宮崎1区選挙結果

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川村候補当選確実、宮崎県民舐めんなよ!!N山!
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どうもどうも、すっかりご無沙汰しちゃいまして

 1週間以上のご無沙汰でしたが、皆様方お変わりございませんでしたでしょうか。司会のタマオキでございます。などと照れくさいので「ロッテ歌のアルバム」の名司会者のパクリから始まりました、本当に久しぶりにエントリーを書いております。いえね、高度に発展したシホン主義社会の中で、最も劣悪な労働条件を強いられる超零細ブラック企業に勤める身なもんで、貴重なお盆休み4日間が終了した途端連日の仕事やさまざまなトラブル、クレームの処理などをこなして家に帰るとご飯食べて横になりそのまま寝てしまうという生活を3,4日続けて、当然その間はPCを立ち上げるどころの騒ぎではなく、またそういう生活を続けてしまうと何となくエントリー書くのも億劫になり、人様のblogに書き逃げ御免で米書いちゃトンズラなんて日々を送っていました。

 それでも人生は雨降りの日ばかりじゃなくて(ⓒ景山民夫、いい作家だったのに晩年は某宗教に嵌ってしまい…)、ちょっとした楽しいことや愉快なこともあったような気がする1週間をちょっと振り返って、かくも長き不在の言い訳、アリバイ、ままま、そんなに目くじら立てなくてもエイントチャウ的オハナシを以下展開させていただく、って誰に断っているのかよく分かりませんが。

 で、今調べてみたら僕のblogの更新は22日で止まっていたのだけど、その前のエントリーは携帯で撮った写真をそのままアップしただけの、アリバイエントリーばっかり。ということはきちんとした話を書いたのは14日までだから、約半月はちゃんとした話を書いていないことが分かった。11日に書いた初海外旅行の話は本来書きたかった話までたどり着いておらず、完璧な尻切れトンボで続編の話を書くためにその当時の写真を加工して保存しておいたのにそのままだという有様だ。こんなことじゃいかんな、混迷と停滞の時代を突き抜けて決断と実行の時代に進まなければ。あれ、決断と実行といえば昔のジミン党のキャッチコピーではなかったか。あ、オレさっき投票行ってきたからね。みんな貴重な1票は無駄にしないようにな。

 そうそう、この間エントリー書く意欲が出なかった理由の一つに我が地元、宮崎1区のN山候補に関するさまざまな出来事があった。ええと、開票前の微妙な時期なので候補者名を匿名にして誰が誰だか特定できないようにしています、いや気配り気配り。このN山候補だが、前の国交省大臣で就任した途端、ホンネをぼろぼろ喋ってしまい、それでも三里塚発言や単一民族発言は謝罪したが日教組批判だけは謝罪しなかった。3日天下なんて言葉があるが、わずか5日で大臣職を辞任し政界引退するとまでのたまった男の中の男、薩摩隼人はかくありたいという、まあ立派なもののふだったのよ。ところがそのまんまH知事が(そのまんまHって、なんとなくインビな感じがしますな)、某ジミン党の候補として選挙出ないか、お前も九州、オレも九州というK賀さんのアプローチに乗って、ものの見事に県民いや国民あげての批判を受け、何もなかったことにしましょう(by 友部正人)と降りてしまったあたりから、なにやらきな臭くなってきた。いや、その前にそのまんまH知事に国政に立て、お互い薩摩隼人同士阿吽の呼吸だとマッチポンプみたいなことを言い出したあたりから少し怪しかったけどね。あ、そういえば今月の紙の爆弾のマッド・アマノの風刺画報は面白かった。ビートたけしが指人形の東をもっていて「東は単なるオッチョコチョイかと思ったけど、結果的には自民党に大ダメージを与えたんだから良しとするか。ジャンジャン。」というキャプションが付いていて笑えた。

 それで、そのN山候補だが某ジミン党宮崎県連は、N山発言を真に受けて公認候補の公募を行い、U杉候補を立てたものの党公認は貰えず、それというのもN山候補が「現職優先」などといって立候補したことがそもそも混乱の元なのだが、的なもう宮崎ってどんなところだ、言論の自由はあるが言質だとか発言の責任なんて何もなし、言いたい放題、声の大きいモンの勝ちって土地柄なのかと心ある国民の皆さんには思われたに違いない。またそのN山候補の応援に、最近テレビやマスコミで話題のタモさん、といっても毎日お昼に「いいとも」なんていってる毒気を抜かれたグラサンコメディアンじゃなくて、こちらも元ジエータイのエライサンなのだが、そのタモさんが応援演説のなかで「慰霊祭は左翼運動。あそこに広島市民も県民もほとんどいない。原爆の被爆者も2世もいない。並んでいるのは全国から集まった左翼。一部政治勢力が日本弱体化を図っている」(by 毎日新聞)などとぶちかましてくれた。

 このタモさん発言に対してN山候補がどうコメントしたかは寡聞にしてしらない。まあ、似たもの同士なので、こちらも「阿吽の呼吸」だったんだろう。で、このN山候補のことは僕自身ずっとblogで追いかけていたのだが、もういい加減嫌になり、あとは選挙で落とすだけだと思っていたのだが、どうしようもない浮世の義理とやらでN山候補の応援集会みたいなものに駆り出された。この際だから、本人に靴を投げつけてやろうかと思ったいたのだが、ご本人は出てこず、温和なイメージのある奥方が出てきた。盗人にも三分の理という言葉があるし、ここはどんな話をするかじっくり聞いてみたが、要は亭主を国会に送ってくださいという1点のみ。まあ、それはそれでいいのだが、受け取り方によっては、僕らのような下々のもの(by 某国総理大臣)に、N山候補の雄大な理想を語っても理解できないだろうというような感じもあったな。いや、単に僕のひがみ根性のせいだろうけど。とにかく某ミンシュ党に政権を渡したらダメだ、日の丸切り刻むような連中に権力渡すな、という話ばかりでした。

 で、こういう話を書くのも消耗するのでずっとエントリーのアップをしてなかったわけですが、ようやく投票日を迎えて、あとは夜の開票結果を待つだけになったので、なんとか落着いた気持ちでこれからは、いままで書き放しにしていたエントリーの続きをきちんと書いていこうと思う今日この頃です。このところつまらない話や単なる語呂合わせみたいな話しか書いてなかった日々を厳しく自己批判して、活動再開の狼煙を上げるのだ。みんな、見放さないでね!!

コンビニのトイレにて

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苦しい時の紙頼み、ですか。ん、字が違う?そんなことない。神などおらんわ、くそったれ。

ヒア・カムズ・ザ・サンキング

みんな笑顔のいいお顔…
♪エブリバディズ ラフィング~ならいいけど、最後に笑うのは誰だ。失言で大臣棒に振った誰かさんじゃないよな。

で、タイトルと落ちが分かりにくいのでYOU TUBEを貼っておきます。

忘れるなんてできっこない日

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毎年この日にやってるけど、忘れられないようにしないと、ね。

久しぶりの午前様日記

 いやー、久しぶりの午前様でした。というか、今年初ですな。お盆の休みが13日から16日まであるのだが、その前の12日に職場のメシ会があり、1次会で帰るつもりでいたのだが、いわゆる『義理を欠いちゃいけねーよ』ということで2次会まで行ったのだ。退屈だったので、そこにいたオネーチャンの後姿の写真をアップしていたら、突然携帯が鳴った。表示名を見るとS原となっている。沖縄で神経内科医をやってる高校時代の同級生だ。確か高校時代の話とか修学院の下宿を決める話なんかに登場したことがある、僕の友人の中でももっともまともな人種の一人である(ま、こちとらは少しオカシイ人間で、その人間と付き合ってくれるのだから多少どこかに狂気を帯びているのは間違いないだろうが)。

 電話を取ると、『盆休みで帰ってきたのだが墓参や用事が多くて今日しか自由になる時間が無い。これから都合が付けば一緒に飲まないか』というお誘いだった。会社関係の飲み会に出ている旨を伝えると、それが終わったら電話しろという。それまでおでん屋で適当にやってるからということだった。しょうがないので大急ぎでRCの「いい事ばかりはありゃしない」を歌って顰蹙を買い、その後ドサクサ紛れでエレカシの「今宵の月のように」を歌ったら、写真を撮ったオネーチャンが「私、この歌大好き」といってもたれかかってきたので、ええい、邪魔だ、オレには待ってる連れがいるんだと足蹴にして店を出た(ええい、以下は当然作文です)。

 待ち合わせのおでん屋に着いたのはS原の電話を貰ってから1時間ちょっと過ぎていた。細い路地を入り、暖簾をくぐるとL字型のカウンターのところにS原はいた。横に1つ席が空いていて、多分そこに座れという意味で空けていたのだろうが、その横に同年代くらいの女性(だからオバチャンだな、こっちはオッサンだから)がいて、何やらS原に話している。S原の右隣には、こちらは僕たちよりいくらか先輩に違いない男性がいて、こちらもS原の会話に参加して随分盛り上がっていた。「久しぶり」と挨拶をして、横に座った。こうして一緒に話をするのは、もしかしたら10年ぶりくらいかもしれない。しかし、今年は正月に電話で話したり、僕のblogにコメントくれたりしていたので、あまり久しぶりという感じはしなかった。

 お互い、家族のことや近況などを報告していたら、僕の横にいたおばちゃんが割り込んできた。「え、そんなに久しぶりなのに、なんかあんまり感動がないんじゃない?」。僕はてっきり雰囲気的にS原の仕事関係の人だと思っていたが、なんのなんの、本日このお店で初めて会ったという。やたら話好きなオバチャンでその横に20代の綺麗なオネーチャンがいた。娘らしい。僕は同世代の人とこの汚れきった日本を憂う会話をすることを全然厭わないが、それ以上にこれからの日本を背負ってたつ若い力と感激に燃えよ若人胸を張れ(by 某都知事)の人、とりわけ染色体がXXの人が大好きでって、何を書いているのだ。ま、要するに若い娘さんのほうは彼女の横に座っていた若い男性2人組みと話が盛り上がっており、僕とS原というオッサン連合はその母君と話が盛り上がったという次第。

 いろいろ話しているうちに彼が以前コメントで教えてくれS尾という、これも高校時代の同級生でいまや天下の国営放送に勤めている男の消息を教えてくれた。このS尾も、ちょっと変なやつで、就職の面接で国営放送に行ったときに、志望動機を聞かれ「僕はサッカーが三度のメシより大好きで、将来日本でワールドカップが開かれたときに実況中継するのが夢です」などと答えたらしい。80年代の初めくらいの話なので、まだまだJリーグなんて無かったし、サッカーがこれほど人気のあるスポーツではなかった時代だ。面接の担当官が面白がって採用したとしか思えない。何しろ本人に『凄いな、天下のえぬ・えっち・けー、か?』と冷やかしたら『あんなもん、目をつぶってシュートしたらマグレではいったようなもんだ』などと言ってたから間違いない。

 で、採用された後に、希望配属地を聞かれ、カッコつけて『僕は南国出身なので、雪国に憧れを持ってます』などと答えたので、いわゆる裏日本(あ、この言葉ベサツかね?、今はなんちゅうか、そうそう、日本海側っちゅーのか、どっちにして裏みたいなもんだが)にしばらく飛ばされていた。その後沖縄(これまた雪国から正反対の極端だが)に異動になり、S原と再会して付き合いが始まったらしい。もっとも東京にいた時期も結構長くて、番組の制作などをしていた。僕は未見なのだが、あの東ちづると一緒の番組をやっていたのに、放送中全然彼女のほうを見ず、ひたすらPCばかり見ていたなどという未確認情報もあった。チクショー、羨ましい。まあ、この男の話も面白いものが沢山あるのでいずれ書いてみようと思っている。そうそう、この日S原がS尾の携帯番号を教えてくれたのだが、面白半分でS原の携帯から電話して『オレが誰か分かるか?』と聞いたら一発でばれた。こいつとも10年以上会ってないはずなのだが…。

 11時回っておでん屋さんも閉店になり、久しぶりなのでもう1軒行くかということになった。僕は断酒していた時期が何年かあるため、ライブハウス以外の気の聞いたお店はしらないのでS原に任せていたら、急な階段を登った2階のスナックに連れて行かれた。15年くらい前になるだろうか、S原が県立病院の医者として宮崎に短期間いたときに一緒に来た店だった。その時はまだ携帯などなくて、いわゆるポケベルの時代で、S原、S原の後輩の医者、僕の3人で飲んだのだが、その最中に後輩君のポケベルが鳴り、それまでバカばっかりやっていた彼の表情がさっと変わり、階段を駆け下りていったことがあった。5分ほどたって店に戻ってきた彼は両手を水平に広げ「セーフ、何とか処置を指示して助かりました」などといった。いやー、人の命を預かる仕事は大変だなと思った。

 で、せっかく神経内科の医者と飲んでるのだから聞かねばソンだと思い「おい、お前、オレの偏頭痛治してくれ」と頼んだら、じっとこちらをみて「その頭痛は月に何回ある。痛みは?起きて仕事に行けるか?吐き気は?」などと聞かれ「いや、いくら頭が痛くても会社には行くが」と答えたところ「そんなもん、偏頭痛じゃない。単なる頭痛だ。たいしたことは無い」といわれた。そうか、オイラのは単なる頭痛なんだ。頭が痛いだけだから気にすることはないのか、と明るい気持ちになったが、よく考えてみるとなんら問題は解決していない。要するに暗示であり、西洋医学の限界を見てしまった。などと書くと今後一切タダで診察してくれないだろうから、一応謝っておく。スマソ。

 しかし、最初のうちはそれなりにまともな音楽の話や昔話に花が咲いたが、だんだん酔いが回ってくるにつれて、話はどんどん滅茶苦茶になりいつの間にか僕のblogの話になった。よく、昔のことばかり書くが新しい話は無いのか、などと言われているうちに決定的な一言が出た。「お前のエントリーは長い。普通2,3行じゃないのか、blogなんてのは」などと指摘され、うん、確かに短くて面白い話を書こうと思うのだが、なかなか、それというのも大学時代に中身の無いレポートをいかに中身があるように見せるかという技術を磨いた癖が抜けないのだ、などとこちらも何を言ってるかよく分からない話になった。

 この後、このお店に僕と同じ苗字のビジンの女の人が来るという話をママさんがし始めて、綺麗なオネーサンが好きという共通項のある二人はひたすら待ち続けて、挙句は僕の配偶者から2時半くらいにいい加減帰って来いという怒りの電話が来たという話はなかったことにしよう。しかし、こういうのって本当に久しぶりだったな。

反省会をしよう

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昨日は、あのお尻の後ここにいた。前回ルポ出来なかった美人のおでん屋。それからもう一軒お付き合いで行きました。詳しい話は、また後で。だから単なるお付き合いで、僕が主体的に行ったんじゃないのです。

SOS

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何故かはしらねど、こういうとこにいます。アイルセンドアSOSトゥザワールド…

どうでもいいような昔話 一応初海外旅行編

 先日、K平さんからベトナム旅行をしてきたというコメントを頂いた。K平さんのコメントは毎回長文で読み応えがあるのだが、先だってのコメントも僕のしょうもないエントリーからオートバイというキーワードを抽出して、そこにベトナム旅行の印象を入れるという技ありの話だった。そのコメントを読んでいるうちに、僕はあるエピソードを思い出した。それは生まれて初めての海外旅行に行ったときの話で、もうとっくの昔にエントリーにアップしたはずだと思い込んでいた。しかし、過去の記事を検索してもそれらしい話は出てこない。もしかしたら誰かのコメントのレスに書いてしまったのかもしれないが、せっかく思い出した話なので、今日はその話を書いてみよう。

 僕が初めて勤めた会社は、もう既に倒産して無くなったのだが、カメラやコピーでおなじみのリ○ーの教育機器を販売する会社だった。視聴覚教材として一世を風靡したリ○ー・マイ・○ィーチャーを販売する会社だったのだ。社名は日本教育企画株式会社(略称がJEP)という、いかにもそれ風な名前の会社だった。まあ、右も左も分からない学生気分の抜けない僕をビシバシ鍛えてくれた会社で、社員もユニークな人が多かった。そうそう、去年の12月に書いたキャンプのエントリーは、この会社に在職したことのある連中が集うイベントで、もう結構長く続いているらしい。しかし、この世知辛い世の中でたまたま一緒の会社にいたというだけで、それぞれの付き合いが続いているというのは、やはり同じ釜の飯を食っていた時期がきついことも多かったけど、今となってはいい想い出になっているんだろう。普通、辞めた会社の人間とはあんまり顔を会わせたくないからな。

 で、その会社の話はどうでもいいのだが、営業会社だったのでセールスコンテストがしょっちゅうあった。その中で一番大きなイベントがビッグ・サマー・キャンペーンといって、全国の販社が参加するイベントだった。テーマソングというかキャンペーンソングもちゃんとあり、作曲はなんと神津善行氏である。♪君は何を見た、あの空の下で~、と始まりサビは♪ビッグ・サマー、ビッグ・サマー、勝利を我らに~で終わるその歌はキャンペーン期間中毎日聞かされ続け、いい加減耳がタコになった。あ、歌わされたりもしたっけ。新人だったから声が小さいなんて怒鳴られたりもしたな。で、そのキャンペーンというのはビッグ・サマーというだけに7,8,9月という夏の暑い盛りに営業数字、早い話が販売台数と金額を競うもので、これに全国のリ○ー・マイ・○ィーチャーの販売会社が参加し、そこで目標をクリアしたら海外の表彰式に参加できるという特典が付いてくるわけだ。

 僕が入社した年のビッグ・サマーの表彰式は香港だった。しかも例年よりキャンペーン期間が1ヶ月長く6月からのスタートで、新人セールスだった僕は訳も分からず、キャンペーンソングを歌わされ、ハイオアシスをはっきり言わされ(これ完全楽屋落ちです)、毎日現場を駆け回り決め手七則だとかクローザー鉄則とか内容もよく理解しないまま毎日を過ごしていた。で、数字は全然良くなくて、それでも先輩社員が自分の数字を乗せてくれて、ええと、確かあれは82年か、82年に入社した新人セールスはほぼ全員表彰式に招待されたのだ。ま、思うに右も左も分からないアホ新人なので、タダで海外に行かせてやったら、感激して一生懸命商品を売るだろうなどという会社の経営陣の狙いもあったのだろう。その見込みがどうだったかはあえて書かない。ただ、このとき海外に一緒に行ったメンバーで最後まで会社を辞めなかったのは僕一人だった。その判断が正解だったかどうだったかはあえて書かない。

 ちょっと辛気臭くなってきたので、先を急ごう。真夏のセールスキャンペーンを大して数字も出せずにいた僕たちは、先輩の営業マンが関東で出張営業をしているあいだ、宮崎と鹿児島を行ったり来たりしていた。なにせ誰一人キャンペーン数字なんかクリアしてないのだから、海外に行けるなどとは夢にも思ってなかったのだ。しかし、ある全体会議の場で、社長が「キミタチの未来に賭ける。先輩社員はみんな海外に行った事があるがキミタチは無いだろう。九州はダメ社員ばかりだが、関東の売れる社員と一緒に海外に行って大いに遊び大いに勉強したまえ。」とかなんとかまとめればコレくらいの話を確か延々2時間近くして、聞いていた僕たちは、海外旅行は結構ですから、会議を早く終わってくださいと心の中で念じていた、といういきさつがあるのだ。

 そうそう、その時は部門全体の成績が悪い中でも、僕のいたチームはちょくちょく数字が上っていたので、社長から「九州の人たちは福岡空港からの出発になるから、前の日に車で福岡に行きホテルに泊ってから行けばいい」などという言葉を貰っていたのだが、いざ出発の月になると、数字が悪かったので「何が、ホテルだ。その日も通常通り仕事をして夜中に車で走って来い」といわれた。で、しょうがないから出発の前日の夜、レンタカーを借りて唯一の管理職のM崎さんが運転して、まだ高速の通っていない鹿児島~熊本をひたすら走り、夜明けくらいに福岡空港に着いた。

 そのワンボックスのレンタカーに乗るときに僕は『何が海外だコノヤロー』と不貞腐れていて、当時ボーナスで買ったばかりのウォークマンにスターリンのテープを入れて聞いていた。頭の中では当時の会社の社長訓話や仕事のことなどを考えながら、「吐き気がするほどロマンチックだぜ~」とか「どうせウソだとわかっているさ、行き着くところも決まっているさ~」などというフレーズに激しく共鳴しつつ不貞寝していた。他のみんなは旅の初騒ぎ(by 山下洋輔)というやつで、やたら大きな声で話をしていた。鹿児島の会社を出たのが、確か夜の10時を過ぎていたので、M崎さんは夜道をひたすらかっとばしていた。途中目が覚めて窓から見ると、球磨川沿いの細い道をくねくね曲がりながら走っていた。何とはなしに頭脳警察の歌が浮かんできたのを覚えている。「道なき道を我武者羅に手探りで走ってきた、今まで、暗くて何も見えなかった、涙で何も見えなかった。何回と無くころびよじれ流され、頭からつま先まで汚れきってしまった~」という奴だ。全くオレの人生そのものの歌だな。

 それからどうやって福岡空港に着いたのか覚えていない。次に覚えているのは日本航空のジェットに乗ったのはいいが、乗客は僕たち確か6人だけで、フライト・アテンダントなどというふざけた名前は当時はなく、花のスチュワーデスという人たちが、僕たちの席の横に座りいろいろ話をしてくれたことと、機内食で出たステーキが沖縄のもので上等ステーキ(by シマブクレコード)だったことだ。ウソツケという声が聞こえてきそうだが、本当に客は僕たちだけで、そして2人ずつ座っていた僕たちの席にスチュワーデスさんが座って、いろいろ海外旅行の心構えなど話してくれたのだ。ウソじゃないって。その時の会話で覚えているのは「皆さん、どんなお仕事されてるんですか」と聞かれて、あ、教材のセールスですと答えようとした僕を差し置いて、社長の甥っ子のN澤君が「教材のディーラーです」などと猪口才な返事をしたこと。それと昔はチョイ悪だったW辺君が「香港に着いたら、どこか美味しいところで一緒にメシ食いましょう」とスチュさんの中でも一番可愛いと目をつけていた人に下心丸出しで話しかけたら「せっかくの皆さんの旅行のお邪魔をするわけにはいきません」とあっさり断られたことくらいかな。

 飛行機は快適なフライトだったと思う。ただ香港の空港に着陸するときは、びびった。映画の「燃えよドラゴン」で見たのと同じ景色の中ジェットが着陸するのだ。よくビルにぶつからないものだと感心した。空港に着いて当然税関を通ったはずだが、ここも記憶に無い。今のようにスリムなパスポートではなく、真っ赤な表紙に菊の紋が入ったでかいパスポートの時代だったので、何か覚えていることはないかと考えたが目つきの悪い係員にハンコをドンと押されたところしか覚えが無い。とにかく、晴れて香港に入ったわけだ。そうそう、当時の香港はまだ中国に返還されておらず英国領の時代だ。パスポートも1年用と数次用(確か5年間有効だったかな)の時代だった。いやー、古いな。

 あ、思い出した。飛行機に乗っていたのは僕たちだけじゃなかった。九州各県のコンテストの入賞者達が福岡からとか熊本からとか長崎からとか集ってきていたんだ。そうそう、福岡空港で結団式があり、そのときリ○ーの係員の手違いで帰りの飛行機の時間が事前に通知していた便と異なるため、帰国する時間が遅くなると説明があったところ、パンチパーマでドスの効いた声のオッサン(後で聞いたら福岡でも有名な販社の社長さんだった)が「こら、お前、そんな勝手するな。この人たち(横にやたら化粧の濃いオバサンが2人いた)、帰りにご主人が迎えに来てくれることになってるのに時間が変わったら困るだろうが」などと喚き始め、ケバオバチャン二人も「そうや、困るわ」と声をそろえて騒ぎ出した。結局、その二人のご主人には係員が責任持って連絡するということで話が付いたが、いや、こんな半ヤクザ・チンピラみたいな人たちと一緒に旅行するのは気が重いなと思った。

 で、ようやく香港空港に到着してそのまま団体さん用のバスに乗せられタイガーバームなんたらという動物園だか遊園地だかよく分からないところに連れて行かれるのだが、すまん、ここまで書いたら疲れた。一番書きたかった話はこの日から3日後なのだが、そこまでたどり着けなかった。もう一度記憶を整理して書くことにして、今日は終わり。しかし、いよいよオイラのエントリーもつまらなくなっていくな。これも夏ばてなんだろう。

ちょっと嬉しかった週末ライブ

 気が付いたらまたもや日曜の夜になっていた。このところ何をやるのも億劫で、気持ちが乗らない。それでも、ちょっとした楽しいことや嬉しいことはあるもので、今日はそんな話を書いてみよう。先月、フェニックスのジャムナイトに行きそびれて、大変悔しい思いをしたのだが、いやいや神は我を見捨てておらず、とてつもなくいいライブを昨日体験した。場所はおなじみのライフタイムで、メンバーは関戸敬子カルテット、九州ツアーのラス前だ。Y尾君に連絡して、7時半の開演なので6時半にいつもの居酒屋で会おうと約束していた。

 当日は土曜日だが、当然仕事である。週休二日制などというのは、どこかの社会主義国の体制に違いない。高度な資本主義が発展した我がポンニチでは、土曜日は当然仕事をする日なのだ。働いて、働いて、働いて、休みたいとか遊びたいとか思ったら、氏ね、という九州発の格言のとおり、人間働いてナンボなのである。いくら給料が安かろうが、顧客から無理難題いわれようが、そこを堪えてこそ人間はその人格が磨かれるというものである。などと、いくら思い込もうとしてもダメだった。なんでオレは土曜も仕事なんだと、ひがみながらもそれでもライブに間に合うように6時には会社を出た。

 しかし、そのようなヒガミ根性を天は許してくれなかった。それまでパラパラ降る程度だった雨が、6時からは夕立のような激しい雨に変わり家に帰って着替えはしたものの、さてどうやって町に出ようかと戸惑っていたら、捨てる神あればなんとやらで配偶者から電話が入り、花火大会が中止になったから僕を車で送っていけるというのだ。無論、ハイハイ、ありがとうございます、やはりここ一番で頼りになります、などとおだて丸出しのお礼をいいつつ送ってもらった。で、待ち合わせの居酒屋に行くとシャッターが閉まっている。定休日などと札に書いてある。困ったなと思いつつY尾君に電話すると、「あれ、休みか」と声がする。見ると目の前にY尾君がいた。

 ライブまで1時間あるし、腹も減ってるのでライフタイムのすぐ横の焼き鳥屋に入った。ここは以前BONO BONO BANDのライブを見に来たときに、酒井春佳のお父さんグループと一緒になったお店だ。お店に入って適当に串を注文していたら、Y尾君から「昨日、日野皓正のライブがあって、その時のメンバーと酒井春佳がライフタイムでセッションしたらしいぞ」などとビックリするような話を聞いた。日野皓正が宮崎に来ていたことは全然知らなくて、それも驚いたが酒井春佳がメンバーと一緒にセッションしたというのも驚きだった。まあ、以前見たステージからもその度胸の良さは伺えたが。

 二人でいろいろ音楽の話で盛り上がっていたら、そのお店のマスターも会話に参加してきた。実はこのお店もR&Bの投げ銭ライブを定期的に行っているらしい。僕が有山じゅんじが来るなら、是非見に来たいといったら、マスターいわく「有山は投げ銭には来ない」。ま、ごもっともです。しかし、話を伺うと結構昼間はカタギの仕事をしながら週末は音楽やってるという人たちが、地元宮崎にも多いことを知り嬉しくなる。やってる音楽のジャンルもジャズやR&Bやソウルという黒っぽい音楽で、それもまた楽しい。そうそう、そこでY尾君にダイアン・バーチの話をしたら、全然知らなかったので国内盤が出ているので必ず買うこと、買って損することは無い、私はウソは申しませんなどと昭和の政治家のようなことをいって、わざわざメモに彼女の名前とアルバムタイトルを書いて、明日必ず購入するよう念を押した。

 話に盛り上がっているうちに時計を見たら7時20分を回っていた。精算して大急ぎでライフタイムの階段を上がった。Y尾君は寄る年波のせいかトイレに行き、その後から行くので前の席を取っておいてくれと頼まれた。急いで階段を上がり、お店に入ると、ウーン、お客が少ない。12,3人くらいか。いつものシルバーシートには若い女の子が1人でテーブルを占拠している。ステージから見て右側のテーブルが空いていたのでそこに座った。ナニゲニ後ろを見ると、左前方のテーブルに若い女の子がいて視線が合った。相手が会釈したので、こちらも機械的に頭を下げた。髪の長い綺麗な女の子で横じまのTシャツを着ている。あれ、誰だったっけ、どこかでナンパした女の子だったっけ(いえ、三重です。違った、見栄です。オトコの悲しい見栄ってやつでさぁ。気にしないでおくんなせぇ)。ぼんやり考えていたらY尾君がやって来た。思い出した。彼女は酒井春佳じゃないか。

 Y尾君にそのことを話すと、正しくビンゴだった。Y尾君は仕事の関係で彼女のことをよく知っていたので、少しおしゃべりをした。やはり昨日はここでセッションをしたらしい。家族同伴だったが、彼女によく似た可愛らしい妹さんとおかあさんと一緒だった。お父さんは家でお留守番らしい。なんとなくどこかで聞いたような話だなと思ったら、思い出した。オレんちと一緒だ。しかし若い二人はともかく、お母さんがなかなかお綺麗で、僕個人的にはお友達からお付き合いを、おっと、何を書いているのだ。

 時間が来て、ステージが始まった。ピアノ関戸敬子、ベース関戸知雄、ドラムス古地克成、サックス宮里陽太というカルテットは去年の夏もここライフタイムで見た。このメンバーで九州ツアーを大分を除く全県回ったとのことだった。あまりMCもなく、黙々と演奏をしていった。前回見たときは全てオリジナルだったが、今回はオリジナルにはこだわらず演奏したい曲を演奏するというスタイルで、それはそれで好感が持てた。1曲の演奏時間が比較的長く、ソロも要所要所で決まっている。久しぶりに手ごたえのある演奏だった。すぐに一部が終了した。最前列で聞いていたせいか、それともバンドの熱気のせいか耳鳴りがした。心地よい金属音が耳に残った。

 お客さんはライブが始まる前にやや増えたが、それでも20人前後だったのではないか。来ているお客さんの層がどうもよく分からない。20代の若い女の子が多いのは酒井春佳の友達関係かと思ったが、関戸さんの大学の関係だったようだ。あと、僕たちの後ろにいた3人組が、どう見ても夫婦と息子という組み合わせなのだが、父と子の仲があまりよくないようで、なにやら息子が毒づき父親がへりくだるというような会話が聞こえた。ライブハウスに来てまで親子喧嘩しなくてもいいような気がするが、それぞれの家庭事情というものがあるのだろう。余計なお世話だ。

 2部が始まった。1部の演奏以上に熱い演奏が響く。陽太はソプラノサックスがとりわけ素晴らしく、以前はナベサダ風とか、○○風というフレーズがたまにあったが、その日の演奏はこれこそ宮里陽太の音だという自信に満ち溢れた好演だった。彼の作る曲はなかなかメロディアスでこの日も「ハッピー・ツリー」というオリジナルをやったが、良かったな。そして驚いたのはラストナンバーで「チェンジザワールド」という曲名を聞いたとき、え、クラプトンナンバー?とちょっと意外な気がしたが、どうしてどうして、しっかり自分達のものにしていました。演奏の途中から僕の耳には歌声が聞こえてきた。あとで聞いたらドラムの古地さんの選曲だったらしいが、ライブハウスの全員が聞きほれていた。

 ライブが終わり、帰ろうとしたら陽太君が声をかけてきてくれた。良かったよと話すととてもいい笑顔でまた宜しくお願いしますと答えてくれた。そうそう、関戸敬子さんにも話をちょっとさせてもらい、「次回は町田の『インロータキン』を演奏した下さい」と頼んだら、苦笑していた。無茶いうたらあかんがな、オッサン。

 帰り道に今日の演奏の素晴らしさを誰かに伝えたいと思い、夜遅かったが宮里さんに電話した。突然の電話でしかもこちらはやや酔っ払っていたのに、丁寧な受け答えをしてくれた。家に帰って、PC開くとお礼のメールまで届いていた。こういう人間性が陽太君の音楽に伝わってるんだろうな。ちょっと嬉しい週末でした。で、前回YOU TUBEに頼らないぞと書いたものの、このメンバーで熊本の下通りで路上ライブやってる動画があったので貼っておきます。音が悪いけど、せめて雰囲気だけでも。



なんだかよくわかりませんがなんとかやってます

 暑さと忙しさにかまけていたら、またもや更新を1週間以上していなかった。毎日、毎日つまらないことばかりで、こんな日々を送っていたら気が付いたら死んでいたなんてことにもなりかねない。というか、あまりの暑さと仕事の煩雑さで1日があっという間に過ぎてしまい、それでも腹の立つことや理不尽なりと喚きたくなることも沢山あって、でもここで切れたらメシが食えない。じっと我慢はいいけど、いつまで我慢せんならんのや、え、どや、なんとかいうてみい。こらこらそんな開き直ったらあかんでぇ、ハイ、堪忍です、って一体お前は誰にモノをいうとるのか、一編医者に行ってこい!!キャイン、キャイン。

 なんてフレーズが出てくるのは、ご存知殿山タイチャンで、今日のランチに某ファミレスに入ったときに、久しぶりに車のダッシュボードに入れておいた「三文役者」シリーズを取り出し、エアコンの冷たい風の中でヒイヒイと読んでいたのよ。で、昭和28年から30年あたりの日本映画界の話などを読んでいたら、突然「ノーテンファイラー」という言葉が出てきた。さて、拙blogをお読みの方でこの単語ご存じない方はいらっしゃらないと思うが、僕も意味はよく分からないまま、適当に人を小馬鹿にするときに使ったりしていたが、なんとこれは日中合作の悪口らしい。「脳天」=もちろん我がポンニチ語で「のうてん」と読みますな。「壊了」=中国語で壊れたとか意味する「ファイラ」と発音するらしい。その合体で「脳天壊了」=ノーテンファイラーなる言葉が出来たらしい。僕はこの単語を何時から知っていたか記憶に無いが、大人になってからはっきりと聞いたのはウシャコダの「カモナ・ウシャコダ」という彼らのテーマ曲からだ。



 で、びっくりしたのは、「カモナ・ウシャコダ」とYOU TUBEで検索したら、多分アップしてあるとしてもアルバム『パワフル・サラダ』の音源だろうと思っていたら、なんと今年6月のウシャコダ(キーボードにライオンメリーが入っているが)の演奏がアップされていたこと。ああ、好きな奴はいるんだな。で、この演奏で見ものは一杯あるけど、古くからのウシャコダファンだったら中村智のギター回しに喝采だろう。「ノーテンファイラー」も最後に1回出てくるが、ここは是非オリジナルの『パワフル・サラダ』をご購入の上、一度聞いていただきたい。って、随分力入ったけど、それほどビックリして嬉しかったのよ、ウシャコダの映像が!!多分、消されてしまう可能性が高いので、大急ぎでもう一つ貼っておきます。これも昔からの大技「ギター空中交換」、流石による年波には勝てず、ギターの滞空時間が短く、高さもうーん、どうでしょうってトコだが、あの当時のステージをそのままやるパワーに感心する。



 いや、実は今日のエントリーは「ノーテンファイラー」をネタにして、ちょっと変てこな言葉というか、ネオ死語の世界を展開しようと思っていたが、ウシャコダの動画を見て嬉しくなってしまい、他にも探してみたらありました。去年の常盤平でのライブ動画。やってることはホント変わってないし、「いつもニコニコ、ウシャコダ」「いつも朗らか、ウシャコダ」であり、「何が可笑しいんだよ、何が悪いのさ、これがそう俺たちウシャコダ」なのだ。もう、ついでだから貼っておく。



 で、ようやく話が戻るが「ノーテンファイラー」の語源を探すためにネットサーフィンしていたら面白いblogを見つけた。「げたにれの日々是言語学」というところで、「ノーテンファイラー」の話が出ていたのだが、そこで見つけたマカフシギな言葉「ハバハバ」。これもオイラ知ってる。夏歌詞じゃなかった懐かしのTVドラマ「コンバット」で、やたら調子のいい兵士が「ハバハバ」といって周りをせかし、そいつのこっけいさにサンダース軍曹まで騙されそうになるのだが、なんとそいつはドイツ兵で、スパイとしてチェックメイトキングツー(覚えてるかな「チェックメイトキングツー、チェックメイトキングツー。こちらホワイトロック、どーぞ」という無線ごっこを知らない奴とは遊んであげなかったのだ)に送り込まれてあわや連隊は壊滅の危機に…という話で、初めて知った。その後、うん、確かに古い映画で「ハバハバ」と言ってるシーンをみたような気がする。そうか、そうだったのか、あのコンバットの話は結構実話から来てるんだなと今更ながらに感心したのだった。

 と、ここまで書いて読み直したら、なんでぇ、全部他力本願の話じゃねーか。ちったぁ、自分の主体性を出せ、という良心様の声が聞こえてきたので次回は自力本願、YOU TUBEやリンクに頼らない話を書きます。久しぶりに、夏合宿の思い出話なんかで盛り上がろうかな。とはいうものの、ここ毎日某中山センセの選挙カーが五月蝿く、いつ切れてしまうか分からないので、なんともいえませんが…。ああ、せっかくウシャコダパワーで元気になったのに、気持ちが暗くなってきた。寝よう。

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