タイトル忘れてアップしちまったよ

 燐さんやbarrett_hutterさんにアクセス解析をしたほうがいいと忠告されて、先日からやっているのだが、これがなかなかに面白い。僕のブログもかれこれ丸2年になろうとしているのだが、これまではどんな人が訪問しているのか全く気にしていなかった。しかしそれが多少なりとも分かってくるとまた面白い。僕自身としてはせいぜい1日に10人も見てくれれば御の字だと思っていたが、実にいろいろな人が通過しているようだ。勿論ほとんどの人が一過性のお客さんだろうし、まれに気に入ってくれてコメント書いてくれる人もいるが、ある程度の日数を過ぎるとそれもほとんど途絶えるということを経験している。そういう意味では今、常連でコメント書いてくれる皆さんには感謝している。先だっての「near 鬱」(こんな言葉があるかどうかは知らないが)の時期は、皆さんのおかげで見事立ち直れた。

 と、前振りをしておいて本日のエントリーだが、アクセス解析のなかに「サーチワード」という機能がある。もう皆さん先刻ご承知だろうが、どんなキーワードで拙ブログにたどり着いたかが分かる機能だ。ここ2,3日は家に帰るとまずそこのページを開くのが日課になっている。そこに出てくる単語を見て、なるほどなと納得したり、一体なんでこんな単語でオレのブログがヒットするんだと悩んでしまうことある。以前、燐さんのエントリーで「こんなキーワードで検索しないで下さい」というのがあったが、ホントそう思うのがあった。中には書いた本人すら覚えてない話もあったりして楽しかったことは楽しかったが。ということで、今日は僕が驚いたサーチワードを幾つか紹介したい。

 まずは「DRAC 別館」、これはあまりにもオーソドックスでビックリした。DRACの関係者としか思えない。誰だよ、一体。コメント残してくれよな。コメントにロックしてオイラしか見られないようにすることも出来るし、それも心配ならメールフォームからメール下さい。次に「戒厳令の夜 映画 ロケ 大学」。これは覚えている。D大のキャンパスでエキストラのバイトをしたときの話を書いた記憶がある。勿論単なるアルバイトではなく、ある「政治的目的」もあったのだが、これもおそらくあの当時の別館に出入りしていた人が探したのに違いない。「気まぐれハイウェイ」、うん、書いた、書きました。確か一昨年の年末に越美晴のベストを買って、そのときに書いた話だ。そういえば、細野さんの動きが活発になるに連れて、ときどき越美晴の映像や音の情報が入るようになったのは結構なことだ。

 「湯田選手 かわいい」、これは恥ずかしながら偶然テレビで女子駅伝を見て、その笑顔があまりに可愛かったので、具具って調べたなどとエントリーに書きました。しかし、ふと思ったのだが、深夜に「湯田選手 かわいい」などとPCに入力して検索しているオッサンの姿は不気味だろうな。「西川成子」、あれINUのベースの話書いたかな、と気になって自分でも調べてみたら、エントリーの最後にほんのちょっと名前が出ているだけ。まあ、おかげで西川成子さんも大きな病気をしたが今では元気になっているという情報が分かったのでよしとしよう。余談だが僕はINUがまだまだ無名の頃、確か町田の高校の同級生がギターで参加していた時期があったのだが、ライブの途中で弦を切ってしまいその後もたついたことに怒った町田が、そのギターをその場でクビにした場所に偶然いた。そのギタリストが泣きそうな顔をしてライブハウス(ご存知サーカスだ)から出て行こうとしたときに西川成子さんが慰めの言葉をかけてフォローしていた姿を覚えている。

 で、だ。ラストの奴は(いやもっと一杯あるけど切がないので)、一体何のこっちゃと言いたくなるようなサーチワードだった。「お尻に挟まった トイレットペーパー ゴミ箱」、なんやねん、それは一体。誰がそんなしょうもない話をかいたんじゃ。オレそんなん書いた覚えは無い。と自信たっぷりに検索してみたら、オレのこの話がヒットした。いや面目ない。

 そうそう、最後にこれも書いておきたい。僕のサークル時代を彩ってくれたF田敏雄君だが、誰かが探しているようだ。しかも今日は僕が以前入力し間違えた“F田敏男”でも検索してあった。一体どうなってるんだ。誰か知らないか~?
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ジャズにおける謎の美女の存在とその対処法についての考察

 「それじゃ6時45分くらいにライフタイムの前で待ち合わせしましょう」と、文字で書くと、おっ、なにやら艶っぽい話かと思われるかもしれないが、何のことは無い月一ライブの会のY尾君との業務連絡である。月一ライブの会というのは、たったいまでっち上げたネーミングだが、以前も書いたようにやはり音楽は生が一番という判断から僕とY尾君で急遽結成した団体である。もっとも「生が一番」なのは音楽だけではない、と言い切りたいことも多々あるのだが、今日は眠いのでその手の話はまた後日。あ、これを読んでるあなたにとっての「一番の生」は何かコメントかメールでお知らせ下さい。

 などと、一番苦手なエントリーの導入を軽くダッキングしたところで、日時は2月20日の夕方にワープする。仕事を切り上げて家に帰ったのが、6時半近かったので大急ぎで着替えて、配偶者の運転する車でライフタイムに向かった。6時45分に店の前に着くとY尾君はすでに来ていた。今日は地元宮崎の誇るジャズシンガー香月保乃と大西洋介ウィズゲストのライブを見るのだ。もっともライブは8時からなので、その前に腹ごしらえしようというわけだ。例によってライフタイムから歩いて1,2分のところの居酒屋に入る。7時前だというのにお店はほぼ満員。客の全てがサラリーマンだ。
楽しいライブでした バックの演奏もバッチグー

 おでんやY尾君のおすすめの何とかイカのしょうゆ漬けを食べる。勿論一杯やりながらである。話題はやはりこれから見るライブとこの間見たライブの話。ZEK TRIOは良かったとか、去年のクリスマスに見たリトル・ジャイブ・ボーイズのライブやそのとき偶然見ることの出来た香月&大西の歌と演奏についてああでもない、こうでもないと勝手なことを話し合った。その中でY尾君がふいに、「ところでお前のブログも誰が見てるか分からんぞ」などと言い出した。僕はあまりその手のことは考えないというか、僕のブログを見て気に入った人はコメントをくれるだろうし、気に入らない人は二度と来ないだろう、と適当に考えていた。つまり、興味を持った人は意思表示するという性善説(?)に立っていたのだ。サイレント・マジョリティなんていうのは政治の世界だけというか、メディアがノンポリ・アパシー(これも死語だな)を都合よく呼ぶ言葉だと思っていたのだ。

 一体なんでY尾君がそんなことを言い出したのか。多分きっかけは清水くるみさんがメールやコメントをくれたと僕が自慢したのが引き金になっていたとは思うが、とにかく、ネットは誰が見ているか分からないから気をつけろみたいなことを言われた。そのときは適当に返事をしていたが、その後いろいろ驚いたことが出てくるのだ。などと、伏線を張ろうとするのは止めて、1時間くらい飲み食いしてライブに足を運ぶことにした。もっとも用意周到なY尾君は早めにライフタイムに行き、後から二人来るからと念を押していたらしい。つい飲みすぎて時間オーバーになっても大丈夫だなどと強気だったが、そこはそれ、時間厳守が僕らサラリーマンの唯一の取り柄なので8時前にはライフタイムに入った。

 前回ZEK TRIOを見た席(シルバーシートと自嘲的に呼んだ席)は既に3,4人のグループに取られていたので、今回はステージから見て右側のピアノの前の席に座った。お客さんは20人くらいか。もっと大勢の人に見てもらいたいライブなのだが、と思いながらも、素朴な疑問が湧いてきた。それは「何故ジャズのライブには訳ありげな美人のお客が必ずいるのか」という、僕が10代の頃からフィールド・ワークにしていたテーマである。今回も、やはりその手の神秘的な女性がいた。ああ、僕の向学心が以前のままだったら、その謎を解くために突撃インタビューというか、「あ、ちょっといいですか、実はうちのカミサンがね~」というコロンボスタイルの質問話法というか、「コミュニケーション・ブレイクダウンは深刻な問題だ」というツェッペリン的課題の解決に向けた、もういいか、要するに「ナンパ」ってやつですか、それを、あの、若いころも出来なかったなぁ、と詠嘆にふけるのだった。

 そういえば銀閣寺にあったサーカス&サーカスでバイトをしていたS戸君からも、ジャズを好むお客さんはちょっと違うという話を聞いた。サーカスは普段はロック中心、たまにブルースやフォーク(そういえば雷徒人はどうしているんだろ。彼がステージに上がってかましてくれた「こんばんは吉田拓郎です」というギャグは忘れられない。ついでに「落ちて来い、落ちて来い」というフレーズが印象的だった歌も)のライブをやるお店だったのだが、あるとき山下洋輔トリオの確か3日連続くらいのライブを企画したのだ。当時その手のニュースはプレイガイド・ジャーナル(略してプガジャ、プレジャという一派がいたが僕たちは断固プガジャだった。それもニュアンスとしては平仮名の「ぷがじゃ」)か、エルマガジンに載っているくらいで、それを見てライブハウスに問い合わせが来るなどということはそうはなかった。

 ところが山下洋輔のライブが決まったとたん、毎日のようにサーカスの電話は鳴り響き「山下洋輔さんのライブがあるのは○日で間違いないですか」という確認が頻繁に入ったらしい。S戸君いわく「おまえな、たいてい問い合わせ言うたら、『○○のライブは×日で間違いないやろな』とか『チャージはなんぼや、そらぼり過ぎやろ、何考えとるねん、お前のとこは』みたいなのばっかりや。それが山下洋輔の客はみんな敬語つかいよる。しかも山下さんいうて敬称もつけて呼び捨てにするやつおらへんぞ」などという話を聞き、なるほどジャズオンリーの人たちというのはエスタブリッシュメントの人たちなんだと二人で妙に納得した思い出がある。
若いのに落ち着いたステージです MCもほとんどなし

 おっと、また余計な話が入ってしまったが、お客さんの数は少ないものの暖かい雰囲気の中でライブは始まった。そうそう、メンバーはボーカルの香月保乃、ピアノの大西洋介そしてベース、ドラムの4人編成だったが、なんとドラムはお店のマスターの草野氏。スタンダードナンバーが中心のライブはとても心地良かった。バックの演奏もあくまでボーカルを引き立てるスタイルで聞いていて気持ちが良かった。2部構成のステージだったが、エラ・フィッツジェラルドの名演で有名な「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」や、ヘレン・メリルでおなじみの「ユー・ド・ビー・ソー・ナイス~」などを癖のない声で歌い上げたのが印象的だった。途中、チューバじゃないや、ユーフォニアムというのか、ちょっと変わった金管楽器を吹いたりいや、昨年見たクリスマスのライブより遥かにパワーアップしたライブでした。

 あっという間に2部のステージが終わり、Y尾君と二人でライブの余韻に浸っていると、お客さんはほとんど帰っている。残っているのはたった今ステージを終わったメンバーとお店のスタッフだけだった。お店のママさんが仲介してくれたのかY尾君が無理やり話しかけたのか記憶にないが、気がついたら香月さんと一緒のテーブルでいろいろ話をしていた。どんなシンガーが好きかという話の中でジャニス・ジョップリンの名前が出てきたので、去年見たカルメン・マキのステージがいかに良かったか力説したが、カルメン・マキの名前を知らない(聞いたことはあるが)とのことだった。これを聞いて、僕たちはそんなことじゃいかんと声を荒げ、Y尾君が後日CDを持ってくるから聞けという乱暴な話になった。僕も酔っ払って大西さんに随分なれなれしい口を利いたようだ。

 そのあと、香月さんが以前に出したCDがあり、この店にあると聞き、オジサン二人はすぐに購入。しかも僕がサインをねだったら、Y尾君もついでにとCDを出す、困ったオジサンと化してしまった。話はずっとしていたかったが、気がついたらお店がクローズする時間になっており、次回も必ず見に来るといって僕たちはお店を去った。

 ええと、今回のライブレポートはやけに中身が薄いなと気がついたあなた、あなたは素晴らしい。実はこのときは調子になってアルコールを過度に摂取してしまい、ほとんど記憶がないのだ。こんなことではいかん。次のライブはしっかりレポートします。ところで香月保乃という名前、是非覚えておいてください。必ずこれから花開くシンガーです。あ、それから余計なお世話かもしれないがCDのジャケットの顔はちょっときつすぎ。実物は笑顔のチャーミングな女性であることを公然と宣言するっ。って何リキ入れてんだ、オッチャン。
件の金管楽器を演奏する

故郷は心の慰め (by Elton John)

 本日は全国的に春一番が吹いたのだろうか。こちら宮崎も終日ものすごい強風だった。橋の上を車で走るとハンドルが取られたり、道路に自販機のゴミ箱の蓋が飛ばされていたりしていたが、ラジオを聴くとそれでも風速14メートルだから、いかに台風というのが物凄いか良くわかる。おっと、ラジオで思い出したが実は今日100円ショップで120分のカセットテープを買った。何を隠そうあのねのねのオールナイト・ニッポンを録音しようと思ったのだ。きっかけは昨日仕事で移動中にたまたま聞いた車のラジオだ。いろんなコマーシャルが流れ、それらを聞き流していたら突然「ビートたけしのオールナイト・ニッポンは24日午後1時から放送」というフレーズが聞こえた。もっとも注意して聞いてなかったので、日付が23日だったか24日だったか自信がなかった。オールナイト・ニッポンの特別番組があるというのは知っていたが、それが今日明日のうちにあるとは思っていなかったのだ。

 家に帰ってネットで調べたら、なんと23日の午後1時からビートたけしが、その後の3時からはあのねのねの放送があるではないか。懐かしいな。あのねのねのオールナイト・ニッポンは高校時代に毎週土曜の深夜聞いていた。僕は清水國明と原田伸郎の二人のバカ話が大好きで、そういえば一度伸郎が確か文化放送でDJをしていたせんだみつおの番組に乱入しそれを國明がニッポン放送で実況中継したことや、「七不思議」シリーズのネタなどやっていたのを今でもハッキリ覚えている。お下劣な話題で恐縮だが、川柳のコーナーだったか聴取者のはがきだったか「今はただションベンだけの道具かな」という句を國明がしみじみと読んで「そうでっか~、ションベンだけしか使いまへんか~」とコメントしたのを今でも生々しく覚えている。もっともナンセンスな面白さのあったあのねのねも一度大学の単位を撮るために活動を停止して、その後は全く泣かず飛ばずになり自然消滅してしまった(そんな印象があった)。

 今日、23日は午前中いつもの病院とちょっとした仕事が入っていたが、午後はフリーだったので1時からのたけしの放送はラジオで聞いて、あのねのねは録音しようと思っていた。というのも午後一番は髪を切りに行く予定でいたので、イアホンで放送を聞くつもりだった。その後はカセットに録音しておけば大丈夫だという読みだ。その準備をしてお昼に家に帰って新聞を見たら、オールナイト・ニッポンなんてどこにも書いていない。24日の日曜と勘違いしたかと思い、ニッポン放送のHPを開いたらたけしの番組がまもなくオンエアという表示になっている。おかしいな、と思いちょっと考えてみた。すぐに分かった。ニッポン放送はこの番組を、つまりオールナイト・ニッポンの特別番組(なんといってもぶっ続けに歴代の人気DJの番組があるのだ。もっとも僕が一番聞きたいカメは流石に元社長なので出てこない。糸井五郎さんはすでにお亡くなりになっている。あ、カルメンは、って言い出したらきりがない)は、間違いなくオンエアされているのだが、その番組を宮崎の地元放送局では中継していないというわけだ。それでも人気のビートたけしの分だけは日曜の午後1時から放送するということだろう。こういうときは地方都市にいると口惜しい。

 あのねのねのオールナイト・ニッポンは聞けなかったが、代わりに鮎川誠の「ただいま」を見ることが出来た。これは昨日、配偶者がHDに録画しておいてくれたおかげだ。この番組も僕は全然知らず、しかも昨日は朝から風邪気味で新聞も読まず仕事に行ったのでいつもだったら夜家に帰って口惜しがり、やけくそでNHK許すまじなどと叫んだに違いない。配偶者もこれを録画しておかないと後で僕からなんと言われるか分からないと思って撮っていたようだ。じっくり見ました。鮎川さんは進駐軍の父(当然米兵)と日本人の母のあいだに生まれた。どおりであのルックスだ。もっとも小さい頃は「あいのこ」とか言われていじめられたりしたそうだ。しかし、彼の素晴らしいところは「いや、いじめっちゅうほどじゃないけん」とか「ごく一部の人が」などという奥ゆかしさだ。オレだったら被害者意識丸出しだったろう。

 いろいろ楽しい話も多くて、中学の同級生がそれまで「マコ、自転車に乗せり」などと格下扱いしていたが、成績表を偶然見たら「800人くらいおる学校で一番」だと分かり、翌日から「マコチャン」と敬称つきになったとか、「久留米の市長の名前は知らなくても、マコチャン知らん久留米市民はおらん」などと持ち上げるのだが、それに対してもいちいち照れるというか「いや、マグレったい」などと姿勢が低い。こういうところは見習わないといけないな。そのいろんなエピソードの中で一番笑ったのが、高校時代の話。鮎川さんは知る人ぞ知る、九州大学出身だが高校も久留米の名門、明善高校である。僕のサークルの先輩にも二人いたが、一人は後輩に野菜ドロボウをさせた人で、もう一人の人は300円でビールの大瓶が飲めるレストランを見つけたことを自慢する人だった。そうそう、このビールの先輩はマージャンがセコ強くて、ドラのトイツを落としてクイタンで上がるという、いや、その脱線した。I上さん、Nさんお元気でしょうか。今も久留米にお住まいですか?

 ええと、その名門明善高校の授業中に鮎川さんはいきなり先生に質問を受けた。黒板に大きくひらがなで「せ」と書いてあり『鮎川、これはなんと読むか』と聞かれた。純情だった鮎川少年は真っ赤になり(ここは想像だけど)、「しぇ、しぇです」と答えた。先生は「そう、久留米では『しぇ』やけど、本当は『せ』て言うとたい、気をつけんといかんぞ」。それ以来鮎川さんは「しぇんしぇい」とは絶対に言わずに「せんせい」と言うようになったとか。もっともその先生の偉いのは「東京の人は『せ』を『しぇ』とは言わんが、『ひばち』ということが出来ん。『しばち』になる」とフォローしたところだ。お互い様だ。もっともこのあたりの経験がサンハウスを博多にこだわるバンドにしたというのは深読みですな。

 その方言でひとつ思い出したのが、先ほど登場した久留米出身のN先輩はポール・マッカートニーに良く似た二枚目で惜しむらくはしぇが、いや背がやや低かった。それでもその誰からも愛されるルックスで多くの女の子を泣かせて来た(と、本人は豪語していた。何でも百人斬りだとか)。久留米で自信を付けたN先輩は、武者修行のために花のお江戸に出て行った。駅で獲物を探していたら、カッコイイおねーさんが立っていたらしい。そこにつかつかと行ったN先輩、「お嬢さん、何をしてるんですか。良かったら僕と一緒にその辺をさるきませんか?」結果がどうだったかを書く自由は後輩の僕には無い。しかし、先輩の名誉のために一言付け加えると、『散歩する=Take a walk=さるく』、は南九州でも通用します。テリトリーを九州に限定していれば、間違いなく勝利したと思われます。

 などと久しぶりにバカ話を書いてしまったが、本当は香月&大西&ゲストのライブの話のはずだったのだが、それは次回に。飲みすぎてしまいそのときのライブのセットリストが分からずN尾君に電話して聞いたなどということは無いのだよ。ワハハ、心配するな、ちゃんと覚えてるから、いやその、思い出すからってオッチャン誰に言い訳してるんや?

だーれのせいでもありゃしない、みんなオイラが悪いのさ~

 ごめん、すまん、オレが悪かった。いやいや、もうほとんど復調して大丈夫なのだが、実は昨日恒例のライブを見る日ということでLifeTime香月保乃大西洋介with Guestを見に行って、大いに盛り上がったのだが帰り道に風邪をひいてしまったようで、それというのも通勤に歩きという原始的な交通手段を選択している某Y尾君に付き合ったせいなのだが、いやはやなんとも。ライブレポートは明日以降にアップします。素敵な写真も撮れたし、香月さんのミニアルバムもゲットし(サインまでもらったんだ、ヒヒヒ、単なるスケベオヤジと違うんか、オッチャン。堪忍やキャインキャイン)、いややっぱりこの人歌が上手いし声がいい。癖がなくてストレートに沁みてくる。ちょっと広瀬香美に声質が似てるかなと思うことがあるけど、いやイカンいかん。風邪で脳細胞がいかれてしまってるので、あらぬことを書いてしまったが、このあたりの考察は次回のライブレポートで。

 それで、皆さんから頂いたコメントはちゃんと読んでいますし、今度の週末を使ってちゃんと返事書くからもうちょっと待ってちょ。それで、barrett_hutterさんに急ぎの返事ですが、えーとこんなことを書くとブロガーとして失格というか笑われるかもしれないのですが、僕は革命的DRAC主義すなわち「来るものは拒まず、去るものは追わず」という考えで、あの、いわゆるアクセス解析というのは付けてないんです。やっぱり付けたほうがいいのでしょうか?実は昨日もY尾君と話をしていたときにブログって誰が見てるか分からんという結論になったし、うーん、やはり付けておくべきか?それと、この件についてbarrett_hutterさんにメールしようと思ったけど、アドレスが分かりません。良かったらこのブログのメールフォームから連絡下さい。

 あ、それから最近届くコメントに「腰痛カウンセラー」じゃないか「アドバイザー」とか、やはり非公開コメントで黒グーグルなどという意味不明なものが来たりして、うーん、そんなのの分析にもやはりアクセス解析って必要なのかな?どなたかご教示をお願いします。全く中途半端なエントリーですが、今から熟睡して風邪を追い払ってまたいつもの能天気エントリーを書いていくので宜しく。予告編で写真だけアップします。

香月保乃&大西洋介 ウィズベリースペッシャルゲストだよーん

何でもいいから、喜怒哀楽を!

 もう少し、あとちょっとだろうか。このところ落ち込むことが多くて、危ないと思っていたのだが、少し明るい兆しが見えてきた。今日は、仕事を思い切り詰め込んで、忙しさの中で何も考えないようにした。夕方6時前には都城の取引先のところに打ち合わせにも出かけた。その打ち合わせも無事に終わり、真っ暗になった国道の山道を走っているときに、トイレに行きたくなった。道の駅というところに車を止めて、トイレに入った。奥の方の個室のドアのところになにやら張り紙がしてある。用を足して、ナニゲニその張り紙を見に行った。こういう野次馬根性は大事で欝になりかけのときは、その張り紙すら見に行こうと思わないのだ。その張り紙にはこう書いてあった。
信じられないが、去年の7月だろうか?

 馬鹿じゃねぇの。いまどきこんなことする奴がいるんだ。しかし、トイレの落書きはご愛嬌だが、ドア壁に穴を開けてのぞこうとは、ドリフのコントじゃないんだから。しかし、あと2~3人の常習者はどうなったんだろう。心を入れ替えて、真面目になったのだろうか。しかし、この注意文作った人、お茶目だな。最後の3行はこういうところに書かなくてもいいと思うが。もう少しだ。もう少しでいつものオレに戻りそうだ。ゲッティング・ベターになるように、いろんなことに興味を持ち、笑い、そうだ、激怒するようになれば大丈夫だ。そうそう、例の葬儀場のトイレでこんな風景も見た。何でこんなところにこんなものがあるんだろうと、職員の人に聞いたら、「ああ、良かった。探してたんです」と感謝された。これもすっかり忘れていた。うん、もう少しだ。あ、コメントの返事はもう少し待ってくださいね。心にゆとりが出来てから、一つ一つにきちんと返事しますから…。
何をしていて忘れたのだろうか、電話しながらトイレに入るなよな

初七日の日に

 早いもので、今日が初七日だ。先週の日曜日に伯母のことをエントリーに書き、それでも生きているのだと文章を結んだのだが…。とにかくたった1日の間で状況が大きく変わり、どたばたの中で葬儀が営まれ終了した。あっという間の出来事であり、それでもやらねばならないことは沢山在り、どうにかこうにかそれらをこなしてきたのだが、毎日毎日異常な疲労感とやる気のなさが全身を覆いPCを開く気にもなれなかった。未だに本調子とはとてもいえないのだが、前回のエントリーの続きをきちんと書いておくことが必要だろうと、何故か奇妙な責任感が頭を占めて今キーボードの前に座っている。この間に頂いた皆さんからのコメントに一切返事が書けなかった事を深くお詫びするとともに、多くの暖かいメッセージに対して心から感謝します。

 先週、延岡の病院に見舞いに行き、大いに混乱して家に帰りエントリーをアップした。あまりに私的な内容なので、アップするのはどうなんだろうという考えもあったが、いやこれはオレのブログであり、オレ自身が見て聞いて感じたことを書くのに何の遠慮もあるものかという気持ちが強く、ひとつには自分の漠然とした不安感やいいようのないやりきれなさをどこかにぶつけたいという気持ちもあり、あのようなエントリーを書いてしまった。その日は疲れていたが、神経が高ぶっていたせいかなかなか寝付けずチャットなんかもやって床に就いたのは午前3時くらいだった。うとうとしたかと思ったら、自宅の電話が鳴った。携帯ではなかったことが逆にことの重大さを訴えていた。

 時計を見ると5時半を回ったところで、寝ぼけながら下の子が電話を持ってきた。母からだった。受話器を受け取る前から「ああ、ダメだったんだな」と思った。電話口で母は別段取り乱した様子もなく、伯母がたった今息を引き取ったこと、大変だがまた今日も延岡まで連れて行ってほしいこと、この二点を告げた。僕は時間も時間なのでもう少し休んでから出かけると話をして電話を切った。それからまたちょっとうとうとしたら再度自宅の電話が鳴った。時計を見たら7時を少し回っていた。また母からで、今度はずいぶん興奮した感じで、家に居ても落ち着かないし、伯父や叔母が困っているはずだから今からすぐに延岡まで送ってくれと一気にまくし立てた。僕は寝起きでやや頭痛がしていたことと、どっちにせよ仕事を休まねばならなくなるので会社から持ち帰っているノートPCや資料を一度会社に届けないといけないので今すぐは無理だと説明すると、母は分かったもう頼まないと怒った様子で電話を切った。

 困った僕は、仕方がないので今から会社に行って資料等を返却して、それから母を迎えに行こうかと迷っていたら、また電話が鳴った。母からで妹が送ってくれることになったので、僕たちは後から家族全員でゆっくり来れば良いと、少し落ち着いた口調で言った。妹は僕に全く似ていないリアリストで、こういうときも落ち着いて母をなだめ、場合によっては叱り飛ばすくらいの性格なので、安心してまた布団に入った。次に電話が来たのは9時過ぎだった。先ほどから伯父の家や伯母の家(亡くなった伯母を一度家に連れて帰りその後で葬儀場に連れて行くのではないかと思っていた)に電話をするが誰も出ない。朝一番の電話で、病院には伯父の娘が待機しているはずだから携帯で電話して状況を確認してくれとのことだった。前日に病室でいとこと会って携帯の電話番号を教えあっていたのを母も見ていたのだ。いとこに電話したら葬儀場の場所と日程が分かった。今、書類上の手続きを伯父たちがしているが、それが終わり次第葬儀場に向かい、そこで仮通夜を営むことが分かった。そのまま母に電話して内容を伝え、僕はこれから準備をして10時半くらいになれば出かけられるので、出発するときは僕の携帯に電話してもらい一緒に向かおうと話をした。

 眠気は完全になくなったので、出かける準備をして、その前に会社関係に連絡をして資料の類を会社に届けて、自宅に戻ったら10時半を少し回っていた。配偶者も子供たちも出かける準備は終わっていた。実は今日は上の子の誕生日のプレゼントとしてゲームソフトを買いに行く約束をしていたのだが、このような事態になり子供二人からブーイングが出るのではと思っていたが、彼女たちも素直に言うことを聞いてくれた。しかし、それから全く電話が来ない。お昼前になったので実家に電話するが留守電になっている。おかしいな、などと思っていたら妹からメールが入り今葬儀場に着いたと書いてある。待ちきれなくなった母が妹に頼んで先に行ってしまったらしい。ちょっと頭にきて妹に電話したら、母が屈託のない声で、こちらは伯父さん一人で大変だからすぐ来てほしいこと、葬式の親族代表の挨拶をお前にしてもらうからちゃんとした格好で来いとか勝手なことを一方的に喋って電話を切られた。やはり一種のパニック状態というか興奮状態になってるようだ。

 家族を連れて車に乗り一路延岡に向かった。カルメン・マキの去年出たライブアルバムと下地勇の新作をかけながら走ったが、気持ちは一向に晴れない。それでも家族で馬鹿話をしながら走ったので多少は気が紛れた。葬儀場に着くと母をはじめ伯父夫婦、叔母、親戚数名が待合室に居た。挨拶をして段取りを聞くと、今日は身内だけの仮通夜で明日の18時からが本通夜、明後日の11時半からが葬儀と教えられた。母の電話で言われたように葬儀の最後の親族代表の挨拶は僕がやることになり、葬儀場の人がマニュアルをくれた。ちらっと見たが最後のほうで「残された遺族に対して~」というフレーズが目に入り、残された親族だから遺族であり、この表現はおかしいと思ったが、流石にそういうことを言い出す雰囲気ではなかった。

 葬儀場は愛宕山という、子供の頃は何十回いや百回以上は登ったことのある山のふもとにある小さいところだった。1階の会場の横に待合室があり8畳と6畳の二間続きだった。6畳の部屋に伯母の遺体が安置され、顔には布がかけられている。あけてその顔を見ると、口元にマスクがしてある。下あごを手術で取っているので、死んだ後でも人に見せないようにマスクをしているのだと思ったら、不憫でならなかった。この死に顔を見せるというのは、大人は構わないが子供にはかなりインパクトのあることのようで、上の子はまるで寝ているような顔で、苦しまずに天国にいけたんだと思ったらしいが、下の子はとにかく怖くてたまらなかったらしい。つい先日まで元気で喋っていた人間が無表情になり、無反応な状態で寝ているところが頭に焼きついてしばらくは離れなかったそうだ。母が下の子に「あんたが生まれたときに家であんたの世話をしてくれたおばちゃんだからしっかり顔を見ておきなさい」といわれて、怖かったけど一生懸命見たと後日半べそで喋っていた。

 いろんな人が出入りしながらも、それでも本通夜は明日なので夕方8時くらいにはみんな帰っていき、待合室には僕と母と叔母の3人だけになった。今日から葬儀の日までここに泊まるのだ。晩御飯代わりに店屋物の巻寿司を食べ、お茶を飲んでいると、伯母の近所の人たちが3人、今日を本通夜だと間違えて会場に来た。せっかく来てもらったので線香をあげてもらえば、と上がってもらったら、線香を上げた後、妙な話になった。というのも亡くなった伯母は大阪で伯父と一緒の会社を経営していたが、伯父が交通事故で亡くなり、延岡に帰ってきてからもいろいろ不本意なことが続いたので、お不動様だとか何とかだとかいろんな神様にすがっていたらしい。その中で某新興宗教にはまっていた時期もあり、これは兄弟に知られると止めろといわれるので、内緒にしていたらしいがついに叔母にばれたのと、本人も考えがあり脱退というのか、足抜けというのか良く分からんが、あ、改宗というほうが聞こえがいいか、つまり止めたのだ。事務的な手続きはちゃんとしているのでいいがご本尊とやらをまだ返却してもらっていない、というのだ。

 話を聞いた叔母は、今はこういう取り込んだ状態なので、落ち着いたら家を探して責任もってお返ししますというのだが、相手方はなんだかんだといい続けてなかなか帰るそぶりを見せない。母も叔母と一緒にちゃんとしますからというが、ああだ、こうだと埒が明かない。いい加減頭にきた僕が、「ちゃんとすることはするといってるでしょうが」と口を挟んでようやく帰っていった。しかし、亡くなってからも迷惑をかける人だと母と叔母はしきりにぼやいていた。僕はそのときからなんだか自分の感じが変だと思い始めた。今までの僕だったらこの手の話には激怒してしまうのに、怒りのパワーが湧かないというか、まあまあ、今日のところはひとつみたいな丸く治めようという気持ちが先にたつのだ。それから母たちの話を聞いているうちに夜も更けて、待合室の隣にあるユニットバスに入り零時過ぎには布団を敷いて寝てしまった。母と叔母は5時くらいまで起きていて、それから少し寝たようだ。

 次の朝は、葬儀場の人たちとの打ち合わせや、香典返しの品物の準備などで朝からあわただしかった。もっとも僕は何もやることがなくせいぜいコンビニでミネラル・ウォーターを買い込んだくらいだ。会社からも仕事の電話が2,3本入ったが、簡単に指示出し出来るようなことで特に問題は無かった。夕方になり本通夜が始まった。あまりに急な死だったので、親しかった親戚筋くらいしか参列しておらず人数的には大変寂しかったが、参列してくれた人たちがみんな式場に残って四方山話をしてくれて心のこもったお通夜だった。しかし、このような場で会う親戚たちもみな一様に年を食っており、昔の面影はあるもののすっかり変わった顔つきになっている人が多かった。これが時の流れというものだろう。20代、30代の頃の親戚が集まる場は、結婚式や子供のお祝いなどの慶事がほとんどで、参列する人たちの年齢層も若ければ、お祝いの席なのでみんな大いに語りうたい、飲みというにぎやかな儀式ばかりだったが、ここ最近の親戚の集まりは数年に1度の不幸事だけだ。当然出席する人も年を取るし、場が場だけに静かに話をするしかない。僕も数十年ぶりに会ういとこや田舎の人もいて、懐かしい気持ちとどうしてこういう場にみんな集まってきているんだろうと一瞬伯母の死を全く忘れてしまったときもあった。

 その夜は、伯父と親戚の小父さんと年長のいとこと男が4人で、もちろん母と叔母もいたが、泊まることになった。以前ならみんなビールや焼酎を飲んでにぎやかに過ごしたものだが、やはりよる年波に勝てずささやかに飲んで昔話をした程度だった。しかし、そのときから伯父の反応がいまひとつおかしくて会話のピンポンが上手くいかない。勝手に話を始めて、みんながその話題に乗ってくるとすぐまた別の話の飛んでしまう。やはり伯母の死が影響しているのだと思っていた。4人兄弟の一番上の姉が亡くなったのだ。しかもあまりにも突然に。

 あっという間に葬儀の日が来た。朝から電話や電報が届いてにぎやかである。僕も親族代表のお礼の話をしなければならないので、頭でまとめようとするが一向にまとまらない。とにかく参列してくれたお礼とあまりに突然だったこと、それと遺族に変わらないお付き合いを宜しくというイメージでまとめた。受付でぼんやり時間をつぶしているといとこが横に来て「うちのお父さん、耳が遠くなって聞こえんとよ」とボソッと言った。通りで伯父さんの話が飛んだり、会話がおかしくなったりするはずだ。「みんな知ってるの?」と聞くと、「おとうさんはああいう人だから誰にも言うな、って言われてる」と答える。負けず嫌いの伯父らしく、自分の弱みを見せたくないのだろう。若い頃は三井三池の闘争に支援に行ったことを話してくれたり、父(僕にとっての祖父だが)に反抗して日本中を転々としていたときの話をしてくれた伯父も、やはり年を取っていくのだ。当たり前といえば当たり前のことだが。

 葬儀が終わり、遺体を火葬場に連れて行く時間になった。延岡の火葬場は僕の生まれた、つまりは伯母も生まれた、北浦という漁村に向かう山の中腹にある。祖父の葬儀のときは延岡の市内から30分以上走った記憶があったが、今は道路が良くなって半分くらいの時間で着く。その新しい道路をマイクロバスで走ると、向かい風の中に白いものが舞っている。風花だ。そういえば受付にいたとき「北浦は朝雪が舞っていた、積もったよ」と誰かが言っていた。人が亡くなったときに降る雨を涙雨というが、これは涙雪だろうか。宮崎みたいな南国では滅多に見られるものではない。この後のことはもう書けない。特に変わったことはなく、火葬場の人は当然仕事して火葬し、お骨を拾うときも淡々と説明してくれた。つまり、それが「日常」なのだ。そういえば精進落しの料理をみんなで食べているときに、それまで涙を見せなかった母が突然「あねやんは今頃あちぃ、あちぃといって飛び跳ねてるのと違うやろうか」といって声を上げて泣き始めた。やはりなんと言っても直接上の姉を亡くしたわけだから、精神的に参っているのだろう。僕はなんと声をかけていいかわからず、しばらく途方にくれいていた。

 もう少し冷静に書けるかと思っていましたが、やはりまだ無理なようです。2日仕事を休んで、木曜日から復活したのですが雑件も多く、しかし何をしていても上の空で意欲が湧きません。何をしていても現実感がなく、物事が完結しても喜びがないのです。欝になりかけの頃に似たような体験をしましたが、もう二度とあの苦しい状態に戻りたくは無いので、このけだるさが振り切れるまでエントリーはお休みします。頂いたコメントにもまだお返事を書けません。いつもの僕を取り戻してからまたお返事したいと思います。意外と明日にはけろっとしてエントリーもコメント返しも書いているかもしれませんし、ずるずる引きずるかもしれません。とにかく、今は寝ることが一番楽しいという状態です。また元気になってお会いしましょう。

極私的なエントリーです、無視してください

 昨日は仕事が詰まっていて、家に帰ったときはもう9時近かった。帰ると、配偶者は仕事で居なかったので、子供二人がテーブルをチョコレート工場にしていた。どおりで、メールで生クリームと牛乳を買ってきてとか、その後バターもお願いなどと来たはずだ。その後に直接下の子から電話もかかってきたので、また何か買ってきてくれだと思い、『今、忙しい』といって一方的に切った。そのせいか下の子がずいぶんむくれていたので、買ってきた材料を渡して機嫌を取ると、実家の母から何度も電話があったという。『延岡に住んでるK伯母が病院に運ばれて』とか言ったらしい。このK伯母はもう80はとっくに過ぎているが、元気で一人暮らしをしていて持病などなかったはずだ。一体何があったのか、ぼんやり考えていると家の電話が鳴った。

 母からだった。母の姉に当たるK伯母と妹に当たる叔母と兄になる伯父の3人でピザを食べたら、それが喉につかえてK伯母が救急車で運ばれたという。K伯母には兄弟以外に身寄りがないので今日は伯父と叔母が病院に付き添うが、今後のことを話したいので明日母に延岡まで来てくれと連絡があったらしい。ピザなんて喉に引っ掛けることがあるんだろうかと思ったが、良く考えたらこのK伯母は10数年位前に癌の手術で下あごを取っている。噛み切ることが出来なくて喉につかえさせたのかと思ったら、もっと深刻な様子らしい。とにかく『明日僕も仕事なのだが、お昼からだったら延岡に連れて行けるから』と答えて、更にちょっと気になったので、もし急ぐよう連絡があったら遠慮せず電話するよう話して電話を切った。

 翌日、つまり今朝のことだが寝ていたら電話が鳴った。時計を見ると9時過ぎだった。出ると母で、やはり延岡の叔母から出来るだけ早く来てほしいと連絡があったというので、今日の仕事をキャンセルして母と一緒に延岡の病院まで行くことにした。天気も良くて、しょっちゅう走っているルートだが、あいにく今、車のCDプレイヤーの調子が悪く、ラジオもいい番組をやってなかったので、道中ずっと母と話しながら延岡まで向かった。病院に着くと、今日は日曜日のせいか入り口も一箇所しか開いてないし(後にこれは単なる勘違いで午後1時から6時までは全ての出入り口はオープンになることが分かった)、節電のせいでエレベータの前などは薄暗くてすれ違う人の顔すらハッキリしない。病室はICUなどのある階のナースステーションのそばだと聞いて嫌な感じがした。

 病室に入ると、伯父夫婦と叔母がベッドの横の椅子に座っていた。ベッドに横たわるK伯母の顔を見たとたん「あかん」と心の中で叫んでしまった。目を閉じて苦しそうな息をして、鼻にはチューブが入れられている。母も涙声でここまで僕と一緒に来たことを大きな声で呼びかけるが反応がない。僕も手を握って呼びかけたが、手に反応はないし表情も変わらない。何年前だったか、弟が亡くなる2,3日前の病室の様子に良く似ていた。伯父たちにこのいきさつを聞いた。一部は前日に母から聞いていたが、実際に現場に直面した二人の話は聞いていて大変つらかった。

 ことは2,3日前、宮崎の母のところに滅多に連絡をしないK伯母が電話をしてきたことから始まる。「○○(母の妹、つまり僕の叔母)の家に電話するけど出ない、何かあったんじゃなかろうか」といってきたらしい。実は叔母はたまたま夜お風呂に入っているときに電話が鳴ったので取らなかったのと、その次の日は偶然用事で出かけていただけだったらしいが、心配したK伯母(こういう行動も普段はなかったらしい)が、僕の母に何か知らないかと電話してきたのだ。特に家を空けるとも聞いてなかった母が、電話では埒が明かないから家まで言ってみるよう話したところ「じゃ、兄さんと一緒に行ってみるわ」と答えて電話を切った。それで伯父とK伯母が、何かあったのでは無いかと心配した叔母の家に行ったのだが、前に書いたように叔母は至って元気だったので、笑い話で終わり、まあせっかく顔を会わせたのだからと昼を一緒に食べることにした。

 そのときどうしてピザを頼んだかは分からない。意外なことにこの3人が3人とも世代に反して乳製品は大好きで、ピザも好物だった。届いたピザを食べているうちに急にK伯母が黙って立ち上がりトイレに行った。数分過ぎても出てこないので叔母が見に行くと、便器にもたれて口からは大量の唾液が出ていたらしい。喉に詰めたと思った叔母が背中を叩いたりさすったりするとサラミが丸々1枚出てきたというから、他のものも噛み切れない状態で喉にかけてしまったのだろう。そうこうするうちに崩れるようにK伯母は倒れこみ、息をしなくなった。すぐに救急車を呼び、伯父が人工呼吸をして、ようやく息は吹き返したが、その段階で脈が止まり瞳孔が開いていたらしい。

 僕も経験があるが、こういうときの時間はもどかしい。救急車はなかなか来ず、代わりに所在確認の電話が何度も入り、伯父も相当切れたらしい。救急車が到着して、すぐに病院に搬送されたが、そこでドクターから聞いた話は伯父、叔母のかすかな期待を打ち崩すものだった。「脳は5分間、酸素が供給されないと死にます」「このまま植物人間の状態でどれだけ持つかは本人の体力次第です」「出来る限りのことはしますが今の状態が最善の状態だと理解してください」等、等。どうやら噛み切れなかったピザが胃のほうではなく気管に入り完全に空気の道を閉ざしたのが原因らしい。しかし、人間というのは、いや人間としての意識を持ち続けるということは、なんとはかなくあっけないものか。

 病室で見たK伯母はもう意志や感情のある人間ではなく、単に呼吸しているだけの生命を維持しようと今まで活動してきた全身の器官が反復継続の活動をしているだけに過ぎないのだ。後どれくらいの間、息をし続けるかは神様しか分からないが、そう長くは無いだろう。今は伯父夫婦と叔母で病院について夜は交代で泊まっているが、それも長くは出来ないだろう。老老介護の問題は、身近な、これほど身近な問題だとは思わなかった。

 病院で親戚と四方山話をしているうちに、いくつか分かったことがある。僕自身はずっと癌の手術で下あごを削り取ってしまったと思っていたが、実は伯母は癌ではなく下あごを削り取る必要はさらさらなかったらしい。今なら、いや当時でもそうだろうが、いわゆる医療ミスの問題だ。もっとも今更そんなことを言っても詮無いことだと、僕の伯父や叔母はいう。母もそれを知ったときは怒りがこみ上げK伯母になんで病院に文句を言わないのかといったところ「いや、あの先生はええ先生やねん」と屈託なく答えられたので二の句が告げなかったらしい。

 そういえば、このK伯母は結婚してからはずっと大阪で働いていた。僕が大学に入ったときも、近くに来たといってとても喜んでくれた。大学に入ってまだ授業の始まらない頃に天王寺で春巻きをご馳走してくれて「○○(僕の本名)も、もう大学生やから、ビールくらいはええやろ」といってビールをついでくれた。そのときのビールの苦い味と春巻きの味はまだ覚えている。こういうことを書き始めると取りとめがなくなるので、もう止める。今日のエントリーは単なる僕の家族のための備忘録なので、ここまでお付き合いしてくれた奇特な方がいらっしゃったら感謝申し上げたい。人はいつか必ず死ぬが、そのときが来るまでは誠実に生きていこうと思う。

大事なことを忘れるところだった。まだK伯母は生きているのだ。可能性は限りなく低いが命を取り留める可能性はゼロではないのだ。もっとも命を取り留めたところで、リハビリは限定付の、つまり人間として存続していく希望も限定付の、姥捨て山の国に生きていかなければならないのだが。

長すぎるインタールード あるいはアナザー・ストーリー・オブDRAC興亡史

 「毎月一度はライブを見て巷にあふれる商業第一主義音楽をフンサイし、真の自由を(それも大きな声では言えないが家庭からの自由を)生演奏とともに勝ち取る会」を先日、Y尾君と結成した。などというのはウソだが、お互い月に一度くらいは良いライブを見ようと去年の末からなんとなく決めて、1月はZEK TRIOを見れたので、今月は何のライブを見るか打ち合わせをしようと夕方集まることにした。場所は宮崎駅の近くの居酒屋で、先日ライブを見た後軽く食事をした店だ。そこで二人でお刺身やおでんをつつきながら、音楽の話や昔話に花を咲かした。もっとも彼と一緒に無一文で僕の京都の下宿に転がり込んできたN井君は奥方を亡くされ、そのために毎朝4時に起きて子供の世話をしているなどというヘヴィな話も聞いた。一度激励に行ってやろうという話しから、そういえば学生時代にどうして京都の僕の下宿にやってきたのかそこのところを検証してみることになった。

 僕の記憶、つまり以前アップしたエントリーではお互い大学に入った75年の秋(彼らは国立の○分大学だったので、いわゆる秋休みがあったのだ。○分というのは、ほら、滑って転んで○分県といわれるところ、あ、元かぐや姫の南こうせつの出身地というか、『豆腐屋の四季』を書いた松下竜一さんの、っていい加減くどい)、のことである。彼らは当時山登りに凝っており、そのときも信州をうろついたその帰り道に京都に寄ったのだ。しかし、今回いろいろ話してみると、どうやら最初から京都によるつもりではなく信州から周遊券を使って○分へ帰る途中、京都には僕がいることを思い出して、ほとんど勢いだけで京都駅に下りたらしい。しかもそのときY尾君の所持金は数十円、つまり百円以上のお金を持っていない、早い話がテッポウという奴だったのだ。ところが相方のN井君も同じような経済状況で、察するところ彼らは経済学部だったが、これは自らの経済観念の無さを学問で身につけようという姿勢の現れであり、決して経済学が得意だったからではない、と僕は断言する。つまり、お互い心の中で「こいつがカネは持ってるから、何とかなるだろう」という安易な、英語で言うとチープな、いや別に英語で言わなくてもいいのだが彼らの好きなジャニス・ジョップリンのアルバムに『チープ・スリル』というのがあり、ついこれこそがチープ・スリルでは無いかと思ったものでって、説明が長すぎた、要するに安易な行動がその後の彼らの悲劇を招いたということだ。

 京都駅に降り立った彼らのいでたちは背中にリュックを背負い、その中には着替えと主食の米がしっかり入っており、Y尾君いわく「多分20キロくらいの重さはあったはず」。京都駅に着いた彼らはまず僕の下宿先がどこか分からないのでそこから宮崎の僕の実家に電話することにした。今でこそ10人が10人携帯を持っている時代だが、75年当時は携帯の「ケ」の字も無い。在るのは公衆電話という赤い、いや既に長距離用の黄色の奴も出てきていた。いざ電話をかける段になってお互いカネを持っていないということが分かったときの彼らの会話はどんなものだったか、聞きそびれた。品の良さと、良識で満ち溢れた僕のブログに似つかわしくないものだったのは間違いないだろう。とにかく宮崎に電話はつながり、僕は左京区の修学院という町に住んでることを彼らは聞き出した。さて、京都駅から修学院までどれくらいの距離があるかご存知だろうか。当時は市バスの5番と36番と65番が京都駅スタートで修学院にたどり着く路線だった。

 しかし、この3路線の混み具合は半端なものではない。僕も最初は市バスで大学に通おうとしたが36番のあまりの混み具合に嫌気がさし、D大の学生がみんな下車する「烏丸今出川」まで乗ることは無く、必ずその前の「烏丸上立売」で降りてしまうという習慣がいつの間にかついてしまった。「烏丸上立売」で降りると目の前が学生会館である。そこの正面から入って2階のラウンジの横を通って、そのまま4階のBOXに行く。あ、ラウンジといってもミニスカでケバイおねーさんがタバコくゆらして待ってるところではなくて、健全な学生さんたちがおしゃべりしたり軽食を飲み食いしたりするスペースです、残念ながら。または建物の南側の通路を抜けて生協の食堂を右手に見ながら、薄暗い階段に入っていくという生活を6年続けたのだ。どうだ。

 ええと、話がそれたが(毎度のことです)、つまり京都駅から修学院まではかなり遠いということが言いたかったのです。その遠い道のりを二人は20キロのリュックを背負いながらひたすら歩いたのです。歩き疲れては草に埋もれて寝たのです。と、ドサクサ紛れに「生活の柄」なんかを口ずさんだかどうか。多分鴨川沿いに歩いたと思うが、川のせせらぎに耳を傾けるとか北山の景色をめでるとかそのような余裕は無かったはずだ。両肩に食い込むリュックの紐は固くきつい。額から流れる汗は何時しか目にも入り、周囲の景色も見えない。ただ本能の赴くがまま、北へ北へと歩みを進める二人であった。しかし、夜明けの来ない朝は無い。終わりの無い話は無い。彼らはついに目的地である修学院は中林町にあった僕の下宿に無事たどり着いた。

 「こんにちは、僕たちは○分から来た大学生です。こちらに下宿しているdrac-ob君を訪ねてきました」と、おそらくそのようなことを大家さん(僕の住んでいた部屋は大家さんの母屋と棟続きになっていた。道の正面に大家さんの家の門があり、その横に格子戸がありそこから下宿屋に入るようになっていた。「ああ、drac-obはんですか。あの人は普段は全然学校に行きはらへんのに、ここ何日かは全然下宿に帰って来まへんで」。おそらく大家はこう言ったと思う。丁度大学が学園祭シーズン(イブ期間といって僕の大学は3ヶ月近く学祭の期間があった)で、僕はサークルの1回生つまり、パシリとして先輩方の手足となりもろもろの準備をしていたのだ。いや、そういう口実で先輩たちの下宿に泊めてもらいタダメシを頂いていたのだ。

 僕が居ないということは、僕の部屋に入れないということだ。このことを理解した二人はどのような話をしたのか。多分必死で頼み込んだのだろう。お金が無いこと、京都には他に知り合いが居ない(正確には居なくは無いのだが、ここからまた次の下宿を探す気力も体力も無かったことだろう)、絶対迷惑はかけない、というのを必死で訴えたと思う。そのアピールはY尾君よりN井君の力が大きかったはずだ。というのも彼は妙に人懐こいところがあって、高校で初めて同じクラスになったときも、いきなり「やぁやぁ」とか言いながら右手を振って僕たちの仲に入ってきた。僕の中学は小さな学校だったので、高校で同じクラスになったのは僕を入れて3人だけだったのだ。その3人一緒にいるところに、ニコニコしながら入ってきて親しげに話しかけるものだから、僕はてっきり他の2人の友達だと思って相手をした。後の2人は逆に、僕が話しているのをみて僕の友達だと思ったようだ。そして気がついたら仲良くなっていたのだ。

 N井君の生まれ持った警戒心解凍ビームのおかげで大家さんは二人を僕の部屋に入れた。僕の部屋は自慢では無いが汚い。汚いとよく言われた。4畳半のスペースに製図用机(これは広く使えるからというだけの理由で買った)、ファンシーケース(この組み立てが最初出来なくて困った。結局下宿の友人に組み立ててもらった)、水屋、そして壁掛け式の本棚。そうそう4チャンネルステレオも置いてあったので、足の踏み場も無かったはずだ。今思い出したのだが、僕の部屋の鍵を開けた大家さんは「うっ、この部屋は」と言って、その後何も言わなかったらしい。これは当時のY尾君本人から間違いなく聞いた。それだけ散乱した部屋だったのだろう。しかしどれだけ散らかっていようとも、長旅で疲れ果てた二人にしてみれば横になれるだけでもありがたかったと思う。

 とりあえず、大家さんに鍵を開けてもらったものの僕が何時帰ってくるか分からない。米は持っていたがそれだけでは寂しい。すきっ腹の二人は「すぐ冷蔵庫を開けて食べ物を探した」らしい。これは今回Y尾君が自ら認めた新事実である。もっともその冷蔵庫というのは1階の通路に2台ほど大家さんが置いてくれた、全下宿生共同の冷蔵庫だった。したがってビニール袋やタッパーウェアには名前が書いてあったはずだが、もはやケダモノと化した二人は手当たり次第食べられるものをパクッたらしい。それでも飯盒でメシを炊いて食った後、流石に人様のものを黙って取るのはまずいと思い部屋を物色した。当時僕はまだ自炊をしていなかったので部屋にはコーヒーや紅茶以外はほとんど何も無かったはずだ。ただ買い物したあとのおつりの10円や50円そして多くの1円、5円玉を本箱の棚に無造作に置いていた。これを見つけた二人は早速勘定して、僕が1日過ぎても帰ってこないことを想定し袋ラーメンとおかずになりそうなものを、近所の塩見酒店で購入してひたすら待機していたらしい。そして1晩が過ぎて、2日目も早夕方近くになってから、階段を上がってくる足音を聞いた。

 修学院中学前に下宿していたI上さんという九州は久留米出身の先輩がいて、その人が75年の僕らのサークルのイブ実(イブ祭実行委員、つまりサークルの学園祭実行委員)だったの。僕は連日I上さんの下宿になんだかんだ理由をつけて転がり込み、メシを食わせてもらっていた。この先輩は鍋をするから裏の畑の野菜を盗んで来い、などと後輩に悪事をそそのかす悪い人であったが、マージャンと酒が弱いというほほえましい欠点があったので結構後輩からは慕われていた。その日も僕は学園祭の準備を終えて、当然のごとくI上さんの下宿に行こうとしたら、「お前いい加減自分の下宿に帰れ」と言われ、何日かぶりで自分の部屋に帰ろうとしていた。

 下宿の階段を上がるときに部屋のブレーカーが上がっていたのがちょっと気になった。こういうことは几帳面なのでブレーカーを上げっぱなしにするはずは無いのだ。それでもついうっかりというのはあることなので、そのまま部屋の前まで来たら鍵をしたはずのドアが少し開いている。ドロボウかと思いおそるおそるドアを開けると、万年床の上になにやらうごめく物体が見える。その片方と視線が合った。Y尾君だった。最初の一言は「よう」だった。

 と、まあ、こんないきさつがあって、この話は以前エントリーにアップしたが、今回当事者としてY尾君に検証してもらった。しかし、意外と本人は覚えてないことが多く、その日銭湯に連れて行ったが二人は何度身体を洗っても泡が立たずずいぶんなが風呂だったとか、翌日学生会館で「サンダカン八番娼館」を見たことや、そうそう、下宿にあった栗の木から実を拾ってきて、飯盒にぶち込んで栗ご飯を作って食べたことなどほとんど覚えてないようだった。

 こんなしょうも無い話を延々したあと、ジャズを聞きに行こうとLIFE TIMEに繰り出した。毎週火曜日は夜9時からチャージ無しでセッションをやってるはずだと思って行ったがその日はメンバーが揃わなかったのか、セッションは無かった。二人でジャズを聴きながら、この前のZEK TRIOのライブの話やくるみさんからコメントやメールが来て大いにびびった話などしていたら、香月サンたちがやってきた。若い人たちはええのう、とオジジ丸出しの話をしてさて帰ろうというときに、店のママさんが香月さんを呼んでくれた。今度20日のライブに行きますといったらずいぶん喜んでくれて、この前のZEK TRIOのときに前の席で盛り上がっていた人たちですね、などといわれた。結構目立っていたのだろうか。

 例によって取りとめのないことを書いていったが、ま、これはウォーミング・アップです。というかね、アナザー・サイド・オブ・DRAC興亡史というか、いえ、言い訳はしません。次回こそはちゃんと続きをアップします。乞うご期待。

DRAC興亡史 1975~1980 早すぎるインタールード

 不覚であった。もっとちゃんと書いてると思い込んでいた。物事は確かめないといけないという当たり前のことを痛感した。いや、いまさらの話ですが「DRAC興亡史 1975-1980」のことです。先日、ごく一部のD大OB、とりわけ学生会館別館をテリトリーとしていたOBの間で「読んだか?」「あんなん実名だしてええんか」「三共闘は××派からゲバかけられたんか」などと、あまり本のテーマとは関係ないがそれでも70年代のD大に所属し、サークル運動や自治会運動に関わったOB(あ、あくまでも僕の知ってるOBという意味です)の間で話題になった佐藤優の「私のマルクス」を読み終え、しまった、オレの書こうとしていたことの先取りをされたと悔しく思い、まあそれでもオレのエントリーも結構進んでいたはずだと思って読み直してみたら、何のナンノ、未だに大学に入学するところまで話が来ていない。こりゃ今年1年かけて完結するのかと、やや不安になったが気を取り直して書いていこう。継続は力なり、軽率は無力なりというではないか、言わないか。

 先ほど、佐藤優の本を読んで「悔しい、先を越された」などと書いたのは当然冗談であるが(誰も真に受けないって)、志としては近いものがある。もっともこちらは「私のミューズ」とでも書けば聞こえは良いが、要は別館にかって存在した音楽研究サークルのある時代を書き記したいというただそれだけのことだ。勿論ドラマチックなことは何一つ無い。いやそこで活動していた人間にとっては十分ドラマチックなことは沢山あったが、それを誰でも見ることが出来るブログという形態に書き記しても、他人にとっては何にもドラマチックでは無い話ばかりになるだろう。まあ、いいか。このブログも「別館4階のBOXから」というタイトルだし、僕のHNもサークルのOBであることをアピールするためにつけたのだから。

 佐藤優の本を読んでいて、結構いろいろ思い出すことがあったのだが今日はひとつだけ僕の苦い思い出として書いておくことがある。ステーキハウス「トーラス」の思い出だ。これは30年以上僕の記憶から消えていた。人間本当に嫌なことは記憶の底にうずめてしまい、そんなことは無かったと忘却のかなたにホカスものだが、しかし、一度思い出してしまうと今度はなかなか消えてくれない。実はこの「トーラス」という名前もそんな思い出したくない名前のひとつだった。場所は今出川キャンパスから新町キャンパスに行く途中の細い路地、木造モルタルっぽい2階建ての2階にそのレストランは存在した。ああ、あの薄暗くて細い急な階段が見事にまぶたに浮かんできた。

 あれは75年の4月、新学期が始まったばかり、いやまだ授業は始まっておらずオリエンテーションの期間だったかもしれない。九州の田舎から出てきたばかりで、まだ下宿にもなじんでいない頃、当然僕にはクラスの友達などおらず、一人寂しく大学に行った。今出川キャンパスから新町キャンパスの周辺は新入生や進級生であふれかえっていた。5月の連休を過ぎれば一気に閑古鳥が鳴くのだが、4月のはじめというのはどんなできんボーイズ&ガールズも希望にあふれてキャンパスやその周囲を闊歩するものだ。みんなそれぞれに友達と一緒に喫茶店や食堂に入って行く。そう、ランチタイムの頃だったと思う。僕は授業で指定されていた教科書を生協や畳屋(何故か僕の所属していた学科は畳屋で教科書を売っていた。いかなるギルドか、カルテル、トラストか分からぬが)を回って入手し、そのついでに星新一のショート・ショートの文庫本を買った。食事しながらどこかでそいつを読もうと思っていたのだ。ちょっとカッコ付けさせてもらうと、ホレス・マッコイの「彼らは廃馬を撃つ」も買っており、サルトルが実存主義の先駆的作品と評価したこの名作を紅茶片手にじっくり読んだろと思っていたのだ。

 と、いうのも高校の物理の先生で京都大学出身の方が居て「京都ではコーヒーより紅茶を頼むほうがいい。コーヒーはカップに1杯しか出てこないが、紅茶はティーバッグの入った大きい器に入れてくれるから2杯から3杯飲める」などと(そんなことを覚える暇があれば物理の公式のひとつでも覚えておくべきだった。そうすればその後の人生も変わっていたかもしれないのだが、などと後悔先に立たずということをバカ娘に言うのだが親の心子知らずである、脱線した)、言ったことを覚えていて、大学生になったら紅茶をすすりながら本を読むというスタイルにあこがれていたのだ。完璧にアフォだ。

 大学の周囲というのは今もそうだろうが、喫茶店やカジュアルなレストラン、食堂などが沢山ある。しかし4月の始めの学生数というのはものすごくどのお店も人であふれていた。しかも何人かで固まって入り口で待ってるお店もある。有名な喫茶店の「わびすけ」や「駱駝館」などは鈴なりのひとだかりだ。田舎モノの僕はそんな人だかりするお店に入っていく勇気も無く、探せばどこかにすいているお店があるだろうと思いあちこちうろついた。しかしどこのお店も学生で一杯だ。いい加減手に持った教科書や本が重くなり、もうどこでもいいと思ったときにその看板は見えた。カタカナで「トーラス」だったかアルファベットも書いてあったか。小さい看板が見えて階段の上のほうを矢印が指している。これぞ「天国への階段」かもしれない(くるみさん、次の機会には是非この曲演奏してください)。僕は魅入られたようにその階段を登っていった。

 チリンとドアを開けたときに鈴の音がした。テーブルが数箇所、無造作に置かれていた。ちょっと嫌な感じがしたのは客が僕一人だけだったのと、テーブルにはクロスが敷かれていたことだ。それでも喫茶店だろうと思い席に就いた。更に嫌な感じがしたのは、こぎれいなウェイトレスではなく、あのなんと言うのかコックさんがかぶっている帽子と白衣かな、要はコックさんの格好をした男の人がメニューを持って来たことだ。黙ってメニューを受け取ると一番最初に「ステーキ 3,000円」と書いてある。え、3,000円、1食?と頭の中はパニック状態だった。毎月の仕送りが5万で家賃が1万、電気代などが2000円くらいかかるはずだから、ええと5万ひく1万2千円は3万8千円か。1ヶ月30日で考えると食費は1日千円以内で過ごさないと破綻するな。ということがものの0.5秒で過ぎった。

 店を出ようと一瞬考えたが、メニューを持ってきたコックが入り口の前で仁王立ちしている。いや、今思うと単にこちらのオーダーを聞こうと待っていただけだろうが、そのときは食い逃げ(まだ食っても無いのに)を捕まえるためにあそこにいるのだと錯乱していた。「す、すてーき」と僕は至って平穏な声で言った、言ったつもりだったが多分声は裏返っていたかもしれない。コックはメニューを持って厨房のほうに行った。それからどれくらいの時間がたっただろうか。いやほんの少しの時間だったはずだが、僕の頭の中はサンゼンエン、一食でサンゼンエンという言葉がエコーで響いていた。ホレス・マッコイは頭に入らない。星新一も楽しくない。どうしてこんな店に入ってしまったのか。生協の食堂でよかったじゃないか。たかが地方公務員の息子風情が見栄張って私立大学なんかに来るからこんな目に会うのだ。と、僕は自分を責めるのであった。

 ジューッと香ばしい音がしてステーキが来た。いや来たはずだ。しかし何も覚えていない。お皿もステーキの形も、匂いも味も。僕の次の記憶は階段を上がってくる楽しそうな話し声だ。女子学生が4,5人階段を上がって店に入ってきた。ああ、この人たちも3000円のステーキを食べるのであろうか。見るからに上品そうなお嬢さん方だから付属の高校から内部進学してきたええとこのお嬢だろう、と涙目で見ていたら、その中の一人がメニューを一瞥するや「レティー」と一声。「あ、私も」「なら、うちも」みたいな声が上がり、僕は何が起こったのか良く分からなかった。コックは僕のときと同じように厨房に下がった。

 すぐにコックは大きなトレイに大きなティーポットとティーカップを人数分持ってきた。ティーポットの中にはティーバッグが人数分入っている。「え、あれ」と思わず声が出そうになった。ココハすてーきれすとらんダケドこうちゃダケデモイイノ?僕の心の中で何かが壊れた。僕は残りの肉と野菜を一気に掻きこんでお金を払って出た。サンゼンエン、1食にサンゼンエン、頭の中には先ほどの声が響いていた。そうか、ああいうお店でお茶だけ飲んで帰ってもいいんだ。でもオレはクサっても九州男児だ。そんなみっともないまねが出来るか!と、こういう負けず嫌いな性格のため、今に至るまでしなくていい苦労をしている。

 これは1975年4月上旬に京都市烏丸今出川付近で起きた実話です。このときはまだDRACには入っていませんでした。

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