DRAC興亡史 1975~1980 前史その1

 安請け合いして後で苦しむという人生を送ってきた。頼まれると断れない性格というか、意思が薄弱というか、ゴロンボ波止場思想というか「そのうちなんとかなるだろう」でやってきて、まあ、何とかなったから現在に至るのだが、この性格を直さないといつか大怪我するような気がする。いや、現に今まで何度か大怪我をしている。結石の痛さでのた打ち回ったり、足の指を切り落とす事故にあったり散々である。あれ、何か話が違うような気がする。そうではなかった。安請け合いして失敗するという話だ。何の話かというと「DRAC興亡史 75年以降」のことだ。サークルの先輩であるsawyer氏がご自身のブログで「DRAC興亡史…1967~1971」をなんと28回にわたってアップされた。僕も所属していたサークルの歴史だったので大変興味深く拝読していたのだが、あるときコメントで「75年以降はお願いします」と書かれ「合点承知の助、江戸っ子の太助にはお安い御用でぇ」などと気楽に返事をしてしまい、今苦しんでいるのだ。

 いや、苦しんでいるというのはちょっと違う。思い出す材料には事欠かないし、過去の出来事を確認しようと思えば、今でも連絡のつく同級生や後輩はいる。しかし、僕にとってDRACというサークルは学生時代のある面全てだった。つまり「DRAC興亡史 75年以降」を書くということは、僕の個人史の75~80年史になってしまう危険性が高いのだ(裸のdrac-ob、19歳から25歳までというエントリーになってしまう)。もちろんその中で一時的ではあるがサークルから遠ざかっていたこともあるし、逆にサークル活動をどうすればいいのか悩んで議論したこともある。サークルに6年間どっぷりつかっていたので、どこからどこまでがサークルの話なのか、訳が分からなくなりそうなのだ。しかし、以前書いたフレーズだが僕のブログに歴史的正確さを求める人はいないわけだし、事実よりこう書いたほうが面白いだろうという革命的ワンダーランド主義とでもいうか、ヨタ話でも面白ければいいという無責任主義でやっていこうかと思う。しかし、やはり、先ずは自分自身を語るところから始めないと話は進まないようだ。

 75年の4月に大学に入ったところから話をはじめようかと思ったが、大学に進学するにはそれなりの理由というか目的があるはずだ。いや、あったはずだ。そこを思い出しながら話を書いていこう。僕の入った高校は普通科だったが、比較的自由な校風で生徒の自主・自律を尊重するというところがあった。もちろんその中にも生徒指導部などという、いやらしい名前の蛇蝎の如く嫌われる部署もあったが、僕は3年間同じ担任で、その先生が悪く言えば放任主義、良く言えば生徒の自主性を尊重する方だったため大変助かった。何が助かったかというと大学進学の志望校を決めるときだ。普通科高校の教師であれば、どれだけ大学に生徒を合格させたかが、ひとつの実績として評価されたはずと思うのだが僕の担任のM川先生はそういうことには全く頓着しなかった。 

 高1、高2は持ち上がりのクラスだったが、高3になると本人の進路と学力を基にしたクラス編成が為された。早い話、成績別のクラスだ。先ず、理系・文系に分類され(当然理系がエライ、男の文系は役立たずといういわれなき身分制度を押し付けられる)、さらに国立大学専属、私立との併願、私立の専願という風に分類される。僕の入ったクラスは文系で、さらに学年の吹き溜まりといわれたクラスだった。とにかく問題児が多かった。あれ、そのクラスに入ったということはオレも問題があったのか。あったのだ。先ほど挙げた、進路指導部のM浦といういやらしい教師から面と向っていわれたことがある。あれは、高校3年の文化祭のときだ。一応は生徒の自主・自律を尊重する風潮のある学校だったので、体育祭と文化祭を一緒にしたいわゆる学園祭があったのだが、そのプログラムを全て生徒主導でやろうと僕たちは計画した。

 この計画に賛成したのは、今では弁護士という立派な職業についており、高校生時代の悪行は一切無かった事にしたがっているのではないかという噂のN田君、我が高校の自治会がついに立候補する生徒が居なくなり解体寸前の時に、入学したばかりの1年生でありながら立候補してその危機を救ったのはいいが、生徒会室で日常的にタバコを吸って怒られたK林君、そのほかに今はカタギの仕事についてるS君やY君などが居た。まあ、話せば長くなるので”To make a story short”つまり早い話が、体育祭が終了した後のタテカンや応援用の竹ざおなどを一気に燃やして、いわゆるファイアーストームというやつをやろうという、今考えるとオレは高校生だったのになんという幼い考えしかなかったのかと恥ずかしくなるような計画を立てたのだ。なぜそんなことを計画したのか良く分からない。当時は北杜夫など読んでいたので、旧制高校への憧れなどがあったのだろうか。

 はっきりいうと、ファイアーストームを企画したのは僕で、N田君やK林君その他を巻き込んだのも僕だ。もちろん、計画を話したら彼らも賛同してくれたから、実行に移そうということになったのだが。要は、先生がお仕着せでやらせる学園祭を、本来の自主・自律の言葉通り、生徒中心の学園祭にしたかったのだ。それ風な言い方をすると学園祭12時間自主管理闘争とでもいえる(そんないいものではないか)。当時の僕の高校の規則では、生徒会の議決と職員会議の議決は同じであり、そこで意見が対立する時は校長の裁量で決定するようになっていた。僕たちの考えでは、とにかく一人でも多くの生徒を巻き込んでしまえばナントカなる、という方針だった。

 学園祭での取り決めは1年から3年までのクラスの役員が、放課後残っていろんな取り決めなどを協議し、そこで決定したことを各クラスに持って帰りクラスの全員に浸透させるという仕組みになっていた。それで、先ずはその役員達をオルグ(こういう言葉は使ってなかった、というか当時はまだ知らなかったが)してしまえという訳で、僕とK林君が中心となって、1,2年の役員達を次々と仲間にしていった。ところが、この手の役員には必ず頑固と言うか、融通がきかないというか石部金吉君がいるもので、僕たちのこの計画を担任にチクッた奴がいたのだ。1年から3年までのほとんどの役員を口説き落として、ちょっと不安で態度を明確にしていない役員をリストアップして最後の詰めをやろうとしていたそのときに、生徒指導部のM浦先生が僕とK林君を呼んでいると言いに来たのは、確かN田君ではなかったか。

 自分達の計画が、まさか学校当局に漏れているとは夢にも思わなかった僕たちは一体生徒指導部が何の用だろうと能天気に職員室に向った。職員室に行くとM浦先生は居ない。尋ねてみると生徒指導室で待っているという。その時ちょっと嫌な予感はした。大体生徒指導部に呼ばれるというのは「テイガク」とか「キンシン」などを食らう出来の悪い連中が呼ばれるところだと、当時の僕は思っていたから。K林君は若年性喫煙依存症のため、何度か生徒指導部に呼ばれて、M浦先生から恫喝もとい、指導を受けたことがあったので、僕より嫌な予感がしていたと後日語ってくれた。

 M浦先生は背の低い人だった。僕は当時175センチ、K林君は僕より背が高かったので、この二人を前にしたM浦先生は滑稽なくらいふんぞり返って僕たちに説教した。いわく「我が校では、過去ファイアーストームなど実行したものは居ない」「大多数の生徒はお前たちの計画に反対している」「生徒総会にかけた議決ではなく、影でこそこそ計画を立てるところに後ろめたさがあるのだろう」「我が校の歴史に泥を塗る気か」「どうせ碌でもない大学しかいけない(うーん、この点は否定できん)」などなど。ありとあらゆることを言われた。挙句は内申書にこのことを書いたら、どこの大学も通らないとか、人間は火を見ると原始的になりいくら理性で押さえようとしても無理だとか、もうオカルトではないかと思われることも言われた。

 最初のうちは徹底して抗弁していたのだが、受験生という弱い立場なので内申書を出されると反抗できず、僕たちの学園祭12時間自主管理の夢はあえなく潰えた。あとで聞いた話だが、かのゼンキョートー華やかなりし頃、やはり学園祭の時にファイアーストームを実行した先輩方が居て、そのとき火を見て盛り上がった先輩方の一部が学校批判をはじめ、そのときに槍玉にあがったのがM浦先生だったらしい。それで、生徒たちの暴走に対しては神経を尖らし、先ほどの学園祭の実行委員の中に自分の子飼いの生徒を入れていたらしいのだ。クソ、今考えても腹の立つ。しかしこのようなことをやっていた因果が、75年以降大学で花開くのだ。

 えー、いつの間にか高校時代の話になり、何故D大学を進路に決めたかという所まで行かなかったが、とりあえず「前史」ということで。次回はもっときちんと書く(つもりだ)。
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じゃんけんピースがすいついた(食いついただったかも)

 何故かは知らねど、この前からこのフレーズが頭の中をぐるぐる巡っている。いわゆるじゃんけんの時の掛け声というか「じゃんけんポン」のローカルバリエーションである。僕が小学生だった60年代(残念ながら西暦である、元号の昭和だと誤読してくれると嬉しいのだが)の宮崎県北部では、いやもっと細かくいうと延岡市立緑ヶ丘小学校で使用された掛け声のひとつである。他にも「じゃんこうほい」とか縮めて「じゃんけんちぇす」とかいうのも使った。じゃんけんをするときの掛け声は各地で色々なものがある。関西に居た時「いんじゃんしよう」と言われて、何のことかと思ったらじゃんけんだった。他にもじゃんけんとはちょっと違うが「ボンサンガヘヲコイタ」とか「散々苦労して死んだ」とか訳の分からぬ表現も教わった。なかなか味わいのある言葉達ではある。

 ところで、じゃんけんだがそのルーツはどんなもんだろうとナニゲニ調べてみたら、意外にも九州ルーツ説が強いことを知った。長崎ルーツ説や熊本ルーツ説もあるようで、広義に考えても西日本ルーツであることは間違いなさそうだ。ちなみにチョキの形は今でこそ人差し指と中指を伸ばした形を使うが、子供の頃は間違いなく親指と人差し指を伸ばしたものを使っていた。「男チョキ」とか「田舎チョキ」とかいうらしい。更に、じゃんけんで必ず勝つ魔法の手があった。「男チョキ」の形で手のひらを伸ばすというやつだ。親指と人差し指が「チョキ」で中指・薬指・小指が「グー」、そして手のひらの部分が「パー」の力を持つので、相手が何を出そうが必ず勝利するのだ。もっともこれを出すと必ず「お前はズルイ」とケンカになるので、実社会では使わないほうが賢明である。

 じゃんけんしてあいこになった時の掛け声もさまざまなものがある。「じゃんけんピースがすいついた」の後は「あいこでアメリカ、ヨーロッパ」と続く。「あいこ」の「あ」と「アメリカ」の「あ」が韻を踏んでおり、「アメリカ」と来たら「名前のない馬」と続きそうだが、残念ながらまだ60年代でビートルズがバリバリ現役の頃、いや我がポンニチではタイガースがバリバリ現役の頃だから3人組の「アメリカ」は存在しておらず、必然的に「ヨーロッパ」につながっていったのだろう。まあ、時代的にはアメリカもヨーロッパも雲の上の存在で、身近に感じることは無かった。特にヨーロッパというのはどこかの国の名前だという様な認識しかなかった(スマソ、小学生の頃というのはこの程度の認識しかなかったと思う)。したがって海外のテレビドラマは全てアメリカ物だと思い込んでいた。話は飛ぶが僕の祖父は「奥様は魔女」や「ルーシーショー」などを見ると必ず「ガイジンはなんで面白くもないところで笑うのか訳が分からん」とこぼしていた。

 確かに、ドラマを見ていると別段面白くも何とも無いところで笑い声が入る。当時は吹き替えなどという言葉はあってもそれがどういうことか理解できなかった(「吹き替え」という表現は確かそれほどポピュラーではなかったように思う。それより「声の出演」という言い方をしていた。「逃亡者」の「声の出演」に「睦五郎」とあり、「ムツゴロウ」を知らなかった僕には面白くも何とも無いのだが、祖父達はその名前で大笑いしていた。しかしやたらカギカッコが多くて読みにくいな)。ただ僕はそれ以上にテレビ画面に出てくる様子と笑い声に違和感を感じていた。つまり、背景のセットや笑い声などからして相当に大きな舞台で録画しているのだろうが、観客の様子を全く写さないのは何故だ、という疑問が解消しなかったのだ。当時はアフレコなどという単語の存在すら知らなかった。

 例によって話が飛びまくっているが、実は今日はじゃんけんの話はあくまで枕で、この「ピース」について発見したことを書こうと思ったのだ。「ピース」というのはええと、標準語では「めんこ」というのか、僕たちの田舎では「パッチン」といっていた子供用の玩具の一種だ。大きさは1円玉くらいで「めんこ」と異なるのは、その大きさだけでなく販売方法も大きく違った。「めんこ」は大きさに応じて単価が決まっていて、1枚ずつ買えたが、「ピース」は2枚で1円だが20枚が筒状に重ねてあり、それを蝋で固めて売っていたのだ。遊び方も「めんこ」と異なり、1枚ずつにばらした「ピース」を親指と人差し指ではさみ、はじくようにして飛ばす。そのあとじゃんけんで順番を決めてお互い相手の「ピース」の上に自分の「ピース」が乗れば勝ち。勝てば相手の「ピース」は貰える。たしかこんな遊び方だったと思う。また別なバリエーションでは、教室の机の真ん中に線を引いてその両端に「ピース」を置き、息を上から吐きかけて「ピース」を飛ばし、相手の上に乗せたら勝ちという遊び方もあった。

 「めんこ」と比べて、表面のデザインにバリエーションが無く、また小さくて遊びにくいこともあり、あまり人気の無いゲームだったが僕は何故か好きだった。大人になってレトロの駄菓子屋などで昔の玩具を見かけるようになったが、この「ピース」だけは残念ながら見たことが無い。ところでどうして「ピース」が突然甦ったかというと、ずっと何故あのアソビを「ピース=平和」と呼ぶのだろうか。確かに「平和」なアソビではあるが、と思い込んでいたのだが「ピース」は「PEACE」ではなくて「PIECE」、つまり「破片」とか「かけら」の意味のほうの「ピース」ではないかと気がついたのだ。今、念のために英和辞書を引いたら「(盤上ゲームなどの)コマ」とあった。うん、辞書は引くものだ。人間幾つになっても勉強だ(と、自分の英語連想力の無さを誤魔化す英文科中退であった。余談だが、最初のじゃんけんの際の掛け声の分類と変化を調べると立派な言語学のフィールドワークになり、僕を毎年落とし続けた岡田○エ教授に一矢報いることが出来るのだが、残念ながら僕は忙しい。エントリーを3日おきでないと書けないくらい忙しいので、どなたか奇特な方がやっていただけるといいのだが) 

支離滅裂ですが

 季節の変わり目になると無性に眠たくなる。夕べも晩ご飯の後、8時くらいにちょっと横になったらすぐ寝てしまった。はっと気がついたら10時を回っており、エントリーを書く気力も無く、枕元に読みかけの本を置いて再び瞼が重くなるのを待った。ものの30分もしないうちまた睡魔が襲ってきて、そのまま寝てしまった。実は、20日にアップしたエントリーの中で予告したように、次はYOU TUBEで見つけたネタを書くつもりだったが、先ほどYOU TUBEをチェックしたらカットされていた。実は「今夜は最高」に出た岡林信康と「ジパング通信」というテレビ番組に出た加川良、大塚まさじ、西岡恭蔵のトークをアップして彼らの意外なユーモリストというか皮肉屋というか、まあ歌以外の個性の部分を紹介しようと思っていたのだが、目算が狂った。仕方がないので昨日ちょっと感じたことを書いておく。

 昨日は日曜日だったが、下の子の文化祭とやらに行かされた。演劇と合唱に出るというのだが、本人に聞くと演劇は幼稚園の頃桃太郎でキジをやらされて以来、あまり好きではないという。何しろ頭に鶏の出来損ないのような面をかぶって「私も連れて行ってください。ケンケン」と言うだけなのに、何度も練習をさせられて嫌でしょうがなかったらしい。合唱は大好きで今回は例の「まじゃある語」の歌を歌うと張り切っている。僕としては、せっかくの日曜日だけに謹んで辞退させて頂き、普段仲の悪い配偶者だけが見に行き、下の子の意外な一面を見て仲直りしてくれればいいと思ったが、そうは問屋がおろさなかった。しかし、最近は問屋を通さず、中間マージンをカットすることで価格破壊を行っているのだから、何とかならんかと配偶者に交渉したが、いつものパターンで「せっかく娘が頑張っているのを見てやらないのは可哀想でしょう」と逆切れされかけたので、すごすご出かけたのだ。

 会場の体育館に行ってみると結構な人の数である。ビデオの三脚もあちこちで見かけるし、一眼レフのデジカメや携帯のフラッシュが時々光る。しかし、節操が無いというか、そんなにわが子の写真を撮ってどうするのだ。僕も子供が小さい頃は良くビデオを撮ったが、あれはその時そのときをリアルタイムで楽しむことが出来ない。常に子供の様子や周りの景色をカメラで撮ることに神経を使い、そのときがどんな様子だったかというのは、あとで画像で確かめるしかないのだから、本末転倒ではないか。昔、亀井勝一郎のエッセイか何かで「心のカメラでシャッターを切る」とかいう話があった。名所旧跡に行くと、やたらカメラをパチパチしている人を見るが、それは本当の姿ではない。景色を切り取るようなもので、時代とともに景色も変化するのだから、自分の心に映しとめておけばいいのだ。というような話だったと思う。亀井勝一郎じゃなかったかも知れないが、確か僕が中学の時の国語の教科書に出ていた。

 それはさておき、さすがに今の中学校は僕の頃とは大違いで、ステージにピンスポットは当たるし、パワーポイントのスライドで時間表示はされるし、音響係もいたりして、十分イベントと呼べる構成だった。ステージの横に大きなポスターがあり、そこに学園祭のスローガンが書かれていた。『ストップザフューチャーか、なるほど。今のコイズミ-アベ-フクダと続くエセ改革、格差社会の未来を阻止せよ、という意味だな』、などと勝手に解釈したがどうもおかしい。良く見ると「Step to the future~未来へ向って踏み出そう」という意味だった。そりゃそうだ。純真無垢な中学生達に未来を阻止せよなどというカゲキな親は居ないだろう。

 僕が着いた時は既に劇は始まっており、途中から見たので良く分からなかったが、後でパンフレットを読んだところ、母親の胎内に宿った命の話だったらしい。人が生まれることは全て楽しいことではなく、コインロッカーベイビーとして捨てられ、わずか1週間でその命をなくす場合もある。だったら何のために生まれるのか、生まれずにそのまま闇の社会に居ればいいのではないかと結構シビアな内容のお芝居だった。もちろん学校の文化祭だから、そこからニヒリズムバンザイみたいにはならず、苦しくても厳しくても希望を持つことが大事だという、まあお決まりというかごもっともな内容なのだが。しかし、僕が中学の頃の劇なんかは、このような時事的なもの、問題提起的なものは無かったと思う。今の子供たちは子供たちで、こういうことも考えるのだろう。それがいいか悪いか、いや悪いことは無いのだが、もっと大きくなって、高校生くらいになってからでいいのでは、と下の子に甘いと毎度毎度言われる父は考えたのである。

 何となく、重苦しくなったので、ここで雰囲気を変える。なんとエリック・アンダーセンの動画があった。曲は「Thirsty Boots」だ。青い目のジュディと一緒にやっている。2002年の映像らしい。

 それともうひとつ。涙無しでは見れない、聞けない。アーロ・ガスリーの「City of New Orleans」だ。エリック・アンダーセンとアーロ・ガスリーは、ワーナーのホットメニューつながりなのだ。あかん、もう眠くて説明がめんどい。ここら辺の話はいずれまた。

心が洩れた日

 今日は、久しぶりの土曜休日だったが、同時に月に一度の病院をはしごする日でもあった。最初の病院ではこの間の生活ぶりを聞かれ、『運動は何かしているか』と質問された。そういえば以前は熱心にやっていた夜の散歩も、今年の夏の異常な暑さで中断してしまい『今は何もやっていない』と答えたら、少しずつでいいから運動するようアドバイスされた。その言葉が頭に残っていたため、お昼ご飯を食べに自転車で街中に出かけてみた。いつもは車で走っているところだが、自転車から見る風景はやはりちょっと違って見える。宮崎駅から以前はアーケードになっていた商店街に入り(アーケードがなくなったおかげで視界が広がって気持ちが良かった)、以前良く通っていたラーメン屋さんに入った。

 ここはスポーツ選手がよくお忍びで来るお店で、昔は壁にはその手の写真や手形、サインなどが飾ってあった。5年ぶりくらいに入ってみると、サイン類はなくなっていたが、写真は古びたものが数葉以前と同じ場所に飾ってあった。江夏(江川じゃねーよ。オールスターで9者連続サンシンの記録を持つ大選手だよ)はお酒が入っていたのか、目が真っ赤だし、先代貴乃花は妙に視線を下げて丼を見つめている(まさか、自分がいなくなった後の子供たちの不仲を予想していたわけではないだろうが)。ここのお店はラーメンと一緒に自家製のぬかづけのお漬物が出される。今日は、お店の人が懐かしがってくれたのか小皿にあふれんばかりの御新香と、もう一皿もやしのナムルみたいなものも出してくれた。大変美味しく頂き、さてもう少し街中を運動がてらチャリで散策するかと走り出した時のことだ。通り過ぎた景色の中に何か違和感のあるものが見えた。思わず自転車を停めて引き返してそれを確認した。
世の中「世紀末」でもないのに、妙な商売があるものだ。

 「何だよ、前世占いって」と思わず言葉にして言ってしまった。最近、このように心で思ったことが口から出てくることがある。これを「心が洩れる」と僕は名づけているのだが、そういえば2件目の病院でも同じようなことがあった。毎週行ってる病院なので、何度かこのエントリーにも取り上げた通り、いつも大変混む。ここのところは注射だけとか、検査も受けるとか、そのときの用件にあわせて行く時間帯を調整して、待ち時間も少なくて済んでいたのだが、今日はいつもより遅くお昼前に行ったので鬼のように混んでいた。椅子に座るスペースも無く立ったまま待合室にいると、あまりこの病院になれていない様子の老夫婦が「まだね」「まだよ」と必要最小限の会話をしていた。そのとき「主語がねーよ」という声が聞こえた。驚いて振り返るとそれらしき人はいない。どうやら自分が頭で思ったことがそのまま言葉になったようだ。

 その後も、新しく来た患者が受付の人に「後、どれくらい時間がかかるんですか」と聞いているのを見て「そんなん分かるか」とやはり小声で呟いてしまった。この時はすぐそばにいた人に聞かれたようで、妙な顔をしてこちらを見られた。思わず恥ずかしくなりうつむいてしまったが、相手の人も気味が悪そうに僕から少しでも離れようとしていた。その様子をみていたら頭の中でフォーリーブスが歌いだした。「地球はひとつ」だ。落ちは書かない。心が洩れるというのは一種の老化現象かもしれないが、あなたこういうことはありませんか?

 前世占いの看板を出しているのは占いハウスとかではなく、普通の美容室だった。パーマだけじゃ食えないのでサイドビジネスなんだろうか。その美容室は2階にあるので様子も分からず、いつまでも見ているわけにも行かないのでまたペダルを踏み始めたその時、ああ、またしてもアンビリーバブルなものが目に入った。
原田真二が聞こえる。♪WOO、時間旅行のツアーはいかが、いかがなもの

 「時間旅行受付中だとぉ?」。今度は少し怒りがこもった声になってしまった。おお、上等じゃネェか、受け付けてもらおうじゃネェか。出来得れば75年の4月大学に入ったばかりの頃に連れて行ってくれ。今度ばかりは道を間違わない。ちゃんとマジメに授業を受けて、間違っても別館には近づかない。サークル?滅相も無い。せいぜいが同好会まで。ブンレンとかガクジュツダンとかいう小難しい名前の団体には近寄りません、などと考えていたが、いやオレのこの性格だ。もう一度あの時代に戻ったら、今度はもっとむちゃくちゃなことをやってしまい後悔も今の2倍以上になるかもしれないと考えた時に、以前何かの本で読んだフレーズが頭をよぎった。いわく「時間旅行などありえない。ありえない旅行には参加できない。したがって受け付けてもらう必要なし」。

 あ、お断りしておくが今書いたことは全て頭の中で喋ったことで、心を漏らしたわけではない。しかし以心伝心というか、道端にしゃがみこんでいた若いカップルが心なしか、僕を避けるようにあたふたと立ち上がってどこかに行ってしまった。もしかしたら気がつかないうちに何かぶつぶついっていたのかも知れない。これではただの危ないオヤジだ。しかし、街中は面白い。まして普段車で入れない路地や、通路を通るといろんなものが目に入る。それから小一時間チャリを漕ぎながら今日の運動は無事終了した。というところで、今日の話はおしまい。本当は甦ったフォークソングクロニクルというタイトルで、昨日見つけたYOU TUBEのネタを書くつもりだったが、それはまた次回(ちなみに前世占いも時間旅行受付も同じ美容室でやっています。興味のある方はご連絡下さい。ご案内致します)。

Suddenly Autumn Has Come With Moody Winds.

夕焼け雲みて何思う、地震雲などと惑わされてはならぬが。

 以前、エントリーに書いたが宮崎の夏は5月から10月の10日くらいまで続く。そうゴールデンウィーク明けから旧体育の日までだ。今年もそのセオリー通りに季節がいつの間にか変わった。つい先週まで夜はタオルケット1枚で寝ていたのだが、ある早朝あまりの寒さに目が覚め、ほとんど無意識で押入れから布団を引っ張り出していた。また、夕方急いで事務所に向っているとき、ふと気が付いて回りを見ると6時過ぎなのに暗くなっていた。今日も6時少し前に、車で走っていたら夕焼けが見えた。うろこ雲というのか、あまり見た目のいいものではなかったが、不思議な形をした雲に赤い夕日が射してなんともいえない風情をかもし出していた。思わず車を停めて携帯で写真を撮ってしまった。

 まだ昼間の日射しは強くて突き刺すようだが、時々吹いてくる風は冷気を含んでいる。冬がもうすぐ来る。1年の中で一番好きな季節だ。頭がすっきりするし、第一精神が研ぎ澄まされるようで気持ちがいい。夏の間、あれほど五月蝿かった若い連中がどこかに行き、代わって静かな大人たちが街のあちこちでたむろする。もっとも赤ら顔のヨッパライは勘弁だが。冬がもうすぐ来る。冬がもうすぐ来る。この秋から冬にかけてが、最も好きな季節だ。何とか生きてきたな、と思う。もう少し頑張って生きていこうと思う。ああ、冬が来る。

教習所物語 その2

 とびのT君とはしばらく一緒に行動した。食事も朝、昼は合宿所の弁当を食べたが、夕食はやはり気分を変えたいし、お酒の一杯も飲みたいので、二人して指定の大衆食堂以外の居酒屋や寿司屋を開拓した。彼はいつも自分は酒が強いとか麻雀で負けてたことがないとか、彼の年齢に相応しいツッパリというか自己防衛の言葉で武装していたが、ビールをコップ半分も飲むと真っ赤な顔をして目つきが怪しくなるのが常だった。とびの社会では自分はもう一人前なのだが、なかなか大将がそれを認めてくれないとか、小学校の頃までは親の言うことを良く聞くいい子だったが中学に上がったら教師から目をつけられ、それで暴走族に入ったとかいろいろ身の上話をして、最後は半分眠りかけながら合宿所に帰るのだった(もっとも平日は漢字の勉強をしていたのでお酒を飲むのは土・日だけと決めていたのだが)。

 最初の1週間は毎日4.5時間は学科があり、運転の実技も2時間みっちりあるので疲れてどこかに出かけようなどとは思わなかった。それでもまだ20代の半ばで遊びたい盛りだったので、講義の空き時間を見つけて、駅前をぶらついたりした。そうこうするうちにパチンコ店や雀荘を見つけて、合宿所の仲間で気の会う連中を連れて、そういうところで遊んでいた。T君は豪語する割には、麻雀が弱くいいカモにされていた。麻雀というのはバランスのゲームで、強く行くところと低く低く行くところの要所を間違えなければ、そこそこは負けないのだが、彼は常に自分の手を思い切り大きな点数になるよう持っていく。当然、周りは目に入らない。がむしゃらに自分の手に惚れて、突き進んでいくのだ。彼の人生はそういう風なんだろう。一本気な男だった。彼の手が順調に進んでいる時は、僕がすぐ簡単な手で蹴ってしまうのだが、そのたびに「人がせっかく大きな手を作ろうとしてたのに」とこちらをチラッと睨むのだった。

 一度、あまりに彼がころころ負けて、学生連中にカモにされるのが可哀想だったので、「自分の手に惚れるな。毎回あがる(勝負に勝つ)ことを考えるな。たまには勝負を捨てて降りろ」などとアドバイスしたが、こちらは全く聞く耳を待たなかった。「drac-obさんは、そういうけど、おれっち本当は強いんだよ。今はあいつらに花を持たせてるけど、おれっちが本気になったらあいつらなんかイチコロだよ」とどこ吹く風であった。それから、僕は彼とは一緒に卓を囲まないようにした。彼は、いつも学生達を相手に真っ赤な顔をして闘って、ゲームが終了すると何枚かの札を台に叩きつけるようにして帰っていくのだった。もっとも本来の免許のほうは順調で、仮免のペーパーで2回落ちたが、持ち前の呟き学習で乗り越えすんなり卒業していった。

 合宿所のメンバーも1週間も過ぎると大体顔と名前が一致し、気の合うもの同士でグループが出来た。場所が籠原だったので、ほとんどは関東周辺の人だったが、僕たちの部屋に2人だけみゃーみゃー鳴く猫のような奴がいた。名古屋人だ。当時のタモリのオールナイトニッポンで徹底してコケにされた名古屋人である。合宿所のあの、貧乏くさい弁当をあけるや否や「エビフリャーだがや。おめー。エビフリャー」と叫んだ時は目が点になり、本当に名古屋人はエビフライがソウルフードなのだと確信した。彼らは車と同時に自動二輪も取るコースに入っていたので、実技も多かったし、第一声が大きく傍若無人とはこういうことをいうのかと実感した次第だ。とにかく言い訳の多い奴で、自動二輪の実技の試験で落ちた数少ない人間のうちの一人だったが、部屋の人間に会うたびに「いやー、バイクでゆっくり走るコースがあるんだがや、そこをワシ上手くやっとたら、急に風が吹きやがって、このたわけ。あら、あららと思ったらバランス崩してアウトだがや。もう先生にもう一回いいかのというたけど、あのクソタワケがあかんいうんよ…」と延々喋り続ける。男は日に三言の教育を受けてきた僕には理解できない存在だった(ウソ。です)。

 合宿生活でもうひとつ印象に残っているのは、鹿児島出身で東京に就職が決まり免許を取りに来ていたN君だ。背の高い二枚目で、話す内容もマジメ一本。少なくとも一緒に話して面白いというタイプではなかったが、僕が宮崎出身だと知り親近感が出来たのか、良く話かけられるようになった。もっとも「会社に入って先ず注意するところは」とか「給料の何割を貯金にしたほうがいいのか」とか「上司に可愛がられるにはどんなところに気をつければいいか」などを聞いてくるのだから参った。特に貯金についてはこっちのほうが「え。貯金てやっぱせんとあかんの」などと聞き返し、「当たり前でしょう。人生設計は先ずそこからですよ」などと言われ、慌てて宮崎の会社の総務に『財形貯蓄始めます、但し月5000円で』などと電話したものだから、僕が関東で商売女に引っかかって結婚詐欺にあったらしいなどと根も葉もない噂を立てられてしまった。

 そのN君がある日青い顔して僕のところに来た。どうしたと聞くと、ごにょごにょ喋って要領を得ない。ちょっと涙目にもなっている。再度どうしたと聞いても小さい声で聞き取れない。いい加減イラついたので「貴様(キサン)なんば女々しかまねをしとっとか。西郷先生(セゴドン)にガラルッド(訳~おまえはなぜ女々しくないているか、(郷土の偉人の)西郷先生に叱られるぞ)」と、インチキ鹿児島弁で怒鳴ると、彼は「実は財布を失くした、いや盗られたかもしれない」などと言い出した。失くすのと盗られるのでは全然違うので、詳しく聞くと二段ベッドの支柱のところにいつも自分のバッグを架けていたのだが、実技に行って帰ってみると財布だけが失くなっていたという。勘違いか思い込み違いでどこかに置いてしまったとか、ジャケットのポケットに入れたままになってるのではないかと聞いたが、自分は物を置く場所は一度決めたら絶対動かさないから間違いないという。

 事務室に財布を盗られた(紛失した)と相談に行くことも考えたが、これだけ多くの人間が寝泊りしているところで、仮に警察が来たところで分からないだろう。またこれまでの事務員の様子をみていると、全てがマニュアルどおりというか前例至上主義みたいな対応だったので、言うだけ無駄だと判断した。じゃ、部屋の中の人間を調べるかと思ったが、誰もいない時間帯だから、他の部屋から入ってきたとしたら意味が無い。実はキンパチ風に「はーい、はーい、はーい。こど(やや鼻にかけて「この」というところは「こど」と発音する、リアリズムである)教室にちょっとした出来心で財布を盗った人がいまーす。先生は犯人探しをしたいわけではありませーん。誰でもほんのちょっとした気の迷いで過ちを犯すことがありまーす。いいんです。先生ちゃんと分かってるんです。はいはい。じゃあみんな下を向いて目をつぶれー」とやろうと思ったが、残念ながら学生ではなく社会人になっていたため髪が短く、武田鉄也の真似が出来そうに無い。もっともこんなことやっても無意味である。

 そこで、現実的な解決方法をとった。昔とった杵柄作戦である。時間も丁度休憩時間になり、学科や実技に行っていた部屋のメンバーがほとんど帰ってきていた。僕はN君とT君を連れて部屋の一番前に行き叫んだ。「この場に結集した全ての学生・市民・労働者のみなさんに若干の緊急アピールを提示したい」。何事だとみんなこちらを振り向いた。「えー、実はN君が不注意にも財布を失くしてしまいました。彼は鹿児島の離島の出身で、そこには電話もなく実家に連絡するにも速達で3日はかかるところです。万一海がしけていたら1週間郵便が届かないことはザラにあります。N君はみなさんご存知のとおりマジメ一本やりで、免許もあと少しで仮免です。しかし、彼は貴重な全財産を失くしてしまい、このままでは一度この学校を辞めて、もう一度ゼロから受けなおさないと免許が取れなくなります。もし、そんなことになったらせっかく決まった就職も内定取り消し、あの島で息子の出世だけを生きがいに暮らしているたった一人の母にも心配をかけてしまう。ああどうしようと彼は泣きぬれて僕に相談に来ました。僕はいいました。袖振り合うのも他生の縁、今ここに大勢の仲間がいるじゃないか。その仲間にお願いしよう。大丈夫みんな分かってくれるはずだ」などとあることないこと喚き散らし、一人いくらでもいいからカンパしろとN君、T君に袋を持たせて巡回させた。

 みんな、気持ちよくカンパしてくれた。僕は一瞬、ああ、人間の持つサガは善なり、などと思ったくらいだ。結局、集まったお金はN君が失くしたお金以上に集まった。N君は大喜びで、その日は祝杯をあげに行った。N君とT君と3人で「いやあ、いいやつばっかりで良かったな」と喜びを分かち合っていた時だ。トイレに行ったN君が青い顔して戻ってきた。「どしたん、気分でも悪いんか」と、声をかけると「drac-obさん、オレ大変なことしてしまった」などという。どうした、と再度聞くと、この合宿に来る時に万一お金を失くしたらいけないと思い、万札を数枚ズボンの隠しポケットに入れておいたことを思い出したといい始めた。つまり、カンパしてもらわなくても何とかなったと言い出したのだ。しかし、今更集めたカンパを戻すというのもちょっとなあと僕は考えた。横を見るとT君は酔っ払って既にいびきをかいている。つまり、このことは僕とN君しか知らないわけだ。僕は重々しくこういった。「N,喋るな。沈黙は金なりというではないか。世の中知らないほうが幸せなことがある。これが社会人の常識、大人の常識という奴や」それからしばらく僕はN君に人生とはいかに大変なものか延々話をした。

 その翌日から、僕は1週間ほど毎日夜は飲み食いがタダで出来た。いやあ九州の人間は先輩を立てるという美徳を知っておるな。わはは。そうそう、最後に人間のサガは悪なり。

Let The Good Times Roll (by Cars)

 籠原の駅に着いたのは83年の2月の寒い日だった。その前の年に初めて就職した会社の業務命令で、関東のグループ会社に長期出張を命じられていたのだ。最初は当時本社のあった水戸から始まり、2月には埼玉の営業所(たしか与野市にあった)にいた頃だと思う。この長期出張の最大の楽しみは合宿免許に行けることだった。というのも、その会社の1年先輩で、やはり籠原の合宿免許を取った人がいて、その人から「いいぞ、合宿免許は。費用は会社が出すし、その間の給料もちゃんと出る。それより良いのは、教習所に結構かわいい女の子が来てるから、選り取り見取り、やりたい放題(大変下品な表現であり、当ブログには馴染まない表現であるが、今回はリアリズムを徹底追及するので勘弁して欲しい)。オレなんか卒業する時、花束貰ったし、その時知り合った女の子がわざわざオレの地元の鹿児島まで来て一緒になってくれ、なんて言われて困ったよ」。などと聞かされていたからだ。

 もちろん世の中にそんなに美味しい話などあるわけが無く、合宿の費用は半分会社持ち、残りは給料から毎月天引き(したがって最低でも1年間は会社を辞められない)、とりわけ「選り取り見取り、やりたい放題」のほうは、とんとご縁が無かった。人によっては、それは先ほどの発言者と僕とのルックスの差だ、などと考える人がいるかも知れないが、とんでもない。先ほどの先輩は身長は190センチはあったろうか、顔つきはアンドレ・ザ・ジャイアント、うーん贔屓目に見て野口五郎のデスマスクみたいな人だった。僕は外見は十人前だが、当時良く「さだまさしに似ている」とか「瞳の潤んだところが東大通そっくりだ」とか「あれ、監督、いつ髭そったんですか」などと分かる人には分かる、まあ決してハンサムとはいえないが、人様に嫌われるようなご面相ではなかったことを明確にしておく。

 などと、妙なところで力が入ったが、要は就職した会社が営業会社だったので、当時無免許(正確には自動車学校を第2段階で中退、あ、幼稚園も中退してるからバツ3である)だった僕に、関東の長期出張の間に免許を取らせようということだ。もっとも関東地方には全然土地勘が無かったので、埼玉の営業所の人に場所を教えてもらい、なんとか籠原駅に着いたばかりだったのだ。駅から合宿所というか教習所までは、どうやって行ったのか覚えていない。駅には比較的近かったので、歩いて行ったような気がする。とにかく会社の事務方の人から「2月○日の○時にカゴハラの教習所に行くこと。最短の3週間で必ず免許は取ること。去年までは会社が全額負担していたけど、免許を貰ったらすぐ会社を辞める不届き者がいたので、今年からは社長の決裁と本人の誓約書、支払いの約定書、この3つが揃って初めてOKということになりました。それから毎日電話で会社への報告を怠らないこと。日曜はなるべく営業所に出向き、手伝える仕事があったら手伝うこと、酒は飲まないこと…」、などなどしつこく念を押された。

 指定された時間に、なんとか教習所の事務室についた。周りには4,50人くらいのむさくるしい野郎がたむろしている。こいつらが同期入学ということになるのだろう。当然、知ってる人間なんかいない。みんな「○○しちゃってさぁ」などと標準語をつかう関東者(カントモンと読みますby阿佐田哲也)ばかりだ。生まれは九州、文化は関西エリアで育った人間としてはやや鬱陶しい。2月という時期だけに大学生や就職前の若い連中が多いようだ。僕は会社からそのまま来たのでスーツ姿だったが、ずいぶん浮いていたと思う。その集まった連中の前に事務員が立ちカリキュラムの説明や、実技の時の配車の手続き、学科の際のテキストや教室の説明などが行われた。その後、合宿生の生活について食事や風呂、部屋の配置などの説明があった。僕はみんな合宿すると思っていたが、通学する人も結構いた。結局、30人弱が合宿組でそのまま部屋に案内された。ぞろぞろと廊下を歩いていくと、窓からこちらを見ている視線に気がついた。先に合宿していた連中だ。何となく「あしたのジョー」で少年院のリンチのシーンを思い出した。あまりでかい態度をとってると「ねじりんぼう」などを食わされるのでは、と心配したが、当然これは杞憂であった。

 集団の歩みが止まり、案内していた事務のオバハンが「はい、ここがあんた達の部屋、さっき言われた番号がそれぞれのベッドに書いてあるから、そこに荷物を置いてあとで事務室に必要書類を書いて持ってきてください」と言った。十五、六畳あるだろうか、やたら細長い部屋に二段ベッドが並列で10台ほど並べてある。ベッドとベッドの間は人が一人通るのがやっとだ。出入り口に3,4人座れるスペースがあるくらいで、どうみても「タコ部屋」である。もっともここではシベリア開拓の強制労働のかわりに運転の練習と学科を詰め込まれるのだ。僕は自分の番号を探したが、無かった。おかしいなと思ってもう一度探したが無い。そのことをオバハンにいうと「あら、おかしいわね。まあ、しょうがないからこの後入ってくる組の部屋に行って頂戴。一人で寂しいかもしれないけど、いいよね」みたいなことをいわれ、隣の部屋、まだ生徒が入ってない空っぽの部屋の二段ベッドに一人でひっくり返った。

 この合宿免許で一番嬉しかったのは、こうして空いた時間にベッドで休めることだった。というのも、当時の会社はハードな営業会社で朝8時から夜は11,12時当たり前。時には午前様も珍しくなかった。また月の目標が届かない時は、休日出社当たり前のスパルタ会社だった。僕自身も九州の営業所から関東に行かされたのは、いろんなことを学んで来いという当時の上司の指示があったので、仕事が終わって寮に帰った後も、その日学んだことをノートに整理したり、時には同室の先輩や上司の話相手もしなければならなかったので、毎日睡眠不足で頭が痛かったのだ。「やでうでしや、世の中に寝るほど楽は無かりけり、浮世のバカが起きて働く」と、人生において一番好きな格言を呟きながら、ベッドに横たわっていると人の気配がする。

 目を開けると、一人の男の子が僕の顔を見ていた。「ベッド空いてるよ、さっきの部屋で大丈夫」、などと話しかけてきた。聞いてみると、あの後みんながそれぞれベッドに荷物を置いたところ、ひとつだけ空いてるところがあったらしい。それをわざわざ教えに来てくれたのだ。正直、あの人の多い部屋より、一瞬でも一人で独占できる部屋のほうが良かったが、わざわざ声をかけに来てくれた彼の気持ちが嬉しかったので、素直に荷物を動かした。その間に彼はいきなり「僕、Tといいます。ヨロシク。ちゃきちゃきの江戸っ子で、とびさんやってます」と自己紹介した。最初「とびさん」という言葉が分からず、聞き直したら「とび職」のことだった。余談だが、僕は小さい頃「とび職」というのは全国を飛び回る国家公務員のようなものだと思い込んでいた。今、考えると恥ずかしい話である。

 人が自己紹介したわけだから、こちらも『九州出身だが学生時代関西に住んでいたため、関東のことは分からないのだが、仕事の関係でこちらで免許を取ることになった』、などと話した。あとで知ったことだが、どうして僕に話しかけたかというと、周りはみんなボンボンの学生ばかりで、自分でお金を稼いでるのはネクタイした僕だけだと思い、それでベッドが空いたらすぐに呼びに来たという。「やっぱり、親のすね齧ってるガキと、自分で稼いでる社会人は違うよね、drac-obさん」というのが彼の口癖だった。

 その日から、合宿生活が始まったのだが、なかなか面白い経験だった。今の合宿免許のHPなど見ると、個室完備とかホテルから通えるとか、もちろん費用が異なるのだろうがプライバシーとか生活の質というものが考慮されているようだ。しかし83年当時は、とにかく詰め込むだけ詰め込んで、落ちこぼれるやつはそのまま。飯も風呂も洗濯その他も「生かさぬよう、殺さぬよう」という徳川家康的哲学で貫徹されている、なかなかにサバイバルな状況であった。食事は一応3食出されるが、全て弁当。それも一汁一菜とはこういうことかといわんばかりの内容。まあ、汁物が温かかったことが無かった。もちろん食事に不満が出るといけないので、弁当を食べないものはその旨を申し出れば食券が貰え、学校とタイアップしている食堂で食事が出来た。外食券食堂というやつだ(ウソ、です。外食券食堂なるものは「戦後焼け跡闇市派」の専売特許です)。しかし、その食券は300円分しか価値が無く、当然その金額ではまともなものは食べられない。差額は自己負担というわけだから、好きなものを食べるにも懐が痛む。

 それと合宿所は禁酒。これは分かる。血の気の多い年頃が集まってるので、飲んで喧嘩とかトラブルが発生したら大変だからということだろう。そのためか、その「外食券食堂」は普通の大衆食堂みたいなところだけで、居酒屋とか寿司屋などとはタイアップしてなかった。したがって呑み助は100%自腹でその手の店に行かざるを得ないため、経済的にもちと大変であった。風呂は、銭湯みたいな大浴場があるが毎日きちんと入るのもいれば、「風呂なんか入らなくても死にゃせん」などと豪語して、週末しか入らないやつもいた(あ、オレだ)。そのほか洗濯機も共同であったし、まあ、昔の大学寮みたいなものだった。あ、大学寮みたいにアジりに来る人はいなかったけど。

 とびのT君とは段々親しくなって、学科の時も一緒に机を並べて授業を受けたし(実技は1日2時間という制約があったが、学科はないので、最初のうちは1日4時間とか5時間、学科の授業を受けていた。まるで小学校である)、ドライブトレーニングセンターとかいったと思うが、ゲーセンのドライブゲームみたいなマシンが置いてあるところがあり、前の映像を見てギヤチェンジしたりクラッチ操作したり、ハンドルやウィンカーを操作するところにも良く行った。もっともこれはいくら上手く操作しても、ゲームが延長されたり、ハイスコアに名前が残せるようなことはなかったので、直に飽きたが。

 合宿始まって1週間位してからだったか、あるときT君がまじめな顔してこういった。「drac-obさん、お願いあるんだけど」「なんや、難しい顔して」「誰にも言わないと約束してくれるか」「ええけど、なんや、いうてみ」「おれっち漢字読めねえんだ。おれっちの教科書に読み仮名書いてくれないか」「漢字が読めない?」「大きな声で言うな、いや言わないでくださいよ。おれっち子供の頃からとびさんになるって決めてたから、勉強しなかったのと、中学の時シンナーやりすぎてバカになっちまったんだ。あ、もうシンナーはしない。あれは脳みそも溶けるし歯も溶けるから。とびさん高いところに登るのが仕事だから、シンナーなんかやってたら死んでしまうよ」

 僕は漢字が読めないという人に初めて出会ったのだ。そういえば学科の授業の時、なにかトンチンカンなことをやってるなと思ったことがあったが、まさか漢字が読めないとは。しかし、これは決して特殊なことではないようで、学科の教官も漢字の読めない人用の問題集やテキストはあるし、実際の試験も漢字の読めない人用のものがあると再三説明していた。僕は、漢字の読めない人用のコースでいいんじゃないかと言ったら、彼は「そんなこと言ったら、周りの学生に馬鹿にされる。せっかく仕事を休んで合宿に来てるから、その間に免許に関係する漢字はおれっち覚えて帰るって大将に約束したんだ」と、にっこり答えた。僕は教科書に全部フリガナを書いてやった。それからのT君は本当に一生懸命だった。書くほうは卒業するまで怪しかったが、少なくとも読むことはほとんど問題ないくらいになった。もっとも夜遅くまで一生懸命ぶつぶつ言って勉強していた。あるとき学生グループの中でもちょっとヤンキー系の男がうるさくて眠れないと文句を言った。

 T君は自他共に認める元不良だったので、こりゃまずい血の雨が降ると思い仲裁に入ろうとしたら、予想外に「ごめんな、おれっち頭が悪いから読みながらでないと覚えられねえんだ。勘弁してくれ」と、素直に謝り事なきを得た。翌日、良く我慢したなと褒めたら、にっこり笑って「いいんだ、漢字覚えるまでは我慢する。でも免許取ったらアイツは一番最初にぶっ飛ばす」

 ここまで書いてきて、我ながらいや良く覚えてると感心したが、実はこのエントリーを書き出すまでT君のことは漢字が読めないとびさんだったな、としか覚えていなかったのだ。キーボードを打っているうちに段々いろんなことが甦ってきて、あ、あの話をかかなくちゃとか、そうだ、こんなことがあったと次々に出てくるのだ。しかしもうすぐ午前2時になりそうだ。とりあえず合宿物語第一部はこれにて終了。気が向いたら続編ありね。

仮題 「孤独の旅路」その2

チャペル延岡の看板 これに気がつかず何度も行ったり来たりした

 というわけで、一晩過ぎたが状況は変化していない。今日は珍しく早く帰ったのだが、上の子の進路説明会に行ってきた配偶者が待ち構えていて、愚痴を言い始めた。やれ、もう学校も二極化が進み、しっかり勉強する子はどんどん伸びていき、やらない子はどんどん落ちこぼれていく。学校もやる気が無い子の面倒は見ない、進学意欲があってマジメに勉強する子しか相手をしないといわれたらしい。そんな純粋培養ばかりやっていても碌な人間は出来ないと思うし、たかが田舎の進学校が何カッコつけてるんだとも思ったが、そんなことをいうとテキが逆切れするので、まあまあと軽くダッキングしておいた。上の子は配偶者に叱られて、ヘソをまげて部屋から出てこないようだ。

 しょうがないので、下の子の部屋に入ると通知表が置いてあった。学校2学期制なので、今時分に通知表を貰うのだ。開けて見ようとすると「何で人のものを、勝手に見ると」と下の子が叫んだ。思わず、ゴメンといいかけて、なんで親のオレが子供の通知表見るのに謝らないといけないのだと気がつき、一喝したらこちらも不貞腐れた。中身を見ると「無残」というしかないが、まあ、明るく元気に育っているので良しとしよう(こんなことをいうと、必ず配偶者から「甘い」とか言われるのだが、この先行き不透明な時代に学校の成績ばかり気にしてもしょうがないだろう)。

 まあ、そういうわけで本日の夕方7時以降の我が家は大変暗い重い雰囲気が漂っていた。こういう雰囲気は僕は全くダメなので、久しぶりに「クイズへキサゴン」でもみて、おバカ解答を笑おうと思っていたら、下の子から「おとうは、そういう人の失敗を見て笑うところがあるからいかん。だからお金も貯まらんちゃが」と『何でお前からそういう本質的な指摘をされなければいけないのだ』と思わずゲシュタルト崩壊を起こしそうなことをいわれるし、クイズの問題を考えていた配偶者に「ああ、それは○○やろ」と答えを教えたら、「あなたはそうやって人を見下すところがあるからダメ」などと言われ、じゃオレは一体どうすればいいんだと一人シャワーを浴びてたそがれるのであった。

 シャワーを浴びて出てきたら、テレビのチャンネルが変わっていた。もっとも宮崎は民放2局という、この時代のメディア戦略に徹底抗戦している貴重な県なので、宮崎で一般的に使われる「反対のチャンネル」に変わっていただけなのだが。こちらはこちらで、やけに色の黒いオールバックの男とかわいい顔で妊婦の女性と二人で「命がどうした」とか「奇跡」とか言っていた。この手のお涙頂戴物は苦手で、というか、何が悲しゅうてたかがテレビ風情に生命の大事さや、生きることの尊さなるものを語られねばならないのか、良く分からん。いや、ドラマとして、そのテーマとして扱うのならまだ分かるのだが、いわゆるバラエティ番組とか特番なんかで、その辺に散らばってるちょっとした話をさも得意げに話すキャスターや、そんなところに呼ばれてしゃあしゃと自説を唱える御用学者も不愉快なのだ。一体いつからテレビやメディアは百科全書派というか啓蒙したがるようになったのか。いや、普段滅多にテレビなど見ないのでたまに見るとこの調子である。何とかならんのか、この性格は。

 まあ、そういうことがあって本当はもっと早くエントリーを書き上げるつもりだったのだが、昨日の中途ハンパなエントリーに対してもいろんな米をいただいたので、その返事を書いたりしていると、あっという間に午前零時を回ってしまった。昨日、じゃないか、正確にいうと一昨日の話の続きを書かねばならん。

 そうそう、国道10号線をひたすら走り、途中でコンビニでトイレ休憩かつ飲み物補給をしながら荒木一郎の歌とともに走った。日向市に入り、美々津というかって、神武天皇が船出をしたという伝説の土地を走っていたときだ。左手にずっと続いていた山の緑色が一瞬にして真茶色(「まっちゃいろ」と読んで下さい)に変わった。「ん、なんだ」と見ると山の一角が完全に崩れている。そのすぐ先にあるドライブインもあちこちに板が打ち付けられて補強されている。今年の台風で山が崩れ、ドライブインが埋まってしまったのだ。宮崎から走ってくると丁度、日向市の街中に入る前の地域なので、僕も何度か昼ごはんを食べたことがあるし、最初の会社の営業マンだった頃は、食事を10分くらいでかきこみ、残りの時間は座布団を枕にして昼寝したこともある、のんびりした座敷のあるドライブインだった。それが無残な姿になっていた。台風が過ぎてもう1ヵ月半は過ぎるのに、そのままになっているというのは、財政的に再建が難しいのだろうか。

 そのような災害状況を見ると、本当に自然に対しては無力だということを感じる。いくらいい大学行っても台風には勝てんぞ、などとやや乱暴なことを考えるわけはないな。進学の話は今日だった。

 時間は1時を過ぎていたので、県北にきたらここのうどんを食べねば、と勝手に決めてる「天領うどん」に入る。天麩羅うどんとおにぎり2個の鉄板オーダーである。県北で天麩羅うどんを頼むとちゃんと海老天が載ってやってくる。これが宮崎市だと魚肉のすり身を油であげた、いわゆるさつま揚げや飫肥天に近いものが載ってくる。かの文豪川端康成氏を悩ませた問題点である。相変わらず、客も多いし味も量も変わらない。やや細めのうどんだが嫌になるほど丼に入っているので、おにぎりと一緒に食べると満腹になる。そこから、目的地の親戚の家まではすぐだ。1時半過ぎには着いた。そこでちょっと休憩したが、Tasaki。さんとの約束は2時だったので、慌てて飛び出した。

 地図をコピーして持ってはいたのだが、それらしき場所に来ても分からない。相手は教会なのですぐ分かるつもりでいたが、どうもそれらしき建物が見当たらない。仕方がないのでタバコ屋のオバチャンに聞いたが、これがまた心もとない返事で「うん、たしかにこの近くに教会があると聞いたことはあったけど、私も正確な場所は知らんとよね。ええと、たしかね、あの先の布団屋さんの看板を右に曲がると道が左に抜けるから、その先の左手にあるとちがうかね」。信じて走っていくと宗教施設に着いたが、そこはどう見てもお寺である。庭を掃いてる人がいたが、何となく商売敵に聞いてはイカンと思い、自力捜索を続ける。こういうところが僕の性格の悪いところで、妙な気の回し方をしてしまうのだ。

 何度か同じ道をうろうろしたが分からず、この際だ、直接電話で聞いてみようと思い、車を停めたらそこに案内板があった。なんと、事務所(会社?)の2階に、Tasaki。さんの教会はあった。階段を上がっていくと、流石は開かれた教会である。玄関が開いたままだった。声をかけるとすぐ返事があり、ご本人が登場した。先月のライブで会って以来だが、ずいぶん久しぶりな気がした。上げていただき、奥様にもご挨拶した。奥のほうに礼拝堂というのか、じゅうたんを引いた場所があり、その奥にセミアコのギターが椅子に乗せてあった。あのギターを弾きながら神を語るのだろうか。

 えーと、この後のTasaki。さんとの会話は、ブログに書いていいと許可はいただいたのだが、かなり専門的な、特殊な会話になるので端折ることにした。加川良つながりの二人だが、実は異議申し立て世代つながりでもあるのだ。それも時代に遅れた世代の悲しさを十二分に体験した世代だ。ちなみに1時間ほどの雑談の中で出てきたキーワードを書いておく。「党中央」「全学闘争委員会」「京大パルチ」「ブント」「デモ」「内ゲバ」「反米愛国」などなど。あ、お断りしておくが、今現在Tasaki。さんは立派な牧師さん、僕も一応は社会人というか、僕も墨子さんである(なんのこっちゃ)。「あの時代」の話をしながら、お互いここまできたら身体をいたわって無理せずやっていこうという悲しい結論に達した。しかし、雀百まで踊り忘れずという言葉もあるし、馬鹿は死ななきゃ直らないとも言うしな、ってこれは独り言でした。

 帰り道はのんびり車を転がしながら、あちこちより道しながら帰った、そうそう、去年ビートルズのブートレッグを格安でゲットした本○フルには、もちろん寄ってみた。今回は入り口の本棚に100円均一のコーナーがあり、そこで未読だったと学会の95年版と宝島社のVOW3を買った。CDはこれというのは無かったが宇崎竜道の竜道組を買った。それと恒例の太○洋ドライブインで焼きちくわを買おうとしたが、売り切れであった。残念。日奈久のちくわも美味しいがここの焼きちくわも美味しいのだ。ついでに子供達にお土産を買おうと店に入ったら、アニメ化されたヒガシコクバル君が「まこちうめっちゃが」と書いてあったかりんとうとオサツチップというのを買ったが、娘達には「ゲロマズ」といわれてしまった。しかし、かりんとう一袋300円は高いぞ。いくらバルちゃんの顔が載ってるからといって、そういうことでは宮崎のイメージダウンになるぞ。

仮題 「孤独の旅路」

 昨日は夜11時には寝てしまった。疲れていたのだ。いや、チャットではない。そっちのほうは、素敵なおねーさん方約3名から「ヘタレ」「根性なし」「言い訳男」「ソーロー」などの愛情あふれる罵詈雑言を受けながらも、午前2時には退出したのだ(もっとも、今までの生活から考えると、それでも十分遅いのだが)。僕の計画では午前2時に寝て9時に起床し、10時に実家の母を車に乗せて一路延岡へ、という予定だった。予定はそうだったのだ。しかし、やはり朝9時に起きるのがつらく、そのまま寝ていたら、配偶者から「いつまで寝てるの、お母さんを延岡に連れて行く約束じゃないの」などときつく言われた。『わかっとるわい、ボケェ』などとそこで反論すると、またテキの機嫌が悪くなるので「艱難汝を珠にす」という、生まれてこのかた使い続けている熟語を呟きながら起床した。

 前日にTasaki。さんのHPに『もしかしたらお邪魔するかもしれません』と書き込んでいたので、チェックしてみると『OK』的なことが書いてあり、その言葉に甘えて電話して午後2時くらいに伺う約束をした。このTasaki。さんとは加川良つながりなのだが、本当に偶然の出会いだった。去年、加川良が初めて宮崎でライブをやることになり、その喜びをどこかで表現したくて、ネットでウロウロしていたら偶然Yahoo!のSNSで加川良のコミュを見つけた。そこの管理人がTasaki。さんだったのだ。この広いネットの世界で、加川良が好きな人も沢山いるのに、なんと宮崎県は延岡在住のTasaki。さんと知り合えたのは本当に奇跡的だと思う。ちなみに彼のHNには「。」がついているが、これも加川良のせいである。

 予定より1時間ほど遅れて、実家に着き、母を乗せて車を走らせた。自分の車だとドライブ用のCDは30枚ほど常時置いているのだが、今回は長距離なので、普段は配偶者が使っている車のため、わざわざCDをセレクトしなければならない。また同乗しているのは昭和一桁の人間なので曲も気をつけないといけない。最初はたまたまかけていた「ROCK IS LOFT(赤盤)」で、矢野顕子の「丘をこえて」などが流れていたので機嫌はよかったがもう1枚のCDに移りリザードとフリクションが続けて鳴ったら「うるさいから他のにしてくれ」といわれた。昭和一桁に東京ロッカーズはちときつかったようだ。仕方がないので、荒木一郎のベストなどをかけながらひたすら走った。

 宮崎の道路事情は大変不便なもので、鹿児島方面や熊本方面に向うには高速道路や県道、市道などいろんなルートはあるのだが、こと県北に向うルートは国道10号線しかない。余談だが大学の同級生で栄光ある同志社大学レコード音楽研究会の幹事長を務めた豊田勇造に良く似た男から「宮崎には国道あるんか」という屈辱的な質問を受けて、「ふざけるな、10号線、219号線、269号線えーと、あとは…」などと答えたら、宮崎みたいな九州の外れでも10号線という数の少ない国道が走っていることを知って、ビックリしていた。彼は兵庫県出身といえば聞こえはいいが加西市というえらいなド田舎の出身だった。余談終わり。

 ここまで書いてきたが眠くてダメだ。続きは明日書くので、今日はここまでね。それではおやすみなさい。

マッドマンアクロスザウォーター(by エルトン・ジョン)

西都原考古博物館 階段がひたすら長い

 「おとう、また子供の夢を破ると?昨日、何て言った」。枕元で下の子の声がする。週末恒例のチャットをやって、ようやくうとうとしたと思ったらこれである。実は昨日の夜、下の子が『我が家は秋休みだというのにどこにも連れて行ってもらえないのか』、という問題提起を行ってきたので、『学校2学期制こそが諸悪の根源であり、教える先生も労働強化で疲れ果て(そうだよねguevara129さん)、教わる生徒も大変だ、だからお国がガス抜きとして与える秋休みに、ホイホイ出かけるのは敵の戦術に乗る愚か者だ』、ということを説明したのだが、我が家のバカ娘は理解できず、しつこくどこかに連れて行けというので希望を聞いたのだ。流石に我が家で生まれ育ったおかげで、東京ディズニーランドとかUSJなどとは言ってこない。もっともそんなことを言うたびに父親から、『あれはアメリカ帝国主義の罠だ、あんなところに行くとアメリカ帝国主義に洗脳される。大体ネズミがスーツ着て人様と握手するなんていうのは悪い薬をやってるとしか思えない』とか『お前、大阪と言ったらメリケン粉しか食べないところだぞ。いや、他にも鉄しか食べないアパッチ族のいたところだ。クワバラクワバラ』などと煙に巻かれるので(実際のところ、中学生になるとある程度我が家がビンボーなことを理解できるようだ)、ハナから期待していない。

 そのような不毛な論議を何度もやってきたので、彼女なりに中道現実主義で県内の近場で楽しいところに連れて行けといってきたわけだ。僕は半分以上は上の空で聞いてるので「そうだな、酒仙の杜でブルーベリーを取って食べるか、野尻コピアでガマを見るか、お、意外なところで子供の国でラクダに乗るか」などと適当にあしらっていたら、どういうわけか西都市の西都原考古学博物館に連れて行けと言い出した。何年か前に家族で行ったが、結構歴史の勉強にもなるし、西都原のコスモスももしかしたら見れるかも知れないと思い、「ハイハイ」と返事をしていたのだ。余談だが「ハイハイ」などという返事に誠意がこもっている訳は無く、可及的速やかにその話題から避けるときに使う返事であることは懸命なる諸君にはお分かりだろう。したがって博物館でどんなイベントをやっているかなど調べもせずに翌日を迎えてしまったのだ。

 朦朧としながら起き出して、コーヒーを飲みようやく目が覚めた。子供二人は私服に着替えて、はや臨戦態勢である。こういうときにドライバーパート2及び、方向音痴のナビゲータ役をする配偶者が元気が無い。体長が悪いので行かないという。しかし、僕は本心を知っている。今回のドライブには実家の母も連れて行くことにしたのだが、ヨメシュートの折り合いが最近良くないのだ。とかく女同士のいさかいは難しい。こういう時はドンタッチミーの精神で、何事もなかったようにスルーするのが大人の態度だと決めつけ、子供だけ連れて実家に向った。以前は宮崎~西都間は車で小一時間はかかったが、今はバイパスも出来て30分もかからない。何年か前に天皇出席の植樹祭とかいうのがあり、そのときに道路が整備され、確か今日行く予定の西都原考古学博物館もその時出来たのではなかったか。まあ、このあたりの記憶は曖昧だが。

 小雨がぱらつく中、西都原の古墳群に着きちょっと走ると目的の県立西都原考古学博物館が見えてきた。幸い駐車場も空いている。階段を登り、入り口にたどり着くと立派な御影石の建物だ。外見は小さいのだが、ここは地下に展示場があるので、入ってみると意外に広い。東京ドーム3個分の広さだと聞いた(ウソ、ウソですよ)。エントランスに入るとポスターがあり、日韓交流記念の展示をやっていると書いてあった。早速見てみると指輪や首輪じゃねーや、ネックレスというのか、それから数珠だとか、所謂装身具が飾ってあった。また韓国の独特の色彩感覚の財布や小物入れなども置いてある。僕が欲しいなと思ったのは金属の箸とスプーンがセットになった奴だが、1050円などというふざけた金額が書いてある。こんなもん、向こうの100均に行けば、1000ウォン位で買える筈だ、などと5年ほど前に一度韓国に行った経験をさりげなくアピールしておく。そうなのだ。ソウルは明洞の世宗ホテルに泊まった、接客ツアーだったが大変面白い経験をした。いずれエントリーにアップする(などと気安くこんなことを書く悪い癖のおかげで、書かねばならぬエントリーが溜まっていくのだ)。

 入り口でパンフレットを手渡され、館内に入る。以前も書いたかもしれないが、ここの展示場は地下1階にあるので、どんどん歩いて下に降りていく。その先に赤いドアみたなものがあり、上から見るとタイムトンネルに入っていくような感じである。横でダグとトニーが何か話しながら歩いているような気がする、などと書いたが「タイムトンネル」なんて知らない人が多いのだろうな。途中、下の子が呼び止めるので、振り向くと小さな部屋がある。床はガラス張りなので、暗いせいか下に落ちていきそうな錯覚に陥る。入ってみると頭の上のほうに岩の形をしたフィギュアと左右の壁にもごつごつした岩肌が見える。説明の文字を読んで見ると、竪穴式住居を模倣したものらしい。途中で壁に太陽の光が一瞬入ってきたかと思うと、すぐ真っ暗になる。自分達の身を守るためとはいえ、こんなくらいところで暮らしていたら、太陽の光がありがたくなり、そこから自然に神という、絶対的なものの存在を信じたくなるのではないか、などと原始宗教の派生に思いを寄せた(ちょっと、アカデミックじゃね?)。
地下の展示室へ向う通路 タイムトンネルそっくり

 久しぶりに展示してあるものを見ていったが、さまざまな展示物や資料、それらを補足するフィルムやPC。いや、維持経費が大変だろう。職員も結構気さくというか、見学する人が立ち止まっていると、色々説明をしてくれる。県知事が変わってこういうところにも波及効果がでてきたのか、と感心したが奥の一角にあった韓国の装身具の展示場では、昔ながらのザ・コウムインを見てしまった。いや、ほとんど間接照明というか、暗闇度75%の世界にいろんな展示物が飾ってあるのだが、そのコーナーに入ったときに何か気配を感じた。ん、と思って気配のほうを見たら、黒い服を着た女子職員が椅子に座って会釈していた。最初は見物客が疲れて座っているのだと思ったが、そこを出ようとしたときにまた頭を下げたから、スタッフに間違いないだろう。しかし、一言も発せず、暗闇の中に座り、ただ会釈するだけというのは、どういうつもりなんだろう。

 今回、見学していた時にちょっと不思議な経験をした。丁度、手すりに両手を置いて、展示物を見ていたら、小学3年生くらいの男の子が横に来て、いきなり「このパンフレットのバーコードでPCの画面が変わるよ」と言ってきたのだ。ちょっと驚いてその子を見たが、全然見たことの無い子である。誰かと間違えた(たとえば父親)のかと思って、「ああそう」と生返事したが、別段気にするようなそぶりも見せず、しばらく僕のそばをウロウロしていたが、いつの間にかどこかに行ってしまった。もしかしたら、僕が外で生ませた子供ではないかと考えたが、思い当たることは微塵もないので、いや、ホント。結局、あの子はナンだったのかと思いつつ、教わったとおり館内に備え付けのPCにバーコードを差し込むと会員登録画面が出てきた。なんと、ここで登録しておくと、家に帰ってもブックマークした内容が自宅でも見られるし、気になることを書き込むと博物館の人が返信してくれることもあるらしい。いいサービスだと思い、早速登録した。

 一通り、館内を見学したらお腹が減ってきた。良く考えたらお昼は食べてないのだ。子供二人は元気だが、母も疲れたというのでいったん博物館を出た。すぐ近くに「このはな館」という地元西都市の物産を扱っているところがあり、確かレストランもあったはずだと思い、そちらに向った。その途中コスモス畑をみたが、まだまだ青いままで来月にならないと花は見れなそうだった。しかし、その代わりにサクラの花がちらほら咲いていた。狂い咲きである。狂い咲きサンダーロードである。バーストシティは廉価版でDVDになったが、サンダーロードは石井監督の全集を買わないと見れない。見たいのだが、見られない。ツ○ヤに入らないものか、などと話がそれた。

 「このはな館」に行くと東国原知事が両手を開いて出迎えてくれた。流石に腰が低い。僕も見習いたいものだ。「これからも観光宮崎をヨロシクお願いします」と言って頭を下げたら、子供たちから怪訝そうな顔をされた。相手がポスターだったからだ。そこのレストランで僕はカツカレーを食べ、下の子はかき揚げうどんセットを食べた。お米は白米でなく雑穀だがとても美味しかった。下の子も美味しい美味しいといって食べていた。しかし食べたのが3時過ぎだったので、家に帰って夕飯がお腹に入らずちょっと困った。

 そうそう、博物館を出るときにガシャポンの機械があるのに気がついた。何のガシャポンだろうと思ってみたら、流石は考古博物館である。埴輪や銅鐸、銅矛の写真がついている。こんなん、買うやつおらんやろーと大木こだま・ひびきの真似をしていったら、200円出してがちゃがちゃやってるのがいる。どこのバカだと思ってみたら、うちの下の子であった。出てきたのは埴輪と銅鐸だったが、本人曰く馬の埴輪が欲しかったらしい。次に来た時は絶対ゲットするといきまいていた。ところで、コインを入れてレバーをまわして景品を取る例の機械だが、僕はガシャポンと思っていたが、下の子に言わせると「ガチャガチャさせてポンと出てくるからガチャポン」だと言い張る。どちらが正しいのか、ま、どうでもいいのだが。

 ところで、書こう書こうとしてそのままになっていた「DRAC興亡史 75年以降」だが、最近同学年で部外団体連合のサークルに所属していたPurple_Hazeさんと知り合うことが出来た。きっかけは「鳥肌音楽」のこのエントリーである。しかし、もっと大本を考えるとV6の京都グルメ番組を僕もsugarmountain君も見たことが原因なのだ。V6侮れんな、というのが本日の結論である。以上、これからまたちょびっとだけチャットして、明日は長距離ドライブのこころだー。
E.T.? いえいえガシャポンの景品です(手は下の子)


クェスチョンオブバランス (byムーディ・ブルース)

本日の献立 しかしトーフとギョーザは一緒に食えんぞ

 今日も夕方、上の子供からメールが届いた。内容は「九州しょうゆ味のポテチ買ってきてちょ」と書いてある。毎週木曜日は配偶者の仕事が遅い日で、しかも僕の仕事も大抵遅くなるのでマッ○ス・バリューで、惣菜や弁当を買って帰ることが恒例になっているのだ。当然、母親にオヤツを頼んでも拒否されるが、父親は甘いので買ってくるということをオンナコドモは良く知っているのだ。まあ、ポテチくらいならいいか(こういう考え方が子供に甘いと毎回配偶者に指摘されるところだ。しかし、子供は可愛いから仕方がないだろうというと、更に配偶者の機嫌が悪くなるのは何故だろう)、と考えてマッ○ス・バリューで20%オフのパック寿司と一緒にポテチを買った。そうそう、狸さんのコメントを思い出してちゃんとポテトサラダも買った。

 家に帰るとホワイトボードに今日のおかずが書いてあり、その中に「グラタン(父の分を取っておく)」と書いてあり驚いた。グラタンはみんなの好物なので、大抵僕の分まで食べられてしまい、流し台のシンクにその食べかすがへばりついた皿を見つけ、僕が激怒するというのがまいどまいどのパターンなのだ。それなのに今日は取ってある。ありがたや、ありがたやと早速チンしてフォークを突き刺すと、すぐに皿の底に当たった。「あれ」と思いながら、もう一度皿の中心部に向けてフォークを突き刺すがやはり「チン」という硬い音がして皿の底に当たる。微妙な顔をして食べていたら、下の子が出てきて、「おとう、グラタンすくねーやろ。本当は2人分のところをおかあが無理やり3人分にしたから、私の分も少なかった」などとバクロした。

 今日は家族愛について書いて、日ごろボロカスに書いている配偶者に感謝のエントリーにするつもりだったが、この子供の話を聞いてヤメタ。昨日に続いて食事時に怒り狂った僕は、パック寿司を食べ、トーフを食べ、鍋に残っていた吸い物を食べ、ポテトサラダを食べ、勢い余ってシーチキンサラダも食べてようやく気が静まった。そういえば孔子も「衣食足りて礼節を知る」と言っているが、我が家の場合「食足らざればそれすなわち怒なり」とでもいうべきだろうか。連日のメシネタでした。

「食べ物には名前を書け」日記

下のバカ娘の殴り書き 自分のBDだけはアピールしている
 はっと気がつくと、もう10月も3日過ぎている。ブログの更新も止まったままだ。いや書くことは沢山あるのだが、連日の残暑(信じられますか、未だに日中は30度を越える日があるんです)で疲れが取れず、人様のブログなどをぼんやり眺めているうちに瞼がゲッティングクローサー(by Wings)になってしまうのだ。とりあえず今月に入ってからの出来事を駆け足で書いてみる。

 昨日の夜、仕事が一段落ついてぼちぼち帰るかと思っていたら上の子からメールが届いた。文面は『晩ご飯はマッ○スバリューで買って来て。あと××(妹の名前)にリングノートを買って来て。』という、命令文が並んでいた。この前イ○ンのクレジットカードを作ったから、食料品はそれで買えることを家族全員が知っており、何かあれば必ずマッ○スバリューで食べ物を買ってきてと頼まれる。多分、配偶者が仕事でいないので、僕の晩ご飯の分だけ買えばいいのだろうと思い、それでも念のために家に電話した。「もしもし○○です」と上のバカ娘がよそ行きの声で出やがる。「もしもしお父さん」と言った瞬間「何?」と一気に声のトーンが下がる。我が家の夕飯の残り状況を聞き、これは弁当を買って帰らないと飢餓海峡だと判断する。

 そういえば、リングノートをいうのが良く分からず、娘に聞いたがリングの付いてるノートとそのまんまの返事が来た。どんなのがいいのか聞いても色は青がいいとかいうだけで要領を得ない。「学用品など自分で昼間買っておくものだ」と説教したが逆ギレしおった。あまりいうとデスノートに名前をかかれそうなので、適当に返事してマッ○スバリューに向った。宮崎名物チキン南蛮弁当(福山黒酢使用)を買い、30%オフになっていた、マカロニサラダを買い、しばし考えた挙句サッポロ一番の塩ラーメンカップ入りを購入した。あとは頼まれたノートを買い、子供のオヤツ用に58円のパピコを買う。このあたりプーの頃にハウスハズバンドをやっていたときの癖がまだ残っている。つまりいかに小額の投資で最大の効果を得るかというやつだ。

 お腹を空かせて家に帰ったら、意外にもご飯もおかずもあった。別にマッ○スバリューでわざわざ買ってくるほどのことはなかったが、僕の好きなオカズが無かったので適当に買ってきたらということだったらしい。家族に言わせると僕は食事の時に好きなものがないと機嫌が悪いらしい。そんなことは無い。子供じゃないんだ。とにかくお腹が減っていたので一気に弁当を食べた。全部食べたが、なんだか物足りない。買ってきたサッポロ一番を食べるかどうか迷ったが、そうだ、冷凍物のピザを買っていたはずだと思い、冷凍庫を開けた。ナイ。確か3食分くらいが箱に入っているやつで、この前買ったばかりだから、無いはずが無い。誰かが食べたにしてもせめて1枚はあるはずだと思って探すが、無い。子供達に聞くと、母親と3人で一人1枚ずつ夕方食べたと言う。母親は「お父さんに怒られるね」と言いながら食べたらしい。確信犯である。

 僕は怒った。何故このような仕打ちを受けねばならぬ。しかし、怒ったところでピザは戻ってこない。子供をたかが食い物のことで叱るのも大人気ない。しかし、怒りは収まらない。ええい、ままよ、とサッポロ一番のカップを開けるのであった。上のバカ娘が一言「徳川家康になるよ」。知ったことか。狸腹になったとしたらお前らの責任だ、と心の中で叫びながらひたすらカップ麺を食べるのであった。しかしたまに食うサッポロ一番の塩ラーメンはウマイ。味噌もいいのだが、ちょっとくどく感じる時がある。そういえば、この前チキンラーメンの5袋入りを買って、オヤツ代わりにバリバリ食べた。下の子もその食べ方が好きで一緒に食べていた時に、「これは本当は丼に入れて、お湯をかけ、蓋をして、それから食べるのが正しい味わい方だ」と教えたのだが、そのとおりに実行した後に「ゲロマズ、おとうの言うことは当てにならん」と一言。やはりチキンラーメンはオンナコドモにはわからないようだ。

 カップ麺を食べたら流石にお腹がきつくなり、ぼんやりあたりを眺めていたら、我が家の壁新聞というか、伝言板というか、例のホワイトボードになにやら書いてある。ゲゲッ、下の子の誕生日がもうすぐだ。そういえば配偶者も10月だった。とりあえず無かった事にしておこう。冷凍ピザの恨みは深いのだ。

 一夜明けて、冷凍ピザの恨みも塩ラーメンの苦しさもすっかり忘れて、いつものように車で移動していた。夕方、ナニゲニ車のラジオをつけたら、「…ということで昔のレコードは片面に2曲ずつ入っていたというお便りいただきました」などと女のDJが喋っていた。「つまりA面に2曲、B面に2曲ずつ入っていたのですね。それでお値段は500円、うーんお安かったのですね」え?ちょっと待って。それはコンパクト盤とか17センチLPとかいう奴ではないか。昔というのがいつごろかは分からないが、僕がレコードを買い始めた頃はシングル400円、コンパクト盤600円だったから、それより前であることは間違いないだろう。しかしこのDJなにやら勘違いして「昔」のシングルレコードは全て4曲入りだったと思い込んだみたいだ。けっ、ボケナスが、歳はなんぼやと心の中で毒づいていたら、こういわれた。「いやあ、初めて買ったレコードって思い入れありますよね。ちなみに私が初めて買ったレコードのお値段は確か700円でした」。700円か、うーん、400円の時代のオジサンよりは遥かにワカイな。しょうがないか。「それでは○○さん(コンパクト盤500円時代のお方)が初めて買ったレコードからリクエスト頂きました、『アカシアの雨にうたれて』です。」

 ♪アカシア~の雨―にうたれて、このまま死んでしまいたい~この歌は60年安保にザセツした、いやいやこんなことを書くから必要以上に年寄り扱いされるのだ。やめっ。ところでふと浮かんだ疑問だが、先ほどの4曲入りのレコードのことをコンパクト盤と呼んでいたのは間違いないのだが、それって、英訳するとコンパクトディスク?CD?なんか変な気持ちになった一日でした。

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