やけっぱちのルンバをやけに踊るのさ(by ZK)

 今回のエントリーは良識ある人たちからは非難轟々かもしれない。世の中の大勢は決まっているのに今更こんなことを言ったり書いたりしても何の役にも立たないどころか、下手をすると自分自身に不利益になることもあるかもしれないが、どうしても書いておきたい、言っておきたいことがある。いや単なる与太話ですが、大いなる勘違いかもしれないのだけど、先ほどテレビのコマーシャルを見ていて感じたことを以下書きなぐっていきたい。サークルの合宿の話はこの次ということで。

 いきなりな話で恐縮だが、随分昔から環境問題というのが苦手だった(ずいぶん昔というのはどれくらい前かというと、環境問題という言葉が新聞やメディアに頻繁に登場するようになった頃、つまり最初からだ)。というか、いわゆるエコ・ムーブメント(こんな言葉があるかどうか知らないが、いわゆるなんでも「エコ」といえば免罪符になるここ最近の風潮)なるものが苦手である。いや、もっと積極的な言い方をすろと、「エコ」「エコ」などと鬼の首をとったようにはやし立てる連中が嫌いだという話です。エコエコ・アザラク、エコエコ・ザメラク…。

 「マイ・ハシ」などという言い方・行為がある。割り箸は森林資源を殺していく『犯罪的な行為』だから、それには加担せず常に自分の箸を持ち歩く人たちだ。まあ、その活動はご自由にと最初は思っていた。このあたりはサークルの先輩のsawyerさんがエントリーに書いているのでそちらを参照して欲しい。確かにコンビニやスーパーで惣菜や弁当を買うたびに無条件についてくる割り箸(しかも爪楊枝付き、その爪楊枝は必ず頭の部分に二本くびれが入っていて、模様だと思っていたら、実はアレは爪楊枝を使用中にテーブルに置く必要性が発生したときに直に置くのは不衛生だから、あのくびれの部分で折って、そこをマクラにして楊枝を置くために作ってあるのだと聞いたときに、何という無駄な、いや、そこまで神経質に衛生状況を気にしないといけないのか、いやいや、そういうことを気にする人たちが増えてきたんだ、何ともシンドイ世の中になったと思ったことがついこの前のことのようだ)は、便利なようで放っておくとどんどん増えてきて気がついたら水屋の引き出し一杯になっていたことなど、あなたの家ではありませんか?

 ちょっと前なら覚えちゃいるが、昔のことなら分からないねぇ、というのはそれこそ昔の流行歌のフレーズだが、僕が学生時代の70年代後半はまだ大衆食堂(この言葉も死語というか、今日日の若い人たちは入らない・使わないお店だろうか、ちょっと言わせてもらえれば牛丼一筋●●年のお店など気取るんじゃねーよ、大衆食堂だろうがテメーらの店は、コーポレイテッド・アイデンティテイかなんだか知らないが、フランチャイズで一気呵成に今日牛肉、えーとここはクレイジー・ビーフを日本語にしようとしたら我がPCが勝手に自粛してしまいました、を解禁させよって、などととりあえずアンチのエクスキューズをしておく)には塗り箸がおいてあるところがあった。数的にはそれほど多くは無かったが、塗り箸(どぎつい朱色のものが多くて僕は何故かアレを見るとお稲荷さんを連想していた)を出しているところが結構あった。

 もちろん、時代がどんどん清潔思想を貫徹していき、家族が個になっていくとき、一家団欒などというものが時代遅れなものになり、テレビも部屋も何もかもプライバシーなる言葉の基に個で所有し、個で消費することが美徳とされていく中、塗り箸は割り箸に駆逐されていく。その割り箸もむき出しで箸立てに入っているお店よりは紙袋にひとつひとつ入れられ、注文のつど出されるお店のほうが、何となく高級感があり、衛生的に感じられるようになり、今では裸の割り箸をそのまま出すようなお店を探すほうが難しくなっている。

 箸の次は飲み物だ。ペット・ボトルは悪者らしい。もっともあんなものはここ最近の道具で、以前は紙パック(これも今は悪者かね。森林伐採の大本になっているのかな)、いやアルミ缶の時代があり、その前はスティール缶、もっと前はガラス瓶だったはずだ。ペット・ボトルはなにやら資源の無駄遣いらしいので、今心ある人はマイ・ボトルなるものを職場や公共の場所では持ち運びするらしい。てやんでー、あんなもん、水筒じゃねーか。何がマイ・ボトルだよ。何でもかんでも「マイ」をつけて「我」を「個」を必要以上に尊重したがる。これは酢マップとかいうグループを使って、国家が愚民政策の一環として、「ナンバーワンよりオンリーワンよ」「あなたは世界でひとつだけ」などと口当たりのいい言葉で目先を誤魔化し、その先にある大きな目的に持っていこうとしているのだ、と考える僕は神経衰弱だろうか。だって、考えてみろよ。僕達のどこが「オンリー・ワン」なのか。「ワン・オブ・ゼン」なら分かるよ。今は若い皆さんに、ヒトコトいっておきたい。年金なんて、でもそんなのかんけーねー、なんていってると全部持っていかれるよ。社会保険事務所とか言うところでは、書いてあるものを転記するのに100件に1件間違うという特殊技能を持った職員・アルバイトを使って、みんなの貴重な財産を散財しているのだ。

 何だか、もうむちゃくちゃなエントリーになってしまったが、今日、このエントリーを書くきっかけになったマイ・ボトルのCMを見ていて思ったこと。究極のエコは兵士だ。食器は全てマイ食器、水筒はいやマイ・ボトルは必ず所有しているし、認識番号は持ってるし、ああ、そうか徴兵制はもう無理な世の中だけど、潜在意識の中に国民徴兵制をプリンティングしたいのだな。

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DRAC興亡史 1975-1980 イントロデューシング合宿ストーリー

 「夏合宿は7月21日から3泊4日。場所は鳥取県浜湯山の民宿『かわとね』。午前中は毎日ミーティング。テーマは前期の研究会の総括、後期の研究会に向けてのグループ分けとテーマ決め、それとこれが一番大事だがイブジツを決める。1回生は欠席者を出さないように」という発言を7月最初のサークル会議で聞いた。発言主は会長でありブルース班のリーダーだったY田さんだ。余談だがこのY田さんは日本人に一番多いのでは無いかといわれる姓の持ち主で、四国は愛媛出身の人だった。お酒は弱かったが麻雀が強くて、1回生の僕は良くカモられた。外見はゲゲゲの鬼太郎に似ていて暑苦しい長髪がトレードマークだった。異性関係は全く縁がなかったので、それを可哀想に思った後輩の女性サークル員が女子大の同級生を紹介し付き合うことになった。そしてそのまま結婚したのだが、Y田さんは三男で相手は長女だったので婿養子に入った。養子に入ると姓が変わる。Y田さんはS木さんになった。それを知った僕達後輩サークル員は「Y田さんがS木さんになったけど、どっちもおんなじくらいありふれた苗字やな。いわゆる犬のババや。」などと陰口を叩いたものだ。さあ、Y田さんとS木さんの苗字をずばり当ててみましょう。

 そうそう、このY田さんのエピソードではこういうのもあった。Y田さんの住んでいた下宿は相国寺にあり、そこには僕と同郷で1学年先輩であるA水さんという人が住んでいた。そのA水さんから聞いた話だ。当時11PMという人気番組があり毎週金曜日に麻雀の公開ゲームを放送していた。あ、もちろん麻雀ばかりでなくフィッシングとかオトナの遊び情報の時間だったのだ。花の金曜日に週末の遊びをプロデュースというわけだ。イレブンマージャンといえば懐かしく思い出す人もいるのではないか。当時のメンバーは「麻雀放浪記」で有名な阿佐田哲也、麻雀新撰組の豪腕、小島武夫、理論家No.1の古川凱章それに司会の大橋巨泉という顔ぶれである。ここに今ではちょっといい話題を聞かないムツゴロー先生や今は亡き漫画家の福地泡介や未だに連載を持っている黒鉄ヒロシなども参加しては激しい闘牌を見せてくれた。しかし中にはとんでもない勝負展開になったこともある。そのうちのひとつだ。

 ええと、麻雀をご存知でない方には専門用語が飛び交うのでしばし我慢していただきたい。何せ僕のいたサークルは当時の別館に存在したサークルの中でも1,2を争うくらい麻雀狂いの人間が多かったのと腕もそこそこに凄いメンバーが多かったので、この麻雀にまつわるエピソードはいやというほどある。僕の生活に関係したものだけでも「40時間マラソン麻雀の顛末」や「天々有が修学院で屋台だった頃、深夜2時くらいに毎晩食べに行き店のオバチャンから『麻雀ばっかりやってたらアカンで』と説教された話」とか「3人で通し(サイン)を決めてF田だけ凹まそうとイカサマ麻雀やったが何故かF田が一人勝ちした事件」などなど枚挙に暇が無いくらいだ。と、前置きはこれくらいにして話に戻る。

 そのイレブン麻雀でオーラス(これはAll Lastの意味で最後の勝負のこと)。トップ目は誰だか覚えてないが、とにかく巨泉が一人マイナス。ま、雀力からいえば当然の結果であるのだが、そのオーラスの勝負で巨泉がとんでもないことをした。この局はなかなか勝負がつかず、もうすぐで流局というときに「リーチ」と高らかに宣言して千点棒を出したのだ。ツモは残り1回。いくらテンパっていて他を降ろす意味があるとはいえ、あまりに無謀というか意味の無いリーチ。待ちは3,6萬で6萬高めで一気通貫。しかし場に3枚切られている。親のリーチに対して3人は当然降りた。そしてラスト、海底(ハイテイ)のツモで巨泉、「ツモッた。リーチ、一発、ツモ、ハイテイ、ピンフ、イッツウ、ドラ1、倍満~」その瞬間Y田さんの部屋から「あるか~~~~」という雄叫びが上がった。ラストの6萬がハイテイに「あるか?」という疑問と驚き、さらに一人マイナスから一気にトップ。最後のツモに勝負をかけた男の生き様に共感したのだろうか(そんなことはないだろう、とここは反語です)。まあ、オーラスで親でハイテイで最後の1枚の高めの牌をツモって倍満にして一気に逆転トップ。あまりにも出来すぎたゲームだった。勿論、麻雀をある程度やったことのある人間ならばこれ以上のありえないような上がり方だとか、とんでもない勝負のつき方は経験されたことがあるだろう。無論、僕も似たような経験はある。しかし、テレビである。どう考えてもいったんビデオを止めて、ハイテイの牌を6萬に変えたとしか思えない。この番組放映のあと1週間以上は我がサークルの麻雀好きの間で「お前、この前のイレブン麻雀見た?」が合言葉になったくらいだ。

 と、イレブン麻雀の話などを振ってみたが、最初の発言にもどると「イブジツ」というものが僕は良く分からなかった。会議の後に聞いてみたらD大の学園祭はイブ祭といって、そのイブ祭の実行委員のことを略してイブ実というと教えてもらった。ちなみに今はキャンパスが悪名高き京田辺市(何が京田辺市だよ、元は綴喜郡田辺町だったろうが、コノヤロ。春にタケノコ取れるくらいしか取り得なかったろうが。近鉄が入ってきて儲かったか、コノヤロ、などと学生時代の憂さを晴らしてはいけません)に移転して、新キャンパスの学園祭はアダム祭というらしい。アダムとイブですか。ふーん。

 それでいきなり7月21日になったかというと、そんなに旨い話は無くてその前に前期試験という厄介なものがあった。その前期試験なのだが、と、ここまで書いてきてちょっと記憶が曖昧なところが出てきたので、いったん止めます。これはちょっと長いシリーズになりそうです。

そんなこと知ってるからって何の役にも立たんぞ(と、良く言われたものだ)

 昨日アップしたエントリーは、もともとは「SONGS」で見た石川セリの感想を書くつもりだったが、いつの間にか学生時代のしょうも無い思い出話で終わってしまった。本当は70年代のセリと、今の声が出なくなりそれでもあの独特のスタイルで歌い続けるセリの音楽に対する情熱の深さを称える賞賛のエントリーになるはずだったのだが、何故かコンパで鴨川にはまって、年上の先輩、しかも女性でスリムではあったが美人の先輩のアパートに乱入するという、ま、しかし、そこでは何事も起こらず、もしかしたら何か「イイコト」があったかもしれないなどという妄想を抱いた悲しい1回生2人の話で終わったのだが、何故かこのくだらない話にsawyerさんがコメントをくれて、続きを書けというので顰蹙を覚悟で70年代学生時代の話を書く。あっ、今思い出したが(なるべく思い出さないように、忘却とは忘れ去ることなりという不滅の名言を唱え続けて触れないようにしていたのだが)、「DRAC興亡史 1975-1980」のアナザー・ストーリーともいえるかもしれない。

 記憶は前後するのだが、岩倉に住んでいたS戸君とは1回生の頃から親しく付き合っており、良く一緒に河原町などで遊んだ。あるとき二人して丸善だったか紀伊國屋だったか、いやもしかしたら生協の書籍部だったかもしれないが、暇つぶしであちこちのコーナーをうろうろしていたときの話だ。何か本を買おうとして探していたわけではなかったはずの彼が急に立ちどまり、1冊の本の背表紙を凝視している。数秒間仁王立ちしていた。固まっていたのだ。何だろうと思って僕も立ち止まったら、いきなり「おい、drac-ob、この『オニオニオニオニ』って書いてるの、何や?」と尋ねられた。彼の指差すほうを見ると、そこには「ちみもうりょう」すなわち「魑魅魍魎」と書いてあった。「ちみもうりょう、って書いてあるけど…」と答えると「へぇー、あれで『ちみもうりょう』と読むんか。オレはてっきり『オニオニオニオニ』と読むかと思った。鬼が沢山いるという意味やな」まあ、あながち間違いでもないので説明はしなかった。この「魑魅魍魎」はそれから四半世紀以上たって、とんでもないところで聞くことになる。

 かれこれ4,5年前だったか休みの日に家族を車に乗せて走っていたら、後部座席に座っていた下の子が突然「ちみちみ、もーりょー、ちみもうりょう」などと歌いだしたので、目が点になった。一体全体何の歌だと聞いたら「シャーマン・キング」という当時大人気のアニメの挿入曲だかテーマ曲だという。一体マンガにどうして魑魅魍魎が出てくるのか、疑問に思った僕は家に帰るとすぐに子供達にそのマンガを見せてもらった。いやあ、驚きました。話はポケモンみたいなバトル物なのだが、戦うアイテムがモンスターではなく霊というか精霊である。つまりこの世のものではないのだ。不覚にもこのマンガにはまってしまい、当時のブック●フなどを回って全巻そろえてしまった。もっとも子供に「You can get it if you really want」(byジミー・クリフ)を教えるために、あ、違った「You can’t always get what you want」(by ストーンズだよ、勿論)、という人生の真実を教えるために1度に5冊までしか買わなかったが。あんまり意味はないか。

 この手の話は腐るほどあるのだが、今日はもうひとつオマケネタ。75年入学1回生グループに札幌出身のH居という男がいた。高知出身でいかつい外見の癖にクラシック班に所属していたF原(もっとも75年前期当時クラシック班は壊滅状態で後期になってようやく岡山出身のO崎さんがリーダー、そしてこの男がサブ・リーダーとなり、若干2名だけの再建クラシック班が出来たのだ)が連れて来た。同じ工学部で、マージャンしているうちにサークルの話になり、何も入ってないならうちに来いといってF原が入部させた。このH居、学生時代はおとなしく、背も低かったので出身地から付けられた愛称が『コロポックルH居』などといってからかわれていたが、大学を4年で出て(当たり前だと人は言うかもしれないが、僕のいたサークルは学問熱心で1年でも長く大学にいたい連中がごろごろしていた。また「キョーイクの帝国主義的再編フンサイ」とか「産学協同路線を許さないぞ」とか「ツクバチューキョーシン路線爆砕」などというスローガンを真面目に実行して、ブルジョワ的単位はこれを断固拒否するといってあえて「卒業」などという行為を恥ずべきものとして、「中退」の道を選んだ心ある人間も若干ではあるがいた。おこがましいが僕もその一人である。しかし何故か厚顔無恥にもストレートに大学を出た奴のほうが偉くなっている。シホン主義はこういうところが間違っていると思う、って誰も賛同しない罠)、就職した年にS戸君のアパートにF原と一緒に遊びに来たことがある。

 アパートに付くや否や「おい、F原、S戸、オゴト行くぞ、オゴト」と喚き始めたらしい。学生時代のおとなしいH居しか知らないS戸はあっけに取られてみていると、F原いわく「H居は就職して人間が変わった、というか本性がむき出しになった。オレがオゴトに連れて行ってくるから少し待っといてくれ」というや否や、タクシーに乗ってかっ飛んだらしい。しばらくするとやけに脂ぎった顔をした二人が戻ってきて、「いやー、いがった、いがった。やっぱりオゴトはええな。ススキノもええけど、地元で面が割れるとまずいしな」などとほざいたらしい。え、僕ですか?僕は「サンダカン八番娼館の誓い」があったので、オゴトなるところには近づいたこともありません。あれはてっきり遊園地だと思っていたら、オトナの遊園地だったそうです。

 …ええと、一足飛びに話が飛んだので気を取り直して、このH居とS戸の3人でよくつるんで遊んだ。もっともここにF田も加わるとすぐにマージャンになってしまうのだが、それは次回に書くとして、あるとき3人で結構真面目な話をしていたときだ。そうそう何を隠そう、3回生の時にはS戸が会長、H居が会計そして僕が文連委員というサークルの要職を占めていたのだ。確か話題はそのときのサークルの人間関係の問題を話しあっていたのではなかったか。結構深刻なテーマで思わず僕が「うーん、こんなことを言うとなぁ、人を呪わば穴二つ、とも言うし」などと発言したときだ。二人の顔つきが変わった。S戸は「お前、人が真面目な話してるときに不謹慎だぞ」、H居も「そうそう、何が穴や、アンタはオ●コのことしか考えてないんか」

 言われた僕は目が点になった(あれ、前にも使ったかな)。一体二人は何を怒っているのか。イミフだった(こういう表現が我ながらヤングだと思う、って今時ヤングなんて使わんが)。どうやら「人を呪わば穴二つ」の「穴二つ」に反応しているようだ。僕はちょっと戸惑いながらもこの「人を呪わば穴二つ」という慣用句の説明をした。二人は最初のほうこそ「ダマサレナイゾ」という反応だったがだんだん自分達の無知を理解し始めた。しかし、この二人の素晴らしいところはそれ以来何かあると「人を呪わば」「穴二つ」「人を呪わば」「穴二つ」と掛け合いで言い始めたことだ。あろうことか「人を呪わば」とどちらかがいうとしゃんしゃんと手拍子を入れて「穴二つ」と振り付けまで決めてやるようになったことだ。けったいな連中だった。そしてこの「人を呪わば穴二つ」という慣用句はそれから四半世紀後に思わぬところで再会するのだった。

 あれはいつだったか、やはり家族を車に乗せていたときだ。後部座席に座っていた下の子が突然「人を呪わば穴二つ、いっぺん死んでみる?」などと口走った。ビックリした僕はどこでそんな言葉を覚えたかと聞いたら「地獄少女」というアニメがあってその主人公の決めのセリフだという。家に帰った僕はそのマンガを見せてもらい驚いたが、今度は全巻揃えるようなことはしなかった。理由は鬼の配偶者がこれ以上マンガや下らんCDが増えたら私はキレルと絶叫したからだ。

 と、ここまで書いてきて、次はいよいよ夏合宿の話を書こうと思ったが、夕方からジャズのライブに行くので時間がない。続きはまたの機会に…。

時間がかかったわりにはしょうもない昔話で終わっちまった

 SONGSという番組がある。昔、若者だった人を対象にした音楽番組というか、昭和の時代に歌謡曲とは一線を画した音楽をやってきたミュージシャンのスタジオライブを放送する番組だ。竹内まりややチューリップ、世良公則そうそうキヨシローの復活ライブもこの番組で見た。そして今回は石川セリである。先日高校時代の友人と飲みに行ったお店の人からも、今、石川セリが若い人たちに人気だなどと聞いたが、こちとら自慢じゃないが70年代からずっと聞いている。昨日今日のファンとは年季が違うのだ。もっとも放送のあった日は仕事で疲れていて、じっくり見るゆとりが無かったのでHDDに録画しておき、翌日晩御飯を食べながらじっくり見た。sugarmountain君もチェックしており、彼のブログでセリが新曲を披露することも知ったので、随分楽しみにしていたのだ。

 石川セリの名前を初めて聞いたのは、多分「八月の濡れた砂」のテーマ曲を深夜放送で聞いたときだと思う。正直あの映画はあまり好きではない、というか、『うーん』と思うところが多いのだ。一番の理由は監督の名前が気に入らない。やや誤爆というか明らかに誤爆なのだが藤田敏八というその名前は僕の学生時代に大きな足跡を残してくれた、僕に世の中にはこんな人もいるのだ、ウソも本気でつけばいつの間にか真実になるのだという教訓を教えてくれた、最近エントリーに登場しないが一時期は頻繁に登場して廉価版を「ケンカバン」と読んだり、油井正一大先生を「アブライ正一」といったり「一緒にご一緒しませんか」などと言語明瞭意味不明瞭という美しき日本語の破壊者、根っからのセンミツ男F田敏雄君と一字違いという理由だからだ。

 それはさておき、僕がセリの名前を深く記憶に刻み込んだのは73年にNHKで放映された少年ドラマシリーズの「つぶやき岩の秘密」を見てからだった。このドラマシリーズは「タイム・トラベラー」や「けんかえれじい」など他にも印象深いものが多かったが、「つぶやき岩の秘密」はそのストーリー展開の面白さ、登場する役者の魅力、少年が大人になっていく成長過程の中での葛藤その他いろいろな要素があり、当時高校生だった僕(たち)は放送日になるとしっかり見て、次の日は教室でその話題をネタにしゃべるなどという平和な時代だった。「つぶやき岩」の第1話を見たのは全くの偶然で、たまたま家に早く帰ってテレビをつけたら『紫郎は一人で海を歩くのが好きだった。学校から帰ってきても友達とは遊ばず、一人で海へきた。海は紫郎の友達だった。紫郎のただ一人の親友だった。』というナレーションが目と耳に飛び込んできた。その後に不思議なメロディのテーマ曲が流れてきて、その歌声はまるで海の底か地の底から聞こえてくるような変に耳に付く、といって一度聞いたら決して忘れられないようなメロディだった。曲のタイトルは「遠い海の記憶」という名前だった。



 「つぶやき岩」の話を始めるときりがないのでこれくらいにするが、この番組は放映された期間も短く、再放送も1,2回しかなかったせいか同世代でも全く知らない人が多い。僕も73年にリアルタイムで1度見たきりだったが、この番組の印象は強くそれから30年以上も経ってひょんなことから、県立図書館の書庫に格納されていることを知り、貸し出しの手続きを取った後、コピーするのも何となく他人行儀な気がして、wordに全て手入力してしまった。新田次郎の著作権が切れたら、ネットにアップしてやろうと思っている。一体なんでそんな馬鹿なことをしたかというと、丁度、鬱病で仕事を辞めて家で療養していた頃だったが、何か生産的なことをしなくてはならないという強迫観念めいたものが浮かんできてやってしまったのだ。毎晩食事が終わると、黙々とPCに向かいパチパチキーボードを打っていた僕の姿は鬼気迫るものがあったらしい。配偶者も子供達も僕が完全に壊れてしまったと思ったほどだ。もっとも壊れているのは今に始まったことではなくて、制服を着て学校に通うようになったくらいからずっと壊れたままだ。

 話がおかしな方向にいったので、軌道修正する。ここまで書いたのが今週の月曜日から木曜日の間だ。ちょっと油断していると日々はあっという間に過ぎてしまう。もう今日は週末の金曜日で、明日はどうやら休めそうなので、これからじっくりこの話の続きを書いていこうと思う。73年に「つぶやき岩」のテーマソングとその前の「八月の濡れた砂」のテーマで石川セリという名前はインプットしたが、次にこのチャーミングな名前(えーと、あまり確かな記憶ではないが、当時週間「プレイボーイ」か何かのグラビアでセリの顔を見て、その独特な美しさにこの人はハーフなんだろうかと思った。後年セリは本名だが本当の本当はセイディということも知った。別にそれだけだ)と出会うのは大学に入って、かの由緒正しい音楽研究サークルDRACに入り、1ヶ月もしないうちに我が物顔でBOXをうろつくようになった頃だ。

 6月の終りだったか、7月の初めだったかサークルでコンパがあり、2次会の後、コンパ参加者全員で鴨川の川べりを歩いていたときだ。S賀さんという、高知出身で博覧強記、見た目はアルコール焼けした菅原文太、学年は2年先輩の法学部の人がいた。この人は飲んでいないときは礼儀をわきまえ、常に控えめで後輩に道を説く姿はまるで人格者そのものだが、一端アルコールが入るとたちまちジャガーチェンジ、人の言うことに傾ける耳は無い、どんな意見に対しても常にその反対意見を言って、たとえばそれが普段S賀さん自身が言ってることと正反対であっても、相手の意見に対して反対意見を出して徹底的に論破する、何と言うか歩くディベートとでも言いたくなるような、早い話が厄介な人だった。しかし、当時はみんな学生なので当然S賀さんも普段は素面の時間帯のほうが長く、素面だととても面倒見のいい先輩だったので、慕っている後輩は多かった。かくいう僕も、3回生くらいになったらあんな先輩になりたいなどと不覚にも目標にしていたくらいである。

 京都の夏の暑さは有名で、そのときもむしむしした湿気とお酒が入ってそれでなくても上昇していた体温を下げようと考えたのは、自然の摂理だったのだろうがS賀さんは川に向かってすたすた歩いていった。え、と思って見ているとそのままざぶざぶ水の中に入っていく。心なしか足元がふらついているようだ。普段酒豪と自負している人だが、今日ばかりは飲みすぎたのだろうか。お隣の鹿児島出身で1年先輩だったT原さんが「S賀さん、危ない、やめとき」と叫んだが、聞く耳を持たない。そのまま川を横断しそうな勢いだが、いかんせんお酒が入っているので、万一足でも滑らしたらやっかいなことになる。「drac-ob、行くぞ」とT原さんが一声かけて川に入っていった。僕も遅れをとらじとばかり入っていった。「おーい、S賀さん、もうええやろ」「危ないから戻りましょう、君子危うきに近寄らずでっせ」などと言いながら近寄ると、このヨッパライは何をトチ狂ったのか両手で水をすくってばしゃばしゃとかけ始めた。不意を突かれて、その水をよけようとしたとき僕は足を滑らして、全身川に浸かってしまった。しかも買ったばかりのサンダルの片方が脱げてしまった。「あ、サンダルが」と叫んだら、S賀のオッサンは何を考えたのか僕のもう片方のサンダルを手で取って、川に放り投げた。「丼鉢ゃ、浮いた浮いた、ステテコシャンシャン」、ここで多くの人は僕が話を作っていると思うだろう。しかし、あの鼻歌、僕は確かに聞いたのだ。

 この後、酔っ払ったサークル員全員が川に入りお互いに水を掛け合ったり、ふざけあったりしたが流石にものの30分もしないうちにみんな酔いも覚めて、我に返った。比較的良識のある連中は「それじゃ、また」などといってさっさと帰っていった。後に残ったのはみんなから水をかけられて正気に戻ったS賀さんと、その相方でサークルの幹事長をしていたY田さん、そして何故か僕と同じ1回生のS戸君の4人だった。思い出した、T原さんやまだ飲みたりなかった連中はグラスホッパーという河原町のパブに行ってしまったのだ。川辺に残った4人は、Y田さんを除き左京区に住んでいたので、タクシーに相乗りして帰るということになった。タクシーを捕まえて乗るや否や、Y田さんが「そうだ、U村のアパートに行こう」と言い出した。U村さんというのは当時3回生の英文科の女子学生だった。熊本のええとこのお嬢だという噂で、当時フロ、トイレ付きの二間のアパートに住んでるという噂だった。

 なんでU村さんのアパートに行くことになったのかは分からない。ひとつにはアパートにフロが付いてるので入れてもらおうというのと、今回のコンパに珍しく参加してなかったので、もしかしたら男が出来ているかもしれん、そういうふしだらなことはいかん、と何故かY田さんとS賀さんが力説始めたのは覚えている。しかし夜中の12時近くに男4人が女の子のアパートに乱入しようというのだから、これは一歩間違えれば犯罪である。その頃僕はまだU村さんとはほとんど話したことは無かった。学科が同じ英文だったので、単位のことだったか、授業のことだったか、そういう当たり障りの無い話をしたことがあった程度だった。

 一乗寺にあったそのアパートは多分木造モルタルの2階建てだった。部屋の窓を見ると明かりがこうこうと点いている。Y田さんは声をひそませて「U村、U村」とノックしながら名前を呼んだ。「Y田さん?」と部屋の中から声がした。「そうや、コンパの帰りやけど、1回生が川にはまってびしょぬれや、フロにいれたってくれ」「え、あ、はい」。ここでもしかしたらY田さんとU村さんはデキているのではないかと考えたあなた、残念でした。後日談だがU村さんいわく自分は体育会的なところがあり、(サークルの)会長の命令は聞かないといけないという判断が働いたとのことだった。部屋に入れてもらい、お風呂に入らせてもらったのだが、いや極楽でした。お風呂も今時のユニットではなくちゃんとしたタイルの在来工法の浴室で、アパートのお風呂としては十分すぎるくらいの広さで、そのときはS戸君と一緒に入ったのだが「おい、drac-ob、このフロ毎日U村さんが入ってるんやな」「あ、そうや、と言うことはこの浴槽にU村さんの(以下自粛)」「え、あ、そうか、それならオレ飲んでもいい」などという意味不明な会話があったことを告白しておこう。

 お風呂に入れてもらい。焼きうどん(冷蔵庫が部屋にあったのにビックリ。当時僕達の住んでいたアパートというか下宿には共同の冷蔵庫はあっても個人で持ってる奴はいなかった。女の子も同様だったからやはりU村さんはお嬢さんだったのだろう)を作ってもらい、何故か部屋にあったオールドなどと飲んでいると不思議なキーボードの音が聞こえてきた。U村さんが「セリのセカンドアルバムだけど、すごくいいよ」といった。「ときどき私は」だった。そのとき初めて聞いたアルバムだったが「なんとなく…」や「SEXY」、「フワフワWOWWOW」などが気に入った。しかし一番驚いたのはアルバムのラストナンバーだった。なんと「つぶやき岩」の主題歌だった「遠い海の記憶」だった。「いつか思い出すだろう おとなになった時に あの輝く青い海と 通り過ぎた冷たい風を…」

 僕はその曲を聞いて「つぶやき岩」の話をしたが誰も知らなかった。その知らない4人に対していかにそのドラマが面白くて良かったかを延々と話したのだが、誰も聞いてはいなかった。最後にU村さんが「そんなに好きならこのレコード貸してあげようか」といってくれて僕は一もにも無くうなづいた。それからしばらくして、U村さんに借りたサンダルとシャツを着て、僕は修学院の下宿に向けて歩き始めた。横にはS戸君がいた。「U村さん、ええ人やな」「うん、お風呂だけじゃなくて着るもの履くものも貸してもらったし、なによりレコードを貸してくれたのが一番嬉しかった」「この御礼はせんとあかんぞ」「うん、何か御礼に持っていこうか」「オールドほとんど空けたから今度さらのボトル持っていこう」「行くときは一緒やで、一人で抜け駆けはあかんぞ」「お前、そんなこと考えとったんか、当たり前や、あの人は先輩やし、1回生の俺たちなんか相手にせえへんわ」「でも、分からんぞ」「うん、分からんな」「ひょうたんからこまということもあるし」「もしオレのことが好きだと言っても恨みっこなしな」「いや、お前こそひがむなや」

 などと、夢多き1回生時代のアホ話になってしまいましたが、このU村さんのお話はまたいつか書きたいと思います。僕の学生時代に華を添えてくれた貴重な女性の一人として、続編をアップッするぞ。いや、何も無かったんですが、ハイ。



アイム・ア・ファーザー…のはずだ

 昨日、仕事から帰って自分の机を見たらなにやら四角いものが置いてある。1辺が10センチ角の正方形状のものだ。このところアマゾンや通販でものを頼んだ記憶は無いのでなんだろうと一瞬考えた。もっとも、こちらが頼んだわけではなかったが、以前、狸さんからビニールバッグ一杯のレコード・コレクターが送られてきたときは、腰を抜かした。『要らなくなったからどうぞ』、ということだったが、全く考えていなかった贈り物だったので随分嬉しかった。そうそう、なぎらの「フォーク大全」も入っていたっけ。今でも夜寝付けないときにはそのバッグの中に手を入れて、適当に引っ張り出したものを読むようにしている。先日はビートルズの「レット・イット・ビー ネイキッド」の特集号だった。ああいうサプライズは大変嬉しい。また何か機会があれば是非お願いしたい。あ、本やCD、DVD全然こだわりませんからって、何を媚びているのだ。

 などと話が横道に入ったが、その正方形のものを手にとってそばにいた下の子に「何だこれ」と聞いたら「明日は父の日だから、オネエと一緒に買いに行った。1日早いプレゼント」などという。年のせいで涙腺が弱まっているので、『ああオレの教育は間違ってなかった、学校の勉強は×だが心優しい子に育ったではないか』、などとちょっとウルウルしかけたが、世の中そんな甘い話は無い。父がプレゼントを持って、ぼーっとしているその間に追い討ちの一言が飛んだ。「開けたね。もうキャンセルできんかいね。じゃ明日はヨロシク」「え、何?どした」「この前休みに古本屋とCD屋に連れて行くって言ったがね。大人はウソツキじゃ!!」

 察するに、配偶者あたりから「明日は父の日で何もやらないと五月蝿いから、ダ○エーで何か適当なものを買ってきなさい」とか入れ知恵されて、じゃプレゼントやる代わりに休みは終日アッシーとして使おうという娘二人の策謀だった。それでもモノを貰った弱みもあるので、適当に返事をしたのが大きな間違いだった。日曜の午前中は週の中で朝寝坊が出来る貴重な日である。本日は8時過ぎに目が覚めたが、ああもう少し寝て10時くらいに起きようと二度寝を決め込んだのだが、隣の部屋で配偶者と下の娘の話し声が聞こえる。うとうとしながらだったので、断片的にしか聞こえなかったが「…1000円のハンカチ…」「…すごく喜んでた…」「…チョロイ」「午前中ばあちゃんの家に行って小遣いゲットして…」。どうやら二人して父親の操縦法を悪巧みしていたようだ。ちょっとむっとして「お前ら五月蝿い」といってまた寝ようとしたが、下の子が『早く起きてばあちゃんの家に連れて行け』と喚く。

 先ほどの話し声で目が覚めていたので、置きだしてコーヒーを飲むと下の子は洋服も着替えて臨戦態勢十分である。「オネエは起きてるのか」と聞くと「誰かさんと瓜二つだからまだ寝てる」などという。「誰かさんて、誰のことだよ」「誰かさんは誰かさんよ。家に一人いるでしょ、休みの前の日は夜中まで起きていて、次の日は昼まで寝てる人が」などと言う。あ、オレのことかと思ったが、考えてみると上の子は本当に僕そっくりで哀れなくらいである。その反動で下の子は配偶者そっくりだ。したがって僕は上の子の考えることや行動パターンはたいてい予測が出来て、ほとんど外れることは無いが、下の子の考えることや行動パターンが全く理解できない。下の子が配偶者そっくりだと思ったのは今までに何十回もあるが、昨日録画していたインディ・ジョーンズを家族で見ていたときもそうだった。

 先日、水野さんが亡くなったがその追悼とは関係あるかどうか分からないが、金曜ロードショーでインディ・ジョーンズの第1作をやっていた。子供達は見たことが無いというのでHDDに録画しておいたのだ。テレビ用に随分カットしていたがやはり何回見ても面白い娯楽大作である。その録画を見ている間中、下の子は「この人いい人、悪い人?」「これ手を入れたらどうなると?」「何、これ、何、ひくー(ちょっと気に食わないものを見ると、この子はすぐ「ひくー」という。気持ちが「引く」というか興ざめするという意味なんだろうか)」などと、とにかく黙って見ていることが出来ない。またそれにいちいち説明してやる僕も僕である。画面を見ながら質問に答えるというこのスタイルはどこかで経験したと思ったら、配偶者と昔良くやったパターンだ。娘の質問する姿を見ながら、配偶者自身が「この子は本当に私そっくりだわ」とつぶやいたのを僕は聞き逃さなかった。

 映画が終りみんなで面白かったと話していたら、配偶者が「今度インディの新作があるから一緒に行く?」、と聞いたら子供二人は声をそろえて「行く」という。僕も図に乗って「今度8月に『靖国』という映画が来るからみんなで一緒に行く」、と聞いたら母子3人が声をそろえて「ぜったい嫌」といいやがった。こんなことなら『実録連赤』の映画に上の子を連れて行ってオルグしておくべきだったと思ったが後の祭りだ。

 上の子が起き出して来るまで『田舎に泊ろう』などを見ながら笑っていたのだが、さて子供二人外出の準備がすんだので、配偶者を残してお昼を食べにラーメン屋に行き、その足で実家の母のところに行った。実はこの前、親戚の人が子供達にと、お小遣いをくれて、それを預かっているという電話が下の子にあったので、それを頂戴するのが本日の訪問の目的であった。ポチ袋に入ったお金をもらい、更に実家の手伝いをちょっとして祖母からも小遣いを貰ったバカ娘二人は意気軒昂である。早速、中古ゲームを買いにG●Oに連れて行った。町中の結構大きい店舗だったが、目的のゲームは置いてないと上の子ががっかりした顔で報告に来た。しょうがないので別のG●Oに連れて行くとそこにも置いていない。下の子はその間にアニメ専門のお店で欲しかったCDを買ったので、こちらはすこぶる機嫌がいい。僕はちょっと疲れてきたのでもう家に帰ろうと言ったが、もう1軒だけと泣きつくので、ちょっと遠いが品揃えのいいブック●ーケットに行くことにした。

 その店で中古CDを眺めていたら、上の子が息を弾ませてやってきた。どうやらお目当てのゲームがあったらしい。早速買ったのはいいが、今度は二人して早く帰ろうといい始める。子供の付き添いで自分の欲しいものは何も買えなかったので、帰り道新刊専門の書店に寄ったが、子供二人は車から降りても来ない。二人して買ったばかりのCDやゲームを開けてなにやら話しに夢中になっている。僕は本屋の中を一人ぶらつき、若松監督の映画の本でも買おうと思ったが見あたらない。それでもまだぶらぶらしていたら携帯がなり、バカ娘二人が早く帰ろうと声をそろえて喚き散らす。しょうがないので『蟹工船』のマンガ版を買った。バカ娘と配偶者に読ませて、この本に書かれている内容と今の社会は何にも変わっていないのだぞと問題提起をしてやるつもりだった。家に帰ってその本の話をしたら女3人揃って一言「暗そうだからゼッタイ読まん」。

 今日は一体何の日だったのだ。はっ、石川セリの話はどうなったのか。続きはまた明日。

インロウタキンは金太郎印

 石川セリのSONGSを見た。あまりに声が出なくなっているのにショックを受けたが、番組を見ていると2004年に大動脈解離を発症し、生死の境をさまよいそのせいで声が出なくなったらしい。番組終了後「ときどき私は」を聴きながら、エントリーにどう書こうか考えていたが、ちょっとまとまらなくて、その日は寝ることにした。いつもより少し早い時間だったので、YOU TUBEを見てから寝ようとしたらトンデモない画像を見つけてしまった。81年にクロコダイルで演奏したINUのライブである。最初の映像はやや音が不安定だが「メシ食うな」と「ダムダム弾(歌詞がオリジナルと違うがメロディ、リズムパターンは間違いなくダムダム弾である)」を演奏している。

 びっくりしたというか、驚いたというか、レコードを出した直後のライブだと思われる。町田を始めみんな若い。北田も西川の成子ハンもお若い。改めてライブを聞いて感じたことは当時のINUの演奏能力の高さ。ここ最近は町田のボーカルだけがクローズアップされている気がするが、ギターもベースもドラムもいい。特に西川のベースはバンドを鼓舞して引っ張っている。映像は当時はまだビデオが出たばかりなので、アマチュアのホームビデオの録画だとは思えない。「ファイテング‘80」みたいに、どこかの専門学校あたりの学生が映画(テレビ)番組を作るために録画したのではないだろうか。このときの映像は次にアップする「気い狂て」で終わるのだが、「インロウタキン」や「つるつるの壷」「フェイド・アウト」といったアップテンポの演奏も残しておいて欲しかった。町田の歌詞も音と同じで、まいどまいど重たいばかりではなく、ナンセンスソングでありながら、笑っているうちに自分が笑われているというパラドックスにはまるものが多いのだ。しかしこのフレーズは何度聞いても凄いな。「簡単に物が在って 簡単に手に入らない 手に入ったところで おまえのものにはなりえない ええ加減にせんと気い狂て死ぬ 何となく感じてたことがはっきりと分かってきた まんじゅう屋のおっさんも さすがに今日は憂鬱げ ええ加減にせんと気い狂て死ぬ」

 この「気い狂て」は当時のINUのライブのラストナンバーで、これを演奏した後に「ありがとう」と尻上がりで御礼を言って終わるのが常であった。この映像で久しぶりにそのフレーズを聞いた。大変満足である。最後にオマケですが、パンク・ロッカーが警察権力に頼っちゃいかんよ、と思わず苦虫を噛み潰した事件を思い出すかもしれないがギターヤクザとボーカルヤクザのライブ映像もアップしておく。セリの話はまた明日のこころだー!!

映画の話も中途半端に終わってしまいそうだが

バックに流れるのはジム・オルークの音楽だけど、ここは「赤軍兵士の歌」のほうが…

 いやぁ、予想以上に時間が過ぎるのが早かった。本当に3時間以上もあったのかと、時計を見直したくらいだ。いえ、この前から見に行くといっていた「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」である。日曜日の朝10時半の上映に間に合うよう、いつもなら昼前までいぎたなく寝ているはずのワタクシが目覚ましも使わず9時にはばっちり起床。コーヒーを入れながらゆっくり新聞を読み、服を着替えて上の子が通学用に使っていた3段変速の自転車を借りて、街中の映画館に向かったのは午前10時前だった。いつもはギヤがワンパターンの自転車に乗っているのだが、それと比べるとこの変速機の付いている自転車は快適・快適。つい「サイクリング・ブギ」や「自転車に乗って」などを口ずさみながら走った。映画館に着いたのは10時10分。ちょっと早かったので近くのコンビニでお茶とおにぎり、あるいは紅茶とサンドイッチみたいな組み合わせの食料を買おうと思ったのだが、近辺を回ってもコンビニらしきものはなく、まあ、いつも朝飯抜きで昼も2時3時に食べることがしょっちゅうなので空腹は我慢できるだろうと判断してそのまま映画館に入った。

 そういえば家から出るときに、配偶者から「今日は映画の日だから1000円で見られるよ。もしかするとお客さんも多いかも」などと言われていたので、少し早く来たのだが受付にも人の列はなく、すんなりチケット買えて「靖国」やそのほかいろんな映画のチラシやなにやら7月にやる予定の宮崎映画祭りとやらのチラシも貰った。それはいいのだが片手にペットボトル、片手にチラシというスタイルで上映する部屋の扉を開いてやや愕然。100人も入ればいっぱいになるようなこじんまりした上映室に、お客さんは12,3人だろうか。やはり白髪の方が多い。2人位場違いなくらい若い女の子がいたが、あとはいわゆるダンコンの世代、じゃなかったダイコンの世代、でもないや団塊の世代って人たちでしょうか。どう見ても素人じゃない、ええとなんと言うのか映画マニアっぽい人がほとんどだった。若い女の子達も見ようによってはどこかの大学の映画研究会という雰囲気もあった。

 かくたさんから3時間10分という時間を聞いて、最初は身構えていたのだが、いざ映画が始まると、前半の新左翼の歴史、ブントの歴史のところはちょっと退屈だったが、1時間過ぎたあたりからは一気にひきつけられた。もっともあの頃の時代背景というか、何がしかのムーブメントに携わったことの無い人には、やはり退屈な3時間10分かもしれないが。60年安保闘争における新左翼の登場、ブントの活躍と衰退などの映像があり、60年代後半のブント再建の話、とりわけ路線の違いでさらぎ議長を襲撃して結果的に警察に身柄を引き渡したという事件から、逆に赤軍派の塩見一派が拉致されるところなどはなかなかにリアルだった。特に拉致された塩見グループがそこから逃げ出すときに建物から墜落して亡くなった人こそ、この国で初めての内ゲバによる死者であり、僕のいた大学の先輩に当たる人だった。望月上史さんという、その方は、もちろん僕は年代的にも面識も何も無いが、当時のD大でサークル運動や何らかのアンチの運動をしていた人には良く知られた人だった。確か広告研究会に所属していたと聞いた。またこれも聞いた話だが京都府警の公安デカの間でも望月さんの名前は知れ渡っており、あるとき飲み屋で偶然一緒になった公安ポリが「望月だけには敵わなかった。あいつは本当に考えもつかんような戦術を立てる男だった」などと敵ながらアッパレと称えてたそうだ。

 それからいわゆる全共闘運動の栄光と衰退みたいな映像もあり、予算をふんだんに使って完全防備した警察権力に勝つために銃や爆弾で武装するグループが登場した、という新左翼の歴史が語られて、いわゆる赤軍派が登場してくる。もともとはブントという大衆運動を中心にしたグループから登場した鬼っ子みたいなものだ。しかし、映画を見ていてビックリしたのは、まだ組織ともいえない状態の彼らが大学のサークルの部室で会議をしているシーンが出たのだが、まるっきり別館4階のBOXそのものでした。正方形のテーブルを中心に学生が並び、壁には黒板が掲げられており、周囲の窓のところにも立ってる連中がいる。まるで僕のいたサークルの研究会の雰囲気だ。もちろん僕達のサークルでは「銃による殲滅戦」だとか「過渡期世界論」だとか「世界革命戦争への飛翔」などといったスローガンは、あ、壁の落書きにあったな、いやいや、あくまで絵に描いた餅というか単なる景気づけというか、シンパはいたかもしれないが、こらこら何を書いているのだ。映画の話だ。

 しかし、何回考えても共産同赤軍派と京浜安保共闘が統一会派というか党派を結成するというのは分かりません。これは当時の公安やジャーナリストの間でも「統一赤軍」が結成されたというニュースを信じなかった人が多かったという事実が如実に物語っている。俗に言う「野合」だ。塩見、高原という組織のリーダーが逮捕され、大菩薩峠で多くのメンバーが逮捕され、よど号で海外に出て行った連中もいて、組織的にはがたがただった赤軍派が毛沢東主義を信奉していた京浜安保共闘、日共左派と一緒になったのが大きな間違い、ボタンの掛け違えだったのだ。などと後付で理屈を言うのは簡単だが、映画を見ている間、もし自分があの山にいたらどうだったか、と考えたが答えは出なかった。多分、誘われても行かなかっただろう。

 そういえば映画を見ている間ずっと革命左派という言い方が気になっていた。僕が大学にいた70年代は日本共産党革命左派、大衆組織としての京浜安保共闘という呼び名が一般的で短縮形としては日共左派といっていたと思うが、おそらくは本家の「日本共産党」からのクレームを予測して革命左派と映画では表現したのではないか。ま、大して問題にするところではないのだろうが、こういうところのこだわりは残して欲しかった、余談ついでにいうと、僕が大学最後の79年から80年にかけて、大学のトイレで良く「塩見、高原両同志を奪還し80年決戦を勝ち抜こう」というステッカーが張ってあり組織名は1980行動委員会となっていた。当時の噂話で赤軍派の残党が刑務所を襲撃し、塩見議長達を奪還する計画だ、80年安保闘争を赤軍派は諦めていないのか、などという話が出回ったが、結局何も起こらなかった。

 などという話をちりばめながら、日本で始めての銃撃戦を行った(行わざるを得ない状況に追い込まれた、あるいは…)連合赤軍の、その凄惨なリンチ、その中でも自らの死が革命に直結するなら喜んで死のうといった人や、今度生まれてくるときは立派な革命兵士として生まれたかったといって死んだ人たち、そのあまりに純粋なものの考え方と、捉えようによっては大きなおせっかいである、社会的弱者に対する救いの手=世直し、という思想の持つ魔力など、書いていこうと思ったがなかなかに重たい。また1週間後の日曜日にはアキバで無差別殺人事件も発生し、その中にも今の閉鎖社会、格差社会の問題がはらまれておりそういったことを踏まえてエントリーを書くのはとてもじゃないが僕の手に負えない、と判断した。

 とりあえず、この映画の話は一度終わります。また仕切りなおしで書くかもしれません。最後にこの映画で初めて知ったことは、あさま山荘の管理人で事件に巻き込まれた女性が宮崎の人で、その後マスコミにも裁判にも一切登場しなかったのは、かつて言われていたような立てこもった連中との連帯感からではなく、ご本人が実は社会的立場が非常に弱くそこを権力に突かれたためだという説があることを知りました。興味のある方は一度ここで調べてみてください。まいど、毎度尻切れトンボの話でごめん。

早く映画の話を書こうと思いながらも、つい横道に

怪しい感じのお店でしょ、ここがスモーキング・バー
 はっと気が付いたら、もう6月も1週間が過ぎた。このところまた体調がぱっとしない。2週間ほど点滴に通ったおかげで憩室炎は治まったのだが、ここ数日また右のわき腹に鈍痛が走る。憩室炎のときはお腹に触っただけで痛かったが、今回はそうでもない。もしかしたら石が出来たのかもしれない。ああ、気が重いな。そういえば先週の日曜日に「実録連赤」を見に行って、いろいろ思うこともありエントリーの下書きを何度かしたのだが、上手くまとまらずそのままにしている。梅雨の空と同じようにはっきりしない、どんよりした日々が続いているのだ。

 そんな重たい日々が続く中、6日の金曜日(その翌日は久しぶりの土曜休日の予定だった。勿論予定は未定であり、結局は会社に出て遅れていた仕事を取り返す羽目になったのだが)の夕方、突然携帯がなった。いや、携帯はいつも突然なるもので、事前に予告があってなることはまず無いのだが。出てみると高校時代の友人であるMからだった。「この前Sが家に来て、今度お前を誘って飲みに行こうと話をした。明日の都合はどうだ」という。SもMも(あ、こういう並べ方をするとあっち方面の話題みたいだが、どちらも野郎です)、しばらく会っていない。Sは同じ宮崎なので会おうと思えば電話で都合がつくがMは僕の育った延岡というところに住んでいるのでなかなか会う機会が無い。もっともいつの間にか宮崎に家を建てて家族はこちら、本人は単身で延岡で仕事というある意味ちょっと羨ましい身分なのだ。

 お誘いの電話に1も2も無くのって、結局翌日の夕方7時にあるおでん屋に集合することにした。しかし、考えてみるとSは会社を経営しているいわゆる社長だし、Mも病院を開業しているドクターである。いわゆる世間的にいう「勝ち組」という連中だ。それに引き換えこちらは未だに賃貸アパート住まいで、多分今後もお金を稼ぐことには大いに苦労するだろうということが容易に想像できる、根っからのプロレタリアート、それもルンペンプロレタリアートである。待ち合わせの繁華街のところまで配偶者の車で送ってもらう時に「SもMもお金持ちなんだから、おでん屋なんかじゃなくて宮崎和牛のお店とかもっとこうリッチなところに誘ってくれればいいのに」と愚痴をこぼしたら、「あなたに気を使わせないためにわざとそんなお店にしてくれたんじゃないの」などとたしなめられた。もっともである。何年か前にやはりSとあと何人かでメシ食いにいったがいわゆる本格的イタメシ屋で大変居心地が悪かったことを思い出した。結局その日一番美味しかったのは締めで食べたラーメンだったりして、ああ、情けない。

 車から降りて時計を見ると7時まで後20分ほどあった。ちょっと中途半端な時間だったので本屋を冷やかしていたら、朝日新書のところで目が止まった。「本と映画と『70年』を語ろう」というタイトルで、鈴木邦男と川本三郎という名前が見えた。意外なことにこの二人の対談は初めてらしい。先週は連合赤軍の映画で、今週は赤衛軍の本かと、この手のことは連鎖するなと思いながらも立ち読みして、気がついたらお金を払っていた。その足でおでん屋に入るとまだ誰も来ていない。しかし土曜の7時前だというのに、いや7時前だからというべきか、カウンターも座敷も結構お客さんで一杯だった。お店の人に「連れと待ち合わせしてる」というと「Sさんですか」と聞かれ返事をしたら、3人分のおしぼりを置いてある席を示された。一人で先にやっとくのも行儀が悪いので、買ったばかりの新書を読んでいたら、すぐに2人がやってきた。

 お互いの近況を報告しながら生ビールで乾杯し、かつおの刺身やおでんや地鶏など、まあよく食べた。SやMとは高校1,2年同じ(持ち上がりというやつだ)クラスで、そのときの担任の先生が気さくで面倒見のいい方で、その先生が紹介してくれたおでん屋なのだ。そういう店なので客は高校の先生が多く、それもどちらかというと管理職よりは組合側のお客さんが多かった。まだ若くて生意気ざかりだった僕などは、その店で元某セクトだったという先生と意気投合し、校長会の帰りに来ていた団体相手に論戦を挑んだり、あるときは西ドイツから宮崎に来ていたお客さん、しかもお店の大事なお客さんの連れだったが、「クリスタル・ナハトを知っているか?お前らに代わって、日本人のパンタが総括したアルバムを出したぞ」などと訳の分からない話をして随分お店に迷惑をかけたはずだ。

 最初は話も上手くかみ合わずに、ちょっとしらけた感じだったがビールが回り始めてからは舌の回転も滑らかになり、昔話に花が咲いた。やれ、あいつはどうしているとか、この前会ったけど随分ふけたとか、人の噂話ですな。それはいいのだが、もうそれぞれいいオジサンになっているのに、未だに高校時代に可愛かった女の子の名前やいろんなエピソードを持ち出しては、いかに自分はモテテイタカとか、こう見えても昔は結構カッコよかったのだなどと余りにも次元の低い話になっていったのは、僕の不徳のなせる業だ。などと書いてしまうと、お前は自分だけ良く書くからダメだ、自分のことは書いてもいいが人のことを書いたらいかんぞなどと言われかねない。

 まあ、それにしても学生時代の友人というのはお互い気心が知れているからいい。これが仕事関係だと気を使うしお金も使うし、それでいて全然楽しくなく、下手すると翌日以降の仕事の発注量にも影響するから嫌になる。この日大変面白かったのは医者の中でも「勝ち組」「負け組」があり、美容整形を始めた××は勝ち組だが、金にもならない年寄りと子供だけを診察している○○は負け組、ついでにオレも負け組だ、などとMが話してくれたことだ。もっともオレから言わせりゃMも立派な勝ち組だが。まああまりこのようなことを書いていると単なる僻みだと思われて革命の大義もなくなるが(おいおい、どこにそんなものがあったんだ、いかんな、この前の映画の影響を受けすぎだ)。

 美味しいおでんや肴を食べていい加減お腹が一杯になってきたのでそこを出て次の店に行くことにした。どんなところに行くか3人でいろいろ話したがまとまらない。僕はこういうときに人を連れて行く店がない。ここはやはり地元宮崎で夜の街をブイブイ言わせているS社長におすがりして案内してもらった。連れて行かれたお店は、入ってから気がついたのだが去年加川良のライブの後にSに連れて行ってもらったお店だった。体格のいいママさんが声量豊かに「イッツ・ツー・レイト」を歌ってくれた店だ。Mから「歌え、歌え」とけしかけられて、それならばと荒木一郎の「ジャニスを聞きながら」を歌った。それからは、70年代のポップスや日本のフォーク、ロックの歌をがなりまくってやった。覚えているのは「人生を語らず」「プカプカ」「海岸通り」「男らしいってわかるかい」「たどりついたらいつも雨降り」「青春の影」「ゲット・バック」「ミセス・ロビンソン」「名前の無い馬」などなど。そうそう何故か「金太の大冒険」を最後に歌ったが見事にスルーされてしまった。あ、声量豊かなママさんには「夜が明けたら」をリクエストしました。

 大いに歌って(あ、これは7割がたオレ)語り、話は70年代から現在に至るまで時空を駆け巡り、もはや主語も述語も訳の分からない状態になりオジサン3人はその店を出た。11時を十分過ぎていたと思う。そろそろ解散するかというところだったが、何故かみんなで葉巻を吸いに行こうということになった。僕は知らなかったのだが、今宮崎にもスモーキング・バーというのか知らないけれど、葉巻が沢山用意してあり、そこで紫煙をくゆらせながら浮世のストレスを発散させるお店があるらしい。僕もタバコをやめてかれこれ3年以上経つが、これは一丁いってみるかということになった。あ、後の2人の名誉のために書いておくと彼らがタバコ吸わなくなってSはもう10年以上、Mは良く分からないが職業柄1年や2年ではない。それでもお酒を飲むとたまに葉巻を吹かしたくなるのだと二人して言うので、ちょっと不安になった僕は「それでまた喫煙習慣がつくんじゃないか」と聞いたが、葉巻は吹かすだけだから大丈夫だとMが自信たっぷりにいった。

 それでは、ということでそのお店に入ったが、バックに軽くジャズが流れるちょっとアンニュイな雰囲気の店。確かに入るとすぐにいろんな葉巻の入っている箱を持ってきて自由に選んでいいという。僕も適当なものを選んで吸ってみた。いやー、久しぶりに来ましたね。目一杯肺に吸い込みました。頭にくらくら、煙がふわふわ。バックのジャズの音は消えて頭の中には「スモーキング・ブギ」が「煙が目にしみる」が「フワフワWOWWOW」が鳴り響きました。そこではどんな話をしたのかもうほとんど覚えていない、伊東美咲に良く似たオネーサンがいたような気がしたが、はっきりしない。多分葉っぱでトリップしていたから、夢だったのだろう。
お金を渡してるけど、単なる支払いですよ、誰だいやらしい想像してるのはsugarmountain、お前だろっ!

メタボな身体に四角いギター、でもダンスも上手いしラップも出来た

 ボ・ディドリーが亡くなった。今日、仕事を終えて家で晩御飯を食べていた時だった。新聞を何気なく読んでいて、ふと目に入った黒枠の写真にボのおっさんが写っていた。思わず「え、ボ・ディドリーが死んだ」と声に出していってしまったが、お笑い番組を見ていた配偶者や子供達には???という視線を送られただけだった。実は、今月初めてのエントリーはこの前見た「実録連赤」の話をアップするつもりで途中まで打っていたのだが、ボ・ディドリー追悼のエントリーに急遽変える。もっとも書くことなんか余り無いのだ。以前、猫だぬきさんがニュー・オーリンズに行くと聞いたときに、ボという小太りなオッサンがイエロー・キャブに乗ってるはずだから、会ったら宜しく言っといてと頼んだが、残念ながら会えなかったらしい(当たり前だ)。何か文章書いていてもうつろなので動画を貼ります。



 あれ、山岸潤史だと思ったのはジェフ・スカンク・バクスターで、あらまクラレンス・クレモンスになんとグレグ・オールマン、スタンリー・クラークやトム・スコットといったジャズ・フュージョン系のミュージシャンもいれば、ええっデビッド・キャシディってギター弾いてたんだ、などとまあ出てくる、出てくるビッグネームに一世風靡の人たち。考えたらこれだけの人たちに影響を与え、尊敬されていた人なんだな。もちろんどんと率いるボ・ガンボスのボはボ・ディドレーのボであることは有名な話。それからこんなセッションもありました。



 こちらは超有名どころがずらり並んでいますが、意外な面子がジョー・ペリーやルー・リード。まあこの動画そのものは表彰式のセレモニーみたいで、ボ・ディドレーをメインにした映像ではないが、しかしどこの場所にいてもあのいびつなギター音と独特のリズム感は目立ちます。何を書いているのかだんだん分からなくなったので、最後はちょっと意外なボ・ディドレー賛歌。なんと数年後に大幅なメンバーチェンジをして「サテンの夜」というスタンダードを大ヒットさせるグループが熱狂的にボの音楽をやっています。しかし本当にいろんなミュージシャンに影響与えたんだな。今頃、天国でどんとと一杯やってるのだろうか。合掌。




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