3月最後のエントリーだというのに

 早いもので3月も最後の日曜日だ。はっと気が付いたらこのブログももう1週間更新していない。実は今日も朝から夕方まで終日仕事だったのだ。今月は23日の日曜以外は土曜も祭日も無しで仕事が詰まってエントリーを省みる余裕が全く無かった。頂いたコメントはその日に返事をするというのを、このブログ始めたときから守っていたが今月は大幅に遅れることが多く、この場を借りてお詫びしておきたい。ということで、ちょっと前のネタなのだが、これだけは書いておかなければというライブ・レポートを本日はお届けします。そうだ。ここで皆さんに大事なことをひとつ確認しておきたい。僕のこの「別館4階のBOXから」は音楽ブログなのだ。決して単なるオヤジのボヤキブログではないことを公然と宣言しておくっ!!

 「えー、香月さんのライブは24日、それと4月には板橋文夫と林栄一のライブもあります。こちらはベースが望月さん、ドラムが小山彰太さんという豪華メンバーですがどうします」という電話がかかってきた。毎月恒例のライブを見て日ごろの憂さを蹴飛ばそう会(緊急ネーミングであるが)の会長Y尾君からである。「え、香月さんアメリカ行ったはずだけど、もう帰ってきてるの。それに何、板橋ピアノに林サックス、ショータドラムといえばまるで山下トリオでは無いか、しかもグズラのベースつき」などと興奮して答えたのは僕である。もちろんいきます、香月さんのライブは2月に続いて連続だが前回カルメン・マキの話や音楽の四方山話をさせてもらったので、裏を返すというやつだ。それと、前回のライブは正直に言うとあまりに楽しくてついお酒を飲みすぎて挙句は演奏した曲名を忘れるという大失敗をしたので今回はその轍を踏まないようにメモを準備していくことにした。さらに毎度まいどの二人で行くのではなく、高校の同級生のお兄さんでなおかつ高校の先輩に当たる、M原さんも来るという。このM原さんは昨年のカルメン・マキや谷川賢作、そして大先輩塩次さんと妹尾さんのライブの企画グループの一員だ。

 例によってライブ前には軽く飲み食いしようということで、駅前の居酒屋にたどり着いたのは6時半過ぎだったか。暖簾をくぐるとすぐ目の前の座席にY尾君とM原さんがすでに赤い顔をしてなにやら話をしていた。僕も会話に乗り遅れないように生ビールをあおって早速雑談に参加した。M原さんは地元の時計店の社長をしているH高さんと同級生で、地元の宮崎を活性化するための音楽イベント(クラシックからジャズ、ブルースまで幅広い)を仕掛けているのだが、いわゆる業界人らしくなく、あくまで本業の空き時間に自分たちが楽しみながらいい音楽を紹介するという姿勢をとっている。もっともH高さんはジャズにどっぷりつかっているのだが、M原さんはあまりそのあたり(ジャンルという意味)にこだわりは無いようで、一緒にニュー・ヨークに行ったときには有名なライブハウスをあちこち回ったらしいが、その由緒あるハコでM原さんはグーグー寝てしまったなどというお話も伺った。

 しばらく宮崎の音楽シーンの話や、昨年の連続イベントの話などをしていたが、Y尾君がこれだけは言っておかないと、という口調で「ところでM原さん、去年カルメン・マキが来たとき何で和○なんかに連れていったんですか」と切り出した。そうなのだ。僕がマキさんのブログを読んで、これは宮崎の恥だと思ったカルメン・マキ○民打ち上げ事件だ。僕も応援した。「いや、マキさんのブログ読んでると都城では丸○のギョーザが美味しかったって書いてありましたよ。別に三ツ星レストランに連れて行けとは言いません。いや逆にそういうお店はかえって彼女には嫌がられるかもしれませんね。でも宮崎ならではの地鶏の美味しい店とか魚の美味しいところとか一杯あるじゃないですか。それを何が悲しゅうて全国チェーンの和○なんですか。いえ、別にあそこの社長が嫌いだといってるわけじゃないですよ。たかが居酒屋チェーンの社長の癖して教育に口を出すとか、若者に夢をとか、たわごと言ってるのがうざったいから、いや、それもあるけど、いい年してあのきらきらした瞳は何ですか。ありゃ絶対詐欺師の目ですよ」などと後半はやや誤爆ではないかというところもあるが、一気に問い詰めた。ついに明らかになった真相はその打ち上げは別グループの連中が主催したらしいとのことだった。マキさん、今年は必ず宮崎の美味しい店に連れて行くようきっちり言っといたので、是非また来てください。などと、ドサクサ紛れにメッセを送る姑息なdrac-obであった。

 えーと、それで今回M原さんに来てもらったのは、僕たちがプッシュしている香月さんのライブをH高社長と一緒に見てもらい、今後のイベントに是非呼んで欲しいという下心があったからだ。そのために二人していかに彼女のボーカルが素晴らしいか、ステージが楽しいか説明したが、いくら話してもそれこそ百聞は一見にしかずで、これからのライブを見て判断してくださいとお願いしてライブハウスに向かった。そうそう、その前にY尾君が前回のライブの後にカルメン・マキのCD-R(僕が2007年のライブとOZ時代の「私は風」のライブを一緒に入れておいた)を香月さんに届けたのだが、どうもケースだけで中身が入ってなかったのではという話が出た。前回、Y尾君と二人して絶対カルメン・マキを聞くべきだなどと豪語していたのにえらいチョンボをしたと全員で大笑いした。

 おなじみのLIFETIMEに着くと、ちょうどライブの準備をしているところだった。M原さんが電話しておいたH高さんもやってきて4人で同じテーブルに座った。H高さんは以前からこの店にはしょっちゅう出入りしていたようで、マスターやママに軽く会釈してた。手にはなにやらパンフレットらしきものを持っており、今度の春のイベントのポスターが出来たばかりだといっていた。ちょっと見せてもらうとフランシス・マバッペ・トライブのライブやクラシックのコンサート、地元宮崎出身のドラマー、トシ永井のライブなど盛りだくさんの内容だ。4/13~5/6までほぼ週1のペースでやるらしい。演奏するほうも企画実行するほうも大変なイベントだなと思った。ところで、以前のエントリーにも書いたが何故かジャズ喫茶には謎の美少女が出没する。今回は僕たちのテーブルの反対側に年のころは二十歳をちょいと過ぎたくらいだろうか、色の白い髪の長い女の子が一人で座っていた。大方あとで男が来るのだろうと思っていたが、1部のライブが終わるや否やさっさと帰っていった。Y尾君はしきりに声をかけておけばよかったといっていたが、声をかけてどうするつもりだったのだろう。次回のライブのときに回答してもらうつもりだ。

 と、まあ、毎度相変わらずの野郎しか登場しないエントリーだったが、今回はちょっと違った。僕たち4人が座ったテーブルの隣の席に一人の女性が腰をかけた。その女性と視線が合ったとたん「ユキコちゃん」と二人の先輩は同時に声を上げた。なんとH高社長の今回企画したイベントの最終日のコンサートに登場する外山友紀子さん本人だったのだ。気取ったところのない気さくな方でした。Y尾君は何をトチ狂ったか「僕はクラシックの人と話をするのは初めてなんです。話させてもらっていいですか」とわざわざ外山さんの席の前に移動してなにやら話していた。どんな話をしていたかは分からないが、やたらに感動していた。話の内容に感動していたのか外山さんの魅力に参っていたのかは良く分からない。馬鹿なことを書いているうちにライブが始まった。
熱演するメンバー この日カメラを注意されたので今後のアップは難しいかも

 オープニングは「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」。やった、1曲目から大好きな曲だ。明るいアップテンポの演奏にあわせて香月さんの伸びのあるボーカルが弾む。前回はトリオの演奏だったが、今回は大西さんのピアノにベース(栗山さんという方で宮崎大学ジャズ研、このたび卒業して実家に帰るといういわゆるファアウェル・ライブだったようです)という組み合わせ。続いて「マイ・フーリッシュ・ハート」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」といい雰囲気の曲が続く。今回はしっかりメモ取ってるから間違わないぞ。そのメモを見るとミミズがのたくったような文字で「表情のある歌で個性を出す」などと書いている、いっぱしのジャズ評論家気取りだ、ああ、恥ずかしい。やはり彼女はニュー・ヨークに行っていたとのことで、途中のMCでそのときの様子をいろいろ離してくれた。そして驚いたのは次の曲だった。

 「次はキャロル・キングの曲で…」ここまで彼女が喋ったときに、Y尾君は「イッツ・ツー・レイトだ」と曲名を予想した。僕も多分そうだろうと思って聞いていたら「ユーブ・ガッタ・フレンド」。「えー、ジェームス・テイラーやん」と、素っ頓狂な声を上げたのは私です。香月さんは笑って「ジェームス・テイラーも歌ってるんですか」とか何とか言ってくれた。演奏が始まった。夜の街に染みとおるような歌と演奏だ。ハッ、今気がついたがこの曲は今日のライブでサヨナラするベースの彼に捧げた曲だったのではないか。「ユーブ・ガッタ・フレンド」、そういう意味で選曲したのではないかな。そしてその歌声を聴きながら僕は彼女にレオン・ラッセルの曲はどうだろうかと考えていた。「ア・ソング・フォー・ユー」もいいがカーペンターズが歌った「スーパー・スター」(男の立場で歌えば「グルーピー」になるが)なんかを聞いてみたいと思った。

 その後「マイ・アイドル」「バイ・バイ・ブラックバード」と続いて1部が終了した。ライブの間の時間に先ほどの外山さんも一緒になっていろいろ話をしたのだが、実は外山さんの向かいに赤いセーターが似合うとってもきれいなオネーサンが座っていたのに気がついた(いや、ずっと前から気がついていたのだが、ジャズ喫茶における謎の美少女の存在について考えていたので気がつかないふりをしていたのだ)。その中で僕とY尾君がこの店にライブを見に来るようになったのは1月のZEK3からだ、と僕がいったとたんその彼女は叫んだ。「ZEK3良かったですよね~。私は香月さんと一緒にこの席で見ました」。これにはビックリした。どうやらこの女性もジャズを演奏するみたいで自称「変てこジャズ」をやっているらしい。とにかくZEK3の演奏、とりわけくるみさんのピアノを絶賛していたので、僕はついに禁句を言ってしまった。「オレ、こうみえてもくるみさんとメル友」。

 ええと、このあとのことはあまり書きたくありません。でも、人間見栄を張るうちが華だと思います。男はいくつになってもオトコなんです。異性にモテタイという悲しいサガを持っています。そりゃもちろん「メル友」なんてトンでもないですよ。何度かメールをいただいたことはありますが。いえ、でもね、そういうことが言ってみたい年頃なのよ。もちろん相手にされるわけはないことは百も承知だけど、ちょっとだけでも、ね。などと妙に言い訳めいた話になるんで、今日はここでおしまい。そうそう、その日帰って香月さんのHP見てたら、あっ、この娘だ、さっき話したのは、と驚きの発見がありました。なんと香月さんはボーカルだけでなくユーフォニアムという楽器もやってるんだけど、その活動の一環として女性だけのグループを組んでいて、そこのメンバーの浜月春佳さんでした。ブラスアンサンブルDEARSです。興味をもたれた方は是非コンサートにどうぞ。オレはこっそりライブハウスに見に行こうっと。


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今月は更新してないな、と力なく呟く春の日だった

ラベルプロデューサーはダディ竹千代、ってことはこのイラストは

 このところ朝から頭痛が続いている。ひどい痛みではないのだがズキン、ズキンという感じでぼんやりしているときはあまり感じないのだが、目の焦点を合わせたり、何か考え事をしようとするとふいに襲ってくる。我慢できない痛みでは無いので、適当にパブロンなんかを飲んでごまかしているが一向に改善しない。一つにはこのところきちんと休みを取れたことが無くて、気の休まるときが無いせいかもしれない。まあ3月もあと少しなので、何とか乗り切っていこうと考えている。頭痛のせいだけではないが、エントリーもこのところ更新する暇が無かった。今日はこの間の出来事をざっと書いてみたい。

 この前のお彼岸も午後から仕事が入っていたが、午前中は何とか時間が出来たので上の子と一緒に墓参りに行った。下の子と配偶者はなにやら部活の先輩を送る会とやらがあり、行けないという。子供は分かるが何故母親も参加するのかと聞いたら、教室でお菓子やちょっとした手料理を先輩たちに振舞うのに親の協力が必要との答えだった。しかし、たかが先輩の卒業の送別会にわざわざ親が参加して手料理を振舞うというのはどうなんだろう。まあ、それが今の時代の流行なんだろうか。とにかく親が子供の行事(イベントなんてオチャラけた言葉使ってるからおかしくなるんだ)に力を入れすぎだと思うのだ。卒業や入学シーズンはその当事者の子供たちより、親のほうが気合が入っている。

 上の子と二人で墓地に行ったら、お昼近かったが流石に車も人も多くてにぎやかだった。山桜が何本か咲いていたがソメイヨシノなどはまだまだつぼみのままだった。母や妹たちが先に墓参をしていたので、水を替えて線香を上げるだけの簡単なものだったが、墓参を済ませた上の子が何か言いたそうにしていた。「ん?」と水を向けると「お父さんにこんなことは言わないほうがいいかも知れないけど、お父さんの家系はあまり長生きじゃないね」などと物騒なことをいう。何故だと訪ねると墓誌に書いてあった僕の父や祖母(この人は父が十五歳くらいのときに亡くなっているので僕は会ったことが無い)の没年を見てそう感じたらしい。笑ってごまかしたが、まあ人間誰しも通る道であり、明日のことなど誰にも分からないのだ。いつまでも子供だと思っていたが、先日の伯母の死もあり、なにやら虚無的になっているのかもしれない。僕も高校生の頃にそんな時期があった。しかし、そういうことをいうと「父とは似ておらん」と怒り出すので黙っていた。このあたりの女の子の精神状態は男親には分からんな。もっとも僕も高校生のときに父親に似ている(外見が)といわれたときはむきになって否定したから、廻る因果は糸車か。

 結局、その日は午後から仕事して夕方家に帰ると子供二入が退屈していたのでGE○に連れて行き、古本やレンタルのCDやDVDを借りて機嫌を取った。僕もガガガSPや下地勇の歌が入っている「吉田拓郎トリビュート」というCDなど借りてしまった。こちらは予想以上に良く出来たコンピ盤でそれぞれのシンガーのアレンジや、選曲の妙に感心した。しかし同時に借りたのはセックス・ピストルズと竹内まりやである。このあたり今のゆがんだ精神状態がうかがえる。久しぶり、多分十数年ぶりに聞く「さらばベルリンの陽」や「プリティ・ベイカント」は、あれ、こんな感じの演奏だっけ、と思ってしまった。とりわけアルバムジャケットは真っ黄色というイメージだったのに、なにやらピンク色になっていて、まるでピストルズのパロディバンドを聞いてるような気がした。しかし、パンクを聞いても気がおさまらないというか、頭痛が取れない(当たり前か)。

 それで、昨日の土曜日だが恒例のATLの病院に行き、注射をしたのだがそれでもなんだかすっきりしない。というか積極的に頭痛がひどくなったような気がした。それでも時間の約束をしている仕事ばかりなので、会社に行き予定をこなしていった。しかし3時過ぎにどうしてもきつくなり、車を止めて少し休んだが体調は良くならない。夕方の仕事を早めに切り上げて5時過ぎには家に帰った。頭痛の原因のひとつにパソコンがあるかもしれない、と思いその日はキーボードに触れず本でも読んで過ごそうと机に向かった。するとこういうときに限って、下の子が一緒にビデオを見ようといってきた。実はその前の日のテレビで放映していた「妖怪大戦争」をHDDに録画していたのだ。この映画は一昨々年、まだ欝がひどくて働けなかったときに、レンタルしてきて下の子と一緒に見た。当時は結構話題になり、何度ツ○ヤに行っても空のケースしかなかった。ようやく借りれたと思ってみたら、なんと予告編だけのDVDで、最初は操作の仕方が悪くてストーリーが飛んでしまうのだと思い、何度も見直したがいつまでたってもストーリーが始まらず、ようやくこれは単なるプロモーション用の映像だと分かったときには、僕も下の子も完璧に切れてしまった。

 それでもキヨシローがテーマを歌ってるし、妖怪にもなってる、さらに出演者がそれぞれに個性的な役者ぞろいだったので大いに楽しみにして本編を借りたのだが、印象に残ったのは栗山千明のミニスカ姿くらいで、なんだか気合抜けした印象があった。それでも自分が子供の頃に見た「妖怪大戦争」もわざわざ借りて見て、比較検討したのだから物好きといわれてもしょうがない。その映画を下の子が一緒に見ようというのだ。要するにこの子はかなりの怖がりで、作り物と分かっていても一人で見るのが怖いのだ。普段は父親のことを「空気が読めん」とか「ダサウザ」とかボロカスにいうくせに、こういうときだけは頼ってくるのだ。それともうひとつには一人で見ていると、母親から勉強しろといわれるのが嫌だから、父親を巻き込むのだろう。

 なんだかんだいいながらも、下の子には甘くなるので一緒に見た。久しぶりに見たが、あちこちカットしてるようで、いまいちストーリーがつながらない。まあ、要はいろんな妖怪のメイクとそれを演じる役者のワンポイントのアピールを楽しめばいいのだと思いながら見たが、今回も一番印象に残ったのは栗山千明のミニスカ姿だった。オジサンはミニスカが好きだという永遠の真理を再認識した。このあたりはご同輩のPurple_Hazeさんも異論は無いと確信している。

 頭が痛くて早く家に帰ったのに結局12時近くまでテレビを見てしまい、慌てて床に入った。パソコンはほとんど開かずじまいだ。翌日、つまり今朝は10時過ぎに目が覚めた。そうそう、奇跡的に日曜日入っていた仕事が流れて一日休めることになっていたのだ。もっともいつ何時仕事の連絡が入るか分からないので常にケイタイを携帯しておかねばならない。それでも一日休めるかも知れないというのは気持ちを開放してくれる。午前中のうちから、買い物や外出をしてしまった。今日は朝から雨だったので、遠場に出かける気はせず、近くのお店に行きそのついでにツ○ヤにも寄った。何かすっきりする映画でも、と思ったが「幽閉者」を手に取ったら配偶者の顔色が変わったので、とっさにそばにあった「パッチギLove&Peace」を借りた。前作は京都の懐かしい風景が沢山見られたし、何しろケンカが派手で気持ちが良かった。今回は74,5年という時代設定だというから、更に期待したのだが、あかん、ストーリーを詰め込みすぎで訳が分かりません。まあ、在日の問題やいろいろあるけど、基本は虐げられた人間の生への執着というか、明日への活力みたいな話であって欲しかったのだが、映画の大きな動機である子供の病気は全く解決しないまま終わってしまった。

 それで、頭痛もあまり取れずいらいらしていたのだが、そうだ、ウシャコダの新作「Memphis Tennessee」がアマゾンから届いていた、と思い出して早速聞いてみた。最初の2曲は81年のシングルだが、マスターテープ不明のため直接原盤から録音したらしい。どおりで音がややざらついている。3曲目からは去年の「松戸一揆」からの録音で、こちらも途中音が不安定になるが、それでも81年のウシャコダと今、現在のウシャコダとダブルで聞けるからもう獣だ、いや儲けものだ。夜、休む前になってようやく気分が少し晴れたのだ。しかし、疲れて頭が痛いときはエントリーもつまらない話になるなとつくづく思った今日の日でした。次回は明るく元気よく行こう。

2月逃げ月、3月さらさら、などと申しますが

 忙しい。毎日嫌になるくらい忙しい。今月に入って、フルに休めた日は無かったように思う。今度の祭日も午後から夜にかけて仕事が入っているし、残りの日曜日も全部仕事の予定が入っている。そのせいかどうも疲れが抜けない。毎朝起きると鈍い頭痛があって、それでも昼過ぎくらいからその痛みも忘れるくらいあちこち飛び回って、夕方帰社してからは事務処理しているとあっという間に20時を回っている。僕は、物事を途中で切り上げるのが苦手で、あるところまでやっておかないと気持ちが悪くなるので、要領よくやることが出来ない。これは仕事に限らず、人生においてもここ一番の要領が悪いのだ。余計なことを言って人を怒らせて、機嫌を損ねることも結構ある。しまった、イランことを言ってしまったと思っても後の祭りだ。もっともそういうときというのは、えてして真実(みんなが知ってるが誰も言わない、というパターンのやつね)をどんぴしゃと言い当てているので、言った本人としては間違ったことを言ったとは思っておらず、それから相当の月日がたって、あ、あのときに余計なことを言わなければ今頃はきっと左うちわだったのに、と思い出して歯軋りすることしきりなのだ。

 だから、僕のモットーは「我、ことにおいて後悔せず」とか「あえて神仏を恃まず」というような負け惜しみばかりなのだ。要するに後悔ばかりしているし、「何とかしてくれ、神様、仏様」(by 憂歌団)としょっちゅう思っているのだ。しかし、こういう性格というかもって生まれたものはなかなか直らない。今までこういう人生を送って来たのだから、これからも劇的に変わることは無いだろう。そういうことを考えながら今日も疲れて家に帰ると、テーブルの上に中学生の英語のノートがある。下の子の宅習用のノートだ。横に問題集もある。大して気にせず、遅い食事を一人で食べていると、配偶者がそのノートを開いて赤ペンでなにやら書き込んでいる。どうやら下の子の勉強をチェックしているようだ。ぶつぶつ言いながら丸付けしていたら、いきなり手を止めて「ねぇ、アーントって何?おばさんだったっけ」と聞いてきた。その昔アーント・サリーというバンドがあって、何度かライブも見たが、いまいち良く分からなかった。周りの仲間は絶賛するのだが、僕は「すべて売り物」という曲以外は好きになれなかった。ライブではビッケの弾くギターが痛々しくてよかったが。おっと、話が滑ったが、そのアーント・サリーはサリーおばさんという意味だからアーントはおばさんで間違いないと答えた。

 すると相手は「your auntって『あなたのおばさん』という意味よねぇ。じゃこれを疑問文に直すとどうなるの」といってきた。『あなたのおばさん』をどうすれば疑問文に出来るのだろうか。『おばさん?あなたの?』とでも聞けばいいのか。いや、以前から言ってることがおかしいと思っていたが、ついに脳に来てしまったのではないか、などと心配はしない。長年の経験でこれはその後に問題文がまだあるのに、配偶者が勝手に思い込みで問題を作っているのだ。適当に生返事をしていたら、下の子が出てきたのでからかい半分に「ユア・アーントの疑問文は何だ」と聞いたら「アーント・ユア」と答えた。目が点になった。何でもひっくり返せば疑問文になるわけではないと説明したら「クェスチョンマークをいうのを忘れていた」と、答えた。ますます目が点になった。こりゃ中1の基礎からやり直しだといったら母子で切れ始めた。母は何故自分がまた中学の勉強をしないといけないのだと我が身を嘆き(要するに子供に勉強させるのはいいが、親も真剣にならないといけないということをどう理解したのか、子供が勉強するときは自分も勉強しなくてはいけないと思い込んでるのだ)、下の子は「早く自立する」といってきかない。

 と、まあこんな風に日々が過ぎているのよ。もう少し余裕があるときにエントリーを書かないと話がはちゃめちゃで終わってしまうし、大体今日は車のラジオで聞いた防水携帯を糾弾する話を書くつもりだったのだ。いや、それがね、3月のこの年度替りの時期でしょ。コマーシャルも巧妙なんだよね。いきなりファンファーレか、なんかが鳴り出して「春の携帯キャンペーン!!」とか絶叫して、女性レポーターが「この時期には防水機能のついた携帯が一番のおすすめです」と言い出したわけよ。だいたい携帯って水に弱いのが常識だし、最初はへぇ、防水型の携帯が出来たのかとそれなりに感心して聞いていたわけ。すると「ハイ、この携帯だったらお仕事で忙しいお父さんも雨の中でも通話が出来ます」などとぬかしおるので「ナニ」とイラついたがとりあえず続きを聞いてみた。

 「それから、水仕事で忙しいお母さんもキッチンでらくらく通話できるスグレモノなんですよ、これは」などというの聞いて切れました、あたしゃ。そりゃ、オレたちお父さんは、働くしか能が無いよ。高度に発達したシホン主義社会の宿命だ。しかし、しかしだ。いくら働き者のお父さんでも雨に打たれて携帯で通話しなくてもいいと思うのだ。雨宿りしながら携帯すればいいじゃないか。車の中で通話すればいいじゃないか。どうして雨に打たれながら携帯しなければならないのだ。いくら防水型の最新式の携帯を買ったからといって、雨に打たれて通話するのはかわいそうだと思わないのか。それともその雨はアカシアの雨(by 西田佐知子)なのか。ほっとくとそのまま死んでしまいたくなるぞ。60年安保で敗北して虚脱するぞ。などと最後はちょっと話作ってしまったが、そう思うのだ。

 それと、僕はあまりこういうことは書かないが、お母さんも何もキッチンで水仕事しながら携帯しなくてもいいだろう。話に夢中になって携帯に洗剤かけちまうかも知れないぞ。あ、それでも大丈夫というCMなのか。まあ、この手のCMで理解できないのはイ○バの物置で、何が悲しゅうて物置の上に100人乗らないといけないのだ。しかも社長までが嬉しそうな顔をして。そうそう、それとその昔、象が踏んでも大丈夫な筆箱というCMもあったぞ。頑丈なのは良く分かるが、普通象が筆箱踏むことは無いだろう。それとも広いニッポン列島には野生の象が大手を振って歩いている県があるのか。おー、どうなんでぇ。と、疲れているときはロクなエントリーは書けないというお話でした。

驚いたことふたつ 続ショートショート

このところ面白くてアクセス解析ばかりしている。カウンターを設置する前は僕のブログなんかに来てくれる人は1日に数人だろうと思っていたが、いや結構来ていただいておりました。僕のブログリーダーの数え方は一人、二人・・・十人、あと沢山、という数え方なので、いわゆる十進法ではないのだ。それはさておき、今日ビックリしたのはhatenaとかいうみんなでいろんなことを教えあいましょうというサイトに僕の昔のエントリーが引用されていた。驚いた。

吉田拓郎の「ペニーレーンでバーボンを」という曲がありましたが、ベストや全曲集を探してもありません。現在この曲が入っているCD、あるんでしょうか?

それに対する回答で引用されているのだ。ああ、驚いた。

もうひとつ驚いたのは今日、外回りの途中にトイレに入った時の事。以前にも書いたが僕は外回りのときのトイレはこの町はここ、あの町はあそこという風に決めている。テリトリー主義なのだ。そしてここはイ○ン系列の某有名24時間スーパーで割りと気に入ってるところなんだが、入ってみたらビックリした。こいつがいたからだ

一体誰だよ、お前?どこかで見かけたような顔だが・・・

DRAC興亡史 1975-1980 ジ・エンドオブ前史

 さて、すっかり忘れ去られてしまった感のあるこのエントリーだが、よくよく考えてみると、まだD大に入学した話までしていないことに気がついた。何回か前のエントリーで大学受験の話を少し書いたのだが、そこから続きを書いていこう。あれは高3の2学期だったか、夏休みの三者面談が終わっていたのは間違いない。大学進学について、親から言われたのは(我が家はしがない公務員の家庭だったので)進路は国公立以外はダメとのきついお達しがあった。仕方ないので国立一期校を第一志望にして受験勉強をそれなりにしていた。旺文社のラジオ講座などは結構真面目に聞いており、西尾の英文法や勝浦捨造の数学などは結構楽しみに聞いていた(余談になるが勝浦先生の「継続は力なり」というフレーズが好きで、このあたりが後年テレホン人生相談好きになった要因だろう。ほら山谷新平の「絶望は愚か者の結論なり」とか加藤諦三の「あなたが希望を捨てたのです、希望はあなたを捨てません」などのフレーズが好きなのよ)。西尾先生はくすぐりが上手くて、いわゆる有名大学の入試問題の中のカッコに正解を入れる問題の答えあわせをしながら、「ハイ、このイディオムには○○と続くのはご存知ですね。これで××大学は合格」と、その問題を正解しただけで志望校に受かるようなことを言ってくれた。

 渡辺先生という名前だったと思うが確か東京理科大学の先生で東北弁で物理の講座をやっていたのも印象に残っている。今思えば三上寛や友川かずきが授業しているようなものか(いや違うだろうけど)。そのラジオ講座も今思い出したが苦い思い出がある。あれは夏休みに入っていたと思うが、その日たまたま父母が親戚の法事か何かでいなくて、僕一人部屋でラジオ講座を聞いていた(実はその後のあのねのねのオールナイト・ニッポンが聞きたかったのだが)。真夏の暑い夜で、当時まだ部屋にエアコンなどは無く、窓を開けっぱなしにしていた。当時の僕の部屋は1階の4畳半の狭い部屋だった。突然がさがさという音がして、ハッとしてその音がした方向を見るとランニング姿で赤ら顔のオッサンが仁王立ちしていた。一体なんだと思ってみていると、オッサンは多少ろれつの怪しい舌で「兄ちゃん、深夜放送は近所迷惑じゃが、音を消しない」といった。要するにラジオの音がうるさいというわけだ。普段、両親がいるときはそんな苦情を言ってきたことは無いのに、今日に限ってしかも一杯飲んでから文句を言ってくる気の小さいオヤジだったのだが、まだ世間ずれしていなかった僕は大いに恐縮して謝り、すぐにイアホンにした。

 そのオヤジは粘着質な男で翌日になると、僕の住んでる団地の区長さんの家に行ってあることないこと言ったらしい。そこでは僕は髪の長いロクでもない人間で毎日わけの分からない音楽を大音量で聴いていて、協調性のかけらもないということになっていた。うん、今考えてみると、まあ当たっているところは多いが、それはさておき。一応区長さんも片方の言い分だけ聞くわけにはいかないとのことで、僕の家の周辺の人に話を聞きに行ったところ、いえいえあそこの息子さんはたいそう立派な人で朝は早くから夜は遅くまで学問に励み、道で会うと必ず率先して挨拶をする人です、などといわれるはずもなく、やはり周囲の意見は妙な音楽を大音量で聴き、髪の長い胡散臭そうな若い奴が集まる怪しい息子だという見解は一致していたそうだ。ああ、情けない。もっとも同窓生の母親が弁護してくれたのと、僕の父の職業が地方公務員だったのが幸いして今回は不問にするという連絡があったらしい。

 話がそれたが、いよいよ受験も本格的になってきた二学期の後半に何を考えたのかいきなり父が、私立受験を許可してくれた。ただ条件があって関西の私立に限るという。僕の父は美術家で、生徒を指導するだけでなく自分で作品を作っては、よく展覧会などに出していたが、なかなか中央で認められずそのあたりの反感が東京に対してあったのではないか。「青葉城恋歌」のさとう宗幸.をいたく気に入っており、「何でもかんでも中央に出てやるのではなく地方でしっかりやる人のほうが偉いのだ」などとよく言っていた。僕はそういうのはローカルナショナリズムではないかと思ったが、余計なことを言ってせっかくのチャンスをつぶすのはもったいないと思い、沈黙を貫いたのだ。まあ、実を言えば某ワセダ大学に進学したかったのだが、東京はダメというのが覆らず、それじゃあどこを受けようかと思って「蛍雪時代」なる大学情報誌をめくっていたら「関西のワセダ」と書いてあるページがあった。なになに、と思って読んだのがD大学だった。つまり、あんまり主体的に選んだのではないのだ。というか、本当に単なる偶然だったのだ。しかしその偶然が人の一生を決めるのだから侮れない。

 結局、国立と私立の二本立てで受験することにして、私立は本命D大、対抗R大(D大のライバル大ね、「二十歳の原点」の作者の出身大)、国立は本命H大、対抗I大と4校受験することにした。あ、それともうひとつ○衛大学というところも受けた。これは受験代が安いことと地元で受験できることが大きな口実で、いわゆる受験馴れするために受けた。本当のホンネはジエータイなど大嫌いだったので、一人でも合格者を減らしてやろうという厭らしい下心があったことを告白しておく。この○衛大学受検のときに驚いたのは、その受験者数の多さと、午前中に受けた試験の結果が午後には分かるというスピーディさだった。試験問題が記述式ではなく、四択だったか、とにかく選択式だったので採点も早かったのだろう。もうひとつの記憶は、休憩時間が終わり試験場に戻ろうとしたときにエレベータで制服を着たジエーカンの人と一緒になり、こちらは長髪・ジーンズ姿の格好だったので、随分じろじろ見られ、それでも「キミタチのような若い力に期待しているから、試験を突破して是非一緒にやろう」などといわれたことだ。ナンセンス、などと叫ぶことはまだ知らなかったので、適当にお茶を濁した返事をしたと思う。

 進研模試やその他多くの模擬試験の結果に一喜一憂しながら、大学受験の日を迎えた。D大とR大はどちらも京都市内にあるが、地方試験という便利な制度があって、わざわざ京都の本学に行かなくても福岡で受験できた。日程はR大が先で、その2日後くらいにD大の試験があった。父が美術の教科書の執筆に関わっていた関係で、某教科書会社の人が福岡での宿を手配してくれて、試験の間もいろいろ気を配ってくれた。旅館ははっきり覚えていないが大濠公園の近くにあった記憶がある。ふた間の続き間の部屋でわりといい宿をその人は手配してくれていた。食事にもわざわざ旅館の人がついて給仕してくれた。試験日を挟んで確か4,5泊したのではなかったか。その間毎日その人が陣中見舞いに来てくれて、一人で受験する不安を解消してくれた。旅館の人からは僕はそうとうイイトコのボンだと思われたようで「隣の部屋は一部屋に受験生が3人泊まってるんですよ。それにくれべてお宅はいい身分ですね」などといやみなのか皮肉なのか良く分からないことを言われた。当時はまだ青二才だったのでこんな親の七光りみたいな身分は嫌だと吐き棄てるように答えたこともハッキリ覚えている。

 この福岡での受験の間でもうひとつ覚えているのは、R大の試験が終わり、別の旅館に泊まっていた友人たちと話した内容だ。試験の前の日にテレビのロードショーで「真夜中のカーボーイ」をやっており、本来はそんなものを見ている余裕など無いはずだが、エッチシーンに目が移りつい見てしまったという話になり、あの映画のテーマ曲を歌っていたのは誰だという話になっていった。もちろん二ルソンの「うわさの男」なのだが、当時ちゃんと音楽雑誌を読んだり、ヒットチャートのラジオを聴いていたはずの、僕たちのレベルとはその程度のものだった。「ジョン・デンバーじゃないか」「いや、声が違っていた」などと喧々諤々で言い合った。「ウィズアウト・ユー」や「ココナッツ」、「リメンバー」などのヒット曲は知っていたが、「エブリバディ・トーキン」は知らなかったのだ。

 試験はR大は英語、国語、日本史の3教科で、D大は英語、国語、数学Ⅰで受験した。というのも、D大の社会科は日本史、世界史どちらもほぼ満点に近い点数を取らないと厳しいという予想があり、文系で数学Ⅰを選択する人間は少なく、そちらのほうが合格する確率が高いと判断したのだ。この判断は間違ってなかったと思う。試験の結果だがR大学はめちゃくちゃ問題が難しく、まずダメだと思った。D大は過去問でやったような問題が3教科とも出ていたおかげである程度の手ごたえを感じていた。特に数学は大問3問中、1問は完全に解けて、2問目は途中まで間違いなく部分点をゲット、3問目は全く分からなかったがそれでも、あることないこと書き続けた。大方、ごちゃごちゃ書いてあるので採点する側が同情点でもくれたのだろう。

 2月の始めにその地方試験が終わり、いよいよ国立の受験に向けて本格的になった。今度はなんと言っても北海道は札幌での受験なので、簡単にいうと日本縦断ツアーである。この北大の受験はクラスの友人(彼は、以前このブログに登場したN原君で、北大に合格するために1年間半そでのカッターシャツを着続けた男だ。南国宮崎でも1,2月は寒い。寒風が吹きすさむなか、真っ青な顔をしながら学校に通う姿は「エライ」「アホや」と賛否両論であった)と僕の遠い親戚筋、えーとハトコというやつだな、の3人で行くことにした。宮崎から北海道であるから、行きは当然飛行機である。しかも羽田で乗り換え。当時、生まれて初めて飛行機に乗れるので嬉しくてたまらなかった。相当、舞い上がっていたのだろう。千歳空港に着くまでの記憶がほとんど無い。千歳から札幌まではバスが走っているのだが、N原君が乗り物に弱いので電車で行くことにしていた。もちろん生まれて始めての千歳なので間違いが無いように、タクシーでJR、いや当時はまだ国鉄だ、の駅まで行くことにした。

 タクシーに3人で乗り込み「千歳駅まで」というと、運転手が気さくにいろいろ話しかけてきた。何しに北海道に来たのか聞かれたので、田舎モノの悲しさから、バカ正直に宮崎から大学受験に来たとハトコが答えた。運転手は「へー、おたくら九州の人?それにしては訛りがないね」などとこちらの気持ちをくすぐるようなことを言う。「いや、宮崎は九州の中でも訛りはなく、標準語に近い」などと軽率なことをいうやつがいる。あ、オレだ。しかし百戦錬磨の運ちゃんで、千歳駅から電車に乗るのは待ち時間など考えても無駄だから、このまま札幌まで行かないか、一人千円でいいよ、などと甘いことを言ってくる。乗り物に弱いN原君もタクシーだったら大丈夫などというので、それじゃそのままお願いします、ということになった。いや、それから運ちゃんが喋る喋る、パワーシャベルってなもんだ。いわく「北海道に方言がないというのは間違いで、ダベとか結構使う」「札幌のことを地元の人はタッポロと発音する」とか「札幌に着いたら地下鉄でススキノという町に行くと楽しいことが一杯ある」「ススキノでは是非ラーメン横丁に行け」とか、僕たちは受験に来たのであって、観光に来たのではないという正論すら忘れさせるような時間が経過した。

 で、結局札幌に着いたら、5千円請求された。途中でメーターを止めるのを忘れたという言い分だ。無論抗弁しようとしたが、いざとなったら無線で仲間呼ぶよ、などと脅されて仕方なくお金を払った。あいつは本土で食い詰めたロクデナシの子孫に違いないなどと、間抜けな地方学生3人は口々にののしるのだった。今、考えるとこれが北海道に対する悪印象のきっかけだったかもしれない。県外からのお客さんは大事にしないといかんという教訓である。それでもホテルに着いて、着替えもして腹も減ったからこいつは一丁「ススキノのラーメン横丁」とやらに行って、札幌ラーメンを食べようと話が決まり地下鉄の駅に向かった。もう暗くなっていたから相当遅い時間かと思ったが、多分夕方の5時か6時くらいだったはずだ。3人で横一列になって、旅の初騒ぎ(by山下洋輔)とやらでハイになっていた。大きな交差点に差し掛かり、信号を見ると青が点滅し始めた。急いで渡ろうとしたら、凍った雪に足をとられて見事に転んだ。バツが悪くて、ちょっとゆっくり半身を持ち上げたら、目の前にトラックのランプが光っていた。左折しようとしたトラックが転んでいた僕に気がつかず、減速しないまま突っ込んできたのだ。

 死んだ、と思った。完璧アウト、と思った。受験に来た札幌で、しかも初日にトラックにはねられるなんて、なんて不幸な運命だ。そう、覚悟した。そのときにものすごい勢いで両手を引っ張り上げられ、間一髪救われた。N原君とハトコが全力で僕を引き上げてくれたのだ。しかし、今思い出しても冷や汗が出る場面だった。これが潜在的に北海道への進学を避けるようになった原因かもしれない。二人には心からの御礼を言って、それからは慎重に、上から雪を踏みつけるようにして歩いたので転ばなかったが、受験で滞在した間、1日1回は必ず転んだ。ここで暮らすことになったら確実に転んで頭を打ってパーになるなとも思った。

 ススキノはにぎやかな街だった。ラーメン横丁もすぐ分かった。お店の前には大勢に人たちが並んでいる光景は宮崎ではまず見られない。歩いている人の多さ、待っている人の多さ、全てが新鮮だった。適当なお店を見つけて並び、札幌ラーメンを食べた。いや、その前にメニューを見て驚いた。当時ラーメン1杯が350円くらいだったか。高いお店でも400円というのは大盛りとかチャーシューメンの値段だったが、ここでは「しょうゆラーメン500円」とか「味噌バター600円」とか、驚くような金額が提示してあった。さらに驚いたのは注文したラーメンのどんぶりがまるで洗面器のようにあったのと、メンの上の具や野菜を持ち上げようとしたら、割り箸が曲がって折れそうになったことだ。一番食欲のある18の頃である。一気に食った。食ったら腹がはちきれそうになり、軽く貧血状態になった。全身の血液が胃に集中したのだ。これなら500円、600円出しても惜しくないと田舎モノ3人組は納得した。

 十分に食欲を満たし、それでは札幌のホテルに帰ろうということになりぶらぶら歩きながら地下鉄の駅に向かった。あたりを眺めているとネオンサインや点滅する文字や色にひとつの共通項があることが分かった。タクシーの運ちゃんのいった意味がようやく分かった。ススキノは当時の言葉でト○コ、今で言う個室付き特殊浴場、ソ○プランドのメッカだったのだ。巷に浮かぶ赤い灯、青い灯を見ながらオトナになったらああいうところでアソブのだとハトコが口惜しそうに呟いた。僕は別にオトナでなくても、ここなら誰も知ってる人間はいないぞ、と自分の良心がどこまで耐えられるか、山中鹿之助のつもりで、いやいや、ここから先はご想像にお任せします。今までの僕のエントリーを読んでくれている皆さんなら、僕がいかに清く正しく美しい人生を送ってきたかご存知でしょうから、これ以上は書きません。

 当時の国立一期校の試験日は3月3、4日の2日間だった。試験科目はいわゆる5教科だが、社会や理科は選択できた。僕たちは環境に慣れるためという口実で2月の28日に宮崎を立ち、4日の試験が終わったら今度は電車で宮崎まで帰る予定にしていた。もっともハトコは仲の良い友達が小樽の大学を受験していたので、そちらに向かい僕とN原君は二人でとりあえず大阪の僕の親戚の家に向かうことにした。そこからはフェリーで帰ろうと計画していたのだ。そうそう、この受験のときの思い出は札幌の映画館でビートルズ映画4本立てを見たことだ。ある日試験場の下見に行ったハトコが息を切らせて帰ってきて「この近くの映画館でヘルプとかやってる」という情報を持って帰ってきた。調べてみると「ア・ハード・デイズ・ナイト」と「ヘルプ」と「イエロー・サブマリン」「レット・イット・ビー」の4本立てをやっていることが分かった。流石に試験前に4本立てなど見てしまうと、せっかく覚えた単語や公式が全てパーになると思い、試験が終わる4日に見ることにした。試験が終わり3人で映画館に駆け込むと「ハード・デイズ・ナイト」が始まっていて、マッシュルームカットの4人が女の子に追いかけられるシーンだった。それから最後の「レット・イット・ビー」まで一気に見た。「イエロー・サブマリン」の途中のシーンで、あのペッパーランドに向かうところだ、頭と目が痛くなったが、地元では見ることのまず出来ない映画なので、まるでスポンジが水分を吸収するような勢いで見た。

 映画を見終わって札幌駅に着いたときはもうほとんど朦朧としていた。ハトコとはここで別れ、僕たちはブルー・トレインに乗り込んだ。発車時間は夜だったが、始発が札幌だったのでシートに座り、先ほど見た映画の素晴らしさを二人で話し合った。そうこうするうちに電車は動き始め、生暖かい暖房と心地よい振動の中、いつしか寝てしまった。しばらくして目が覚めたのは、遠くから大きな声が聞こえたためだ。目を開けてみると結構年配の、おじいさんといっていいくらいの人が片手に一升瓶を持ち、車内をうろうろ歩きながら何か大声で叫んでいる。単なるヨッパライだと思い、無視して寝ようとしたが爺さんの声は止まらない。ほとんどの人はシートにもたれて目をつぶっているのに、爺さんは目を開けている人間を見つけてはなにやら話しかけて嫌がられている。こっちに来るなよ、と思いながら僕はまた寝ようとした。

 なにやら人の気配と嫌な臭いで目が覚めて驚いた。なんとあの爺さんと来たらわざわざ見送りに来てくれたよ、おまけにテープを拾ってさ、女の子みたいにさ、というのは拓郎の歌だが、なんとあの爺さんが僕の顔を覗き込んでいたのだ。僕は切れました。うら若い女の子が顔を近づけてくるならいざ知らず、どぶろく片手のクソ爺の顔がすぐそばに来ていたことと先ほどからの傍若無人ぶりにブチ切れてしまったのだ。「お爺さん、いい加減自分の席に戻ったらどうですか。みんな迷惑してますよ。ホラ、さっさと帰れよ」こういうと爺さんは「何を、若者が」と叫ぶやそのまま胡坐をかいて僕に向かって説教を始めた。未だに覚えているそのせりふは「天には天のことわりがある。地には地のことわりがある。ましてや人間には長幼の序というものがあって…」と延々語り始めたのだ。僕も半ば意地になって、この爺さんの言うことを一つ一つ論破してやろうと反論始めたら、誰かが車掌さんを呼んでくれたようで、ようやく爺さんは自分の車両に帰っていった。どっと疲れて寝ようとしたら、それまでピクリとも動かなかったN原君が「お前、よくあんなことが言えるな」と話かけてきたのでまたまた驚いた。彼はずっと起きていたのだが、爺さんを刺激しないよう寝たふりをしていたらしい。

 この爺さんのおかげで、青函連絡船の記憶はかなり薄い。とにかくまだ青函トンネルは出来ておらず、連絡船に乗ったのだ。青森には朝早く着いた。途中下車して青森をぶらついてみることにした。しかし、降りた青森駅はなんともひなびた駅で、街にも活気がなかった。高いビルがないのだ。二人して「宮崎より田舎や」と文句を言いながら、それでもデパートに入ったら、冬物衣料品のバーゲンをやっていて、そこで僕は緑色のジーンズを買った。そのジーンズはそれから4年後テクノ・ファッションがブームになったときに僕のトレードマークになったのだ。わはは、今思い出しても恥ずかしいわ!!青森から大阪まではとにかくぐっすり眠れるようにと特急電車の一等席を買ったので、まったく覚えていない。当時の国鉄を初めとした乗り物は等級で全く乗り心地やサービスが異なっていた。一等席のシートはそれはもう快適だった。大阪で親戚の家に泊まり、その翌日にカーフェリーで宮崎に帰った。カーフェリーも親戚が二等のチケットを買ってくれてので、乗り込むや否や一等にしてくれと頼んだ(一等席は二等の運賃の倍だった。親戚が二等の分のお金は出してくれていたので、僕たちは本来使うべきお金を出して一等にグレードアップしたのだ)。カーフェリーの二等席は広い座敷にごろ寝だが、一等は四人部屋に二段ベッドが二つ付いており、しかも船員によるお茶のサービスもあるのだ。僕らはそのフェリーの一等席でゆっくり休んで宮崎に戻ってきたのだった。

 えーと、いつの間にか受験旅行体験記みたいになってしまいましたが、ついに大学受験も無事に終わり、いよいよ京都の生活が始まるところまで来ました。D大のオリエンテーションで当時の自治会のお兄さんと某革新党派のお兄さんが入り乱れての大混戦になるのはまたの機会に。それでは皆さん、見捨てずにお付き合い宜しくお願いいたします。

ショートショート2編

今日、外回りの途中にアポの時間より早く着いてしまったので、ナニゲニそのあたりをぶらぶらしていたら、ビルの張り紙に気が付いた。どうせ駐車禁止か何かだろうと思って近づいてみた。びっくりした。そんなん言われてもやな、本当に捨てたくて捨てたんと違います、などと言うボケもいるだろう

いや、ネコ捨てたらあかんやろ。犬もあかん。ましてや人間の赤ん坊はもっとあかんよ。などとぶつぶつ言いながら写真を撮っていたら、近くを通ったおねーさんから気持ち悪そうな顔をされた。誤解だ。ちょっと離れて見てみると、なるほど、捨て猫しやすそうなスペースだった。
丁度、下に砂場があってここでウンチして、って違うだろ!


ここのところ忙しくて帰りが遅くなっているので、今日は早く帰ろうと夕方事務所で仕事をしていると携帯にメールが来た。上の娘からだった。

父へ
ポテチが食べたく候。
一つだけで良いとです。
姉は我慢します故。
よろしく頼む。


一頃、三国志のゲームにはまっていたが、最近は新撰組のゲームにはまっている我がバカ娘たちである。すぐに返信してやった。

じっと我慢の子であった。




子連れ狼


大五郎は父から待つように言われたら、何時までも待ってる健気な子だった。そうそう、その子連れ狼のテーマソングで♪ちーちの仕事は刺客ぞーなー、というところを最初「飛脚」と聞いてしまい、そうか、配達物で忙しくて子供に寂しい思いをさせているんだな、などと思った僕は粗忽者です。しかし、バカ娘から帰ってきたメールには、こう書いてあった。

意味不。妹が(怒)でーす。
恐いでーす。


うーん、恐るべきは世代間の断絶だ。

春なのにため息またひとつ、なんて歌があったっけ

 いつもより1日多い2月も終わり、年度末の3月に入った。心なしか日差しも暖かく、風も今までのような北風ではなく「君の便り」のような南風(by 泉谷しげる)である。先日のエントリーで春一番が吹いたと書いたが、地元紙によると関東には吹いたがこちらではまだらしい。地元紙といえば、今日は日曜日で昼前まで寝坊して、起きだしてさて何か面白い記事は載ってないかと開いてみたら碌な記事は無かった。一体何時の間にこの国はおかしくなってしまったのだろうか、と考えされられる記事ばかりでせっかくの休日の気分が台無しである。いや、僕のブログは政治ブログでは無いのであまりこういう話は書きたくないのだが、それでもあまりにおかしなことが多すぎる。

 ひとつはtaspoとかいうカードである。タバコを自動販売機で購入するにはこのカードがないといけないことになった。宮崎・鹿児島はこの3月1日からだ。我がポンニチの中でも経済的に劣っている南九州2県をまず最初のターゲットにしている。♪花は霧島、タバコは国分~と歌われるように、タバコは南九州の農家にとって貴重な収入源であった(いや、あると現在形にすべきか?)。ところが今、世間でタバコ離れが広がり、タバコ農家は大変なようだ。しかもそれらタバコ農家の親玉といえるJTは農薬入りギョーザで苦境に立たされている。ん、これは世界的にタバコを放逐しようとしている組織の陰謀では無いか。国際強制禁煙団体(略してKKK団)と、反日をスローガンとしている地下組織が連携して起こしたタバコ殲滅テロではないのか。

 などとおちょくってしまったが、実は僕はタバコを止めて丸3年になる。しかし、タバコを止める以前から「行き過ぎた」(ように僕には見える、ああ気を使って書く文章は嫌だ、いやだ。なら書かなきゃいいがな、オッチャン。それでも言いたいこと言える世の中のためにはトーローの斧でも掲げんとするココロザシを見よ、ってえらいこと書いてしもうたがな)禁煙運動が多いことが気になっていた。しかも喫煙者の中で組織的に反論している人は極わずかで、圧倒的に禁煙者の権利がブイブイ言ってる世の中である。小谷野敦や斉藤貴男の本など読んで、苦々しく思ったことは一度や二度ではない。まあ、このあたりの話を書き出すと、カルビー(その心は「やめられないとまらない」)になるので話はtaspoに戻る。

 タバコを自販機で買うためにはこのカードを申し込まなければならない。その際に年齢を確認するための書類(運転免許証 ・各種健康保険証 ・住民基本台帳カード(写真付)・各種年金手帳・各種福祉手帳(身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳) ・外国人登録証明書 ・住民票(写し)※本人確認書類の住所変更手続きがお済みでない方は、公共料金領収書(写し)が必要です。…taspoのサイトよりコピー)が、必要ということはそういうデータを収集して一元管理しているお役所だか、なんだかしらんが組織があるわけだ。そしてそういう情報はどのような管理をしていても、必ずどこかから漏れ出してくる。これは歴史の必然というか魚心あれば水心というか、今までの名簿流出事件を見ていれば分かることだろう。個人情報がどうたら言う気は毛頭ない。要は喫煙者の情報が一箇所に集まるわけだから、それをどのように使うかはお上次第だということ。しかし、どう考えてもいいほうに活用されるとは思えない。

 次に気になったのはいわゆる「ロス疑惑」である。2003年だったか日本では無罪が確定した三浦元社長がサイパンでパクられて大騒ぎになっている。これなんかは分かりやすいシナリオで「共謀罪」をなんとしても成立させたい日米のエスタブリッシュメントがタイアップして、「トリックスター」の三浦元社長をスケープゴートにしたという一大イベントではないのか。などと柄でもないことを書いてしまったが、ホントに碌なニュースは無い今日この頃だ。イージス艦が漁船を当て逃げしたニュースについてはコメントする気にもなれない。随分昔の話だが、当時勤務していた会社の同僚の父君が漁船に乗って漁に出たまま音信不通になり、船だけ発見されたことがあった。仲間の漁協の人たちが協力し合って東シナ海を捜索したが、あの広い大海原の中でたった一人の人間を探すことなど、駱駝が針の穴を通るような話で、何も見つからなかった。そして一定期間過ぎると、もうその当事者は亡くなったことになり、お葬式が営まれるのだが、お棺の中には何も入っていない。いや、その亡くなったであろう人の私物(メガネだとか櫛だとか、身につけていたもの)を入れて葬儀を行うのだ。遺された家族の方の泣き声とそのときの様子は未だに脳裏にハッキリ残っている。

 いかん、どうにも妙な展開の話を書いてしまった。本当はこういう嫌なニュースばかりなので、ちょっと懐かしいお話をというマクラにするはずだったが、どうもそういう気分になれない。これはこれで、一度終わりにしておきます。気分がもう少しアップしてきたら本来書くはずだったエントリーを書きます。なんだか、凄く疲れてしまった。

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