今年もいろいろあったけど

 ええっ?何何何?もう今年最後?そんなの聞いてないぞ。いや、まだまだ書いてない話がたくさんあるのだ。爪が割れたり、忘年会に出たりしてるうちにもう大晦日が来てしまった。実は、次のエントリーは「フォークと商業主義」などとテーマは大仰に、話は単なるヨタ話、昔話と決めており、YOU TUBEでそれなりの動画も準備し、話の切り出し用にこの前の情熱大陸(岡林が出た奴ね)もしっかり録画して、よし、こういう角度で切り込めば結構面白いネタになるんじゃないか、と思っていたのに…。

 それから、この間年賀状を作ったときにネットで拾った別館の写真を添付したのだが、そういえば「DRAC興亡史」が合宿話で止まってしまい、75年度のEVEの話、それから追い出しコンパの話なんかも書く心算だったのに、ああ、それなのに、それなのに。♪あまりにも、早すぎる、時が経つのが早すぎる。堕落の坂を突っ走る、あまりにもあせりすぎる~と思わずZKの「パラシュート革命」を力なく口ずさむ2009年最後の1日という状況なのだ。

 それで今2009年のエントリーを振り返っていたら1月は牟田悌三さんの訃報や、エッシャーを見に行った話なんか書いてました。2月は「ジェシカ事件」ですね。某山崎とかいうSSWですか、なんやよう知りませんが「ジェシカ」のギターを自信タップリにデュアン・オールマンなどとほざいて心あるロックファンから非難轟々(?)でした。さらに3月には頭の不自由な、あ、頭の毛の不自由な某小倉とかいう司会者がフェイセズはパンク・バンドだったという、これも心あるロックファンに驚きとなるほどそういう解釈もあるのか、などと思う奴は一人もおらず、まあそれにもめげず音楽話をオープニングに続ける姿勢を見て、厚顔無恥というのはこのことだと学ばせて頂きました。

 4月はBONOBONO BANDのライブを見たっけ。そうそう、「ヤングな僕のぽっぷす・なう」という「昔は美しかった」シリーズを始めたのもここからでした。いえ、まだまだこのシリーズは続けますよ、ハイ。で、5月はナンと言ってもキヨシローの死がヘヴィでした。この時期のエントリーはなんか暗いな。まあ、しょうがない。明るい話題といえば小野真弓をみやざき国際ストリート音楽祭で見たくらいかな。って宮里陽太バンドが一番だったけど。6月は、キヨシロー・ショックが続いていて、エントリーを読み返してもあまり楽しそうじゃないな。ま、僕のblogは本分よりコメントのほうが圧倒的に面白いし、6月もコメントで救われておりますな。

 で、7月はなんといってもダイアン・バーチですよ。Goteauxssonさんのmixiの日記で知って、それから何度も繰り返し動画を見て、もう頭の中は彼女のことで一杯。ああ、まだオレにもこんな感性が残っていたのだと嬉しくなりました。そうそう、この月は左手の人差し指に原因不明のとげみたいなものが出来て、今もそれはあるのだげど、一体何なんだ、これは、などと気にしていたせいか左手の中指を車のドアに挟んでしまい、未だに爪がはがれそうで苦しんでいるのは、いったい何の因果なんだろう。8月は夏バテというか、エントリーの更新もなかなか進まず、ちょっと魅力的なお尻の写真でお茶を濁すなんて姑息なこともしました。でも、一部の同好の士には大変喜んでいただいたと確信しております、ねえ、Purple_Hazeさん、イカさん!!

 9月は中学生のときに見て(聞いて)大好きだったアーチーズの「サークル・オブ・ブルー」とウン十年ぶりに再会できて涙がちょちょぎれる思いをしました。もう、YOU TUBEさまさまです。それと最初に勤めた会社の連中と夏のキャンプに行き、大いに盛り上がったけど粥川なつ紀ちゃんのライブに行けなかった(涙)。その傷心の僕に心優しいTHIS BOYさんはわざわざ写真を送ってくれた。嬉しかった。
おい、その手はなんだよ、反則だ!!
 で、お礼に僕の大学最後の頃の写真を送ったら、その後THIS BOYさんから連絡が途絶えた。何か問題があったのだろうか。大学6回生のときに高知の同級生の結婚式に招待され、アーミーに長髪の格好でいったら新郎新婦の親戚筋からとても冷たい視線で見られたが、それと同じ反応だろうか(いやいやTHIS BOYさん、ギャグですから)。ちなみに今回初めてアップするワタクシの写真です。あ、海外旅行のエントリーのときもアップしたっけ。
あえてモザイク処理させていただきます
 10月は加藤和彦の自殺が重たかったな。あの時は普段来客数の少ない僕のblogにも多くの訪問者があり、でもほとんど素通りの人たちばっかりみたいで。何となく「ミュージシャンの死」も単なる「擬似イベント」として処理される、この現実はいったいなんだ、という気になった。それでも頭脳警察の新作、リザードの新作と2,3年前ならとても想像できなかったことが現実に起こったので、まだまだ希望は捨てていないのだ。で、11月にはそういうことも含めて「再開宣言」を行った。誰もなんともコメントくれなかったけど、拍手が入っていて嬉しかった。そして12月、あまりちゃんと更新してなかったけど、多くの人たちのコメントや拍手やメール、チャットで励まされてなんとかここまでこれました。

 それでは毎年恒例の皆さんへのお礼&土下座、今年は登場順です。THIS BOYさん、黒木燐さん、zappy君、jazz manさん、barrett_hutterさん、walker brosさん、ins君、Purple_Hazeさん、Dahliaさん、かくたさん、sacoさん、sugarmountain君、akkunさん、MM21さん、sawyer先輩、K平先輩、イカさん、guevara129さん、ズートホーンロロさん、さかいはるかさん、Goteauxssonさん、SMasaさん、kurukmiさん(kurumiさんのタイプミスだと思いますが)、imane77さん(今はimaneさん)、安さん、みさきさん、村石 太24号さん、狸さん、そして佐藤澪ちゃん、makiさん、春日ハチさん、さがゆきさん、香月保乃さん、その他の皆さんありがとうございました。来年も宜しく、おっといけねー、地元宮崎の方に朗報です。来年の4月9日ついに清水くるみさん、LIFETIMEに再登場です。勿論ZEK3だと信じております。早速「アキレス・ラスト・スタンド」をリクエストしてしまいました。それじゃ、新年までしばしさらばじゃ!!
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浮世の義理

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理性が、ああ理性がっ

割れた爪

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何ヶ月か前に、車のドアで挟んだ中指の爪である。順調に治りつつあったのだが、今日もののはずみで力を入れたら、ピキッという音がして割れた。ヤバイ。もしかしたら、剥がれるかもしれない。気分は甲子園の決勝戦前の星飛雄馬である。

剥がれたら、痛いだろうな。ヤダヤダ。

えっ、と驚くことが多いほど新陳代謝にはいいのだ

 偶然ってのは恐ろしい。もしかしたら世の中の森羅万象全て必然であり、偶然などということはないのではないか、などとまるでタイムパラドックスを検証するようなことを書いてしまったが、今日はこのところ偶然体験した話を書いてみたい。

 今更こんなことを書くと、なんだこいつはしつこいなとか、いい加減にしろとか言われそうだが、先週の土曜日は僕の誕生日だった。花の土曜日で誕生日、それなのに僕はあいも変わらず外回りの仕事に出かけていた。2時半くらいだったか、急ぎの用事があって目的地に走っていたそのとき、偶然ラジオのスイッチをつけた。土曜日の午後はNHK-FMで杏子(アンコじゃないよ、某古書店さん)やヒロシのサタディ・ホット・リクエストという公開録音の番組があり、これが国営放送にしてはなかなか先見の明のあるゲストを招く番組なのだ。お笑いだったり、新人バンドだったりさまざまなのだが、僕は個人的に杏子の話し方が好きで良く聞いているのだ。

 その日も、ほんの偶然スイッチを入れたらどこかで聞いたような声がする。自分のことを「あたし」なんて言ってるおっさんの声がする。あれ、これハチじゃないかな、と思って聞いていると、そう、あのカルメン・マキ&OZでたくさんの名曲、名演奏を残した春日ハチ博文と彼のバンドがゲストだったのだ。既に何曲かライブで演奏したあとで、ハチのロッカー時代のいろんな話が出ていた。RCが不遇な時代に、OZの前座に出てくれるよう頼みに行ったら、随分横柄な態度で清志郎が返事をしたとか、自分が抜けてからRCが売れ出したとか、最後のアルバムをプロデュースしたときの話とかさまざまな裏話を面白おかしく話していた。そして、なんと「チャンサハジャ」の日本語バージョンもやってくれた。この曲のPVが以前ハチのHPにアップされていて、何年か前の年末のエントリーにリンク張ったこともあったが、もうとっくにリンク切れになっていてしばらく聞いてなかったのだ(だったら通販でCD買えよ、と言われそうだが)。

 そのラジオを聞いた夜、久しぶりにハチのHPやマキさんのHP、そして初めて「チャンサハジャ」の動画を見た内田勘太郎のblogをうろうろして情報を探し、YOU TUBEにどうやら動画がアップされてるらしいと分かり、早速飛んでみた。タイトルは「Let’s do business」になっていた。



 で、次に偶然見て驚いたものは今朝の日経新聞。浮世の義理で3ヶ月だけ今取っているのだが(あ、お金は払ってないというか払ってくれるというから名前を貸したのだが)、今朝寝起きのぼんやりした頭で「私の履歴書」を読もうと文化面を開いたら、そこに「東京パンクの響き再び」という大見出しとその横に地引雄一さんの名前と写真が出ていた。ツネマツの有名な写真も一緒に載っている。地引さんが東京ロッカーズに関わるようになったいきさつと紅蜥蜴(後のリザード)との出会いなどを書いてある。リンク貼ろうと思って、日経のページで探したが見当たらなかったので、手入力でこの記事の最後の部分を引用する。

 僕はパンクとは音楽のスタイルというより、意識のあり方だと考える。70年代前半までのロックが夢や理想郷を追い求めたのに対し、パンクは現実を受け入れることから始まった。たとえ現実が絶望的だとしてもそこで自分たちが何をできるか、それが彼らや僕らの意識の中にあった。あの時代の空気を伝えていくことも僕の役割だと思っている。





 それともうひとつ、偶然見つけたものがあった。なんと、僕がDRACに入った75年にBOXのレコード棚にあった古いシングル盤。ステレオのオマケに付いていたシングルのため長らく聞くことが出来なかったのだが、YOU TUBEのおかげで数十年ぶりに聞くことが出来た。ただ、これは次回の「フォークと商業主義」みたいなテーマで取り上げようと思っている。さあ、誰のなんという曲でしょうか。ヒントは「フォークの××」と呼ばれた人です。

三丁目の夕焼け、って柄じゃないけどね

 風が強い日だった。雲は流れていた。乾いた通りに埃が舞っていた、っていい加減ストリートスライダーズのパクリはやめよう。しかし、今日は本当に風が強くて寒い一日だった。今月にしては珍しく夜8時前に家に帰り着いて、空を見上げると三日月と金星がきらきら光っていた。寒い、寒いと家に入ると、丁度家族がテレビを見ながら晩御飯を食べていた。僕も、すぐに椅子に座りご飯を食べ始め、何となく流れている番組を見ていた。「ズームイン」とかいう番組の特別編集みたいで、視聴者の投稿ビデオがたくさん流されていて、結構笑えるものが多かった。だんだん食べることより、見ることに集中し始めたとき、特集が運動会のビデオになった。全力疾走してコケルお父さんや、徒競走のグランドを近道して走る子供だとか、良く見かけるシーンが続き笑いこけていたときだった。玉転がしというのか、正式な名前は知らないが大きな玉を頭の上でリレーしながら、速さを競うゲームを見ていたら、親がビデオを撮っていることに気がついた子供がそちらのほうに手を振った。その瞬間、反対側から玉が運ばれてきて、哀れその子は玉が頭に激突してずっこけてしまった。

 余所見した子供のビデオで微笑ましいことこの上ない映像だったが、見ていて僕はウマグマじゃなかった、カマトトでもない、えーと、そうそうトラウマだ、そいつがフラッシュバックしてきた。アレは何時やったやろ、夏の熱い晩やったって、もう「とったらあかん」はいいか。いえ、あれは幼稚園の頃の話だ。

 僕は宮崎と大分の県境の漁村で生まれ、4歳のときに延岡市に連れてこられた。引越したわけではなく、祖父に引き取られたのだ。別段、家族が離散したわけでもなく多分父が翌年延岡に転勤になるだろうという話を聞いて、祖父が一足早く僕だけ連れて行ったのだ。おかげで通っていた保育園は中退である。一生懸命集めていたグリコのオマケは近所の悪ガキにあげた。センベツの心意気だったのだ。それから半年間、祖父の家で僕はほとんど一人で遊んでいたらしい。近くに同じくらいの子供はおらず、僕も一人でお寺の縁側や板の間にぼんやりしていることが好きだったので、全然苦にならなかった。絵本を読んだり、近くの海に行って遠くの島を眺めたりして過ごしていた。

 翌年の3月末に家族が引越してきた。それで、家族で住む家を父が借りたのだが、それは祖父の家から随分離れた場所にあった。そして、今度は新しく幼稚園に通うことになった。その幼稚園は父が借りた家からバスで10分くらいかかるところにあった。延岡には城山という小さな山がある。弘法大使のお祭りで結構有名なところだ。その城山の近くにカトリックのS山幼稚園はあった。以前通っていた保育園はお寺の中にあった、つまり仏教系だったが、今度の幼稚園はキリスト教系である。この小さい頃の宗教教育が僕の心の成長に大きな役割を果たした。と、書いておきたいが実は全然である。もうちょっと真面目に保育園や幼稚園の先生の教えを守っていれば、このようなシホン主義にまみれたオトナにはならなかっただろう。

 さて、幼稚園も決まり、住む家も決まったが、それまで住んでいた漁村は移動手段は全て歩きだったが、今度は幼稚園に行くのにバスで通わなければならない。今考えると僕の小さいときに周りにいた大人は実に放任主義というか大雑把というか、まだ4歳の僕に「幼稚園のバス停はO瀬町3丁目だから、車掌さんが『3丁目です』といったら、『ハイッ』と手を挙げて返事しなさいね。そしたらバスが止まるから」とか「バス代は行きが5円、帰りが5円だから10円持っていけばいいからね」などと一方的に言って、次の朝はただ一人でバス停からバスに乗って幼稚園に向かった。もっとも同じバス停からS山幼稚園まで行く子供が他に2,3人いたので、そんなに心配はしていなかった。

 しかし、不幸は突然襲ってくる。これから幼稚園でジーザス・クライストのスーパースター列伝だとか、お話の時間に優しい女の先生が読み聞かせをしてくれるはずだとか、足踏みオルガンのイントロで「ライク・ア・ローリング・ストーン」なんて歌のお稽古があるはずだ、などと小さな胸をときめかしていたリトルdrac-obの耳にそれはいきなり飛び込んできた。おなかの前にバッグを下げた車掌さんが「次はO瀬町3丁目で~す」とアナウンスするや否や、チビ共は降りる準備を始めた。当然僕も右へ習えである。僕は当時大人しくて引っ込み思案だったので降りるのも一番最後だった。みんなお金を払って降りるんだろうなと思って見ていると、首からぶら下げた札のようなものを車掌さんに見せると、車掌さんはにこにこしてフリーパスである。パスモ、それともスイカかと思ったが昭和30年代にそんなものはない。もちろん定期券という奴だった。

 で、いよいよ僕が降りることになり車掌さんに10円渡して立ち止まった。お釣りを貰うためである。車掌さんはにこにこしているが、一向にお釣りを渡すそぶりを見せない。カッとなった僕は「こら、てめえ、ちゃっちゃっと払うもん払えや、ボケェ。それともなにかい、お前さんは幼稚園生のつり銭を取り上げててめえのチップにでもしようってコンタンかい?」なんてことはとても言えないし、第一そんなボキャブラリーがあるはずはない。おずおずと「お、おつりくんない」と多分方言で言ったと思う。車掌さんは営業スマイルを止めて「お釣りはないわよ。10円よ、バス代は」と冷たく言い放った。何故だ、何故そういうことを言って子供を虐めるのだ、だって行きが5円、帰りが5円と僕は教わったのだ。片道10円などと聞いてないぞ・・・。僕のシュプレヒコールは虚しく消えていった。賢明な皆さんにはもうお分かりでしょう。高田渡に説明してもらいましょう。



 さあ、帰りのバス代が無くなった僕は泣きそうになった。どうすればいいのだ、帰りは。そうだ電話して母に来てもらおう、などという考えは全然無くて、それどころか当時僕の家には電話は無かった。いや、昭和30年代の一般家庭では電話など必要なかったというか、電話といえば公衆電話か呼び出し電話だった。途方にくれていた僕を見ていた一人の男の子が僕に近寄ってきてこういった。「バスの券を余分にもっちょるかい、1枚貸してやるわ。明日お金を返してくれたらいいが」。僕は地獄にホトケを見たような気がした。声をかけてくれたのは同じバス停から乗ったK野君という同い年の子だった。ありがたかった。ただK野君とはまだ友達といえるほどの間柄ではなかったので、僕はK野君の気が変わったら困るので、何度も何度も念を押して最後はちょっと嫌がられるくらいになった。

 こうして幼稚園初日は過ぎて、家に帰った僕はバス代が足りなかったこととK野君がバスチケットを譲ってくれたことなどを親に話し、びっくりした親はすぐK野君の家に行き、お金を返し更にこれからも仲良くしてくれるように頼んだ。それ以来K野君ともう一人、こちらはもう名前を忘れてしまったがやはり同じ歳の男の子と仲良くなり、いつも3人で幼稚園に通い、幼稚園が終わった後はそれぞれの家に誘いに行って近くの山や公園で遊んだ。

 ある日のこと、ちょっとした石切り場みたいな場所が家の近所にあり、幼稚園が終わった後そこで3人で遊ぶ約束をした。最初に名前を忘れた男の子が、その石切り場の上に登っていった。僕とK野君は下のほうで二人で並んでおしゃべりをしていた。K野君は話しに夢中になり、その石切り場の下に背中を預けて熱心に僕に話かけていた。僕は彼の話を上の空で聞いていた。それより上に登ったきりのもう一人の友達のことが気になっていたのだ。「落とすよ~」という声が聞こえた。先に上に登っていた子だ。これは上のほうにある大きな石を押して、その下のほうに転がすという当時良くやっていた遊びだ。ただ石がごろごろ転げていくだけなのだが、途中から加速度がついて速くなったり、転がる途中で石が割れて真っ二つになるのが面白くて3人でよくやっていた。

 ごろごろごろ、と石が転がってくる音がした。上にいた子は「落とすよ」と合図をしたので、僕は当然K野君もそのことは知ってると思っていた。ところが話に夢中になっていたK野君にはその声が聞こえていなかった。僕はその落ちてきた石を当然よけた。しかし話に夢中だったK野君は石が落ちてくることに全然気がついておらず、その大きな石はものの見事にK野君の頭に命中。見ていた僕たちはビックリした。何しろK野君の頭の上にスイカぐらいある石が当たっていたのだ。K野君は号泣した。僕たちが慌てて彼の頭を見ると血が出てきている。後年谷岡ヤスジのマンガで頭に包丁ささっているクソガキの絵など見たが、まさにあのままだった。その後どうなったかというと、僕たちの格好の遊び場だった石切り場は二度と足を踏み入れてはならない場所になった。当然、僕も上にいた子もそれぞれの両親からぶん殴られて怒られて大泣きした。

 それからしばらくして僕はその家を引越して、その場所に近づくことは無かった。K野君ともそれっきり会ったことも無く、10年が過ぎた。僕は中学生になっていた。あるとき中学の同じクラスで仲の良くなったK木という男と、中学は別だがK木の小学校からの友達という男と3人で偶然その石切り場の近くを歩いていた。4歳のときの話しなど、よっぽどのことが無いと思い出したりしないのだが、たまたまその石切り場を見た瞬間にK野君のべそかいた顔を思い出した。僕はおもむろにK木たちに話を始めた。「昔、この近くに住んじょったときじゃけど、上から落ちてきた石で頭を割った奴がおったつよ」「へぇー、何で頭を割ったと」とこれはK木の友達。「いや、ドンくさい奴でね、オレとそん奴が下のほうでしゃべっちょったら、上から石を落とした奴がおったつよ。そん子も『落とすよ~』て、ゆうたかい、オレは石が落ちてくる前に逃げたけど、もう一人の奴はそのまま石が当たって、ワンワン泣いてよ、まこ、おもしれかった~」

 ここまで話してK木は大笑いしたが、連れのほうは全然笑わない。それどころか僕を睨みつけて「やっぱりオマエか」といった。そのとき僕は気がついた。こいつの名前は確か、K、K野。「もしかしてK野君?バス券貸してくれたK野君?」と僕。「今さらおせーわ。オレはK木からオマエの名前を聞いたときから、もしかしたらS山幼稚園のとき一緒だったやつじゃねーかと考えちょったけど、自信が、ねかった。今話を聞いてやっと分かった。お前はやっぱ土壇場で逃げたっちゃな」。このあと僕はK野君の頭に残った5厘ハゲを見せてもらい、今目の前にいるのが間違いなく10年前頭に石が当たったK野君だということを認識したのだ。いやー、物言えば唇寒し秋の風だったな。しかし、こんなことを突然思い出すなんて、不思議だな。それでは、あの懐かしかった昭和30年代の青空を思い出して、高田渡に歌ってもらいましょう。



谷山犬の食い逃げ(たんにゃまいんのけにげ、と発音して下さい)

 今更な話だが、僕はmixiをやっている。きっかけは最近とんとご無沙汰のderiさんから招待されたからで、かれこれ3年以上は経つのではないか。そのmixiで嬉しかったことはいろいろあるが、中でもウシャコダの珍教組とリザードのモモヨさんとマイミクになれたことはダントツである。で、それ以来モモヨさんの日記にコメント書いたり、その返事にまた感激したりしていたのだが、この前は「つぶやき」といういかにもTwitterをそのまま頂きましたという機能を利用してモモヨさんにHBDのメッセを送った。そのメッセの返信で知ったのだがモモヨさんは、かのアーサー・C・クラークと同じ誕生日だったのだ。それで、負けず嫌いの血が騒いだワタクシは彼我の能力の差も省みず、オレと同じ誕生日誰かいねーかと探したら、おりました。フットボールアワーの岩尾。しかもこいつ75年の12月19日。アホンダラー、オレが1回生の頃生まれたんか~。じゃねー、じゃねー、こんな不細工漫才師なんかと同じ誕生日なんか自慢にならない。そうじゃなくて、ハイ、ジャン・ジュネと同じ誕生日だったんだ、僕は。だから前回の日記は僕なりの「泥棒日記」だったのだ。と、妙な納得をしてしまった。

 で、最近は書くことがいよいよおかしくなってきたせいか、コメントも少ないのだが前回の「泥棒日記」に勇気あるコメントをくれた某後輩と、いやこれはコメントとしてはちょっとまずいのでと、わざわざ携帯にメールしてきてくれた某先輩とおりまして、さらに僕の秘密の隠れ家でヒソヒソ話を楽しむお友達もいるのですが、そこでもちょっとした「バクロ話」が出てきており、やはり人間、叩けば埃がでるもんだと人様のそういう話をふふんと笑って読んでいたら、突然思い出した話があったので今日はそれを書いて終わる。実につまらない話なので興味のない方はパスするほうが賢明である。

 あれは、いつやったやろ、夏の暑い晩やった、というのはおなじみ「とったらあかん」だが、そうではなく冬の寒いときだった。当時勤務していたJEPという会社で、泊り込みの営業の仕事に行ったときだ。営業助手のK迫君と二人で高千穂という、宮崎観光で行くなら、これほどいいところはないのだが、そこに招かれざるセールスマンとして行くのはとてもつらいテリトリーを担当させられた。宮崎からは車で楽に2時間半以上かかるので、通いでは効率が悪いだろうと民宿を予約して営業活動をした。数字はさんさんたるもので、初日こそまずまず売り上げがたったが、2日、3日と日にちが過ぎても芳しい売り上げは上らない。4日目に当時の営業課長に電話して『経費が勿体ないから宮崎戻ります』と報告したら、『オマエも男なら、おめおめ帰ってくるな、ついでに椎葉に行って営業して来い』と鬼の一言。椎葉ってあなた、平家の落ち武者の村ですよ。人口の4割の人の苗字が「椎葉さん」で3割が「那須さん」というとんでもないところですよ(あ、4割、3割てのは適当です。興味のある方はお調べ下さい。まあそれくらい「椎葉」と「那須」さんばっかりだってこと)。



 で、高千穂から椎葉に移動して営業したのだが、まあ本当に家が隠れているというか道路から見下ろすと何もないようにあるのだが、車を降りてその道を下るとひっそりと建つ家が数々ありました。そこでお客さんの家の場所が分からなかった僕は、目の前の家に飛び込んで「すいません、この近くに椎葉さんっていますか?」と尋ねたら「この辺はみんな椎葉じゃが」と愛想もクソもない返事。しかもこちらを見る目がとげとげしい。そりゃそうだ。マンガ日本昔話に出てくるような農村地帯にスリーピース着て、標準語を喋るような人間が来たら、そりゃ警戒しますって。そこで僕は自分は怪しいものじゃないということを一生懸命話したのだが、話せば話すほどドツボに嵌るというか、結局最後まで家を教えてもらえなかった。その後何軒かの家を訪ねて、ようやく目的地にたどり着き商談を終わらすのだが、その時の寒い空気と農家の土間の底冷えする空間は未だに忘れられない(というのは、ウソでこの話を思い出すまで忘れていた)。

 ま、それはどうでもいいのだが、その椎葉で営業画終わり、夜の9時過ぎに会社に電話してこれから宮崎に戻ると報告したら、鬼の目にも涙というか、なんとその日はもう遅いから日向のビジネスホテルに泊って明日宮崎に戻れといわれた。さあ、そうなれば会社の経費だ。日向の街中のビジネスで良さそうなところを探したが、所詮どんぐりの背比べ。安全策で全国的にチェーン展開しているホテルを取った。チェックインを済ませて、晩飯を食べに出たのはもう11時を過ぎていた。一緒に行ったK迫君は鹿児島出身の癖に下戸なのだが、当時の僕は完全に酒乱時代で仕事終わって一杯やらずにどうするという姿勢だったので、ウムを言わせずメシと酒が旨そうなところを探した。

 夜も遅かったので(田舎町の夜11時って、当時はもう深夜ですよ。コンビニも無い時代だったから)、閉まってるお店も多くてうろうろしていたら小さいけど新装開店の炉端焼きのお店があった。入ると客は誰もおらず、カウンターの後ろに一斗樽があった。宮崎は基本的に焼酎文化の街だが、僕がお酒を覚えたのは京都だったので日本酒は当時大好きだった。しかも樽酒である。思い出した。正月が明けたばかりのころだったっけ。お店の大将に樽酒と魚を注文して、客はなにしろ僕とK迫君の2人だけで、先ほども書いたがK迫君は下戸で飲まない。ご飯を食べたらひたすら週刊誌を読んでいる。僕はお店の大将となんだかんだと話を始めてしまい、このお店の大将が長い間下積みをしてようやくこのお店を開いたこと、樽酒を置くのは贅沢だと思ったが新規開店記念と正月でもあるので、赤字覚悟で取ったなどの話を聞いた。

 いい加減出来上がり、明日は宮崎に帰って仕事だからもう帰りましょうというK迫君の言葉に重くなっていた尻をあげてお勘定をした。K迫君は定食みたいなものだったから、1000円もしなかったはずだ。僕も結構飲んだが、当時はあんまり食べないほうだったので多分5000円でおつりが来ると思っていた。大将が金額を言った。ほぼ予想通りだったのでサイフに合った5,000円札を出した。「ハイヨおつり、また日向に来たら顔見せないよ」と明るい声でマスターがおつりをくれた。そのおつりを受け取ったときに何か視線を感じた。K迫君が何か言いたそうな顔をしていた。ふと自分の手を見ると、さっき大将に渡した5,000円札が戻ってきている。酔っ払った頭で???と考えた。多分、僕が出したお金を1万円札と間違えたのだろう。

 これから先のことは書きたくないが、ええと、その、僕はワシントンにはなれなかった。その昔「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」なんて歌があったが、僕は「ジョージ・ワシントンになれなかったよ」である。ま、しかし、モノは考えようで、商売始めたばかりの人間に資本主義社会の厳しさを教えたといえなくも無い。うーん、でもやっぱり、キャット・フードならキャット・カカ(猫のババ)の話だな。あ、5,000円といえば、これもJEP時代にテレホンカード買おうとして、ってもういいか。今更、時効だ時効。

帰ってきたフォークソング・クロニクル

 突然思い出す過去の悪行というものがある。いや、あるのではないか。少なくとも僕は結構たくさんある。人間の記憶というのは曖昧なもので、自分の都合の悪いことは簡単に忘れたり、都合よく脚色してくれたりする。なんだか回りくどい表現だが、実はこの週末に、なぎらと坂崎の「フォーク喫茶ジャンボリー」という、91年にWOWWOWで放送されたという番組をYOU TUBEで見ていたときだ。なぎらが武蔵野たんぽぽ団の名前の由来から、当時のフォークのミュージシャン達がいかに貧乏だったかという話をしたのだが、その話を聞いていて、「あ、オレも同じ事をした、いやさせられた」と突如記憶が蘇ったのだ。とりあえず、その動画を先ず貼っておく。5分23秒あたりから、その話が始まります。



 流石にラーメンの麺だけをパクったことはないが、配達のトラックがお店の前に置いてあったパンを箱ごと失敬したことは、ある。それは修学院時代、尊敬する副幹事長のS賀さんの命令であった。当時、僕は麻雀を覚えたばかりでしょっちゅう徹夜で麻雀をしていた。俗に言う徹マンである。この徹マンという言葉には麻雀以外の意味があるらしいが、僕は寡聞にして知らない。どなたか詳しい方はご教示いただけないだろうか。などという、シーモンのネタは止めて、その徹マンをやっていたときの話だ。あ、その前に時代背景を説明しておかないと話が見えないかもしれない。70年代半ばの京都には、まだコンビニはなかった。正確に言うとLAWSON’Sはあった。確か高野にあった。もっともその頃のイメージは夜11時くらいまでやっているスーパーマーケットという印象であった。何しろ、精肉コーナーがあり、そこでバイトしていた同じ下宿の友人にハムを安くで分けてもらった記憶がある。あ、話がどんどん見えないか。いえね、コンビニが無かった時代というのは夜11時過ぎるとパンやラーメンを買いに行けるお店など無く、カップヌードルの自動販売機もそんなにあちこちにはなく、部屋に食べ物の買い置きをしておかないと深夜おなかが減っても朝の6時くらいにならないと食べ物は手に入らなかったのだ。ん、6時、随分早いなと思われたかもしれないが、当時の先天性労働者(by スターリン)は働き者で、朝、鶏の声と同時に起きてそのまま店を開くというところが多かったのだ。S見酒店のお兄ちゃん元気ですか。毎日前掛けをして仕入れや接客してましたね。今ではもう立派な跡取りになってらっしゃることでしょう。

 で、そのパンの話なんですが、例によって修学院の僕の下宿でDRACのメンバーが徹マンしていたわけだ。メンバーはちょっと記憶に怪しいが、一乗寺に住んでいたS賀さん、同じ修学院に住んでいたI上さん、もうひとりは多分F田君かS戸君のどちらかだったと思う。大体僕の下宿で徹マンするときというのは、サークルで研究会をやり、それが終わると同時に室町今出川にあったグリーンという雀荘(30卓近くあり、かなり広かった。周囲の腕自慢があちこちたむろしていたし、フリーで打ちに来るメンバーも結構いた。その大規模雀荘のおばちゃんに毎度毎度「明日も来てや」と言われ続けバカ正直に日参したのは僕です)で夜10時までやって、当時京都の風営法は厳しくて雀荘でアルコールはダメだったし、夜は10時で店じまいだった。中には組合入ってないもぐりの店もあり、オールナイトも出来たようだが、ジャン代もバカにならないので夜は誰かの下宿に転がり込んで徹マンをした。

 で、室町今出川から出町柳までてくてく歩き、そこから京福に乗り修学院の僕の下宿へ向かったわけだ。ついでだから修学院の駅を降りてからの道のりも書いておくと、プラザ修学院という小さいアーケードを通って白川通りに出て、信号の変わるのを待ち左手にあるサン・ルイという何故かカレーのルーが白い喫茶店の横を通って坂を上ると、お好み焼きやがあって、右手にS見酒店が見えてくる。で、そのS見酒店のほうに行くと見せかけて、その手前の道を右に入り2本筋を過ぎて右に曲がり路地の奥の右側に僕の住んでいた下宿があった。大家さんの名前を取ってN井荘といってたような気がする。

 10時過ぎにグリーンを出てエイデンで修学院まで戻ったから、多分11時前くらいのはずだが、その時間から僕の部屋ではしょっちゅう麻雀をしていた。最初は多少周囲に気を使って毛布をかぶせて牌を混ぜたり伏せ牌というやり方で音を立てないようにしているが1時を過ぎたあたりからは誰かが必ず熱くなり、周囲など気にせずガラガラ音を立ててシーパイ(牌を混ぜること)するやつが出てきて、僕も麻雀の音隠しにステレオをでレコードかけたりFMかけたりしていたので、当時の下宿生には大いに迷惑をかけたいただろう。いや、一番迷惑かけたのは大家さんだな。それでもこの下宿には2年間お世話になった。

 徹マンも1時過ぎくらいになるとどうしてもおなかがすくので、その時間帯になると屋台のラーメンにラーメン食べに行った。50代くらいの夫婦と高校生くらいの息子とやっていたその屋台は、値段の割りにとても美味しくていつも客で一杯だった。冬場は修学院は雪が良く積もるのだが、そんな日でも日曜・祭日以外は必ず開けているお店だった。深夜そのラーメン屋に集まるのは僕らのように麻雀やってる連中か、お酒を飲んでる連中、またなかには某革新党派の青年部隊などがいた。あるときここで某政党の青年同盟の諸君と鉢合わせになり、僕は大人しくしていたのだが生憎この手の論争が3度のメシより大好きというT原さんもいたので、なんだかんだと言い合いになり、屋台に迷惑かけるといけないからと近くの空き地に行き、小一時間は論争しただろうか、最終的に僕たちは論破したと思い、相手は基地の外の人間とは関わったら危ないと思ったのか矛を収めて撤収した、なんてこともあったっけ。そういや、毎度毎度このお店に来て「おばちゃん、オレ芥川賞取ったらゼッタイこの店のこと書くから」と言ってたK大の文学部の男はどうしているだろうか。芥川賞は取れたのだろうか。あ、ちなみにこのラーメン屋さん、当時は萬来軒と丼に書いてありましたが、後の天々有です。

 えーと、話が全然訳分からなくなりましたが、まあまあ、当時1回生の僕が2回生のI上さんと3回生のS賀さんと一緒に徹マンして、朝方の5時くらいになったときでした。みんな深夜にラーメン並ニンニク入りを食べたはずなのに、若さというのは恐ろしくエネルギーを消耗するもので、みんながみんな腹が減って何か食べたいといい始めました。しかし、僕の部屋に食べ物などあるはずも無く、何度も書くけど当時はコンビニなどなく、あと1時間以上しないと近所のお店も空かないのでひたすら空腹を我慢するしかないという極限状況の中、S賀さんが重々しく口を開いた。

 「みんな腹が減ってるな。オレもまだ1回生のときにこれと同じ経験をしたことがあってな。当時の下宿で先輩と麻雀していたときの話や。朝方どうしても腹が減って溜まらん。みんな腹に力が入らず麻雀もできん。どうしようかと迷っていたら友達が『オイ。S賀。ちょっと来い』っていうんや。こういうときは黙ってついていくのが男の道や。オレはそいつのあとをついて部屋を出た。下宿の外に出るとそいつはオレの部屋にあった大きな袋を持っていて先を歩いていく。しばらく歩くとパン屋の前に出た。その閉ざされたシャッターの前に何やら箱が沢山ある。その一番上の箱の蓋を開けるとそこにはたくさんのパンが落ちていた」

 「え、いや、S賀さん、それ落ちてたんじゃなくて、置いてあったんとちがう。配達の人が…」「黙ってきけ。オレも仮にも法学部や。窃盗が犯罪やということはよく知ってる。しかし前途有望な若者が空腹をかかえて部屋で待ってるんや。オレは心の中で店のおっちゃんに『かんにんな、かんにんな』と手をあわせながら友達の持ってきた袋に入るだけパンを詰めた。部屋に戻ったらみんな大喜びや。で、みんなでパンを食べた後一人がこういった。『パンだけやと喉に詰まるな。そろそろ牛乳が落ちてる頃ちゃうか』。そらごもっともな話や、そこで今度はメンバー変えてパン屋行かせたら、もう店が開いててな、店のオッチャンたちが何やら大騒ぎしてる。『どないしました』って聞いたら、パンドロボウが出たらしいって。いやー、物騒な世の中なりましたな、いうて…」

 このようなお話を先輩からされたら、義を見てせざるは勇無きなり、という言葉が浮かんできて僕も…。偕老同穴という言葉も浮かんで…。いや、そういうことを思い出してしまったというおそまつ。で、最後にオマケの動画貼っときます。




き、汚ねー!!

20091207154308
外回り中、よだれの凄い猫発見。思わずシャッター。

谷川賢作withさがゆきライブ

20091206194159
先週、予告したとおり谷川賢作とさがゆきのライブにやってきた。いつものY尾君は風邪で欠席。一人で来たら、宮里さんにあった。久しぶりなので、ご挨拶。やあ、やあ、どうも、やあ、どうもって高田渡である。ライブの前にH高社長に呼ばれ、屋上でワイン。全く面倒見のいい先輩である。

演奏は谷川賢作のソロピアノで始まった。あんまり谷川さんがソロでやりたかったと言うので、さがさんがオカンムリ。全然目を合わせない。しかし鉄腕アトム聞けて満足。これから後半が始まる。さあ、どうなる。山寺の和尚さんはSpainを奏でるか、楽しみだ。

まあ、どうでもいいっちゃどうでもいい話

 週末、土曜日だというのに仕事がさばききれず家に帰ったら21時を回っていた。疲れた体に栄養を補給しようと食卓について、さて気分転換に何か面白そうなテレビでもやってないかと、ぼんやりしていたら配偶者と下の子がこの前録画した「2009FNS歌謡祭」を見始めた。そんなに熱心に見ていたわけではないが、ふと耳についたのが「壊れかけたレイディオ~」という気取ったフレーズ、勿論徳永君のヒット曲であるのは先刻ご承知である。で、この曲、何かに似ていると思ったらBOROの「大阪で生まれた女」だ。ちょっと比べてみる。



 二枚目の徳永君と比べると、ちょっと不利なBOROだが、まあ気は心というではないか(イミフであるが、なんとなく)。この歌79年の関西テレビにしょっちゅう流れていたような印象がある。もう一つは今は亡き河島英五の「酒と泪と男と女」だが、この話は確か以前にも書いた。で、BOROだ。



 どうですかね。とりあえずうちの配偶者は似ているといってました。で、この歌に出てくる「電信柱」って言葉最近聞かないというか、地下に埋められたりして随分存在感がなくなったというか、昔はコンクリートではなくて木で出来たものもあったりしてその名の通り「柱」だったけどな。で、恥ずかしい話だが僕がまだ4歳か5歳くらいの頃だが、僕は「デンシンバシラ」というのを「デンキンバシラ」と思っていた。つまり「電気」の「柱」だ。電気を通す線をつないでいる柱だから、そんなに間違ったことではないと思っていたが、「デンシンバシラ」が正しいと知ったときは(それが何歳くらいだったかは覚えていないが、間違いなく小学校には入っていただろう)随分恥ずかしいような気がした。後年、五木寛之のエッセイに同じような話が書いてあって、ああ、九州ではよくある間違いなんだと思ったが、なんとなく気まずいような感覚は消えなかった。いや、どうでもいいような話ですけどね。「壊れかけ」と「大阪女」が似てるなと思ったときに、同時に思い出した話だったからつい書いてみただけです。さて、次回はちゃんとした話を書こうっと。

国家のウソは誰が責任取るんだい?

 今日は会社関係で嫌なことが一杯あって、なんでオレがこんな目に会うんだよと理不尽な怒りを胸に家に帰ってきたら、テレビで「2009FNS歌謡祭」なんて番組やってて、隣の部屋で子供が試験勉強しているから、小さなボリュームで我慢していたのだが、やはり80年代、90年代の懐かしい音楽見ているうちにだんだん気分も良くなってきて、でもずっと見ていった中一番歌が上手かったのは美空ひばりだったな、と再認識した。

 で、平日は僕はアルコールは飲まないようにしているのだが、テレビもなんだか1年の終わりみたいな話ばっかりだったので、国産の安ワインをちょっと飲んでしまい、それで新聞見たらまた嫌なニュースを見てしまった。人間91歳にならないと本当の事はいえないのだろうか。今更「歴史歪曲はマイナス」だなんていわれてもな。片方の当事者の西山氏は当時「ひそかに情を通じて」情報を得たことが糾弾されて、もうボロカスに言われましたな。そりゃ人生投げやりにもなる罠。とりあえず何の話か分からないといけないので、ニュースを引用します。



 しかし、アメリカ様が公開したから、もういいだろうというのもなんというか、いつまでたっても顔色伺いながらでないと本当のことはいえないのかね。本当のことはいえないといえば、もうキヨシローに歌ってもらうしかないな。ところでこのニュースをヤフーで探していたら、出てなくて代わりに「同じアナの鳩」とでも言うべきニュースを見つけてしまった。しかし、9億円か、あるとこにはあるんだな。オレも欲しいが・・・。



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