ヤングな僕のぽっぷす・なう 反戦歌その1

 シルバー・ウィークなどという砂上の楼閣が消えてしまい、またいつものように不毛な日々がスタートしておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。いや、もう、ちょっと油断するとすぐにエントリーが途絶えてしまうというか、これで結構取り掛かるのに時間のかかるタイプなものだから、頭の中でエントリーのことを考えて、ああいう話を書いてこういう落ちでいこうとか、途中のくすぐりにこの部分をからませてとか、そういう妄想というか想像しただけで何となくblogを更新したような気になるのは、もしかしたら病気でしょうか。

 などというわけの判らないイントロですが、実は今日は以前から頭の片隅にあり、なんとか話がまとまらないかなと以前から考えていたメッセージソング特集というか反戦歌特集をやってみようと思うのだ。どうして今更そんなものを、という気もするがこの前のエレックのコミックソングなんかよりずっと前から暖めていたものなのだ。ま、ヒット・ポップスにかこつけてなんとかまとめてみたい。まとまるか、まとまらなくてもいいか。とにかく進めてみよう。

 最近CMでグランド・ファンクの「ロコモーション」がよく流れる。考えてみたら多分中学から高校にかけての時期のハード・ロック界の一翼を担っていたバンドで雷雨の中の「ハート・ブレイカー」などという伝説もあったが、当時南九州で幼年期の中頃を送っていた僕には夢のまた夢であった。ただ、何故かこの曲は結構ラジオでも流れていたのではないか。「戦争をやめよう」という曲である。



 マーク・ファーナーには別段思いいれはないが、大学に入ったばかりの頃にクラスの同級生にその噂話を聞いたことがあった。僕のいた大学には内部進学できる高校、早い話が付属高校というやつがいくつかあって、D高校出身の人間は真面目でしっかりしていたが、大阪は寝屋川にあった高校出身者はいわゆるシティボーイが多くて、軟弱な男が多かった。当時は男子校だったはずだ。最寄り駅が京阪香里園にあったためかK里と呼ばれていた。そのK里出身でアメリカに1年留学していたやつが、ある時、とあるホールでGFRを見たという。「へー、GFR見たんか、どうやった」などと慣れない関西弁で尋ねた僕に、「いやな、客の性質が悪くてな、野次や空き瓶が飛び交うライブやってんや。それで怒ったマーク・ファーナーがな『この中でオレよりギター上手いやつおるんか、おったら出てきてみい』っていいよったんや。したらな、なんやよぼよぼの爺さん出てきて、マークからギター受け取ったらいきなり弾き始めて、それがごっつう上手いちゅうか、渋いブルース弾きだして、客はもう大喜びや。マーク・ファーナーも小さくなって聞いとった」。などという話をしてくれた。しかし、たった今まで忘れていた話だが、いやー記憶の蘇りというのは恐ろしいな。この話が本当かどうかは知らない。ただ1975年の4月の下旬にK阪という男から僕が聞いたのは間違いない。もっともこのK阪という男はアメリカ帰りを自慢する嫌な奴だったのであまり付き合いはなかった。

 もうひとつこの男がらみで思いだした話がある。ついでだから書いておく。先生が外国人だったので多分英作文の時間だと思うが、クラスの男子生徒が1人欠席していた。理由を尋ねた先生に答えた学生の発言。“He crushed his right leg.”He CRUSHED!?””No,Mr.He was crushed his right leg.””Oh!He wa crushed,I see.”。みたいな会話だったよ。要するに「ナンデかれハ、ケッセキシテルノカ」という先生の質問に対して、ある学生が「彼は右足をフンサイしました」と答えてしまったのだ。それを聞いた先生、ビックリして「かれハ、ジブンデミギアシヲオッテシマッタノカ」といったところ、アメリカ帰りのK阪が「センセ、チャイマッセ。ヤツハミギアシヲコッセツシタダケデンガナ。日本人、中学・高校で受動態なろてるはずやのに、いざとなったら能動態でいいよるからコミュニケーション・ブレークダウンになるちゅうてんねん」みたいな話だ。ああ、思い出しても不愉快だ。実はこの英作文の授業、僕は前期サボるだけサボってしまい、口頭試験のときみんなは「ミスター」「ミス」という敬称をつけるのに、オレだけ敬称なしの呼び捨てされた。挙句、後期の授業を1日でも休んだら”You,Cut”と手のひらをオレの首に当てやがった。で、未だにこのときの試験が全然できずに脂汗をかいている夢をみてしまいます。あれから30年以上たってるのにPTSDかもしれん。

 などといきなりな話が続いたが、ちょっとはヒットポップスということで、反戦歌と当時は全然思わず、ただこの曲のおかげで現在完了形をマスターしたという、もはや皆さんおなじみのこのバンドのこの曲をお送りします。



 歌詞も聞き取りやすく(さむわんとーみあろーんぐあごー、なんて聞こえて真似してたな)、メロディも覚えやすいこの曲は当時大ヒットした。もっとも当時はここでいう「雨」がナパーム弾のことだとは夢にも思わず、いわゆる「きつねの嫁入り」、「天気雨」のことを歌っていると単純に思い込んでいた。それと、当時はシングル盤を買って(借りて)、音楽と一緒に歌うということをよくやっていたのだが、シングルの歌詞カードには、サビの部分が” I won't know Have you ever seen the rain? Comin down on a sunny day”と書いてあり、” I won't know”の意味がイマイチよく判らず、ま、それで天気雨の歌だと単純に思い込んでいたのだ。よくよく考えてみれば” I want to know, have you ever seen the rain?”が正しいのは火を見るより明らかだ。まあ、当時は結構歌詞カードデタラメだったしな。ひどいときは「聞き取り不能のため歌詞を載せられません」なんて平気で書いてあったし。

 そういえば、巷では「びいとるず」なるグループの随分昔のアルバムがモノーラルやステーレオでセット販売されるとかで大騒ぎだったようで。などと憎まれ口を叩くのはやめて、せっかくだからビートルズ関係の反戦歌をちょっと集めてみた。もっともアフター・ザ・ビートルズだけどね。まず、頭に浮かんだのはオレンジの箱に腹が出て、手足は極端に細く、目だけがぎらぎらしているあのアルバム。CBSがディランを貸さないって意地悪したり、あれで初めてレオン・ラッセルを見てその異様なスタイルに見入ったり、懐かしい想い出が多いのだが、ジョージ・ハリスンの「バングラデッシュ」をお届けします。



 バングラデッシュはベンガル人民共和国というのが正しい国名だと教わったが、この歌とアルバムと映画のおかげで「バングラデッシュ」が僕にとってはポピュラーになった。と、書いてナニゲニ調べてみたら、いまや「バングラデシュ人民共和国」が正式国名と外務省のHPにも書いてある。じゃ、「ベンガル人民共和国」ってナンだったんだ。しかも、僕はずっと「バングラデッシュ」と表記してきた(発音もそのまま)が、よく見てみると「バングラデシュ」が正しいようで、なんだかよく判らなくなってきた。

 で、もう眠くなってきたので続きはまた次回なんだけど、予告編だけアップしておきます。ポールがウィングスを結成したのは「ハイハイハイ」のようなキワドイ歌やこの歌のように政治的メッセージを歌いたかったからではないか、などとしたり顔で書いていた音楽評論家も多かったけど、そんなの全然関係なかったというか、未だにベスト盤にも入ってないこの名曲のリハーサルシーンです。



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細くします、いや、補足します

 先ほどアップしたエントリーの補足説明になりそうな動画があったのでアップします。なぎら、流石にフォーク界に詳しいな。



 後はオマケです。




ジ・アザー・サイド・オブ・フォークソング・クロニクル

 先日、ちょっと時間つぶしにフルモトさんちをのぞいていたら、エレックの「コミックソングコレクション」なる企画モノがあった。選曲を見ると、なるほどといえるものだったのでつい買ってしまった。そういえばPPM(PFMじゃないよ、あちらはイタリアのプログレバンドって、どっちも知らない人のほうが多いか)のマリー・トラバースが亡くなったなどという記事も読んでいたので、頭のどこかにフォークという単語がひっかかっていたせいかもしれない。でなきゃ、普通の神経してたらまず買わないようなゲテモノ盤だもんな。それでも車の中で流していたら、配偶者や長女の「止めろ」「頭がおかしくなる」「もっとまともなCDはないのか」「ええかげんにせんと気ぃ狂て死ぬ」などと、最後はどさくさ紛れのINUの歌詞だが、彼女達の心からの罵倒を聞いて、オレのスタイルは間違っていないと確信したその喜びを皆さんと共有したく、ここにエントリーとしてアップします。

 と、まぁ、要は以前連載していた「フォークソングクロニクル」の番外編を書きたいだけなのだが、とにかく始めましょう。しかしこのCD、2枚組みで全20曲、流石に仏塔して聞くと、あ、ちごた、ぶっ通して聞くと、いい加減おかしくなるのでここでは程よくブレンドしてお届けします。オープニングナンバーはまりちゃんズの「尾崎家の祖母」。当時天才ギター少年ともてはやされたあの人の初レコーディング作品で、イントロからエレキがぶいぶいいうてます。



 しかし、これパート1から3まで一気に聞くと強烈ですな。尾崎家の祖母、ご存命なら107歳だがパート4が出ないということは、パーホップス、メイビー、アイムシュアである(なんのこっちゃ)。で、注意して聞くとパート3の最後のほうで「紅白出ようぜ」という尾崎氏の叫びが入っているが、まさか実現するとは思わなかった。もっともバンド名もメンバーも違っているが、2/3は実現したのだから大したもんだ。このまりちゃんズには「ブスにもブスの生き方がある」なんて歌もあるので、興味のある方は聞いてみてください。いま、ふと思ったけど、小林万里子の「朝起きたら」はある意味「ブスには~」のアンサー・ソングではないか、違うか。ついでにリンク貼っておきます。

 次はつボイノリオの、ご存知「金太の大冒険」。この歌を聞くと思い出すのが、大学の先輩であるK平さんだ。たしか78年のオリテのときだと思うが(あれ、K平さんは74年度生だから78年だと計算が…?まあ我がサークルにはよくあるもっと学問したから大学残る症候群だったかもしれない、僕も学問の真実を追究するために2年残留したのだが)、僕たちのサークルはBOXから重いオーディオをキャンパスの中に運び込み、場所はM前なんて特等席を確保できるわけもなく、あれはG前あたりだったか、机と長椅子を用意して新入生の気を引く音楽を流しながらサークルの勧誘をしていたときだ。K平さんがニコニコしながらやってきて、とあるシングル盤を取り出した。そのシングルをかけるや否や、ただでさえ女性部員のいなかった僕たちのサークルのブースには周囲からの非難のマナザシとごく一部のマニアの連帯のマナザシが注がれたのだ。しかもやめておけばいいのに延々流し続けたものだから、流石に注意を受けて(確かその筋の連中からクレームがついた、××問題研究会あたりが出てきたら厄介なことになっていたはずだ)、慌ててアレアのライブを流した。それを聞いていたあるボーリョク学生から「金太の次はインターか、なんちゅう節操のないサークルや」という革命的賛辞をもらったのは、未だに忘れられない青春の1ページである(僕のこの手のネタは面白おかしくするために多少のフレームアップがありますが、この1コマは紛れも無い事実です、社会主義的リアリズムで描いてみました)。



 しかし、つボイノリオの作品(そんな大層なもんかい!)は、この「金太」を聞けば大体想像がつくというか、「極付けお万の方」とかもうタイトルだけでうんざりだが、「吉田松陰物語」はなんのことだか判らなかった。もっとも1回聞いたら、もう結構ですというパターンですな。まあ、よくこんなことばっかり考え付くもんだ。ある意味感心するな。

 3曲目にようやく、まともな(?)シンガーの歌が出てくる。還暦過ぎてもまだまだロックジジィの泉谷しげるである。この歌は「春のからっ風」のB面に入っていて、やたら深夜放送でオンエアされていた。深夜放送といえば、泉谷本人も一時期オールナイト・ニッポンのパーソナリティをやっていた時期があり、その番組の中で泉谷の楽曲をギターで弾き語り、誰が一番上手いかを競う聴取者参加のコーナーがあった。時間帯は深夜2時前後である。その時間帯に黒電話(当時はまだプッシュホンが出回るかどうかという時期だ)を前にしてギターを弾いて歌を歌わせるというあまりにも非常識なコーナーで、当然大いに楽しみにしていたコーナーの一つであった。ある時、「春のからっ風」を歌ったやつがいて、そのあまりのヘタさ(いや、歌が徹底して音程外していたのだ)についに泉谷が歌唱指導を始め、それでも直らないアウトオブチューンのボーカルに泉谷が「お前もう歌はやめろ」と怒鳴ったことがあった。いや、我ながらつまらないことを覚えているもんだ。その時間帯にしっかり物理を勉強していたら、などとタラレバネバーエンディングストーリーはやめよう。人生が空しくなるから。

 で、この泉谷しげるだがデビュー当時は青森から集団就職で東京に来て、悪い大人(いわゆるシホンカだ)に騙されて、その反抗を歌にしたなどという架空プロフィールを当時の音楽ジャーナリズム(そんなものは無かったといえるかもしれないが)は流していた。RCサクセションのバンド名が「ある日作成しよう」から来ているなんてガセもあたかもホントの話のように書いてあったな、ガッツ!!ま、それはいいけど、そういうプロフィールをまともに信用させるような「帰り道」だとか「春夏秋冬」なんて、心に響く歌もあれば、この歌のように「脳天気」な歌もあったっけ。



 お次は替え歌やタカダワタルネタで蔵を建てたといわれるなぎらけんいち。フォーク歌手としてより、映画「嗚呼!!花の応援団」の薬痴寺先輩といったほうが早いかもしれない。「役者やのー」、の薬痴寺先輩である。この歌を最初に聞いたときはそれほど面白いとは思わず、その後のシングルになった「葛飾にバッタをみた」のほうが好きだった。この歌のタイトルもそれこそPPMの「悲惨な戦争」をもじって作られたものだろうが、ま、今で言う放送事故みたいな話だ。シングルのジャケットが東洲斎写楽みたいでちょっと面白かったけど。ついでなので2曲連続でアップします。曲の関連をしみじみと味わってください。あ、流石に最初の歌は歌詞を微妙に変えています。音声のぼかしも入っています。流石は天下の×HKのBSで小銭を稼いでいるなぎららしい気配りですね。





 このあたりで一服の清涼剤を。デビュー当時からギターテクニックとルックスのよさで売ってきた古井戸、仲井戸チャボが作った「本当はもっと悲しい歌」のはずだったあの名曲をお届けしたい。先ほど書いた泉谷は当時古井戸の大ファンで、彼らをなんとかエレックに売り込もうとデモテープをつくり、そのテープの時間が余ったので自分のオリジナルを吹き込んで持っていったら、「一番最後に歌ってる奴を連れて来い」と言われ、古井戸売り込むはずが自分のデビューにつながったなんていうエピソードもある。もっとも泉谷のいいところは古井戸をデビューさせることを条件として自分のレコードを作ったらしい。古井戸のかわいそうなところはこの歌や「インスタントラーメン」なんかが受けてしまい、なんとなくおちゃらけフォークデュオ的に見られたところだな。早すぎた「あのねのね」だったのか、ってそりゃ失礼だ。個人的には76年に京大で太田裕美の前座としての彼らを見た。流石にこの歌はやらなかったが。



 「さなえちゃん」の歌詞にも登場してくるケメ君とは、最近ようやく再評価されつつある佐藤公彦である。元ピピ&コットつってもご存じない?「どうぞこのまま」の丸山圭子はケメが脱退した後のピピ&コットのメンバーだったのだ。って、丸山圭子もやや死語っぽい。当時のケメの人気はそりゃすごいもんで、彼自身もそのミーハー的な人気と自分のやりたい音楽とのギャップを感じて、いろいろあったようだ。当時のインタビューの中で「僕はソングライターであるより、コンポーザーになりたい」という発言があり、そうかケメは指揮者になりたいのかと誤読したのは僕です。指揮者はコンダクターだっちゅうの。ちなみに松村雄策と同級生というのは意外に知られていない、って松村雄策もごく一部にしか知られてないって。この曲や「雨宿り」なんかは早すぎたさだまさしって感じかな。個人的には「とおりゃんせ」や「夕暮れ」などの叙情的な歌が好きだったな。ちょっと音が外れるような感じが魅力でした。そうそう山下洋輔のエッセイにも佐藤允彦の話のところに「これは残念ながら佐藤公彦の誤植ではない」などとくすぐりに使われていた。あ、あれはスポンサーがヤ×ハだったから入れたくすぐりか。



 と、まあ書いてきて海援隊の「母に捧げるバラード」を飛ばしてしまったことに気が付いた。ま、いいか。最後にこれぞ究極のナンセンスソングをアップして終わる。歌詞が凄い、ワンフレーズでここまで出来るのはコイズミかこいつかだ。



綾の吊橋に行った その3

遥かなる影っていうのはこういうことなんだろうか
渡る途中で気がついた。オレは、高い所が大嫌いだった。

綾の吊橋に行った その2

まっすぐにまっすぐにまっすぐに進もう、って歌があったっけ
今、渡っています

綾の吊橋に行った

20090921140750
これから渡ります

JEP-OB CAMP IN SEKINO-O その2

 雨の中、車はキャンプ場の駐車場に入った。その奥に門があり、そこには「ここから車両の出入りを禁じます。車で進入する場合は、管理人の許可を取ってください」みたいなことが書いてあった。もちろん、そんなものを遵守するようなN村君では無い。完全に無視して、車のままキャンプ場に入っていった。門を通過すると、周囲は樹木に囲まれたスペースで、そこでバーベキューや流しそうめんをしたり、飯盒炊飯が出来るかまどがあったり、そうそう、管理人室というかそういう建物もあった。それらを全くスルーして、車が進んでいくと、ちょっとした坂の上にキャビンというかログハウスというか、もっと簡単にイメージできるのは昔の借家というか官舎というか、よく営林署の官舎なんかで見かけた平屋が10数棟建っている広場に出た。そこがキャンプ場だった。

 広場の中心部は空白で、左右に5棟ずつ(今、関之尾のHPで調べたら建物の呼び名は)「ケビン」が建っている。そして車が止まったのは、その一番手前の大きなケビンの前のブルーシートの下であった。車から降りると、雨に煙るなかドアの開いたケビンもあった。どうやら鹿児島から来た連中が先に入ってるらしい。とりあえず、荷物を降ろそうということで3棟借りているケビンのうち、真ん中のものに入った。入ってビックリ。外から見たら借家か官舎という雰囲気だったが、中の間取りもまさしくそういう雰囲気。玄関上ると8畳くらいの台所(床は板間)に流し台があり、テーブルには電気ポットが置いてある。奥は10畳の純和室。いっちょ前にエアコンが付いている。押入れには布団やタオルケットが入っていた。台所の左手に浴室(一応シャワー完備)、その奥が水洗トイレという、まあ家賃4万円だから文句は言えないけど、もうちょっと設備品が新しいといいよね、とでも言いたくなるような、昭和の貧乏な雰囲気が充満していた。

 とりあえず、雨にぬれたのとちょっと寒かったので、着ていた半袖シャツを長袖に着替えて、隣のケビンとの境に張ってあるブルーシートの下に向かった。あ、先ほどからブルーシート、ブルーシートと書いていますが、せっかくのキャンプに雨が降ってアウトドア生活が楽しめないといけないからという、多分にお役所的発想だろうが、ケビンとケビンの間の、俗に言う建蔽率というところですか、そこにブルーシートを屋根代わりに張ることが出来るようになっていたのだ。先に到着していたのは、鹿児島から来たI上君、ときどきこのblogにコメントを書いてくれるzappy君、そして去年のキャンプの幹事だったH君とその奥方プラス、H君ジュニア2名であった。「おうおう、久しぶりですね、まずはウェルカム・ドリンクを」といってzappy君がくれたのは、クーラーボックスに入ってキンキンに冷えていた缶ビールだった。「まだ4時前なのにもうビールか」と答えた僕に、「ウェルカム・ドリンクじゃっど。かごんまの偉人の西郷どん(セゴドンと発音してください)も『宿に着いたらウェルカム・ドリンク』ちゅうて、もうこれは常識ですよ」と自らの日中飲酒を正当化するための詭弁としか思えないようなことを言っていた(多少、事実と異なるかもしれないが、まあ、大筋こういうことだったと思う)。

 手にした缶ビールの冷たさと予想以上に雨が激しかったので、僕はケビンに戻ろうとした。そこに「ああ、久しぶりだなあ。どうしたの、もう頭真っ白になってるじゃない」という声がした。振り返るとN尾さんだった。この人は僕と同い年で、もっともあちらは大学をストレートで卒業して、そのままこの会社に関東で就職したので、僕が入社したときは先輩社員でえばっていた。営業数字も飛びぬけてよかったので、すぐに管理職になり、九州は熊本に営業所を開いたときに初代の所長としてきた人だ。当時、あちらは課長、僕はペーペーの社員だった。このN尾さんは同い年ということもあってか、僕が出張で熊本に行ったときなど結構面倒を見てもらった。あまり喋るほうではないが、世話好きでいい人なのだが、しかし、この人未だに独身なのだ、バツイチとかではなく。

 外は寒かったので、ケビンの中でタケちゃん、N尾さんと3人でおしゃべりをした。こうして顔を合わせるのも20数年ぶりなので、その間のお互いの近況だとか以前一緒に仕事してその後消息がわからなくなってる連中の噂話などいろんな話をした。話の途中、僕は外の天気を見に出かけ、再度ケビンに戻ったらタケちゃんとN尾さんが、なにやら眉間にしわをよせてヒソヒソ話をしている。ん、聞かれたくない話だろうかと思いつつ、野次馬根性で聞き耳を立てていたら、「いや、やっぱりまだケッコンしたいですよ」「そうだよね、で、相手の希望はどんなのがいいの」「いや、それはN尾さんが先に言ってくださいよ」「え、オレ、おれはそうだな。まず年は35までだな」「35までですか」「そ、35。それと巨乳が最低条件」「最低条件ですか」「うん、巨乳は譲れない」「じゃ、じゃですよ。36だけど超巨乳の女の人がもし出てきたら…」

 聞いていた僕は思った。この二人はゼッタイ結婚できないだろう。そう思った瞬間、「あのー、仮定の話はいい加減止めたほうが…」と口を挟んでいた。話に夢中になっていた二人は、ようやく僕に気が付いたようで妙な照れ笑いをしていた。しかし、はにかんだ青少年は美しいかもしれないが、アラフィフオヤジのはにかみはいただけません。

 「火をおこす準備はじめまーす」とH君のジュニアが呼びにきた。雨もどうやら上って、それでも万一のことを考えて、一番広いブルーシートの下でバーベキューをやろうというのだ。まだ4時半くらいだったが、コンロの組み立てや炭の火おこしや椅子、テーブルのセット、飲み物や食べ物の準備などやることは沢山ある。皆で手分けして作業していると、他のケビンにも若い人達が荷物を持って入ってきた。書き忘れたが、このキャンプ場の奥はテニスコートになっていて、テニスの合宿なんかでやってくる大学生達も多いそうだ。キャンプの参加者は、その段階でN村君、タケちゃん、N尾さん、I上君、zappy君、H君それに僕の7人だったが、それからK迫君、K瀬君そうそう、akkunn君もやってきてフルメンバーが揃った。

 と、ここまで書いてきてちょっと迷っております。何故か。この後は一大バーベキュー大会となり、当然肉野菜は食いまくるわ、アルコールは飲みまくるわ、話は盛り上がるわで、結構きわどい話というか、ちょっとこれはblogに書くのはどうだろうか、この人も普段は立派な社会生活というものがあって、年齢も年齢だけにいろんな人から頼られたりされてるだろうけど、実はこんなアホな人だったのか、いや、それ以上にそんな性癖があったとは知らなかった、今後は付き合いを考えなければいけないのではないか、などというさまざまな問題が発生するのでは無いかと思うと、うーん。ま、ひとつには僕も酔っ払ってしまい、あちこちの話の断片は覚えているものの、当時の会社のことを全くご存じない人達に読んでもらっても面白くないのではないか、などと考えてしまい、この後どうするか決めきれないのだ。とりあえず、気が向いたら続きを書きます。あるいは、こういう話がでてましたがな、忘れたんですか、というような情報があれば、ま、リクエストがあれば書くかもしれませんが。

 うーん、最近どうも話をまとめるのが苦手になってきつつあるな。気をつけようっと。



JEP-OB CAMP IN SEKINO-O その1

 THIS BOYさんには大変申し訳なかったが、粥川なつ紀プラス和田あきらのライブの日は、先に約束していたキャンプに行ってきました。昨年の12月に初めて参加した、昔一緒に勤務していた会社のOB連中が年に2回集まる恒例のキャンプなのだ。前回は鹿児島、菱刈のキャンプ場だったが、今回は地元都城の関之尾キャンプ場という滝で有名なキャンプ場。今回もN村君が車で送ってくれるというので、土曜日の正午に待ち合わせした。そのときにI上君といって、同じ宮崎出身で目と声の大きな男も一緒に行くと教えてくれた。I上君と会うのも多分20年ぶりだ。あ、I上君というのはもう一人いるので、ここでは先に出てきたI上君はタケちゃんと呼ぶことにする。タケちゃんは元気のいい男で、毎朝誰よりも元気よく「おはようございます」といって会社に入ってきた。その挨拶だけで課長まで登りつめたオトコだ。外見もなかなかいい男でちょっとメキシカンな雰囲気がある。チコなんてニックネームが似合いそうだ。ロドリゲス?そこまでの貫禄はないな。

 などとバカ話を書いているうちに、土曜の昼になった。午前中、病院で注射を受けて、着替えのパンツと5本指の靴下をええもんやっすいのはイ○ミヤ~で買ってきた僕は、リュックとシュラフ、折りたたみの椅子を準備して待っていた。携帯がなり、N村君たちが迎えに来た。階段を下りて道路に出ると、N村君とその横に見たことの無いおっちゃんが立っていた。『誰や、こいつ』と思って睨んでいたら「drac-obさん、変わりましたね~」と大声で叫びやがった。タケちゃんだ。ちなみに彼の声は2階にある我が家までびんびんに響き、それを聞いた配偶者と長女は「お父さんがメタボになったから、変わったといわれてる」と大笑いしたそうだ。不愉快な奴らだ。

 「タケちゃんこそ、頭どうした」と思わず言ってしまったが、正しく磯野波平状態になった頭を見て、諸行無常と思ったのはせんのないことだった。そういう悲しい話はさておき、2台でつるんで都城を目指した。そのときにせっかく都城に向かうのでT岡さんという、僕らの共通の元上司に会おうということになった。実は、僕は2週間ほど前に仕事で都城に行ったついでに、20数年ぶりに会ったばかりだった。そのときに今回のキャンプに誘ったのだが、いまや都城で2軒の飲食店を経営するやり手のT岡さんは、過去の付き合いよりも今日の売り上げ、土曜は一番の稼ぎ時や、そんなアソビにつきおうてる暇あるかい、ダボ、酒や酒や酒もってこいと何故か浪速の春団次になってしまったが、今回は不参加と言ってたので、それではこちらから会いに行こうではないかということになったのだ。電話したら、じゃ一緒にメシでも食おうということになり、町中のファミレスで待ち合わせをした。

 ファミレスに着いたのは1時を回っていた。お店に入ると一番奥のテーブルにT岡さんご夫妻がいた。僕が新人サラリーマンだった頃、会社や社会のルールをいろいろ教えてくれた人だ。また文章も上手で弁も立つ、しいて言えば女癖が悪いくらいで、ってこんなことを書いているから、その時は都城和牛をおごってもらえなかった。T岡さん、次回は都城和牛と地鶏ヨロシクお願いします。しかし、そのファミレスで当時の仲間の噂話や、いろんな話をしたが、もういい加減いい年したおっさん、おばさんの癖にまだ独身とか年下の男とケッコンしたとか、もうどうでもいいような噂話がやめられない、とまらない、カッパエビセンであった。かれこれ1時間以上盛り上がっていたら、突然T岡さんの携帯がなった。どうやら今回のキャンプに参加する人間らしい。電話が終わって「誰ですか」と聞いたら、akkunだった。「あー、あいつか。じゃ、あいつが来たらみんなでお疲れと言って一斉に店を出よう」などと言い出すのは勿論オレだ。

 で、やってきた。相変わらず素っ頓狂な男で、こちらがテーブルから手を振っているのに、全然違う団体のテーブルにニコニコしながら座ろうとしている。タケちゃんが声をかけてようやく気がついた。こちらのテーブルに座るや否や「いや、うちのハハが今施設にいるでしょう」とノーバディノウズの話をいきなり始める。そうなのだ。この男は自意識過剰というか、自分のことは周りの誰もが知ってるという前提条件で話を始めるので、毎回話の要点を掴むのに時間がかかるのだ。ま、それでもその手の話が始まると、いつの間にか、誰それが病気したとか、身内のだれだれが入院したとか、重い病気にかかったとか、そういう話題ばかりになってしまう。これが年齢を重ねるということなんだろうか。などと最後はちょっと暗めの話題になったが、それでもT岡さんたちと話が出来て、今回のキャンプの第一目標は突破したような気になった。akkunはこの後、お母さんの施設に行ってからキャンプ場に来るとのことで、バーベキュー用のコンロを受け取りいったん別れた。

 時計は2時を大分回っていた。天気はちょっと怪しかったが、途中日の光も差してきてなんとか大丈夫だろう。さて、鹿児島から出発した連中はもう到着してるだろうかなどと話しながら車は関之尾に向かった。ちょうど県境でちょっと走ると宮崎と鹿児島の間をいったりきたりする山道だ。しかし、その山道に差し掛かると突然嵐のような雨が降ってきた。この前聞いていたブライアン・フェリーの「激しい雨が降る」のピアノのイントロが流れてきたような気がした。降ったかと思うと急に雨足が弱くなっていたので、こりゃ通り雨だ、すぐ止むな、などと話し合っていたのだが、キャンプ場の近くに来たときには、滝のような雨になっていた。

 N村君がいうには、去年もこんな大雨でブルーシートの下でバーベキューをしたなどという。ブルーシートの下?うーん、こりゃライブに行ったほうが良かったという神のお告げではないのか。しかも宿泊施設は、前回の菱刈がしゃれたコテージ風だったので、今回も期待して聞いたら、畳がひいてあるとか、布団もあるから大丈夫とか、キャビンとかコテージというより、小屋みたいなもんかな、などとだんだん不安になるようなことを言い出した。キャンプ場で畳に布団、一体なんなんだと心に浮かぶ不安と、ああ、やっぱりナツキちゃんのライブに行っておくべきだったのではという後悔の念が渦巻く中、車はキャンプ場についた。


山の夜は早い

20090912191655
ランタン点して馬鹿話。生産性は全く無いが、これぞストレス開放です。

早くも宴会

20090912164943
キャンプに付き物のBBQ、つまり、ベック・ボガード&クアトロという黄金メンツ、ではない。

えーと、ロックファン以外には落ちがわかりにくかったかもしれませんが、その昔、ベック・ボガード&アピスという史上最強の3ピースバンドがありました。それに引っ掛けて、サケ・ロック大関のスージー・クアトロを入れたのですが…。あ、つまらない、そうですか。

バカンスはいつもRain

20090912152612
今日は、昨年冬以来の元JEP社員のキャンプだが、ご覧のとおり土砂降り。誰の行いが悪かったか、これから山岳キャンプにつきものの総括を行う。

もうこれで最後にしたい、っていうか最後にさせて、お願い

 しつこい性格です。こんなエントリー書いたら地元の恥を全国にさらすようで、そういうことは「愛国心」のある人間のやることかと自問自答したが…。結論、どう考えてもあんたがおかしい。これでは逆切れする小学生ではないか。いや今朝のことだが、地元紙を読んでいたら目が点になる記事が出ていた。全国紙に出ていたかどうかは未確認で、とりあえずYahoo!のニュースで探したが見つからなかったので、多分全国的には無視され手いるニュースだと思うが、僕がウォッチしていたセンセの話なので、そのまま新聞記事を引用する。

中山前国交相が「公認なし」抗議
自民・細田幹事長へ
 衆院選に宮崎1区から立候補し落選した中山成彬前国交相(66)は9日、自民党本部を訪れ、自身を公認しなかったことに関して細田博之幹事長に抗議した。
 中山氏が公認見送りの理由を尋ねたのに対し、細田氏は県連が上杉光弘元自治相(67)を公認しなければ組織を解散するなどの強い態度を示したため、と説明したという。
 また、中山氏は自身が支部長を務める党県第1選挙区支部の幹部2人を県連が除名したことについて県連を指導するよう要請。細田氏は「検討する」と答えたという。(9/10付け 宮崎日日新聞)


 この記事を読んで連想した言葉。「逆恨み」「無理が通れば道理が引っ込む」「虎の威を借る狐」「貧すりゃ鈍す」その他、etc,etc…。それと、除名された幹部2人というのはどんな人達だったのか、こちらも新聞から引用する。

 衆院選出馬へ強い意欲をみせている中山成彬前国交相(66)=宮崎1区=の自民党本部への公認推薦を決めた党県第1選挙区支部(支部長・中山氏)の久島時夫幹事長らが17日、党本部で細田博之幹事長らに中山氏を公認するよう要請した。党県連は上杉光弘元自治相(67)の公認を求めており、細田氏らは「勝てる人を公認したい」として公認問題を協議する意向を示した。
 久島幹事長と同支部の大村嘉一郎副支部長が、菅義偉選対副委員長、選対委員長を兼ねる細田氏を相次いで訪ね、支部として公認推薦を決めた16日の総会の協議内容を報告した。
 久島幹事長らによると、細田氏らは「県連から上杉氏の公認を要請されている。整理した上で選挙に勝てる人を公認する」と述べ、幹部で協議し公認候補を決める考えを示した。
 久島幹事長らはこの後、衆院議員会館で中山氏に「支部は全会一致で1区から出馬させることを決定した」と立候補を要請。中山氏は「こういう要請を受けた以上、育てていただいた郷土に恩返ししなければならない。公認されれば立候補する」と、あらためて出馬へ意欲をみせた。
 党本部は21日とされる解散当日に選挙区の公認候補を発表する予定だが、決定が難航する選挙区についてはずれ込む可能性もあり、同日中に宮崎1区の公認候補が明らかになるかは不透明な状況。
 大村副支部長は「(細田氏らから)『承った』と言っていただいたので、中山氏の公認に前向きに対応してもらえるのではないか」と話している。(7/18付け 宮崎日日新聞)


 自民党県連の党規委員会(黒木次男委員長、9人)は18日開き、党本部に対し中山成彬前国交相(66)を公認推薦するよう要請した党県第1選挙区支部(支部長・中山氏)の久島時夫幹事長と大村嘉一郎副支部長を「党議に背く行為」として除名処分とした。
 県連が除名処分を行うのは初めて。また、中山氏支持を公言した平野安志田野支部長を、党則順守の勧告処分とした。
 党規委は総務・支部長合同会議に続いて開き、委員8人が非公開で約2時間にわたり久島氏らの処遇を協議した。黒木委員長によると、両氏が17日に党本部を訪れ、中山氏の公認推薦を要請した行動に県連内から批判が集まり、全会一致で除名を決めた。(7/19付け 宮崎日日新聞)


 「自作自演」ですか?このあたりのいきさつを朝日がまとめてあるので、そちらも引用します。

 衆院解散を目前にして自民党県連は18日、総務会にそのメンバー以外の支部長らを加えた合同会議を宮崎市内のホテルで開いた。一致団結した選挙態勢を確認する場のはずが、前国土交通相の中山成彬衆院議員(宮崎1区)の出馬を巡る問題で大混乱。その後の党紀委員会では2人の除名処分者まで出た。(石田一光)
◇中山氏出馬巡り2人除名処分も
 八十数人が参加した会議で議論となったのは、中山氏を巡る16、17日の動きだった。
 16日、中山氏が支部長を務める第1選挙区支部が総会を開き、中山氏の公認を党本部に求めることを決めた。翌17日には同支部の久島(きゅうしま)時夫幹事長と、大村嘉一郎副支部長(宮崎市議)が東京の党本部を訪れ、細田博之幹事長らと面会。中山氏の公認を要請し、さらに中山氏には宮崎1区からの出馬を求めた。これに対し中山氏は「公認が出れば立候補する」と応じた。
 ただ、衆院宮崎1区は県連が昨秋、中山氏の問題発言の引責による不出馬表明を受け、公募で上杉光弘元自治相を候補者として決めている。また、1区支部は傘下に九つの地域支部があるが、このうち佐土原支部の永野繁利支部長が会議で「16日の総会には3支部が欠席届を出しており、同意しないということだ」と発言。県連の緒嶋雅晃会長(県議)も「公認申請は県連を通さなければならない。それに、中山氏が出ないということで上杉氏を選んだ」と話した。
 ほかにも「公募での決定に反する」「1区のごたごたが2、3区にも波及する」など、中山氏やその周辺の行動を非難する声が上がった。
 一方、党本部を訪れ中山氏の公認を求めた大村氏は「中山氏が『もう1回出たい』と言い出した。そういう気持ちなら応援しないといけない」とし「中山氏に言われて行った」と説明。また、1区支部傘下の田野支部の平野安志支部長が公募について「事前に上杉氏に決まっていたという話を聞いた」などと発言すると、会場からは「名誉棄損、侮辱だ」との声も挙がった。
 結局、会議では「県連が決めた候補者以外を党本部が公認した場合は(県連の)解散も辞さない」と党本部に申し入れることを拍手で決め、この日、ファクスで党本部に送った。さらに県連は党紀委員会(黒木次男委員長、9人中8人出席)を開き、中山氏の公認を求めて上京した久島、大村両氏を除名、さらに平野氏を「不適切な発言があった」として注意処分とした。
 緒嶋会長は「県連が決めた候補者を公認してもらうことに尽きるし、そうでなければ崩壊する」と話した。(7/19付け 朝日新聞)


 で、自民党宮崎県連の総括です。

上杉氏敗因は中山氏の出馬 自民宮崎県連が総括
2009年09月04日 13:53
 自民党宮崎県連(緒嶋雅晃会長)は3日、衆院選の結果について、宮崎1区で落選した「県連公認」の上杉光弘氏の敗因は、中山成彬前国土交通相の出馬強行による分裂選挙にあるとの考えを示した。
 県連の役員会後、米良政美幹事長とともに会見した緒嶋氏は「自民公認候補が公募で選ばれた上杉氏1人にしぼられていれば、勝利していたか(比例で)復活当選していた」と述べた。米良氏も「党本部は県連の公認申請を認めず、地方をないがしろにした」と述べ、4日の党全国幹事長会で意見表明する方針。
 役員会では、衆院選を総括する総務会を12日に行うことを決定。党紀委員会も開き、中山氏の県連除籍も視野に処遇を話し合う。
=2009/09/04付 西日本新聞朝刊=


 いい加減、コピペしていて気分悪くなりました。とりあえず、オトコ中山を追及するエントリーはこれにていったん終了します。次からはもっと楽しい話を書こうっと。恋バナなんてどないだ、え、でも反抗と怒りは忘れないっていうか、オレって怒ってナンボの人だからな…。

私たちの望むものは(by 岡林信康)

20090909121909
ここにあった。

でも、何かが違う(by 鈴木ヒロミツ)

20090909121114
タバコと酒を売っているのか、それともタバコ酒という商品を売っているのか。

どちらにしても「酒」の字が違うような希ガス…。

僕は君が好き、君は彼が好き

 彼の好きな人はどこかの誰か、どんなに好きでも実らぬこの恋、恋の堂々巡り、ア・サークル・オブ・ブルー、ブルー、ブルー、ア・サークル・オブ・ブルー~

 いや驚きました。びっくりしました。アニメ「アーチーでなくっちゃ」をテレビで見ていたのは多分70年だと思う。当時、中学生だった僕はようやくヒット・ポップスをラジオで聞き始めた頃で、エイゴの歌はなんでも聞こうという貪欲な頃だった。本国では68年から71年まで続いた番組らしいが、僕の記憶では半年くらいしかオンエアされてなかったように思う。とにかく、明るくて賑やかで会話が洒落ていて、もちろん番組の途中で流れる曲も素敵なヒット・ポップスばかりで、って話が見えにくいか。ちょっと整理してから書いてみよう。

 アーチーズというバンドをご存知だろうか。アニメの「アーチーでなくっちゃ」に登場する架空のバンドで、ヒット曲に「シュガー・シュガー」や「バン・シャガ・ラン」、「ジングル・ジャングル」などがある。goo音楽から引用すると

モンキーズの仕掛人、ドン・カーシュナーの手によって作られた男女混成バブルガム・ポップ・バンド。彼らはアニメーションとして、テレビやレコード・ジャケットの中でのみ存在した。楽曲制作はジェフ・バリー、エリー・グリニッジといった職業ポップ・クリエイターたちが担当。演奏/歌はもちろん名うての一流ミュージシャンによるもの。--確かに、それらは大量消費音楽と呼ぶにふさわしい。言ってみれば、コマーシャリズムの塊である。しかし、60年代当時において普遍性を極めた、そのあまりにキャッチーでテイスティなメロディ/サウンドは誰が何と言おうと素晴らしく、ハッピーな雰囲気で満ちあふれていたのだ。


 で、その「アーチーでなくっちゃ」というアニメを僕は大好きでしょっちゅう見ていたのだが、番組の中で今月の歌というコーナーがあり、そこで最初にあげた「サークル・オブ・ブルー」という曲が流れ、一発で気に入ってしまったのだ。アニメの中では何故か日本語で歌われていて、それを歌っていたのはピコとアーチーフレンズというグループだった。シングル盤が400円の時代で、僕は地元のレコード屋(確かデパートの中にあったシングルのコーナーだと思う)で探しまくってようやく手に入れた。それから毎日聞いていたのだが、今思えばなんでそんなに気に入ったのかよく判らない。歌詞はよくある三角関係というか、想う人には想われずという内容で、メロディもちょっとロボみたいな感じがしないでもないが、とりたてて名曲だと騒がれるようなものでもない。

 いや、結論はわかってるんだって。この手の曲を聞いていた頃というのが、恋だの愛だの好きだの嫌いだの、いやよいやよも好きのうちだ、とかまあ要するに青い春の時期だったからだろう。小学校の頃までは意識しなかった男女の差、それが中学からだんだん明確になってきて、何となく気になる女の子(by メッセンジャーズ)なんかも出来てきて、あの子は僕のことをどう想っているんだろう、なんてことにハートビートがバン・シャガ・ランだった時代。だからこそ、アーチーズの明るい男女関係や切ないラブソングが胸に染みたんだろう。

 しかし、あれから時代は、時は流れ流れてウン十年。14歳のときに聞いた「サークル・オブ・ブルー」がYOU TUBEにアップされるなんて。しかし、完璧に覚えていましたね。この音。それから日本語で歌っていたピコとアーチーフレンズですが、ピコとはかの偉大なるポップスの作曲家兼アレンジャーの樋口康雄氏である。あの「つぶやき岩の秘密」もこの人で石川セリの才能を見出したのもこの人だ。彼の甘いボーカルはこちらで試聴できます。ということで、今日はアーチーズの今月の歌とテーマソングを貼っておしまいにします。ああ、しかし、あの頃の切ない気持ちが戻ってこないかな…。そうそう、余談だけど、ヴェロニカの声を担当していた山本リンダは色っぽかったな~。うつみみどりはあの頃からキンキン声だったけど。





 9/8追記;実はこのエントリーを書くきっかけになったのは、先日、某量販店でこういうCDの背表紙をみたせいです。これを見た瞬間、「アホ!なにが『ザ・アーチーズ』や。Aは母音だから、こういうときはTHEは『ザ』じゃなくて『ジ』になるだろうが、ボケッ!」と激怒したせいです。しかし、本日このお店の店員に頼んでカギを開けてもらい(CDやDVDは万引きされやすいので量販店によってはカギ付きの陳列棚においてあることがあるけど、ここもそういうお店だった)、手にとって見ると「シュガー・シュガー」「ジングル・ジャングル」「バン・シャガ・ラン」「メロディ・ヒル」「スクーピー・ドゥ」など全20曲入りの掘り出し物でした。当然、即購入でした。
しかし、アーチーズのCDだけが浮いてる感じの品揃えですな

Not Guilty

 拙blogをお読みいただいている方はご存知のように、毎週土曜日は病院の日である。昨日のエントリーに書いたように、どうもこのところ調子が悪いので今日はいつものATLの病院ではなく、設備の整った総合病院に行くことにした。いや、正確に言うといつもの病院でいつもの注射と薬を貰うときに先生に診てもらおうと考えて、一度はそこの病院に向かったものの月初めの土曜日のせいか駐車場は満車、待合室は人があふれていた。待つことが嫌いな僕は、その光景を見て急遽ハンドルを切り直し、総合病院に向かった。こちらも結構患者さんがいたが、受付を済ますと比較的早いうちに名前を呼ばれた。診察前に血圧や体温を測るナースさんがいて、その人にここ2,3日の体調の悪さを訴えた。

 僕の症状を聞いていたナースさんはおもむろに血圧計を取り出した。「120の90、下が少し高いですね。それと熱を測るので、この体温計を脇に入れてください」。体温計を受け取ると、まず必ず振らないといけないと思ったが、今時はデジタルでそのまま差し込めばものの数秒でピッピッピッと音がして、体温を表示してくれるのだ。「35.9度、熱ないですね」心なしか言葉に棘があるような気がした。いや、僕は普段の体温は35.5度だからザ・微熱・ビフォアなんだ、♪あ~、ザ・微熱・ビフォア(ボーカルは勿論ジョージポールだ。9/6訂正、ジョージとポールを間違うなんて、やはりどこかオカシイ)。などと抗弁しようと思ったが、カルテに何やら書いたナースさんは「じゃ、診察室の前で待っていてください」と事務的に言った。診察室の前で待とうが受付の前で待とうが、そんなんワシの勝手やないかい。診察室の前の長椅子はクッションが悪いから嫌いなんじゃ、ボケェと心の中で毒づきながら、僕は週刊新潮と共に受付前の長椅子にかけていた。

 30分ほど待たされて、「黒い報告書」の話が佳境に入ったところでまた名前を呼ばれた。毎月1回、血圧と大腸憩室炎を起こしてないか診てくれるいつもの先生に最近の体調不良を訴えているとき、僕の目に飛び込んできたものがあった。それはカルテにつけられていたピンクの付箋で、丸文字で「かぜ、みたいな」と書いてあった。受付か先ほどのナースさんの申し送りだろうが、どうせなら「風邪、のようなもの」とでも書いて欲しかった。しかし、受付の女性もナースさんも丸文字を書くような人には見えなかったけど、わからないものだ。血圧、体温の数字を見た先生は「セキは出ますか、痰は?喉の痛みは」などと聞いてくるが「セキは、出ません。痰は、ちょっとからむ、かな。喉は別に、あ、食欲はあります」などと聞かれもしないことを口走った僕はなんとなく負い目を感じていた。

 「じゃ、喉見てみましょう。あーん、うん、別に赤くなって無いですね。じゃ胸の音を聞かせてください…。ハイ大丈夫ですね。ま、風邪のかかりかけでしょうね。1に栄養、2に休養、3,4がなくてGoteauxssonですね」なんてことは言わないか(Goteauxssonさん、ゴメン、でも1に栄養、2に休養ですといわれたのは事実です)。ま、要するに何も心配しなくていいぞ、たいしたこと無いから大丈夫だというのだ。それで薬を処方してもらって、3,4日様子を見て症状が改善されないときはまた来るように言われて終わりだった。

 その後薬局で薬を貰い、昼から会社に出て仕事をした。断続的な頭痛は収まらない。体のだるさは多少軽くなったような気がする。それでも昼、会社の階段を登っているときによろめいて足を踏み外しそうになった。ということで、今日も本格的エントリーはお休みします。気負いこんで病院行ったけど、全然たいしたことはないみたいで、それはそれでありがたいのだが、なんとなく損したような気がするのは何故だろう。あ、それと本日のエントリーのタイトルはA.A.ミルンの短編小説から頂きました。随分昔に読んだ話なのでうろ覚えなのだが、何にも悪いことしてナイのに家に警官が来たときにドキドキしたという話だったと思う。それとジョージの歌のタイトルにもそんなのがあったっけ。



正直申告 今日のエントリーはお休みします 

 どうも2,3日前から調子がよくない。頭が断続的に痛み、全身のだるさが抜けない。急に立ち上がるとふらついたりもする。新型インフルかとも思ったが、別段熱も無いし血圧もそれほど高くない。最初は風邪の引き初めだと思い、「効いたわね、早めのパブロフの犬」というキャッチフレーズでおなじみの、竹下景子がCMしている薬を飲んだ。竹下景子は若い頃綺麗で、こんな人とケッコンできたらいいな、などと夢想したこともあったが、近頃はすっかりオバサンになってしまい、それでも綺麗な人は綺麗だななどとハクチ的な考えしか浮かんでこない僕は明らかに病んでいるとしか思えませんが、あなたどう思いますか?

 とにかく調子がよくないのよね。そのくせ食欲は全然衰えておらず今日も大衆中華料理店で日替わり定食の酢豚を食べて、ご飯を半分お代わりして、スープもお代わりしようかと思ったくらいの食欲で、これで病気だといったら笑われそうな勢いであった。それでも顔色が悪いというか、顔に疲れが出ているのかお店の大将に「どした、えれ、つかれちょるが(どうしました、随分お疲れのように見受けられますが)」などと声をかけられる始末。昨日は夜8時に寝て体調を戻そうとしたけど全然ダメで、明日はいつもの病院なのでとりあえず診てもらおう。ということで今日はエントリーはお休みですよという告知でした。僕は心を入れ替えてしっかりエントリーをアップするのだ。もう誰にも狼中年なんていわせないのだ。しかし、頭が痛いな。あ、これは欲しい本やCDがあるのに買えなくて頭が痛いのだ。首も回らん。これも借金が多くて回らないわけで、物理的にムチ打ちなんかで回らないわけではないのだ。ああ、日本語は難しい。こんなことばかり考えているから、頭が痛くなるんだろうか。


どうでもいいような昔話 その2 香港乱闘編

てめ、だれに断って写真なんか撮るんだよ、といいたげなアホ面
 いやー、いかんいかん。つい先ほどSAWYER先輩のblogを読んでいたら、K平先輩のコメントのレスに僕の「DRAC興亡史1975-1980」のことが書いてあり、75年以降のDRACの話が「いつも途中で方向がままならなくなってしまい、(笑)いつになることやら・・・」とあきれられておりました。僕の悪い癖で、一つのことに集中できないというか、あきっぽいというか、あれもやろう、これもやろうで手を広げ、そうこうするうちに収拾がつかなくなり全部オシャカになるという、いつものパターン。なんとかせねばならんと思いながらも、よく考えてみたら先月アップした海外旅行の話も本当に書きたかった落ちまでいっておらず全くの中途半端であった。とりあえず、それを片付けてから再度「DRAC興亡史1975-1980」にとりかかろう。ただ今日「ヤングな僕のぽっぷす・なう」用のネタ思いついたんだけど…。

 で、前回書いた話の続きですが、飛行機は無事香港の空港に着陸。機内ではあれほど親しげに会話を交わしたすっちゅわーですのオネーサンたちは、「あれはあくまで営業用、降りたあんたはただの人」的なつれなさで、「ありがとうございました」と見送ってくれただけで、誰一人電話番号を書いたメモ用紙をくれなかった。当たり前だ。で、香港に着いた我々一行は現地ガイドに案内されてそのまま市内観光。写真は最初に連れて行かれたタイガーバームガーデン。スーツ姿で表情はうかがえないが相当僕はイライラしていたと思う。一つには前日の寝不足のせいでもあるが、初めての海外に浮かれている周りの連中を見ていると、なんだかこのまま会社に取り込まれそうで、つまり飴としての海外旅行に対してそんなものに恩義を感じて会社のイデオロギーに染まってたまるかという、根っからのひねくれ根性(俗にパンクスピリッツなどともいいます、ってカッコつけてんじゃねーよ)がそういう態度をとらせたのだろう。それと、現地のガイドのしつこい説明と同行したカメラマンがすきあらばカメラのシャッターを切るのも気に食わなかった。僕は昔から写真を撮られるのが嫌いだったのだ。この性格は最近ようやく改善されつつあるが、何がトラウマなのか、写真撮るのは好きだけど撮られるのは嫌なのだ。

 それとさっきタイガーバームガーデンの情報を調べようとしたら、なんと2000年で閉鎖されていた。コミュニスト・チャイナ(by JAPAN)の陰謀である。違うか。で、タイガーバームガーデンで印象に残っているものは何も無い。なんだか訳のわからない軟膏みたいなものを売りつけられただけだ。あちこち歩いていろんな景色を見たはずだが全然残っていない。その後バスでホテルに移動した。ホテルの名前は覚えていないが、やたら天井が高く部屋が薄暗かったことだけははっきり覚えている。お昼は機内食を結構食べたのだが、夕食まで時間があり、ちょっと小腹も減ってきた。会社の仲間も同じように腹が減ったという。こういうときに目端の利く人間はいるもので、H高さんという先輩社員がホテルの傍にマクドがあるという。それじゃ、皆でマクド行こうということになった。自慢ではないが僕は英文科出身である。そのためそのとき一緒にいった連中は困ったときは僕が何とかしてくれると思っている。口に出しては言わないが態度でそれがわかる。なんせたかが米帝のハンバーガーショップなのにみんな僕の後ろについてくるのだ。

 店に入り、カウンターのオネーチャンに「FISH&COKE」と言ってドル札をだした。あ、香港ドルね。むこうは「イッショニぽてとモドウデスカ、びっぐまっく、イマダケいちどる」みたいなこと言ってるが、当然スルーである。お前らの「ついでにこれもどうですか」商法に嵌ってたまるか。バカ野郎、こうみえても士族の出だ。なんでもかんでも金に物言わせて買い捲るエコノミック・アニマルだと思うな。などと、やはり初めての海外で緊張していたのだろうか、妙に肩に力が入ってトレイを受け取った。テーブルに着こうとしたら、背中を叩かれた。見ると一緒にいった連中が適当に注文していると思ったのだが、何も注文しておらず「drac-obさん、僕もおんなじの頼んでください」とか「オレはチーズバーガーとアイスコーヒーと…」などと注文を僕に言わせようとしていた。めんどくさいのでウェイトレスに、僕のトレイを指差し「SAME,SAME」といったので、みんなフィレオフィッシュとコーラという、いかにも日本人的な食べるものは皆一緒がいいよね的なおやつの時間になってしまった。

 それからどうしたかここでも記憶がない。夕食はホテルで食べたと思う。とにかくその日は疲れて部屋で寝ていたら(ツインの部屋で確か同室だったのはナベちゃんだったと思う)、夜中の12時過ぎに電話が鳴った。寝ぼけた頭で受話器をとったら、今回の九州組みの中で唯一の管理職のM崎さんからだった。「何すか、もう爆睡してたんですけど」というと「もうすぐ関東の会社の人たちと社長が到着するので出迎えしろ」という。もう真夜中ですがな、そんな殺生なといったものの聞き入れられず、更に私服はダメ、スーツ・ネクタイの正装でロビーに下りろと命令された。しかも他の部屋の連絡も僕がするようにと言われ、しぶしぶ各部屋にコールして全員に10分後ロビー集合を言い渡した。

 ロビーのソファにもたれていがいがした喉にタバコの煙を満たしていたら、賑やかな一団が入ってきた。社長と関東の本社や各営業所の所長や営業マンたちである。みんな「だっぺ、だっぺ」といっていた。「なんだ九州の連中、はやいんでねえの、おまえらごちゃだから仕事しねーで香港に来たんだっぺ」、「おお、お前がdrac-obか、おめーは最初の月だけだったな、売り上げえがったのは、後半なにやってたんだ。どうせ、どっかの山の中で昼寝でもしてたんだべ」みたいなことを耳元で喚かれ、しかも彼らは親愛の情を示しているつもりかもしれないが、茨城の言葉になれない僕にとっては悪口以外のなにものでもなかった。「てやんでぇ、こちとら眠い中、お前らを出迎えるためにわざわざスーツに着替えて降りてきたんじゃねえか。お前の○○に割り箸つっこんでいてもたろか、ボケェ」などと心の中で毒づきながらも、そこはそれシホン主義社会で揉まれた営業スマイルで軽くダッキングして「いや、もう、参ったなぁ。そんなにきついこと言わないでくださいよ」などとゴマをすりまくってやった。心は所ジョージである。「すんごいですね~」といってりゃ、波風たたないんだ、この手のことは。
2日目、マカオにて。金太マカオに着く、さ、大声で言ってみよう!
 2日目はマカオに水中翼船に乗っていくことになっていた。今、考えてみると当時は香港、マカオとも植民地だったのだ。正しく20世紀の遺物だったのだ。マカオでは写真のような建物に行った。何とかと説明受けたのだがすっかり忘れてしまい、今ネットで調べたら聖ラザロ教会ではないかと思うのだが、自信は無い。マカオではカジノに行った。スロットやルーレットなんかやってるトーシロが多かったが、阿佐田哲也理論で武装した僕は一目散にバカラで勝負し、一攫千金を目指したが額に汗して働くことの大事さを忘れないように、わざと負けた。と、日記には書いておこう。というところで、すいません、眠くなりました。この後中国の中山県で孫文記念館を見学し、人民公社にも行けるという話だったが、何故か急遽近くの農村に行ってそこで強烈な体験をするのを僕はまだ知らない。しかし、エントリーの落ちの話はそこからまだ先の香港最後の夜のレストランで発生した事件だということは、多分誰も知らないだろう。そうそう、次回は拙blogに珍しく、可憐な中国女性が登場します。乞うご期待、ってこんな話誰が読むんだ、いったい。

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