パリャーソwithフレンズ あるいはワインで一杯の樽

さがゆきさんのサイン

 楽しい時間というのは何故こんなに早く過ぎるのだろう。何度も腕時計を外して胸ポケットに入れたものの、あとどれだけ楽しめるかとまた引っ張り出して、ああ、このままだと後○曲くらいかと心配して、そんなこと心配するくらいなら目の前のライブを楽しめという声が頭の隅から聞こえる。そうそう、丁度楽しい小説を後、残り何ページと思いながら読んでいる感じに似ている。

 えー、一体なんの話かというと先日見たパリャーソwithフレンズのライブの話である。去年もH高時計本店の2階のロビーで行われたライブだが、今年もボジョレヌーボーの解禁パーティと一緒に行われた。去年と違っていたのは、ライブとパーティの順番、今年はライブの後がパーティであった。その関係かライブのスタートは夕方5時からというトワイライトタイム、平日では流石に行きにくい時間だが、丁度、振り替え休日だったので開演17時もなんのその。我が家から自転車に乗って(by 高田渡)、会場のH高時計本店に向かった。去年の経験からお客さんは多いだろうと予想していたので、前日にY尾君と16時半には会場前に行こうと決めていたのだ。時間通りに会場に着き、Y尾君と合流して前から2列目の席を確保した。開演まで時間があったので、少しあたりを散歩して15分前に席に戻ろうとしたら通路でバッタリM原さんに会った。

 いつもチケットの手配やイベントの告知をしてくれる高校の先輩なので、きちんと挨拶をしたら上のパーティ会場でワインをやらんかと誘って頂いた。先ほど二人して「まだアルコールを入れるには早い時間だな」「この時間から酒臭かったら完全に二日酔いのオヤジだぞ」などと話していたくせに、誘われると二つ返事で階段を上がっていた(Y尾君はスキップを踏んでいたような気がする)。屋上のパーティ会場は人工芝が丁寧に張られていて、あちこちにワインテーブルやバーベキューのコンロなどが置かれてあり、奥のちょっとステージっぽい辺りにはテーブルが用意されて、既に何人かはワインを頂いていた。その中に今回の主催者H高社長がいらっしゃったので勿論こちらにもご挨拶をした。人間こういう場所での挨拶が大事なのだ。先輩を先輩とも思わない後輩諸君に良く読んでおいて欲しいものだ(などと先輩風を吹かすとろくなことは無い)。

 H高社長と立ち話をしていてナニゲニ実はこの前ライフタイムでさがゆきさんがやったライブが良くて、そのときのメンバーのCDを買ったと話したら、「おうそうか、じゃサイン貰いに行け」と言ってくれた。いや、ライブの前だからと遠慮したら、大丈夫といってどんどん先に行く。何と奥のテーブルで談笑しているのは本日出演のミュージシャンたちだったのだ。H高社長がさがゆきさんに「この前のライブ見に来たって」と紹介してくれた。ゆきさんはすごく喜んでくれて握手をしてくれた。挨拶して「前回のライブではCD買えなかったので今日買いました、サインしてもらえますか」とお願いしたら「勿論」と快くOKしてくれた。もっともサインペンがなくて、周りのスタッフに尋ねたが,誰も持ってない。僕は自分の持っていたボールペンで書いてもらおうと思ったら、谷川賢作さんがわざわざバッグから取り出して貸してくれた。いい人だなと思った(おいおい去年の印象と違ってるぞ、といわれるかもしれないが男子三日会わざれば、というやつである。論語で言えば「君子はジャガーチェンジする」である)。

 サインが終わって帰ろうとしたが、大事なことを聞き忘れていたと思い、もう一度振り返ってゆきさんに質問した。「先月、カルメン・マキさんの日記にさがゆきさんのライブを見に行く話があったんですが、突発性難聴でライブが中止になったと書いてありました。その後いかがでしたか」「え、マキちゃん、そんなことまで書いていてくれたの?いや、もう全然大丈夫。お医者さんから20代の聴力だって太鼓判もらったから、もう大丈夫」。良かった、これで心置きなくアンコールの拍手が出来ます、みたいなことを言って下の会場に戻った。握手してもらったさがゆきさんの手は暖かかった。

 会場に戻るともう席はほとんど一杯でテレビカメラも来ている。年齢層は幅広い。下は小学生から上は多分60代の方まで、老若男女を問わずさまざまな客層である。MCが入り、まずはさがゆきさんと谷川賢作さんのデュオでブルースが始まった。ゆったりとした心地よい音である。1曲目が終わり、残りのメンバー、ハープの続木さん、この人は人見知りする泉谷しげるという感じ。パーカッションは山村誠一さん、去年のこのライブには参加してないため初見である。外見がアマチュアでドラムをやる知人(オヤジバンドでフリーの「ウィッシング・ウェル」なんかやってる)にそっくりで他人のような気がしなかった。そうそう、始めにMCでも言ってたのだが、今日はこの後パーティがあるので、途中の休憩はなく1時間40分くらいノンストップでやるとのことだった。どすこい、である。

 それからどんな曲を演奏したか。いや、実はこの後のパーティで飲みすぎて記憶が飛んでいるのだ。セットリストを思い出そうとするのだが、断片的にしか出てこない。とにかく覚えてる内容を書いていくと、とっても印象的だったのが「鉄腕アトム」。いやー、こんなに綺麗なバラードだったんだ。というか、アレンジがとってもいい。原曲の持つ美しさを十二分に、いやそれ以上に引き出している。勿論谷川さんのピアノとさがゆきさんのボーカルの魔力でもある。思わず笑ってしまったのはイントロのフレーズがアニメのイントロと同じだったこと。でも、歌詞をじっくり味わいながら聴いていると、「未来」「希望」「夢」「心」といった人類に対する愛情あふれる歌なんだけど、今僕達が住む21世紀は、と思わず暗くなってしまった。

 暗くなったといえば、ステージの後半だったかさがゆきさんが「それでは反戦歌を2曲続けて歌います。古い反戦歌と新しい反戦歌です」というMCを聴いたとき。え、反戦歌?今時(失礼だな)。実は前日Gyaoでスタン・ハンセンとジャンボ鶴田のタッグマッチを見ていたので最初は反戦歌=ハンセンか?と聞いてしまい戸惑った。すぐに「反戦歌」と分かったが、今、この時代にどうどうと反戦歌と言える人はどれくらいいるのだろうか。反戦歌といえば谷川賢作の父君である谷川俊太郎さんの登場である。当然、演奏した曲は「おしっこ」と「死んだ男の残したものは」の2曲。「死んだ男~」は、もう大スタンダードなので当然知っているが「おしっこ」は知らなかった。詩の中に大統領をはじめいろんな人間が出てくるのだが一番おりこうさんなのは野良犬という落ちである。いや、落ちなどといったらいかんのか。

 そうそう、「死んだ男~」で思い出した。武満徹の「翼」も歌ってくれた。これは石川セリが武満作品のみのアルバムを出していて、その中でも歌っていたはずだ。どうどうとした明るい歌でずいぶん気に入った。去年もこのパリャーソウィズフレンズは見たのだが、あまりレパートリーを覚えていない。「サマータイム」と「コーヒールンバ」くらいだったか。そうそう、去年はパーティの後だったので時間が短かったような記憶がある。あとは買ったばかりのピアノに谷川さんがサインしたのを覚えているくらいだ。その去年と比べても天と地くらいの開きのあるライブだった。

 その違いは各メンバーのソロにあったと思う。ハープの続木さんが歌ったのは驚きだった。しかも照れくさそうに。歌っていたかと思うとハープを吹いて、曲が終わった後にメンバーから「ハープに逃げるな」とからかわれていた。おっと山村さんの「教育講座」も忘れていはいけない。他の3人はいったんステージから下がり、山村さんが一人でトークアンドプレイ。スティール・パンの構造と音階の説明を面白おかしくやってくれた。NHKの番組のテーマ曲などを作ってるので知ってる人は手拍子を早く叩いてなどと客の乗せ方も上手いし、第一シャベリが面白い。根っから関西の血が流れていると見た。しかし、今年は尖ったドラム、パーカッションをずいぶん見たが笑えるパーカッションは初めてである。いや、これ決してけなしてるのではなく僕の最上級の褒め言葉です。

 さがゆきさんは中村八大の最後の弟子というのがキャッチフレーズというか、うたい文句なのだがその中村八大メドレーは良かった。「遠くへいきたい」は良くあちこちで耳にするイメージとちょっと違い、本当に旅の情景が目に浮かんできた。個人的には今年の9月に家族で行った長崎の情景がフラッシュ・バックのように浮かんでは消えていった。総じて感じたことだが、僕のような理屈っぽい男がこれほど楽しめたライブはなかった。このライブで教わったことは音楽は楽しいということだ。音を楽しむと書いて音楽なのだ。当たり前ではないかと怒られそうだが、ずいぶん長いことこのことを忘れていたような気がする。一体いつから忘れていたのかと聞かれると75年の春にサークルに入ってからと正直に答えるしかない。

 「山寺の和尚さん」で幕を閉じた。曲名は谷川さんがアナウンスしたのだが、イントロのピアノは、あれ?チック・コリア?曲の間奏でさがゆきさんのスキャットは「スペイン」。いやいや参りました。結局アンコールを1曲やってライブはおしまい。その後は屋上でパーティに。そこでのことはあまりに悲しいことが多いので書かない。あれだけ大勢の女性がいながら、僕は会話の9割はY尾君とするしかなかった。ああ無情である。

 おっと、落ち込んではいられない。来週はいよいよカルメン・マキさんのライブだ。赤霧島を用意して戦闘開始である。

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敗北宣言

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友部正人も言っている。何もなかったことにしましょう、と。

野獣宣言

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パリャーソの楽しいライブが終わり、ボジョレーのパーティーの始まり。ワインは樽ごと。宮崎牛のバーベキューも魅力だが、綺麗なオネーサンがまあワンサカ。ケモノになるかも…。

パーティーはこれからだ

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今日は、さがゆきさんのライブ。しかもボジョレーの解禁パーティー付き。

ある雨の日曜日の情景 ちょっと私小説っぽく

 今日は日曜と祭日の勤労感謝の日が重なっていたが、浮世の義理というか、仕事関係の付き合いで午後からセミナーを受講しに市のホールに行ってきた。あいにくの小雨模様だったが、我が家からホールまでは歩いて10分程度なので、散歩がてらぶらぶら歩いた。市役所に向かう大きな橋を渡りながら、遠くで何か物音が聞こえたような気がしたが、さして気にせずホールへと向かった。80人くらいは入りそうな会議室に集まっていたのは20人くらいの中高年の人達。せっかくの休日に、しかもゴルフ・ファンならば石川遼の逆転優勝のかかったダンロップ・トーナメントの結果が気になりそうな時間帯にセミナーに参加だから、ご苦労なことである。僕もさして真剣ではなかったが、せっかくの機会なのでそれなりに講師の話に耳を傾けていた。そのときである。カーテン越しの窓の外から、何やら怒声らしきものが聞こえてきて、それがえんえんとこだまする。というか、エコーがかかったように反復されるのだ。最初は無視していたが、何度も聞こえてきて、しかも何を言ってるのか聞き取れないのが余計に気になって、必死に耳を傾けたが一体何を喚いているのかとうとう分からなかった。

 おかげでセミナーの最後の10分くらいは、どんな話を講師がしたのか良く分からないままホールを出る羽目になった。ホールを出た途端、騒音の正体が分かった。右翼の街宣車が4、5台道路に停まっており、その拡声器から何やら叫び声が続いていたのだ。スピーカーの能力の限度を超えた音を出していたせいか、一体何を訴えているのかさっぱりわからない。ただ何かに対してひたすら怒っているとしか感じられない。信号待ちの1,2分の間、注視していたが、車は道路に停まったままだ。スピーカー越しの叫び声は続いていたが、誰も車からは降りて来ず、ただ道端に停まっているだけだった。鬱陶しいなと、小声でつぶやき僕は来た方向とは反対に橋を渡り始めた。その橋を渡る途中、大きな声が聞こえた。今度ははっきり聞こえた。彼らはこう叫んでいた。「キョー、サン、トー」「フンサイ」「キョー、サン、トー」「フンサイ」…。

 シュプレヒコールだったのか。やっと会議室で聞いていた音の意味が分かった。しかし、なんであんなに変な音節で区切ってコールするのだろうか。あれでは、何と言ってるのか普通の人には聞き取れないだろうに。それとも、他人に聞かせるためではなく、自分達の意思の再確認として点呼しているのだろうか。だったらどっか人のいないところでやってくれ、などと考えていたら、物凄い音量で軍歌を流しながら装甲車っぽい車が橋を渡ってきた。車体に書いてある文字と車のナンバープレートで福岡からやってきた一団だと分かった。ワゴンの横のドアが開けてあって、そこに腕組みした男が仁王立ちしていた。何を彼は憂いているのだろう。歩いているうちに雨がだんだんひどくなってきた。しかし、なんで今日は右翼の街宣車があちこちに出ているのだろう。家に帰って気が付いた。新嘗祭だった。僕は昔、学生時代に読んだ新嘗祭と天皇家の話を思い出しながら一体何時の間にこんな時代になったのか考えていた。何となく気分が晴れないのは、昨日のインフルエンザの予防接種のせいだろうか。そうだったらいいのだが…。(などと柄にもなくブンガクを気取って書いてみました。いやー、らしくないな)。

追伸 しまった!!

食べ終えてレジでお金を払っているときに、コーヒーサーバーに気がついた。

セルフサービスでタダだった。不覚!

どやっ、これで780円

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遅い昼ご飯を食べにO阪屋(匿名になってないな)というお好み屋に飛び込んだ。

ヤキソバ、天ぷら、茶碗蒸し、味噌汁、漬物、サラダ、それにおにぎり二個。これで780円。

今日は、何だか行けそうな気がする~。

DRAC交流史 K平さんのこと

 このところ毎日良く寝る。というか、すぐに寝てしまう。昨日も家に帰り、晩御飯をすませレココレの増刊「ビートルズ名曲ベスト100」などを読んでいるうちに瞼が重くなり、ふと自分の部屋を見ると、天日干しした布団が目に入った。崩れるように布団の中に入り、まどろんでいたら配偶者の声で目が覚めた。「布団が臭くなるから出て!」。失敬な言葉である。たまたま被っていた布団が敵の布団だったので、いわれの無い罵詈雑言を受けたが、気を取り直して自分の布団を出して寝た。時計を見たら10時半であった。それからまたうとうとして、身体が痛いのに気がついて目が覚めた。良く見ると掛け布団は被っているものの、敷布団を敷いていないことが分かった。時計を見たら1時半であった。起きてブログの更新をしようかと一瞬思ったが、ヒア・カム・ザ・スイマーズ、という言葉が頭に浮かんで、朦朧としながらも敷布団を敷いて寝た。目が覚めたら朝の9時半だった。12時間寝ていたことになる。

 もともと季節の変わり目になると眠くなる体質というか、僕の人生の座右の銘は「世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿が起きて働く」であるからして、できることなら終日寝ていたいのだが、それでは社会生活が営めないので、それこそ「浮世の義理」で起きて会社で働いているのだ。しかし、ここ最近の眠気は異常なくらい凄まじい。仕事を終えて家に帰り、はっと気がついたら寝ているのだ。いや、これはおかしいな。気がついたら寝ているというのは変だ。はっと気がついたら眠りから覚めるというのが正しいのだ。つまり、油断するとすぐ寝てしまう、ということだ。以前、僕の学生時代の話で良く登場していたF田敏雄君も良く寝る男で、ついたあだ名がネブタ敏雄だった。これは良く寝るブタという意味から来ている。などと無理やり学生時代の話に持ってきたが、実はこの1週間の中で大学時代の先輩と後輩からメールが届き、ちょっと懐かしい気持ちになってその話を書こうと思う。

 順番的には後輩のメールが先に届いたのだが、「長幼の序」を大事にする僕としては先輩を立てて、まずは先輩のメールの話を書いてみたい。先週の水曜日だったか、ブログのメールフォームから新しいメールが届いていた。件名を見たら「ごぶさたです。K平」と書いてあった。K平?え、まさか1年先輩のK平さん?と思って開いてみるとビンゴでした。僕の同級だったN谷君の年賀状でこのブログの存在を知り、今年の正月から毎日見てくれているとあった。文面を読むと学生時代と全く変わらない息吹が感じられた。何しろメールの手土産にF田敏雄君の消息を調べてくれたようで、その日も堺市に一字違いの人を電話帳で見つけてわざわざ電話して確認したそうだ。ありがたい話である。しかし、電話を受けた人はビックリしただろう。多分K平さんだったら、こういう導入だと思う。

 「もしもし、F田さんのお宅でしょうか。私、元D大学74年度生のK平と申します。失礼ですがそちらのトシオさんは、元D大学75年度生、文学部社会福祉学科出身でお兄さんは慶応大学医学部、実家は東北の山林王で1本30万の杉の木がごろごろしていて車は3台持っていて、普段は真っ赤なカローラ・レヴィンなんですが、何故か大学に来るときはいつもホンダのシビックで、下宿は北白川の伊藤荘で、研究会に安いウィスキーを持ち込んで普段あまりしゃべらないサークル員を饒舌にしたジャズ班のリーダーで、困った時の口癖は『それどころやなかったんや』で、77年にサークルの会長選挙に立候補して落選して、辛くも副会長になった方ではありませんか」

 こういうことを言われるとたとえ本人でも「違います」と言わざるを得ないだろうな。おっと今日はF田君の話ではなくてK平さんだった。この人は僕が75年に新入生としてサークルに入ったときは当然既にいた。ただ1回生の頃からのサークル員ではなかったので1年先輩と入っても比較的親しみやすかった。勿論その理由は同じ宮崎出身だというところも多分にあった。もっとも高校の途中で鹿児島に引越したため出身校は鹿児島の高校だった。初めてサークルでお会いしたときは誰かに似ているなと思ったが、それが誰だか思い出せなかった。ところが先ほどのF田君がK平さんのことを「ミュータントサブさん」と呼ぶので思い出した。石森章太郎のSFマンガの主人公に似ていたのだ。髪の毛が異常に長くて、当時は腰のところくらいまで伸ばしていたのではないか。良くジージャンを着て肩から小さいバッグを提げていることが多かった。

 ただこの人のロックやブルースに関する知識は相当なものがあった。本人曰く「カントリーは『ケンタッキーの青い月』以外に好きな曲は無い」などと言っていたので、いわゆる大衆音楽の知識は全てあったのではないかと思う。僕も1回生でいきがっていた頃で、他人の知らないロックバンドやミュージシャンのことや幻の名盤といわれるものをどれだけ知っているか自慢していた頃だが、K平さんにはとんとかなわなかった。想像だが毎月の収入(勿論仕送りが中心だと思うが)のほとんどをレコード購入に捧げていたのではなかったか。しかし、そのあふれるばかりの音楽知識も宮崎や鹿児島といったど田舎ではほとんど無駄な知識というか、話相手になる人がいなかったようだ。アル・クーパーの研究会の時だったか、K平さんが高校に『フィルモアの奇蹟』を持っていったらクラスの女の子に「これ誰?サイモン&ガーファンクル?」と聞かれて「アホ、白人が二人いたらみんなS&Gか」と激怒した話をしてくれたことがあった。研究会にいた皆は笑ったが、僕は笑いながらも宮崎や鹿児島だったらさもありなん、と思っていた。

 このK平さんは僕が1回生の頃は一乗寺に住んでいたので、たまに下宿に遊びに行ったり来たりしたことがあった。彼の下宿に入ってまず驚いたのは、確か4畳半の部屋だったと思うが、そこにスチールのラックが置いてありその棚にLPレコードがぎっしり詰まっていたことだ。大ヒットして誰でも持っていたようなレコードから、珍盤奇盤に至るまで、まあ無節操というと怒られそうだが、本当に呆れるくらいレコードがあった。そういえばこの人サークルのオリエンテーションのときに「金太の大冒険」のシングル持ってきてかけまくり、周囲の真面目なサークルからずいぶん顰蹙をかっていた。流石に、無言のクレームを感じたのか、今度はいきなりアレアだったかイタリアのプログレバンドの「インターナショナル」なんかかけたりするから困った。困った僕達はどうしたか。ただ笑っていたのである。困ったもんだ。

 そうそう、この人には僕はステレオのリアスピーカーを貸したことがあった。当時僕の持っていたステレオは4チャンネルステレオという時代の仇花的なステレオで、フロントスピーカのほかに2台、小さなリアスピーカーが付いていた。しかしたかが4畳半の下宿で4チャンネルなど意味が無い。それである時遊びに来たK平さんに貸したのだ。貸したのはいいけど、この人エレキにつないでむちゃくちゃしていたようです。ある時F田君が深刻そうな顔して僕に「お前、K平さんからスピーカー返したもらったほうがいいぞ。あの人アンプ代わりに使ってるから、スピーカーが壊れるぞ」という忠告をもらったことがあるのだ。一体何故F田君がそんなことを言い出したのか、それでその後どうしたのか覚えていない。

 ああ、もう眠くなってきてエントリーの続きが書けない。後輩のメールの話は次の機会ということで。そうそう、最後にK平さんの青春時代を象徴するエピソードを書いて終わることにする。最初に石森章太郎のマンガの主人公に似ていると書いたくらいだから、K平さんは女の子にモテタ。当時1回生トリオだった僕、F田君、S戸君は女っ気が全く無い生活をしていた。ある時S戸君がキャンパスを歩いていると反対側からK平さんが女の子と一緒に歩いてくる。ただ以前紹介してもらった彼女とどうも見た感じが違う。S戸君はK平さんに小声で尋ねた。「K平さん、前の彼女と違いますやん」「ああ、あの子ねぇ。彼女は○○○が嫌いだから分かれた」。この○○○にどのような単語が入るかは皆さんの想像力にお任せしたい。

 この話をS戸君は僕の下宿で一緒にお酒を飲んでいるときに話してくれた。彼はその後、力をこめてこういった。「なあdrac-ob、オレ絶対K平さんは間違えてると思う。恋愛というのは○○○の相性で決めたらあかんと思うねん」。僕は答えた「ほな、なんや」。「分からん、分からんけど違う思うねん」「そやな、そない言われるとオレもそう思えてきたわ。こら一回K平さんに意見せんといかんな」。修学院の暗い下宿で意気投合した二人は翌日K平さんに話しかけた。「K平さん、どないしたら彼女が出来るか教えてください」。理想と現実は違うということを知った19の夏の話である。いやぁ、感動的な話を書いてしまったな。

何か明るい話は無いのだろうか?

 今年に入って、いや正確にいうと先月あたりから毎日墓碑銘を見ているような気がする。大学の先輩であるブルース・ギタリストが亡くなったショックが癒えないうちに、闘病生活を送っていたニュース・キャスターや近々ライブをやる予定だった老舗ロックバンドのボーカリストが亡くなったり、そうそう強烈な個性を持った役者も死んでしまった。このところ朝の新聞やネットのニュースで見聞きするのは訃報ばかりだ。今更だけど「サヨナラだけが人生だ」。

 そんな気持ちのまま、今日何気なくYOU TUBEにつないだら、僕へのお勧め番組があり、ぼんやり眺めていたら“a rare look at Harry nilsson singing LIVE!”というフレーズが目に飛び込んできた。え、ニルソンってライブしないミュージシャンだったよな。彼のライブ演奏の映像はあまり見たことが無い。強いてあげれば高校の頃に読んだ音楽専科だったかミュージック・ライフだったかに出ていた録音シーンの写真くらいだ。その写真というのは、アルバム『シュミルソン2世』の中の曲で養老院のよぼよぼのお爺さんお婆さんをバックコーラスに使った「I’d rather be dead( than wet my bed)」という皮肉たっぷりな曲。ションベン垂れ流しながら生きてるくらいなら死んだほうがましさ、というフレーズをジジババコーラス隊に歌わせるのだから、何をかいわんや。

 早速映像を見たら、84年のビートルズフェアのものらしいが、こじんまりしたハコでビートの利いたバンドをバックに「You can do that」。声はぼろぼろで体形はもう完璧にオジサン体形(メタボなんてすかした言い方は止めよう)、洋梨型というやつですね。それでも熱狂的なファンがついてる。彼の名前を一躍有名にしたビートルズナンバーの後は「平和を我らに」、おーるうぃーあーせーいん、いずぎぶぴーすあちゃんす、のリフが延々くり返される。そして一度ステージを去るのだが、すぐにジョンの顔写真を手に持ちながらあらわれてホワイト・アルバムの曲「Why don’t we do it in the road」を歌い始める。なんだか良く分からない映像である。しかし、84年といえばジョンも既に亡くなっているし、ニルソンも音楽シーンから完璧に遠ざかっていた頃だ。もうちょっとありていに言うと、亡くなる10年前だ。10年後に亡くなる人間が4年前に亡くなった人間を偲んで演奏していたんだと思うと、少し重たくなったな。



 オマケ。探してみたら「I’d rather be dead( than wet my bed)」ありました。貼っておきます。

またまた脱線、日本語は正しく使いましょう

 昨日は祭日だったが、月末の仕事が残っていたので昼から会社に出た。普段は電話やメールやファックスでやりかけていた作業が中断され効率が上らないのだが、流石に昨日は静かな環境の下、一気に作業が進んだ。3時間半くらい仕事をして、家に帰ると下の子が待ち構えていた。実は前日に一緒にブック○ーケットに行く約束をしていたのだ。この手の話になると必ず参加する上の子は、珍しく行かないという。慣れない受験勉強のおかげで疲れ果てているとのことだった。

 ブック○ーケットに着いたら、子供は一目散にマンガのコーナーに走った。僕はまいどまいどの中古CDの棚を物色していのだが、アルファベットのCのコーナーで足が止まった。あまり熱心に見ていたわけではないのだが、1枚のCDの背表紙が目に飛び込んできたのだ。「The Carpentars Live At The Palladium」と書かれたそのケースを引っ張り出すと、色あせたジャケット表側にリチャードとカレンが白い歯を見せて笑っているイラスト(写真?)が写っていた。『カーペンターズのライブってあったんだ』と思わず独り言をつぶやきながら、裏ジャケットを見ると「ハッシュ」や「ジャンバラヤ」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などなど、有名どころのヒット曲が満載されている。さらに「スーパースター」、「雨の日と月曜日は」という個人的に大好きな曲も入っている。

 1枚500円のコーナーなので外れでもいいやと思い、買うことにした。その他にめぼしいものを探したが、結局そのコーナーではストーンズの『ヴードゥーラウンジ』とリッキー・リー・ジョーンズの『GHOSTYhead』を見つけて一緒に購入した(リッキーは失敗だったが)。車に戻り、実家に用事があったので早速カーペンターズのCDをセットして走った。聴いてみるとあまりに音がいいのと拍手がクリアなことから擬似ライブではないかと思った。前半の演奏もいいのだが特に良かったのは8番目のメドレー。なんと「遥かなる影」から始まり、「ふたりの誓い」「トップ・オブ・ザ・ワールド」「涙の乗車券」「オンリー・イエスタディ」「愛は夢の中へ」「ハーティング・イーチ・アザー」「スーパースター」「雨の日と月曜日は」そして最後は「愛にさよならを」までの一気呵成に聞かせる歌と演奏、いやー堪能しました。

 家に帰ってネットでこのアルバムを調べたら、76年にリリースされたロンドンでのライブのようだった。演奏にはストリングスが入っていたり結構大仰な音作りをしているのだが、間違いなくライブのようだ。なんとドラムはカレン本人が叩いている。ドラムを叩きながら歌い上げる、カレンのボーカルの上手さは天才的だ。などと真面目くさった音楽話は僕には似合わないので、今日アップしたかった話を書くのだが、実は「The Carpenters Live At The Palladium」でググって幾つかのサイトを調べたときに翻訳機能を使ってみたのだが、そこに出てきた訳がまあ笑えること笑えること。以下に、コピペします。あ、こういうのは著作権とやらに触れないのかな、ま、いいや。

ライブは、パラジウムで
ある& MのAMLS 68403 1976年12月9日(発売CD :ピクウィックPWKS 572 )
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Flat Baroque 1:33 (Richard Carpenter) フラットバロック 1:33 (リチャードカーペンター)
There's A Kind Of Hush (All Over The World) 2:16 (Les Reed & Geoff Stephens) あるのは一種の静かに(全世界に) 2:16 (レスリード&ジェフスティーブンス)
Jambalaya (On The Bayou) 2:51 (Hank Williams) ジャンバラヤ2:51 (ハンクウィリアムス )バイユー( )
Medley : 5:34メドレー: 5:34
Piano Picker (Randy Edelman) ピアノピッカー (ランディエデルマン)
Strike Up The Band (George & Ira Gershwin)バンド(ジョージ&アイラガーシュウィンをストライク)
S'Wonderful (George & Ira Gershwin) S'Wonderful (ジョージ&アイラガーシュウィン)
Fascinatin' Rhythm (George & Ira Gershwin) Fascinatin 'リズム(ジョージ&アイラガーシュウィン)
Warsaw Concerto 6:35 (R. Addinsell)午前6時35ワルシャワ協奏曲( rをアディンセル)
From This Moment On 2:11 (Cole Porter) 2時11分(コールポーター)がこの瞬間から
Medley: 15:44メドレー: 15:44
(They Long To Be) Close To You (Burt Baharach & Hal David) / (彼らが)閉じるをするには (バートBaharach &ハルデビッド)ロング/
For All We Know (Fred Karlin, Robb Wilson & Arthur James) / すべての私たち(フレッドカーリン、ロブウィルソン&アーサージェームズ) /知っているの
Top Of The World (Richard Carpenter & John Bettis) / 世界のトップ(リチャードカーペンター&ジョンベティス) /
Ticket To Ride (John Lennon & Paul McCartney) / チケットトゥライド (ジョンレノン&ポールマッカートニー) /
Only Yesterday (Richard Carpenter & John Bettis) / 昨日のみ (リチャードカーペンター&ジョンベティス) /
I Won't Last A Day Without You (Paul Williams & Roger Nicholls) / 私は続かない毎日〜ユー (ポールウィリアムズ&ロジャーニコルズ) /
Hurting Each Other (Peter Udell & Gary Geld) / ( ピーターUdell &ゲイリーゲルト)各その他傷つけず/
Superstar (Leon Russell & Bonnie Bramlett) / スーパースター (レオンラッセル&ボニーBramlett ) /
Rainy Days And Mondays (Paul Williams & Roger Nicholls) / 雨の日と月曜日 (ポールウィリアムズ&ロジャーニコルズ) /
Goodbye To Love (Richard Carpenter & John Bettis) さよなら愛 (リチャードカーペンター&ジョンベティス)
We've Only Just Begun 3:52 (Paul Williams & Roger Nicholls) 私たちは始まったばかりだ 3:52 (ポールウィリアムズ&ロジャーニコルズ)
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Recorded at The Palladium Theatre, London England, November 22 to 27, 1975.劇場は、パラジウム、ロンドンイングランド、 11月22日で27日、 1975年に録音。


 ここまでがアルバムの紹介。この後にライナーノーツっぽい話が入る。

ライナーノーツ
(Pickwick CD only - uncredited) (ピクウィックCDのみ-信用されていない)
素晴らしい音楽を聴くときになると、実は何ももっと面白いと爽快なライブコンサートもされています。これで、大工の楽しい解釈とこの興奮を体験することができますこの録音では、パラジウムでのライブ。

その健全なイメージで、この多才な兄と妹だけのお気に入りのセレクションを歌うはよく知られているヒット曲もリチャードカーペンターから3つのジョージとアイラガーシュインの曲-バンド、 S ' というストライクアップ含まれて罰金をピ アノメドレーに私たちを治療するワルシャワ協奏曲のFascinatin 'リズム、ワンダフルも劇的なパフォーマンスだった 。

もともとニューヘイブンから、 リチャード 1945年10月15日生まれ、 12歳でピアノを始めた、彼は後にイェール大学で学んだ。1963年にカリフォルニア州と大工の家族への移動は、 リチャードカル州立大学ロングビーチで、音楽の勉強を続けている。

妹カレン 1950年3月2日。カレンドラムの友人ウェスジェイコブズ低音演奏、ジャズトリオを結成し、興味のペアに加え 、 開発した生まれ、バンドは、ハリウッドボウルバトルで1位を入手して管理するタレントのバンドコンテスト。

その次のグループのスペクトラムは 、ロサンゼルス地域ではかなりよく知られるようになったと呼ばれた。この時点では、デュオだけで、ボーカルハーモニーの実験をしに行くことは、多重録音技術を用いて決定された。彼らは新しい音の実験、これらのテープの様々な企業の1年後のhustling & Mの机の上に着陸のデモテープを作ったレコードの所有者ハーブアルパートの二人の署名に速かったです。

1967. リチャードカーペンターと彼の妹カレンプロが1967年に歌い始めた。彼らの最初のディスクをリリースは、レノンとマッカートニー第1号に乗るチケットスマッシュヒットのカバーバージョンは 、このかれらのためにマイナーヒットした。

ソングライターのバートバカラックのコンサートが表示されていたが、この曲の大工のバージョンを聞いて、彼と一緒にニューヨーク、セントルイス、ハリウッドの他の番組に渡してくださいすることを決めた。彼らの次のリリース(彼らが)を終了するには、 ハルデヴィッド/バートバカラックで書かれた曲は60年代初め、ディオンヌワーウィック、ダスティスプリングフィールドのアルバムに記録したスマッシュヒットも永続的には、文字列のためのパターンを設定するロング70 。この歌はアメリカでは、番号の1つのスロットを4週間滞在したが、上昇したと英国内の数字は6位となった。世界的に3万台以上のディスクを販売。さらに10000000 - 1などのタイトルで結果を販売われわれは始まったばかりとしては 、 すべて私たちは、 雨の日と月曜日は、 スーパースター 、 昨日したらもっと氏ポストしてください。インターナショナルのシングルとアルバムを超過して販売することがわかった25000000 、世界中のコンサートで完売。大工 1973年のアルバムは、シングル1969から73まで 、すべての時間の最大の売りのアルバムのひとつです。
バカラック、デビッドとポールウィリアムズなどの作家からの優れた素材、カレンと一緒の楽しい声で、そのグループ。リチャードは主に、音楽の方向性の手配を担当していた圧倒的アピールしていた。同グループは音楽の才能も、グループとその支援のための素晴らしいプロの選択のための業界では他のアーティストから尊敬された。そのアルバムは1981年にアメリカで行ったそれ以降の70で、デュオは、比較的低姿勢を続けたが前面に再び時には、英国のチャートでは、番号12の位置に達して持ってきた。は、次の年末ただし、グループのキャリアでは悲しそうにカレンが拒食症から少し時間後に死亡した苦しみを終了した。

大工は、パラジウムでは、 お客様に真のプロのコンビでは素晴らしいパフォーマンスを追体験する機会を与えるライブ。これは本当に起きた場合は、パフォーマンスをデジタルリマスター。


 最後にコンサートレビューも載せておきます。

コンサートレビュー
数日は1年だけでの公演は、このリリースに撮影した後、ライブ前に、 パラジウムアルバムでは一般に提供されると、 大工ロンドンのパラジウムに戻った。ここには、ニューミュージカルエクスプレスポップ新聞からのレビューをされています。
キッズと...グリースアウトをセットします。 a.宣言!
ジュリーウェッブ
" LADEEZおよび紳士は、 "テープ、 " リチャードカーペンター氏と! "万雷の拍手。
点灯ていくと、 リチャードカーペンター 、白の処女のビジョンは、座って、観客に尻、キーボードの3つのセットに囲まれている。

キリストは、 カレンの種類静かに歌うことは何ですかは議論はありましたか?彼女は男とオフを実行しているか。彼女は崩壊しているか?私は自分のお金が欲しい。
申し訳ありませんが、より多くの万雷の拍手を左段階に入ると、彼女はされています。
.一クラクトン主婦の女子研究所おめかし隅から隅までね。白のジャケット、白のブーツと白のダブダブのキュロット。彼女は主婦のように見えるかもしれないが、彼女のように歌うことを確認することはありません。

絶対的な魔法として、彼女が開始されます。サウンド、音声、純粋なさはいいが、彼女はメモを見逃すことはありません。
.実際、彼女は世界で私は注意を想像することはできないの1人が行方不明だ。まあ私はこの楽しんでいる。 ない私。 ジャンバラヤではないバンドカレンの天使のような声溺死している。 カレンの動きがステージラウンド。彼女は今まで見た中で最も優雅な人ではない。彼女はマリーオズモンド猶予しているほど実際には(自分自身のために働くことができる)。

彼女もない存在している。しかし、彼女は声を持っている。厄介なのは、私もよく耳にすることはできません。すべての次の番号を、私は愛になると許しが必要です-必ず地獄としての陳腐が、悲しいのとその本当の感情を、私は本当に素晴らしい音だと思う。

後は私に同意観客(私たちはそれ以降)反対する。

歌う カレンの変更の服は-この時、白いドレスのM IDIが非常になっていません。"あなたは彼女の腰の骨を突き出し見ることができ、 "私の仲間だ。とはいえ、 歌っていくつかの失笑を誰も提供しています。カレンとリチャードと、いつもの視聴者参加のスティントは観客に"に沿って"歌ってもらうように頼むつもり-ねじれが、観客は、非常に多くをキーとは一瞬のうちに保存を再生して聞く歌って録音している。

クスクス笑いのCarpenters を達成するために何しようとしていると思われる。または表示されるので、我々はまた、どのように細部に移動されず、実際カレンリストへ恥ずかしいですグリースの寸劇( ? )に扱われている番組のコースの中に巨大な虚偽のおっぱいを着ていると歌う曲については、原生している。

また、バンド全体の悲惨なスパイクジョーンズ離陸を試みた 。

両方の熱烈な(ただし、おそらく)拍手礼儀;両方私は不必要な検索をお受け取り下さい。私は両方のカレンとリチャード疑問ことないけど 、 しかし、多くは、音楽的能力の学位を持っていない場合は、外径のようなものです。とリチャード鏡で彼の前で外径を数えるので、私としては、ピアノの働きを見ることができます下落は、ワルシャワ協奏曲演奏。

もっと受け入れカレンストライク用のバンドを仕分けドラム演奏している 。確かに彼女はそれを楽しんでいるようだ。しかし、間違いなく、シンプルで美しく歌われた曲の巨匠-カレンと座っているのではなく、ステージの周り徘徊しているまずい、とリチャードストレートではなく、笑いのためにプレー。

スーパースターが最終的に私たち はまさに始まったばかりになると、何も私は彼らを許す可能性がある。あなた彼女のような声をノックするのは無理だ...


 いかがでしたでしょうか。これでも十分意味は分かるけどひとつひとつ見ていくとおかしいものが沢山ありますね。しかしですよ、これは翻訳機能といういわば機械が作った文章であるのだが、一昨日購入した立川○樹の「父から子へ伝える 名ロックなんたら」という新書を読んでいたら、こういう文章にぶち当たった。立川さん、昔はしっかりした文章書いていたのに、この本では頭が痛くなるような表現ばかり。いや、日本語は大事にしないといけないというお話でした。

「…この一曲のためにブライアンは九十時間を越える録音時間をかけ、表面的にはノリがよく聴きやすいのに実は複雑な構成の曲を仕上げたが、その年の五月十六日にロックのアルバムの概念を変えるきっかけを作ったと言われ、P.M.がそれを聴いて名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作を思いたったと言われている歴史的名盤『ペット・サウンズ』がリリースされていたことを考えると「グッド・バイブレーション」はその延長線上に存在しているといってもいい…」


 えと、あのどの延長線上でしょうか…?

DRAC興亡史 1975-1980 コンテニューイングオブ合宿ストーリー

 南国生まれではあるが、僕は夏が大嫌いである。その反対に冬は大好きだ。特に今の時期、空気が乾燥し、空が高くなり、着ているものをもう1枚何か欲しいなというこの季節から本格的に寒くなっていく過程は、いやー、これぞ人生の醍醐味、生きてる証だ、などと嬉しくなってしまう。人によっては、寒いのは大嫌いなので冬なんかないほうがいいという声もあるだろうが、僕は誰が何と言おうと寒いほうが好きである。夏ってのはやたら開放感だとか薄着(ま、これは決して嫌いではない、というか積極的に好きなケースが多いのだが、今回は触れないことにする)な男女がちゃらちゃらしていて、いかにも頭が悪そうである。その点、秋から冬にかけては人間少し背中を丸めて歩くようになり、ふと立ち止まって人生の侘び寂を考えたりする、ちょっと賢そうな季節では無いか。いや、あくまで「賢そう」であって、本当に「賢い」わけではないが。

 などと、いきなり季節の話をしたのはわけがある。実はこの前、過去に書いたエントリーをチェックしていたら、サークルの夏合宿の話を6月27日にアップして、しかもその最後に「と、ここまで書いてきてちょっと記憶が曖昧なところが出てきたので、いったん止めます。これはちょっと長いシリーズになりそうです。」などと書いておきながら、全くシカトというかスルーしっぱなしだった僕って何(by三田誠広)。いや、これではいかん。人間、自分の書いたことには責任をもたねばならない。書いたり、言ったりしたことに責任を持たないと、やはりあいつは中山センセと同じ人間だなどと罵倒されかねない(って、いい加減僕もしつこいが、このしつこさこそ大事だ、怒りを簡単に誤魔化されたり忘れさせられたりしてると、大変なことになるぞ、などと自分のしつこさを正当化するのだった)。

 しかも、この「DRAC興亡史」のほかにも「フォークソング・クロニクル」とか続きを書きますといってそのままにしている企画もの(そんな大袈裟なものではないが)は他にもあったような気がする。とにかくEVE期間に入った今、時期は夏をとうに過ぎてはいるが、合宿の話からせめて75年のEVEの話くらいまではアップしようと思う。で、前回の話は合宿の前にある前期試験のところで終わっていたから、そこから思い出しながら書いてみます。

 大学の前期試験というのは夏休み前に行うところと夏休みがあけてから行うところと分かれている。どちらがいいかというのはものの考え方で「先憂後楽主義」な人は夏休み前がいいだろうし「先楽後憂主義」なお方は夏休み後がいいだろう。今はどうだか分からないが、大雑把な感じでは関西の大学は夏休み前に試験を実施するところが多く、関東・首都圏の大学は夏休みのあとに行うところが多かったような気がする。で、当時の僕は「先楽後楽主義」なアホ学生だったのでどちらも大嫌い、できれば試験などナシがいいと思いながらも、そうは問屋がおろさない。夏休みに入る1ヶ月ほど前から試験は始まった。

 おっと、いきなり試験の話に入る前に高校生の頃まで『謹厳実直が服を着て歩いている』、とか『真面目という単語を人間にしたらあいつ以外にいない』とまで言われた僕が、いかに大学に入ってから授業に出ないどころか邪魔をする、試験はまともに受けないどころかろくに単位が取れない(1回生のときに取れた単位は5単位という輝かしいサークル記録を持っていた。この記録はその2年後に今は四国で教師をしているはずのS田という後輩が年間獲得単位数1単位という限りなくゼロに近い実績を出すまで最長不倒距離を誇っていたのだ)人間に成り果てたかと言うと、諸悪の根源は僕の所属したサークルのT先輩のおかげである。

 T原さんというその先輩は、お隣の鹿児島県出身で1学年上だった。何度かこのブログでも登場しているが、北白川で酔っ払って路上駐車していたトラックに乗り込みドロボウと間違われ、追いかけられたときに僕を見捨てて一人だけ逃げたエピソードやオールナイトの「野生の証明」を見た帰りに特殊工作隊のまねをして襲ってきた連中を見ていち早く一人だけ逃げたとか、まあ、こうやって1つ2つエピソードを書いただけでもロクでもない先輩だとお分かりでしょうが、どういうわけか僕はウマがあって結構可愛がられた。一つにはやたら麻雀が強くて、根が負けず嫌いな僕はこの人以上に強くなるまで麻雀止めないぞ、などと思い込んだのがいわば不幸の始まりだったのだろう。そういえば、この人は自分がセクトを抜けるために、僕を人身御供として差し出そうともしたな。あの時根負けしていたら、下手すると今の僕は無かったかも知れない。

 で、このT原先輩なのだが、サークルに入ったばかりの僕がまだ麻雀を良く知らないのをいいことに、やたら僕の下宿に来て麻雀をしていた。早い話がカモにしていたのだ。僕の下宿で麻雀をやるのは天下のK大生のK島君とデザイン学校に通っていたY岡さんがほとんどで、他にもやる人間はいたが後はみんな予備校生だったので僕の部屋にはあまり来なかった。このK島君もY岡さんも1回生だったので、最初はT原さんに敬意を表していたが、あまりのむちゃくちゃなものの言い方にだんだん愛想をつかすようになっていった。何しろ話が大風呂敷できりも果てもないのだ。ネバーエンディングホラ話である。

 最初に僕の下宿に来た頃は、「お前も英文科だったら、英作文だけはしっかり取っておけよ、後々大変になるからな。それと体育は学生が多いので、アピールするチャンスがあれば必ず名前と学籍番号を言えよ。オレは野球の授業のときに、間に合わないと思ったがヘッドスライディングして先生に覚えてもらって、その後欠席が多くてやばかったけど、なんとか単位が取れた。ヘッドスライディングで単位が取れるから御の字だ。それと、R大学との野球の試合を見に行くと体育の授業に1回出たことになるから、そういうのも押さえておけよ」などと結構真面目なことを言っていた。

 しかし、人間会って話す回数が増えてくるとだんだん底が見えてくる。ある時、僕が珍しく部屋で次の日の授業の準備をしていたら、いきなりもう一人の先輩のY田さんと一緒にやってきて「おい、麻雀するぞ、麻雀。あとひとり面子集めて来い」などといきなり喚きはじめた。「いや、T原さん、今日はあかん。明日は英作文の授業があって、当てられるから勉強せんと」「はぁ英作文、お前今まで何回休んだ」「えーと確か2回くらい」「あ、大丈夫、大丈夫、オレなんか二桁休んだけど単位取れた」「え、ほんまですか」「ホンマ、ホンマ、九州のオトコはウソ言わん」「でも」「デモもストライキもあるか、あ、そうや、お前今度の学生大会はちゃんと出席しろな。そこでストの可決をするから」と、いうような会話が行われ、当時1回生の僕は2回生のT原さんと3回生のY田さんに散々カモられた。

 そのときにT原さんが話したのが「試験は三味セン」という大嘘理論である。どういうことかというと、大学の試験は勉強などしなくても、とにかく答案用紙に何か書いていれば単位は取れるというのだ。もちろん、その教科と関係ないことを書いてもダメだが、教科書に出てきた単語や授業で聞いた言葉、学んだ内容を水増しして書いておけばなんとかなるという、嘘八百を書くのが大好きという人間には大変魅力的な理論であった。当時僕のいた大学は学費値上げの問題を抱えていて、僕の入学する前の74年(つまりT原さんが入学した年)は反対運動が盛んで大学は試験を実施することが出来ず、全面レポートに切り替えたのだ。そのおかげでT原さんは40単位近く、なんら勉強することなく取ることが出来た。しかし、ちょっと考えれば分かりそうなもので、そんな都合のいいことは続くわけが無い。特に大学当局にとっては2年連続でレポートのみだと学生の就職はもちろん、文部省からの補助金も打ち切られるとかで、75年はゼッタイ試験をやることは明らかだった。

 根が素直な僕は、ほぼ同郷といっても過言では無い先輩のいうことに間違いはないだろうと信じきって、それ以来授業は専門の出席にうるさい教科だけ、それも気が向いたときだけ、などという態度を取っていたから試験のときにどんな目にあったかは、賢明な皆さんにはお分かりでしょう。今でも思い出すのは、初めての前期試験の前に良く聞いていたバンドはサディスティック・ミカ・バンドで、試験が終わってから良く聞いたバンドはストーンズだった。ミカバンドは「単位マシーンにお願い」という曲を、ストーンズは「単位イズノットオンマイサイド」という歴史的名曲である(ウソ)。

 しかし、思い出してもヒサンな話である。それから英作文の授業で思い出したのは、T原先輩の薫陶を受け、それまでどうにか出席していた授業をだんだんサボり始めて、夏休み前の最後の授業に、流石にこれは出ないとやばいと思って出席した。ドイツ系アメリカ人の先生で、もうこの際だから実名だすがウィンツラー先生という中々にユーモアのある先生だった。その先生が学生一人ひとりを名指しで呼んで、個別に面談するのだが、みんなには当然、敬称の「Mr.」や「Miss」を付けるのに、僕だけは敬称ナシで呼ばれた。あ、オレってそれだけ先生に親しみをこめてもらってるんだ、などとは当然思えず、僕のことを知ってる連中は冷ややかな笑い声を立てた。おっかなびっくり伺うと「オマエ、ヤルキアルノカ」と日本語でいきなり言われ、「Yes, Sir」と答えたら、一気呵成に怒られた。何を言われたかは、良く覚えてないが未だにはっきり覚えているのはこれ以上授業をサボったら「YOU CUT!!」と言われ、首のところに手刀を持ってきてチョンチョンとしたことだ。ああ、アメリカ人も首を切るときはそういうしぐさをするんだな、とぼんやり考えていた。今、思い出した。僕がアメリカ嫌いなのはこのときのことがトラウマに間違いない。

 ここまで書いてきたが、試験に関する話をどんどん思い出してきて、今穴があったら入りたい心境である。この苦しい試験期間を僕はどうやって抜け出したのか、そしてその後に行った合宿は、鳥取の民宿はいかにハライソに思えたか、その話は次回。今度はすぐです、カミングスーン、うそ言わない、ウソ書かない。

饒舌が終わるとき、君は遠くなる

20081101163252
世間様は三連休だと浮かれる中、零細企業の中間管理職は今日も外回りに精を出すのだ。本日は神武さんと呼ばれる大きな祭なので道路が混んでいる。裏道を抜けていたら、ここも大変混雑していた。おかしいなと思ってよく見ると大学の学園祭をやっていた。車を留めて眺めていたら、受け付けの学生がパンフをくれた。

早食い競争、お化け屋敷、パイ投げ、etc...

ま、いいけどよ。学園祭のテーマは何だと見たら、「ここからやこっせん!What's your dream?」であった。かつて、学園祭のテーマの難解さは我が国で三本の指に入る大学にいた人間としては、大変複雑である。

昭和が遠くなったのか、単にジジイになったのか?72時間自主管理などと叫んでから30年以上たった…。

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