなんて書きました。「おぬし出来るな」という決め文句もあったなんて書きました。それはウソじゃないよ、ってことをキヨシローが証明してくれました。しかし、NHKで「お富さん」から「パイプライン」までやるんだから、流石はボスだぜっ!!



 で、この動画見る前に楽しんでいたのがこちら。



 キヨシローの照れたようなトーク、いいなぁ…。

本日も言わんでええのに

車のラジオから、今日のテレビ番組の案内が流れてきた。今日は、藤田まことの追悼番組で『突入せよ!あさま山荘』を、やるらしい。佐々某原作の御用映画だ。どうせなら、若松監督の『実録 連合赤軍』でもやればいいと思ったが、それだと藤田まことの追悼にはならないな、などと考えていた正にその時、ラジオの女性アナは、こう言った。

『…そのなかで警視庁、長野県警三万人のモウジャは…』。何、連赤の兵士達は3万人の国家権力をフンサイしたのか!?

んなこたー無くて、この女子アナが「モサ=猛者」を「モウジャ=亡者」と読み間違えたのだろう。しかし、驚いた。

ちょっと半端なアンプラグド

 このところ、リアルの生活で大問題が起こっているのでなかなか気が晴れない。あまりにもプライベートすぎてここに書くのはどうかと思う話なので、余計ストレスが溜まるのかもしれない。しかし、考え込んでいても事態は全く変わらないのだし、なるようにしかならないのが人生だし、所詮ライク・ア・ローリング・ストーンなんだし、転石ギャザーズ・ノー・モスなのだ。で、前回のエントリーで泉谷の動画をアップして、そういえば僕の人生の個人的な出来事の多くに泉谷の歌ってどこかで流れていたな、と思い「続・フォークソングクロニクル」として書いてみようとして、YOU TUBEの動画を探していたらキヨシローと泉谷がアコギで歌ってるものがあって、ちょっと涙なしでは見れなくなったので、今日はそれを貼っておしまいにする。先ずは第一部。



 続いて第二部。



 それと、これも見つけたときはちょっと涙ぐんでしまった。今は亡きどんとが「黒いかばん」をアコギ1本で歌っている。最後の方で歌詞をちょっと間違うのもご愛嬌だ。



本日の言わんでええのに

 このところ、厄介事が持ち上がって連日憂鬱でたまらない。blogの更新も億劫で、何事にもヤルキが出ないのだ。そんな中で、今日、藤田まことの訃報を知った。「当たり前田のクラッカー」の頃から中村モンドに至るまでずっと知ってる役者だ。また一人個性的な役者がいなくなったなと思いながら、いろんな人のコメントを読んでいたら、M上H明さんのコメントを見てちょっとイラついた。いわく「師匠であり、先生だった」。

 いや、そりゃ「師匠」だから「先生」だ罠。「師匠であり友人だった」とか、「(仕事上の)師匠であり、(アソビの)弟子だった」なんて言い方だったら分かるけど、「師匠であり、先生だった」は無いだろう。などと一人で呟いていたのだが、こういうところが他人から嫌われる原因かもしれないと思ったら、余計気が重くなった。ちょっと重症かもしれません。ああ、やだやだ。


忘れちゃいけない、フォークソングクロニクル アンチ商業主義編

 ここしばらくちゃんとした音楽の話を書いてなかった。そういえば去年のクリスマスくらいの時期に、懐かしい歌をYOU TUBEで見つけて「フォーク・ソングと商業主義」というテーマでエントリーを書きます、などと大見得切ったものの尻切れトンボ。毎度毎度の極楽トンボで、すっかり忘れておりました。そうそう、それとこのところ毎週水曜日に教育テレビの『知る楽』という番組で高田渡の特集をやっていたり、NHKのSONGSに岡林が山下洋輔と一緒に出たりして、うーん、やっぱり『フォークソングクロニクル』の一環としてコマーシャリズムとコマーシャルソングについて一言言わねばの娘となったのだ。と、いうところで、オープニングにまず「オレはフォーク・ソングなんか大っ嫌いだ」という孤独な叫びを聞いて欲しい。



 どうですか、この歌い方といいハーモニカとギターの雰囲気、クリソツな人がいますよね。ああ、それがなんとか~とか歌ってた人で、ご本人もしっかり「老人の詩」の年齢になったお方ですね。なんて回りくどい言い方は止めて、ハイ、吉田の拓郎さんですね。おっとここで誤解してもらうと困るのだが、僕は結構拓郎好きです。アルバム『今はまだ人生を語らず』は70年代を代表する1枚であり、その再発運動があれば是非とも参加したいと思っているくらいです。決して彼がフォークをダメにしたとか、岡林が提起した「我々の問題」を「私の問題」に落とし込み、社会のさまざまな問題に目をつぶり髪の毛を肩まで伸ばして白いギターをポロンと流して結婚することがシアワセなのよと、シラケ世代をリードしてきた張本人で、ってなんだか悪口になりそうなので止めよう。

 ええと、去年何を書きたかったかというと、拓郎の曲の中でコマーシャルだけに使われてその後日の目を見ない歌があるけど、結構いい曲が多いんだ、という単純な話です。1曲目は、これよく深夜放送のラジオで聞いていた記憶のある「僕の旅は小さな叫び」という歌なのだが、ナショナルのテクニクスというステレオ(4チャンネルって知ってるかな?2ちゃんとは全くの別人28号なのだ。要するにフロントスピーカー2本にリアスピーカー2本付いてるオーディオでライブ会場にいるような臨場感がある、これからのステレオは4チャンネルだ、と各メーカーが競争していたがその後どうなったかは、アナタの周囲に4チャンネル・ステレオや4チャンネル・レコードを持ってる人が何人いるか調べたらすぐ分かるはずだ、って長いカッコ内文章だな)。では、当時のコマーシャルの雰囲気を味わってもらいましょう。



 いいフレーズなんですよ。♪あしたになれば、あしたがくるのか そいつはだれにもわからないこと~。よく口ずさんでいました。そして75年に入ったサークルのボックスにもこのシングルが置いてあり、これはテクニクスを買った人しかゲットできない、つまりレア物というかプレミアムのシングルだったんですね。長い間、ボックスに置いてあったあのシングルは誰のだろうと疑問だったけど、去年のコメントでK平先輩のものだったことが判明してすっきりしました(でしたよね、K平さん)。で、この曲なんですが僕は最初に聞いた72年からずっと作詞作曲は拓郎オリジナルだと思い込んでいたのですが、実は作詞は山川啓介、作曲は、なななんと渋谷毅、そういえば間奏のピアノは渋谷さんぽいって、ホントか!?それではフルバージョンでお聞き下さい。



 このテクニクスのCMはそれほどメジャーではなかったかもしれない。拓郎のコマーシャルソングというと僕の世代の大多数は「Have a nice day」を連想する人が多い。このCMソングが流行っていた頃、自分のことを「拙者」と呼んだり相手のことを「おぬし」と呼んだりするのも流行したっけ。まだ出たばかりのニール・ヤングの新譜など持って歩いていたら、名前も知らない奴から「おぬし出来るな」などといわれたことがあるから間違いありません。そういえば、当時の挨拶で「おー、おぬし久しぶり、最近どうしてた?」「うん、部屋でシコシコやってた」なんて会話も成立していたな。シコシコやってたのはナニではなく、ギターの練習だったり詩を書いたりとか、まあそんな青い春にありがちな症候群であるのだが(なんのこっちゃ)。で、このCMソングは2バージョンあるので、連荘でアップします。



 これが確か最初にテレビで流れて大流行したと思う。で、しばらくするとこの曲をスロー・バラードにして広島弁を交えたバージョンが流れるようになった。広島フォーク村出身の拓郎が楽しそうに歌っている。そういえば、名前は忘れたけど大学時代に広島フォーク村出身というソロ・シンガーのライブを見た。確か西部講堂でパンタ&HALなんかも出たイベントだったが、アフロヘアーにハンドマイク1本で喋り半分演奏半分だったけど、オリジナルらしいオリジナルもなくBCRの「サタディ・ナイト」なんかやったのでビックリした。他の出演バンドはニュー・ウェーブぽい連中ばかりだったので、余計驚いた。おっと、そんな話はさておき、広島弁バージョンでどうぞ。



 で、今ジャケット見ていて気がついたのだが(遅いだろ)、シングルの表・裏の関係だったようで。いわゆる両面Aサイドという、ビートルズで言えば「ストロベリー・フィールズ」と「ハロー・グッバイ」というところだろうか(いや、発売枚数が全然違うし、多分両A面という以外の共通項はない、はずだ)。しかし、こうやって振り返ってみると、72年という年は拓郎のメジャー大ブレークの年であると同時に、CM曲も随分歌っていたことが分かる。ステレオ、フィルムそして自動車のCMソングも歌っていたのだ。



 この歌は最後の「共鳴レックス~」の部分がやたら耳に残っていたっけ。しかしラストの写真をじっくり見ていただきたい。ロンゲのスーツ男、ホットパンツ(っ、死語か!!)にチューリップハットの女の子、トランペットを寝そべって吹くビキニ、どことなくヒロミツっぽいアフロのオーバーオール、カラフルなパンタロン穿いて中途半端な逆立ちをしている男は何者だろう、いや、この人たちの組み合わせは、その目的はなんだろう、などと考えてはいけない。70年代は「フィーリング」の時代だったのだ。考えるのではない、感じるのだ。見る前に跳ぶのだ。あ、これは岡林や。

 で、フォークのプリンスという異名をとった拓郎はブイブイ70年代を突っ走るのですが僕が最後にいいなと思った拓郎のCMソングはこれ。「ウィスキー・クラッシュ」。78年くらいだったか、細かく砕いた氷を大き目のグラスにタップリ入れて、そこにウィスキーを注いで飲むというやり方。氷が溶けて程よい感じになり、結構飲みやすくて河原町のグラスホッパーなんかでカッコつけて飲んでいました。そうそう、後ウィスキーを牛乳で割ると悪酔いしないし、美味しいなんて話を誰かの小説だったかエッセイで読んで挑戦して、結構これが美味しくて飲んでいました。しかしコップの中の色が白に茶色が混じってややグロテスクだと人に言われてやらなくなったっけ。もしかしたらsugarmountain君あたりは覚えているかもしれないな。



 で、こうやってコマーシャルソングを見ていると、確実にその時代の息吹が伝わってくる。やはり消費者の興味を引こうとそれぞれの広告代理店が頭をひねって、知恵を絞って今の人たちが求めているものを提供する、あるいはその興味をリード(場合によってはミス・リード)するためにこういう映像でこういう音(歌)を、と試行錯誤して作っていっただけに時代の一部分を切り取るのだろう。デジカメのこの時代にカラー・フィルムのCMつったって何のことだって言う人がほとんどだろうし、ウィスキー・クラッシュなんて飲み方はもはやよほどのこだわりの人しかしないだろう。そういえば、エーちゃんが「ウィスキー・コーク」なんて歌ってたけど、ありゃ単なる「コーク・ハイ」だよな。

 ということで、今回のエントリーもあと少しですが、このCMソングには驚いたというのを一発。93年のリリースですが、テレビからこの声が流れてきたときは本当に心臓が止まるかと思った。まさか高田渡の歌をCMで流すなんて…。しかし、この歌がCMで使われたときにスポンサーから1年分のシチューのルーが届けられたときの渡さんのコメントがふるってる。いわく「この次は具を下さい」!!



想い出ボロボロ、ズタボロ

 ちょっと油断していたら、前回の更新からもう5日過ぎていた。いつもなら、「皆様、1週間のご無沙汰でした。司会の…」と懐かしのフレーズを呟くのだが、なんとそのご本人、玉置宏さんが亡くなられた。日曜の昼間やっていた『ロッテ歌のアルバム』での名口調はもう二度と聞けなくなったわけだ。そういえば、ああいう単独の司会者が進めていく歌謡番組なんてのはもうほとんど見かけないな。昔は高橋圭三だとか、玉置宏とかそういう司会者って言う名の番組進行役がいて、話題をリードしたり転換したり、ときには話が下手な歌手のフォローをしたり、暗算で年齢計算したり、そろばん弾いてワッチュアーネームなんてやってる人もいたな。嗚呼、昭和は遠くになりにけり、ですか。



 とまあ、やや辛気臭い話から入ったが、今週の月曜日は上の子の誕生日だった。月曜なのでケーキを食べるくらいしか出来なかったので、祝日の昨日は家族で焼肉を食べに行った。焼肉なんて我が家では多分2,3ヶ月に1回、行けるかどうかの大イベントであるので、事前の準備は万端といいたかったが、とんでもない。配偶者は仕事関係の面接で大失敗して仕事の更新が切れそうだと落ち込み、上の子は午後におやつの団子を食べ過ぎておなかが一杯だというし、僕もオヤツに食べたソフトクリームがまだ胃に残っていて、体調万全なのは下の子だけという有様だった。

 まあ、それでも家族揃って隣町のチェーン店の焼肉屋に入り、お店の人がオススメするセットメニューを頼んだ。カルビやタンといったおなじみの肉類に石焼ビビンバ、冷麺、クッパを付けて、それでも前回来た時は食べきれず持ち帰った経験を思い出し3人前しか頼まなかったのだが、届いた肉は大皿に一杯で食べきれるだろうかという不安がよぎった。もっともいざ食べ始めると結構喰えるもので、子供たちがタンが嫌いなのを幸いに一人で5枚も食べ、その上に骨付きカルビを野菜に巻いてパクついていたら、女三人から冷たい視線で睨まれた。彼女達の唇に「メタボ」という単語が浮かんでいるのを僕は見逃さなかった。しかし、タバコ吸っててがりがりに痩せていたときは、骨だらけで気持ちが悪いといわれ、タバコを止めてややふっくらした体型に変わったらメタボなどと謗られて、とかく人の世は住みにくい。

 で、よくよく女三人の言い分を聞いて見ると、セットについていたクッパを僕がほとんど一人で食べたということが非難の原因だという。僕は猛然と抗議した。だってクッパが来た時に小鉢に入れて下の子に分けてやった。それも2回。上の子はいらないといってたが、美味しいから食べて見なさいと家長の威厳をもってレンゲで2掬い小鉢に入れて分けた。もちろん残ったものは僕がしっかり頂いたが、それで文句を言われるのはお門違いだ。しかしおなかが膨れると人間頭に血が回らなくなり、怒りを忘れる。そのときも、後はデザートを頼むだけという状況だったので、僕はボタンを押してお店の人を呼んだ。

 セットメニューは3人前しか頼んでなかったので、デザートも3人前だ。子供2人と僕が食べることになり、注文した。「バニラ2つとキョーニンドーフ1つ」。ウェイターは微笑みながら頷き厨房に戻った。数分して、明るい声がした。「こちらアンニンドーフでございます」。やっちまった。僕は長いこと「杏仁豆腐」を「キョーニンドーフ」と読んでいたのだ。間違いに気がついたのはそれほど前のことではなく、それ以来「あんにんどうふ、あんにんどうふ」と繰り返し発音してインプットしたつもりだったが、頭に血が回っていなかったため、過去の間違えた記憶が蘇ったのだろう。しかし、この手の思い込みの間違いはなかなか抜けないな。

 というようなことを考えていたら、もうひとつ思い出したことがあった。我が家の上の子は19年前に近所の産婦人科で産まれた。その当時、僕はジェップという会社で働いていて、まあ、そこは社員をよく働かせる会社だった。もっともそのときに同じ釜の飯を食った仲間は未だにキャンプを年に2回開いて同窓会的なこともしている、気のいい連中が多いのだが。おっと余談だった。で、朝から夜遅くまで働いていて、初めての子供が生まれたときも夜の12時近くになってようやく病院に赤ん坊の顔を見に行けたくらいだったので、休日になった11日は、配偶者の病室に泊まっていろいろ赤ちゃんの将来を語って、これまでの不在を誤魔化そう、ま、いわばアリバイというか、ゴマすり精神で夕方5時過ぎに配偶者の病室に行った。

 今はもっと激しくなってるらしいが、当時の産婦人科も病室のお洒落加減や食事の上手さが入院のポイントになっていたので、配偶者の病室はベッドのほかにソファベッドや家具類も置いてあり、広さも12畳くらいあった。そこで、子供の名前(実はもう、そのときには決めていたのだが)や、将来の子供のことなどを話したり、ちょっと間が空くと新生児室に行って、ガラス越しに赤ちゃんの顔を見たりしていた。異変を感じ出したのは6時過ぎくらいだった。当時、僕の仕事は宮崎・鹿児島・熊本そして福岡の一部を車で回り、お客様のクレーム対応をしたり、パート・アルバイトの指導をしたり、とにかく忙しく飛び回ってばかりいた。長距離の運転はしょっちゅうだったので、ときどき腰の辺りに鈍痛があったりして、当時は指圧師の友人がいたので月に1度は施術を受けに行ったりしてたのだ。

 そのときも、車のせいで腰が痛いのだと思っていたが、痛みがだんだんわき腹の方に移っていくのを感じだ。もっとも、何かあれば産婦人科とはいえ、病院にいるので痛み止めくらいすぐもらえるだろうと気軽に考えていた。テレビを見たり、バカ話をしたりして気を散らそうとしたが、痛みはどんどん増してくる。夜8時過ぎくらいになって、ちょっと我慢できなくなったので、ナースコールを押して事情を話して鎮痛剤を持ってきてもらった。オレンジの錠剤を2粒飲んだが、痛みは治まらない。横になってれば、そのうち治まるだろうとソファに体をもたれかけたが、眠気も来ないし痛みは断続的なものから連続的なものに変わっていった。

 それから少しして、体を揺さぶられるのと名前を呼ばれる声で目が覚めた。薬のせいで少しうとうとしたようだ。目を開いてみると夜10時を回っていて、配偶者が青ざめた顔をして僕に言った。「ずっとウンウン唸っていたよ。もう一度看護婦さん呼ぶから診てもらったら」。異議は無かった。部屋にあったインターホン越しに看護婦さんに窮状を訴えたが、もうこの時間は夜間緊急病院に行くしかないと言われた。僕は、気持ちを奮い立たせて、病室を出て自宅に向かった。産婦人科から僕の家まで普段なら5分もかからない距離だが、そのときは痛みと闘いながら、歩いては立ち止まりの繰り返しで大袈裟なようだが20分くらいかけてようやく部屋にたどり着いた。保険証とお金を用意したが、すぐには歩けない。しばらく部屋で唸っていたが、ようやく痛みが少し治まってきた感じがしたので、また家を出て大きな通りに出た。タクシーを拾って緊急病院に行こうとしたのだ。今、考えると家から電話してタクシーを呼べば良かったのだが、そのときはそんな知恵が浮かばなかった。

 時間は零時近かったのと、祭日の夜中なのでなかなかタクシーが来なかった。ようやく1台、反対車線を走っていたのを呼び戻して、倒れるように乗り込んだ。目的地をいった後、強烈な痛みを感じてそのまま車のソファに横たわり、少し気絶しかかった。病院に着いたが自力で車から降りられず、運転手に支えてもらいながら受付に行き症状を伝えた。待合室には10人以上の人がいたが、僕は彼らを飛ばしてすぐに診察してもらえた。

 診察室に入ると、まだ若くて髪の長い医者とこちらは『あたしンち』に出てくる母親そっくりのベテラン看護婦がいた。症状を説明すると、ろくに診察もしないうちに医者が「あ、これは石だね、石。鎮痛剤打つから」と看護婦に指示して注射をしてくれた。その注射が魔法のように効くのに時間はさほどかからなかった。それまでの痛みがウソのように消えていった。「まあ、家に帰ったらビールとかジュースをガンガン飲んで、明日の朝になったら泌尿器科の専門病院に行きなさい。多分、尿管結石だろう。一応痛み止めも出しておくから」。医者にお礼を言って診察室を出ようとしたら、看護婦さんが「もし注射が切れたら、すぐタクシーで来なさいね。飲み薬は効かないから、遠慮したらダメよ」。

 それからタクシーを呼んで家に帰り、医者の指示だからと天下ゴメンのビール三昧といきたかったが、やはりそんなに飲めるものじゃない。健康が一番だ、などと思いながらいつしか寝てしまった。明け方、強烈な痛みで目が覚めた。注射が切れたのだ。時計を見ると6時半。緊急病院は7時までだ。今から起きてタクシー呼んで行っても間に合うかどうか。そうだ、痛み止めの薬を貰っていたんだ。アレを飲んで会社に休むと連絡して、8時半になったら泌尿器科の病院に行けばいい、などと考えた僕はこの病をまだまだ甘く見ていたのだ。看護婦さんの忠告を思い出せなかったのも敗因だ。しかし、これは看護婦さんが『あたしンち』だったから、思い出すことを拒否していた可能性が高い。杏さゆりちゃんだったら忘れるなんてありえないのだ、って何いってんだよ、オッサン。

 そして、地獄のような2時間が過ぎて泌尿器科の病院に行った。そこで超音波の治療という、当時の最先端の治療を受けたが石は取れなかった。石が見事に取れるまでおよそ2ヶ月。それまでは腹に爆弾かかえて生活していた。いやー、これが本当の腹々時計だった。
で、一体何がいいたかったかと言うと、痛みを感じるというのは生きている証だ。人生ツボと出るかドツボと出るかの繰り返しなんだな。子供の誕生日が来ると、あの石の痛みを思い出す僕は、元気に生きているのだ。



話は、また今度

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今日は午前中から、伯母の三回忌で延岡へ。妹の車に母と乗り込み、行きは僕の運転。当然、車中のBGMは僕が選曲。ジェイク・シマブクロの『フラガール』、ニルソンのベスト、中川イサト等をかけるが黙殺される。

お寺でお坊さんから聞いた話。こんなご時世なので、お寺にもよくオモライさんが来るらしい。夜遅くチャイムが鳴り、出ると見た事の無いおじさんがいて『昨日から何も食べてない。草むしりするから1000円おくれ』

以前も、似たような事があり、一度お金を渡すと何度も来る事を知ってるので『ここは禅宗なのでお金はない。ちょうどたく鉢で貰った林檎があるから食べなさい』と言って渡そうとすると、金じゃなきゃいらんと言って、どこかへ消えた。

昨日から飯食ってなきゃ、林檎一個だってありがたいはずだろ。

それと、墓守りしている人の話で、お墓に備えてあるビールやお酒が頻繁に盗られるので見張っていたら、現行犯を見つけた。声をかけたり、捕まえようとすると、危ないので後をつけたら病院に入って行った。聞いてみたらアルコール依存の患者だったらしい。

何だか侘しい話でした。さあ、今日はネットはやめて本読んで寝よう。

Hの話、いやホントにHの話だって

 花のD大75年度生トリオという言葉がある。いや、僕が勝手に作ったのだが、早い話が某同志社大学に1975年に入学し、何らかの形で音楽にかかわり、そして30年以上の時を過ぎて、全くの偶然にネット上で再会した、僕と岐阜のTHIS BOYさんとblog「BLUES POWER」の管理人Purple_Hazeさんの3人を総称して、このように名乗っている(あ、あくまで僕が勝手に名乗ってるだけだけど)。この3人の出会いも、本当に偶然と必然がからまりあって、廻る廻る廻る因果はい~と~ぐ~る~ま~、などと坂本九が歌いそうなインネン話があるのだが、今日はまたも、ショーゲキの再会の話を書いてみたい。

 最初に書いたように僕は75年に某同志社大学に入学し、5月にDRACというサークルに入った。僕のHNの由来になっているサークルであり、残念ながら別館の崩壊と共に(もしかしたら若干後かも知れないが)消滅したらしいサークルだ。そのサークルは当時女性部員が少なく、地方出身者(とりわけ九州・四国勢が多かった。例外はホッカイドー出身のコロポックルH居くらい、関東勢なんてほとんどいなかったかな)のたまり場というか、音楽と衒学が趣味みたいな魑魅魍魎が跋扈するサークルであった。ある日のBOXでのセンパイとの会話。

当時1回生drac-ob、無邪気に「センパイ、何読んでるんですか?」
レノン風丸眼鏡で缶ピー咥えた2回生、さも鬱陶しげに「・・・ドグラ・マグラ」
「ど、どぐらまぐらってあの夢野久作の?」(当時まだ読んだことが無かった)
ロングヘアーにタバコの似合う3回生(女性)「暗いの読んでるね、レコードかけてよ」
かかったレコードはエリック・ドルフイーの豚のいななきのようなバスクラが延々と・・・。

 うーん、雰囲気が伝わるだろうか。書いていて、オレは何が楽しくてあんな暗いBOXに毎日通い続け、それでも年数がたつうちにサークルのヌシみたいになり、最後は「神」と呼ばれるようになったんだろう。あれはなんだったんだ。などという話を書きたいわけではない。もっと明るい楽しい話なんだって。

 いや、まどろっこしいが、実は先日書いたエントリーにPurple_Hazeさんからのコメント(あ、非公開だからオレしか分からなかったと思うけど)が来て、その中に「DRACの75年度生でHさん(女性)ってご存知ですか」という質問があった。ご存知も何も、数少ない75年度同期生でなおかつ女子部員、忘れるはずが無い。確か76年の夏合宿のとき、一緒に写った写真もあったはずだと、押入れの中をごそごそ探してメールに添付してPurple_Hazeさんに送った。そのときに止めときゃ良かったのに、昔、彼女に借金をしたエピソードも書いて、「ま、今更、時効ですよね」なんておチャラけていたのだが。

 で、そのHさんだが、もう一つ思い出したことに彼女と同じ姓のやはり75年度生の男子部員もいたのだ。こいつは確か1年くらいでBOXに来なくなったので、あまり印象はないのだが結構背も高くて黙っていればまあまあイケメンだったが、残念なことに頭が悪かった。というか、騙され安い男だった。確か、新聞学科じゃなかったかな。元祖イケメンのE副なんかと一緒だったから。その彼の数少ない悲しいエピソードってのはこういう話だ。

 大学の1回生の夏休みに何をするか、というのは正しくレーニンの『何をなすべきか』に匹敵する重大テーマであるが、健康なオトコの子の考えることはただひとつ、お金はやっぱりあるほうがいい(ドンドンってそりゃSTSだ)。いや、その、あれだよ、あれ。でも、アレをやるにはいろんな小道具がいる。先ずは車だ。しかし車に乗るには免許がいる。免許はタダでは取れない。ということは、かのH君もよーく理解していた。彼の計画は大津のコカコーラ工場で夏休み2ヶ月バイトする。そこで金を貯めて、教習所に行って免許を取る。免許を取ったらレンタカーを借りて、女の子をゲットして×××。彼の頭には平山みきの「真夏の出来事」がリフレインのようにこだましていた。♪かーれの口車に乗って災厄の町、わたしーはついた~って、ちょっと歌詞が違うな。



 で、H君は75年の6月終りからBOXでは全然見かけなくなった。大津の工場で7,8月の丸々2ヶ月働き続けたのだ。そうして当時のお金で20万近くの大金をゲットして9月から教習所に通い、2週間で免許を取れば、ぎりぎり9月の中旬には彼女と車でデート、悲しい出来事が起こらないように常に否認するのだ、と、多分単語が違うと思うけど、ま、そういう下心行動委員会の決定に従っていたのだ。そうして、僕は9月の後半にバリッとしたスーツ姿のH君に会った。その横にはセンミツで有名なF田君も一緒だった。「おー、H、久しぶり、どう、免許取った、彼女と上手くいった?」と僕が尋ねると、彼は悲しそうに首を振った。「え、なんで、バイトの金足らんかったん?」と畳み掛ける僕。その横でケペル先生のような満面の笑みをたたえたF田君が答えてくれた。

 「いや。こいつアホなんや。2ヶ月バイトした金貰って、工場でたら、そこになんやしらん変な兄ちゃんおってな、オイデオイデってしたんやって」「へ、そうなん、で、どないした」「うん、その兄ちゃんについて行ったら、なんや大きなバンが停まっててな、そこに入れって言われたらしいわ」「なんや怪しいな、お前、H、まさかそんな車に入ったと違うヤロナ」「それが、あんた、H君の人のいいとこや。その車の中にはスーツが一杯吊るしてあって、兄ちゃんいわく、『もう大学生やったら、スーツの1着や2着もっとかなアカン。ええの選んだるわ』って」「で、スーツこうた?」「おう、こうたんやて。それで1着買って車から出ようとしたら、『兄ちゃん、そのスーツ汚れたらどうするんや。お洒落な人は同じスーツをこうとくもんや』って、また声かけられて」「まさか、2着買わされた?」「いや全部で4着、柄違いの奴買わされて、ほんまは24万くらいするけど学生さんやから20万丁度でええわって」「20万、全部?」「全部や」

 僕はH君のスーツ姿をじっと見た。彼はちょっと恥ずかしそうに「ま、でも結構上等なスーツやったし、また今度バイトして免許取るわ」と小さな声で話してくれた。で、彼は学校に通いながら、またバイトにせいを出して確か1回生の終わりに免許を取り、それからは彼女とのお付き合いが忙しくなりサークルに出てくることはなくなった。しかし、ひどい奴もいるもんだが、そういうのにコロッとやられる方もどうかと思うな。

 で、肝心の女性のHさんだが、サークルに入ったのは多分ほぼ一緒の頃だったな。結構普段は大人しいけど、あ、いかん、ここで妙なこと書くとまた苛められるのでちょっと自粛しておきます。しかし、不思議なもんだな、人生って。そうそう、文中に出てきたケペル先生をご存じない人もいるだろうから、最後に貼っておきます。♪エイチ、オー、ダブリュ、ハウ、ハウ、ハウ~インディアンじゃないんっだよ、エイゴで『どして』って聞いてんだ、ケペル先生、こんばんは~



本日の晩餐

Image0241.jpg
週初め、疲れて帰ってみたら、晩御飯はオムライスだった。配偶者が嬉しそうな顔をして、タマゴの上に何と書いてあるかと聞いてきた。

「さ、さとだまい??」。備後であった。いや、Bingoであった。下の子が、僕を元気付けようとして書いたらしい。しかも、最初は佐々木希と書こうとしたが、字が難しかったのでやめたらしい。

カタカナで、アグネスでよかったのだが。

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