たまには淡々とした話を、事実に基づいて

 あらかじめお断りしておきますが、落ちはありません。ただ事実関係だけを書く、シラカバ派のようなエントリーを書きたくてアップした話です。

 携帯が故障した。充電が利かないのだ。僕は外回りの仕事が多く、携帯は電話、メール、写真とフルに使うので、すぐ充電が切れる。充電が切れると、当然携帯は使えなくなる。それでは困るので、量販店で電池式の充電器を買った。単3の乾電池を2本入れて携帯を充電する仕組みだ。ただ携帯の下の差込口にこいつを入れると大変不恰好になるし、うっかり充電中に電話がかかってきてそのまま取ると重みで充電器が外れてしまう。また車の振動でいつの間にか外れてしまうこともある。シガーライターのソケットを使う充電器を次に買った。こちらは大変便利で、車のエンジンさえかかっていればいつでも充電できる。ついでにPCのUSBから充電できる物も買った。事務所に居る時は大抵これに携帯をさして置くようになった。

 最初に買った電池式の充電器は確か千何百円かしたと思う。後のシガーライター式のやつとUSBのやつは100均で買った。もっともどちらも100円では買えず、それぞれ420円だった。しかし、壊れた。壊れる時は突然で、今日は午前中からひっきりなしに携帯に電話がかかってきたので、午後3時くらいには携帯のバッテリーの目盛りが2のところに来ていた。ヤバイ、と思い車のエンジンをかけてシガーライター式の充電器につないだ。いつもならすぐに灯る充電中の赤ランプがつかない。おかしいな、と思って一度外してまたつないでみた。やはりつかない。ちょっと戸惑って、それから車のキャビネットを開けて最近使っていない電池式の充電器を取り出した。電池が入っているのを確認してつないでみた。やはり充電中のランプはつかない。

 結局、携帯のショップに持っていったら、携帯本体の充電口に店員が息を吹きかけてそれから充電器を差し込んだがダメだった。息を吹きかけて機器をつなぐというのは、子供がゲーム機の調子がおかしくなったときに良くやる方法だ。理屈は同じなのか。2,3回充電器をつないだ後、店員が戻ってきてこの携帯は故障だと説明した。充電用のところが恐らく破損しており、メーカーに送って修理依頼しないとダメだという。もっともそれでも直らないこともあり、その場合は差し込み式の充電器ではなく据え置きタイプのもので充電しないとダメだと付け加えた。おかしいじゃないか、買ったときに据え置きタイプの充電器はセットされてなかったぞ、以前のボーダフォンの時はちゃんとセットされてたのに、どうしてだと聞いたが、納得できる回答はなかった。

 結局、メーカーに修理を依頼した。そのときにデータが飛んでも文句言いませんという用紙にサインをさせられた。また代替機を壊したら弁償、返却期間すぎても返さなかった時はペナルティという用紙にもサインをさせられた。こちらが弱い立場なので、何でもかんでもサインしろである。大事なところは蛍光マーカーで線を引いたりするが、アリバイであることは間違いない。説明しながらこちらの目を見ていない。あらぬ方向を見ながら、それでいて口調だけは馬鹿丁寧に話す。マニュアル通りであることみえみえだ。結局今年の3月に新しい機種にしてこれで2度目の故障。しかも前回は保険を解除していたので、修理代は実費、今回はそれに懲りて保険に入ることにしたのだが、リニューアルとかいうのをしたほうが良いからと言われ、それにも費用がかかるようだ。今回頭に来たことはいくつかあるが、一番頭に来たのはシガーライター式の充電器や、USBの充電器が携帯メーカーの純正部品ではなかったことが原因だといわれたことだ。ふざけるな、クソ○ャープ。携帯は持ち運ぶための道具だろうが。外でバッテリーが切れたときのために、せめてシガーライター式の充電器はセットに入れておくか、購入時にオプションとして勧めるべきだろうが。しかも馬鹿高いオプション品ばかり作り、在庫もロクスッポ置いてないから100均で買うのだ。

 キャ○ンのプリンターのインクタンクもそうだ。リサイクルなんてぬかすんだったら、インク詰め替え、容器再利用でいいじゃねえか。何でわざわざ容器つぶして作り変えるんだ。挙句は残業は社員の自己責任みたいなシステムにしてしまおうと目論むその態度。おっといかん。○ャープだった。お前のとこのノートパソコン、ゼビオじゃねーや、なんか線を引いてたらいつの間にか元に戻ったというだまし絵みたいな名前のノートパソコン(あ、○ビウスだ、ゼビオとは母音が似ているだけだ)。オレ、初めてのパソコンで当時大枚20万をはたいて買ったのに、すぐに液晶に縦に(どうだ、「に」の3連発だ)線が入って見にくくなったぞ。修理に出したら、液晶を変えるので8万といわれ、それだったらいっそのこと新しいPCにしようかと思ったが、使い慣れてたのでそのまま修理というかこの場合は部品交換だ、部品交換したのに1年もしないうちに同じところに線が入って見にくくなった。頭来たけど、そのときは既に買ったお店(個人でやってるとこだったけど)がなくなったので、思い切って新しいPC買ったよ。

 それでもちょっと口惜しかったので修理を受け付けてくれた○オデオの店員に、ついでのときで良いからメーカークレームとして上げといてくれと言ったのに、なしのつぶてだ。どうなってるんだ、ニッポン。オレのすきなジューマイの崎陽軒(これは実名でいきます。崎陽軒しっかりしてくれよ)も材料を不当表示していたとかで製造中止になってるじゃないか。もう、いい加減にしてくれ。ああ、少しはすっきりしたが、納得いかないことだらけ。

 おっと、一番大事なことを忘れていた。以前のエントリーでも書いたが、要するに世の中でもっとも愚かな発明は携帯電話である。携帯なんかなくなっちまえ~。
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I met the blues,yeah,real blues ,yesterday.

伸ちゃんのサイン バックが茶色なので目立たない

 いやー、あっという間の2時間でした。いいライブは時間の経つのを忘れさせる。ミュージシャンの乗りもよく、お客の反応もそれなりに良かった。チケット譲ってくれたI切さん、ありがとうございました。たっぷりブルースを堪能してきました。何の話かというと、もちろん昨日見た「妹尾&塩次ブルースバンド」のライブの話だ。カルメン・マキのライブのときに偶然、高校時代の同級生に会い、そのときに塩次「伸ちゃん」がウィーピングハープ妹尾と一緒にライブをやるという話を聞いた。地元宮崎の中心街を活性化させるためのイベントの一環として行われるらしい。場所は加川良も褒めたライブハウス「New Retro Club」、11/24(金)午後7時からである。行かねばなるまい、当然。なぜなら塩次さんは大学の大先輩だ。

 もっともあちらは演奏することで自己表現するライラックレインボーズという部外連、こちらはもっぱら聞いて批評ばかりしていた(そういうのが鬱陶しくなって、ライブのイベント企画したり、ミニコミ始めたりしたんだけどね)天下のDRAC(同志社大学レコード音楽研究会)、もちろん文連傘下のサークルである。したがって学園祭の出し物もこちらはレコードかけてディスコやったり、自らが化粧してオカマになるオカマ喫茶をやるしかなかったが、あちらは自分達の演奏を聞かせてオアシを貰っていた、セミプロみたいな連中だったのだ。当然若い女の子は、いや、訂正、若くて可愛い女の子はあちらに殺到するという次第だ。口惜しい。Purple_Hazeさんも今でこそ、良きマイホームパパ振りをブログにアップしているが、学生時代は相当いい目に遭ったに違いない。いや、そうに違いない。いいえ、なんと言い訳しようとも、バンドマンはモテタのだ。特にギター弾きは。

 ここで部外連とか、文連とかいってもごく一部の人にしか分からないだろうが、文連というのは文化団体連盟の略であり、大学から公認されたサークルで活動予算も大学から貰える。部外連というのは部外団体連合の略であり、サークルや同好会の集まりであるが大学からの援助はない。つまり格式からいうとこちらは本家とか元祖とかいうべき団体だなどと、モテナカッタ腹いせに所属サークルの歴史で空威張りするしかないが、まあ、つまりはそういうことだ(どういうことだ?)。いい加減、過去の栄光を追っていてもしょうがないので(それより前に、栄光と呼べるような過去があったかどうかも疑わしいが)、早速ライブレポートをお送りしたい。塩次伸二ニューアルバム


 土曜日は例によって午前中は病院に行き、昼から出社した。週末で月末近くなので何かと忙しかったが、6時には仕事を切り上げて家に帰った。服を着替える時間も惜しく、配偶者にライブ会場近くまで送ってもらう。用心して携帯をバイブにしていたので、一緒に行く約束していたY尾君からの電話に気がつかなかった。6時半開場だったので、その時間に連絡を取り合い、早くついたほうが席を確保しようという約束だったのだ。6時半を2,3分回ったくらいに会場に着いた。Y尾君は、ライブハウスの入り口にいた。合流して一緒に階段を上っていくと、入り口は少し込み合っている。先週、ボジョレヌーボーの解禁パーティのときにお会いした某時計店の社長さんが受付にいたので挨拶した。笑顔が良い。本当にイベントをプロデュースするのが好きなんだろう。

 受付でチケットを見せると、55番という番号札とドリンク交換用のタグを貰った。番号札には55という数字が書いてあった。「ゴーゴー伸ちゃんか、ゲンがいいな」と思いながら、席を探す。ステージど真ん前のテーブルが空いていた。Y尾君と二人で、すばやくゲット。隣も二人組みだったが、こちらはカップルであった。彼氏は「そりゃーもう妹尾さんのライブだから、何があっても飛んでこないと…」などと最初からハイテンションである。ステージと反対側にあるドリンクバーでビールとオツマミを買って、再度席に着いた。ざっと見て7,80人くらい入ってるだろうか。僕たちの左側のテーブルは、先ほど紹介したように若いカップルだったが、その横に赤い服を着た髪の長い女性が一人で座っていた。港のヨーコ、横浜、横須賀という雰囲気である。Y尾君がしきりに「若いのにこういう音楽が好きなんだろうか」とえらく気にしている。僕が20年若かったら、ナンパして次の日には上海に売り飛ばされていただろう。運の良いお嬢さんだ。

 まあ、有り得ない話はさておき開演まで時間があったので、Y尾君と色々話した。彼はジャズではベーシストやドラマーのソロアルバムは多いし、バンドリーダーになる人も多いがブルースは何故、ギタリストだけが持て囃されるのかという疑問を呈してきた。いやブルース界にもスーパーベーシストやトップドラマーはいるが、確かにあまりリーダーアルバムはないような気がする。ライトニン・ホプキンスもT・ボーン・ウォーカーもギター一本でやっていたからではないかと、曖昧な返事をした。このあたり誰かわかる人がいたら教えて欲しい。ビールを飲んだせいかトイレに行きたくなり、開演まであと4,5分あるのを確認して席を立った。

 このライブハウスの男性用トイレは狭くて、便器(俗に言うアサガオですな)が2つ並列に並んでいて、間に仕切りがない。一人で使用する時はいいが、先客がいると身体を少しねじるようにして入らないとつらい。ダークダックスのステージのようだ(といっても分からない若い人も多いだろうが)。僕が入った時は手前側のところに小柄な人が先に用を足していた。その横に身をくねらして入り、さて今日はどんな演奏が聴けるかぼんやり考えていると、いきなり隣の人が「ヨシッ」と声は小さいがやたらと力の入った言葉を呟いた。その後も「ウンッ」とか「ソレッ」とかやたら気合を入れるような言葉を発する。もしやと思って横を見ると、髪を束ねて帽子を被り、よれよれのジーンズをはいた姿はもしかしたら妹尾さん?声をかけようか迷っているうちにその人は出て行った。席に戻ってからY尾君に「もしかしたら妹尾と連れションしたかも知れん」と言ったら「カルメン・マキのときも休憩中の板橋を見たとか言ってたな。トイレに行くと何かいいことがあるのか」とおちょくられた。ライブ前のステージ 嵐の前の静けさ

 そうこうするうちに客電が落ちて、地元のラジオのDJがバンドの紹介を始めた。来ている客のほとんどはバンドのメンバーのキャリアなど先刻ご承知という感じだったが、行儀良く聞いていた。販促で伸ちゃんの新しいCDを説明したが、なんと気になっていた山岸とのジョイントアルバムは残り3枚しかないので早い者勝ち、あとはネットかタワレコで買ってくださいとのこと。3枚だともしかしたらゲットできないかなと思ったが、その心配は杞憂に終わった。「それでは大きな拍手でお迎えください、妹尾&塩次ブルースバンドです」の声が終わると同時に、熱い拍手に包まれながらバンドのメンバーが登場した。帽子を被って髪を束ねたジーンズ姿、やはりトイレで一緒だったのは妹尾さんだ。

 オープニングは軽快なジャンプナンバー。一気に音楽に吸い込まれる。いい感じだ。仕事が終わった夕方のひと時、生のブルースが聞けるというのは至福の瞬間だと考えた。客もすぐに手拍子をはじめ、会場が一体感に包まれるのも自然だった。隣のお兄ちゃんは手拍子だけでは飽き足らず、足を踏み鳴らすのでこちらのテーブルはがたがたである。妹尾さんがMCを始めた。「ブルースはきつい、つらい、くさい、ださいetc~」そこに伸ちゃんの合いの手「ええことないやん」「ほんまええことないねんけど、もうこういうことを30年以上やってます」ひときわ大きな拍手が起こった。「大学受験のとき関西の大学の入試問題は全部白紙で出して、何が何でも東京に行かんとと思っていきました。そしてそこでタイガースやテンプターズやモップスのライブ見てしびれて…」って、オッサン歳なんぼや。

 今回少し驚いたのは、妹尾さんがボーカルを取る時に口ジャムというか口ベースや口ドラムさらにキーボードのアクションをしながら演奏したこと。正直ボーカルはやや弱い感じがしたが、味がある。ステージアクションもオーバーで見ていて楽しかった。僕は今日のライブは多分曲名をちょっと喋ったらすぐ演奏というイメージを予想していたのだが、いえいえトークは楽しいし、そういえば「伸ちゃんのクイズタイム」というのも突然始まった。12/5に出るニューアルバムに録音した曲という説明で始まった「デルタボーイ」の熱演が終わった直後だったろうか(もしかしたら別の曲のあとだったかもしれない。このあたり記憶がちょっと定かでない)。

 妹尾さんが「このクイズに正解された方には塩次伸二特製ピックを差し上げます。ヤフーのオークションに出せば値がつきまっせ」と煽る。塩次さんは「せっかくエエトコやったのに急やな」などといいながら問題を出した。「ある人がトイレに行った後に急死しました。さてその人の職業はなんでしょうか」「なぞなぞやで」。一体なんだろう。会場も結構静かになって考え込んだ。キーンコーンカーーンコーーン、時計の秒針の音を伸ちゃんがギターで弾く。チープトリックのリック・ニールセンが「クロックストライクステン」でやったテクニックだ。「もうタイムアウトですか」というステージからの投げかけに客席から「手を挙げてる人が居る」と指摘があった。「それでは答えをどうぞ」「弁護士、ベンーゴーシ」一瞬何のことかと思ったが、ナルホド『便後死』ということか。見事正解したお客さんはステージに上げられてピックを貰った。その間ノーリアクションというか、一言も発せず、このあたりがジャイな宮崎県人の面目躍如であった。関西人だったら必ず何かギャグをやってただろう。

 一時間があっという間に過ぎた。10分間の休憩が告げられた。僕はビールのお代わりを買いに行くついでに物販コーナーを見たら、なんと「Together Again Blues in New Orleans」が3枚そのまま残っていた。即座に購入。最近ライブやCD、DVDにお金を使い過ぎるという配偶者の苦言がちらっと脳裏を掠めたが、「命はひとつ、人生は一回~」と加川良教訓Ⅰ思想で武装した僕には「でもそんなの関係ネー」であった(彼の芸風は決して好きにはなれないが、このフレーズは使い勝手がいい)。
「デルタボーイ」を熱演する伸ちゃんとバンドメンバー

 後半のステージが始まった。前半の熱気が残ったままで、会場は1曲目からヒートアップだ。妹尾さんのMCで「ブルースには歌が必要、上手くても下手でもボーカルを取ることが大事、という考え方でこのバンドは全員歌います」と前振りあがり伸ちゃんのボーカルはもちろんドラムの松本さんの歌も聞けたのは収穫だった。何故かベースの大西さんは歌わなかったがその分すごいベースソロがあった。妹尾さんはやたら喋り、ジョークを飛ばす。「30年以上こんなことをやってます」というフレーズが何度も出てきた。おかしかったのは「ブルースが好きで音楽始めて、それでも若い頃はいろんなのを聞いてました。たとえばユーライアヒープとか~」ユーライア・ヒープ?あの「対自核」の、仰々しいオルガンとデビッド・バイロンのボーカルとハードなギターのプログレというよりは、メロディアスなハードロックバンド、ブリティッシュロックそのものの、ヒープを聴いていたというところが受けて、一人で大笑いしてしまった。

 前半のステージももちろん良かったが、後半は正に怒涛の勢いのライブだった。伸ちゃんがリードボーカルを取った「エブリィデイアイハブザブルース」、ブルースの一大スタンダードナンバー「ストーミーマンディ」そして、ニューオーリンズで仕込んできたという楽曲、コーラスのフレーズが「Workin’ go down down」というリフの曲。炭鉱で働く人のことを歌った曲だと知り、福岡出身で父親が三池炭鉱で働いていた伸ちゃんはいたく気に入りレパートリーに加えたようだ。しかし、本当に楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。何の曲の時だったか、妹尾さんがハープを吹きまくりながらステージを降りてきて、女性客を見つけてはその前でソロを吹くというアドリブがあった。その時気がついたのだが、女性客が結構入っている。年齢的にも20代後半から40代前半くらいが多い。僕のストライクゾーンである、ってこらこら、ここはチャットルームではない。

 ステージも終了間際、妹尾さんが「宮崎また呼んでや」といいながらラストナンバーに入った。アドリブで伸ちゃんが「ヒガシコクバル」とか「チキンナンバン」「ミヤザキニチニチシンブン」とかローカルサービスのフレーズを入れてギターを弾きまくった。書き忘れていたがそれぞれの演奏の中でハーモニクス奏法をたっぷり聞かせてくれた。アンコールは当然すぐに起こった。ステージを降りた瞬間からすぐまたアンコールに入りそうな勢いだったが、そこはそれ、お約束でいったん控え室に下がった。アンコールナンバーが始まった。ギターのコードが響くや否や、隣のお兄ちゃんは立って踊りだした。バンドのメンバーも微笑ましく見ているようだ。ただ残念ながら後に続く人間がおらず、会場が一大ディスコと化して、オネーサンがたがワンレンボディコンで、大きな扇子を広げて、などということは起こらなかった。宮崎の人はつつしみ深いのだ。

 アンコールが終わり、バンドのメンバー4人が肩を抱きあって客席の拍手に答えた。オープニングのMCを担当したDJ氏がライブの終了を告げた。客電が点いた。

 耳に心地よい耳鳴りが残ったのは何年ぶりだろうか。ライブが終了するや客席は一気に静かになった。僕は買ったCDにサインしてもらおうとお店の人にお願いした。控え室に通してもらうと、ライブを終えたメンバーが3人テーブルを挟んで座っていた。塩次さんは何故か立って奥のほうに居た。「塩次さん、サインください」というと「おぅ、CDこうてくれたん」と返事があった。CDのカバーを外し、手渡す時に「実は大学の後輩になるんです」と話したら「え、自分も同志社なん?」。「ハイ、塩次さんはライラックに居てはったんですよね」「うん、まあでも俺らは反抗組やったからな」「銀閣寺のサーカス&サーカスでよく見ました」「そうか。おおきに」「HP楽しく見てます。ただ更新が少ないので…」「え、あ、うん」「これからも頑張ってください、更新楽しみにしてます」といって控え室を出ようとしたときに「世の中分からんな、こんなとこで大学の後輩に会うなんてな」と声が聞こえた。

 本当はもっともっと、話したいことがあったのだ。ブルースを食わず嫌いだった僕にその楽しさを教えてくれたのが、サークルの会長をやったS戸君だ。彼がサーカスのバイトをしていたおかげで、いろんなライブを見ることが出来たし、ミュージシャン達の素顔の様子も教えてくれた。「お前知っとるか、ウェストロードの伸ちゃんは同志社の先輩やで。この前高野のホリディインのプールに一緒にいったんや。やっぱミュージシャンはすごいで。プール行って泳がんとオイチョカブしよるんや。しかも伸ちゃんはオイチョなのに『もういっちょや』いうて引きよるねん」

 「お前金持っとる?持っとったらゲー千円貸してくれ」「ゲー千円って、なんや」「あほ、コードはC,D,E.F,Gってくるやろ。せやからゲー千円は5千円や、ちなみに1万円はツェー万いうねん、伸ちゃんたちがいうとった」

 「最近サーカスでなセッションが流行ってんねん。誰かが演奏しているところに飛び入りで入って一緒にやりよるんや。そのときの挨拶が『こりゃぁ~どうも』いうて頭下げるねん」「へー、たとえば誰や」「シーちゃんブラザーズの伸ちゃんがこの前言い始めて今流行りはじめてるとこや。お前も何かあったら使えや」

 こんな話がたくさんあったので、是非噂の真相を確かめたかったのだが、悲しいことに僕も宮崎人なので、謙虚の塊、遠慮が服着て歩いてる人で、生まれつき口下手で思ってることの十分の一も言えないので、子供の頃から損ばかりしている(by夏目漱石)。ところで友達でもないのに塩次先輩のことを伸ちゃん呼ばわりして申し訳ないが、実は僕も子供の頃から伸ちゃんなのだ。そういうことで勘弁して欲しいのだ。あ、そうそうサイン貰った時に特製ピックも貰いましたが、僕が持っていても単なる飾りになるのでどなたか欲しい方がいらっしゃればメールでご連絡ください。
エンディング 地元のDJ氏とバンドの4人

DRAC興亡史 1975~1980 前史その2

 一体全体、本当にやる気があるのか、と自問自答したくなるくらいご無沙汰でした。なんと栄えある第1回は10月28日にアップして、それっきり。しかもタイトルは「DRAC興亡史 1975~1980」などと謳っておきながら、中身はそれ以前の高校時代の話という正に羊頭狗肉を地で行く所業。いくら偽装流行の昨今だからといって、これではあんまりである。しかも僕の悪い癖でやたらあちこちに「続きを書きます」とか「今書いています」とか、アリバイ的言辞をもてあそび、それでエントリーをアップしたような気になっていたが、それではいかんと気を取り直し、続編を書いていくのだ。お付き合いのほど宜しくお願い申し上げます。土下座。

 とまあ、前口上でこれくらい謝っておけば良いだろうという姑息な考えがなくはないのだが、実際前にどんな話を書いていたか読み直して、ようやく続きを書き始めた今日この頃なのだ。気分的には75年の春、入学式には行かずぼんやり下宿から古都の風情を眺めていたところから話を始めようかと思ったが、やはり物事には順序があるので、再度高校時代の話から書き始めていこう。前回書けなかった、なぜ進路を関西のD大学に決めたかという話だ。ところが、実はこれも味気のない話で僕の家は父が教師、つまり地方公務員であり母はパート労働者で、当然の如く収入はたかが知れている。もっとも今の僕の収入より、同年代だった頃の父のほうが高額所得者だったに違いないという、悲しいどんぐりの背比べの話は今回はしない。何故かというと僕が悲しくなるからだ。働けど働けど我が暮らし楽にならず、ジット我が手を見ながら人ごみの中にそを聞きに行く(by石川ブタキならぬ啄木)ような話は書きたくないのだ。

 まあ、要するに大学は国公立でないとダメという暗黙のルールが我が家を支配していたのだ。ところが僕の成績は3年間担任だったM川先生が一番良くご存知だった。父を交えた三者面談の時に「drac-ob君は私立に進んだほうがその能力を伸ばせると思います」と、今になってみればその根拠は一体なんだったのかと聞きたくなる発言だが、当時ワセダに行きたいと思っていた僕の心を代弁してくれるようなことを言ってくれた。だが、父は一言「うちは私立は無理です」。しょうがないから一応国立専願で受験勉強はした。僕の時代は国立一期校、二期校というものがあり、一期校には昔の帝大、つまり旧制○高とか言われる大学や難関大学が多かった。こういってはいけないのだろうが、二期校は47都道府県の県庁所在地に太平洋戦争後設立された大学が多く、口の悪い大宅壮一などは「駅弁大学」などと言っていた。

 受験の日程も3月のたしか3,4日が一期校で、23,4日くらいが二期校だったと思う。したがって当時は国立大学に合格するチャンスは毎年2回あったのだ。さらに数は少なかったが公立大学というのもあり、今でこそ宮崎にも出来ているが、当時は数が少なく競争率も激しかったがユニークな単科大学も多く、しかも試験日が一、二期校と重ならなかったので、国立と併願すると都合3回は国公立大学進学のチャンスがあったのだ。その中で僕は何故か一期校は北海道大学、二期校は弘前大学という北海道・東北路線を選択した。これは南国人特有の心理であろうが、まず雪国に住んでみたいというのと、当時はブンガク少年で特にロシア文学が好きであったためだ。そうそう、今思い出したのだが塾などに行ったことはなかったが、やはり家で一人で勉強していると不安になり何か効果的な勉強方法はないかと友人に聞いたことあった。何人かに聞いたのだが、その中で医者になるためにガリベンしていたM山君(彼は見事本懐を遂げて今は立派なドクターになっている。しかも奥さんを一気に若い人にチェンジした目標貫徹、白衣が大好きという立派な人である。僕ももう少し勇気があればが、いやいや、何を言っておるのだ)から、通信教育がいいと聞きZ会だったか、大学受験の通信講座を高校2年から申し込んだが、一回もテストを出したことがなかった。

 それでも流石に高校3年生になる前に、さてどこの大学に行こうかと考えた時に基本的にオレは文系だし、ブンガクを極めないともったいない。さらにブンガクやるならロシア文学だと決め込み、国公立大学の中でロシア文学を学べるのはどこかと、初めてそのZ会に質問の手紙を出したのだ。そのときに届いた返事の書き出しは未だにはっきり覚えている。こうだ。「ようやくその気になりましたね。先ず目標を立てるというのは大事なことです。もっとも時期が遅すぎます。ライバル達は既に目標をしっかり立てて頑張っていますよ」という内容だ。何故ここまで覚えているかというと、昔から人に意見されるとすぐ反抗するという難儀な性格だからだ。そのときも「うるせー、この野朗。武蔵と小次郎はどっちが勝ったか知ってるのか、早ければいいってもんじゃねぇや」などと己の無計画・無謀さを棚に上げて怒りまくったからだ。僕の記憶の原点は大抵怒りである。

 それでも当時の大学受験のデータなど限られていたので、その先を読むと今はどうだか知らないが74年当時ニホン国でロシア文学を学べるのは、①東京大学 ②東京外語大学 ③北海道大学の3校しかなかった。東京大学は論外というか、おこがましいというか、いえもちろんその74年当時高校生だった僕にも受験する権利はあったよ。しかし権利があるからと言ってそれを行使するとは限らないというか、良く考えたらいくら温厚なM川先生でも僕が東大受けるから内申書書いてくれと言ったら「ふざけるな」と一喝されたに違いない。当然僕の志望校にはなりえない。次の外語大も別に通訳になりたいとか外交官になりたいなど考えてなかったので(この考え方も随分おこがましいが)、削除した。消去法でいくと残ったのは北海道大学だけであった。

 それで第一志望校は北大とするわけだが、第2志望はどうして弘前大学にしたのか良く覚えていない。もしかしたら太宰治が影響したかもしれないが、本人の意識の中には別な理由があったはずだ。オンナコドモじゃないんだから太宰に憧れて九州から津軽までなどというのはちょっとね。多分偏差値とか北海道の近くだからとか、わりと安易に決めたような気がする。それで最終的に願書を出す時は友人が受けるという茨城大学に変更したくらいだから、やはり大した理由ではなかったのだろう。Z会からはなんだかんだ言われたが、目標も決まり、まあそんなにはいなかった宮崎から北大に行った先輩のところに話を聞きにいったりしてムードを盛り上げてそれなりに頑張っていたのだ。そうそう、この北大に通っていた先輩を紹介してくれたのが先日カルメン・マキで偶然一緒になったY尾君だ。こう考えてみると人生って不思議な縁で結ばれてるな。

 その先輩から、宮崎ではとても想像できない北国の話、楽しい大学生活の話など伺った。もっとも仮に北大に行っても寮にだけはゼッタイ入るなといわれた。どうしてか尋ねると、そこにはカク○(伏字になってないような希ガス)という恐ろしいセクトが巣食っていて、何も知らない学生などあっという間にオルグされて文学部なのに白衣を着たり、土木建築をするわけでもないのに白いヘルメットを被ったりして、人生がパーになると脅された。こちらもその手のことは全く知らないわけではなかったので、雪のちらつく中で白いヘルメットにZのマークか、カッコイイななどとアホなことを考えたりした。

 そういうことで、気分はもう北大生となり連日ラジオ講座を聞いたり、オールナイトニッポンを聞きながら勉強したり、それなりに5教科をしっかり勉強した。正直にいうと英語、国語は好きだったし、数学も大好きとまではいかないがそこそこ好きだった。後の科目が、とりわけ生物や化学、物理なんてのがダメだったね。物理なんて自慢じゃないが定期テストで7点である。しかもその7点貰った問題が「物を投げたらどんな線を描くか」という、もうこれは点数を取らせるために出したに違いない内容だった。その解答欄に大きく「放物線」と書いて、それ以外に書ける問題がなかったので、答案用紙の裏にさなえちゃんを描いたのは僕である。それでも時間があったのでケメ君も描いたが、こちらはあんまり可愛くて憎らしくなって消した。などと古井戸をご存じない人には何のことか分からない話だが、まあそれぐらい悲惨だった。あの時は赤点だったな。赤線は一度行ってみたかったが(いや、歴史風俗の勉強のためです。下心などありません)赤点はゴメンだ。

 えー、ここまで書いてきて大事なことを思い出した。実は今現在は11月24日午前1時28分である。今日は仕事で、しかも夕方からは塩次伸二とウィーピングハープ妹尾のブルースバンドのライブに行くのだ。せっかくのライブに体調不良ではちとまずい(こらこら、仕事の時もマズイだろ)。ようやく乗ってきたエントリーだがここで中断して、続きはまた、その3でお目にかかりましょう。シーユーネクストウィーク、バイバイ。って、こりゃほんとに愛想つかされるな、みんな堪忍やで。♪オールザロンリネス、アイルトライトゥシー、アイルシングザブルースフォーユー~と歌って誤魔化すのであった。

ウシャコダナンバーは演奏(やら)ないのだろうか

 今日こそは、「DRAC興亡史 75年以降」の続きを書こう、いや正確には前史その2を書いて、何とか75年の大学入学、DRAC入部のところまで行こうと思っていた。ところが例によって、いろんなサイトをウロウロして自分のブログのコメント返しを書いて、そのときの話題がちょっとしたエントリーのネタになりそうだと思ったが、いやいや、脇道に逸れず本エントリーに集中せねば、と思いつつもちょこっとだけウシャコダのサイト(ここしばらくmixiの珍教祖の日記も更新されてなかったし)を覗いたらあらビックリ。なんとウシャコダではないがリトルジャイブボーイズとして宮崎でライブをやる予定が書き込まれているではないか。

 ウシャコダとして11月の23日から3日間京都などでライブをやることは知っていた。またウクレレを抱いた渡り鳥として良く鹿児島や熊本で藤井君がライブをやっているのも知っている。また、板橋文夫新宿ピットインでライブをやるのも知っていた。全部見たいが、いかんせんお隣の鹿児島に行くのも高速で2時間、熊本も2時間半、ましてや平日に見に行くとしたら午後から休みを貰わないと見れない。今の職場は超零細企業なので、僕が半日休むと業務に支障が出る。自分だけの事なら休みに出て行って遅れを取り戻せるが、個人プレーの仕事ではないので、かなり周囲に迷惑をかけてしまうので、見られないのは仕方がないと諦めていたのだ。

 しかし、天は我を見捨てなかった(日ごろ無神論みたいなことばかり書いてるので「天」という文字がなかなか出てこない。すぐに「点」が出るのだ。思わず苦笑した。オレの人生いつでも一点突破だ)。「点は自ら足すくるものをタスク」違った、一発変換だととんでもない文字になるな。「天は自ら助くる者を助く=Heaven helps those who help themselves.うん、関係代名詞を習ったときに覚えた熟語だ。ここでのポイントは三単現の“s”がつくこと、ここちゃんとノート取っとくように。出るよ試験に」などと、昔懐かしい旺文社のラジオ講座で西尾先生が言うようなことを書いたが、それくらい嬉しくて舞い上がっているのだ。

 今年はウシャコダの「松戸一揆」のCDを藤井君のサインつきで購入できたし、マイミクの狸さんから、おっと、これは内緒だったが、ウシャコダの幻の××を…してもらい、およそ30年ぶりくらいに「サラ金ブルース」を聞くことが出来たし、大学の後輩のsugarmoutain君がこちらも25年ぶりくらいに宮崎で再会して、そのときに彼がCDをコピーしてくれて結構ウシャコダ関係は充実していたのだが、まさか生で見られる機会がこうも早くやってくるとは思わなかった。いやホント。スケジュールを見ると12/24(クリスマスイブで幸いなことに振り替え休日だ)と25の2日間宮崎でやるようだが、動員は大丈夫だろうか。会場も25日はあすなろ(って、何処だ?)と決まっているが、24日は会場未定だ。本当にやってくれるのだろうか。段々不安になってきた。

 鹿児島や熊本というのは九州の中でもジャズやブルースの熱心なファンが多いことで有名だが(熊本は阿蘇でカントリーの大会もあったな)、宮崎はもちろんそれに負けないくらい熱心なファンはいるが、如何せん人数が少ないのだ。これには歴史的な背景がある。先ず、地政学的にいうと宮崎、鹿児島、熊本の3県で南九州というのだ。いや、地政学なんて持ち出さなくても、地理的にでいいか。これ、意外と知らない人いるみたいです。そしてこの3県は西南の役という国内戦争に大きく影響を受けているのだ。今更、明治維新の話だと馬鹿にしたものではない。僕が高校の頃、日本史の有名な先生があるとき「宮崎も優秀な人間はみんな西南戦争で死んだから、残ってるのはどうしようもない日向ボケばっかりだ」と、ボソッと話し始めたことがあった。

 その先生の説によると、明治維新を行った日本だが、まだ国家として自立するには弱いものがあった。そこでその維新を完結する為に、あえて西郷さんが私学生の神輿に乗り、政府に反抗した。国家の共通の敵を作り、それを打ち破ることで国家意識を統一しようという大久保と西郷の密約があったというのだ。嘘か本当か分からないが、内乱は適当なところで鞘を収めて、不平士族のガス抜きをしてさらには農民主体の近代軍隊の創造と実戦を目的とした出来レースだった、というのだ。なるほどなぁと17歳の僕は感心したものだ。おっと、話がそれたが、その西南戦争で鹿児島は西郷派は衰えたが、大久保一派は日本の中枢に残った。熊本は田原坂で優秀な人材を失ったが、まだまだ土地も広く人材もいた。悲しいかな宮崎は、ちょっと意識的な連中はほとんど西郷さんに合流しいわゆる賢い人間のタネはそのときに尽きた。まあ、どこまで本当の話か分からないが、宮崎の県民性「てげてげ」「よだき」「のさん」「だれた」などの、努力を頭から否定する単語の多さは、ちょっと引くね。

 まあ、愚痴を言っても始まらないので、しばらく注意してウシャコダいやリトルジャイブボーイズの動向を追いかけよう。宮崎の音楽ファンの皆さん、絶対損しないライブになるから、集まろうね。しかし、クリスマスイブに藤井君や恵福君の顔を見てライブ見られるというのは、果たして幸せなのだろうか。それと今日はもうひとつ嬉しいことがあった。先だって見たカルメンマキのブログにライブが終わってすぐ感想を書いたのだがアップされてなかった。まあ、あれだけのミュージシャンのブログなので載らなくて当たり前かと思っていたが、先日宮崎ライブのエントリーがアップされていたので、しつこくコメント書いたら、きちんと返事を貰った。マキさんから「ツッコミありがとう」などと言ってもらえるとは思わなかった。うれしい、嬉しい。そうそう、マキさんは(ちょっと褒められるとすぐ「さん」付けになるのは、何故だろう)、感覚の人だというイメージがあるかもしれないが、どうしてなかなか理論派なのだ。僕が書きたいなと思っているロック論をビシッと書いてあるところがある(7/23付けの日記で「横浜ジャズプロムナード」と「富士ロック」又は極私的ロック論を参照)ので、全てのロックファンは一読せよ。

 例によって、まとまりのない話だが、何だかまたエントリーを書く意欲がわいてきたな。次こそは「興亡史」だ。書けなかった時は?いや弘法も筆のあやまりというではないか(いかん、落ちがオヤジギャグだ、寒い)。というところで、お口直しにカルメン・マキ&OZの動画をどうぞ。


どうにか問題が見えてきた、原因はこれか

 ここ最近、まともな文章が書けない。いや、正確にいうと頭で考えていたことを文章にしていくと、どんどん流れ始めていって行く先不明となり、挙句は結論が全く違うものになってしまう。早い話が、短くてピリッと引き締まった話が書けないのだ。もちろん、以前から不必要に文章を長く書いて、脱線・余談の嵐に巻き込み、それでいてきちんと結論に持って行く(本当かよ、結論なんか無かった話ばかりじゃないかという声はこの際無視する)というのが、僕の文章の基本だったのだが、いったいどうしたのだろう。去年もちょっとそういう時期があって、それでもそのときは特に何かしたわけではないが、いつの間にか元に戻っていた。今回はちょっと長引いている。別に頭のねじを巻きすぎた(byパンタ)訳でもないのに。

 思い当たることといえば、僕はエントリーを書く前に頭でイメージトレーニング、というと聞こえはいいが、大雑把に起承転結とか序破急を決めて、まずイントロはこういう話を振っておいて、そこからこう行って、何をどうしてこうして、で、落ちはこうなってチャンチャンという風に考えて書き始めることが多い。このあたり几帳面整理整頓好きのA型の面目約如である。場合によっては、その日気になった景色・風景やラジオで聞いた話、読んだ本、耳にした音楽などが引き金になって、それらをメインテーマか、エントリーの中の彩として書いていくことが多かった。もちろん何も決めず、考えずにただキーボードの趣くがまま打っていくうちに、話が何となくまとまったなどということもあった。

 ほら、また話がまとまらなくなってきたというか、文の途中で最初に書いたことを否定して訳が分からなくなり始めている。これは一種の頭の病気というか精神の病気なんだろうか。そう考えると多少不安になる。ヒポコンデリアとかいうのか、くよくよ、いらいら、憂鬱な気分がいつの間にか忍び寄ってきてしまう。こういう時は何か原因を見つけてそれに対する対策を打ち、よって自分の精神を高揚させるという解決を図ってみようと思う。何故にこうも最近は落ち着かないのか。分かった。CDの買いすぎだ。いや正確にいうと買いすぎではなく、聞かなすぎのせいだ。聞けなすぎという見方もあるが。

 今、PCの前に積んであるCDを見ても、クィーンの「メイドインへブン」、ニルソンの「俺たちは天使じゃない」、ポールの「フレイミングパイ」、ハートの「ザ・ロード・ホーム」、カルメン・マキの「時には母のない子のように 2007」、加藤和彦の「それから先のことは」、松村雄策の「夢のひと」、トム・スコットの「ストリームラインズ」、パンタの「ワン ダブル」、エリックアンダーセンの「ブルーリバー」、ザ・スターリンの「スターリニズム」宇崎竜堂の「竜堂組」、加川良の「ア・ライブ」、レイ・デイビスの「ストーリーテラー」、高中正義の「虹伝説」、BAHOの「OKURADASHIⅡ」、おっと足元のケースの中にはって、もういいか。

 もちろんここに置いてるCDは以前アナログで何度も聞いているものもあれば、今回初めて買ったものや、アナログ時代に手放してしまい、およそ20年ぶりくらいに手に入れたものなどもある。ええい、まどろっこしいな。はっきりいうと、アレも聞かなきゃ、これも聞かなきゃと気持ちばかりあせって、本来の音楽にのめりこめなくなってるような気がするのだ。なんというのか、音楽を聴いて、確かにその瞬間いいとか悪いとか判断するのだが、その1回目の判断はえてして間違っていることが多い。つまり、それまでに自分の中で構築してしまった「オレの好きな音楽はこういうの」という、偏見というか余談じゃねぇや、こっちの予断だ、そういった予断と偏見で耳が曇っており、簡単にはねてしまうことが多いのだ。

 僕がアルバム単位で音楽を聞き始めたのは、高校生になってからで、当時の毎月のお小遣いは2000円だった。なんという偶然か、当時のLPレコード(ガスじゃないよ、エルピーといえばレコード、これが70年代のナウでガッツでチャレンジするヤングの合言葉だった)の価格が大体2,000円(もちろん2枚組みは3000円とかしたし、たまに1800円とか1950円というちょっと安いのもあったけど)だった。したがって毎月購入できるアルバムは1枚だけ。しかしアルバムを買うとその月は1円もお小遣いがないことになる。つまりは、素敵な彼女とお茶を飲んでだべったり、日曜日に時間を合わせて映画に行ったり、まだグループ交際とか交換日記なるものが存在していた時代だったので、そういった健全な男女交際に使えるお金が1円も無くなるということだ。

 ここで、僕は自分自身に「ラッキーマン」(by エマーソン、レイクアンドパーマー、ちなみにこのグループの頭文字がEL&Pだったので、「EL&Pのアルバムは良いエルピーだ」というどうしようもない駄洒落が出来た。これは大学時代に「イーノのアルバムって良いの」と言ってしまったくらいの大スカであった)を歌ってあげたい。つまり、僕はそのような心配をする必要が無かったのだ。つまりお付き合いしてくれる女の子がいなかったのだ。わはは、どうだ。いや、全然いなかったわけではない。どちらかというと、隠れファンクラブがあったと高校を卒業して30年以上たってから教えてもらったことがある。今更いわれても遅いんだよ、コノヤロー。責任者出て来い!!

 ええと、話があらぬ方向にいったがこれは伏線である。何の伏線かというと、まぼろしの大作「DRAC興亡史 75年以降」の前史に出てくる伏線である。その話はいずれまたするとして、ええと、話を音楽に戻そう。

 つまり、何が言いたかったかというと、高校時代は月のコヅカイを1回勝負でアルバムに賭けていたわけだ。したがって、どんなアルバムを買うかは大変重要な問題だった。既に聞いたという友人に感想を聞いたり、当時の音楽誌「ミュージックライフ」、「ニューミュージックマガジン」、「音楽専科」、「新譜ジャーナル」などなど、あ、「ロッキングオン」は当時まだミニコミで隔月誌で、僕が初めて手にしたのは74年の初めだったと思う。そのほかにシングルカットされた曲でアルバム内容を想像したり、ジャケットがダブルジャケットかシングルか、オマケにポスターが付くかなどなど、様々な方向から検討して決めるのである。この判断基準の中で、もっとも危険なのが友人の意見である。当時クラスにロックファンは10人いなかったと思う。その中でも、こいつは詳しいなと思うのは極わずかだったし、物知りだと思われる奴はクラスの垣根を越えて話をした。

 まあ、それだけロックはまだまだ市民権を得てなかった時代だった。ところがその数少ないロックファン同士で妙な意地の張り合いというか、本当に素晴らしいアルバムは他人に教えず独占したいという気持ちが働くのが、不思議だが本当の話なのだ。これ、嘘じゃありません。僕がムーディブルースの「デイズオブフューチャーパスト」を買おうとしたら、先に買った友人から「買うな」と止められたことがありました。何でだと聞くと「あれは最高にいいアルバムでオレが先に買ったからダメ」などと子供のようなことを真顔で言われ、あっけに取られた。まあ、そこまで露骨に言わないにしても本当に気に入ったアルバムのことは悪くいい、どうでもいいようなレコードを名盤とか最高傑作などと言って勧める奴らが多かったのは事実です。

 この手のロックセクト主義みたいなのは大学に行ってサークルに入ってもあった。自分が好きで聞いてる音楽しか認めず、他人が好きなものはボロクソに言って、さらには聞いてる人間の人格まで否定するというやつだ。「ムーディブルースなんかプログレちゃう、あれはコーラスグループや」とか、「アメリカのロックばっかり聴いてるからお前らは時代に対する危機感がない」とか「パンク分からん奴は原始人やな、ピストルズを聞けるかどうかで人間は分かれる」「お前、クラッシュ知らんでパンクを語るな」とか良く言ったもんだ(って、オレもそういう事言ってたな、間違いなく)。

 おっと、また話がそれたが、高校時代に1枚のレコードをそれこそ擦り切れるまで聞いて、最初はどんなにつまらないと思ったアルバムでも聞き込むうちに良さが分かってきて、いつの間にかそのジャンルは大好きになったなどということも良くあったのだ。また1枚のレコードを手に入れるために、親に参考書を買うといってお金を貰ったり、そのパターンばかりではバレルので、弁当いらんからパン代くれと言って昼を抜いてそのお金をこつこつ溜めてレコード買ったものでした。回りの友達は可愛い彼女とデートしてるっちゅうのに、何が悲しゅうてオレはこんな長髪、髭面の毛唐の音楽を聞かねばならぬのかと、自問自答したあの時代。ああ、あの心が躍った時代はもう来ないものか。などと最後はちょっとクサイ表現をしてしまったが、要は、CD買うばかりで気持ち込めて聞いてないぞという、自己批判でした。

 お、やっと元気になってきた。さてそれでは音楽でも聴くか。あ、でも浅川マキは止めとこう。また落ち込んだら大変だ。

アナザーデイ、アナザープレイス

某時計店屋上 ボジョレ解禁パーティ会場

 「ここは狭い街だから、間に二人挟めば必ず知り合いにあたる」というのは「ひまわりっ 健一レジェンド」の中で、中学生の頃にシンナーを吸いすぎて前歯の無くなってしまった蟹江先輩の名言だが、本当に宮崎の町は狭い。加藤和彦の「それから先のことは」がもしかしたら入荷しているかも知れないと思って、イ○ンのタワレコに行ったのが今月の3日。そのときに中学・高校と一緒だったI切君とばったり会ったのを皮切りに、今日、16日に至るまで元職場の上司や、先日のカルメン・マキのライブでのY尾君との出会いなどここのところ意外な出会いというか、再会が続いている。

 この前のカルメン・マキのライブレポートを書いてから、何となくエントリーを書く気力が薄れてしまい、気がついたら1週間近く更新をサボってしまった。その間何をしていたかというと、やたらCDを買ったり、届いたDVDを見たりしていたのだ。カルメン・マキのライブ会場で買った「時には母のない子のように 2007」は仕事から帰ると毎日聞いていたし、その直前に購入した「それから~」と松村雄策の「夢のひと」は車の中で繰り返し聞いた。おかげで「シンガプーラ」や「あなたに沈みたい」などのフレーズが頭の中をぐるぐる駆け回り、気がついたら口ずさんでいることがよくあった。しかし、ほとんどまったくといってもいいくらい認知されてない歌なので♪じんせーいを忘れそう、このアジアの片隅で~などと歌っていたら「いい身分ね、私も人生忘れたいわ」と配偶者に嫌味を言われる始末であった。

 どういうことかというと、このところやたらCDを買ったり、ライブに行ったりしてるのでお小遣いが不足気味で、何かと配偶者に一時金要求闘争を貫徹していたのだが、テキもそうそう甘い顔はしてくれない。しかし、お金が無ければCDは買えないし、ましてやライブには行けない。ライブはチケット代だけあれば良いというものではない。やはり飲み物代や、ライブはねた後のお食事代、記念のCD代など必要経費が必要なのだ(どうも、貧すりゃ鈍すじゃないけど文章が滅茶苦茶である。人間ビンボーはいかんな。ビンボーは犯罪である。万国のプロレタリアートよ団結せよ)。そこで何を考えたかというと、本を売って小遣いを稼ごうという安易な手段である。これは実は、下の子が以前から使わなくなったゲームやマンガを売りに行ってくれと頼まれていたので、この際自分で買ってあちこちに仕舞っていた連続物のマンガ本を全て売ろうと考えたのだ。

 もう随分前にも、持っていた本が邪魔になり当時は売りに行くのもめんどくさかったので、自宅に回収に来てもらったことがあった。そのときはブック○フで、6畳一間においてあった本全部売って雀の涙だった記憶があった。今回は、まだ流通しやすいマンガなので、多少は何とかなると思い、しんどい思いをしながら130冊近くあったマンガを、やはりブック○フに売りに行った。1冊2,30円位だろうと思っていたので、カウンターで5,900円と提示された時は嬉しかった。カルメン・マキの当日券が4,000円なので飲み物代と軽食代は確保できた。自分の事ばかりやっていたら父親失格なので、次は子供のゲームとマンガを売りに行った。珍しく我が家のバカ娘が、本とゲームを大きめのビニール袋に入れて用意していたので、それを持ってまたブック○フに行ったのだ。今回は数が少なかったせいもあったが2,600円といわれた。その中には僕がこつこつ買い集めた犬夜叉などもあったのだが、いつまでも高橋留美子のマンガなど読んでいたら人間がダメになると思い、未練無く売り払った。

 そのお金を下の子に渡したら『レシートを寄越せ』みたいなことを言った。こいつ、親の僕を信用していないのだ。しかし、考えようによってはしっかりしているといえなくもないので、黙ってレシートを渡した。そうするとブック○フは引取りが安いと聞いたなどと言い出した。友達がブック○ーケットにゲームとマンガを持っいったら高くで引き取ってもらったなどと言い張るのである。いちいち相手をするのも疲れるので、また今度機会があったらブック○ーケットに行くからと、誤魔化そうとしたが次の休みに必ず連れて行けとしつこい。仕様がないので次の日曜日にまたマンガを売りに行くことにした。今度は押入れに仕舞いこんでいた文庫版の「その時歴史は動いた」シリーズや岩重孝の「ジパングボーイ」などどちらかというとマイナーな全集モノだ。冊数も50冊程度だったか。日曜日の午後だったのでカウンターには先客がいて、本の値段をつけてもらうのには随分時間がかかった。

 小一時間ほどしてようやく店員が呼びに来た。カウンターに行くと時事ネタのマンガ本は引き取れないといわれて3冊返品された。売れたほうの値段はさほど気にせず、提示された金額を見て驚いた。1万円近い金額がそこに書かれていた。店員はおずおずとこの金額で良いかと聞いてくる。もちろん二言はない。ブック○フとどこが違うのかと見てみると、単行本のマンガをこちらでは200円くらいで買い取ってくれている。ブック○フは最新のマンガも50円位だった。売る時はどちらも定価の半額くらいで売るくせに、引取りのこの違いはナンだ。元あのねのねの片割れが宣伝しているとか、パート社員が専務になったとか、イメージ戦略はブック○フがダントツだが、引き取り価格のえげつなさもダントツだと、ついこの前はおかげさまでカルメン・マキが見れますとココロの中で手を合わせていたのに、人はお金が絡むとこのように見苦しくなります。これも、みんなビンボが悪いんや、チューリップのアップリケついたスカートこうて欲しい・・・。

 予想外のお金が入ったので、中古のCDコーナーを物色していたらハートの「ザ・ロード・ホーム」とポールの「フレイミングパイ」とクィーンの「メイドインヘブン」が500円コーナーにあったので思わず買ってしまう。ハートのアルバムはベスト盤のつもりで買ったらアコースティックライブだったので、こちらも予想外の拾い物。アコギで歌う「バラクーダ」や「ネヴァー」は、その楽曲本来が持つメロディの美しさが際立つ。
 などという日々を送っていたら、先日ライブ会場で偶然あったY尾君からボジョレヌーボーの解禁パーティとジャズのミニライブに誘われた。先日のカルメン・マキのライブレポートを気に入ってくれた人が是非誘えといってくれたなどと嬉しいことを言ってくれる。おだてにはめっぽう弱い僕なので会費2000円などものともせずに二つ返事で行くと約束した。
壁の装飾品の価値は分からないが、ピアノは輝いていました

 会場は僕が先日間違えて行った、某時計店の本店だという。約束の7時半に行くとY尾君と今回ブルースライブのチケットを譲ってくれたIさんがいた。きらびやかなお店に入っていくと、前回カルメン・マキの会場でY尾君に話しかけていた男性が笑顔で迎えてくれた。実はこのかたは僕たちの同級生のお兄さんで、僕は学生時代何度かお会いしたことのある方だと分かってビックリ。それで最初の蟹江先輩の名言につながるのだ。受付のカウンターで名前を書き、ワイングラスを首から下げてもらう。お店の2階の横から屋上に上がる階段があり、そこを通り抜けると吹き抜けの会場があった。ビルの屋上だがちゃんと土が張って芝生や観葉植物が植えてあった。確かヒートアイランド現象を緩和するためにビルの上に緑地帯を設けることが都心部で流行りだしたと聞いたが、正しくそれである。ビルの上に庭を作るわけだから、それだけでも大変だが防水面やビルメンテナンスを考えると、ランニングコストは相当だろう。

 まばゆいばかりの会場に入るとざっと6,70人くらいの男女が正装してめいめい飲んだり食べたりしている。Y尾君とIさんはスーツにネクタイだからいいが、僕はネルシャツの上にフリース、パンツはアーミーという、ま、なんといいますか、ちょっと崩れたというか、パンクというか、ま、あまりまっとうな人間とは思われない格好である。樽に入ったボジョレヌーボーを先ずは1杯ずつ注いで乾杯した。テーブルと椅子は用意されているが、とても人数分はない。僕たちは座る場所を探してウロウロして、挙句はブロックの上に直接腰掛けた。いや、若い人はいいけどオジサンたちは、オールスタンディングってきついの。周りには結構年頃の女性、いわゆるきれいどころもいたが、僕たち3人は音楽話に盛り上がり一向に色気がない。こればかりは最後までどうしようもなかった。

 かれこれ1時間以上飲み食いしただろうか(新鮮なお刺身や、鶏肉の炭火焼みたいなのや、鯛のあれはなんというのか粗塩で身を包み焼く、そうそう姿焼きとかいうやつか、リッチな食べ物が多かった。アルコールもビールや焼酎があちこちにあったが、さすがに皆さんワインオンリーだった。ボジョレヌーボーの解禁パーティだから当たり前か。まあ、僕としてはマリファナの解禁パーティのほうが、いやいや、あわわ、桑名正博、上田正樹、って何を口走っているのだ)、主催者というかビルオーナーの社長さんが「それでは盛大な拍手を」と言ったかと思うと、本日のメインのミュージシャンが登場した。詩人、谷川俊太郎の息子である谷川賢作、ハーモニカの続木力、ボーカルのさがゆきの3人だ。

 すぐに演奏するかと思ったが、先ずは腹ごしらえとのことでしばしまたご歓談の時間が過ぎた。途中寒くなり、2階のトイレに降りたら空気が暖かかった。ピアノやウッドベースやアンプなどが置いてる向こう側の壁にはガラス細工が沢山飾ってあった。そうか、ここはもともとは宝飾店だということを思い出した。10時前にライブは始まった。なんと今日のためにピアノをお店に置いたという説明を聞いてビックリ。まだ誰も弾いていないピアノだ。処女航海などという言葉が飛び交う。どさくさ紛れに筆おろしとか姫始めなどというお下劣な単語は飛び交わない。さすがにセレブなお客様たちだ。

 記念すべきオープニングナンバーはサマータイムだった。いい演奏とボーカルだった。しかし、先週カルメン・マキのボーカルで板橋文夫のピアノで聞いてるだけにちょっと切なかったな。2曲目にイパネマの娘をやった。ちょうど下地勇のネマの娘の話をしたばかりだったので笑ってしまった。3曲目はリクエストでコーヒールンバ。ピアノとボーカルとハーモニカというアンサンブルが心地よかった。

 今回のイベントは宮崎の中心街を活性化させるために異業種の方が集まり、色々企画されたらしい。せっかくの試みだし、何とかこのムーブメントが定着するといい。まあ、当面は良い観客でいるようにしよう。次は来週の土曜日。塩次伸二のギターに妹尾のブルースハープが炸裂するのだ。うっちゃんが本当はギターで参加するはずだったが、流れたと聞いた。もったいないな。ええと、今日のエントリーは話の時系列が滅茶苦茶なのと、気がついたら深夜1時過ぎという時間で頭が回らないので、勘弁。次回のエントリーは忘れかけていたDRAC興亡史の続きだ~。


誰かが私の歌を歌ってくれる、私が死んだ後も(byカルメン・マキ)


 行こうかどうしようか、迷っていたのだが結論からいうと、迷っている時は先ず実行で大正解だった。そう、カルメン・マキのライブだ。正しくはカルメン・マキ、板橋文夫、太田恵資のトリオのライブだ。barrett_hutterさんから、カルメン・マキが宮崎でライブをやるらしいと情報を聞き、彼女のHPをチェックしていたら11月9日に板橋文夫とライブをやるという告知が出ていた。加川良を見に行った時に、一緒に行った連中に次はカルメン・マキに行くといったら配偶者をはじめ皆からアンジェラ・アキなら行くなどと言われ非常に憤ったことがあった。それはさておき今月は何かと音楽関係に予算を使い果たしていたので、どうしようと迷っていたのは事実なのだ(この前のエントリーのタイトルに書いたように松村雄策の1枚目をアマゾンで買い、加藤和彦の「それから先のことは」をタワレコで注文して、さらに今日は下地勇の注文していたDVDが届いたのだ。僕の乏しい小遣いでどうしてこんなにCDやDVDが買えるのかと配偶者がやや疑惑のまなざしで見始めていた午前8時というわけなのだ)。

 余計な話はさておき、9日のライブのチケットを入手しようと思い、HPで調べた連絡先(個人の携帯番号になっていたのがちょっと???だったが)に電話したのが、先週の日曜日。電話しても出なかったので、まあいいかと思っていたら折り返しかかってきた。「カルメン・マキのチケットが欲しい」というと、某NPO団体の電話番号を教えてくれて、そこに問い合わせるよう言われた。言われるままに電話すると、既に前売りは売り切れで当日券しかないという。色々聞いたが対応が非常に不親切である。前売りで80枚ほど売れたのでもう無いとか有名な時計店の旧店舗だから分かるでしょうとか、およそ人に物を教える、ましてや間にお金が介在する商取引にあるまじき不親切さだったので、もういいやと短気を起こしかけたのだが、カルメン・マキを今度いつ見ることが出来るかと考えたら、このくらいのことは辛抱せねばと思った次第だ。

 それにしても一人では寂しいので、友人のS君を誘ったのだがイマイチ乗りが良くない。配偶者に至っては、一緒に行く人間が居ないなら、行ってやってもいいなどと恩着せがましいことを言うので、てやんでぇ、オレは腐ってもタイだ、と訳の分からない理屈で断った。加川良のときのようにライブの最中に寝られて、挙句はどこがいいか分からないなどと言われた日には、日ごろ温厚でなるdrac-ob君も激怒するというものだ。

 つまらない日々はあっという間に過ぎて、今日はライブの当日だ。仕事を6時過ぎに片付けて、今日は7時以降は携帯にも一切でないと宣言した。自宅に戻り、配偶者にライブ会場まで送ってくれと頼むが、時間が間に合わないので自転車で会場に向った。地図はネットで調べていたので迷うことなく着いたのだが、どうも様子がおかしい。そこは宮崎市民なら誰でも知ってる某時計店の本店で確か空き店舗でライブするとか電話で言っていたはずだが、どう見ても空き店舗などではなく、黒い制服を着た女性店員達が店内を歩いている。ええい、ままよと思い店内に入り近くにいた店員に、今日ライブがここであるのかと聞いたところ、それは旧店舗で道路挟んで反対側のところだと教えてもらった。急いでそちらに向うとありました。窓ガラスになにやらポスターが貼ってあり、それ風な人たちが出入りしている。聞いてみると間違いなくそこが会場でした。
ライブ会場の某時計店の空き店舗

 19時から開場だというので、外のベンチで座って待っているとチケットを片手に並んでる人が10数人いる。それから5分もしないうちに19時になり、会場に入れたがステージ前から3列目のところの席が確保できた。ライブハウスではなくもともとが普通の店舗にステージを仮設して、そこにアップライトのピアノとマイクスタンド、モニター類が無愛想に置かれていた。パイプ椅子に置かれたチラシなどを見ながら開演の19時半まで待つ。お客さんの年齢層が圧倒的に高い。ダンコンの世代、おっと違った団塊の世代の人たちがほとんどだ。皆頭髪に白いものが混じり、いやもっとはっきりいうと黒い部分がないとか、あれ、小倉○昭かなというヅラ疑惑のオジサンたちが多い。いや女性の方たちも非常に上品な高齢な方が多く、マジでライブに来たんですかといいたくなるような人も多かった。後で気がついたのだが、良く考えると僕もワンオブゼムであるから、あまり偉そうなことはいえない。

 席はいい場所が取れたので、のんびりあちこち見ていたら、前の席にネクタイ姿のサラリーマンが2人連れでやってきた。その片方の横顔に見覚えがあり思わず「Y尾君じゃない?」と声をかけたら、相手は一瞬固まり「drac-ob君?」と聞き返してきた。なんと高校3年間同じクラスで、75年に無一文で僕の下宿に同級生にと一緒に転がり込んできたY尾君その人であった。そういえば確かに彼は高校時代からカルメン・マキが好きだった。いや、それ以上に彼が好きだったのは確かオールナイト・ニッポンのDJのカルメンではなかったか。「ウソみたい」などというシングルも彼は持っていたはずだ。などと、恐らくは70年代前半に深夜放送を聞いていた人しか分からない話は止めて、偶然の邂逅にお互い驚いた。多分10年以上は会ってなかったと思う。今どうしてるかとか、今日は時間がないのでまたゆっくり会おうとか話した。学生時代の友人というのは、普段会って無くてもすぐに昔に戻れるのがいい。

 開演時間になり、ステージに今回のイベントの仕掛け人たちが登場した、僕は知らなかったのだが、宮崎でも地道にイベントを行ってる人たちがいて、今年はそういうイベント団体を結集して中心街活性化に繋げようという大胆な企画を立てたらしい。映画や、クラシックのコンサートなども今月沢山あるようだ。僕が気になったのは、我が大学の先輩である塩次伸二とウィーピングハープ妹尾の「妹尾&塩次」ブルースバンドのライブだ。他のメンバーは松本照夫と大西真だ。行きたい。行きたいがどう予算を組むか。24日土曜日というのも渋い。渋いのがブルース、と頭の中は錯乱状態。まあ、多分何とかなるだろう。そうこうしている間にステージ横の階段から(ここは普通のお店だったので、ステージ横の階段で2階につながりそこにトイレや控え室があった)、板橋文夫と太田恵資が登場し早速演奏を始めた。板橋は予想以上にフリーでアグレッシブで拳骨ガンガンで迫力満点だった。太田恵資のバイオリンはちょっと音のバランスが悪くて、ピアノの音に消されるところがある。10分近いインプロヴィゼイションが終わったと思ったら、いきなりカルメン・マキが登場した。ずっと階段のほうを見ていたのだが、突然客席から登場したので少し驚いた。

 ショールを羽織って、70年代80年代には理想のプロポーションだった体型がややふっくらした感じはあるが、ときどき見せる拗ねたような表情は相変わらず幻惑的である。1曲歌い「今歌ったのは記憶の海というオリジナルです」みたいな説明があった。僕は何となく彼女のステージではMCはないと思い込んでいたのでそのまま話し始めた彼女をぼんやり眺めていた。「旅に出たのは88年が最後。今から20年位前ね。インドに4ヶ月そしてスリランカ。ああ、あと何回旅に行けるかしら。行きたいところはいろいろある。特にアフリカ。アフリカで月を見てみたい」

 僕はわが耳を疑った。「え、ということは、何、2曲目でアフリカの月やるの、そんな、まだ心の準備が出来てないのに、おねーさま、あ、あ、僕もう・・・」。何を隠そう、僕は今日のライブで一番聞きたかったのが「アフリカの月」。それをライブが始まって2曲目にやってくれるなんて。予想通り板橋のリリカルなピアノに導かれて、酔いどれ船乗りの身の上話が始まった。西岡恭蔵が作り、大塚まさじが、加川良が、いろんなステキな歌い手が歌い続けた名曲。カルメン・マキは声量豊かに、ゆったりと歌い上げた。それから、何曲か歌い、ある曲を始めた。最初は無伴奏で「サムタイムアイフィールライクア~」と歌ってるのだが、最後が少し聞き取れない。太田のバイオリンはいつの間にかエレキバイオリンに持ち替えられている。弾き始めた音色がまるでカモメの鳴き声のようだ。「サムタイムアイフィールライクア、マザーレスチャイルド~」マザーレスチャイルド?母のいない子?彼女の名前を一躍有名にした60年代末期の大ヒット曲「時には母のない子のように」だった。

 会場にいるみんなが、一瞬60年代末のあの時代にタイムスリップしたようだった。あちこちで聞こえる反乱の音。炎の燃える音、クラクション、放水の音、ガス弾の臭い、街中に現れた幻想のバリケード。そして物憂げなマキの歌声。しかし曲が途中でかすれたような歌声に変わる。「サマータイム」だ。最初は穏やかに、ゆっくり始まったこの曲が段々熱を込めた演奏とマキのボーカルの絶叫に変わっていく。そして、サマータイムの後半にジャニス・ショップリンがマキの上に降臨した。若くしてドラッグのためにその命を落とした薄幸な白人女性。トンボメガネの良く似合った垢抜けないシンガーだったが、歌を歌わせると誰もがその才能に驚いた。「サマータイム」は彼女の十八番だった。そのシンガーの存在がフォークシンガー(?)だったカルメン・マキにロックを歌わせることになった。などと知ったかぶりして書くと、マキさんから「ウィキペディアっていうんですか、ネットの情報もデタラメばっかりですよね」などと批判されるので注意しよう。

 板橋はピアノだけかと思っていたら、突然カウベルというかハンドベルを鳴らし始めて、さらにそのベルを太鼓(デンデン太鼓という奴だ)にぶつけリズムを取り始めて、右手でベルを鳴らし左手でピアノを弾くという演奏を始めた。マキも手拍子をとり、会場中が盛り上がった「アジットさん」。あっという間に1部は終了した。そうそう、このブログのために演奏中の写真を撮ろうと思ったのだが、会場の雰囲気がそれをさせてくれなかった。それと歌っている途中のマキが指で×印を作り、最前列の客のほうを見たので、何だと思ってみてみると、携帯で動画をとっている若い男がいた。写真はともかく動画はダメだろうと思ったが、まあ、これは五十歩百歩という奴だろう。マキさんに注意されなくて良かった。
開演前のステージ ホントはマキさんを撮りたかった

 ライブが始まる前に、ステージ中央においてあった小さなテーブルに赤ワインとグラスが用意された。歌いながらマキが少しずつ飲むのだが、本人曰く「普段は全然飲まないのにステージに上がると飲む」とのことだ。結構ボトル半分以上は飲んだのではないか。会場で缶ビールとお茶を売っていたがどちらも売り上げはよくなかった。せっかくのライブなので、僕も缶ビールをちびちびやりながらリラックスしてライブを見た。しかし缶ビールを飲むと生理現象が、ま、その、トイレが近くなる。1部終わった段階で2階のトイレに行ったのだが、ビックリしたのはトイレのあるスペースの反対側がパーティーションで仕切ってはあるものの、ミュージシャンの控え室になっていて、ソファでリラックスしているマキや板橋を見れたのは儲けものだった。しかし、トイレは1つしかなく、僕が用を済まして出ると、そこにはトイレ待ち女性が10人くらい列を作っていた。

 2部は明るい歌から始まった。「にぎわい」という漁のうた、「かもめ」という海の歌。マキ自身は鎌倉生まれだが、物心ついたときには東京で暮らしていたので鎌倉のことはほとんど覚えていないらしいが、やはり海のそばで生まれたから海の歌が好きだと呟いていた。そう、マキさんのトークは詩の一部を読むというかモノローグというか、芝居のセリフみたいでかっこよかった。

 2部で印象に残ったのは「虹の彼方に」。毎度おなじみの大スタンダードだが、アレンジも随分凝っていて、特にビックリしたのはこの曲でも太田恵資はエレキバイオリンを弾いたのだが、途中で弦を弾きはじめそれがベースラインを奏で、板橋のピアノにバッチリ絡んでいたこと。会場も手拍子で、身体も自然とスィングして、楽しい演奏と歌だった。もう1曲印象的だったのは70年代に自殺したサックス吹きの男と彼の死後自殺した女性の作家のことを歌った歌、と解説した歌。マキの書く詩は基本的にフィクションというかモデルが存在するとの説明もあった。その「荒野を走るしなやかな獣」というイメージに阿部薫と鈴木いづみを思い出した。マキさんはその二人を世間ではロクデナシというけど、本当に自分に正直に素直に生きた人たちだったのでは、と投げかけた。

 そうだ。このトリオで作った新曲ということで「バー・フライ」というオシャレな曲もやった。ピアノが軽快で、何となく聞き覚えがあるなと思ったが「ブラームスの子守唄」からインスパイアされた曲かなとも考えた。もっとも、そんなことはどうでもいい。歌詞のダブルミーニングににんやりして聞いていた。途中で太田がハンドマイクを使ってフランス語(?)らしきせりふを言うところも面白かった。あっという間に2部も終わりの時間が近づいた。メンバー紹介が終わり、大きな拍手の中、メンバーは階段を上がっていった。もちろんお客さんはアンコールの拍手の渦である。このところ加川良で省エネ型アンコールになれているせいで、これほど長く強く手を叩き続けたことは近年なかった。

 アンコールにこたえて1曲歌って、歌姫は階段を上がっていきその後降りてくることは無かった。板橋と太田の熱い演奏は続いた。しかしそれも終わりの時間が来た。再度大きな拍手に覆われて、2人のミュージシャンが同じように階段を上がっていった。客電が付き、イベントの主催者がお礼の言葉を述べて、ライブは終わった。Y尾君とまた今度ゆっくり会おうと声を掛け合い、会場を後にした。もちろん「時には母のない子のように2007」のCDは買った。その時、しばらく待っているとサインがもらえると聞いた。どうしようか、迷ったがもしサインをもらえるとしたら、嬉しくて抱きついてしまうかも知れないと思い止めた。いやあ、書き忘れたけど、2部ではショールを脱いでラフな格好だったけど、ホント素敵だったのよ。カルメン・マキは。

 家に帰り早速CDを聞いた。しかしたった今聞いてきた音が凄すぎて、もちろんこのCDも大変素晴らしいのだが、やっぱり音楽はライブだ。あの音楽が言葉が生きている(ライブ)時間はなにものにも変えられない。いやー、やっぱり行って正解でした。



実は今日、松村雄策のCDが届いたのだ。この話はまた。

西都原のコスモス畑 この前は桜が狂い咲きしていた


 この3、4日は連休だったが、あいにく僕は3日は仕事で半日つぶしたため1.5連休というところだった。かわいそうなのは上の子で二日とも進研模試とやらで丸々連休がつぶれてしまった。4日の午後からは休みだというのと、丁度その日に親戚が実家に遊びに来るというのでコスモスを見に家族で出かけることにした。宮崎でコスモスの名所というと生駒高原が有名だが、午後からの外出で時間が限られていたので、以前考古博物館の話をアップした西都原に行くことにした。丁度、古墳祭りもやっていると聞いたので、ついでに見物するつもりで我が家の4人プラス2人は車で一路西都を目指した。

 出発した時間が既にお昼を回っていたので、どこかでご飯を食べようと思い何が食べたいか聞くとてんでバラバラである。こういう時こそ男のイゲンを見せねばと思い「ラーメン、どや、ラーメン」と言ったところ、普段はすぐに賛成するバカ娘A(別名長女)が「ラーメンは嫌」などと言いおった。母も「ラーメンよりはうどんか蕎麦」というので、仕方がないのでどこか適当なうどん屋にでも入るかと思い車を進めた。ところがバイパスから国道219号線に入ると、知ってる人は知ってるがなかなかこれというお店がない。いや、無い訳ではないが、イマイチ女子供が喜ぶようなお店はない。いい加減走ってみんなお腹も空いてきただろうと思い、実は以前良く食べていたラーメン屋の前で車を停めて「もうみんな、お腹減ってるし、ここで食べようか」と水を向けたが、親の心子知らずというか、バカ娘Aがゼッタイイヤなどといったため、『うどん屋探す振りしてドサクサ紛れでラーメン作戦』は、はかなく潰えた。

 仕方なく車を走らせて行ったが、結局西都市に入るまでこれというお店が無かった。途中近道をして西都原入り口に来たが、そのまま上がっていくと前回入ったレストランしかなく、祭りの真っ最中で人が多くて入れないと思い、また街中にハンドルを切った。ちょっと走るとランチの看板を出した喫茶店があったので、車を入れようとしたがやたら駐車場や道路に人が出ている。交差点ごとにポリスもいる。何だと思って立ってる人に聞いてみたら高校駅伝であった。宮崎は貧乏県なのでスポーツといえばユニフォームや道具の要らないマラソンや駅伝が盛んである(これはちょっと違うかな。高千穂では剣道が盛んだし、都城では流鏑馬や日南では四半的が盛んだ。さすが神話の国だけあってニホン古来のスポーツばかりだが)。道路を駅伝の選手がゼッケンに高校名を顕示しながら走っていく。ゼッケンといえば昔は「涎掛け」などと呼んでいた。普通スポーツで使うゼッケンはナンバーや学校名などが書かれているが、ムーブメントで使うゼッケンにはナントカ反対とか阻止とか文字が書いてある。同じ運動という言葉なのにスポーツとムーブメントでは随分様子が違う。え、話が違う?こりゃまた失礼しました。

 一生懸命に走っている選手を見ているのも疲れたので、お店に入ると喫茶店とは名ばかりの昔のドライブイン風で座敷があり、そこにジャージ姿の高校生がウンカの如くいた。どうやら駅伝の選手や応援の人たちの控え室を兼ねているようだ。一瞬気後れしたが、空腹には敵わず、家族6人が座敷に座りメニューを見た。ヤキソバ、ミートスパ、カツカレー、から揚げ定食などを注文した。驚いたのはウェイトレスの子が注文をとるのに手の甲にボールペンで文字を書いたことだ。良く看護婦さんなんかがやってるアレである。何も手の甲に書かなくてもオーダー用のメモくらいありそうなものだが、もしかしたら巷で大流行しているかもしれない。お客が多いので、注文が届くまで時間がかかると思い、僕は奥の本棚からマンガを選んでテーブルに戻ると、バカ娘B(別名次女)が何か言いたそうな顔をしていた。目で「どうした」と聞くと、相手も目で「ほら」みたいな感じで、シュガーポットのほうを示した。見ると白い砂糖の上に小さい赤いアリがかなり紛れ込んでる。「ああ。これはイエヒメアリと言って、今鉄筋の建物に良く出てくるので問題になってる。本来はビルの隙間の結露した水をえさにしているので、あまり甘いものに群がることはない。別段噛むようなこともないし、まあ見た目が嫌いな人は嫌いといういわゆる不快害虫だが、実害はそれほどないぞ」と説明した。

 さすが、うちのパパは何でも知ってるという賞賛の嵐が飛び交うことは間違いないと思ったが、家族中からボロクソに言われた。いわく「そんなことはどうでもいい、それより店にクレームを言え」「さっさとシュガーポットを変えてもらうとか、席を替えてもらうとかしてよ」「お前は子供の頃からいらん知識ばっかり多くて、役に立たん」「ありの名前など聞きたくもない」などなど。あんまりボロカスにいわれるもんだから頭にきて不貞腐れて「あー、分かった。もういい。もう運転しない。オレ帰る。一人で帰るもんね」といいたかったが、『艱難汝を珠にす』を座右の銘としている大人(オレ、オレの事)は、所詮「養いがたし」連中の相手はしないのだとシカトしました。

 そうこうするうちに料理が来たが、これがまた、すごいボリューム。ヤキソバはまあ普通よりちょっと多いかなという程度だったが、バカ娘Bが頼んだスパゲッティは、これ大盛り?と聞きたくなるくらいの山盛り。僕の頼んだカツカレーもご飯が優に丼2杯分くらいある。圧巻はバカ娘Aの頼んだから揚げ定食。子供の拳骨くらいあるから揚げが7個も皿に乗っていた。食っても食っても減らない。まるで何かの業ではないかと思えるくらい、減らない。ついに諦めて「腹も身のうち」と呟いて僕はさじを投げた(ここ洒落ではなく、本当にスプーンを投げ出したのだ)。しかし、昭和一桁の母や親戚はせっかくお店の人が作ってくれたのだから最後まで食べないと悪い、などと言って平らげていたが流石に最後は苦しそうであった。 

遥か先に見えるのが古墳です その上を歩き回るバカモノの多かったこと


 お腹も一杯になり、西都原のコスモス畑に向うと、いやあたり一面見事なコスモス。聞くところによると7ヘクタールに300万本のコスモスが咲いているという。見てみると本当に物凄い量で、こりゃコスモスだからまだいいけど、100万本のバラだったら全身血まみれというか、下手すりゃ死ぬなと訳の分からないことを考えてしまった。コスモス畑を歩いていると、古墳の上を歩いている人を見かけた。それも1人や2人ではない。結構な数の人間が丸い古墳の上を歩いたり、その周辺を滑って降りたり、まるで遊園地である。手作りの看板には「古墳に入らないで下さい」という注意が沢山書いてあるが、全く役に立っていない。このあたりが宮崎の県民性というか、お役人もあちこちにいるのに見て見ない振りだ。観光宮崎もいいが、そこまで媚びなくてもいいだろう。畑を一回りして、以前天皇が植樹祭のときに植えた記念樹のところに行ってみた。立派な石碑が立っていて、その横に日射しを避けるあずまや風の建物があり、その前にうやうやしくカギをしたところがあった。そこに植えてあるのが記念樹らしい。バカ娘Aに聞いたら、植樹祭の時に天皇、皇后がスコップで土をかけたが、あっという間だったらしい。高々それだけのために立派な道路は出来るし、セレモニーも何度もリハーサルするし、当日は交通規制はあるし、まことにありがたい話だ。ありがたすぎて涙が出る。

見づらいが右端に黒人、中央と左端に白人の人がいる

 話は天皇制イデオロギーについて考えをめぐらせ、ひいてはこの国の行く末を憂えるエントリーにしようかと思ったが、面倒なので止めた。それから古墳祭りの会場に行って、出店やイベントを見物した。歩いていると「ドドドッ」と地響きがする。和太鼓の音だ。その音につられて行くと一番奥の鳥居の前で古代人の服装をした人たちが太鼓を叩いていた。バスドラが20個くらいにスネアが4個くらいだろうか。いや和太鼓だからバスドラとかスネアとか言わないな。ま、名前はいいのだが、なかなか力の入った演奏で、途中から剣舞みたいなのも始まり、面白かった。ただ途中どうも音が外れるというかリズムが合わないところがあった。気になってその外れた音のほうを見ると、色が黒くて髪の毛が蛇みたいな人が太鼓を叩いていた。どうやらジャマイカ人らしく、一人だけレゲエのリズムで刻んでいたのだ。僕が「ハーダーゼイカム」と叫んだら、悲痛な顔をして「アイショットザシェリフ」と言っていた(ここ、途中から大嘘です。でも黒人の人と白人の人も太鼓叩いてたのは事実です)。

 なんだかんだで半日歩いてあちこち見物したので、帰りの車はみんな大人しかった。バカ娘Bは寝てしまった。実はバカ娘Bとは日曜日にハムスターを買いにいく約束をしていたのだ。寝たのをこれ幸いと、スルーしようとしたら土壇場で目を覚まし、オープンしたばかりのペットショップに行く羽目になった。おかげでもうすぐパールホワイトのハムスターが我が家にやってくることになった。生き物は嫌いなのに。



パンタの顔が最近R・フリップに見えてきた その2

 と、いうことで昨日の続きである。8,9,10曲目は菅孝行作詞、パンタ作曲の劇団「不連続線」に提供した歌が続く。2004年に『頭脳警察music for 不連続線』というアルバムが出たが、劇団「不連続線」の芝居の中で使われた楽曲で、しかも歌っているのはパンタはほんの数曲で、あとは役者、なかにはカラオケもあったのでナンというかコレクターズアイテムのようなアルバムだった。「つれなのふりや」や「最終指令自爆せよ」が入っているからと大いに期待して聞いたが、やはり芝居を見ずに聞いてもちょっとぴんと来なかった。そのアルバムの中の「真夜中のマリア」と「落ち葉の囁き」は頭脳警察の『悪たれ小僧』にも入っているが、演奏としては『悪たれ』のほうが完成していた。

 そして、このアルバムの中で一番聞きたかった「ネフードの風」。イントロのギターのフレーズはオリジナルそのまま。アコギ2本の音だが、僕にはエレキギターの音もストリングスの音も全て聞こえた。それだけ、この曲には思い入れがある。アルバムにライナーを読むと『演奏が難しいという理由からHALでも演奏する機会が少なかった』と、あるが僕が熱心にライブを聞きに行った頃は、必ずステージでやっていた。『TKO NIGHT LIGHT』を始めて聞いたのは、サーカス(毎度おなじみ銀閣寺にあったライブハウス)だったが、バーボンを飲みながら、PANTA&HALの演奏姿を想像しつつ演奏曲をチェックした。「螺尾」や「フローライン」などの当時のアルバムに未収録だった曲と、ライブの定番になっている曲と聞きながら、どこでハイライトの「ネフードの風」が来るか楽しみにしていた。ラストの曲っぽい「Baby good night」が終わり、アンコールの「タッチミー」が始まった。そうか、2度目のアンコールで「ネフード」だなと思い込んでいた僕は、ターンテーブルが止まる音を聞いて叫んだ。「何故だ!!何故『ネフード』をやらない!!」

 昨年URC(残念ながら『アングラレコードクラブ』ではない。ウラワ・ロックンロール・センターである。どちらも僕は大好きだが)からPANTA&HALの80年11月2日のライブCDが出た。僕はようやく「ネフード」のライブが聞けると楽しみにしていたが、こちらにも入ってなかった。このまま「ネフード」は僕にとって、ライブでは聞けない曲になるのだろうかと思っていた。しかし、パンタと菊池の2本のギターが絡み合い、かつてのバンド時代とは一味違う、もちろん十分力強いパンタのボーカルがはじける。曲と詩の完成度に響としての演奏の完成度も加味された、待っていた甲斐のある1曲だ。ここで、あえて断言する。宮崎の街中を車の窓ガラスを半開きにして「ネフードの風」を大声で歌っている中年親父を見たらそれは僕である。

 「ネフードの風」の演奏が終わった後一瞬「北回帰線」のイントロが入る。すぐにフェイドアウトされるのだが、12曲目は「北回帰線」である。「ネフード」とともにアルバム『マラッカ』に入っていた曲だ。『マラッカ』は79年の作品で、なんと鈴木慶一がプロデュースしたHALのデビューアルバムだ。それまでの「ナタでぶった切る」(byパンタ)ようなサウンドから、研ぎ澄まされたバンドサウンドに変わった。フュージョンの時代にロックを追及するというパンタの姿勢から出来たバンドだ。残念ながら2枚のスタジオ盤と1枚(ダブルアルバムだったが)のライブ盤を出しただけで解散するが、このHALの時代がその後のパンタの音作りの基本になったような気がする。皮肉なことにHALの初代のギタリスト今剛(僕の友人のS戸君は、『こいつ名前ごついな。コンゴウいうんか』などと言ったが、もちろんコン・ツヨシである)は、その後パラシュートというスーパーフュージョンバンドに行き、さらには某有名役者のソロアルバムでギターを弾くことになり、その印象的なフレーズは国民を魅了した。一度聞いたら忘れられないその曲は「ルビーの指輪」という。

 詩の重さがサウンドの明るさで救われる「北回帰線」が終わると、これももうひとつ、今回のアルバム購入の大きな理由となった「地図にない国」が始まる。

 『頭脳警察ファースト』から『オリーブの樹の下で』に至るまで、パンタは赤軍派をテーマにした歌を作って歌ってきたが、この「地図にない国」は日本で最初のハイジャック事件、よど号事件を歌ったものだ。賛否両論いや、非難ごうごうかもしれないが、あの時代に確かに理想を求めて世界へ飛び立とうとした若者たちがいた。世間知らず、イデオロギーの犠牲者、北の権力者に絡めとられた、など、など。今、彼らを批判することはたやすい。しかし、僕にはパンタのこの歌詞と歌声が沁みてくるのだ。

攻めも守りも完璧な 9人の名前は轟いてた
よどみない青空のVサイン 70年の3月のことさ
高い理想を抱いておまえは JALに飛び乗り消えてった
でも忘れないでいて欲しい ここがお前の還るところだと

お前はいつも Shout Shout 叫びつづけた
どこか遠い 地図にない国へ行くと
目をとがらせて Shout Shout 探してたのさ
どこかにある 地図にない国を

離ればなれになっても 信じあえるというけれど
いまは疑問を感じてる でも誰もとがめられない
人は憂いを嘲り 今日の蔑みで慰めてる
でも忘れないでいて欲しい それがお前の意思だったんだと
(地図にない国 by PANTA)


 このあと歌詞は「チームの要のお前が抜けても試合は続くのさ、でも忘れないでいて欲しい 70年の春の俺たちを」と続いていく。もちろんよど号赤軍の連中がどう変質していったか、また変質せざるを得なかったかは、高沢 皓司の「宿命」などに詳しい。もっともそういう話を書くつもりはないので、アルバムに戻る。

 いよいよライブも終わりに近づく。ここで一気に船の歌が続く。「氷川丸」と「マラッカ」だ。先ほどのマニュフェストを訂正させていただく。宮崎の街中を車の窓ガラスを半開きにして「ネフードの風」と「マラッカ」を大声で歌っている中年親父を見たらそれは僕である。そしていよいよアルバムも終わりに近づく。「万物流転」である。パンタレイである。オリジナルは90年に頭脳警察を再結成して作ったアルバム『頭脳警察7』に収録されている。トシの太鼓のイントロが印象的なドラマチックな曲である。一頃パンタのテーマソング的にいろんなところで使われていた。ここでは菊池のエレキギターとパンタのアコギだけだが、曲のイメージを損なわず淡々と歌っている。要するに「オールシングズマストパス」(byジョージ・ハリスン)である。そして最後の最後に「裸にされた街」。宴は終わりだ。

なにごともなかったみたいだ 街を行く人々の顔は
あれほど深かった傷跡も消して 季節のよろめきに身を任す
(中略)
つかの間の宴に酔いしれ うつつの抜け道を求め
あてどなく彷徨う人々の群れを せきたてても酷なことだよ


パンタの顔が最近R・フリップに見えてきた その1

ONE DOUBLE アルバムジャケットと帯

 フライングパブリシャーからメールが来たのは、先月の初めだったと思う。パンタが菊池琢己と2005年に「荒情の月」ツアーと銘打って大阪、名古屋で演奏したライブがCDになるとの連絡だった。『オリーブの樹の下で』がとてもいい出来だったので、すぐに購入しようと思ったのだが、何かと物入りな月だったので(いえ、毎月物入りで、つまりあまり小遣いが自由でない、英語で言うとfar fromザ・コヅカイ、ということです。この不自由な身分からいつの日か解放されることを夢見ているのだが、なかなかにシホン主義社会は厳しいのだ)、ついつい先延ばしにしてしまった。ひとつにはパンタの一連の「ネイキッド」シリーズのライブで大体こういう感じかなとイメージを勝手に決め付けてしまい、イマイチ積極的に触手が動かなかったこともある。

 それでも、「ネフードの風」をやっていることや、いくつかの曲をオリジナルの歌詞(レコ倫問題は解決したと思っていたが、それでも自主規制せざるを得ない時代というのはやはりおかしい)が聞けるという部分がどうしても気になり、お金は生きてるうちに使わねばと清水の舞台から飛び降りる気持ちで申し込んだ。いや、AMAZONで少し安くなって買おうかと、セコな考えを持っていたのだが、今のところライブ会場と通販でしか手に入らないことを知り、下手すりゃまた廃盤だとパンタに対して大変失礼ではあるが、今までが今までだっただけに、ありえないことではない、などと急に言い訳めいたことを書いたが、まあつまりはそういうことで、注文したのだ。

 宮崎でネット通販に注文すると今までは大抵3日以上かかっていたのだが、ここ最近宅急便が郵政民営化に負けるもんかと気合を入れてるせいか(まさかそんなはずはないだろう。しかし人間とは身勝手なもので、普段は宅急便の車を見ると、「何を急いで送る必要があるんだ。ガソリンの無駄、環境汚染の元凶、迷惑駐車で邪魔だ。こんなものいらない宅急便」などとののしっているくせに、いざ自分が注文すると宅急便の車が大変いとおしく見えてくるのだ。こんな自分を可愛いとは、思うわけがないが)、2日くらいで届くことが多い。今回のCDも頼んで2日で手元に来た。早速PCに入れて、車用のコピーCDも作り毎日聞いている。いや、予想以上にいい。ちょっと強引な結論だが、今までの「ネイキッド」シリーズより遥かにいい。ギター2本だけという制約された条件の下、これだけパンタの歌に相応しい表現はないとあえて言い切りたい(ここ、今は亡き、梶原一騎のプロレス漫画風に「あえて断言したい」)。

 オープニングは「追憶のスーパースター」という意外な選曲。アルバムのオープニングがスローなバラードというのは今まで無かった、と思い込んでいたが、良く考えてみると93年の『NAKED』では「やかましい俺のロックめ」、98年の『NAKED Ⅱ』では「暗闇の人生」そして2002年の『NAKED TOUR』では「J」と、ここのところのライブアルバムは全てオープニングがバラードで始まっている。かつてのように始めから一気に煽っていくというやり方ではなく、50の大台を超えたパンタのあまり気負わずにライブを楽しんでくれというメッセージだろうか。しかし、パンタ、歌が上手くなったな。菊池のハーモニーもぶっきらぼうだがこの歌の良さをアピールしている。♪新宿、原宿、六本木、嘘つき野郎とアヴェ・マリア、寂れた都会の街角で見つけた君こそスーパースター~。ここで歌われている銀幕のスーパースターとは誰だろうか。長年パンタを聞いていると、こんなことばかり考えてしまう。

 2曲目はこれも意外な選曲で「ガラスの都会」。イントロのギターのフレーズはオリジナルの山岸潤史のフレーズそのまま。これをアコギでかっこよくやっている。そうだ、1曲目と2曲目はどちらもパンタがソロになって2枚目のアルバム『走れ熱いなら』からの曲だ。このアルバムは77年発売だが、修学院の下宿で初めて聞いた記憶があるから、77年の2月末か3月初めには入手していたはずだ。というのも、初めて入った修学院の下宿だが、2年目の更新は良かったが、3年目の更新をお願いすると大家さんから「drac-obはんは夜中に麻雀しはるし、髪の長い妙なお連れはんが来はるし、ごめんやす」とか何とか言われて追い出されたのだ。その後は先輩から紹介してもらった出町のアパートに引っ越すのだが、この辺りのことは「DRAC興亡史 1975~1980」に書くつもりだ。余談だが今、森見登美彦の「有頂天家族」を読んでいるが、その中に出町の枡形アパートという名前が出てくる。僕が住んでいたアパートの名前に似ていてなんだか嬉しかった。ちなみに僕の住んでいたアパートは相国寺出町西入ル上ル相生町というところにあった。駐車場の奥の2階建ての普通の家だった。余談終わりっ。

 『走れ熱いなら』はパンタ自身からも、またファンからも過小評価されすぎているアルバムではないか。確かにバックミュージシャンがギター・山岸潤史、ベース・鳴瀬喜博、ロミー木下、ドラム・ジョニー吉長、キーボード・国府輝幸といういい意味で個性溢れる、ある意味では癖の強いメンバーにゲストのウィーピングハープ妹尾(彼は同じレーベルだったのでソロ1作目にもゲストで入っている)という錚々たる顔ぶれ。したがってギターは「山岸っ」の叫び声で疾走するし、ベースとドラムはブイブイ言うし、なんといっても国府の『お前プログレバンドじゃねーんだから』と言いたくなる様な音の厚さ。まあ例えていえばプロレスのバトルロイヤルみたいなもんで、まとまりつかない。いや、これ決して悪口で言ってるのではなく、当時のパンタのブレーンや、パンタ自身も音楽的にどう進もうか迷っていた、試行錯誤の時代だったせいだろう。パンタ自身もこの頃のことは良く覚えていないなどと最近のインタビューで語っている。しかし、僕は覚えている。このアルバムのプロモーションで雑誌のインタビューでパンタが語ったフレーズ。「今度のメンバーとアルバム作ることを決めたときに、メンバーから歌詞を見せてくれといわれたのが嬉しかった」と語っているのだ。パンタの詩を読んで、イメージを作ってそれを演奏に反映させたということか。しかし、メンバーそれぞれの理解の度合いが違ったので、ああいう重い演奏になったのだろう。

 丁度、その頃だから多分77,8年くらいの事だが、パンタが来日したスージー・クアトロの前座で全国ツアーをしたことがある。今、考えると滅茶苦茶なブッキングというか、スージーのファンに「マーラーズパーラー」歌ってもしょうがないような気がするが、パンタ自身は「スージーを食ってやる」と意気込んで全国を回ったようだ。丁度大学の休みで帰省していたら友人の妹がスージー目当てでコンサートに行ったときに、髪の毛がごわごわで目のぎょろっとした男の人が前座に出てきて、カッコイイロックを演奏したと話してくれた。即座にそりゃパンタだ、聞きたかったといったら、なんとこっそりカセットに録音したという。でかした、と褒めておだてまくってテープを借りた。コンサート会場で音を拾ってるので、音響は最悪だがパンタが熱く歌っていた。メンバー紹介でドラムがジョージだったことしかもう記憶にないが…。

 ルースターズの花田と一緒に作った「蝗がとんだ」やジュリーに提供した「月の刃」のあとは『16人格』から2曲やっている。『PISS』と『16人格』は僕にとってはやや印象の薄いアルバムだ。それぞれに好きな曲が入ってはいるのだが、アルバムとしてのイメージがイマイチぴんと来ないせいか。逆にルースターズの『FOUR PIECES』は強烈な印象のアルバムで未だに「再現できないジグソーパズル」なんかは口ずさむことがある。そういえばパンタが他人に提供した楽曲を集めたアルバムを出すという話もあったが、あれはどうなったのだろう。いえいえ、老後の楽しみに取っておいて貰ってもいいのですが。個人的には「ムーンライトサーファー」は歌って欲しくない。あれはやはり石川セリがぴったり来る。ちょっと前にでたセリのCDのオマケにダンナである陽水とゲストのパンタがセリと一緒に「ムーンライトサーファー」を歌うDVDがついていたが、陽水は絶対あの曲知らなかったに違いない。

 7曲目に「メールドグラス」が入っている。パンタのある意味ライフワークである『クリスタルナハト』からの曲だ。ナハトはじらされたアルバムだ。学生時代にパンタに2回インタビューしたが(ハイハイ、耳タコです、って言わないでくれよ。このこととモモヨさんにインタビュー出来たことが僕のロック人生を大きく決めたんだから)、すでにそのときから「ナハトは次に出る」と散々聞かされ、その都度裏切られてきたのだ。もっとも裏切られたと人聞きは悪いが、その都度出たアルバムはちゃんと聞いた。しかし、じらされ続けたおかげでか、『ナハト』は異様なテンションの高いアルバムだった。そうそう、菊池琢己が始めてパンタバンドに参加したのがこのアルバムだった。ギターとキーボードが印象的なアルバムで、特に「オリオン頌歌 第2章」でのギターソロが素晴らしかった。アナログとCDではテイクが違うと知り、最初はアナログしか持ってなかったがすぐにCDを買いなおした。

 しかし、こうやって書いていくとパンタの作曲能力と作詞能力の幅広さに驚く。更に膨大なオリジナルの中から、選曲してその歌を甦らせるのも特異な才能のひとつだろう。『ナハト』の中ではどちらかといえば、あまり目立たない曲だったがパンタの歌の表現力が、見事にこの歌のドラマ性を際立たせた。菊池のギターとコーラスも要所をしっかり押さえたベストサポートだ。と、ここまで書いてきたが、この後はパンタが劇団「不連続線」に提供した楽曲をはさみ、今回一番書きたかった「ネフード」と「地図にない国」が出てくるのだが、もう深夜の2時を回った。続きは次回、ってやってるからいつまでたっても完結しない。これが長年パンタを聞いてきた因果である。

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