年の瀬まで相変わらずグダグダの話です

 いけねぇ、すっかり忘れていた。まだ小林あたりを車でうろうろしていたところで話が止まっていた。いや、今月の最初の土・日に行って来たキャンプの話だ。僕のblogの特長とも言えるのだが、話が途中で終わってそのまま続くかと思うと、全然違う話がしばらく続き、あ、あの話はもうおしまいなんだなと思わせて、突如、カムバックするこの手法。などと書いてますが、要は根気がない、飽きっぽい、目先のことにすぐ左右されるという僕の個性から派生してきた傾向と対策なのだ。などと言い訳がましいことを書いたが、早くキャンプの話を書いておかないと、もうすぐ年が変わる。実は、このキャンプ話の後に「めもあある美術館で会った人だろ」というタイトルでアップする予定のエントリーもあるのだ。それどころか「フォークソング・クロニクル」も中途半端だし、うっ、「DRAC興亡史」も75年の夏合宿前のところで時間が止まっている。まるでファウストである。「時よとまれ。お前は美しい」などといっちゃったりなんかしちゃったりして(と、ここは故広川太一郎氏を偲んで)。

 上記のような導入部を数日前に書いていたのだが、連続した訃報があったり、買ったばかりで食べるのを楽しみにしていた竹輪を焦がしたりしているうちに、もう大晦日である。あと5時間ちょっとすると新しい年に変わる。いや、一体全体どうなっているのだ。お正月はついこの前やったばかりだ。年越しそばも食べたばかりだと思っていたら、大晦日カムズアゲインである。本当に1年が過ぎるのが早い。♪あまりにも早すぎる、時がたつのが早すぎる、堕落の坂を突っ走る、あまりにもあせりすぎる(by ZK「パラシュート革命」)などと思わず口ずさんでしまう今日この頃だ。ところで1年終わる前にお世話になったいろんな人にお礼を言わねばならない。イワネバの娘である(しかし、今年は何度このボサノヴァの名曲をおちょくったことか)。いつもいつもコメントくれる皆さん、ありがとう。来年もシコシコ(死語?)やっていきますのでヨロシク。米なしでROMの皆さんも本当にありがとう。でも出来れば一言でいいから米書いてもらえるともっと嬉しいです。「ええ加減にせえ、このボケ」みたいな米で結構ですから、来年は是非書いてくださいね。

 今年はネットで知り合えた人たちと、リアル社会で何十年ぶりかに会った人たちと、どちらもとても素晴らしい出会い(再会)を経験できた。勿論、塩次さんの逝去という悲しい出来事もあったけど、そのおかげで岐阜のTHIS BOYさんと再会(?)出来たし、なんとPurple_Hazeさんも学生時代から知っていたなんていう、まあ本当に世間は狭いというかネットは狭いと思う事件があった。それから「めもあある美術館」という素晴らしい作品を燐さんが思い出させてくれて、そこから(これはまだエントリーに書いてないので、ちょっと分かりにくいかもしれないが)みさきたまゑさんという素敵な人とも知り合うことが出来ました。そうそう、リアル社会では宮里陽太君との出会いと父君のJAZZ MANさんと知り合えたのも大きな収穫である。

 ライブでは1月に見たZEK3、いやー、僕のblogもいい加減話が進まないが、くるみさんの日記も凄い。今年の1月に行った九州ツアーの話が未だに終わらないというか、多分来年鹿児島編の続編がアップされると思われる。この姿勢は見習わないとイカンな、などと自分のエントリーのいい加減さを誤魔化そうとしているのは誰じゃ。あ、オレだ。4月にはフランシス・マバッペ・トライブを見た。強烈だった。ジャズというよりワールドミュージックに近い感じだが、アフリカの奥の深さと西藤大信のメロディ・メイカーぶりを知ったライブだった。5月は11月にパリャーソとしてのライブを見ることになるさがゆきさんと渋谷さん、潮先さんの「We’ll meet again」のライブというかセッションを見ることが出来た。渋谷さんのピアノはどうしてあんなに美しいんだろう。潮先さんのギターは強引な自己主張はないが、しかし要所要所でしっかり存在感をアピールする。さがゆきさんのボーカルは魔法のようだった。

 7月はBAHOを見ることが出来た。オレはロックの子だ、ということが十分再認識できたライブであった。ロックといっても幅広いけどね、こういう大人のロックもいいもんだ。ロックの基礎知識を同時代的に吸収できたことを神に感謝したい、などと無神論者の僕も思わずロックの神様の存在を信じたくなるようなライブだった。8月は5月、7月と見た宮里陽太のサックスをじっくり聞いた。宮崎のような僻地で全曲オリジナルで勝負できるカルテットがいるんだぜ、ベイビィ。しかもバンマスは町田町蔵ファンだぜ。そうそう、うっかりしていたが、春先に小山ショータとグズラ、板橋文夫、林栄一という凄いカルテットのライブも見た。板橋さんは勿論カルメン・マキ最強トリオのピアノでもあるから、当然12月にも見た。マキさんは宮崎でのライブの出来に不満が強かったようだが、僕には十分楽しめるライブであった。

 そうだ、10月にはジム・オルークと坂田明の「ちかもらち」のライブも見ることが出来た。掟破りの大フリージャズセッションというか、表現の多様さに圧倒されたライブだった。心残りだったのはジムに「実録連赤」の話を聞けなかったことだ。などと、このように細切れに書いていくときりが無い。最後に書いておきたいのは我が歌姫香月保乃の更なる飛翔だ。来年も香月&大西バンドは追いかけるつもりですが、あまりジャズにこだわらずにポピュラーのスタンダードや、シンガーソングライターの曲などもレパートリーに入れるとモアベター(これも死語か?)。

 ええと、いつの間にかキャンプの話がどこかに行ってしまいましたが、最初にあげた書きかけのエントリーは来年も引き続き、発作的に書いていくのでヨロシク。それでは皆様方のご健康と実り多き年が迎えられますよう、心から祈念しつつ土下座。また来年もヨロシク。
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動揺は隠せない

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これは一体何か。即答出来た方がいれば、是非ご連絡下さい。前のエントリーで書いたように、今日はお葬式だったので、持ち帰りの御膳を食べていた。ちょっと物足りないので鯛入りの竹輪があったことを思いだし、食べようとした。チルド室に入れていたので冷たかった。

焼き竹輪にしようと思い、グリルに入れた。忘れてた。下の子が煙いと言った。気がついたら天井に煙りが充満していた。

グリルを開けたら、こげだらけのヤキイモのようなものが出てきた。ちょっと暗かった我が家が少し明るくなった。

チクショー、竹輪食べたかった!!

連日のサヨナラ

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昨日は、ずっと入院していた82才の叔父の通夜だった。20年以上会ってなかった従兄弟達と会い、久しぶりにいろいろ話をした。しかし頭やお腹や、以前と比べると烈しく変わった箇所が多く、ちょっと笑えた。会話の中身は、お互いの健康のことがほとんどだった。

今日は、48才で彼岸に旅立った従兄弟のご主人のお葬式に行って来た。今年の2月に亡くなった伯母と同じ会場だった。まさか一年に二度もこの場所に来るとは…。残された娘が、別れの挨拶で、こう言った。「やっと二十歳になり、お父さんと一緒にお酒が飲めると思ったのに、それも叶いませんでした」

残された母と妹は、自分が面倒みるから安心して、との言葉が続き不覚にも涙があふれた。式が終わり、柩を車に乗せる手伝いをした。大の男が6,7人で運んだが、ずいぶん重かった。彼の人生の重さがまだ手に残っている。もうすぐ新しい年になるというのに、淋しく悲しい二日間だった。

遅すぎることはない、早過ぎる冬よりも

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今日、家に帰ったら狸さんからバースデープレゼントが届いていた。改装したいせやの携帯ストラップである。いせや本店のような歴史的建造物を壊すとは何事だ、と怒っていた僕だが、このストリッパ、あ、間違えた、ストラップは大変嬉しかった。

まだまだ誕生日プレゼント間に合いますって、おまえは網干髴二郎(あぼしさもじろう)かっ!!

全然話がまとまりませんが、美晴ちゃんの笑顔で許して

 昨日は忘年会だった。今年もいろいろあったけど、まあお疲れさん。来年もまたひとつヨロシク、ていうわけで固い話はなし、無礼講でぱーっと行きましょう。みたいなイベントで、会社勤めの人間にとっては、避けられない年間行事の1つである。しかし、その忘年会の日に宮里陽太のライブがあるのだ。ライブは19時半から、忘年会は18時半から。こういう場合はどちらかを諦めるのが良識ある大人の判断というもので、普通は忘年会に軍配が上ると思う。しかし、誠に残念ながら、僕の辞書に「良識」などという単語はない。それでも、一応は社会人の勤めとして忘年会に出席し、挨拶して1時間で切り上げた。付き合いが悪いなどという声も聞こえたが、なにいってやんでぃ、こちとらライブに行くんだい、と何故か江戸っ子になっていつものライフタイムの階段を上がった。

 実は、毎度まいど一緒にライブに行ってるY尾君に今日は忘年会で遅くなるかもしれないので、ステージから見て左側の背もたれのある席(僕達はそこをシルバー・シートと呼んでいる)を取っておいてくれと頼んでいたので、場所の心配はしてなかったのだが、お店の扉を開いてちょっとショックだった。というのも、もう開演の19時半になるというのに、お客さんはぱらぱら。いつもの席にY尾君はいたが、その一番いいテーブルの周囲に誰もいない。一つ後ろのテーブルに女の人がいて、何やらY尾君と話している。良く見ると香月さんだ。このところライブをご無沙汰してるので、ちょっと顔を合わせにくいところもあるが、久しぶりだったので挨拶しておしゃべりした。Y尾君は何故カルメン・マキを見に来なかったか説教していたようだ。説教オヤジである。

 19時半を回ってようやく人が少しずつ入ってきた。感じのいいご夫婦が入ってきたと思ったら宮里さんだった。9月の陽太カルテットに行けなくて、その分今日を楽しみにしていたんです、などと挨拶しているうちにメンバーがステージに上がった。僕は気が付かなかったが、このライブは関戸敬子トリオウィズ宮里陽太というクレジットになるようだ。前回は関戸オリジナルと宮里オリジナルだけで2セットやったが、この日は他人の曲も入れたりして、構成に変化をつけていた。僕は前回聞いた「ベーコン・レタス・エッグサンド」を聴きたかったが、今回はセットリストに入ってなかった。ライブの様子を書くのは、以前のエントリーを参照していただくとして、今回のライブで面白かったことが1つ。もう終演近くだったが、関戸ご主人がMCで「宮里陽太は今ソプラノサックスに凝ってます。古地さんはミスタードーナッツに凝ってます」と凝ってますシリーズで話をつなぎ、「ピアノの関戸敬子は町田町蔵に凝ってます、あ、今は町田康か」といったことだ。

 ま、まちだまちぞう?なんでジャズのライフタイムでそんな名前が出るのだ。しかも関戸奥方のピアノとあの町田のボーカル、全然つながらないんですが。などと頭の中がめちゃくちゃだよ、ざくろになってめちゃくちゃだよ、ぐちゃぐちゃ…(by スターリン)。あまりのことに関戸ご主人が今、雅楽に凝ってるというのも聞き漏らしたほどだ。アンコールを1曲やってライブが終わった。最後のMCで、今年は不況でなかなか厳しい時代だけど、こういう音楽にお金を使うことはとてもいい使い方だと思いますというフレーズを聞きながら、でももうちょっとお客さん増えて欲しいな、などといろいろ考えさせられるライブだった。

 で、その後宮里さんから僕(たち)と香月さんの関係を聞かれて、思わず僕は見栄をはり「野暮なことは聞かないで下さい」といったものの、昨年のクリスマスイブのライブ以来ファンであることをバクロしてしまい、「オジサンの追っかけも乙なもんですね」とからかわれた。宮里さんが帰った跡に、僕達も帰ろうとしたら陽太君がすぐに挨拶に来てくれた。今時の若い人には見られない礼儀正しさだ。二言三言会話したが、僕は関戸さんにあることを確かめたくて話しかけた。「町田の何が気に入ってるんですか。ボーカルですか。詩ですか」。驚き桃の木だったのは、パフォーマーとしての町田町蔵が気に入ってるとのことで、是非共演してみたいと言われた。いや~ジャズプレイヤーでINU時代の町田が好きだという人は初めてでした。

 なんだか話がてんでばらばらなんですが、実はYOU TUBEで凄い発見があったのよ。それだけをアップしたくてこのエントリーは書いたようなものです。それでは8.4ライフタイムでの関戸トリオウィズ宮里陽太の映像をどうぞ。


 それと、これはちょっと関係ないけど、今までずっと探していてなかった映像。な、なんと越美晴のデビュー当時の映像。


 んで、おまけに町田町蔵の映像。


危険な関係のブルース

今日はお客さんとして来ていた香月さん
今、ジャズの歌姫と歓談中。今年最後のライブを見に来たら、香月さんが来ていた。コノアトどうなるかコウゴキタイ。

モモヨさんの3日後だが、それでも私は

 突然、妙なことを聞きますがあなたは40年前の今日、晩御飯に何を食べたか覚えていますか。僕ははっきり覚えているのだ。答えは「おでん」だ。僕の人生の中で、今日、12月19日は「おでん」を食べる日なのだ。何度もなんどもこの日は「おでん」を食べた。そのわけは、なんと今日は僕の誕生日なのだ。僕が子供の頃は今と違ってイベントやお祝いというものが少なかったように思う。今の子供たちは、何かいいことがあると、いや悲しいことや残念なことがあっても、やたらイベントというかセレモニーを行う。やれ部活の試合の打ち上げだ、栄養会だ、子ども会のお祝いだetc,etc…。

 昭和の子供たちは違った。年に一度の誕生日のほかは、お正月とこどもの日、せいぜいそれくらいしかイベントはなかったような気がする。しかも、イベントといったってクラスの友達を数人集めて、ケーキを食べたり、プレゼントの交換をしたりするくらいで、しかもそういうパーティなんかが出来るのはある程度の経済力を持った家の子で、たかが地方公務員の息子である我が家ではその手のパーティなど一度もなかった。それでも誕生日だけは別物で、この日だけはケーキが食べられたのだ。ケーキつったって、ああた(ここ大橋巨泉風に発音してください)、きょうびのようなアイスクリームのケーキなどではなく、カステラ生地(スポンジだとかいうらしいが、あれはカステラだろっ)の上に、チクロかサッカリンでも入っているのではないかと思うくらい、甘ったるいクリームがかかって、その上に赤や緑のあれはなんというのか、ヨーカンではなく、ゼリーでもない、なんだか固くて甘い不思議な、あ、ジェリービーンズの大きな奴みたいな、なんとも不思議なお菓子がのっていた、ケーキ。

 そうなのだ。僕が子供の頃はまだケーキというのは高嶺の花というか、滅多なことでは口にすることはできなかった。誕生日とあとは2学期の終業式の日、学校給食の一環として直径10センチくらいの小さいケーキをもらえたくらいだ。クリスマス・ケーキということだったと記憶しているが、教育現場に特定宗教のセレモニーを入れるのはいかがなものか。クリスマスのお祝いにケーキを配るのなら、お釈迦様の誕生日には甘茶をしんじょ、となるのがバランス感覚ではないのか。当時の文部省の責任者、出て来い。筑波=中教審路線の自己批判をしたまえ。などと話が妙な方向に行ってしまったが一体全体何が書きたいのかと言うと、今日19日(多分、このエントリーをアップするときは20日になってると思うが)は僕の誕生日であることはずいぶん前から決まっているのだが、実にマカフシギなことに僕はこの日にケーキを食べた記憶が無い。

 別に「みんなビンボが悪い」せいでもないし、おとうちゃんが毎日靴トントン叩いていたはったせいでもない。さっきも書いたが僕の父は地方公務員だったので、残念ながら靴を叩くことも、ときどきスカートを買うてくれることもなかった(いい加減、しつこい。岡林の世界から離れろ、という声が聞こえる。はいはい、分かりました)。それでは何故に僕は誕生日だというのにケーキが食べられなかったか。答えは翌日が妹の誕生日だったからだ。つまり19日は僕用に20日は妹用にケーキを買うなどという無駄なことは昭和の時代悪徳と思われたのだ。節約が美徳と思われた、悲しい時代だったのだ。そのケーキがもらえない分、19日の晩御飯は僕の好きなおかずを作ってくれることになっていて、当時僕が一番好きだったおかずは「おでん」だったのだ。

 「おでん」は不思議な食べ物だった。おかずなのだが、おやつみたいに単体で食べることも出来る。大学時代関西で暮らしていたときに「おでん」のことを「関東炊き(カントダキと発音してください)」と呼ぶことを知り、あれは関東から伝わった料理なのだと初めて知った。しかし僕が初めて「おでん」と出会ったのは少年サンデーがきっかけである。ご存知「おそ松くん」に出てくるチビ太がいつも手に持っていたのが、串に刺した「おでん」であった。三角はコンニャク、丸は芋、円柱みたいなのは当時なんだか分からなかったが、後年ちくわぶというものではないかと教わった。そうそう、丸は僕は芋だと思いこんでいたが大根や卵という説もあるようだ。

 マンガの中のチビ太が実に美味しそうに食べていたのを何度も見るうちに、当時小学校の低学年だった僕は、この「おでん」なるものが食べたくてしょうがなく、ある時母親にねだった。母親は酒飲みのつまみみたいなものだからと、あまりいい顔をしなかったが、なぜかそのとき父が自分も食べたい、○○で食べたおでんは美味しかったなどと援護射撃をしてくれ、それ以来毎年12月19日はおでんが我が家の定番になった。いや、もちろんそれ以外の日にも出てきたけれど。

 で、結局何がいいたいかというと、今日は僕の誕生日だと言うのに家族全員からスルーされ、というのも上の子の進路指導と下の子の進路相談がダブルで重なり、配偶者はカリカリ、子供たちは開き直り、というコールドアズアイス(by フォリナー)の我が家で、疲れて帰ってきた父親のおかずは何もなく、寂しくサッポロ一番味噌ラーメンにざく切りのキャベツと玉ネギをぶち込んで食べた午後9時半の哀愁という社会主義的リアリズムの構造があったのだ。しかし、僕は泣かない。なぜなら僕は21世紀に夢と希望をつなげる未来の子供たちだから。あ~あ、結局なにが言いたいのか良く分からない。最後までわからないエントリーだが、結論、これで(も)いいのだ。

JEP-OB CAMP IN ISA その2

 前回は突然な終わり方で失礼した。あれは演劇の手法でサドンデスというやり方である。などとウソをついていると閻魔様にベロを抜かれて、あだ名がベロ出しチョンマなどと付けられそうなので、すばやくキャンプ話の続きに戻る。N村君は土曜の12時丁度に迎えに来てくれた。僕は寝袋を2袋と大きなバッグに衣類や毛布を詰め込み彼の車に乗り込んだ。目的地は伊佐市という、昔は菱刈郡伊佐町といって金山で栄えた町だ。もっとも一体何時ごろ栄えたのか教えて欲しいくらい、今はひなびた感じの田舎町になっている。呑み助の方なら、幻の芋焼酎伊佐美を造っている町だといったほうが話が早いかもしれない。その伊佐美の紹介をしようと検索したら、あるHPでこういうフレーズがあった。『伊佐美が作られる酒蔵は明治32年創業。出水山地の奥、川内川上上流の大口盆地にある蔵。この地は薩摩の北海道とも呼ばれる美しい地土。』…知らなかった。薩摩の北海道などと呼ばれていたのか。どうりで寒かったはずだ。

 その伊佐市に向かうのにどういうルートで行くのか(要は高速を使ってえびの市まで走り、それから一般道を走るのか。それともずっと下の国道を走るのか)と考えていたら、流石は第一線の営業マンである。裏道を使って、さっさと宮崎市を脱出し旧高岡町、野尻町などを過ぎて早、小林市に出た。その間車中では、今までのキャンプの参加者の近況や、会社を離れた人たちの消息、早い話が噂話でずいぶん盛り上がった。しかし、N村君とこうしてじっくり話すのも20年ぶりくらいなのだが、全く違和感が無い。それどころか、デジャブを感じる。何だか、これと似たようなことがあったぞ。ああ、そうだ。思い出した。僕が結婚して間もない頃、熊本へ長期出張があり、その最終日に宮崎に帰る途中で事故にあったときのことだ。

 当時は教材の営業会社にいたので、1,2月の寒い時期は次学年の教材を営業して契約する期間だった。追註期間などと、その会社は呼んでいた。僕はその追註期間の営業アシスト、訪問先の分類や予算組み、契約先への納品の段取り、クレーム処理などのため一ヶ月ほど熊本の営業所に出張していた。その日は天草は本渡市近辺のお客様のところを回り多分終わるのは夜の10時過ぎだろうから、もう1泊熊本に泊り、次の日曜日にゆっくり宮崎に変えるつもりでいた。ところがどういうわけか、お客さんと効率よく会えて、仕事も消化して夜8時半くらいに全部回り終えてしまった。これから頑張って車を飛ばせば、その日のうちに宮崎に帰れると思い、熊本の事務所に電話して宮崎まで直帰すると報告した。そうなると身も心も軽いもので、軽快なスピードで天草五橋を通過していった。

 僕の前にもどこかの会社の営業車が走っており、かなり飛ばしていた。気持ちは分かる。花の土曜日の9時前である。もうちょっと走れば熊本の浮かれ街が待ってるはずだ。♪べいび、うぃあぼおおおおおおんんんとぅらああああん~などと鼻歌歌いながら僕は前の車の後を付いて行った。そのとき前方の左カーブのところから赤い軽自動車が対向車線を走ってきた。あれ、あんなにハンドル切ってたら、前の車とぶつかるぞ、あれ、危ないな、あ、あ、あ、ぶつかったがな。と思って見ていると、信じられない光景が目に入った。なんと前の車とぶつかった軽自動車が僕の視線にまっすぐ飛び込んでくる。物凄いスローモーションで、相手の運転者である女の子の顔が見える。声は聞こえないが、明らかに「どいて、どいて、どいてー」と叫んでるようだ。いや、そんなどいてって言われても、左は人家、右側はガードレール、ハンドルの切りようがありませんがな。あ、あ、あ、ぶつかるで、あかん、ぶつかる、ぶつかる。ぶつかった。

 ガシャーン、という大きな音がして全身にかなりな衝撃が走った。シートベルトはしていたので、体が飛び出ることはなかったが、確かに10センチくらい身体が浮いたような気がした。一瞬、自分の身の上に何が起こったか、理解できなかった。多分70キロ近くで走っていたはずの車が完全に道路の真ん中で停止していた。僕の車の左先に前がぐちゃぐちゃになった普通自動車が止まっていて、その中からスーツ姿の男性が出てきた。右側には、赤い軽自動車がこれもバンパーがタイヤに食い込んでるような状態で止まっている。女の子がべそをかきながら出てきた。その光景を見て、僕は自分も事故に巻き込まれたことを理解した。身体はどこも痛くなかった。妙にハイテンションになっていた。僕も車から出て前のほうを見た。車のフロントが「へ」の字になっていた。僕は前の車の男の人に声をかけた。その彼も僕に声をかけた。「大丈夫ですか」。3人の声が重なってちょっとビックリした。事故を起した張本人の女の子と第一被害者の男の人と僕の3人、同時に声を出したのだ。

 それからのことは、あまり覚えていない。まだ携帯の無い時代だったので、公衆電話で警察を呼び、それぞれ親や会社に連絡を入れてその場で待った。僕の車は道路の中央にあって邪魔になったので、野次馬の人と協力して路側帯のほうに動かした。最初に来たのは女の子の両親だった。僕達二人にお詫びをいったが、すぐに「なんであんなところで事故をしたんだろうか。タイヤが運転中にパンクしたんじゃないだろうか」などと、親心といえばそれまでだが、いかに娘の過失を認めないか、そちらに一生懸命だった。警察が来て、現場検証が始まった。この段階で僕は、もう家には帰れないと覚悟して、もう一度会社に電話してその日も寮に泊ると断った。最初にぶつけられた車は、完全にオシャカになっていたのでレッカー車で運ばれた。女の子の車は確か、自動車会社か保険会社の車が来て持っていく段取りをしていた。僕の車だけ放置プレーである(当時はそんな言葉はなかったが)。しょうがないので、本意ではなかったがオマワリに聞いた。「あ、オタクの車?今レッカー車が行ったばっかりばってん、戻るまで時間がかかっとらす(なんか、こんな感じでした。熊本弁指導ヨロシク)。とりあえず、エンジンばかけてみらんね」。

 僕は左門豊作と喋っているような気がして、少しおかしかったが素直に車のキーを回した。ぶるるるるる、エンジンうならせて夜の闇の中消えてゆく、オーアンジェリーナ、君はバレリーナ、おっと違った。エンジンはかかった。レッカー待ってると夜明けが来そうなので、みっともないが事故で変形した車のまま熊本市内へ向けて走った。土曜の夜である。ルートは天草方面から熊本市内へかけて。そりゃ若い連中が一杯走ってたよ。その中を「へ」の字の車が走っていくのだ。2車線になっているため横を走る車がみんなスピードダウンして眺めて、面白そうに笑って抜いていく。一度などは明らかに族の兄ちゃんと思われる連中が伴走しながら「さっきの事故ね?」と聞いてきた。「そう」と大声で答えると、「怪我しとらんね、どっか痛いとこはなかね?」と結構親切に聞いてくる。別段どうもなかったが、せっかくなので「頭が痛い」と答えたら、「そりゃ、医者にいかんとおおごとになるったい。ナントカ整形がヨカよ」と言ったかと思うと、もの凄いスピードで駆け抜けていった。

 11時過ぎくらいに事務所について、本社の上司に報告したらすぐに病院に行けといわれた。熊本での僕の直接の部下だったH田君が、夜間病院に連れて行ってくれた。病院で事故の話をしたところ、付き添ってくれたH田君を睨んだ看護婦さんが「こちらが加害者の方ですか」と聞いてきた。その口調がおかしくて「いや、会社の部下ですけど、見るからに加害者みたいな顔してまっしゃろ」と答えた。受付を済ませて、診察室の前で待ってると、もう午前零時になろうとするのに、誰かがお医者さんと話をしている。「…車で走っていたら、対向車が飛び込んできて…、避け切れず…。ハイ、そこも痛いです。ハイ」などと答えていた。僕は付き添ってくれたH田君に「世の中似たような話があるんだな。オレの事故と全く同じパターンや」と話しかけた。そのとき診察室のカーテンが開いて出てきたのは、つい先ほど「大丈夫ですか」と声を掛け合った同じ被害者の人。いや、偶然というか、この時間帯に受け付けてる病院は限定されていたせいかもしれないが、驚きました。

 それで結局その日は熊本泊まりになり、翌日帰ろうと思ったが車は修理に出さないといけない。仕方がないので日曜も熊本に泊り、週があけた月曜日にN村君が宮崎に移動するということで一緒に乗せてもらった。そのことを思い出したのだ。で、その事故の顛末ですが、それから1ヶ月以上もたって、すっかり忘れていた頃宮崎の事務所に熊本県警から電話が入り、事故の裁判をするから出て来いといってきた。仕事が忙しいから嫌だといったが、何しろ相手は国家権力なので、出てこないとどうたらこうたら、国民の義務がなんたらとしつこく、根負けした僕は指定された場所に、わざわざ有給を取って出かけた。指定された部屋に入ろうとしたら、黒髪の女性が駆けつけてきて「大丈夫でしたか、すいません、わざわざ宮崎から来ていただいて…」などと一気に話しかけてきた。良く見ると事故の加害者の女性だ。あれ、こんなに綺麗な人だったっけ、と思いながら、適当に相槌を打っていたら部屋のなかから名前を呼ばれた。

 入っていくと、辛気臭そうなオヤジがいて、事故のときの様子を詳しく聞いてはなにやらノートに書いていた。最後になって「加害者をどげんしてほしいか、いうて」と聞いてきた。意味が分からず聞きなおすと「いや厳罰に処して欲しいとか、なんかあるでしょうが」などというので、なるべく穏便にしてあげてくださいと答えた。オヤジはニカッと笑って「なんでね、相手が美人さんやからね」と聞いてきた。むっとした僕は「人間誰しも間違いは犯すでしょう?あなたも僕も。罪を憎んで人を憎まずというではありませんか」と毅然として答えた。と、書きたいのだが、実はあのオヤジの指摘は「あると思います」。

 ああ、またもやキャンプ場までたどり着けなかった。続きはまた今度。

しかし、もうちょっとリアリティのある話を持って来いよ

 携帯にときどき訳の分からないメールが入る。いわゆる出会い系という奴だ。これにはパターンがあるようで、一時期は集中的に来るけど無視して削除していたら、ある時を境にピタリと来なくなるパターンと、しつこくしつこくまるで水虫のように忘れた頃にやってくるものとある。ま、どっちにしてもタイトル見ただけですぐに削除するのだが、今日来たやつには驚いた。以下コピペする。

e-○ailです。
─────────
▼女優 井川(はるか)様から
ポイントプレゼント
※既に追加されていますのでご確認ください
女優 井川(はるか)様の写メ付プロフ
http:~(以下略、ごめんね~)
昨日、【××様】宛にポイント譲与のご連絡を致しましたが、一言お礼はし
て頂けましたでしょうか?

先ほど女優 井川(はるか)様より【××】様からの連絡がまだ無いとの事
でお問い合わせがございました。これ以上当サイトもお客様同士のやり取りに関
与しかねますので、ご連絡を取られてない場合はポイント譲与済みの女優 井川
(はるか)様へご一報お願い致します。
尚、通常時はポイント譲与や譲与依頼などはお受けしておりませんので御了承下
さい。
今回のポイント譲与に関してお客様への負担は一切御座いませんのでご安心下さ
い。


 知らなかった、あの女優の井川(はるか)さんが僕に出会い系の無料ポイントを譲与してくれいていたなんて。しかもご丁寧に『通常時はポイント譲与や譲与依頼などはお受けしておりません』だって。やはり相手が美人女優だからサイトも気を使っているのだろうか。このメールを読んだ僕は心臓が破裂しそうになった。だってあの女優井川(はるか)だぜ。潤んだ瞳、セクシーな唇、ああ、気絶するほど悩ましい(byチャー)。どうしよう、早速お礼のメールをしてそれからお付き合いが始まって、え、あんなことやこんなことも、いやそれはまずいっしょ。僕も一応立場というものが、いや、でも理性ではセーブできない、これが恋というものだ。などとモーソーは逞しく、なるわけないだろっ。そんなことより、昨日のキャンプの続きを書かねば…。

JEP-OB CAMP IN ISA その1

 楽しい時間というのはどうしてあんなに早く過ぎてしまうのだろう。もうあれから1週間以上経ってしまった。

 僕は家族からは徹底的にインドア派というか出不精だと思われている。しかし、そんなことはない。これでも高校生の頃は夏休みや冬休みのたびに中学時代の友人とキャンプをした。未だに良く覚えているのは確か高2のときだったが、ホウリ川という川沿いでキャンプをした。友達4人で自転車で河原に行き、テントを張って汗をかいて喉が渇いた。川の水は冷たくて美味しそうだった。僕は直接口をつけて川の水を飲んだ。美味しかった。みんな飲んだ。飯盒の水も川から直接汲んだ。キャンプが終わって数日後、新聞のニュースでその川の水は公害で汚染されていると報道された。びびった。びびったが別段何も無かった。いや、一説によるとそのとき飲んだ水が元で頭が少しおかしくなったという奴もいるが…。またおかしくなったのは頭ではなく性格だという奴がいることも承知している。ええい、どうせオレは世間の嫌われ者さ、ゴミタメ、ヘンタイ、落ちこぼれ(by スターリン)だ。

 ええと、例によって一体何の話か分かりにくいが、実は先週の土曜日に鹿児島は伊佐市(かっては菱刈郡伊佐町伊佐郡菱刈町と呼ばれていた)で1泊2日のキャンプをしてきたのだ。もっともテントに寝泊りしたわけではなく、ログハウスというのか、いわゆる丸太小屋(エアコン完備!)に泊ったのだ。このキャンプのメンバーというか、イベントのメンバーとは実に不思議な因縁でつながっていて、ちょっとした時間旅行でもあったのだ(みさきさん、ごめんなさい。最近やたら時間旅行ばかりしています)。

 このキャンプのことを教えてくれたのはN村といって、僕が生まれて初めて勤めた会社で熊本の営業所長をしていた男だ。その会社はかれこれ14,5年前に倒産してしまい、彼はそれ以前に退社していたので、僕も長く会ったことがなかった。ところが2,3年前、地元のスーパー、『ええもんやっすいのはイ○ミヤ~』のCMソングでおなじみのスーパーでばったり会った。彼は仕事中で、僕は鬱病で会社を辞めていた頃だ。お互いにすぐに気がつき、二言三言会話して分かれた。それから意外なところでちょくちょく会ったが、必ずといっていいくらいどちらかが忙しくて、あまり詳しい話は出来なかった。その彼と今年の9月の中旬に、またもやイ○ミヤで偶然会った。彼は開口一番「あああ、drac-obさん、ごめん。前に聞いた携帯番号を忘れて電話出来んかった」と言った。一体何の話かと思って立ち止まると、「いや、毎年9月に元○○(以前勤めていた会社の名前)の連中が集まって、キャンプしてるのよ。drac-obさんは一回も来た事が無いから知らんと思うけど、毎年10人くらい集まって盛り上がるっちゃわ~。先週の土曜にもそのキャンプがあって、俺がdrac-obさんに会った話をしたら皆懐かしがって会いたいっていうてるのよ」。

 え、そんな集まりしてたのか。でもそのキャンプに参加したメンバーの名前を聞いたら、僕が鬼の係長時代にビシバシしごいた連中ばかりだったので、多分にリップサービスだろうと思った。勿論、同じ釜の飯を食った仲間なので、会ってみたいという気持ちはあったが、その時点ではまだそれほど気持ちは動いてなかった。それでも、もう一度お互いの携帯番号を確認しあい、毎年9月にやってるというからまた来年でも呼んでくれといって分かれようとしたら、「そうそう、俺はあんまり参加せんちゃけど、冬にもキャンプをするとよ。今年はH君が幹事をするから」と彼が付け加えた。H君といえば、丸い体形と人懐こい笑顔、いつも元気な挨拶をしていた姿が目に浮かんだ。それでも、そのときはまさか本当に声がかかるとは思わなかった。

 それから数日後、日曜日に例によって布団の中で寝坊していたら携帯が鳴った。見たことの無い番号だったので、不審に重い「ハイ?」と不機嫌そうな声で出た。耳元で「Hです、覚えてますか」と懐かしい声がした。昔、鹿児島は鹿屋という町で営業して夜遅くなると、当時は鹿児島市内へ行くカーフェリーが夜10時までで、それに乗り遅れると錦江湾ぞいに国道を走らねばならず、当時の鹿児島の営業所にたどり着くのは深夜零時を回るという地獄の黙示録的展開が待っているので、皆10時近くになると桜島のフェリー乗り場に猛スピードで走っていたあの時代。僕もある日、新人の営業マンと一緒にフェリー乗り場に向かって猛スピードで走っていたら、道のど真ん中にライトをつけたまま停車している車がある。こんな道の真ん中に迷惑な奴だ、と降りてどなりつけようとしたら、車は同じ会社の営業車。車の中には大の字になって寝ていたのがH君。などということがあった。とにかく天真爛漫な男で、すぐ眠くなる奴だった。眠くなったら寝るのはいいが、車を端に止めてからでないと事故るぞ、と注意したら、「この時間、ここを走るのはうちの会社の人だけですから」とごもっともなことを言われた。余談になるが、この出来事の数日後、H君がニコニコしながら僕のところに来て「係長、運転中にもう眠くならないですよ」と言いだした。

 どうしてだ、と尋ねると満面の笑みをたたえながら「運転中に何か食べてると、そっちに神経がいくから眠くならないんですよ。これからは現場で寝たりしませんから」と答えた。そうか、それは良かったと答えて数日後、営業車の中で熟睡しているH君を発見した。厭味たっぷりに「もう寝ないんじゃなかったか?」と聞くと、屈託の無い口調で「いや、失敗でした。お菓子を食べ過ぎて逆に眠くなりました」。この答えにはもはや叱ろうという気力もなくなった僕は、何事もほどほどにせんと失敗するぞ、とこれは人を注意するより自分に言い聞かせるように話した。

 そのH君から12月の最初の土曜日に伊佐市のキャンプ場で恒例のメンバーでキャンプする、ついては是非参加して欲しいといわれた。その気持ちが嬉しくて2つ返事でOKした。しかし、場所だとか費用だとかどんなものを用意すればいいかと尋ねると、携帯会社を逆に聞かれ、たまたま彼と同じ会社だと答えたら「じゃ、また詳しいことはメールします。とにかく参加ということでいいですね」といって電話を切られた。それから月日は過ぎて、あっという間にキャンプ前日になった。その日の夕方、N村から電話が入り用意するものは寝袋と毛布(物凄く寒いからゼッタイ持って来いといわれた)、飲み物や食べるものはH君夫婦が準備する、多分鍋だろうから、それらは翌日帰る前に全員で頭割りするから適当なお金を持ってくるようとアドバイスしてくれた。場所が良く分からんのだがと聞くと、じゃ俺の車で一緒に行きましょうとまで言ってくれた。

 最初に勤めた会社は教材の営業会社でかなりハードな会社だった。大学時代の甘ったれた考えを徹底的にしごかれて、僕にシホン主義の厳しさを徹底して注入してくれた。いや、これは皮肉でもなんでもなく、社会の何たるかを知らなかった僕に、挨拶の仕方から仕事とは何ぞやということを徹底して教えてくれた会社だった。この会社のことはいずれじっくり書こうと思っているが、とりあえず今日はキャンプの話。あ、ちょっと説明しておくと本社は茨城県で北は北海道から南は九州まで、九州には宮崎支社と鹿児島、熊本の営業所があった。僕はメインの仕事が九州3拠点のパート・アルバイト管理とクレーム処理だったので宮崎・鹿児島・熊本そして福岡の一部まで軽自動車に乗って走り回った。したがって伊佐郡菱刈町がどのあたりにあり、キャンプ場はどのあたりかというのは見当はついたが何しろまだ20~30代の元気の良かった頃の記憶と経験なので、正直な話、一人で往復運転するのはちょっとつらいなと思っていたのだ。

 心配性な配偶者は寝袋を2個と厚手の毛布、そしてボア付きのコートにマフラー、毛糸の帽子まで用意していてくれた。たかが1泊のキャンプに大袈裟だと思ったが、せっかく揃えてくれているのでありがたく頂戴した。しかし、配偶者が子供たちにどんなことを言ってたのかをキャンプが終わった後、下の子が教えてくれた。「うん、お母さんはわかっちょっと。どうせ馴れないキャンプなんかに行ってから、風邪を引いて日曜日は一日中寝てるはず。あんたたちも古本屋に連れて行ってもらうとかレンタル屋さんに連れて行って、もらえるやら、考えてるとあてが外れるよ。いつも、お父さんはそうだから。結婚したときも京都に連れて行くといって口ばっかり。もうわかっちょっと」

 ええ、ここまで書いてきて、配偶者にこの件を糾すことを忘れていました。僕も九州男児なのでオンナコドモの戯言は笑って聞き流す度量はある心算だが、いまさら消滅時効の話をされるのは不本意であるからに、ちょっとその件を片付けてから続きを書きます。今日はイントロダクションということで。

理解出来ねー

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地元で有名なラーメン、

ここまで書いて終わっている。多分ヨッパラッテ書いたのだろう。しかも肝心のラーメンは写っていない。地元の呑み助でラーメン好きの人ならご存知の駐車場の奥の、あのラーメン屋ですよ、壁にマッチが一杯張ってある、そうそう前は戦後焼け跡闇市派みたいな古い店で、最近やっと改装して少しはましになったあそこです。

危ないぜ、危ないぜ

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負けるもんか!!

これも愛??

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ジョンのゴッドを誰も聞かないなか歌う

あたしゃ切れました、プッツンします

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マラッカ歌います。

帰りたい、帰れない

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付き合いでこんなところにいる。帰りたいのに。

圧倒的な3時間 カルメン・マキ、板橋、太田ライブ

ついに貰ったマキさんのサイン

 12月1日は月初で仕事がたまっており、Y尾君から翌日のカルメン・マキのライブの電話を貰ったときもまだ事務所で仕事中だった。仕事が終わり次第電話するといって、かけなおしたのはもう21時近くだった。ぎょうざの丸岡宮崎店で行われるマキさんのライブは19時開場、19時半開演で全席自由なので出来るだけ早く行って、前の席を取りたいと思うのは、これは人情であって気持ち的にはもう18時くらいから会場前で席取りをしたいのだが、悲しいかな零細企業の中間管理職、ライブのある日の夕方にお客とのアポイントが入っており、それが何時終わるか分からない。他力本願は主義ではないのだが、ここはY尾君に早めに行って場所を確保しておいてくれと頼んだ。

 当日、お客のアポイントは変更になったが、実はその翌日も義父の7回忌のため休みを取っていたため、引継ぎ業務が重なりやってもやっても仕事がさばけない。時計は夕方5時半を回っている。しかし、ここからが僕の本領発揮で残っている仕事の中でプライオリティ(気取ってんじゃねえよ、優先事項といえばいいんだ!!って、オッサン何怒ってるんだよ)を見極め、PCの画面に集中すること30分。見事全ての課題をクリアして駆け足で会社を後にした。僕だってその気になれば仕事は早いのである。『成せばなる、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』という教訓は本当だ。もっともこれを毎日持続出来ていれば今頃は、などと愚痴を言っても始まらない。家に着いたのは18時10分くらい。服を着替えて配偶者に電話したが、今日は僕を送る時間が無いという。しょうがないのでタクシーで行くことにした。いや、ライブの会場がO島通線という商業道路というかバイパス沿いにあり、街の中心部だったらバスという手もあるが、今からバスに乗っていては間に合わない。

 家を出て、タクシーが良く通るメインの道路に向かおうとしたが、丁度その反対方向に1台のタクシーが通った。急いで追いかけたが当然追いつかず、交通量は多いもののあまりタクシーが通らない道に出てしまった。橋のたもとの大きな交差点で、タクシーを待つが一向に来ない。Y尾君に電話するが彼も出ない。気持ちはあせるが、どうしようもない。僕は決心した。目の前の大きな橋を渡ると、もう一つ大きな交差点がある。そこまで行けばタクシーは捕まるはずだ。走った。走った。久しぶりに全力で走った。もう12月だというのに汗びっしょりになり橋を渡り、次の交差点にやってきた。しかし、タクシーは来ない。雪は降る、あなたは来ないと思わずアダモの古い歌を口ずさんだ(ウソです。そんな余裕は無く目を血走らせて行きかう車を睨んでいました)。ようやく1台のタクシーが停まり、そのときの気持ちを「間に合うかもしれない」というタイトルでアップした。

 ぎょうざの丸岡宮崎店に着いたのは丁度19時。普段はぎょうざの看板が出ているところが、今日はLIVE IN MUZAというカッコイイ電飾看板になっていた。ブログ用に写真を撮ったのだが、整理するときに間違えて削除してしまった。入り口のところでY尾君に会ったが、開演は20時からになったというメールがMUZA(ライブの主催者)から来たという。また会場の入り口にもそのようなことが紙に書いてあった。今から1時間待ちかと、これは決して不満ではなく、その後のライブの楽しさを想像して待つ時間は全然長くない。まずは席の確保だ。受付でチケットを出すとドリンクが1杯付いてくるといわれた。会場に入るとステージは無く、お店の一番奥のところにアップライトのピアノとマイクスタンド、JBLの大きなスピーカーが見えた。ステージ(客席と同じ高さだけど)から見て右側の一番前のテーブルが5人がけで1人しか座ってなかったので、その席を確保した。お店の人が注文を聞きに来たのでビールを頼んだら「ぎょうざもありますけど、10個で500円です」と、嬉しい言葉。しかしライブ見る前にギョーザをバクバク食っていいのだろうか。いいに決まってる、と勝手に結論付けてそれぞれ1皿ずつ注文した。

 ギョーザをパクつきながら缶ビールを飲んでようやく人心地がついた。あたりを見渡す余裕も出来た。ざっと30人くらいは入っているだろうか。まだまだ車も入ってくるからもう少しは増えそうだ。しかし客層は上品で年齢層もやや高い。もっとも去年のライブを見たときのほうが、年齢層は高買ったような気がする。今回は小学生くらいの子供さんを連れた人もいて、40,50代が中心という感じ。普段良くライブを見に行くジャズ喫茶に出入りする客層とはずいぶん違う感じがする。お客観察にも飽きたので物販コーナーをのぞくと、今年発売になったマキさんの詩の朗読のCDがあった。早速購入、売り子さんの「サインしてもらえますよ」の一言が期待させる。マキさんのCDは去年買った2007年ライブとこの詩のCDしかなくて、後は板橋さんのものばかりだった。いったん席に戻り、ビールのお代わりをしてY尾君にもCD買うように勧めた。彼に買わせておけば、後日コピーさせてもらえるという計算だ。

 板橋さんのオーケストラのCDを「これはいいぞ」と勧めたが(だったら自分で買えよな、オッサン)、Y尾君はイマイチの反応だった。他にめぼしいものは無いかなと物色していたら、KOUSUKE MINEという文字が目に入った。ん、峰厚介?と思わず手に取った。僕の顔が不審そうな感じだったせいか、受付の人がピアノで板橋さんが参加しているアルバムだと説明してくれた。Y尾君もネイティブ・サン時代からの峰ファンだったらしく「あ、これがいい」と買い信号が走った。「でも、板橋さんのサインもらえるかな」と僕がナニゲニつぶやいたら、受付の人が「そりゃくれますよ」という一言がプッシュしてY尾君も購入。お買い物も無事終わりまた席に戻った。そうそう、先日パリャーソのライブで楽しませて頂いたH高社長も来られていた。もちろん挨拶する。挨拶は人間関係の基本だ。

 20時近くなり、会場のテーブルは人で埋まった。ざっと5,60人くらいの入りだろうか。なんだか後ろがざわついたので振り返ると、ウルトラQに出てきたガラモンのようなものが歩いてきた。良く見たら板橋さんの頭だった(おいっ、あんまり失礼だろっ!スイマセン、キャインキャインと久しぶりに殿山節が出てしまった)。太田さんの姿も見える。いよいよ始まるな。まずはピアノのところに板橋さんが右側の高いマイクスタンドの位置に太田さんが立った。板橋さんのMCでまずは二人だけの演奏。即興でタイトルは「宮崎の一夜」。力強いがメロディアスな板橋さんのピアノに太田さんの突き刺すようなバイオリンが絡む。ピアノとバイオリンという組み合わせは世界のジャズ界にもあるのだろうか。不勉強な僕は知らないが、独自の音世界を展開してくれた。二人の演奏が終わり、我らが歌姫、カルメン・マキの登場である。

 「熊本から始まって、福岡と大分の境で山の中の廃校だった宝珠山小劇場、そして昨日は大分で今日は宮崎、明日都城でやって今年のツアーは終わり。東京に戻ってあとちょっとライブをやるけど、今年最後のライブみたいなものね」。最初の挨拶のときにこんな話をしてくれた。気のせいか、いつものイメージよりやや能弁な感じがする。いや、良く考えてみると普段のマキさんがどんな感じなのか当然僕は知らないのだが、しょっちゅうブログを拝見してるので勝手にイメージを作り上げていることに気がついて、苦笑した。曲の紹介が始まった。「港町三部作で、まずは『アフリカの月』」。ゲーッ、一番お気に入りの曲が1曲目だよ。去年のライブのときも始まって2曲目で登場して欣喜雀躍したナンバーだ。名曲に名演奏に熱唱、言うことなしだが、僕は食べ物でもそうなのだが、好きなものは取っておく、一番後に食べるほうなのだ。だからいきなり大好きな曲が始まるともうどうしていいか分からなくなる。気がついたら小さな声で一緒に歌っていた。

 1曲目が終わり、「人魚」「かもめ」と続く。気のせいかもしれないが、マキさんの声がやや弱いような感じ。いや、マキさんのボーカル以上にピアノの音が強くて、声がかき消されるようなところが少しある。PAのバランスが悪いのだろうか。それとも九州とはいえ熊本、福岡、大分と寒いところをツアーしたので風邪でもひいたのではと心配したが、余計なお世話でした。エンジンが温まると一気にターボに火が着いたようなパワー全開のボーカルがこのあとみっちり聞けるのだ。この演奏のときだったか、最初から気になっていたマイクスタンドに太田さんの弓が当たった。マイクスタンドが前から来ているので、弓に当たるんじゃないかと気になっていたが、ついに当たってしまった。しかし、流石は天下の太田恵資、今度はわざとマイクに弓を当ててパーカッション代わりにしてしまった。この前からのマイク、どうにも邪魔だったが2部で太田さんがホーミーを聞かせてくれたときにその威力を発揮。いやー、クリアにはっきり音を拾ってくれて、ホーミー独特の音の震えがビンビンに伝わってきた。

 カルメン・マキのパブリックイメージは、やはり「時には母のない子のように」なんだろうか。「私は風」という人も多いだろうが、「時には~」のフレーズは身に沁みる。去年のライブで見たときは、イントロのバイオリンがかもめの鳴き声を表している感じだったが、今年の「時には~」は2008年宮崎バージョンというアナウンスで始まった。途中で「サマータイム」に変わるところを去年初めて聞いたときはジャニス・ジョップリンが降臨してきたかと思うくらい、正直からだが震える思いだった。今回の演奏はそのときに比べるとやや抑え気味かな。まあ、何でも絶叫すれば言いというものでもないが。わりとさらりとやったなという印象が残った。だから多分このときまで僕はマキさんの体調が十分ではないのではと心配していたのだ。しかし、1部ラストの「アジットさん」で、そんな心配は一気に消えた。

 独特のリズムとメロディ、中近東サウンドというか変拍子のリズムをマキさんがクラップハンドで取る。お客さんもオズオズとその手拍子に合わせる。マキさん、スイマセン。宮崎の人はシャイなんです。これは今年見たチャーもそう発言していたから間違いありません。もっとも会場に来ていたお客さんの名誉のために書いておくと、拍手や手拍子はマキさんにリードされて後からついていくという感じだったが、1曲終わるごとの拍手は温かく会場全体を覆ったように思う。このあたりは演奏している人たちはどのように感じられるのだろうか。やはり野太い声で掛け声が飛んだり、効果的な拍手のほうが気持ちがもりあがるのだろうか。おっと「アジットさん」だが、去年初めて見たときはピアノの板橋さんがデンデン太鼓を片手で叩きながら、もう片方で鍵盤を叩き、そこに太田さんのピッキングバイオリンが絡み、延々と、多分10分以上やったと思う。今回はピアノとユニゾンでマキさんのスキャットが入り、おかげでこの曲のメロディの輪郭がすっきりして非常に聞きやすかった。演奏時間は逆に物足りないくらい。以前のマキさんの日記で「アジットさん」にスキャットで絡みたいけど、ちょっと怖いみたいなことが書いてあり、ある時挑戦してみたら上手くいったとも書いてあったが、いや、今回のライブの一つの山場でした。

 1部が終わったのは21時を回った頃だった。会場にざわめきが戻り、みんな口々に今見たライブの素晴らしさを話し合ってるようだった。そうそう、1部が終わる前に、太田さんがハンドマイクを使って「お客様が帰ったりせずにこのまま残ってくれることを期待します」みたいなことを言って笑いを取っていた。このハンドマイクはイコライザー代わりに使っているのか、なかなか効果的な「楽器」である。太田さんの演奏について少し触れておくと、生バイオリンとエレキバイオリンを曲ごとに効果的に使い、しかも普通に弓で弾くのは勿論、弦をベースやギターのようにピッキングしたり、ウクレレのようにコードを弾いたり、バイオリン兼ベース兼リードウクレレとでもいうか、本当に多種多様な使い方をしていた。ああ、説明がめんどくさい。これ読んでくれてる人は年内は無理だけど、来年必ずマキ、板橋&太田組のライブを見ること。百聞は一見にしかずと昔からいうではないか。

 などと、言ってるうちに2部が始まった。この2部は前半重い曲が多くて、ちょっとうつむき加減になってしまった。しかし、そこでもマキさんのジョークで会場は笑いの渦。「私、友達が少ないんです」、普通ミュージシャンがいきなりこんなこと言いますか?会場全体から失笑というか、なんというか、あまり大声で笑っちゃマズイけど、なんとなく分かるよな、という空気が流れる。このあとのマキさんのセリフがふるってる。「怖がられるのかな」。今度は皆さん爆笑でした。うん、マキさん、ちょっと怖いイメージありますよね。もっとも浅川のオネーサンのほうがもっと怖そうですが。

 この2部で一番強烈に残っているのは「ソウル」という曲。韓国の首都ではなく「魂」のほうのソウルだ。ドラマチックで力強い歌だったが、そのまま「虹の彼方へ」と続いていくところは圧倒的でした。「虹~」のイントロが流れてきたら、僕の頭のなかには「テッペン」の詩が流れ出した。去年のライブで買ったCDで何度もなんども聞いたフレーズだ。この「虹の彼方へ」、延々と続きこのまま終わらないのじゃないかと思えるくらいの熱い演奏でした。んんん、だからこれ読んだ人はちゃんとライブ見に行って体験してね。書いていて、いや入力していてもどかしいのだ。ライブ行けなければせめてライブのCD買って聴いてください。

 愛らしいメロディが流れてきた。もうラストナンバーの「バーフライ」だ。いかにもライブのラストにふさわしい、さっきまでの興奮を少しクールダウンするようなテンポの曲。太田さんのマイクパフォーマンスが、いつ入るか期待したが今回は無し。マキさんがステージから下がって、最初と同じように板橋、太田の二人で演奏が続く。曲は、とても綺麗な旋律を持つ「フォー・ユー」。たった今見てきたさまざまなシーンや音、MC、そしてマキさんの一人芝居のようなパフォーマンスが浮かんでは消えていく。ピアノとバイオリンの音が消えてから、はっと我にかえり、今度はアンコールを求めて手を叩いた。会場全体が一体になってアンコールを求めていた。多分、今日カルメン・マキを見に来た人たちは、今までそれほどマキさんの音楽を聴いたことがないのかもしれない。ただ今日見たこの音世界をもう少し聞いていたい、あと少しだけ楽しい時間を下さい、とでもいいたげな拍手が続いた。

 メンバーが戻って来てくれた。アンコールのお礼のMCがあり、マキさんが何か話したが僕は覚えていない。覚えているのは曲名を「にぎわい」と聞いたその瞬間だ。本能的に手を叩き、その瞬間マキさんと視線があって、一瞬微笑んでもらったような気がした。先ほど「怖い」と書いてしまった浅川マキさんの歌で、僕はこの浅川マキの歌をカルメン・マキが歌うのが大好きなのだ。そういえば今日のライブのオープニングは「港町三部作」だったっけ。そしてエンディングも港の歌。一貫しているな、などとぼんやり考えていた。この楽しいライブが終わることが勿体なくてたまらなかった。嬉しい誤算があった。「にぎわい」を歌い終えたマキさんがピアノ越しに板橋さんに話しかけている。板橋さんが頷いたあと、今度は太田さんにひそひそ話しをしている。太田さんも頷いた。アンコールをもう1曲やってくれた。「戦争は知らない」。反戦歌だな。懐かしい単語が思わず口をついて出た。

 本当に最後の曲が終わり、会場のお客さんが帰り始めた。僕はCDにサインしてもらおうと思って待っていた。ちょっとトイレに行って戻ってきたら、Y尾君の姿もないし、テーブルはどんどん片付けられている。このままではイカン。僕はCDを売っていたスタッフに「サイン貰いたいんだけど」と話した。「お名前は?」と聞かれたので「ハンドルネームはdrac-ob」と答えたら、横にいた人から「ブラック・メイビー?」と聞かれた、というのはウソですが、メモに「drac-ob」と書いて渡したらちゃんとマキさんのCDを貰って来てくれた。Y尾君も電話で呼び、無事板橋さんのサインを貰った。

 ええと、本当は日曜日にいろいろなことを思い出しながら書こうと考えていましたが、マキさんから頂いたコメントに感激して一気に書いてしまいました。そのため若干の記憶違いや勘違いがあるかもしれませんが、要するに100回CD聞くより1回ライブ見たほうが、いやCDも大事なんだけど、ええい、面倒だ。まずはライブ行って、良かったらCD買って聴くのだ。つまらなかったら買わなければいいのだ。でもライブに行くと必ず何か発見があります。これだけは間違いありません。

インターバル

20081202212434
一部が終了。やはりライブはいい。最後のアジットさんのスキャットは痺れた。

たどりついたらいつも…

20081202190845
19時開場の20時開演になっていた。ビールと特製餃子で一息つく。この時間がたまりません。

間に合うかもしれない

ただいまタクシー乗車中。カルメンマキのライブに行くのだ。家族に顰蹙を買おうが、会社の連中に怨まれようが構うもんか。後少しで着く。間に合うかもしれない…。

プロフィール

Author:drac ob
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