まだまだ書くことに決めたから今日はBLOG記念日(サラダのパクリじゃ)

 一体どこのどいつだ、勝手に名前を変えたのは。いや、今日は確か「天皇誕生日」改め「みどりの日」で休日なのだが、零細企業に勤める僕は朝から通常通りに出社して1日仕事だった。その仕事が終わって帰ってきて新聞を見てクリビツテンギョウ(逆から読んでね-1)。いつの間にか今日は「昭和の日」なるものに変っていた。まただよ。得意の言い換えだろ。「敗戦」ではなくて「終戦」。「戦争責任」とやらは「一億総ざんげ」でクナトンナ(逆から読んでね-2 by山下洋輔)うやむやにするという必殺テクニック。まあ、懲りてまへんな我がポンニチ国家は。ということで、本日のエントリーは天皇制イデオロギーに絡めとられた、救いがたい日本零細企業における休日出勤の悲劇について語るつもりは毛頭ない。毛頭ないが、世間様がやれ大型連休だ、レジャーだ、バカンスだといってる中、額に汗して働くことの素晴らしさ、大手組合や御用組合のダラ幹連中が結集するお仕着せメーデーなどとは一切無縁な職場環境の劣悪さを嘆く暇があれば、さあ働け、やれ働け、という素晴らしき日々について書いてみよう。

 というのも大嘘なのだが、実は昨日の夕方に急遽本日の休日出社が決まり、不満はあったがここで仕事を溜めてしまい、後半の4連休がつぶれるのはもっと嫌だったので、とりあえずはちゃんと定時に出て行って仕事をした(当たり前だ)。しかし、どういう星の巡り会わせか僕が社会人として働くようになった80年代初頭から今日今日(きょうこんにち、と読んでね)に至るまで、この4月29日という日に休んだ記憶はほとんど無い。20.30代の頃はエネルギッシュな営業会社に勤めており、月末の売り上げに追い込みをかけるこの日は当然のごとく仕事で、振り替え休日などと言おうものなら「会社あっての休日だ」とか、「会社がつぶれたら365日休めるがそれでいいのか」とか「売れない営業は去れ」などと集中砲火が飛んできたものだ。まあまだ学生気分があまり抜けていない頃だったので、「テンノーの誕生日だから休むなどというプチブル諸雑派の諸君とは分岐を鮮明にして働くのだ」などと勝手な理屈をつけて休日出社を自己正当化していた。その後職種は180度違う仕事に就いたが、そこでも5月の連休前のこの日は通常稼動することがほとんどだった。もっともその分振り替えて連休を多く休めるようにはなったのだが。

 そうやって過去を振り返ってみたら、確かに今までの4.29は働いていた。フルに休んだのは何時の頃だろうかと考えていたら、すぐに答えが出た。一昨年だ。そのときはまだ失業者というか求職者で、そうだそうだ、このブログ始めたのが丁度一昨年の4.29ではないか、ということに気がついた。いや、全く忘れていたわけではないが、こうやって振り返ってみるとよく丸2年間も続いたものだ。何がって、このブログですよ。だって最初は「人生はさすらい」という名前でしかもパスワードで縛っていたから、ほとんど誰も見る人がいないブログだったのだ。

 そもそもどうしてブログを始めようと思ったのか、動機はいろいろある。もともと文章を書くこと、特にくだらない、取るに足らないようなことにこだわる文章を書くのは好きだった。ただ自己表現の場としてのブログという考えはほとんど無かったと思う。やはり、その頃の精神状態というか自分を取り巻く環境が大きな影響を与えたのだと思う。何度かここに書いたから以前からこのブログを読んでくれている人はご存知なように、僕は鬱病が原因で当時勤めていた会社を辞めて、療養生活というのか、糸の切れた凧のような生活をしていた。正確な履歴を書くと2005年の3月1日に心療内科の専門病院で病名を告げられ、それから1週間おきにカウンセリングと投薬での治療が始まった。仕事はしていたが、薬の影響で口が上手く回転しなかったり、どうしても朝が起きれなくて午後から出勤していた。最初はいろいろと周囲の人たちも気を使ってくれたが、だんだん慣れてくるとこちらに対する風当たりがきつくなってきた。いわくズルだ、仮病だ、単なる怠け病だ、などという声もちらほら聞こえてくる。

 最初は何かとかばってくれていた上司もだんだん態度に変化が現れるようになってきて、そのうち何時になったら会社を辞めるのかということを遠巻きに聞いてくるようになった。また僕自身も会社の人や取引先に会うのもつらいし、いちいち病気のことを説明するのも億劫になっていた。会社の経営陣もどうやら僕が早く辞めることを期待しているという話もときどき耳にした。通院始めて2ヶ月くらいで僕は会社を辞めることを真剣に考え始めた。ただ子供のこと、経済的なこと、そのほかいろいろなことを考えたがなかなか決心がつかなかった。あるときドクターに会社での状況や自分の考えについて相談した。「drac-obさん、早く辞めなさい。イノチあってのものだねです。このままだとあなたという人間が死んでしまいますよ。今の日本は何をやっても生活できるから、そんなことは心配しなくて大丈夫です」

 信じたワタシがバカだったのか。生活は大変だった。失業するとさまざまなことにお金が必要になる。一度など僕が働いていた頃の給料よりはるかに生活費にお金がかかった月もあった(決して贅沢な暮らしをしたわけではない)。ちょっと話が先に行き過ぎたが、結局2005年の6月末で会社を辞めて本格的に療養生活に入った。もっとも何をするというわけでもなく、朝は決められた時間に起きて太陽を浴びるように心がけたのと、働くことは出来ないので家事労働や家計のやりくりをすることにした。ジョン・レノンである。ハウス・ハズバンドである。などと今だからのんきなことが書けるが、そのときはそれなりに必死だった。いろんなブログをのぞいたり、動画を見たり(ヤフー動画の映画やギャオにはお世話になった)、以前から気になっていた本を図書館で借りたりするのが息抜きだった。生活は配偶者が昼夜働いてくれた。僕のなけなしの貯金や退職金などあっという間に無くなった。いやー、お金って貯めるのは大変だけど使うのはあっという間だな。この時期の僕は真のキョーサン主義者だったかもしれない。

 結局2005年の後半は何も出来ず、ただひたすら耐えていた。もっともこの頃のことはあまりよく思い出せない。記憶力はあるほうなので、多分脳が拒否してるのだと思うようにしている。それでも年が明けたら何とかしないと一家は破滅という状況だったので、まだ他人との交渉に自信はなかったが職業安定所に行って、シューカツとやらを始めることにした。離職してすぐシューカツしなかったのは病気のせいだとドクターに証明書を書いてもらい、相談に行った。すると予想したとおり僕の年代ではすぐに仕事は見つからないだろうと言われ、この際だから何か資格を取ったらどうだとアドバイスされた。自慢じゃないが資格など何も持ってない、せいぜい運転免許と小学校の頃取った硬筆検定4級くらいなものだ。僕の社会人としての人生は「無冠の帝王」がモットーだったが、この際それにはこだわらず一丁何か資格を取ろうと考えた。失業保険を貰いながら資格を取る職業訓練校に入るという方法があると、職安の人は教えてくれたのだ。

 資格と一口にいうがピンからキリまである。危険物取り扱いの資格は欲しいが、オレの方が危険人物なので無理だろう。自動車整備士は無理だ、何と言っても車のメカニズムが分からないし第一車に興味が無い、あんなもの走ればいいのだ。測量の資格はいいなと思ったが今更、伊能忠敬のような立派な人にはなれないからな、などと非現実的なことを考えていたのだから、多分にまだ病気の影響があったのだろう。いや薬の影響か。しかしいろんな訓練の資料を見ているうちに介護関係かPC関係のどちらかが一番仕事にありつけそうだと考えた。介護関係は結構真剣に考えた。なんと言っても高齢化社会である。2007年問題も喫緊の課題だ。それに僕はジイチャン・バアチャン子だった。結構お年寄りに気に入られるタイプなのだ。そのこと配偶者に話したら即決でダメだしされた。理由は僕が不器用だからとぬかした。「介護する人をお風呂に入れられる?あなたは子供をお風呂に入れたことがありますか?」。思い出した。僕がまだ若いパパだった頃産まれたばかりの長女をお風呂に入れたのだが、あまりにおっかなくて全身に力が入りすぎ、風呂からでたら両手がつってしまったことがあった。あれ以来一度も子供をフロに入れた事がない。

 決めた。パソコンだ。それまで徹底して避けていたパソコンの勉強をこの際やってみよう。そう決心して「ビジネスソフト実務科」という訓練校のコースに申し込んだ。もっとも申し込んだらOKではなく、やはり簡単な適正検査と面接試験がある。それに受かって初めて入校できるのだ。その試験は翌年2006年の1月にあった。20人の募集に対してどれくらいいたのだろうか。100人くらいはいたのだろうか。会場に行ってみると、お前は無理だろ、と言いたくなるようなヤンキーのお兄ちゃんやド派手なオネーチャンもいたが大多数は真面目そうな若者である。そう、圧倒的に20代、30代なのだ。40代などというのはぱらぱら。そうそう、そのとき僕は一応スーツ姿で行ったのだが、そんな窮屈な格好している人はいなかった。適正検査というのはちょっとした知能検査と反射性・反復性をチェックする内容だった。それが終わって、集団面接があった。5,6人ずつ分けられて別の会場に行って幾つかあるテーブルに赴き、口頭の質問を受けるというものだ。僕の面接は笑顔が印象的なおとなしい感じの女性だった(実はそれはよそ行きの顔だったことを2週間後に知るのだが、訓練校のN井先生だ)。質問に対しては無難に受け答えした。最後の質問が終わったときに、「万一、この学校がダメなときは佐土原の学校でも通います」というアピールをしておいた。どういうことかというとコンピュータの訓練校は僕の自宅の近くと随分離れたもうひとつの学校があり、その遠いほうがまだ定員の余裕があると試験官が教えてくれたのだ。

 数日して、入校を許可するはがきが届いた。1月の中旬から始まるので準備しろという内容だった。そして僕はその訓練校に3ヶ月間通い、WORDとEXCEL,PPTなどを学んだ。学校に通って物事を学ぶと言うのはおよそ四半世紀ぶりで、とても新鮮だった。クラスの仲間も圧倒的に20代、30代が多かったが、考えようによっては自分の子供といっても大差ない人たちとたった3ヶ月間だったが、ある意味苦楽を共にするという貴重な経験をした。そう、その訓練校が終了する間際に、せっかく縁があって出会った仲間なので、みんなで集まることの出来るネットワークを作ろうと決めた。掲示板でも良かったのだが、僕自身がブログの運営に興味を持ち始めていたので、いろいろ調べてパスワードでみる人を限定するブログをスタートすることにした。それがこの「別館4階のBOXから」の前身である「人生はさすらい」である。

 もともと訓練校の若い人たちを読者に想定して始めたので、最初のエントリーはやたら訓練校の頃の話やエピソードが多い。コメントも何人かくれたし、毎日読んでますといってくれた人もいた。しかし、みなそれぞれ社会や家庭に戻ってしまうと、たかだか3ヶ月だけの付き合いのオッサンブログには興味が薄れてしまうのだろう。誰からもリアクションが来なくなり、逆にネットで出会えた大学のサークルの先輩であるsawyerさんやこちらは直接の後輩であるsugarmountain君、そして博覧強記のセンパイ、黒木燐さんなどが来てくれる様になり、それからパスワードを止めて、ブログタイトルも改めて今に至るのだ。しかし、こんないびつなブログなのにいろいろな人が来てくれる様になり、何とか続いている。何度も「もう誰も見ていない」とか「どうせ更新しても無駄」などと投げやりになったが、そのたびにブログ拍手やコメントに支えられて今日までやってこれた。これからどこまで行けるか分からないが、出来れば最後までお付き合い下さい。ということで、本日は閲覧してくれる皆様に対して30分間の土下座で感謝の意を表したい。土下座!!さぁ、みなさんご一緒に、カム土下座、ってこのネタ以前使ったような…。

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そうか、今は新学期なのだ

 1週間のご無沙汰でした、司会の玉○宏でございます。などと昔懐かしい「ロッテ歌のアルバム」の名物司会者のセリフが思わず出てくる春の宵である。いや、早いものでもう4月も終盤。巷ではゴールデン・ウィークなる単語をやたら見かける時期になった。ところでこのゴールデン・ウィークという言葉を初めて目にしたのは、確か小学校の1年生の頃だ。当時の我が家にはマンガ雑誌を絶対に買ってはならないという鉄の規律があったのだが、ときにはその規律が緩むことがある。どういうことかというと父母にねだっても絶対買ってくれないが祖父や親戚の伯父伯母あたりに甘えると、運よく購入してもらえることがあったのだ。そのときは確か祖父が小学校に入学したお祝いに何でも好きな本を買ってやるといわれて、ええとあれはたしか「ぼくら」だったと思うが月間マンガ雑誌しかも12大付録付きというのを買ってもらった。あ、今の人たちには説明しないと分からないかもしれないが、昭和の30年代は月間漫画誌が全盛だったのだ。今あげた「ぼくら」のほかにも「冒険王」や「少年」、「少年画報」などという月刊のマンガ雑誌があった。アトムや鉄人やまぼろし探偵たちがそこで縦横無尽に活躍していたのだ。もっとも月刊なのでピンチになっても1ヶ月待たないと次の展開が分からないというところもあったが、その待っている1ヶ月の間に自分なりにストーリーを想像するところに楽しみがあった。

 また付録も紙でできたちゃちなもので、絶対に見本どおりに作れず、特に輪ゴムをつけたりするとすぐに破れてしまい、僕が大事に作ったまぼろし探偵の紙ピストルはついに火を吹く(いや、ゴムが飛ぶだけの仕組みでしたが、気持ちの上ではパンパンと、あ、パンパンといっても戦後の性風俗に関係する職業ではなく、ピストルが鳴る擬音なんですが、っていい加減しつこい。久しぶりのアホエントリーなのでやたら饒舌である。饒舌が終わるとき君は遠くなる、ってもういいか)ことなく我が家のフロの焚き物と化してしまったという悲しい歴史もあった。その「ぼくら」のマンガに誰の作品だったか良く覚えていないのだが、やんちゃでおてんばな女の子が主人公の短編があって、その主人公が「だってゴールデン・ウィークも、もうおしまいでしょ」という場面があった。そのストーリーの中に連休に関するイメージが無かったせいか、あるいはまだ小学1年生であまり曜日の感覚が無かったのか、何故か僕はゴールデン・ウィークというものは何かお菓子のようなものだと思い込んでしまったのだ。

 多分そのマンガに出てくる登場人物がみんなプチブル的で、家に大きな冷蔵庫があったりマイカーがあったり、なんと電話機があったりする生活だったので、ナニゲニ西洋のお菓子だと思い込んでしまったのだ。ゴールデン・ウィークの正確な意味を知ったのは随分後だったような記憶がある。わはは、今思い出しても恥ずかしい。もっともそのせいかどうか知らないが、生まれてこのかたゴールデン・ウィークなどにはトンと縁が無い。ゴールデン・ハーフと縁がないくらい、全く縁がない。ゴールデン・ハーフといえばこちらも嫌な思い出があって、あるとき「バナナボート」を歌っていたら、中学の教師に怒られた。「子供の癖にそんな歌を歌うな」というのだ。「でーお、デーオ、イデデ、イデデ、足がいてて」などと歌っていたのが何故いけないのかと若干の反抗を試みたら、「そりゃゴールデン・ハーフの歌じゃろが、スカートのみじけぇオナゴんこどんが歌うような歌を歌うな」とか、ナントカ言われて往復びんたである。いや、バナナ・ボートというのはトリニダードのカリプソで労働歌なのだ。劣悪な労働条件の中、それでも明るいリズムとメロディに疎外され続けてきた黒人たちの魂の叫びなのだ…などといった理論武装はまだしてなかったので、残念ながらびんたを食らい続けた。仮に知っていたとしても、そんなことを言おうものなら「男んくせに口答えすんな!!」とかなんとか言われてびんたの回数とパワーがさらにヒートアップしただけであろう。僕の通っていた中学校は、徹底的な先生攻撃、生徒防衛のスパルタ学校だったのだ。

 と、まあ単なるゴールデンつながりで話が始まったが、実は今日のエントリーは久々の家庭ネタというか教育ネタである。我が家のバカ娘二人の授業参観が本日あったのだ。もちろん今日突然ということではなく、学校から配布されるプリントにスケジュールが書かれてあり、配偶者とどっちがどっちに行くかを先日話し合った。上の子は高3で、いよいよ進学も本格的になるので、授業参観も朝から始まりお昼の食事(ご丁寧に売店でパンが買えます、などと書いてあった)を挟んでやれPTAの総会だの、学年総会だのスケジュールびっしりで夕方まで、つまり日曜日が丸々つぶれるというボリューム。下の子はこちらも中3で受験生ではあるのだが、お昼に参観がありそのあと学年総会だったが、それは委任状を出せば出席しなくてもいいという。では、どちらに誰が行くかと配偶者と話したのだが、子供ふたりは是非とも父に来て欲しいという。これは決して子供たちに好かれているから、では残念ながらなくて、要は父は怒らないが母はすぐ激怒するという、日ごろの行動パターンを分析した結果であろう。

 結論から言うと、僕が下の子で配偶者は上の子ということになった。というのも上の子の高校は僕も出たところではあるのだが、やたら進学率とか有名大学などという言葉が飛び交う所なので、僕が切れて「ナンセンス」「キョーイクの帝国主義的再編を許さないぞ」とか「ツクバ、チューキョーシン路線フンサイ」などと喚きだすのではないかと配偶者が心配したからだ(ウソぴょーん)。しかし、今の高校というのはおせっかいというかなんというか、春休みの課題を提出していない生徒に対しては父兄がきっちり家庭学習をチェックしろとのお達しで、学習結果記入表みたいなプリントなんかも配布されていた。何故そんなことが分かったかというと、昨夜、配偶者が歓送迎会でいないのを見計らって上の子が何やらプリントを持ってきたからだ。

 「お父さん、これ、お父さんが書いてくれん?」といって差し出したプリントには、うちのバカ娘の名前が書いてあり、その保護者の方へという書き出しで、○○さんは春休み課題を5教科提出していません。ついては自己批判と、それを何時までにどのように完成させるか計画書を提出せよ、みたいなことが書いてあったのだ(あ、勿論、「自己批判」なんて単語は書いてないけど、ま、そんなニュアンスよ)。最初は「アホか、お前。学校の課題くらいちゃんと出さんか」と怒ったのだが、よくよくそのプリントを読んだら、何度か個人面談して課題の大事さと期限を守ることの大事さを説いたが、もう手に負えません。ついては親が管理してしっかりさせてください、みたいなことが書いてあったのだ。それを読んだら、ちょっと考えが変わった。要するにセンセイの言うことは聞かないから、親がちゃんと言って聞かせろ、ということなのだ。しかし、そこまで構ってやらないといけないものだろうか。課題を出さないことが学校=担任の心証をどんなふうにするか、ひいてはそれが内申書にいかに影響するかみたいなことを話してもいいが、要は本人が勉強に対する動機付けが無ければ、あめや鞭でいかにつったり引っぱたいたりしても無駄であろう。しかし、女の子というのは意外と度胸があるというか、課題を5教科まるまる出して無くても平気である。僕が高校生の頃はやはり教師に怒られるのが嫌でそれなりに課題は期限内に出していたと思うのだが。無論、この事実を知った配偶者は激怒して娘からケイタイを取り上げた。

 そこで、本日の授業参観である。12時半からの授業だったので、午前中はゆっくりして昼過ぎに自転車で中学校に向かった。丁度昼休みで大勢の中学生が教室の近くで遊んでいた。中には挨拶する生徒もいて、はて、今のはどこの子だろうと世間の付き合いの狭い父親はどぎまぎすることが多かった。日曜参観だけあって結構父親も多い。参観の科目は道徳だ。せっかくの機会なので基本教科の英語や数学のほうが良かったのに、と考えながら教室に入った。黒板には「生命」という文字が大きく書かれていた。定時になり全員が挨拶して授業が始まった。先生の切り出しはこうだった。「今から配るプリントの歌を皆さんご存知ですか。その歌がどんな意味を持っているか今日は一緒に考えましょう」。配られたプリントには「シャボン玉」の歌詞が書かれていた。ああ、野口雨情の夭折した赤ちゃんの話か、そこから生命の大事さを説こうという考えだな、などと世間ずれしたオトナは舐めてしまった。ところが、なかなかに感動的な授業だったのだ。

 先生は黒板に大きな紙を張り出した。そこにはこの授業の前に生徒たちに「生命と聞いてイメージするものは」という質問に子供たちが答えた項目が箇条書きしてあった。男子、女子の差はあまりなくやはり「大切なもの」「ひとつしかないもの」とか死や成長、神秘といった単語と対比して答えているものもあった。そのアンケートの結果をそれぞれに質問しながら、どうして生命は大切なんだろうかという疑問を投げかけながら文部省のテキストを開いていった。題材に上がったのは同じ中学生の作文で、2人兄弟だったのに、母親が10歳以上はなれた赤ちゃんを産むと聞いて、とても嫌だったこと、母に何故産むのかなどと詰問したことなどが最初に書かれていた。そのときの母は答えなかったが、あるときに自分が赤ちゃんを産もうと思ったのは弟の死が原因だった、と語り始めたのだ。

 母は弟と二人兄弟だったが5年前に白血病でたった一人の弟を亡くした。そのときの悲しみや絶望感から、自分の子供も2人兄弟だが万一のことがあったときにもう一人兄弟がいたほうがいいだろうと考えて産んだ。らしい。この話を聞いて正直ハァと思った。んなもん、いちいち子供にお伺い立てて産むもんじゃねーだろ。また2より3のほうが安心できるって、流石に話が「産」の話だけに良く出来てる、などと内心おちょくりまくっていたのだ。ま、所詮、文部省のテキストなんてこんなもんだろう。しかし、白血病なんていうシチュエーションより交通事故かなんかのほうがリアリティあるんじゃねーの、などと僕の心の中の毒舌は止まらなかった。

 この後はお決まりの野口雨情の話でちゃんちゃんかな、などとだんだん授業に興味が薄れた頃、先生が黒板のところにビデオを運んできた。他の教室では音楽がかかったりしていたので、最後はビデオで何かやるのだろうと思ってみていたら意外なことを話し始めた。この先生にはやはり二人の子供さんがいらっしゃるとのことで下の子はまだ2歳になる前だが、実は本当はもう一人子供がいたと切り出した。その子供は母親の胎内に生命を宿したものの不幸なことに成長することが出来なかった(枯死産?とかいった)。そしてその後また母親の胎内に生命は宿ったのだが、今度は20週くらいで産まれた、超早産の赤ちゃんだった。体重は700グラムしかなかった。と、話が始まり何とそのときの病院での奥さんと赤ちゃんの様子、病室の様子などをビデオで見せてくれたのだ。

 画像で見る赤ちゃんは痛々しかった。乳児用のおむつをしているのだが、それが胸いっぱいのところまで届いている。つまりそれだけ小さいのだ。また目のところにタオルをしていたが、殺菌のため紫外線を定期的に当てなければならず、そのときに目を焼いてしまわないために目隠ししているのだ。また再三ブザーがなるのだが、自力呼吸では十分酸素を取り込めないので酸素濃度を一定にする器具が置いてあり、その濃度が低くなるとブザーで知らせるのだ。その痛々しい赤ちゃんの様子を見て、それでも赤ちゃんは一生懸命呼吸をして体を動かし、産まれて来た生命という「義務」にたいして生きようという「責任」を果たそうとしているのだ。それも誰からも教わることなく。このビデオの登場は生徒たちにもいい意味でショックだったようで、下の子も家に帰ってから配偶者に話していた。しかし、この先生見た目はおっとりしているけど、自分の私生活まで教材にするとは侮れないな。しかし、そこまでのことをしたから子供たちには通じたんだろう。

 授業参観が終わって、自転車で帰りながら考えた。教育は中学校までのものをしっかり理解していれば十分生きていけるな、というより、中学までに習ったことを素直に実践できればもっともっといい世の中になりそうだけどな。挨拶すること、人に迷惑をかけないこと、自分がされたくないことは他人にしない、自分が大切なように他人も大切に、などと柄でもないことを考えた1日だったのだ。しかし、オレこんなエントリーばっかり書いてるから先輩から「破天荒なことを書く」と言われるのかな?と、最後は楽屋落ちでした。

アナザー・サイド・オブ・FM TRIBE

 連日のフランシス・マバッペ・トライブ、フィーチャリング西藤大信のエントリーである。丁度1週間前に何の予備知識も無くライブに行き、そこで強烈な演奏を体験して、その日から毎日同じCDを聞いている。フランシス・マバッペの1枚目のリーダーアルバム『FM TRIBE vol.1』だ。これはライブの後の物販コーナーで、その日演奏した曲(「インターナショナル・マン」、「ニード・サムバディ」、「アフリカ」それと「リザ」と「サワ」もやったような気がする)が沢山入っていたので購入した。実はオープニングに演奏したアコースティックな曲の入っているアルバムも欲しかったのだが、そこにあった2枚目のリーダーアルバムには気がつかなかった。このあたり思い込んだら周りは何も見えないという僕の悪い性格が如実に現れている。あちこち検索しているとフランシスの2枚目のアルバムがアコースティック中心になっていると知り、先ほどCD Babyで通して試聴したら6曲目の「Banana Africa」がその曲では無いかと判明した。このアコースティックなアルバムもなかなかいいので、AMAZONに申し込もうと思っていたら3~5週間待ちになっていた。やはりCDと本は一期一会である。いや、思い立ったが吉日である。

 ところで、そのときのライブでフランシスの存在感と西藤さんのギターの音色も素晴らしかったのだが、実は脇を固めたサックスとドラムス・パーカッションの人も僕の印象に残った。ドラムスのTodd Islerも実は物販コーナーにCDが置いてあり、そのジャケットのユニークなイラストも気に入って購入しようと思ったのだが、先日のエントリーに書いたように当日結婚式に出席したため財布の中がオールモスト・エンプティだったのよ。もちろんサム・マネーはあったからフランシスのアルバムと西藤さんのミニ・アルバムは買えたけど(Y尾君に1,300円借りてやっと支払ったのだが)、他のCDは買えなくてキャント・ゲット・イナフだったのだ。などとルー語なのか何なのか分からなくなってきたが、実は今日は先日のライブで見たサックス・プレイヤー、Lenart Krecic(リナート・クレシック)とドラムスのTodd Isler(トッド・アイスラー)のお二人を紹介しようと思っているのだ。そうだ、ひとつ大事なことがあった。ネットで調べていたら当初のドラムはケビン・ジョーンズという人だったらしい。

 まずは二人のキャリアを紹介したいのだが、西藤さんのHPに詳しく出ていたのでそこから引用する。


Lenart Krecic (リナート・クレシック)
Tenor Sax

1982年、スロヴェニア生まれ。
7歳のときピアノを弾き始める。
14歳のときサックスに転向する。2002年、音楽高校を卒業後、2003年、ニューヨークにある、ニュースクール音楽大学へ入学。
Billy Harper, Reggie Workman, Buster Williams, Andrew Cyrille, Joe Chambers, George Garzone, Bobby Sanabriaらに師事する。
これまで、Reggie Workman, Jason Hwang, Chico Freeman, Wynard Harper, Awery Sharp, Benny Powell, Joe Chambers, Billy Harper, Cecil Bridgewater, Gerry Hemingway, Yayoi Ikawa, Keyon Harrold, Matthew Garrison, Candido, Sonny Fortune, E.J. Strickland, Kevin Jones, Francis Mbappe, Tyshawn Sorey, Jamire Williams, Diane Moser, Howard Johnson, Boris Kozlovらと共演してきた。また、Reggie Workman, Gerry Hemingway, Bobby Sanabria, Jamire Williams, Adam Jacksonらとレコーディングする。
2007年5月ニュースクール卒業後、ニューヨーク大学の大学院に入学し、現在Chris Potter, Don Friedman, John Scofield, Tony Moreno, Jean-Michel Pilcらに師事している。



 YOU TUBEで見つけた演奏はスタンダードもあったが、本人のオリジナル曲がありそれが非常に良かったので貼り付ける。僕が「アイランド」の頃のクリムゾンと思ったのは、この演奏で聴かれるキース・ティペット風なピアノとサックスの音色から連想できるのではないか。



 どこかの学校の教室かリハーサル・ルームでの演奏だろうか。肩の力が入っておらず、しかしながら緊張感は保ちつつじっくり聞かせるバラードである。このときの演奏があと3曲アップされており、僕は最初にスタンダードの「ウィスパー・ノット」を聞いたのだが、いい意味で無表情というか、無機質な音色は先日のライブと同じだった。まだ弱冠26歳である。彼のこれからにますます期待したい。


Todd Isler (トッド・アイスラー)
Drums, Percussion

ドラマーであり、教則本の著者でもあるトッド・アイスラーは、20年以上もの間、ジャズやワールドミュージックシーンの中で、ニューヨークを拠点に活動を続けています。
これまで彼は「Two Step」と「Duets and Beyond」という2枚のリーダーアルバムを出しており、また教則本「You Can Takadimi This」(by Gerard and Sarzin、2005年)の著者でもあります。
トッドはGoetheインスティテュートのサポートのもとアフリカツアーに参加しました。
また On FireのJAZZIZパーカッション部門で優勝しました。
また彼は、いくつかのモダンダンスカンパニーのためにアメリカ中で演奏、作曲してきました。
トッドはBosphorusのエンドースメント契約アーティストです。



 この人もYOU TUBEに映像があったが、ギリシャ音楽のバックでパーカッションを叩いているものが多くて、本来のドラムやアフリカの打楽器を叩いているものはあまり無かった。もっともギリシャ音楽の映像を見ていたらブーズーギというマンドリンの親戚みたいな楽器が写っていて、そういえばキャット・スティーブンスの「ルビー・ラブ」やポルナレフの「ギリシャにいるジョルジナへ」などの曲に効果的に使われていたことを思い出した。それでは彼の独特のリズム世界へどうぞ。



 このほかにもYOU TUBEに映像があるので、興味を持たれた方は是非ご覧になっていただきたい。そしてCDを購入してじっくり聞いていただきたい。いやー、世界は広いというか、僕自身ワールド・ミュージックなるものはそれほど関心が無かった(いや、勿論レゲエだとかスカは大好きだったし、ライ・クーダーや夕焼け楽団などのボーダーレス・ミュージックは好きだったけど)が、もう音楽セクト主義は止めないといけないな。そうそう、最後にまたフランシスの1枚目のアルバムのことだけど、この前ナニゲニ参加ミュージシャンを見ていたら、ギターのところにDavid Gilmoreと書いてあった。デ、デイビッド・ギルモア?あ、あのデイブ・ギルモア?言われてみればスライドの使い方が、いや、そんなことないだろ、同姓同名の別人28号だろ、などとまた調べる楽しみが出来たのだ。

I was born in Africa.But, now I'm an International man.

 あれから1週間近く経つのに、まだフランシス・マバッペ・トライブと西藤大信のライブの音が耳に残っている。とにかく家に帰ってPC立ち上げると、すぐにマイミュージックを開き、ライブで買った『FM TRIBE vol.1』を最初から聞いているのだ。時には「インターナショナルマン」「ニード・サムバディ」「アフリカ」の3曲だけはもう一度聞きなおしたりもしている。そうそう、西藤さんの「メッセージ・トゥ・ユー」も毎日聞いている。この素晴らしさを何とか伝える方法は無いかと考えたときに、頭にひらめいたのが「YOU TUBE」だった。早速検索してみたら、ありました。2006年のニューヨークのバーで行われたライブを録画したようだ。残念ながらモノラルでしかも素人がビデオで撮った様で画面も少し安定しないし、音のバランスも良くない。音も先日のクリムゾンを連想させるようなものでは無いが、せめて雰囲気だけでもどうぞ。



 FRANCIS MBAPPEで検索したらわりと画像があったので、喜んで見ていったらフランシスの映像は演奏モノが2本(同じ投稿者なので音質と画質が同じなのがちょっと残念)、それとテレビのインタビューが1本。もっともカメルーンの公用語のフランス語なのか、現地の言葉なのか良くわからない。そういえばライブのときカメルーンは200以上の言葉があるなんていってたような、いや、あれはリズムのパターンの話だったか、今では記憶も定かでは無い。何を喋ってるか分からないので、どなたか意味が分かる方が居たら教えてください。インタビューはこんな感じです。



 そうそう、検索でヒットした映像でピアノトリオもあり、そこではフレットレスベースを弾くマバッペが写っていたが、これは別人28号だった。しかし同じ姓で楽器も同じベースなので親戚かもしれない。そのナントカ・マバッペさんがベースを弾いてる演奏でジミ・ヘンの「ヨイヨイ音頭」をやっていた。この画像です。



 なかなかに味のあるボーカルと、やはりリズムの切れはものすごいものがある。ああ、ロイクには勝てねぇなどとややベサツ的な言葉が飛び出たりするのだった。このエントリーを書くきっかけは昨日のかくたさんと狸さんのコメントのおかげなのだが、ピーター・ガブちゃんの映像もついでに貼っておきます。勿論かの名曲「ビコ」を歌っております。



 しかし、苦しいときのYOU TUBE頼みだが、フランシスの音はこんなもんじゃないので是非彼のHPで試聴して興味を持った方はCDを購入して聞いてみてください。ロックとかジャズとかファンクとかアフロとかなんだかんだ言うのがあほらしくなるくらい、音楽なんです。最後はPFMの名曲で「Celebration」をお届けします(うそぴょーん)。




インターナショナル・マン

西藤さんは流石に僕の名前を正確にしかもミスター付きで書いてくれた
 と、いうことで昨日のエントリーの続きなのだが、「ジンゼン結婚式」というのは「人前結婚式」のことで、式に参加している全員が承認して結婚という契約が成立するということらしい。確かカトリックの結婚式だったか、似たようなのがあって牧師が「この結婚は皆さん全員が承認しないと成立しません。一人でも異議のある人が居たら流れます」などという説明を、サークルの後輩で今はD大学の学生課のエライサンになってるらしいK君の結婚式のときに聞いたことがある。確か83,4年の頃ではなかったか。当時のサークル時代の先輩・友人・後輩が結集して式に参加したのだが、牧師のその説明を聞いて、全員で「ナーンセンス」と叫んで、結婚式をめちゃくちゃにフンサイしてやろうと根回しをしたが、皆さん立派な社会人におなりで、そのような「ボーリョク学生」がやるようなことには誰一人乗ってこなかった。非常に残念だった。

 などと、話がまたあらぬ方向に行きそうで、その結婚式で賛美歌を歌ったあとは、銀閣寺の今は無きサーカス&サーカスの跡地にできたCBGBとかいうクラブでパーティをやったとか、そこにD大の職員(良く考えたら新郎の同僚なので当たり前だが)が沢山来ているのにアジをやったバカが居た(あ、オレだ)とか、そのあとは黒潮丸だったか串八だったか座敷で鯨飲鯨食をして、それでも物足りなくて北白川の天下一品までタクシーで行ってチャーシューの大を食ったとかいう話になりそうなので止める。って、十分脱線した話を書いているのだが。

 まあ、久しぶりの結婚式で過剰な演出も無く、新郎・新譜の人柄が浮かんでくるいい結婚式だったのではなかったか。5,6年前に勤めていた会社の社員の結婚式に行ったことがあったが、そのときは新郎・新婦のこれまでの人生をビデオじゃなかった、スライドで上映されて、それぞれにストーリー仕立てになっており、ああ、こうやって見ると「Every Dog Has His Day」というのは単なることわざではないのだなぁと思うこともあったのだ。ちょっとこのあたりの表現が曖昧なのは、リアル社会に関わるので、ちょっと自粛しているのだ。ま、そんなことはどうでもいいか。

 ところで、いつからかは知らないが結婚式の料理は持ち帰りが出来なくなった。少し前は食べきれないほどの料理が出されて、その大部分は持ち帰り用になっていたが、食中毒を懸念してかテイクアウトせずにこの場で全て食べろなどというアナウンスが流され、さてそうなるとメインのタイの塩焼きをどのようなタイミングで食べるかが喫緊の課題として浮上した。と、いうのも僕は結婚式の料理で一番好きなのがタイの塩焼きで、しかもそれは冷めていることが条件なのだ。少し冷たくなった固いタイの身を箸でつまみ、皮と一緒に引っ張ると、サクッという感じで切り身が取れる。皮の部分には荒塩がかかっており、そのまま口に放り込んで噛むとほのかに感じる玄界灘の潮の味…。

 で、楽しみにしていたタイの塩焼きは出なかった。大層不満であった。その不満を抱えたまま時計を見ると17時半近い。会場に入るときに今日は途中で抜けるからと、新郎や会社の連中には断っていたが、一応自分のテーブルの人たちに会釈して、それでも引き出物の袋はしっかり持って、死んでもヒキデモノを離しませんでしたと木口古兵がって、もうそれはいいか、早足で会場から去ったのであった。配偶者に17時40分には車で迎えに来るよう、その際に着替えも一緒に持ってくるよう頼んでいたので、ケイタイを鳴らした。出てきたのは下の子で「どした?結婚式もう終わった」などとのんきなことを言う。聞いてみるとまだ自宅から出ていないという。コノヤローせっかくのライブに遅れたらどうする、と怒ってすぐ来るよう伝えた。
手前のアコギがオープニングのバラードを飾った

 車が来て乗り込み、バックシートで礼服から普段着に着替えていると、何となく自分がビートルズのメンバーか何かで、「ア・ハード・デイズ・ナイト」のワンシーンみたいだと思った。それだけ気分がハイになっていたんだろう。雨が降っていたが、車はスムーズに流れ会場時間の18時を2,3分回ったところでH高時計本店に着いた。受付にはM原さんがいて、Y尾君はもう会場に入っていると教えてくれた。階段を上がって2階にいくと仮設ステージの前に椅子がずらりと並べてあり、Y尾君は前から2列目のベスト・ポジションを取っていてくれた。階段を上がったところに即席のドリンクバーが出来ていたので、そのことを教えると早速ワイングラスを2つ持ってきてくれた。

 ところで、この日に見るフランシス・マバッペ・トライブは全く先入観なしというか、情報もしらず、西藤大信は若手ジャズ・ギタリストというくらいの認識しかなかった。しかし、そんなことはどうでもいいと思えるような圧巻のライブだった。18時半を回ったところでMCが入り、すぐにミュージシャンが登場した。サックスの背の高い白人、ドラムのちょっと小柄な白人、そしてイケメンの我がポンニチ代表の西藤大信、最後に登場したのがふっくらというよりがっしりと表現したほうがいいベース兼ボーカルで今回のグループのリーダー、フランシスだ。最初にメンバー紹介を西藤さんが当然日本語で行う。ピーター・ガブリエルと競演したというところに僕はちょっと興味を持ったが、まさかジェネシスみたいなプログレ系の音では無いだろうと予想していた。

 1曲目はフランシスがアコギを手に取り、ステージ中央に置いてあった椅子に腰掛け爪弾くところから始まった。彼はアフリカのカメルーン出身でその国の子供たちのことを歌った歌だと西藤さんが説明してくれた。メロディのきれいなバラードで、言葉は全然分からないが胸に染みてくるものがあった。ふと、下地勇を始めて聞いたときのことを連想した。しかし、バラードが終わってからはリズムの嵐だった。とにかくベースがうねるというか、グルーヴするというか、ビンビンなのだ。声は意外に高いがキンキンするような声質ではないので聞きやすい。ベースを弾きながら歌うというのは、ジャック・ブルースというか(我ながら、たとえが古いなぁ)、最近ではスティング(ってスティングも相当古いが)などが有名だが、どっちかというとスティングみたいな声の感じです。あ。説明してもしょうがないので彼のHPでかなり試聴できるので聞いてみてください。

 西藤さんのギターはテクニックに走ることなく、エモーショナルな音色をかなで、ドラムはアフリカの打楽器だろうか名前は分からないが、不思議なビートを叩いている。サックスは何となく無表情というか、癖のないところがこの人の個性なんだろうか。いや素直に耳に入ってくる音だ。そうそう、何曲か演奏を聴いているうちに頭の中に「アイランド」時代のキング・クリムゾンが浮かんできたのだ。ドラムはイアン・ウォーレスでサックスはイアン・マクドナルドではなくメル・コリンズ時代のクリムゾンだ。一体どこに共通項があったのだろうか。今考えてみると不思議な連想だった。

 何曲目だったか、カメルーンのリズムをフィーチャーした曲をやった。聞いてビックリ、沖縄のリズムそっくり、チャンプルーズだ。もっとも一言でアフリカのリズムといっても沢山あるとMCで話があり、変則5拍子のリズムや、何じゃこのリズムはという摩訶不思議なものもあった。共通して言えるのはバンドのリズムの切れのよさ、特にエンディングの思い切りの良さ。突然、終わるのだ。一切の余韻無く。ところで、今日のライブはチケットの要らない、いわゆるフリー・ライブなのでせいぜい1時間ちょっとだろうと思っていたが、何と前半1時間休憩入れて後半1時間というみっちりライブであった。これには感謝感激した。

 休憩時間にトイレに行ったのだが、2階のトイレが多かったので1階に下りた。するとそこに西藤さんがいた。そばで見るとやっぱりイケメンである。つまりオレにとっては不倶戴天の敵である。ルックスが良くて楽器も上手い。天は簡単に二物を与えると心の中で毒づいた。しかし、二物ではなかった。彼の作曲能力に驚くのに時間はそうかからなかった。畜生「Message to you」みたいな素晴らしい曲も作れて、演奏できて、しかもあの外見だよ。世の中どこか間違ってると、もてないオトコのひがみはエンドレスに続くのだった。

 休憩も終わり、後半のステージが始まった。お客さんは立ち見を入れて100人ちょっとだろうか。いい具合に会場も暖まり、後半は1曲目からノリノリであった。そういえばフランシスが何か話すと西藤さんがそれを日本語にするのだが、ステージ途中で「今日は通訳の西藤大信です」という自己紹介は受けた。それとフランシスの「ゲンキデスカ?」という日本語はアントキの猪木の真似だろうか。一体誰が教えたのだろう。客席から「元気でーす」というレスポンスが嬉しいのか「ゲンキデスカ?」を何度か連発した。

 セットリストはどういうものかさっぱり分からなかった。ほとんど全てフランシスのオリジナルだったと思うが、西藤大信のオリジナルの「Message to you」は素晴らしかった。彼のギターも指とピックを交互に使い、曲に陰影をつけていたがフランシスのボーカルが一段と素晴らしかった。楽しいライブは時間が早く過ぎてしまう。ラストナンバーは全員大乗りの演奏で、古びたフレーズだがまさしく客席とステージが一体になった熱い演奏だった。最後のメンバー紹介が終わり、ステージから彼らは去っていった。しかしアンコールの手拍子は鳴り止まない。僕も久しぶりに両手が痛くなるまで叩き続けた。PRIVATEと書かれたドアが少し開いた。フランシスたちの笑顔が見えた。アンコールナンバーはその日のどの演奏よりも熱く素晴らしい演奏だった。曲が終わった瞬間多くの人が立ち上がった。自然発生的スタンディングオベーションだ。実はブログ用に写真を撮ろうとデジカメを用意していたのだが、会場の雰囲気を壊しそうで遠慮していた。しかしアンコール前あたりでどうにも我慢できず隠し撮りした。アンコールが終わったときは、もう知ったこっちゃないと堂々とカメラを向けた。
隠し撮りのためアングルが良くない

 ライブのあとに物販スペースが設けられ、CDを買ったらサインが貰えるというのでフランシスのCDと西藤さんのミニアルバムを買った。本当はドラムの人のCDも欲しかったのだが、その日結婚式の祝儀で財布がほとんど空だったのを忘れていた。もっとも最初の2枚を買うにもお金が足りずY尾君に借りたのだ。フランシスがやってきてサインをしてくれた。思わず「'S Wonderful, 'S Marvelous」と叫んだら、ニッコリ笑って「Marvelous?Thank you」と答えてくれた。また名前を書いてくれるというので僕の名前をローマ字で言ったら、丁寧にサインしてくれた。そのCDはFM TRIBEの1枚目でライブでもやった「INTERNATIONAL MAN」、「NEED SOMEBODY」、「AFRICA」などが入っている。しかし「インターナショナルマン」のカッコよさったらここ最近聞いたことが無いな。

 西藤さんのCDは、「Message to you」の入っているミニアルバムを購入した。こちらもサインしてもらい、そのときに「『Message to you』はCDでは女性ボーカルが歌ってると言ってましたが、あの曲は絶対男性ボーカルがいいと思います」などと余計なことを言ってしまった。西藤さんは「そうですか、まあでも聞いてみてください」と大人の対応だった。家に帰って自分の発言の愚かしさを知り、土下座コメントを彼のHPに書くことになろうとはそのときは全く思わなかったのだが。

 実はこのエントリー、後日談がありその翌日仕事である外国の人と会った。用が済んでナニゲニどこの国から来たかと聞いたら「トリニダードトバコ」という。「ああ、スティールドラムの国」といったところ、知ってるのか、音楽好きなのかという話になり、好きどころか昨日はフランシスのライブに行ったと話しをしたら、なんと西藤大信もよく知っており、シークレット・ギグも良くやったなどと言い始めた。えーと、名前出しても大丈夫かな、スティールドラムのプレイヤーでカリブ音楽のプロデューサーをしているガイさんというお方だった。いやー、宮崎狭いわ。そうそう西藤さんも宮崎は小林の出身なのでみんな応援してや。
アンコールが終わって全員で拍手 フランシスは「ゴッドブレスユー」と一言



フランシス・マバッペ・トライブを紹介する前に挫折した話

このやろー、タイの塩焼きが出てこなかったぞ!タイが無くて何の結婚式だ

 フランシス・マバッペ・トライブ、フィーチャリング西藤大信のライブを見てきた。この感動を何と言葉で伝えたらいいのだろう。実はその日は会社の社員の結婚式が午後3時半から予定されていて、フランシスのライブは午後6時開場6時半開演であり、会社での義理と人情を重視した場合、ライブは諦めなければならない時間設定だった。しかし、結婚式は3時半からであれば2時間ほど顔を出して、そこからゲルニすれば何とかなるのでは無いかと考え、まあ、タダのライブ(主催のH高時計本店がアゴアシ付きで開催してくれるのだ、ありがたいありがたい。H高社長には足を向けては寝れない)だけに、とりあえず見ておきたいというスケベ根性だけで行ったのだが、結果的にはオーライ・オーライ・大オーライの選択であった。

 で、だ。例によって天邪鬼な僕のエントリーなので、まずは結婚式のレポートから始めよう。ええと、結婚式というのはいつから参加していないかというと、ちょっと思い出せないくらいで、20代・30代の頃はあれほど頻繁にあり、あの寿マークの付いた封筒を見ると、その瞬間大枚1万円が飛んでいくという悪夢(シーナマコトの初期のエッセイに結婚式の招待状は営利誘拐に似ているなんて話もあったな)を見ていた時期もあったのだが、周囲に適齢期の男女がいなくなり、また職場関係でも付き合いの薄い連中しか若手がいない、早い話がオレもジジィの仲間入りをしたと認識せざるを得ない時期に来て、とんとお呼びでない日々が続いていたのだ。

 しかし、神は我を見放さず、ついに今年になって会社のワカイモンが結婚することになり久々に寿マーク付きの封筒を頂いた。もっとも4月の年度初めの忙しい時期に結婚式をあげるというのは非常識だと結構会社内では非難轟々であったが、とりあえずはみんなで祝おうということになった。そのスケジュールが決まったのが1月で、こちとらすっかり油断していて、フランシスのライブも同じ日だと気が付くのが遅かったのだ。しかし、結婚式の披露宴がだらだら3時間も続くようになったのは何時からだ?バブルの頃は2時間みっちりで、あとは二次会という流れが多かったと思うが、このあたりにも少子化の影響が出ていて、みんな人生における一大イベントでだいたいこのイベント仕掛けるやつは「一生に一度のことだから」などと口走るが、えてして、そうでは無いケースが増加している今日この頃、あなた結婚式は必要だと思いますか?

 しかし、3時半スタートというのはいいのか悪いのか良く分からない。終わりの時間、つまりアルコールを摂取して赤い顔して表に出てくる時間を考えると正解みたいに思えるが、ちょっと待て。普通の人間は一日3食であり、お昼12時前後に食事したら次はせめて夕方6時以降に食べたいのが人情というものであろう。3時半におなかをすかせるためには、お昼を軽くするか、場合によっては全く抜くかしかないが、今回はうどんだけ食べて我慢した(いや、別に結婚式が無くても日曜の昼間はうどんなんか食べてることが多いのだが、通常はうどんプラスおにぎりとか、赤飯、いなりなどと追加の炭水化物が必要なのだ)。それで万全の状態で披露宴に望んだのだが、今の結婚式というのはどうも良く分からない。

 司会の人がやたら「ジンゼン結婚式」というので、『アナウンサーの癖に発音悪いな、神前結婚式だろ』と思っていたら、どうやら「人前結婚式」という意味で「ジンゼン結婚式」などといってるようだ。つまり、結婚という極私的なセレモニーを衆人環視のなかでやらないと気が済まない、つまり、何でもワタシが主人公じゃないと嫌、他人はどうあれ自己中心が一番という当世の若者気質を反映しているのではないか、このあたりからモンペ問題(モンスター・ペアレンツの意味)までつながってくるのではないか、という分析をしていたのだが、だめだ、眠くてたまらん。結婚式の話もフランシス・マバッペ・トライブのライブレポートもどちらも中途半端だ、続きは明日だ。とりあえず、ライブ終了後に購入したCDにサイン貰ったので、その写真だけアップしておく。
フランシスのサイン、僕の名前を入れてくれたが、僕がローマ字のスペルを間違って教えたので当然間違った名前になっている

おっと13日もジャズのライブがあるんだった

ライブの合間、演奏中はまた注意されると思って撮れなかった

 いやー、驚いた。それと同時に言葉の無力さも感じた、2時間だった。毎度毎度おなじみの『月一ライブを見て、ついでにジャズ界における謎の美少女問題を解決する会』の話だ。先月、ニューヨーク帰りの香月さんのライブを見たと思ったら、今月は8日に板橋カルテットのライブである。メンバーは怪人板橋のピアノに、望月グズラのベース、林栄一のアルト・サックス、ドラムは小山ショータという完璧な布陣。こりゃ見ものだ、見逃す手はないと、Y尾君と例によって駅前の縄のれんで当日夕方6時半集合ということを決めた。

 仕事を6時過ぎに強引に片付けて、自宅に帰り着替えた。僕はこういうところのこだわりが強く、せっかくライブに行くのなら私服でないと嫌なのだ。非日常の音楽空間に浸るには日常の制服(いえ、別に制服着ている仕事してないですが)を着替えて、別の自分として参加したいという気持ちが強いのだ。誰だ、年甲斐もなく若い娘にもてようと思って着替えてるなどという奴は。悔しいが全否定は出来ないので、部分否定で勘弁してくれ。などと言い訳をしながら駅前の縄のれんに入っていくと、今回はY尾君が一人でおでんを食べていた。今日のライブは7時半からなので30分ほどしか時間が無い。大急ぎで豚バラとネギマを各2本、そして美味しそうな獅子唐を1本焼いてもらい、一気に食べた。いつもならここで1時間ほど世間話をしながら一献傾けるのだが、今日はなんせ時間が無い。そそくさと食べて飲んで、7時にはLIFETIMEに向かった。

 お店に入ってちょっと驚いた。いつもならステージ前の席が取れるはずなのに、開演30分前で前の席は団体さんで占められていた。「流石は板橋カルテットだな」とY尾君に離しかけながら、お店の入り口のドア近く、つまりそのステージから一番離れた席に座った。もっとも位置的には左にドラム正面にベースとサックス、右手にピアノという理想的な配置だ。お客さんはその段階で4,50人くらい入っていただろうか。飲み物を注文してテーブルに置いてあった、ライブ告知のフライヤーなどを見ながら時間をつぶした。開演時間の7時半を過ぎてもまだまだお客さんは入ってくる。年齢層はまちまちだ。そういえば僕たちが入ったときに、既に中ほどのテーブルに年配のご夫婦が座っていた。年のころは60代後半だろうか。バドワイザーにチーズをつまみにしてちびちびやっていた。その前の席には30代くらいの男女のグループが居て、その中におそらくまだ学校に上がる前、つまり5歳くらいの女の子もいた。どういう考えだかよく分からないがジャズの英才教育なんだろうか。

 次々と入ってくるお客さんの中に香月さんがいた。今日はご両親と一緒のようで、視線があったら挨拶をしてくれた。しかもわざわざ「CDありがとうございました」と御礼を言ってくれた。僕が編集してY尾君が届けたカルメン・マキのCDの御礼だ。今日のメインの板橋文夫、太田恵資とのライブとOZ時代のライブを入れておいたものだ。「ラストの曲良かったです」「名曲『私は風』ですな」などという話をしながらひたすらライブの始まりを待っていた。8時ちょっと前だったろうか、マスターの草野さんが「きりがないのでこれから始めます」という叫び声が上がり、ステージに4人が上っていった。それぞれ楽器を準備してウォーミング・アップをはじめ、板橋さんがいきなりマイクを握ってメンバー紹介をした。「今日がツアー最終日です。それでは本日の1曲目LIFETIMEの夜、聞いてください」カウントも何もなく突然演奏が始まった。凄い迫力だった。

 板橋さんがバンマスなので時々MCが入るのだが、カツゼツがあまり宜しくなく、何と言ってるのか上手く聞き取れない。分かるのはメンバー紹介だけという手探り状態だったが、いや、演奏は凄い。このところピアノトリオばかり聴いていたせいか、林栄一のサックスがとても嬉しい。やはりジャズには管楽器があると嬉しいと何度も口に出してしまった。そしてショータのドラムス、以前のZEK3のときの本田さんのドラムも歌心満点のドラムだったけど、これぞジャズのドラムだ、と思わせるショータさんであった。そういえば最初のうちやたら板橋さんが立ち上がってピアノを弾いていたのだが、どうやら椅子が壊れたらしく途中ついにスタッフを呼んで椅子の修理を始めた。その間のブランクをショータさんが一人で埋め続けた。いわば半強制的なドラムソロで、それはそれで十分楽しかったのだが、椅子が元通りになって本来のカルテットの演奏に戻り、そこで披露したドラムソロは圧巻だった。

 曲名とか、アドリブがどうしたなどの小ざかしい解説は抜きにしてあっという間にハーフステージが終わった。客席に話し声が戻り、お店がにぎやかになり始めた。それと同時に演奏中には気がつかなかったが、かなり空気が汚れている。ちょっとした酸欠状態で、入り口の開けっ放しのドアから入る外気の風が心地良かった。僕はすっかり興奮してしまい、恒例のジャズ喫茶における謎の美少女問題について深く考察しようと思ったのだが、届かぬ花より手近な造花が身上のY尾君は同じテーブルに座っていた女性2人に話かけ始めた。この人たちはライブ直前に入ってきて、丸椅子が丁度2つ空いてるのをいいことにずけずけ僕たちのテーブルに入ってきた人たちなので、僕はあまりいい印象はもてなかった。それと致命的なのが、どう見ても年上であったことと、話す口調が、その、なんというかオババ丸出しだったのがネックだったのだ。

 しかし、根っからの反ベサツ主義者のY尾君は心からの連帯の意を彼女たちに表明した。つまり「どこから来たのか、年はいくつか、どんなジャズが好きなのかetc,etc」。返って来た言葉は、ほとんどまともには答えていないというか、柳に風みたいな受け答えだった。もっとも僕は全く無関心を決め込んでいたのだが、それでもちょっとむかついたのはY尾君が「どこの高校出身ですか」と聞いたときに「オヤフコウ」と答えたそのセンスだ。「オヤフコウ=親不幸=親不高」というつもりだろうか。言っちゃ悪いが、明治のセンスだ。あ、大学ではなく年号の明治ね。要するに若い頃から親不孝で、巷のジャズ喫茶なんかをうろうろして、いつの間にかオトナになったのよ、ミタイなことがいいたかったんだろう。しかし、結構宮崎のライブは良く見ているようで、以前のロリンズのライブはどうこうとか言っていた。そうだ。もうひとつむかついた理由はZEK3のライブにも来ていた様で「あれはジャズじゃないね」などと抜かしたことだ。てめえの不自由な頭と顔できめつけるんじゃねぇ、と怒鳴りたかったが、話しかけたのはこちらなので、我慢した。まあ、顔は覚えたから次回見かけたら、頭の上からネコイラズをばら撒いてやる(by スターリン「豚に真珠」)。

 そうこうするうちにセカンドステージが始まった。そのときに気がついたのだが僕の座った隣の席にミキサーがいて音の調整をしていた。しかし、カルテットの音のバランスはあまり良くなかった。サックスとドラムはハッキリ聞こえるのだが、ピアノの音が小さくガンガン弾いてる板橋さんがかわいそうであった。それでも林栄一の額の広さと板橋の全身で弾くピアノは去年のカルメン・マキ以来で目一杯楽しめた。先ほども書いたがやはりジャズには管楽器が入っていると、それだけで音の幅というか音楽の振幅が大きく広がる。思ったほどフリー・ジャズっぽい演奏はなく、メロディというかテーマがちゃんと分かる演奏だったのが良かった。満員のお客さんも十分楽しめたと思う。

 あっという間にラストナンバーが終わったが、板橋さんが相変わらずもごもご何か言ってる。良く聞いてみると「アンコールですか、そうですか」と勝手に決めて、即座のアンコールに入った。こういう省エネアンコールは大好きだ。お互い手が痛くなるまで拍手したり、一度楽屋に下がって様子を見ながら出て行くなんて、つまらない駆け引きは止めたほうがすっきりする。駆け引きなんて若いうちはいいけど、もうみんなオトナなんだからね、と加川良のフレーズを思い出した。
打ち上げのテーブル、冷汁が美味しそうだった

 演奏が終わるとあれほどいたお客さんも一気に引いてしまった。ステージ前のテーブルには大きな食器に盛り付けられた料理や、コップなどが手際よく並べられた。給仕をしているのは、ステージ前の席を独占していた若い男女、多分宮大のジャズ研の連中だろう。それに混じって香月さんもいた。これから打ち上げが始まるようで、野次馬精神旺盛な僕たちは飲み物を追加して、隅のテーブルにドサクサ紛れで入ろうとしたが、そこはそれ、関係者ではないので、カウンターに席を移るように注意された。そういえば打ち上げの始まる前にY尾君がショータさんのところに行き30年前に大分で見て以来で大いに感動したことを話しに行ったが、ちゃんと応対してもらい感動していた。ジャズメンというのはこういうところでお客さんを大事にしているとつくづく感じた次第だ。

 いつもはその日見たライブの感想を喋りながら歩いて家まで帰るのがルーティーンワークなのだが、この日は演奏とアルコールに酔ってしまいタクシーで帰った。家に帰ると清水くるみさんからメールが来ていた。板橋カルテットを見に行くとメールしたことへの返信だった。読んでみるとグズラさんとショータさんは大学の先輩だと書いてあり、林さんとはついこの前ZEK4として一緒にやったとのことで、皆さんによろしくと書いてあった。残念なことにもうライブが終わった後だったので、そのメッセージを伝えることは出来なかったが。さらに驚いたのはこのライブのあった翌日に板橋御大は神戸でカルメン・マキとライブをやっていた。凄いな、あれだけハードに演奏して、打ち上げで飲んで(いや、どれだけ飲んだか知らないけれど、イメージ的に斗酒なお辞せずという感じなので)、翌日は遥かかなたの神戸でライブだから凄い、悪いクスリでもやって、いやいや滅相も無い。そんな悪い人はいないよね、などと最後は妙にまとめるのであった。

だめだ、全然まとまらない、って元々こんなもんだったんだ

 あっという間に月日が過ぎて、もう4月最初の日曜日である。2月、3月とブログの更新が進まなかったが、今月も以下同文になりそうな今日この頃だ。いや、勿論まだまだ繁忙期が続いており、今日も仕事が入りそうになったが、そこはなんとかダッキングして休日を確保したものの、このところあちこちに不義理をしていたり、まあ、一番には疲れがたまっていたのでお昼前まで起きることが出来ず、それからは雑用を済ませているうちにもう24時前である。早い、あまりにも早すぎる、時がたつのが早すぎる、堕落の坂を突っ走る、あまりにもあせりすぎる、などとドサクサ紛れに頭脳警察のフレーズを入れたりしている春うららの日である。

 先月末のエントリーをアップしてから、なんどか4月最初のエントリーを書こうと思い、ネタもそこそこあったのだが、つい疲れとPC以外の趣味(まあ、音楽や読書であり、スポーツとかボランティアなどではない、悲しいくらい書斎生活者なのだ。もっとも賃貸アパート住まいの身の上なので、書斎などは夢のまた夢だが、などとこういうところで文字数を稼ぐ。と、書いてみたが良く考えれば、何もエントリーを長々書くのが決してほめられたことではなく、逆に短い中に一本芯の通ったエントリーを書けばいいだけなのだが、高度成長時代に育った人間としては質より量的体質が染み込んでおり、これぞまさしく「大きいことはいいことだ」的森永エールチョコレート主義とでもいおうか、文字数が多いと何となく中身があるように見えるという、ああ、悲しいサガだ)に時間を取られ、気がついたら深夜1時もう寝ないと、という生活パターンの繰り返しだった。

 今日も11時くらいまで寝ていて、例によって配偶者と下の子の言い争いで目が覚めた。春休みも残りわずかで下の子は学校の課題が終わっておらず、今日は友達と一緒に勉強する約束をしていたようだ。「○○ちゃん、どこに行くの、課題は終わったの?」「だーかーら、今日は友達とマックで一緒に勉強するって言ったでしょ」「マックで勉強しても頭に入るはずは無いでしょ、図書館行きなさい、図書館」「分かった、わかったって」などという会話が大声で飛び交う中、それでもマクラだけは放しませんでしたとまるで木口古兵みたいになってしまったが、母子でいがみ合ってる中に無防備で出て行くことは我が身の破滅なのでひたすら寝て嵐の遠ざかるのを待った。もっとも空腹感と喉の渇きに耐え切れず起きようとしたら玄関のドアが開く音がして「じゃ、行ってくる、ちゃんと図書館に行くから」という次女の棄て台詞が響いた。配偶者はまだ言い足りなかったようで、ドアを開けて「ちょっと待ちなさい」などと叫んでおった。

 その修羅場のあとにごそごそ起きだして、あくびなどして「あれ、上の子はどうした」などと配偶者に言ったところ「今日は塾に行くって昨日言ってたでしょ」とこちらに誤爆が来そうだったので、慌てて顔を洗いにいき、静かにコーヒーを入れた。しかし、確かに上の子はいよいよ大学受験の年になり、何かと大変なようだ。もっとも人事ではなく我が家の経済状況と彼女の学力レベルのバランスシートを真剣に検討する時期が来ているのだ。配偶者はなんとしても行かせたい大学があるようで、かといって当の本人は果たしてそこまでの意欲があるのか、よく分からない。大体17,8くらいで勝手に文系だ、理系だと決めて進路を決め付ける今の高校のありかたもどうかと思うのだが。

 そういうことを配偶者に言うと必ず、テキは怒り出して、いかに自分が娘のことを心配しているか、大学をちゃんと出ても今は就職が大変だから今のうちにしっかりしておかないといけないのに我が家は父親の協力が無いと怒り出すので、この手の話は我が家では禁句なのだ。ましてや「キョーイクの帝国主義的再編フンサイ」などと口走ろうものなら、そんなくだらないことにうつつを抜かしていたから、実社会では出世しない、したがってお金が稼げない、つまりはこの高度に発展した我がポンニチのシホン主義社会の中では負け犬では無いか的なことをねちねち言われて、普段温厚が服を着て歩いているといわれる僕もいい加減頭にきて大喧嘩になり挙句は「家庭の幸福、諸悪の元」というのはけだし名言であるな、と思わざるを得ない日々が続くので、もうこの手の話は家ではしないのだ。

 といいながらも、上の子が塾(スーパー講師とやらのDVDを見るだけなので、予備校というべきかもしれないが)から帰ってきて、おなかが空いたというので、家族3人でとんかつを食べに行った。

 ええと、ここまで書いてきたけど、なんだか自分の書きたいことと違ってきたのと、ハッキリ言って面白くない話なので中断します。このところ、エントリーを書きたいと思って、頭の中で話を考える間は楽しいのだがいざ入力する段になると、冴えないという日が続いている。スランプなんだろうか。ええい、すっきりしない。気持ちを入れ替えて、また新たにエントリー書くので今日は勘弁ね。叱咤激励のコメントお待ちしています。

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