屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群れ(byデビッド・ボウイ)

 「おとうさん、おとうさん!」と、風呂に入ったはずの上の娘が何かただ事ならぬ声で僕を呼んだ。「何」と言葉だけ返して、返事を待ったが「お父さん、お父さん」と、また引きつったような声がする。「なんだ」と今度は半身だけ乗り出し、それでもPCのデスクの前から離れないでいると、「ク、クモ。この前の大きなクモがお風呂にいる」と大絶叫が。実は1週間ほど前だか、配偶者がエアコンの掃除をしていたら、そのエアコンの後ろから10センチくらいの足の長いクモが出て、我が家のオンナコドモは一大事だったらしい。声だけはみんな威勢がいいが、誰一人触れる人間はいないので、殺虫剤をふったり新聞紙を丸めたもので追い出そうとしたらしいが、途中で見失ったらしい。

 その日帰ると、団結したオンナコドモ連が「クモを見つけて殺せ」と非情な指示を出したが、基本的に僕はクモとの共存を望むタイプなので無視し続けた。このクモとの共存の根拠のひとつが10年以上前のNHK「みんなのうた」で岡林信康が「クモは友達」とか、何とかいう歌を歌っていたからである。はっきりと覚えていないが「見掛けだけで嫌われるが本当は僕は臆病者なんだ。だから見かけてもいじめないで」みたいな歌詞で、それを歌っている岡林の声がずいぶん優しそうだったので印象的だった。もっともCDを買おうとまでは思わなかったので、ライト級の心に残る歌だったのだろう。

 もうひとつクモと出来れば平和共存したいのは、ご存知カンダタの話が原因である。「ある日のことでございます」という上品な書き出しで始まる、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を始めて読んだのはいつごろだったのか。読みやすく短い話なので、小学校高学年の時に図書室で読んだような記憶がある。まあ残虐無比、冷酷非情、傲岸無知、その他非人間的な悪党だったカンダタもたった一度クモを助けたことで、地獄から脱出できるチャンスを与えられたのだから、日ごろからクモを助けてやっておけば万一僕が地獄に落ちた時は、タイトロープ(byレオン・ラッセル)のようなクモの糸が天上から落ちてくるはずだ、と子供心に考えたのだろう。しかし、今考えてみると、どうも芥川ブンガクを正しく理解していたとは思えない。

 もちろん、ゴキブリや蚊はすぐに殺す。特にゴキの野郎は見つけ次第、総殲滅を合言葉にしている。そのほかにはハエもそうだけど、最近ハエって見かけないな。これも地球温暖化か、それともラニーニャが原因なんだろうか(あきらかに、この手の話をおちょくってます。余談だが僕はラニーニャと聞くと、脳内変換が「手品ーにゃ」としてしまい、子供のマジシャンを連想してしまう)。それはさておき、絶叫する姉を心配して妹も出てきて「だから父に前言ったでしょう。あの時にちゃんと殺してないからこんなことになるんだが」などと、父親に説教垂れる始末だ。僕がお風呂を覗き込むと、いました。浴槽の中に手足を伸ばした、いや八本の足を伸ばしてお湯の上に浮いてるように見える、体長15,6センチくらいのクモが。

 とりあえずバケツで掬って出そうと思い、傍にあったバケツでお湯を掬うと、いやビックリ。いきなり手足を伸ばして(いや、手足ではないと理性では理解しているのだが、その様を見るとつい手足を伸ばしてばたついてるように見えるんです)動き出して、バケツから出そうになった。「うわ」と、およそイゲンのない声を出してしまい、慌ててバケツのお湯ごとクモを浴槽にぶち込んだ。手で直接触るのは、何となく嫌だったのでとりあえずシャワーのお湯をかけ続けた。そうすると手足を丸めて(分かってる、手足じゃないけど、そういう風に見えるの)、お湯の中に沈んでいく。しばらくお湯をかけ続けていたら、浴槽の底の方に沈んでいったので、ようやく死んだ(この場合は溺死だな)と思い、もう一度バケツで掬おうとしたら、お湯の上のほうに浮かんできたら、また手足を伸ばしてお湯から出ようとした。

 頭にきて、またシャワーのお湯をかけていたら下の娘が「今37度のお湯でしょ。それじゃ死なんから47度にして熱さで殺したらいい」などとカゲキなことを言う。「そんなお湯にしなくてもこのままかけ続けたら溺れて死ぬよ」と答えたが、納得しない。無視して37度のお湯をずっとかけていたら、今度こそ動きが完全に止まった。バケツでは大きすぎるので手洗い桶で掬ったが、流石に今度はピクリとも動かない。桶に半分くらいのお湯(200ccくらいかな。ちなみに成人男性4人の○○は10ccだというのはロックバンド10ccのガセネタらしいが)の中にクモが入っているのだが、さてこれをどうするか。とりあえずベランダから投げようとしたが、下を見ると駐車場は満杯である。そんなところに上からお湯を投げ出したりすると、下の住人からなんといわれるか分かったもんじゃない。

 しょうがないから玄関から出て行って下の草むらにでも捨てようとしたら、あなた。いきなりクモが動き出した。死んだふりしていたのだ。そういえば岡林のクモの歌にも死んだ振りが得意とかいうフレーズがあったような…。しかしその、動き出したクモを見て再度姉妹二人が絶叫し始めた。いわく「だから死んでないっていったのに」「駐車場に捨てればよかったのに」「お父さんはいつも詰めが甘いのよ」「だからお金儲けが下手なのよ」「責任持って殺せよな、ゴルァ!」などとドサクサ紛れにバカ娘どもの本音が聞こえた。こちらも事を穏便に済まそうと思っていたのに、そういう態度に出られると頭にくる、いや本心はたかがクモごときにビビッた自分に頭に来たのだが。

 玄関のドアのところにへばりついた(やはりお湯攻撃は効いていた様でクモとしての体力が弱っていたのだろう)クモを僕はとっさに持っていた桶で叩いた。するとクモも撲殺されるのは嫌だから、必死で逃げようとした。今までの弱っていたのは単なるジェスチャー、演技だったようで、ここでも予想外に早い動きをした。頭に来た僕は、桶でまた叩いたら今度は丸まって伸びたようだ。その丸まったクモの身体に何か白い霧状のものが大量に襲い掛かる。ふと横を見ると下の娘が、必死の形相で殺虫剤を振り掛けている。姉はバスタオルに包まってただひたすら眺めている。「もう大丈夫だろう」というと下の子は「まだまだ」と噴霧する手を緩めない。

 玄関が殺虫剤のにおいで一杯になってようやく下の子は噴霧をやめた。しかし、なんと言う生命力か、クモはまた動き出して逃げようとしている。もっともダメージを強烈に食らってるので動きは鈍い。ここはとどめだと思い、チラシを丸めてそれで握りつぶした。そのチラシを持ってゴミ箱に行こうとすると上の娘も、下の娘も泣き喚いて道を明ける。これは面白い。普段父親をアッシーか貢君程度にしか扱ってないくせに、クモを持ってると泣いてひれ伏す。こいつは便利だ。配偶者が帰ってくるまで、このクモウィズチラシ、いやクモインクルーディングチラシという方がプログレっぽいか。待てよクモはスパイダーだから、ってもういいか。

 とまあ、クモにとってはとんだ災難だったが、我が家にとってもトンだ災難の夜が終わった。そのあと帰って来た配偶者に娘二人がいかにクモが怖かったか、その生命力がしぶとかったか、延々と報告していた。そのときに下の娘が妙なことを言った。「私は殺虫剤を振ったけど手を下したのはお父さんだから、もしクモの呪いがかかった時は『私は罪は軽いです。真犯人は、手を下したのは父です』と言って助かる。おとうはクモの呪いにかかる」…。さんざん人を頼っていながら、最後になったら裏切るのかこいつは。だからオンナコドモは信用できん。
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たまにはジャズの話でも

 毎度、毎度の悪い癖で、予告編ばかり書いていてそれが本編につながらない。本来は丸ごとパクリ企画の続きで、サイモン&ガーファンクルを最初、サイモンとガーファンク(サイモンアンドじゃなくて当時はサイモンとガーファンクルという言い方がポピュラーだった)と覚えてしまって恥を書いた話やソニーのギフトパックシリーズに付いていたカレンダーにパートリッジファミリーが載っていて、そこに映っていたシャーリー・ジョーンズの胸を見て流石に肉食のガイジンは凄いと感動したのが、一種のヰタ・セクスアリスだったのではないか、とか、彼らの「悲しき初恋」を聞いた時に”I think I love you~”の部分を「ワッティッカラフユー」と聞いてしまい、どうして「悲しき初恋」なのに笑う(laugh)のだろうというトンチンカンな疑問を持ったことなどを書くつもりだったのだが…。

 ここ8月に入って訃報が続いている。やはりこの暑さのせいだろうか、作家やミュージシャン、トップモデル、いろんな人が亡くなった。特にミュージシャン関係ではドラム、パーカッションの日米の天才が亡くなった。アメリカではマックス・ローチ、チャーリー・パーカーと共演し、更にクリフォード・ブラウンと信じられないようなコンボを組み、”We insisit”(=我々は主張するぞ!とでも訳せばいいのだろうか)などの問題作も作ってきた人だ。御年83歳である。またある意味日本のマックス・ローチとも言えるフリージャズの富樫雅彦氏も亡くなった。こちらは67歳である。まだまだやれる年齢だしもったいない。しかし、こればかりはどうしようもない。合掌。

 マックス・ローチを初めて聞いたのは、大学に入りサークルに入ったばかりの頃だったと思う。いや、先輩のS賀さんに気安く話せるようになっていたので、入って1,2ヶ月はたっていた頃だろうか。当時はロックこそ全て、ジャズなど「日向ぼっこがオレの趣味」みたいなジジイが聞く音楽だと思っていた。ほら、ジョンも「ロックンロールミュージック」の中で「モダンジャズにケチをつける気は無いけど、退屈なシンフォニーみたいに聞こえるんだ」なんて歌ってるもんだから、当時まだ18歳だった僕は怖いもの知らずで、世の中にドラムという楽器はロックのためにある、ロックドラムこそドラムだ、などと訳の分からないことを研究会で発言した。

 それを聞いたS賀さんが「お前さん一回、サキソフォンコロッサスというアルバムの1曲目を聞いてみな。世の中にこんなドラムがあると驚くぞ。とにかくズッコケル。一貫して外して叩いているけど、それが見事にスィングしているんや」と忠告してくれた。いえ、その言葉を聞いても、なんじゃ、ソニー・ロリンズって鶴公のオールナイト・ニッポンのバックミュージックみたいなサックス吹いてるおっさんやないか(早い話がいやらしいムード音楽みたいなサックスという意味です)、と頭から小ばかにしていたのだ。

 そういうやり取りがあって、ある日ボックスに行くと青いジャケットのアルバムがあった。S賀さんがわざわざ持ってきてくれた「サキソフォンコロッサス」だった。レコードに針を下ろしてみた。どこか遠くで太鼓の音がする。なんだかやたら手数が多い。そのうちにロリンズのサックスが聞こえてきた。思ったより軽快だ。1曲聴き終えた僕は、ちょっと言葉を失った。世の中にはこんなドラミングがあるのだ。そのあとクリフォード・ブラウンと組んだアルバムを何枚も聞いた。「スタディインブラウン」の「A列車で行こう」は聴いた瞬間笑い出してしまった。いや、あまりの素晴らしさにだ。このマックス・ローチのおかげでジャズに抵抗がなくなり(正確にはフィル・ウッズの「ミュージックデュボワ」というアルバムが僕をジャズ好きにしたのだが)、クリフォード・ブラウンという素晴らしいトランペッターの存在も知り、「ジョードゥ」という演奏からデューク・ジョーダンという素晴らしい作曲家でありピアニストであるミュージシャンを知ることが出来たのだ。

 いかん、いかん。また話が広がり始めた。そういえば昔タモリがまだアイパッチをしていた頃だと思うが、ジャズを聴いていたアメリカ人に「ユーリメンバーパールハーバー」と話しかけ、相手が何だこの野郎と挑戦的になったところで「アイリメンバークリフォード」とやって受けたという話を聞いた。今回の二人の天才ドラマーの訃報に対して、タモリ、何かネタ作らないかな。もうジャズ離れてしまったから無理かな。

 しかし、訃報というのは嫌だな。続くな。今日はこんな話でゴメン。

戸締り用心、火の用心~公共ルールを守ろう

 ちょっと油断しているうちにまた1週間過ぎてしまった。いや、連日の暑さと疲れが原因ではあるのだが、実はもうひとつ気がかりなことがあった。というのも、半月ほど前から太ももに湿疹が出来ており、単なるアセモだろうと自己診断していたのだが、毎週通っているATLの病院で見てもらったら、ちょっとまずいかも知れないので血液検査してみるということになった。それが先週の土曜日18日のことで、もちろん本当に発症していれば、すぐに病院から電話が来るだろうと多寡をくくっていたのだが、それでもお医者さんから直接大丈夫と言われないと安心できない。そんなこんなで、あまりゆっくりエントリーを書こうという気にもなれなかったのだ。

 そういうわけで、昨日は恒例の病院に出かけた。10時過ぎに待合室に入ると、ほぼ満席。まあいつもの事なので、気にせず週間朝日を手に取り何人がけなんだろうか、大人だったら4,5人は座れる長方形の椅子に腰掛けた。そこで30分ほど待っていたが、なかなか名前を呼ばれない。今日は、単なる注射や薬もらいの人は少なく、診察を受ける人が多いのだと判断し、そうなると背もたれのないこの椅子だと居眠りも出来ないのでつらい。周囲を見渡すと、テレビの前の長椅子に一人分の空きがあったので、即座に移動した。そこで、転寝しながら名前を呼ばれるのを待っていたのだが、子供の声で何度も眠りを妨げられた。

 夏休みも終盤なので、子供を連れた人が多かったのは事実だ。しかし、この込み合うことで有名な病院に夫婦二人で子供を連れてくることもないのに、と心の中で舌打ちしながらまぶたを閉じようとしたら、妙なものが目に入った。ん?と思って目を開けると、正面の長椅子(僕のかけている椅子と丁度正対している椅子)にやや太目のお母さんがおり、その横にわらわらと子供がいる。目で数えると5人、まあ遺伝子とはなんと残酷な仕事をするのであろうかといわんばかりの小さいのがいた。頭から小5、3、1幼稚園年長、年少と言ったところか。その中の小5くらいと思しき女の子が、長椅子を机代わりにしてノートを開き、なにやら書き物をしている。漢字の書き取りだろうか。その横を退屈している幼稚園二人組みがウロウロ歩き回り、ときどき小5の姉の尻を蹴ったり叩いたりしている。

 それを見ていた母親が凄い剣幕で「こら、○○と××(子供の名前を言ったが良く覚えていない)、ねーちゃんが勉強できんが!大人しくせんね!!」。僕は閉じかけたまぶたを大きく見開き、母親の顔をまじまじと見つめた。最初は僕が寝ぼけて母親の言葉を聞き違えたのだと思った。込んでいる待合室。立ったまま待っている患者もいる。中には立ったまま目を閉じて明らかに気分の悪そうな人もいるのに、この馬鹿親子は6人分の席を確保しているのだ。いや、子供たちが隙間を空けて座っているので、詰めれば8人くらいは座れるのではないか。しかも、退屈して暴れ回る子供を叱るのに、姉が勉強できないので止めろという、この思考回路は一体なんだろう。

 僕は怒るより、あきれてしまいそのカバのような母親をまんじりと眺めてしまった。人間心のどこかに何か悪いことをしているという気持ちがあれば、他人から見つめられた時に目をそらすものだが、この母親はにらみ返してきた。俗に言うメンチを切るという奴だ。頭にきて怒鳴りつけてやろうかと思ったその瞬間「ああ、遅い、遅い。一体何時まで待たせるんかね、この病院は。早く帰ってご飯の支度をして、いやその前にダイ○ーに買い物に行って、あ、銀行でお金、入れとかんと引き落としが…」と、いきなり喋り始めた。それも独り言をぶつぶつ言う感じではなくて、確実に第三者に聞いてもらえるような音量と話し方であった。待ちくたびれて頭の中で考えていたことが口をついて出てきたのだろう。

 急におかしくなって僕の憤りもどこかにいってしまった。その後もこのカバ母は5人の、いや宿題やってる子供以外の4人を叱ったり、叩いたり、ときどき思い出したように「ああ、遅い。ご飯が、ダ○エーが、銀行が…」と喚き続けた。すっかり気勢をそがれてしまった僕は、また腕組みして居眠りをしようとしたが頭が冴えてきて眠れない。眠るのは諦めてもう一度あたりを見てみると、母子連れ、父母子連れ更に祖父・祖母・孫連れなど、子供を連れた家族の多いこと。駐車場は例によって一杯だったので、みんな車に乗って一家揃ってやってきたのだろう。夏休み最後の日曜日に家族の思い出作りに病院というのが今の流行なんだろうか。しかし、である。今更こんなことを言うのもなんだが、かわいい子には旅をさせよというではないか。初めての病院通いなら分かる。具合が悪くて不安な子供をたった一人で知らない病院に行けというのは、確かに酷かもしれない。

 しかし、一度連れて行って道順も分かり病院内の決まりごと(保険証を出して受付をして大人しくして待って名前を呼ばれたら返事して診察室に入る)が分かれば、後は一人で行かせてもいいのではないか。いや、そうする方がいいだろう。特にここの病院のように毎回待合室が一杯になるようなところは。子供を連れて病院に行く、行かざるを得ない理由もあるだろうが、何となく過保護という構いすぎじゃないのかな。などと考えていたら、またもやぶっ飛ぶようなものが目に入った。

 ここは病院の待合室なので携帯の電源は切るように注意文が壁に貼ってある。僕も電源を切ると何かと後が厄介なので、携帯は車の中に置いて来るか、今日のように明らかに2時間近く待つことが予想される時は、悪いことだと思いながらもバイブにしてウェストポーチに入れておく。少なくとも待合室で携帯を開けたり、ましてや通話などはしない。ところが、その「携帯禁止」の張り紙のすぐ下で3人が3人携帯を開いて眺めている。うち一人は明らかにメールを打ち始めた。おめーら、どういう神経してるんだ。日本語読めないのか。ルール破るのがカッコイイと思ってる中学生か?赤信号は皆で渡っても赤信号なんだよ。と、怒りがこみ上げ目眩がした。

 ここは、ビシッと注意せねばと立ち上がりかけたが、その時看護婦さんが僕の名を呼んだ。僕は学校教育の成果なのか、名前を呼ばれるとすぐ「ハイ」と大きな声で返事をしてしまう。このときも反射的に「ハイ」と大声で答えたら、携帯開いていた3人がハッとした顔で僕のほうを見た。まるで、何か人間ではないものを見るような目つきだ。そうそう、この手の最低の決まりごとを守れない奴らは呼ばれても必ず返事をしないのだ。だから返事をする人間をまるで別人種のような目で見るのだ。僕は「オマーラ、携帯開いてんじゃねーよ」と目に力をこめて、あたりを睥睨しながら診察室に入った。

 血液検査の結果は良好だった。先生からも「正直、病気が出てきたんじゃないかと心配してたんですが、良かったですね」と言ってもらい、一安心した。診察室を出ると待合室は平穏だった。携帯を開いてる人間もいないし、騒いでる子供もいない。やはり病は気からというのが今日の結論であった。あれ、何か話の主題が違ってるような気がするが。そうそう、この病院で長らく読みたかった高橋義孝の「酒飲みの詭弁」を見つけた。番町書房と出版社を控えて、ネットで調べたがどうも廃盤になってるようだ。あ、本の場合は絶版か。とりあえず、近況報告でした。

丸ごとパクリ企画~僕の音盤生活ナイスミドル篇

 実はこのエントリー、昨日の日曜日にゆっくり書くつもりだった。ところが晩御飯を食べて、ちょっと食べ過ぎて横になり転寝(僕の生まれた漁村では「いどこね」という言い方をした。囲炉裏の周りでのんびり寝てしまう感じがして、ちょっと好きな表現だった)していたら、丁度大淀川沿いのホテル街でお祭りの花火が上がり、その音を聞いているうちに本格的に寝てしまった。ハッと目が覚めたら10時過ぎで、それからPCを立ち上げようと思ったが、配偶者から日曜くらいは、あのキーボードの音を立てないでくれと哀願され、あんまり突っ張っていると来月は加川良のライブもあるし、パンタの再発もあるし、どう考えても通常の小遣いでは不足するので、ここは堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、ブログの更新は一日伸ばしにしたという寸法だ。

 いや、このところザビギニングオブ「僕の音盤生活」といった話を書いていたのだが、その続きを書こうかと思い、何か面白そうなネタはないかと本屋をうろついたら、レコードコレクターズの9月号が目に止まった。昔、若い頃は「ニューミュージックマガジン」批判などをしていたこともあり、この手の雑誌はほとんど立ち読みオンリーだったのだが、ドアーズの特集ページをパラパラ見ているうちに欲しくなった。欲しくなったからといって勝手にバッグに入れて出て行くと、これは「万引き」という行為になり、かの平岡正明であれば「犯罪者同盟」などといって正当化できるかもしれないが、この国に「革命」は最早金輪際起こらないだろうから、虞犯中年となって新聞の片隅で恥をさらす(by R・E・D)のは真っ平ゴメンでちゃんと700円なりを支払ってお店からでてきた。余談というか豆知識なのだが、まだ若い頃の泉谷しげるがあるとき物凄い剣幕で周りの仲間に当り散らしたことがあり、そのときに叫んだ言葉が「お前たちとはもう、カナワサイ付き合わないからな!!」…。えーと「コンリンザイ」を「カナワサイ」と読んで恥をかいたというお話でした。

 さてそのレココレ(ちょっと通みたいでしょ、sugarmountain君がこういう言い方をしたので、何でも略すのは日本人の悪い癖だと諭した僕であるが、ちょっとイチビッて使いたいのだ)、レイ・マンザレクのインタビューも良かったし、ブルースブラザーズの写真も良かった。他にも面白い記事が沢山あって、こんなことならもっと早くから買っておけば良かったと思ったのだが、実は一番面白かったというか興味深かったのは本編の記事ではなく、コマーシャルというかレコード会社の宣伝のページがダントツに良かったというか、ええ、うそ、ほんとという感じだったのだ。何をそんなに泡食ってるのか、と聞かれると、先ずこの話からしていきたい。表紙あけていきなり目に入った文字は「デビュー40周年記念 ニルソン紙ジャケット・コレクション」である。

 オイヲイ、ついこの前までなかったことにされていたニルソン大先生ではないか。僕が去年東京に出稼ぎに行った理由のひとつはニルソンの「俺たちは天使じゃない」と「眠りの精」を入手するためだったのだ。いやー、ニルソン大好きなんです。もっとも初めて聞いた時は「ココナッツ」というシングルでこれは最初どうしても好きになれず。夜ラジオのヒットチャート番組を聞いてる時に「次はニルソンの…」とアナウンスが入ったら、すぐにラジオのスイッチを切り2分半ほどしたらまたスイッチを入れるというくらい嫌いだったのだ。正直「ウィズアウトユー」も最初はあまり好きではなかった」。しかし、大学に入った75年に「俺たちは天使じゃない」をあれは十字屋だったか都レコードだったか、試聴したところいきなりピアノのデモ演奏がはじまり、クレジットにもこれはデモ演奏です、完成品は次のアルバムまで乞うご期待、みたいな事が書いてあり、人を食ったやつだなという第一印象が曲を聴くうちに段々快感になってきて、いやもうすぐ買いました。

 ジャケットが2枚あって、1枚目はラテン語で「Duit On Mon Dei」、2枚目には英語で「God's Greatest Hits」と書いてあり、いやそこに付け足しで「Formerly」などと書いてあるのだから食えない親父だ。サウンド的にはヴァン・ダイク・パークスが全面的に参加してるので、スティールドラムが歌いカリプソが、ラテンが、いやもう大賑わいのごった煮的サウンド。「コジャック・コロンボ」などと当時のUSAの人気刑事番組をおちょくった歌も楽しかった。と、思うと「サーモンの滝」のようなシリアスな歌もあり、4オクターブは出るといわれたニルソンのボーカリストとしての魅力たっぷりのアルバムだったのだ。丁度、大学のサークルの先輩でやはりニルソンが好きな人がいて、その人から「ハリー・ニルソンの肖像」を借りて聞いたら、こちらはまたビックリ。選曲のセンスの良さ、アレンジの趣味の良さ、もう腰を抜かしましたね。

 丁度その頃、シンガーソングライターが好きで、ランディ・ニューマンも聞き始めた頃だったのだが、「セイルアウェイ」や「ライブ」など味はあるのだが、惜しむらくはボーカリストとしての魅力に乏しかった。しかし、そのランディ・ニューマンが作った曲をニルソンが歌うとこれはもう最高のコンビネーション、まあ、スタンハンセンとブルーザーブロディがタッグを組んだようなもんで、って、これはプロレス好きでないと分かりにくい例えだった。したがってニルソンの「ランディ・ニューマンを歌う」は、もう宝物のようなアルバムでした。そのニルソンも亡くなってはや、十数年。ここ何年か「俺たちは~」はもちろん「プシーキャッツ」も中々手に入らなかった。したがって去年ニルソンのCDが手に入った時は大喜びだったのだ。

 しかし、今回のキャンペーンでは「スキドゥ」なるアルバムは日本初CD化だというし、各アルバムにボートラ(またまた余談だが、僕はこの「ボートラ」という言葉を見聞きすると「棒虎」と頭の中で変換してしまい、どうも棒のように突っ立っている阪神タイガースの人形をイメージしてしまうのだ。何かの病気だろうか)が沢山入ってるのよ。8.22に1枚目の「パンディモニアム~」から「シュミルソン」までが再発(しかも紙ジャケだよ)され、9.26には「シュミルソン二世」から「クニルソン」までが再発になる。ああ、困った。お金が足りないぞ。しかーし、困ったのはニルソンだけではなかった。レココレを読み進むうちに僕はとんでもないレコードのいやCDの再発を知り、半狂乱に陥るのであった。いかん、もうこんな時間だ。続きは明日以降に。次回登場予告はソーニャ・クリスティーナ、ユーライア・ヒープのいたブロンズレーベル、ブレッド!!そしてあのロッキングオンのスターティングメンバーのあの人の話も…。

丸ごとパクリ企画~僕の音盤生活思春期編 その2

 昨日は中途半端な終わり方をしてしまった。理由は太陽が黄色かったからだ、それと昨日ママンが死んだからだ、などという異邦人ごっこは止めて、要するに一度書きかけたエントリーを中断して、その後また続きを書こうとしたがなんとなく興が乗らなかったというのが本音だ。しかし、チラッと書いたシングル盤の話や、「雨にぬれても」の話からキューブリックにまで話が飛んで、いや狸さんやsawyer先輩などのコメントに刺激を受けて、今日はその続きを書こうという浅ましさである。あ、以前書いたかもしれないが、僕は典型的な長男でA型、つまり「おだてりゃブタも木に登る」し「打たれ弱く、ちょっとした批判で傷つくナーバス」な性格なので、そこのところ宜しく。ついでにとても几帳面で、整理整頓が大好きだが、それは単に好きなだけで決して実行しているわけではない。そこんところも宜しく。

 昨日はシングル盤の話を書いた。ドーナツ盤と呼ばれていたことも書いた。書いた後に思い出したのだが、サディスティックミカバンドが東芝からファーストアルバムを出した時のレーベルがドーナッツレコードという加藤和彦が一人でやっていた個人レーベルだった。いや、キャプテンヒロとスペースバンドもドーナッツから出たっけ?このへんは曖昧だが、はっきり覚えているのは、アルバムにオマケとしてシングル盤(サイクリングブギ)が付いていて、それがドーナツ盤だったことと、その曲のイントロでミカが「レッツゴードーナッツ!!」とシャウトしているのはドーナッツ盤とドーナッツレコードをかけていたんだろうというあまり意味のないお話でした。

 シングル盤は当時400円だったことは書いた。A面とB面の合わせて2曲入っている。アルバムはLPレコードといって1枚が2,000円で大体10曲から12曲入っていた。しかし、シングルはどんな曲か、自分の気に入った曲かどうか分かってから買うのに比べてアルバムはヒット曲以外は全く知らないので、やはり買うのに大分勇気が必要だった。もちろん勇気以上にお小遣いが必要だったが。僕がシングルレコードを買うようになったのは、我が家にステレオ(といえば聞こえはいいが蓄音機に毛が生えたような、一応はプレイヤーとスピーカーとちゃちいアンプがついたやつ)が登場してからだ。確か69年くらいだったと思う。まだポピュラーミュージックにそれほど興味がないというか、トランジスタラジオを聞き始めたばかりの頃だったと思う。

 さっきから、どうして我が家にステレオ(擬似ね、あくまでも)が登場してきたのか良く思い出せない。一地方公務員だった父の給料からして、それほど余裕があったとは思えないし、僕自身がその当時それほどネダッタ覚えもない。しかし、それはある時突然我が家に現れたのだ。何枚かのシングル盤と1枚のLPレコードとともに。シングル盤はアニメのテーマ曲集、巨人の星や秘密のアッ子ちゃんなどが入っていた。したがって星雲高校の応援歌は未だに歌える。♪せいうーん、せいうん、おお、せいうんのちから~という奴だ。そうだ、思い出した。父親が何故か東京ロマンチカのLPレコードを買ってきて聞いていたのだ。おかげで覚えた歌が♪きーみーはこころーのつーまだーかーらー、という奴だ。これを中学校の廊下で歌いながら歩いていたら、教師から殴られた。中学生が歌うに相応しくない歌だというのだ。「父親が好きで聞いています」と言ったら「おまえん親父は学校の先生じゃろが、いい加減なこつ言うなー」と怒鳴られて余計殴られた。そのときは頭に来たが、今では微笑ましいエピソードである、んなこたぁない!!

 シングル盤を買ったときの楽しみは、ジャケットの裏側の歌詞のところに書いてあるライナー(要するに資料ね、そのレコードや歌についての、ま、バンド紹介みたいなものも多かったけど)を読むことと、もちろんそれ以上に楽しみだったのはB面に入っている曲だった。たまにA面よりいい曲があったりして大喜びしたもんだ。ディオンヌ・ワーウィックの「恋よ、さようなら」のB面はなんだっけ、♪ホワッツザワールドニーズナウ、イズラブ、スイートラブ~とかいう歌じゃなかったっけ。あの曲は良かったよな。アレンジも洒落てたしね。ジョンの「イマジン」のB面は「イッツソーハード」だったか、こちらはA面と全く曲調が違い大いに戸惑った。ビートルズはいい曲も作ってるけど、こんなうるさい曲を作るから大人から嫌われるんだ、などと子供心に思ったもんだ。いえ、それから1年もしないうちにその「うるさい」音楽が大好きになり、毎日大音量で聞くようになるとは、これを運命のいたずらといわずしてなんという。あのとき、ロックなんかに狂ってなければオレの人生勝ち組だったのに(詠嘆)…。

 愚痴はさておき、このシングルのB面の楽しさを見事に裏切られた話を最後に書いておこう。ポール・マッカートニーがソロを止めてウィングス名義で出した曲に「アイルランドに平和を」という歌がある。ジョンの政治活動を意識して、温厚なポールが珍しく「アイルランドはアイルランド人に返せよ、大英帝国いい加減にしろ、大人気ないぜ」みたいな歌詞だが、曲はそれはそれ、稀代のメロディメーカーのポールなので、一級品のポップナンバーに仕上げていた。そうそう、ジャケットは「ウィングスインワイルドライフ」にも使われた湖の上の木の枝にポールとリンダとデニーが映ってるやつだ。僕はこの曲が大好きでシングルをすぐに買ってきた。A面の曲を大音量で何回か聴き、さてB面を聞くかとレコードをひっくり返した。タイトルは『いんすとぅるめんたる?』、変わったタイトルだなと思って針を下ろすと、あれ、どこかで聞いたようなメロディが流れてくる。いつまでたっても歌が入らない。どうなってるんだ。レコードが壊れてるんだろうか。

 ああ、恥ずかしい。器楽演奏の事をインストゥルメンタルというのをその時初めて知った。しかし、天下のポールが、バンド作ったばかりで曲がなかったのかも知れないが、シングルのB面にインストナンバー入れなくてもいいじゃないか。

 もうひとつはドン・マクリーンの「アメリカンパイ」である。この歌は歌詞が長くてやたら意味深だった。始めて聞いた時は♪パーイ、パーイミスアメリカンパイと聞こえて、森永エンゼルパイみたいな食べ物かと思ったが、bye,bye,MissAmericanPieと分かり、そこから興味を持って歌詞を必死で覚えた。思えばこのときの経験が英語に対する興味に繋がったんだろう。さてこのシングルもA面を聞いて、ひっくり返した。B面は『パート2』という曲か、どんなんやろ、とわくわくして聞いてみると、アコ-スティックギターの音がフェイドインしてきて、あれ、またアメリカンパイだ。レコード壊れてるんと違うかな。

 パート2は第2部という意味だと学習したのはこのシングルのおかげだった。

 ああ、今日は17cmコンパクト盤の話を書くはずだったのに、そこまでいけなかった。当分このシリーズは続く、かもしれない。

丸ごとパクリ企画~僕の音盤生活思春期編

イラストはあまり好きではないが丁寧に作られていて好感が持てる

 お盆の休みに入った13日に牧野良幸の「僕の音盤青春記1971-1976」を読んだ。前日の仕事を終えた夜、タワーレコードに行ったついでに隣の旭屋書店で購入したのだ。もっとも本屋で立ち読みするまでそういう出版物が出ているとは知らなかった。「CDジャーナル」はほとんど読まないので、こういう連載があることも知らず、また正直言ってあまり好きなタイプのイラストではない(失礼)ので、普段なら手に取ることもなかったはずだ。それがどうして購入するまでに至ったかというと腰巻の推薦文が佐野元春で、いかにも彼らしい人間性善説そのものの文章に惹かれたことと、パラパラめくったページに出てきた単語が「ギフトパック」「4チャンネルステレオ」「カセットデンスケ」などなど、70年代前半に思春期を送った人間の共通キーワード(今、思ったが共通しないキーワードってないよな、共通しなければシークレットワードになるし、スカーレットレターは英文学の試験に良く出た、って何の話や)が目に入ったことが理由である。

 この作者は丁度僕より1学年下で、したがって彼が中2から高3までの71年から76年までという時代は僕にとっても中3から大1までという、坊主頭のクソガキが肩まで届く長髪のナウでガッツなチャレンジするヤング(どうだ、こんな形容詞使えるのが70年代なんだぜ)になるまでの時期にぴったり重なる。しかもこのところ訪問してなかったsugarmountain君のブログに「あぁ~中学2年生」というエントリーがあり、そちらも73年4月から74年3月までの洋楽ヒットチャートを賑わせた名曲の数々が紹介してあり、おっ、この企画いただき、となった次第である。「CDジャーナル」は全く読まないのだが、先日のパンタのニューアルバムの情報はCDジャーナルのHPで知ったし、つい一月ほど前にはこれも偶然ある書店で「高田渡読本」を見つけて、すぐさま購入ししばらくは夜寝る前の読書として楽しませてもらった。ありがたい、ありがたい。

 さて、その「僕の音盤青春記1971-1976」であるが、クロニクル風になっており、そこにアルバムタイトルやオーディオ用語をテーマとした話が書かれてある。13日の暑い昼下がりベランダにキャンプ用の椅子を出し、iPodで好きな音楽を聴きながら一気に読んでしまった。そうそう、こんなことがあったとか、いやこのアルバム、オレも買ったとか独り言を言いながら南風に吹かれていい気分だった。と、まあ口上はこれくらいにして、早速丸パクリ企画で本日のエントリーを進めていこう。

「気楽なシングル・ライフからはじめよう」

余談だが、僕が大学に進む時に、所謂、学生服以外の私服はあまり持っておらず(大抵ジーンズにTシャツかトレーナーだった)、キャンパスにどんな服を着ていったらいいか分からなかった。あるときぼんやりテレビを見ていたら、当時はまだ反体制でかっこよかったピーター・フォンダが”Simple life is my way”などと言ってCMに出てきた。「シンプルライフ?かっこええやん」と心の中でつぶやき、そのCMをしっかりインプットして服を買いに行った記憶がある。上のジャケットから下のスラックス、スニーカーに至るまで全て色は茶色(何故、茶色にしたか理由は覚えていない)でブランドはシンプルライフで統一して花の京都に出かけたことは、今考えると赤面の至りである。余談終わり。

 そうです、シングルです。当時はドーナツ盤と呼んで、1枚が400円でした。ドーナツ盤とは名前のとおりシングルレコードの真ん中に穴が開いており、ステレオに乗せるときは丸いアダプターをターンテーブルの真ん中に乗せないと聞けない仕組みになっていた。このアダプターを僕はよく失くすことがあり、仕方がないので目測でターンテーブルの真ん中にレコードを乗せて聞いたことがあったが、やはり微妙にずれる。音がおかしくなり聞けない。レコード屋さんに行くと、そういう粗忽者のためにアダプターだけ別売りしてあった。もっともRCA(ビクター)のシングルは丸い穴ではなくて、アレはなんといえばいいのか、忍者が使う手裏剣みたいな、えーとコンパスを使って対称図形を描くときに問題に出てくるような形というか、ああ、めんどくせー、要するにアダプター無しでも聞けたのよ。ただ残念ながらRCAから出るシングルは当時の僕の心を打つものは少なかった。たしかホセ・フェリシアーノとかジリオラ・チンクェッテイとかが多かった。あとジェフアーソン・エアプレインやモンキーズもそうだったかな。おっとニルソン大先生もいたのだが、当時はあまり好きではなかった。始めて聞いたのが「ココナッツ」で、ナンじゃこりゃという感じだったのだ。

 この「僕の音盤青春記1971-1976」に出てくるシングルもカーペンターズの「スーパースター」(レオン・ラッセルの名曲、「グルーピー」というタイトルでもある。宮崎でレオンのライブを見たときにぜひともやって欲しかったが、やらなかった。自分のオリジナルというより他人にあげた曲という印象が強いのだろうか)、ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」(ポルナレフは大好きだった。でもロックファンの連中から小ばかにされるので、人前ではミセル・ポルノレズなどと言っておちょくっていた)、BJトーマスの「雨にぬれても」などがイラストに描かれている。この「雨にぬれても」はご存知映画「明日に向って撃て」のテーマ曲だが、僕は全然違う映画のおかげでこの曲を知った。というのは、71年だと思うがNHKの土曜昼間の番組で懐かしの映画シリーズみたいなのがあり、そこで「雨に唄えば」を放映していたのだ。

 たまたま家でその映画を見た僕は、その映画のタイトル曲「雨に唄えば」がいたく気に入り、あるときレコード屋でそのシングル盤を探した。しかし、うろ覚えの記憶で当時ジーン・ケリーもウィントン・ケリーも一体誰ですかあなたは、という知識しかなかったので、映画のタイトル「雨に唄えば」が出てこず、雨がつく映画音楽という探し方をしたところ、アンディ・ウィリアムスの「雨にぬれても」を見つけて、多分これだと思い買って家に帰った。当然、別人28号の曲なので、がっかりしたがこれはこれでいい歌だったのでよく聞いた。しかし雨だけでレコードを探したのだから、無謀というか蛮勇というか無知は怖い。ちなみにアグネス・チャンのシングル「恋のアンブレラ」のイントロに「雨に唄えば」の歌詞とメロディが引用されている。どうでもいいか。

 ここまで書いてきて、なんだか自分が最初に書きたいと思った話からずれて来ていることに気がついた。このまま継続していくのにちょっと抵抗を感じてきたので、仕切り直し。尻切れトンボだが、また気が向いたら続きを書きます。

オリーブの樹の下で~ライラのバラード

 今日買った「紙の爆弾」に『「5.30リッダ闘争35周年記念・全京都メモリアル集会」~“元赤軍”の今を追う』という記事があった。僅か4ページの中に足立正生、重信メイ、鵜飼哲各氏の発言を詰め込んでいるのでいささか散漫な印象は免れない。最後のほうにパンタのインタビューもあった。しかし、これがいけません。1950年産まれのパンタのことを「還暦を過ぎてなお全国各地で幾多のライブを続ける彼」などと紹介していたし、インタビューの中でパンタの一人称が「俺」になってるのもどうかなと思った(イメージで「俺」としてるのでは?)。多分、もっといろんなことを話したと思うが紙面の都合でかなり端折られている感じがした。それに一番不思議に思ったのは「元赤軍の今」についてほとんど触れていない。言葉は悪いが羊頭狗肉ではないか。カンパのつもりで毎月買ってる雑誌だけに残念な記事だった。というところで、今回のアルバムで一番重要な歌詞を引用して、このシリーズを終わる。

ライラのバラード 作詞:重信 房子 補作詞:PANTA

わたしは4才だった 誕生日のすぐ後 
ハイファを追われた
ママは8人の子供等と小さな車に乗り込んだ
一人足りない それはわたし
何故引っ越さなきゃいけないの?
ナツメヤシのカゴの後ろに隠れたわたしを
引っ張り上げて ママが言った 
「ユダヤ人に殺られちゃうよ」
パパは涙を流して 子供達にお別れのキスをした

戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた
あれから半世紀過ぎても わたしは家に帰れない
わたしの物語 だけどそれはみんなの物語
パレスチナの 子供の物語 ライラ ライラ ~

わたしは5才だった 夏になって やっとパパに会えた
一文無しになり 家も店も盗られ 祖国を追われた
闘いに敗れ 父は変わった 「いつパレスチナに帰るの?」
難民となり失くした日々を語りながら 18年後 パパは死んだ
ハイファに帰る夢を 見続けて 土に還るパパにオリーブの枝をそえた

戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた
あれから半世紀過ぎても わたしは家に帰れない
パパの物語 だけどそれはみんなの物語
パレスチナの 父の物語 ライラ ライラ ~

わたしは25才だった 八月のある日 祖国への旅に出た
一万フィートの上空から 祖国に還る為に
幅広のレースの帽子でわたしは言った
「乗客のみなさん ベルトをお締めください わたしはこの機の新しい機長です
PFLPのチェゲバラ隊が この飛行機の指揮をとります」
パレスチナの海岸線に ハイファをはるかに見下ろして

戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた
あれから半世紀過ぎても 世界はそ知らぬ顔してる
わたしの物語 だけどそれはみんなの物語
パレスチナの 戦士の物語 ライラ ライラ ~

わたしはいまも待っている 待つことは闘うこと闘いつづけること
二度目のハイジャックで友を失い わたしは奪還された
それからバーシムと出会い リッダ闘争
パレスチナの恨みと希望を背負って 自由の戦士たちは 闘いつづけた
闘わなければ パレスチナの存在も 思い出に消えて
わたしも母になり 子供たちの為に いまも闘う
わが母のように

戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた
あれから半世紀過ぎても 戦いの火は消えない
わたしの物語 だけどそれはみんなの物語
パレスチナの 母の物語 ライラ ライラ ~

わたしはもうすぐ60才 証言の為に日本に来ました
自由の戦士マリアンは無罪と訴える為に
あの時代はだれも 自由の戦士だった それが何故 裁かれるのか
裁判長 あなたに訴えるわたしは パレスチナの民衆を代表して来ました
祖国を奪われた民には 抵抗する権利があると
そしてマリアンもそのひとりだと

戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた
あれから半世紀過ぎても 闘いの権利は捨てない
わたしの物語 だけどそれはみんなの物語
パレスチナの 世界の友の物語 ライラ ライラ ~




Sing,sing,sing!

 本当に久しぶりの完全休日の朝だった。思い起こせば今月の2日に台風の野郎が上陸しラビットダンス(by山下洋輔)を踊りまくり、街を滅茶苦茶にしていったおかげで、それ以来休み無しの日々だった。毎日、疲れ果てて家に帰り食事して風呂に入り新聞でも読んでいると瞼がだんだん重くなり、崩れるように寝るという日が続いていたのだ。当然、ブログの更新もなし、常連化していたあちこちのブログやmixiにも不義理を重ねること幾星霜、というのは大げさだが気分的にはそんな感じだった。

 昨日の日曜も通常出勤で働き、今朝は思いっきり寝坊しようと思っていたら、8時に携帯の音で目が覚めた。知らない番号だったので、こりゃ何かクレームか予期せぬトラブルでも起こったのかと思い、そう考えるともはや寝ておられず、しかしながらお盆の初日に仕事でもないだろうと開き直ってまた寝ようと思ったら玄関のチャイムが鳴った。宅急便であった。配偶者が注文していた商品が届いたのだ。それはいいのだが代引きである。配偶者は今日も仕事で居ない。『出直してくれ』というのも気の毒だったので、立て替えて払っておいた。あとで敵からもらう時は僕の代払い手数料が1,000円オンされるのは、資本主義社会において当然の権利である。♪配偶者諸君、君達に我々のささやかな小遣いを制限する権利があるなら、我々にも君達の目を盗んで秘密貯金を作る権利がある、などとあまりにも悲しい「宣言」はやめて、この間の出来事を今日はアップしよう。

 とはいうものの、ホントこの間は忙しくてこれといった出来事も無かった。強いて言えば、一昨日職場の仲間とビアホールに行った。仕事も一段落つき、夏季休暇も間近なのでみんなでおつかれさんという趣旨だ。そうそう、その話の前に先日の台風5号が来た日に僕は携帯を壊してしまった。一応ポケットから落として壊れたという話にしているが、実はそうではない。2日の夜の事だ。会社から帰るときに、ちょっと嫌な予感がした。ある資料を持って帰るかどうか迷ったのだ。持って帰れば当然気になるし、家でも仕事の延長になる。ここは思い切って知らん顔しておこう、と決めたのだが、どうしてもその資料が必要になり夜10時近かったのだが、また会社に戻った。

 当然施錠してあるので、合鍵を使って入ろうとしたが開かない。何度やっても開かない。いい加減右手の人差し指が痛くなったが、差し込んだ鍵はピクリとも動かない。いい加減にしろ、と激怒した僕は胸ポケットに入れてあった携帯を床に叩きつけたのだ。いや、携帯って案外もろいね。鍵も動かなかったが、携帯のデジタル表示もぴたっと止まって動かない。時間は10時4分を表示したままだ。その止まった携帯を手にして何故か、ザマーミロという気分になり、最後のあがきと思い鍵を回したら動いた。やはり携帯が諸悪の根源である、と力強く断言したが、そのせいで翌日から大いに困ることになった。携帯を修理に出して代替機を借りたのはいいのだが、それまで本体に記憶させていた電話番号が移せない。要するに電話をかけるのはいいが、受信する時に相手の番号しか表示されないのだ。

 これは中々にスリリングな経験だった。携帯でかかってくるのは99%が仕事関係なので、表示名を見て声のトーンを変えたり、遅れている仕事については言い訳を考えたり、早い話が「偽装工作」が出来たのだが、いざ番号だけだと一体誰がかけているか分からない。当然出たとこ勝負になる。会社の部下からかかってきたと思い、忙しかったのでぞんざいな返事をしていたら結構大事な取引先であせってしまったなどという失敗はしょっちゅうだった。しかし、考えてみたら本来電話ってそんなもんだったよな。まだ会社勤めを始めたばかりの頃ビジネスマナーの研修で、電話は相手が見えないから逆に気を使えとか、コール音は3回以内に取れとか、常に笑顔で応対しろとか(これ営業の電話にはゼッタイ必要)色々習ったが、相手が誰であれそつなく対応できてはじめて一人前などと良く言われた。しかし、携帯に馴れた堕落した我が身では上記のような失敗をしてしまうのだ。いや、携帯だけでなく、ビジネスフォンも今は発信先の表示がされるので、電話力(こんな言葉があるかどうか知らないが)はますます弱まっているのではないか。

 ちょっと堅苦しいことを書いたが、ホテルのビアホールで久しぶりに社員同士集まりお互いの労をねぎらっていたその時、僕の携帯が鳴った。番号に見覚えがない。誰だろうと思い、前の轍を踏まないように営業用の声で電話に出たところ、「ご無沙汰してます。私、昨年加川良のライブを企画した○○です」との声。思い起こせば昨年の9/17に加川良を見たんだと、懐かしい記憶が甦った。話を聞いてみると来る9/22にまた加川良が宮崎でライブをやるとのこと。昨年と同じ場所で同じチャージ料金らしい。二つ返事で必ず行きます、連れにも声かけます、と返事して電話を切った。去年は配偶者が飲みにいったお店で偶然そのニュースを聞いてチケットを購入したのだ。そうそう、NHKの「フォークの達人」を見逃して口惜しいくやしいと嘆いていた僕が、加川良を語らずして日本のフォークを語ってはならぬと一人で喚いていたのを配偶者が覚えていてくれたのだ。そういえば「A LIVE」が初CD化されたはずだ。財政厳しき折だが、何とかして入手せねばと心に誓う。

 ま、そのような感じで(どのような感じだ!)ビアホールの夜は更けて、そこそこ出来上がった人間もいて、次は二次会という話になった。僕は逃亡しようと考えていたのだが、普段の付き合いの悪さを指摘され、半ば強引に連れて行かれた。

 雑居ビルの中にある所謂昔ながらのスナックで、入ったら客は僕たちだけだった。暇そうにしていた店の女の子もボックス席に来て総勢10数名で二次会が始まった。この手の会には付き物のカラオケも始まった。書き忘れたが、会社では僕は最年長でほとんどが一回り下だ。一番若い奴とは親子ほど年が違う。したがって歌う歌も当然異なる。僕は何故かカラオケはビートルズの人だと思われていて、すぐビートルズナンバーを歌えといわれる。いわれるのだが、そんなことを言う人間はビートルズといえば「イエスタディ」か「レットイットビー」くらいしか知らない奴ばかりだ。しかし、こういう場では盛り上げることが大事なので、みんなの期待にこたえてビートルズナンバーを歌った。「I will」だ。ポールがホワイトアルバムで歌っていた愛らしいバラードナンバーだ。この曲のあとは続けてジョンの「Julia」が歌いたくなるのだが、そういうわけにもいかない。3分もないくらいの短いナンバーだが誰も知らないようで、場は一気に静まった。

 これはイカン。年寄りが雰囲気をぶち壊した、などと陰口言われるのは嫌なので、盛り上がる歌を探した。そうだ、ボ・ガンボスがあるじゃないか。「ダイナマイト~」か「魚ごっこ」で一気にいったれと思って歌本(いや、正確には鉄人を操作するリモコンみたいなやつ、デンモクとか言ってたか)で調べると、曲は結構あるけど「ダイナマイト~」と「魚ごっこ」は入ってない。ちょっと考えて「トンネル抜けて」を選んだ。誤算だった。トンネルは抜けなかった。それどころか歌っている間中延々とトンネルの中にいる気分だった。お店の女の子と話してる声が聞こえる。オツマミのビニール袋を破る音が聞こえる。誰も僕の歌など聞いていない。

 歌い終わると、店の女の子が義理的に「誰の歌ですか?アメリカの歌?」などと聞いてきた。てめぇ、ボ・ガンボスも知らずに良く生きてきたな、と説教してやろうかと思ったが、そこは大人の分別でぐっと堪えた。周りの連中は「女難の風」だの「イブクロ」だの、なんだか良く分からない歌を歌っている。無理やりマイクを向けられたので「目を閉じれば、暗闇が見える~」と歌ってやったら、殺気を感じた。あ、浮いてる、と思った。しかし、ここでひるんではいけない。シラケっぱなしの70年代(by人間もどき)を生きてきた人間として、ここは一発パンタを歌って、こいつらをアジったろと思い歌本、いやデンモクで調べた。パンタは1曲だけあった。「マーラーズパーラー」であった。

 僕も大抵無神経だが、この場所で♪ロクデナシ野郎赤い羽根、ミシンを担いだギタリスト、かさをかぶったベーシスト、オイラは銀河のニヒリスト~と歌う度胸はない。他にないかと探したらパンタ&HALがあったので見てみると「つれなのふりや」であった。♪俺の声が聞こえるか、おれのこえがきこえるか~と歌ってもみんな聞こえないと答えるに決まってるので、こちらも断念した。しかし、カラオケでパンタを歌おうというのは無謀なんだろうか。もっと一般に受け入れやすい歌あると思うのだが。ちなみに頭脳警察で調べたら「いとこの結婚式」だけあった。

 パンタを大人の配慮で断念した僕だが、なんとなく収まりがつかない。荒木一郎をうたおうかと思ったが、誰ですかと聞かれてシンガーソングライターという言葉がなかった頃の日本が誇るシンガーソングライターなどと説明するのも面倒なのでやめた。しかし、何かロックが歌いたい。ストリートスライダーズの「easy action」があったが、隣の席に座っていた奴にスライダーズ知ってるかと聞いたら、何かの遊具ですかと答えられたのでヤメタ。そうこうしている内に頭の中で「エレカシ」という言葉が浮かんだ。そうだ。エレカシがいた。曲はエレカシがポップ路線に移行した第一弾「四月の風」に決定。大絶叫したら、意外に受けた。流石にエレファント・カシマシはみんな知っていた。図に乗ってとどめにキヨシローだと「いい事ばかりはありゃしない」を歌ったら、みんなうつむいてしまった。若い連中だけに身に染みたのだろうか。

 ということを経験して、ふと我に返って考えた。僕たちが一緒に歌える歌はあるか、と。いやもちろん一人ひとりに歌う歌はあるだろう。好きな歌もそれぞれだろう。しかし、僕たちのみんなで歌える歌はなんだろうか。いつかまた考えてみたい。ちなみに加川良の「A LIVE」は昨日、仕事帰りに寄ったタワーレコードで見つけてゲットした。ついでに半額セールのワゴンを覗いていたらレイ・デイビスの「The Storyteller」というアルバムを見つけた。セルフカバーなんだろうか。これからじっくり聞いてみるつもりだ。

オリーブの樹の下で~心の砦

 思うところあって、ちょっとブログの更新を休んでいた。いや、家に帰ってPCを立ち上げることも少し避けていた。理由はいろいろあるが、気が向いたら書いてみるつもりだ。

こんなことをやっていて何の役に立つのだろうと思いながらも、今日もパンタのニューアルバムから重信(母)の書いた詩を転記する。ここで描かれている情景は70年代後半に大学移転問題を全学的な闘争課題にしようとしていたグループとそういうことには一切関わろうとしなかった圧倒的多数の学生達がいた某D大学の風景とオーバーラップする。もしかすると僕は向こう側に居たかもしれないし、あなたはこちら側だったかもしれない。人がどっちに立つかなんていうのは本当に運命のいたずら、人知の及ばないところかもしれない。

「心の砦」

風になびく赤旗 乾かない立て看の横
ハンドマイクひとつで アジっていた君
ドンキホーテの愛の言葉は 風を裂いて
ドンキホーテの愛の言葉は 星に届く 熱い光線

冬のバリケードに陽 着ぶくれたままのスクラム
声を限り歌え インターナショナル
ドンキホーテの愛の言葉は 息を弾ませ
ドンキホーテの愛の言葉は 星に届く 熱い光線

果てしない不条理 心に砦 築いて
密かに生きて生きて 生きてきた君
ドンキホーテの祭り再び 時間を練って
ドンキホーテの祭り再び 子等に届け 熱い光線


非常にシンプルで解り易い詩だ。パンタの歌い方も優しい。メロディは、多分今までのパンタではちょっと浮かばなかったものではないか。ああ、もどかしいな。あの時間と空間を共有した人たちに是非聞いてもらいたい歌だ。

オリーブの樹の下で~来歴

 エレピと2本のギターが軽快なイントロを奏で、力を抜いたパンタのボーカルが響く。バックの菊池のコーラスが綺麗にハモっている。曲調はまるで70年代のフォークソング、「ひとりー、ひとりー、Woo」のところが耳に残る。アルバムの1曲目にこんな軽い歌を入れたのは多分初めてではないだろうか。あ、スィート路線の2枚は除いて。「来歴」という詩のタイトルが物語っているように、これは重信房子の半生の履歴であり、それをこのアルバムを購入するであろうオーディエンスの履歴にもオーバーラップするようにパンタが手を入れたのではないか。などと、昔の「若手」ロック評論家時代のようなことを書いてしまったが、全く「予想外」の歌とサウンド、そして歌詞に驚きながらこの「オリーブの樹の下で」を聞いた。

 先日のエントリーに書いたように、このCDが届いてから毎日聞いている。音的にはどこかで聞いたようなフレーズや、アレンジが耳につき、決して今風の流行の音ではないのだが、パンタの技巧的な歌詞と異なり、重信房子のシンプルな歌詞がすんなり耳に入ってくる。僕より一回り上の世代なので、同時代的に経験したことはないが、京都時代に聞いたさまざまな噂話や、また自分自身が大学のキャンパスやサークルのBOXや学生会館で体験したことなどが、ああ、彼女達の時代にも同じようなことがあったのだと普遍的に思えるような歌詞になっている。もともと重信房子という人の書く文章は、易しくて読みやすい。一頃の話の特集によく投稿してあったり、日本赤軍の活動の履歴として1冊の本にまとまったりしたものを読んだが、どれも平易に分かりやすく書かれていた(いや、もちろん「運動用語」や「革命用語」などは専門的で、分かりにくいものも当然多かったが)。

 病気で仕事を辞めて、何も出来なかった頃に「リンゴの木の下であなたを生もうと決めた」という、非常にインパクトのあるタイトルの本を読んだ。そこには革命家であり、なおかつ一人の母親である重信房子の姿が例によって分かりやすい日本語で書かれていた。そこに書かれているのは本の作者の重信房子と娘メイを産み育てていく話だが、僕はそれよりも彼女の父親の末夫を語った部分が印象的だった。この父にしてこの娘ありで、お互いを理解し合えた理想の親子ではなかったか。さまざまな「事件」を起こした娘を、興味本位で糾弾するマスコミに対して毅然たる態度を取る父親。僕にはとても出来ない。

特殊なケースの特殊な親子関係と断じてしまうのは簡単だが、その本の中にはわが子のことを思う親の気持ちがあふれていた。父(末夫)が娘(房子)を思う気持ちと、母(房子)が娘(メイ)を思う気持ちは連綿と続いていく。革命家も子供にとって見れば親なのだ、と当たり前のことを読後考えた。つかこうへいの小説のようにはいかない。

 ロックの歌詞を、それだけ取り上げることに何の意味があるか、とも思うのだが、僕がこのアルバムに惹かれる理由のひとつが素直な感情を表した歌詞にある。みんな知ってるかな、この歌詞を書いた人は未だに拘置所にいて去年、懲役20年の実刑判決を受けたんだ。控訴しているがこれから気の遠くなるような時間が過ぎ、実刑が確定したらシャバに出てくることは先ず不可能だろう。しかし、どの歌詞も明るく楽天的だ。今の時代がおかしいと感じながらも、明日を夢見ることを決して諦めていない。僕もいろいろあるが、落ち込んでばかりいられない。I’m not down(by The Clash)である。

「来歴」 作詞:重信房子 補作詞:PANTA

夕焼けの空 追って トンボ取りに夢中
気づいたら誰も居なくなった 夕暮れに独り
みんな どこに行ったのか ボクは今も独り
トンボを追いかけている 夢にはぐれて 独り 独り

夕暮れの町 追われて 虫カゴでもがいてる
気づいたら誰も居なくなった うなされて起きて
額の汗を拭った ボクは夢の中で
虫カゴの外を見てる 夢に沈んで 独り 独り

アジテーションの叫び ジグザグデモのスクラム
気づいたら誰も居なくなった パクられて独り
みんな どこに行ったのか ボクは今も独り
バリケードの中にいる 夢にはぐれて 独り 独り

ボクは今も独り トンボを追いかけている
夢にはぐれて 独り 独り

夢にはぐれて 独り 独り


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