静けさが欲しい

 今週は比較的静かな1週間だった。いや、これは比喩ではなく物理的に、物音がせずに静かであった。どういうことかというと我が家の騒音メーカーである下の子が修学旅行で3泊4日間、家を空けたからだ。火曜日の朝6時くらいに出て行って、金曜日の夜の8時くらいに帰ってきたので、その間の静かだったこと、ここ10年くらい経験したことがないくらいだった。我が家の騒音の98%はこいつが源だったと再認識した。だいたい出発する日の朝一番から、配偶者とケンカしていた。持っていくバッグをどれにするかで朝の5時半くらいからケンカしているのだ。今更こんなことを書いてもしょうがないが、僕は朝方に熟睡するほうであるが、いったん目が覚めると再度寝付くのに時間がかかるタイプなのだ。所謂、繊細とかナーバスという言葉が服を着て歩いている、などとよく人に言われる(ウソ)。その朝方熟睡しないとその日一日死んだようになる僕の耳に「なんで親の言うことが聞けんと!!」という大声や「わたしは、これは嫌なの。こっちがいいの」「そんなの持ってたら人から笑われる」「私の友達は笑わん!!」「親が笑われる」「あー、分かった、わかった。これを持って行けばいいんでしょう。持って行きます、ハイハイ」などという親子喧嘩の声が飛び込んできた。

 「やかましい」と起き出して一喝しようかとも思ったが、母子の修羅場に不用意に参加して双方から一斉射撃を受け、一体オレの何が悪かったのかと考える間もなく、第二次母子戦争に突入、こちらは無制限一本勝負、という何処まで続くぬかるみぞ状態になったことは自慢ではないが片手ではすまないくらいある。こういう時には聞こえない振りをしているのも家庭内PKOの一手段であることもかつて学んだ。まあ、そういう大騒ぎのあと、配偶者が空港まで子供を送っていき、そしてその日から金曜日の夜まで、本当に我が家は静かだった。家庭内で飛び交う言葉は「おはよう、こんにちは、さようなら」(byエレカシ)に「いただきます、ごちそうさま」あとは、なんだ「おやすみ」くらいだ。無駄なおしゃべりは一切なし。必要な会話もないのではないかという気がしないでもないが、まあ、そこはそれ、お互いたいした用件もなかったのだろう。

 ところが金曜日の夜に娘が帰ってくるや、まあ、おしゃべりの嵐である。もともと乗り物酔いする子だったが、3日目のUSJの帰りのバスで気分が悪くなり、晩御飯も食べれず、ホテルで一人泣きながら寝ていて、心配して様子を見に来た先生に寝ぼけて「マミー」と言ったらしい。『それは、大変だったね』と物分りのいい父親を演じていたが、急に気分が悪くなってきた。というのも、配偶者とこの子の仲の悪さは天下一品(※ 京都の北白川に本店があるラーメン店のことではない)であり、事あるごとに、お互い「嫌いだ」と言い合う姿は、まさしく不倶戴天の敵とはこのことだ、と思わせるものがあった。その反動でか、僕には頼りきりで、僕も出来の悪い子ほどかわいいという奴で目にかけてやっていたのに、そうか、やはりしんどくなったら母親かと、思わず声を荒げてしまったら、「いや、最初は『パピー』って言ったけど、そのときは先生は居なかった」とフォローされてしまった。我ながら大人気ない。

 しかし、お土産を山のように買ってきており、もちろん女の子なのでお菓子類が多く「生八つ橋」や奈良の鹿のフンのお菓子など、牛に食わせる気かと言いたくなる位買ってきていた。また個別には姉用に大学受験のお守りと僕にはいつもお金がないと言ってるから金運上昇のお守りを買ってくれていた。そういう意味では優しい子である(このあたり親バカだが)。ところで配偶者には何のお守りを買ったのだろう。怒らなくなるお守りだろうか、両者とも何もコメントしないので分からないが、何もないはずはない。もしかするとオレのお土産より高価なものを買ってきたのではないか、などと邪推するのは小人である。僕のモットーは人生おおらかであるので、気にしない。気にしないが調査はしておこう。その調査の結果次第で僕の家事労働に対する参加の度合いが変わるかもしれないが、それは因果応報というものであろう。

 ところで、もうお気づきかと思うが、この子の修学旅行は関西方面、京都・大阪・奈良である。断っておくが、中学生である。最初、この旅行の話を聞いた時は激怒した。「なんでや、まだ義務教育のくせに、贅沢や。オレラのころは福岡・熊本・長崎の北九州ツアーやったぞ」というわけである。以前、書いたかもしれないが僕は中学の修学旅行は2回行った。一度目は中2の時延岡市に住んでいて、その時通っていた中学校のみんなと行った。中3で宮崎に引っ越したら、いきなり修学旅行である。行き先も同じだし、転校したばかりで親しい友達も居なかったので、行かないと親には言ったが、学校に馴れて友達と仲良くなるために行けと言われて行った。しかし、前年全く同じルートで言ったところなので、バスのガイドさんの話も覚えていたので、話の先回りをして落ちを言うなどといういやらしいクソガキ振りを大いに発揮した。そういえば、あの頃バス旅行には必ず小さな歌本というか、ハンドメイドの小冊子にその地域の民謡や、方言の説明、または当時のヒット曲や全員で合唱する曲(流石に観光宮崎だけに「フェニックスハネムーン」の歌詞は必ず載っていた。しかし14,5歳の男女にあのような歌を合唱させるのは如何なものかと今にして思う。まさか21世紀の今日は、そのようなことはナイだろうが、万一未だに記載されているようであれば、関係方面に可及的速やかに善処をお願いしたい、などと、お役人用語を使ってしまった)などが書かれてあった。

 それともうひとつは車内でやるゲームというか、歌遊びであるが「外国語のお勉強」とかいうのも良くやらされた。♪外国語のお勉強、みんなで、皆でいたしましょう~パンシロンは何語でしょう~そうですね、そうですねパンシロンは「食後」です。今入力していて一瞬目眩がした。いや、あまりの下らなさに怒り心頭にこみ上げて一瞬切れそうになったようだ。しかし、このような笑いが通用するある意味平和な時代だったのかもしれない。中学は2回修学旅行にいけたのだが、高校はゼロ、つまり修学旅行がなかった。いろんな理由があったのだろうが、もうどうでもいい。ちなみに上の子は僕の通った高校に行ってるが、今はちゃんと修学旅行はやっている。いや、ちゃんとどころか希望者はイギリスはロンドンに行けるとのことである。これは、これで腹が立つというか、若者よ慌てて海外に行ってかぶれるくらいなら、国内をしっかり見て回れといいたい。ロンドンなんかニッポンにも一杯ある、♪楽しいロンドン、愉快なロンドン~というCMソングもあるではないか。いや、その、僕は行った事はないが。

 高校時代は修学旅行がなかったと書いたが、その代わりに高1の夏休みに串間市に2泊3日で学年キャンプみたいなのがあった。もっともキャンプとは名ばかりで、地元の小さな小学校の校舎に寝泊りし、ちょっとしたキャンプファイアーをやったくらいだが。そうそう、このとき後にサザンオールスターズのギタリストになるO森君(イニシャルになってない)はフォークギターを抱えて歌っていた。僕の記憶では彼のギターより、飛び込みで登場したK君の「プラウドメアリー(byCCR)」と「カレーライス(byエンケン)」(今、考えると凄い選曲だが)のギターに驚いた記憶がある。あとでK君は小さいころからバイオリンを習っていたのでフィンガリングが正確だと聞いて、納得したものだ。

 その高校のキャンプも地元観光バスで行ったのだが、あれはなんというのか、紅白しりとり歌合戦とでも呼べばいいのか。男の子と女の子で別れて、お互い歌を歌い、その歌詞のしりとりをするというゲームをやった。せっかく男女仲良く、同じバスで行くのだから協力して「インターナショナル」か「ワルシャワ労働歌」でも歌えばいいものを、などと思うのは60年安保世代であって、残念ながらボクらシラケ世代では男女が一緒に歌う歌は「赤色エレジー」くらいしかなかった(ウソ)。ちょっと話が脱線したが、そのバスの中で結構歌のしりとりは続いたが、女子が歌った歌が「た」で終わり、「た」で始まる歌がないと男子が騒ぎ始めた時僕は、ある歌を思い出して絶叫した。

 ♪タバコを吸いなーがら、いつでもつまらなそうに タバコを吸いなーがら、いつでも部屋にひ、と、り~ご存知RCサクセションの「ぼくの好きな先生」であった。
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Meeting in this way,~パート3

 「ところでお前の下宿って、銀閣寺の奥のほうで石段を上がっていって、襖と障子を開けて入る、ちょっと変わった下宿だったよな」「あそこは元外交官の邸宅だったんですよ。純和風な古風な家で、2階にその外交官の奥さんだったお婆ちゃんが、まあ、大家ですよね。住んでて、他には京大の助手の夫婦や外国人の夫婦なんかが入ってました」「へー、なんや知らんがアカデミックというか、いかにも京都という感じの下宿やな」「実はそこの大家さんから、もう下宿は廃業するから出てくれって言われて、それでS友荘に引っ越すんですけど、オレが引っ越したあとも、その京大の助手なんかそこに住んでたから、あれはオレを追い出すためのウソやった、ちゅうことですわ」「まあ、大家が下宿人を追い出すときの常套手段やな、て、チョイ待て。お前S友荘に住んでたの?」

 S友荘というのは、僕が京都での最後の2年間を過ごした烏丸中学前にあった木造2階建ての細長いアパートである。この3部作のエントリーの第一話に出てきているので詳細は省く。そうだ、今思い出したがこのアパートには通称「お化け」という仇名の老夫婦が住んでいた。年のころは50代後半から60代前半くらいだろうか。ご主人は無口な人で挨拶も碌にしない。毎朝早い時間に作業着を来て、弁当を手に持ち出かけて行き、夕方5時過ぎには必ず帰ってくるという規則正しい生活をしていた。片や、僕のほうは大抵徹夜明けのぼんやりした目でご主人が出て行くのを見送り、夕方ご主人が帰ってくる時間に学生会館かアルバイト先に出かけるという、昼夜反対の簡単にいうと世の流れに逆らった生活をしていた。その因果が今まで続いている。やれやれ。

 このS友荘は最初に映画研究会のサークル員でもあったK君が入っていた。共同玄関のところにコイン式ガスコンロが並んでおり、そこに共同の大型冷蔵庫もあった。また階段の下には赤電話(『なんだ、赤電話くらい』と今の人は思うかもしれないが、携帯などその存在すら考えられない時代である。アパートの大家に取り次いでもらう電話では気兼ねして使いにくい。その点この下宿はかかってきた電話は誰か住んでる人間が取って、呼び出してくれる。ちょっと気の聞いた奴なら不在の時は伝言をメモしていてくれる。電話をかけるときも時間を気にせずかけられるというメリットがあったのだ)が置いてあり、大家さんは全然別の通りの家にいたので、多少騒いでも苦情など来たことがなかった。良く考えてみると建物は路地の奥にあり、敷地内にはもう一棟S水荘という同じく木造2階建てではあるが、こちらは室内に流し台がついており、やや家賃が高かったアパートもあった。僕の住んでいたS友荘は北側にあり、その北側には普通の家が数軒建っているのだが、その間に小さな竹林もあったので、騒音はそこが吸収したのかもしれない。いや、訳の分からない学生が十数人住んでるアパートに騒音がうるさいと注意しに行くのは相当度胸のいることなので、直接は言えず大家のところに苦情が行ってたのかも知れない。

 下宿の騒音ということなら、もう数え切れないほどの失敗談というか、ちょっと古いが「武勇伝、武勇伝」がある。ひとつ披露すると、こちらはまだ修学院時代だから大学1回生の頃だが、岡崎のほうに下宿を借りた友達がいた。彼は以前は修学院の僕と同じ下宿に住んでいたのだが麻雀ばかりやるので追い出され(入れ替わりに僕がその修学院の下宿に住み始め、その下宿に前の年からいた住人から、麻雀したいならこいつに連絡すれば、いつでも飛んでくると紹介されたのだ)、一応徹夜はダメだが夜11時くらいまでなら大目に見てくれるという下宿を根性で捜したのだ。その当時、下宿での麻雀は禁止しているところがほとんどで、岩倉のような人外魔境なら許可されていた(学生を集めるための苦肉の策かもしれない)が修学院以南の都市部ではほとんどゼッタイといっていいくらい禁止されていた。とはいえ、大学1回生の必修科目は酒、麻雀、パチンコといわれた時代であるから、え、そんなことないって。混迷と沈滞の70年代でもまじめな人はちゃんと一般教養の単位を取っていたといわれるか。耳が、耳が痛い。

 一応反省したようなポーズを終えて、話を戻すと、その岡崎の下宿で徹夜麻雀をやると連絡をもらい、僕は夕闇の中自転車をこいで、その下宿に向った。BGMは当然「自転車に乗って」である。下宿に着くと野阪昭如みたいな黒メガネをしたオジサンがいて「何とまあ、キョウビの学生の服装は派手なこと」と僕を見て言った。そのときの僕の服装は大きな横じまのトレーナーだったが(本人としてはデレク&ドミノスのライブアルバムの内ジャケットのクラプトンが着ていた縞のTシャツを意識していたのだ、と、説明がくどい)、説明するのも面倒だったので「これラグビーのラガーシャツです」と適当なことを言って、雀友の待つ部屋に転がり込んだ。僕が最後の一人だったので、待ちくたびれた3人はてきぱきと席決めをして、点棒を配り早速男の戦いが始まった。

 始めたのは夜の7時くらいだったか、あっという間に時間は過ぎて11時を回ろうとしていた。「そろそろ大家が注意しに来るから、伏せ牌でやろう」と下宿の主が言った。伏せ牌とは、牌を全て裏返しにして、混ぜる時もそれらが表向かないように、また激しい音がしないように静かに混ぜるやり方だ。話し声も気を使った。11時を15分ほど過ぎた頃、ちょっと気を使ったような声で「おい、そろそろ終わらんかい。徹夜はアカンで」とさっきの黒メガネの声がした。なんとこの下宿の大家だったのだ。「あと少しで終わります。ダイジョウブです」と下宿人は言う。そんなことはない。この場に結集した全ての戦う人民達は夜を徹して、麻雀を貫徹するために修学院から、高野から、北白川から結集しているのだ。大家の不当な干渉は許さないぞ、などとは決して言わず静かに深く潜行しながら戦いを続行した。

 それからどれくらい時間が経っただろうか。1時はおろか2時は完全に回っていたと思う。大家さんにばれないように伏せ牌で、話し声もひそひそとやっていたはずなのだが、いつの間にか負けが込んできた人間が、「こんなチマチマした混ぜ方してるから牌が偏るんや」と宣言して、大きく両手を使って混ぜ始めた。話し声も遠慮無しに「てぇい、通らばリーチや」「アホ。通るかい!!ローン、ローンレンジャー」「あ、きたねー筋引っ掛けや、お前麻雀の筋より人間としての筋を通せや」とかもう、あたりかまわず罵声が飛び交うようになっていた。深夜2時過ぎである。まともな人間は寝ている時間である。そのあとどうなったか、みなさん容易に想像がつくでしょうが…。

 「やかましー、今、何時や、徹夜は困るとあれほど言うとるのに、何で徹夜するんや!!」黒メガネが突然、下宿のドアを開けて乱入してきた。ノックもせずに非常識であるが、だれもそれを咎め様とはしなかった。当然である。徹夜麻雀が禁止されている下宿でこんなことをしているほうがどう考えても非常識である。叱られた僕らは全員しゅんとしていた。いや、違う。この部屋の主だけは挑むような目つきで大家を睨んでいた。彼が一番勝っていたのである。この大家の乱入でサドンデスというか、全部無かった事にされたら一番困るのはこの男である。

 黒メガネは自分で喋っているうちに興奮するタイプらしく段々話が変なほうに行き始めた。「お前ら4人おるから思て、なめとったらあかんど。わしこう見えても十字拳法3段や。お前ら束になってかかってきても、あっという間や。お、来るか、お前、表出るか」全員が頭を垂れていれば良かったのに、下宿の主が一人反抗的な目つきで睨んでいたので、黒メガネは少し焦ってきたようだった。「わしな、こう見えても学生の味方やったんや。麻雀もあかんとは、言うとらんやろ。ただ徹夜はあかん、明日仕事に差し障るから、徹夜はやらんといてくれ、と、こう言うとるわけや。何が不満なんや。わしんとこな下宿始めて間もないやろ。そやから最初は、学生に喜んでもらおうと思て、風呂にも入れとったんや。そしたらもうみんな無茶苦茶しよんねん。タオルを湯船につけるは、浴槽に髪の毛やら汚れがプカプカ浮いとったり。ありがたみを分からんから、もう風呂は貸さんようしたけどな」

 「下宿で風呂に入れてもらおうなんて思ってません。風呂は銭湯に行きます」下宿の主が冷静に答えた。「風呂、風呂の話と違う、麻雀、徹夜麻雀の話や」黒メガネが泡を食って言い始めた。「風呂の話ししたのはおじさんのほうですやん」主は冷静に言った。「お、お前、なんや学生のくせして、その態度は。すんませんとかごめんなさいとか言えんのか。おま、お前、わしをなめとるのか」「別になめてません」「その態度が舐めとる、言うてるんや。お前なんかもうええわ。出て行け、この下宿から出て行け。今月の家賃いらんからさっさと出て行けや」「分かりました。次の下宿決まったら出て行きます。そやから、もうおじさんも寝てください」黒メガネのあまりの剣幕とその声の大きさで寝ていた他の下宿人も起きだしてきて、さらには、亭主の様子を心配して奥方も来た。流石にこういう時は女性のほうが冷静である。「もう、あんたはすぐ興奮して。ごめんね。出て行けなんて本気やないから。でも、もう麻雀はせんといて。ほら、あんたももう帰って寝らんと明日も早いんとちがう」

 奥方がなだめながら黒メガネを連れて行った。寝ているところを起こされた他の部屋の下宿人たちも三々五々と散っていった。僕はあっけに取られたのと、何だか黒メガネが可愛そうになったのと入り混じった複雑な心境で、もう麻雀はやめて帰ろうと思い立ち上がった。途端に下宿の主が「何処行くねん、まだ夜は明けてないど」「え、もう止めるやろ。お前今度見つかったら本気で追い出されるぞ」僕以外の残りの2人も同じ心境だったと思う。「帰るんなら、お前とは二度と麻雀はせん。それと負けた分のお金この場で今すぐ耳をそろえて払え」「お前は鬼か」しかし、そう言われておめおめと金を払って帰ったら、この男からボロカスに言われるのは火を見るより明らかだ。僕はバービーボーイズの歌の文句を口にした。「負けるもんか」(ウソです。この頃はまだバービーはアマチュアでもない、存在すらしてなかった時期です)。結局明け方の7時前まで伏せ牌で静かに勝負は続き、流石に粘った下宿の主の一人勝ちであった。

 徹夜明けのけだるさと、勝負に負けてなけなしの金をむしりとられた空しさとが複雑に交錯するなか自転車のところに行き、帰ろうとしたその時「おはよう」という元気のいい声がした。黒メガネが全身これ笑顔というようなすがすがしい顔で挨拶した。「なんや、どないした。負けたんか。あかん、勝負は負けたらあかん。勝つまで石にしがみついてでもやらんかい。わしも麻雀では何度も泣いたが、おかげで今では向うところ敵無しや。十字拳法は3段やが麻雀は十段や」このオッサンは分からん、と思いながらも、まあ、機嫌を直してくれたようで良かった。今日は負けたが次回は必ず勝つ、と心に誓いながら修学院に帰り、朝日食堂で鮭茶漬けを食って寝たのだ。

 …。えーと、S友荘のお化けはどうなったか、それより3部作という以上これで終わるはずではなかったのか、と複雑な気持ちが交錯する今日この頃です。いや、人間覚えてるもんだな、ていうか、思い出すもんだ。話がすっかり飛んでしまった。続きは、気が向いたら書きます。

Meeting in this way,~パート2

 「既に語りつくされた議論かも知れんが、アナログ時代のLPレコードで作っていたアルバムとデジタル時代のCDでは、その本質はまったく別なものではないのか。ということを、そのうちブログで展開してみようと思っているんだ」と僕は宮崎地鶏を食べながら話した。「あ、それは当然ですよ」とSM君(sugarmountainというHNは長いので、省略形にさせて頂いた。他意はないし、サディスティックミカバンドの頭文字でもないことをお断りしておく)が答えた。彼曰く、アナログというのはビニールに溝を掘って録音するわけだから当然回転する距離が長い部分(アルバムの最初のほう)と短い部分(アルバムの終わりのほう)では音質が全く違う。したがってアナログ時代はミュージシャンが表現するのにアルバムの1曲目や2曲目にはハードな曲を入れ、アルバム最後(A面であれ、B面であれ)のほうには、おのずとバラード的なスローナンバーを入れるのだと教えてくれた。

 その話をしながら僕は「音楽に対する聞き方というか、アルバムに対する接し方もアナログとデジタルでは全然違うよな。アナログだと先ず、アルバムジャケットをじっくり見て、A面を聞く。聞き終わった後は、そのときの気分ですぐに裏面にして聞くか、一服してもう一度アルバムジャケットやクレジットを見て少し考えたりしてな。でもCDて言うのは、一気に70分80分だからつまらないアルバム聞くとつらいよな」そうなのだ。僕自身がロックを音楽を少し覚めた目で見ていた時期が丁度CDが普及し始めた頃で、なんとなく聞いていてつらいものがあり、積極的に情報を求めることもしなくなり、良く考えてみるとそのあたりから仕事が忙しくなり、学生時代のサークルの仲間と段々疎遠になっていったのではないか。その後結婚して、子供も生まれて毎日の生活に追われる日が続き、あるとき突然壊れてしまった。

 「それからCDはCDでいいんだけど、アナログをCDにする時は余計な手を加えて欲しくないよな。このアルバムはこの曲順だ、てのがあるよな」「ボートラのことですか」「ボーナストラックといいなさい。何でも縮めるのは日本人の悪いくせだ」「相変わらず理屈が好きなオッサンでんな。たしかにボートラは欲しいけど、別ディスクにして欲しいですよね」「そういえばさっきのアナログ、デジタルの話しだけど、昔からオレが気に入るアルバムのラストナンバーはアコギで始まるバラッドナンバーなんだよ。ボウイの『ジギー』、ボブ・マーレーの『アップライジング』、キャット・スティーブンスの『フォリナー』などなど。言われて見れば単なるレコーディングの技術的な問題だったのかも知れないが」「そやから、今のミュージシャンは1発目からスローなバラードを立て続けに録音することもありますね。デジタルだから音を気にせず、好きにできるというのはメリットでもありまっせ」などと、前回のエントリーとうって変わってというか、お酒が回る前はこういう固い音楽談義などもしていたのだ。考えてみたら僕のいたサークルでは、しょっちゅうこんな話をしていた。

 「しかし、drac-obさんもサークルの頃はパンク・ニューウェイブの人、ブリテッシュオンリーの人だと思ってたんすけど、ブログ読んで加川良とか、フォークとか聞いてるとは思いませんでした」「いや、それなりに聞いてはいたけど、正直言うとそれほど好きではなかったのよ。加川良は一緒に野菜ドロボウしたS戸君が好きで、北白川の下宿に行くとしょっちゅう「こんばんはお月さん」聞かされたんや。高田渡はR大学に好きな奴がいてそいつがギター弾くとしょっちゅう渡の歌ばかりで、『茶しばきいこか』と誘うと必ず三条のイノダまで行くから参ったよ。出町の三角州で集まってアコギをかき鳴らし大声で歌い、周囲の人たちに多大な迷惑をかけたのも今となればいい思い出だ」「そう、でしょうかね」「そうそう、高田渡はシチューのCMが流れた時にビックリして『まだ生きてたんや』と思い、マークしたけどタカダワタル的が出来るまで地味なままだったな」

 「そういえばこの前のエントリーで遠藤ミチロウの動画アップしてましたな」「おおあれか。YOU TUBEにあったからつい嬉しくてもってきたけど、多分みんな引いただろうな。コメントくれたの狸さんだけだったもんな」「実は以前Mっちゃんと友部正人を見に行ったんですよ。磔磔やったかな、そしたら「本日の特別ゲストの遠藤ミチロウ君です」て友部が紹介して、あのミチロウが出てきて『メシ食わせろ』か、なんかやったんですよ。それで客はもうドン引き。一応アコギでやったんですけど」「そうか、友部のバックでベース弾いてた時期があったから、その関係だろうな。しかし『一本道』で涙を流しに来たお客さんに『メシ食わせろ』はないやろ、オレは見たかったけどな」「いやもう、ミチロウの事知ってんの僕とMっちゃんくらいであとはみんな唖然として見てましたよ」

 「ところでお前、今まで気がつかんかったけどそのTシャツなんや」「ええでしょう、クラッシュのロンドンコーリングでっせ」「お前なぁ、いまさらクラッシュのTシャツなんか着るなや。そういえばお前のブログで70年代の25枚とかいう特集やっとったけど、あの中でクラッシュの「パールハーバー」だけ滅茶苦茶浮いとったな」「でしょう、僕のところの常連さんのコメントにもクラッシュ以外は全部擦り切れるまで聞いたなんて書かれましたわ。でもあれはDRACというかdrac-obさんの影響でっせ」「オレの影響?」「そうですよ、まだサークル入ったばかりの1回生のオレに『お前知っとるか、この「クラッシュシティロッカーズ」のギターのリフはザ・フーのナントカを意識して、こんなカッティングで弾いとるんや』、って、このオッサン何言うとるねんと思いながら聞いてました。でもおかげでクラッシュ聞くようになって、それまでアメリカンロック一辺倒だった僕の音楽の幅が広がったと思いますわ」

 「クラッシュ、カッコ良かったもんナ。音楽的には未熟だったけどやっぱ1枚目2枚目がええわ。そういえばジャズ班だったハタ坊も何故か「ポリスとコソ泥」を気に入って研究会で流したりしたな。そうや、お前知っとる?ハタ坊がバイトしてた有名なジャズ喫茶の「しぁんくれーる」でオレが持って来たポールのベストをかけて「アナザーデイ」が大音量で鳴り響いたことがあったんや」「そういえばdrac-obさん、T塚のこと好きやったん違います」「お前、懐かしいこというな。T塚か、T橋と一緒に入ってきた新聞局と掛け持ちだった娘やな。ウン、好きやったけど、あいつはお前らと同級?」「ええ、同級です」「そうか、オレ好きだったから告ったら、『私はI田君が好きなんです』って、言うから頭来て「お前、長崎の人間やろ、佐世保重工業の闘いをどうとらえるんや。単なる社会人の賃上げ闘争ちゃうぞ。しっかり総括せぇ」とか無茶言うたった」「はー、そんなことばっかり言ってたら女の子にモテまへんやろ」「ま、しゃーない」

 「ところでI田は、CHAから携帯教えてもらって何度か電話したけどいっぺんも出らんぞ。いや、一回だけオレが電話した次の日かかってきたわ。それで電話取ったらプッツリや。あいつ携帯の使い方知っとるんか」「I田は携帯繋がらんですよ。オレも毎回CHAを通してやっと連絡できる状態ですわ」「なんかムカつくな、ちょっとオレ今からI田に電話するわ。………。あかん、出らん。お前かけてみ」「ハイ。………。あきまへん、やっぱ出ませんわ」「そうか、ほんならシャーないからT原さんに電話してみるわ」

 と、このあたりから話がおかしくなり始めた。でも本当に面白いのはこのあとの各サークル員の話で、えー、そんなことがあったのか、とかナルホド、そんな裏話があったのかと感心するような話が山ほどありました。ということで、このエントリーは続きます。

Meeting in this way,no one could have known(by Gentle giant)

sugarmountain君、今時クラッシュのTシャツ着るんじゃねーよ!!

 前回のエントリーでも触れたが、鳥肌音楽の管理人であり、僕の学生時代のサークルの後輩でもあるsugarmountain君が、突然宮崎にやってきた。出張で宮崎の小林という町に来るので、週末『一緒にご一緒しませんか』(F田敏雄名言集より)というわけだ。この小林というのは宮崎から西に車で1時間ちょっとのところにある、自然の豊かな田園都市だ(まあ、宮崎は全部が全部、田園都市ではあるのだが。もちろんこの場合の比重は田園にかかっている。どうせ4階建て以上の建物はねぇよ、って、これは余計か)。前日に電話で話したときには4時半には仕事を終えて宮崎行きのバスに乗ると聞いたので、6時くらいには会えると考えていた。しかし20年以上会ってなかったので、お互いどんな風に変わっているか(または、いないか)楽しみであった。

 しかし、金曜日の夕方に宮崎に来ると聞いたので、当然その日はどこかのホテルに泊まると思っていたら、流石にヒッピームーブメントを生き延びてきた男だけあって、当日の23時50何分(ほとんど零時だ)発の特急にちりんに乗り、翌朝の5時半くらいに小倉に着き、朝一の新幹線で姫路に帰ると聞いたときには驚いた。兵庫、宮崎間を特急と新幹線乗り継ぎで移動するとは、こいつ貧乏学生の悲しいサガを引きずったままだなと先輩は判断した。大方、出張旅費を浮かせて、その金で中古CDの10枚、20枚買ってこましたろという腹だろう。おっと、いけない。都市生活者の皆さんには何のことか分かりにくいかもしれないが、宮崎~小倉間を走る特急にちりん、一度乗ってみてください。車窓に映る美しき風景や彩り豊かな駅弁などあっという間に飽きてしまい、あとはひたすら退屈な乗車時間が延々と続く地獄の黙示録的路線なのだ。しかも単線なので特急のくせに、場合によっては駅ですれ違いのための待ち時間があったりする。

 脱線した(うまいね、特急だけに脱線したってか。などというと娘達に『オヤジウザイ』と言われかねないので注意しよう)。当日電話が入り「Y形屋ってとこに今着いたんですけど、先に駅に行って帰りのチケット買っときたいんすよ」などというので、駅前の目立つビル(かのヒガシコクバル知事の事務所が入っている)のところで待ち合わせるようにした。僕がそのビルに着いたら携帯のカメラで写真を撮ろうとしている怪しげな男がいた。彼だった。相変わらずデカイ。3メートル50センチはあるだろう、って、そんなやつぁいねぇよ。学生時代と比べると皺と白髪が当然増えてるが、ほとんど変わっていない。彼は僕を見るなり「なんや、ますます監督に似てきましたな」などという。僕の外見が山本晋也監督に似ていることをおちょくっているのだ。相変わらず、先輩に対する尊敬の念というものがない。とりあえず駅に向って歩いていき、荷物をコインランドリーじゃねえよ、洗濯してどうする、コインロッカーに預けて、宮崎の飲食街に向けて歩き出した。『連れもってイコラ』ってやつだ。

 彼が宮崎に来ることを知り、遠路はるばる来てくれるのだから、何か旨いものを一緒に食べようと思ったが、僕自身がこの2年近くお酒をやめていたので適当なお店を思いつかず、色々聞いたり調べたりしたのだが、配偶者のおすすめで宮崎の地鶏も魚も食べられるお店を教わり、そこに行くことにした。電話で場所を聞き、アーケードを潜り抜けて、たどり着いたらいつも雨降り、って、これは以前使ったな、たどり着いたのは雑居ビルの1階の間口1間くらいの小さな、ちょっと薄汚いお店だった。まだお客さんはおらず、カウンターに座ろうと思ったが、なんせ彼はデカイのでカウンターで隣のお客さんにプレッシャーをかけるといかんと思い、座敷に上がった。これは正解で、学生時代に良く行った居酒屋で飲みながら喋ってるようで、あっという間に時間が30年ほど遡った。

 本当に久しぶりの再会を祝い、乾杯してそれでも最初はマジメにそれぞれのブログに対する考え方や、アナログレコードにおけるアルバムとCDになってからのアルバムでは、根底から違うのではないかなどとちょっとした音楽談義に花が咲いた。いや、その前に共通の友人であるK君(77年度生だから僕の2年後輩で、sugarmountain君にすると2年先輩に当たる)の結婚式の時に会って以来、よくぞこうして再会できたなというネットの恩恵について喋った。やや暗い話になるが、僕が鬱を患い仕事も辞めて家で、それこそ鬱々としてPCに向っていた時、学生時代に入っていたサークルの名前を検索してみた。僕のHNにもなっているDRACという言葉で検索したら夥しい情報(そのほとんどがコンピュータ用語のDRACについてだったが)の中に、「DRACの末裔による徒然の日々」なるブログがあった。早速開いてみると管理人は僕より7,8年上の先輩で、当然面識もなくまた当時はクラシックの話が多かったのでとりあえずブックマークしただけで積極的に読んだりはしなかった。しかし、時間だけはたっぷりあったころなので、毎日訪問し過去ログなど読んでいたらsugarmountainというHNで79年にDRACに入ったと書いてあるコメントを見つけた。

 79年といえばオレが5回生の頃で、一番別館でブイブイ言わせとった頃や、と思いながら、当時のサークル員でこの手のブログを書くのは誰だと考えたら(いえいえ、考える間もなく、そこに書かれている音楽の傾向で)一発で「あいつや○○や!」とそのデカイ図体とそのくせ妙にシャイなところがある(君はEVEの情宣でポスター貼りに行かせたことがあったが、一人で喫茶店に飛び込めといったら8時20分の眉をして半べそかいた事をよもや忘れてはいまいな)sugarmountain君の人懐こい顔が浮かんだ。決定的だったのはこのエントリーである。ここに出てくるおよそ人間としての感情のなさそうな先輩は僕である。しかし、確かにこういうやり取りをしたのは間違いない。実はその日は冬の寒い日で僕は後輩(大学の5回生だから大抵のやつは後輩になるわな、いやちょっと待て、6回生の先輩もいたな、鹿児島のT原さんだ)のH本(エッチボンじゃないよ)、M原と3人でビリヤードに行った。

 顔立ちは綺麗なのだが、ちょっと頭のねじは巻きすぎて切れちまった(byパンタ)のではないかという噂の姉妹がいるビリヤード屋で、そこには台と台の間にダルマストーブと家具調テレビが置いてあった。シュンシュンと湯気の立つ音がする中、僕たちは玉突きに興じていたのだが、そのとき昼のワイドショーのキャスターが突然こんなことを言って僕達を驚かした。「ここでビートルズファンの皆さんにはショッキングなニュースが入りました。元ビートルズのジョン・レノンさんが射殺されました…」僕達3人はキューを持つ手を止め、画面を見た。ジョンが殺されたのは間違いないようだ。まあ、ジョンらしい最後といえば言えるな、などとお互いポールファンのH本とあんまりビートルズには思い入れのないM原と喋りながらボックスに戻り、そこで「ダブルファンタジー」をかけていたsugarmountain君にジョンの事件を教えたのだ。

 先輩の話に耳を傾けていたsugarmountain君だが、ジョンの死を知るとマジで顔面蒼白になり「ちょっと行って来ます」と言い残し全速力でボックスから出て行った。すぐ戻ってきたが手には何か持っている。「何だそれは」、と聞くと当時小学館が出版していた写楽というカメラ雑誌でジョンが表紙になっているものだった。篠山紀信がジョンとヨーコを撮った写真の特集が組まれていた号だ。わざわざ生協の書籍部に買いに行ったらしい。その本を眺めているうちに感情がこみ上げてきたのだろうか、「ボク今日は帰りますわ」といって銀閣寺の下宿にチャリで帰り、それから何日かはボックスにも顔を出さなかった。そのときのことを聞いたら「いや、落ち込んで2日くらい何も食わず飲んでばかりいたんですよ」。しかしミュージシャンの死を知って、こういう反応が出来たのも若さゆえだったのか。

 それからいろいろ喋っているうちに、僕のエントリーがサークルの連中に不評だという話になった。ビリヤードを一緒にやったM原は怒っているらしい。どうしてだと聞いてみたら「いや、ボクも怒りますよ。先輩のブログは自分だけ良く書きすぎですよ。S戸さんの野菜ドロボウの話とか、人の失敗を書く前に自分のことももっと書いてくださいよ。たとえば『ピンクは血の色事件』とかあったやないですか」

 ピンクは血の色事件?ああ、あれは79年の年末だったか80年の新春だったか、たしか寒い日のことだった。当時僕は烏丸中学校前にあるS友荘というアパートに住んでいた。ここはもともとは先ほど結婚式の話で出てきたK君が住んでいたアパートで、場所も大学に近い(正確にいうと学生会館に近い)し、部屋も6畳の割りに家賃も手ごろ。ガスもコイン式で共同だが備えてある、それに第一大家が同居しておらず24時間やりたい放題の、所謂「自主管理」アパートだった。その雰囲気が気に入り、僕とT畠という同じサークルの人間が79年に入居し、その後S堂君やsugarmountain君も入居してさながらDRACの寮みたいになるのだが、それはさておき。

 まあ、そういうアパートなのでDRACの連中がしょっちゅう出入りしており、夜になると酒盛りが始まるという場所だった。当時僕は酒癖が悪く、S戸君に言わせると「ある時間になるとガクッと首が落ち、顔つきから行動からこれが同じ人間かと思うくらい変わる」ことが多かった。早い話がブラックアウトである。とにかく、そうなった僕と一緒にいると大変危険がアブナイことが多く、無用なトラブルは避けるのが先祖代々百姓一家だったS戸君のモットー(こんなこと書くから怒らせるのだろうな、いえいえ、これは屈折した友情表現であり、本当に嫌ってたらエントリーには書きません)だったので、僕の様子がおかしくなるとさっさと自分のねぐらに帰るのが常だった。

 ある日例によって、僕の部屋で酒盛りが始まり、人数は結構いたのではないか、それなりに最初は楽しく盛り上がっていたのだが、その頃僕は酔っ払うと包丁を壁に向って投げるくせがあり(いや、危ないやつだな。今考えるとよくぞ怪我もせず生き延びてきたものだ)、最初は押さえていたのだが、酒が回るにしたがって段々包丁に手が伸び始めた。最初は「ほら、ええ加減にせえよ」とか言ってたS戸君たちも(そうだ、F田敏雄君もいた)、段々口調がきつくなってきた。それでも包丁と戯れる僕に怒り心頭に発したS戸君が「もう帰る」と言い出した。お酒を飲んで盛り上がってるところに、皆で帰られるとこれは相当寂しいので「そんなこと言わんと~」などと懐柔しようとした僕に「いや、帰る。お前は危ない。もう飲むのやめて寝たらええんと違うか」とか言った。それを聞いた僕は理不尽な怒りが湧き上がり「そうか、帰るか。おお、上等や。帰れ、帰れ。お前らなんか友達ちゃう」と啖呵を切ってしまった。

 結局、そのやり取りで座が白けてしまい僕を除いてみんな帰っていった。いや、それぞれのアパートに帰ったのではなく、S戸君のアパートに行ったに違いないと、僕は確信していた。それまで大勢で騒いでいた部屋に一人ぽつんと残され、僕は段々怒りが増幅してきた。ここは、ひとつS戸たちにガツンと言ってやらねば。そう考えた僕は、さっと表に出てタクシーを拾いS戸君の住む下賀茂のワンルームマンションに向った。そうそう、S戸君は当時まだ珍しかったワンルームマンションに住んでいたのだ。いや、決して彼が裕福だったのではなく、兵庫県は加西市のカントリーボーイだった彼が銀閣寺のサーカスでバイトするようになり生活がやや派手になった。また掛け持ちで塾の先生のバイトもやり、バイト人生で積みあげたお金がユニットバス、エアコン完備の鉄筋コンクリートのワンルームマンションを借りるという行為に走らせたのだ。いや、今にして思えば罪のない婦女子をかどわかしてきては、そのマンションの外観で安心させ、部屋に連れ込み不埒な行為をせんがための戦略的位置づけは間違いなくあったはずだと、声を大にして、あれ、話がずれてきた。

 えーと、どこまで言ったっけ。そうそう、下賀茂のS戸君のマンションについた僕は、部屋のドアをガンガン叩いた。しかし誰も出て来ない。さては皆で天下一品のラーメンでも食べに行ったに違いない。クソッ、オレだけ仲間外れか。上等じゃネェか。それならそれでいい。お前ら見てろよ。と、考えた僕は、その気持ちをメモに残しておこうと、ドアの横にあった公衆電話用のメモを手にした。メモをドアに押し付けP-Modelの「モモ色トリック」のフレーズを書き綴っていった。♪町中にピンクがあふれ出したら、そのぶんどっかで血が流れてるさ、今○雄○にゃ分かるまい!!と歌いながら僕は、ただピンクは血の色と書くのも芸がない。オレは英文科だ。ここはひとつ英作文で「ピンクは血の色だからpink is the color、あれ血は何だっけ」と、このあたりがヨッパライの悲しさでそのあとの「of the bloods」が出て来ない。しかもドアに紙を押し付けて書いていたので、ボールペンが紙をこする音が結構大きく響いていた。

 その時突然後ろの部屋のドアが開き「何やってんねん、こんな時間に。うるさいわ」との怒鳴り声が聞こえた。時間は多分、深夜1時くらいだったろうか。あまりの音のうるささに耐えかねて、別の部屋の人が出てきて僕に注意した。僕を見捨てていったS戸君たちに対する怒りは充満していたが、全く予想してなかった人からのお叱りは、僕の頭に水をぶっ掛けたのと同じ効果があった。それでも一応は「いや、この部屋のやつらに文句が言いたいだけで、お宅には関係ない…」などとぶつぶつ言ったが、一気に酔いも醒めてしまいすごすごとS友荘に帰ったのであった。

 というのが「ピンクは血の色」事件として、その後長らくボックスで語り継がれた事件である。後日談だが、やはりそのときは皆でラーメンか何か食べに行っており、帰ってきてそのメモ(意味不明な英文がミミズが這った様な字で書かれていた)も見たS戸君やF田君は青ざめたらしい。特にF田君のおびえ方は異常なくらいで、何か物音がすると「drac-obが来たんちゃうか、鍵は閉めてとるか、ダイジョウブか」とビビリまくったらしい。S戸君も最初は怖がっていたらしいが、段々なんで自分達がこんな目にあうのか腹が立て来て、いつでも来んかいという気になったと、後日笑いながら教えてくれた。

 いや、お恥ずかしい。今でこそ歩く人格者とか21世紀の孔子などといわれる僕であるが、若い頃はこんなオマヌなこともしていたのだ。ところでsugarmountainよ、まだ書くネタ一杯あるけど、続きは次回やることにする。とりあえず予告編としてN川の下宿襲撃事件は外せないと思うが、どうだ。えー、本日は20数年ぶりに再会した後輩との心温まるエントリーでした。そうそう、おーい元DRACのみんなー、読んでたらコメント頂戴ね。それと、こういう話があったというネタの提供もお待ちしています。


フォークソングクロニクルは忘れた頃にやってくる

 昨日、あんなことをエントリーに書いたせいで♪今日は朝から雨、嫌な天気やけど、もうぼちぼち出かける時間(by有山じゅんじ)という日になってしまった。と、思っていたら、そうではなかった。雨男が我が故郷宮崎に出没していたようだ。詳しくはここでの僕のコメントを読んでいただくと分かるようになっているのだが、実は、今日はブログはパスして本を読みながら早寝しようと思っていた。が、である。ちびっとばかし、ネットで動画でも見るべ。Dahliaさんが言ってたチュートリアルとかいうお笑いを一発見てこましたろ、と何故か怪しい関西弁になりながら、しかし、ちょっと待て。YOU TUBEも見ておいて損はないだろ、と、思ったのが大きな間違いでした。

 お若い方はご存じないだろうが70年代の半ばは、フォークやロック、まあ後にはニューミュージックなどという訳の分からないくくり方をされてしまう、『非歌謡曲反演歌的若者向け大衆音楽ただし基本は日本語』の音楽はテレビで見る(聞く)ことは先ず出来なかった。つまり当時はそれだけその手の音楽はお金にならない、特に日本のロックはアルバムが8千枚売れれば大ヒットだとパンタに教えてもらった時は目が点になったほどだ(と、さりげなくオレ、パンタに2回インタビューしたもんね、しかもそのときのカセットテープは1本だけだけどまだ持ってるもんね、回転数がおかしくなってちょっと聞くのはつらいけど家宝にするもんね、というところをアピールする姑息なdrac-obであった)。幸い僕は75年の春から81年の春まで京都にいたから、ライブハウスなどで彼らの生の音や演奏する姿に触れることが出来たが、これが宮崎にずっといたら恐らくは、博多あたりまで出かけない限りはライブを見ることは出来なかったと思う。それだけに、春や夏または年末年始の特番でその手のミュージシャンが出てくる番組があったらほぼ確実に見ていた。また当時ビデオはまだまだ普及する前なので、動画として保存する方法はなく、せいぜいがカセットで音だけ録音するとか、コダックみたいなインスタントカメラで写真として写すくらいしか手がなかった。しかし、だからこそより鮮明に覚えており、いや、普段はすっかり忘れているのだが、何かの拍子で記憶が見事に甦ることがあるのだ。

 しかし、しかしである。世の中広い。特にネットの世界には深くて渡れぬ河がある(by野阪昭如)。YOU TUBEでお気に入りに登録している人のリストを見ていたら、ムッシュかまやつ(どうしてもこの人を見るとS戸君を連想してしまう)とユーミンがティンパンアレイをバックに歌っている動画が2本あった。最初に「中央フリーウェイ」を見たのだが、すぐにこれは76年3月に放映された「セブンスターショー」のライブだと気がついた。このとき、ムッシュとユーミンで90分やったのだが、ユーミンがこの曲をムッシュにプレゼントしてお返しにムッシュは「楽しいバス旅行」という、およそ盛り上がりというものを一切拒否したまるでお経か祝詞かといわんばかりの辛気臭い曲をユーミンに歌わせたのだ。そうそう、このときのラストの曲はスパイダース時代の名曲「あの時君は若かった」と「12月の雨」を上手くメドレーで繋げていて、アレンジは多分ティンパンだと思うが、センスの良さは流石だなと思ったことを覚えている。

 それでこの「セブンスターショー」だが記憶している限りでは、このユーミン・ムッシュと、その次の吉田拓郎の時だけである。なんとなく7日連続だったと思い込んでいたが、今調べてみると毎週日曜日の夜に7週にわたって放映された特番のようだ。確かに拓郎が出る・出ないで随分やきもきした記憶があるし、番組のオープニングは英文タイプで出演者の名前を打つのだが、ラストがTAKUROOOOOOとなっていて最後の土壇場になるまで出てくるかどうか分からなかった。7週にわたってということは49日、約1ヵ月半、丁度大学の春休み期間と重なっており、幸運にも僕は実家でユーミン・ムッシュの回と拓郎の回を見れたのだ。

 拓郎が出ることが確定したのは、このユーミン・ムッシュの放映の時に多分番組の半ばくらいだったと思うのだが、何かほかのことを喋っていたムッシュが突然「そうそう、吉田の拓ヤンね、来週この番組でますよ」と予告したのだ。あ、ここで「来週」といってるからやっぱり7週連続だったのだ。YOU TUBEのコメントにウソ書いてしまった。ま、いいか。

 それで拓郎の演奏だが良く覚えているのは「憧れのハワイ航路」を鼻歌とギターでちらっとやったことと、「三軒目の店ごと」を演奏している時に泉谷しげるが乱入してきて、拓郎とティンパンの連中が泉谷のことをボロクソに言ったところぐらいだった。しかし、この拓郎の回もちゃんとファンは見ているものでこのサイトで詳しく情報収集が出来て思い出したことも多かった。そうだ、フォーライフとして初の新人で川村ゆうこっていたよな。♪通り過ぎるあなたが風なら私もいつか風になりたい~などと歌っていたが、本当に風になってしまい、その時以来とんとお見かけしないがお元気だろうか。セットリストを見て思い出したのは、「春だったね」のイントロがとても力強かったことだ。ラストの「明日に向って走れ」はレコードだったのか。そういわれてみればそこのところだけ演奏シーンが浮かばない。拓郎は何年かに一度仲間同士で大声を上げて一緒に歌える歌を作る人だと誰かがレコード評に書いていたことを良く覚えている。僕はこの歌をよく朝の通学のエイデンに乗る前に喫茶店のジュークボックスで聞いていた。

 流れる雲を追いかけながら本当のことを話してみたい いつか失った怒りを胸に別れを祝おう 通りすがりに微笑を持ち一人であることを忘れた時 ノアの箱舟が笑って消えた 誰のせいじゃなく もう君に逢うこともない 心はゆれても だから 明日に向って走れ こぶしをにぎりしめて…


 いい詩だな。作詞家としての吉田拓郎は再評価すべきだと思う。などと今日はマジで締めるのだった。

世界中に定められてるどんな記念日なんかより

 六月に入ったものの、一向に雨が降らない。雨降りは頭痛がするので嫌なのだが、梅雨だというのに雨が全く降らないのも詐欺にあったみたいで気持ちが悪い。今朝は例によって偏頭痛が痛いイタイと呟きながら目が覚めたので、これは一雨来るかと期待したが、午後一瞬パラパラと降っただけですぐに陽が射した。週末は天気が崩れるといってたので、そのあたりから梅雨らしくなるのだろうか。そんなことを考えながら車を運転していたら、なりっぱなしのラジオから「今日は恋人の日です…」という言葉が聞こえた。ぼんやりしながら聞いていたので、何故「恋人の日」なのか、一体「恋人」の何を祝う、または記念する日なのか良く分からなかった。「6月12日か、ロイニの日ねぇ、あ、分かったロイニをジャズマン用語でひっくり返してイロニ、つまり『色(いろ)に』何かするから恋人の日だ」と、どう考えても不正解としか思えない考えが浮かんだ。

 しかし、キョウビの若者が「恋人」のことを「イロ」などといった洒落た呼び方をするだろうか、いやしない、と、自分で自分に反語を使いながら、ナニゲニ「恋人の日」というのが頭のどこかに引っかかっていて、夜ネットを開いた時に検索してみた。一発でヒットしたのがここである。読みました。ビックリしました。本当に「恋人の日」があったことにビックリしたのではなく、『そんな習慣を日本にも普及させようと全国額縁組合連合会が1988(昭和63)年に制定しました。』の中に書いてあった「全国額縁組合連合会」という名称にビックリしたのだ。『そんな習慣を日本にも普及させよう』という彼らの意図はなんだろうか。大変気になった。

 いや、それ以上に気になったのは、「全国額縁組合」が「連合」して会を作っているということは、僕が知らない間に全国いたるところに「額縁組合」が作られ、そこには当然「額縁組合員」がいて何らかの活動をしているはずだ。ここ最近額縁が人気だという話は聞かないが、もしかすると僕が知らないだけで、実は全世界的に額縁が大人気なのかもしれない。最近あちこちに出来ているコンビニにも実はさまざまな額縁が置いてあって、知らないのは僕だけではないのだろうか。もうすぐ父の日だが、今年は額縁を送ろうというのが、一番最先端というかナウイ流行なんだろうか(ナウイなどという言葉そのものが流行とは無縁というか、どちらかというと言語の「デスノート」に近い存在ではないかと思う)。この前何か映画の授賞式をやってたようだが、あれも本当は額縁の表彰式だったのではないか。

 最近、年金がどうのこうのとか社会保険庁がどうのこうのというのも実は「額縁組合員」の活動をやりやすくするためのスケープゴートではないのか。「額縁組合員」は日本全国「額縁革命」を起こすため、静かに深く潜行しているが実は今日の「恋人の日」を決起の日にしていて、明朝目が覚めたら「全国額縁組合連合会会長」が「親愛なる日本国民のみなさん、本日只今から日本は額縁国家になることを宣言いたします」などとテレビでやってるのではないかなどの妄想が始まった。

 この手のことは気になり始めると止まらない。やめられない、止まらない、カルビーのカッパえびせんである。

 しかし、一体全体なんでこんなけったいな妄想が始まったかというと、なんとなく理由が分かってきた。今朝の頭痛のわけも分かってきた。夕べ遅くまで起きていて、YOU TUBEでスターリンの「先天性労働者」のビデオなど見ていたからだ。いやー凄いわ、遠藤ミチロウは、このビデオの時はもう50でっせ、パンタと同い年や。うん、こういうのを見ると僕もまだまだ老け込むわけにいかんな、物分りのいいジジィになっては終わりじゃ、などと決意するのであった。ところで「額縁」といえばその昔「額縁ショー」なる雅なゲージュツ、それも大衆ゲージュツがあったらしいが、どなたかご存じないか?ワシも死ぬ前に一度拝見したいもんじゃのう、ホッホッホッとボケ老人を装うのであった。今日の話は支離滅裂だな。と、いうことでいつまでアップできるか分かりませんがスターリンの「先天性労働者」をどうぞ。「…今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。今日までのあらゆる階級闘争の歴史は敗北の歴史である。そのままそのまま眠れ、そのまま消えろ、そのまま、宮崎の知事はそのまんまだ!!」

本邦初公開ナカジマの法則

白日の下にさらされた石油タンク 向いの書店も閉鎖して久しい

 久しぶりに土曜の休みが取れた。ここのところ睡眠不足で、今朝はゆっくり寝坊しようと思ったのだが、やはり普段と変わらない時間に目が覚めた。せっかくの休みなので、もう少しウジウジネベネベしておきたかったが、それでも病院の時間があるので9時には起き出して、服を着替えて病院に向かった。バッグの中には森見登美彦の「四畳半神話大系」を入れておいた。待ち時間に読んで、忍び笑いをして周囲の患者どもに不安と恐怖感を与えようという戦術だ。しかし「四畳半」と来たら「フォーク」か「襖の下張り」くらいしか下の句はなかったが、この本のおかげで新たに「神話体系」という言葉が見事連想されるようになった。

 病院の前を車で通ると、いつもは待合室の様子や通に雑然と並んだ自転車の数で、その日の待ち時間を推測するというのがひとつの楽しみなのだが、今日はどういうわけか自転車ゼロ、待合室はババ空きだった(これは甚だしく空いているという状態を関西弁で表現している。カンサイでは甚だしい状態をすぐババという。ちなみにウン○をしたくなったら「イノキピンチ」と表現する。その心は「ババが出る」。こういう下品な表現を毎度登場するF田君や、S戸君、後輩ではH本君が良く教えてくれた。あ、この男の名前はエッチボンと読まないで下さい。エッチモトと発音してもらわないと、あらぬ誤解を受ける)。一瞬今日は休診日だったかと思ったくらいだ。

 駐車場に着いても数台は停められるスペースが空いてる。この病院は2人のドクターがいるのだが、そういえば僕を診てくれる先生が今月は出張が多くて、9日と23日はいないと話していたことを思い出した。どおりでいつもの半分くらいの混み具合だ。待合室で本を読みながら待っていると予想以上に早く名前を呼ばれた。実は僕の戦略どおり例の本を読みながら「くっくっくっ」と怪人20面相のような含み笑いをしていたら、隣の席にいた若い母親が気味悪そうに子供の手を引きながら席を遠巻きにしたりして、周囲の反応が面白かったのでこれからが本番だと思っていたのだが、名前を呼ばれては仕方がない。ブチッと注射をされ、いつもの看護婦さんに(看護士と書くのが正しいんでしょ。知ってます。でも僕は感謝と尊敬の念をこめて看護婦さんと予備隊、じゃない呼びたいの)、近況を話し薬がなくなるので出して欲しい旨を話したりした。

 処置が済み、待合室に戻りナニゲニ受付に出入りする人の様子を見ていたら、50前後の男の人がお金を払った後「ありがとうございました」と言って頭を下げた。ちょっとびっくりしたが、良く考えてみると子供の頃などは買い物に行ってお金を払うときにもお礼を言って頭を下げていたことを思い出した。一体いつからお礼を言うとか、相手に感謝すると言う気持ちと行為が無くなったのか、考えさせられた。もっとも考えさせられただけであって、自分がお金を払う時は「あ、ども」などと間の抜けたことしか言えず、頭も下げずに出てきてしまった。仕方がないので次の薬局では、きちんと頭を下げてお礼を言おうと思っていたのだが、そこでも薬をもらうときに薬剤師さんから「症状の変化はありませんか」などと聞かれ「いや、変わりはないっすね」などと軽薄な受け答えをしてそのまま出てきてしまった。相手に対して自然と感謝するというのは、なかなか出来そうで出来ないことだなと、つくづく感じた。

 病院が予想外に早く終わったので、駅前のブック●フに行き、しばしうろついた。森見登美彦の未読の本でもあれば、と思って探したがそもそも彼の本が1冊もなかった。CDが値下げしていたので、じっくり探したところ、高中正義の「虹伝説」が250円、BAHOの「OKURADASHI」が750円だったのでためらわず購入。どちらも帯付き、ディスクも綺麗で満足した。家に帰ると部活に行っていた下の娘も帰っており、腹が減ったと喚いていた。例によってそばかうどんを作ろうかと言ったが、やれケンチキが食いたいとか、外で食べたいとかうるさかったので、上の子の意見も取り入れてF来軒のラーメンを食べに行くことにした。休みの日は実家の近くのF来軒で食べて、そのまま実家に顔を出すパターンが多いのだが、今日は近場で清武町の本店に行くことにした。

 着いたのが12時半だったので、車が置けないのではと心配したが、運よく1台空いていた。お店に入ると予想通り混んでいる。座敷は一杯とのことでカウンターに座ろうとしたら、3つ続いて空いてる席がない。下の子は「おねえと私は一緒にこっちで、父はあっちで一人で食べろ」(以前は僕のことを「おとう」と呼んでいたが最近は「父」と一切敬称を付けない呼び方になった。僕がチクセコビーバーだからだというのだ。チクセコビーバーというのはチクリでセコイビーバーだそうだ)と言った。別段異議はないが上の子が難色を示した。3人一緒がいいというのだ。こちらはこちらで、ばらばらの席になったら伝票も別なので支払いの義務が発生するのが嫌だという経済観念からの発言であって、決して家族愛からの発言でないことは当然だ。

 そんなやり取りが聞こえたのか、2人で食べていた作業着のお兄さんが丼を勢い良く啜り込んで席を空けてくれた。こういうところが気配りだな、と、今日はやたら感心した。その後親子3人でマンガを読みながら豚骨ラーメンを食べ、1皿のギョーザを誰が何個食べるかで見苦しい争いをしたもののお腹は満ちて席を立とうとしたそのときだ。上の子が合掌して「ご馳走様でした」と言った。ちょっと驚いたが、そういえばこの子は食前・食後に良く手を合わせているなと嬉しくなった。例え相手が我が子であっても見習うところは見習わんとイカンな。

 食事を済ませて、店を出たら入る時は気がつかなかったのだが、その店の前にあったガソリンスタンドが解体されていた。パワーシャベルの横にあるのは本来は地面の下に埋まっている石油タンクだ。子供たち二人もガソリンスタンドの仕組みを知って、感心したようだ。嬉しくなって撮った写真がトップに飾ってある写真である。家に帰る車の中で、上の子と話をしていたら、今、国語の時間で「山月記」を習っていると言い出した。「先生が『この作者はナカジマ…』と言ったので、『うちのお父さんが好きなのはらものほうです。らもの本なら沢山あります』と思わず言いそうになった」などと、この父にしてこの娘あり、というところで、事実よりも話が面白いほうがいいという考え方が僕そっくりである。

 らもファンはもちろんだが中島敦は尊敬する作家の一人だ。あの格調高い漢文風の名文は素晴らしい。題材も中国の古典からとってはいるものの、オリジナルの漢詩を挿入したり、ストーリーを少し変えて単なる昔話で終わらせない、読み応えのある作家だ。そういえば森見登美彦も「山月記」のパロディを書いてることを思い出し、娘にそう話したところ「知ってる、悪いけどお父さんの本、勝手に読んだ。でもあの人の「走れメロス」を読んで、なんじゃこりゃと思ってもう読まなかった」などと答えた。やはりオンナコドモにブンガクの話は無理かと思いながらも、ここで諦めたら教育の放棄だと覚悟して話を続けた。

 「中島敦は『山月記』もいいが『名人伝』を一度読んでみろ。お父さんも高校の頃教科書で読んで一度で気に入った。あと『李陵』とかあるが、寡作というより若くで亡くなったから作品そのものが少ない。文庫も家にあるはずだ」と言ったら興味を持ったようで、『名人伝』とはどんな話か聞いてきた。「あれは天下一の弓の名人になろうとした男の話だ。当時ナンバーワンといわれる名人に弟子入りして弓の練習をするのだが、弓に触る前に目の訓練をするんだ。瞬きをしない訓練を半年だかやったおかげでまつげの間にくもの巣が張ったとか、髪の毛にしらみをつけてそれをじっと見る訓練をやっぱ、半年だか1年だかやると、しらみが牛ぐらい大きく見えて、そのしらみの心臓を一発で弓で射抜くようになったとか、凄い話がある。そういう訓練をして腕が上達すると、自分の師匠を弓で射殺してナンバーワンになろうとするんだ。あるとき待ち伏せて弓を射掛けるのだが、師匠もそれに対して弓をいると、矢は丁度その中間点でお互いに突き刺さり、地面に落ちる。それを何度も続けるうちにお互い感動して抱き合って泣くのだ」

 「お父さん、なんかその二人おかしいような気がするけど…」「黙って聞け、問題はこれからで、命を狙われた師匠はこのままじゃまずいと思って、自分よりはるかに名人である人物を紹介する。主人公が勢い込んで行ってみると山の上に住む小さなお爺さんだった。なんでぇ、こんなジジイと思ったが、山の岸壁に突き出ている岩の上で空を飛ぶ雁を撃って見ろといわれ、やろうとするが岩から落ちて死ぬ恐怖に耐えられず、参りましたと言うんだ。そこでお爺さんが岩に登ってやって見せようとするのだが、肝心の弓矢を持たずに岩に登った。主人公がそれを指摘すると「お前がやってるのは射之射だ、これが不射之射だ」みたいなことを言って、素手で雁を狙うとなんと、雁が空から落ちてくるのだ。そこで何年か修行して主人公は戻ってくるが、まるでデクノボーみたいな顔になっていて、その顔をみた元師匠は「いやこいつがナンバーワン、オレなんか足元にも及ばねー」という具合に本当の名人といわれるようになる」ここまで話して様子を見るともうまともに聞いていない。

 しかし、ここで諦めたら教育の放棄だと(これはもういいか)、「最後に不思議な話がある。その名人がある家に誘われて行ったら、以前確かに見たことはあるが、なんと言う名前で、どういう使い方をするものかどうしても思い出せない道具があった。それが弓だった。という落ちだ。その名人が死んでしばらくは絵描きは絵の道具を、書家は書の道具を持つことを恥じたというエピソードが…」って、もう全く聞いてなかった。

 と、このようなことがあって、本日発見したナカジマの法則とは、僕は中島と書いて「ナカジマ」と読むものは大抵好きだという法則である。今、あげたらもも敦もナカジマである(なにやら「スモモもモモもモモのうち」という早口言葉みたいだ)。出町時代というより京都に住み始めた修学院時代から、出町、烏中前時代に至るまで貧乏な僕の胃袋を空腹と栄養失調から救ってくれたのが定食屋のナカジマである。この店はとにかくメニューの豊富さ、ボリュームの多さ、値段の安さ、三拍子揃っていました。ただ受付から給仕までがほとんど全て長髪の汚いバイト(もちろん野郎である)ばっかりだったのと、インテリアという概念をフンサイした内装と居住性より回転率といったファニチャー(なに、椅子とテーブルのことだが)のおかげで客の99%は男子学生のみだった。あ、今思い出したけど、そういえばデモや集会の時ここから出前の弁当を良く取ったな。

 それはさておき、ナカジマは基本的に好きである。サザエさんに出てくるカツオのクラスメートもナカジマであったが、気の小さい好人物風で決して嫌いではない。確か、オセロの黒いほうもナカジマだったような、でも彼女のキャラも嫌いではない。しかし、これが「ナカシマ」と濁らない場合は違ってくるのだ。先ず高校時代の生物の先生がこのお名前で、僕はあるとき「この20世紀においても進化はありうる」と言ったところ鼻先で笑われて以来、嫌いである。20世紀の進化はあったではないか、DEVOというロックバンドの中に確かにあった。いや、あれは退化か。しかし退化もマイナスの進化であるから、ってもういいや。

 ちょっと収拾がつかない話になったが(毎度のことですが)、濁るか濁らないかで名前のニュアンスは随分変わるという法則でした。余談になるけど、マンガ「釣りバカ日誌」の主人公浜ちゃんは、宮崎は都城出身(今の知事と同じだ)という設定で初期の頃よく「ハマサキです、濁らないの」といっていた。また山崎もこちらでは濁らない。だからサントリーのヤマザキのCMにはやや抵抗があった。ところが僕の住む宮崎はミヤザキで濁るのだから良く分からない。まあ、人生に法則は似合わないというのが結論ですか。そうそう、忘れないうちに書いておこう。今日6月9日はロックの日で、わが結婚記念日である。今までの人生で1日だけなかった日を上げろといわれれば、ためらわずこの日を、いやいや、ゴホン。今日のエントリーのテーマは感謝する心だ。しかし感謝と忍耐は似ているような気がする。ま、いずれにしても不用意に家庭内に荒波を立てるのは、平和主義者の僕には心外なので、今日は家族で焼肉に行った。そこでも上の子はちゃんと手を合わせて食前・食後の挨拶をしたというのに、親二人は食うのに夢中で、ってもういいか。アリバイ的に本日のエントリーアップの心だー。

このままでいいのか、ランチタイムの疑問点

謎の存在 「うき具」 沈んでる具もあったぞ!!

 昨日、今日と事務処理の仕事が重なり、また電話で交渉する仕事も溜まっていたので内勤が続いた。基本的にはお昼は外で食べているのだが、今日は12時過ぎぐらいに大事な連絡が入る可能性があったので、午前中外回りをしたついでに、久しぶりにホカベンを買った。えーと、ホカベンとカタカナにしておけば問題ないかな。オリ○ン弁当などと書くと、お店が特定される危険性があるからな。と、さりげなく見栄を張るのだ。さて、一体何処で見栄を張ったか賢明な読者諸君にはお分かりかな?ヒントはちょっと古いがはなわの「佐賀県」に出てくる「吉野屋」と「吉田屋」の違いだ。

 などと、カッコつけたが早い話、宮崎にはオ○ジン弁当のお店はないのだ。去年の今頃、保谷でよく食べた記憶があり、結構美味しかったので見栄を張ったのよ。しかし、オリ○ン弁当はないが、押川弁当はあるぞ。以前はサラヤの弁当といってペッタンコのおにぎりにおかずが入っていたり、作りたてのおかずを単体で買える手ごろな弁当屋もあったと声を大にして叫んでも、空しい。悪貨は良貨を駆逐するではないが、大手資本の弁当屋が個人でやってた手作り(冷凍もんをチンしたり、レトルトを温めて手作りだなんていってる、そこらの飲食関係、とりわけファストフードの諸君は罰が当たるぞ)のお店を飲み込んでいく嫌な渡世である。あ、愚痴ついでにいうと、僕の実家の近くにもう30年は前だったか本場讃岐うどんのお店があり、ご主人も奥さんも香川の人で、本当に美味しいうどんを食べさせてくれた。小さなお店でカウンターとテーブルが満席になっても12~3人しか入れない小さいお店だった。

 学生時代に帰省するたびにそこのうどんを食べて、社会人になっても食べに行ってたのだが、ある日突然、二人黙るの、じゃなかったある日突然大きなホカベン屋さんになっていた。駐車場も完備し、お店は3倍以上の広さに変わり、弁当が出来るまでコンビニコーナーでマンガを読んだり、お菓子を買ったり出来るようになっていた。お客はうどん屋時代とは比較にならないくらい多くなっていた。でも、もう二度とその店で美味しいうどんを食べることは出来なくなった。そして働きものだったご主人と奥さんの姿はほとんど見かけなくなり、お店にはいつもパート、アルバイトの人が入れ替わり立ち代わりしていた。

 おっと、またもや辛気臭くなりそうなので、本日の疑問を先ず登場させたい。僕は朝ごはんは食べない。昼は外回りで時間が不規則なため麺類を食べることが多い。一週間はうどん、うどん、ラーメン、そば、うどん、ヤキソバというパターンか、うどん、うどん、ちゃんぽん、ラーメン、そばという感じである。あ、月から土までが大抵だけど、たまに土曜休みがあるので、その週はハレの週としてちゃんぽんかカツカレーをメニュー(そんな大層なもんか)に加えるのだ。もちろん麺類だけでは力が出ないので、おにぎり2個はレギュラーセットである。時にギョーザとか、ラーメンの日には半ちゃんチャーハン、でも半ちゃんだと物足りないので普通のチャーハンをトッピングすることも多い。

 ここまで読んできて、皆さんはある疑問にぶつからないだろうか。そう、僕のエントリーに良く登場する配偶者とか敵と呼ばれる家事労働者は弁当を作らないのかという疑問である。結論からいうと作らない。彼女は二人の子供と自分の弁当は作るが僕の分は作らない。ゼッタイに嫌だそうだ。このあたりのいきさつは、また改めてネタにするが、まあそういうわけで僕は仕事の日のお昼は99.9%近く外食なのだ。しかし、今日はどうしても事務所内にいなければならない。お客さんとの交渉はかなりヘビーなものが予想されるので、栄養のあるものをしっかり取らないとイカンと僕の灰色の脳細胞は語っていた。

 そこでホカベンである。二重の自動ドアをさりげなく通過して、メニューを見た。幕の内が好きな僕は、速攻で注文しようとしたがまだ11時過ぎだというのに、本日の幕の内は終了しましたと書いてある。おのれ、プレミアムをつけて高くで売ろうという魂胆か、当店の幕の内はレア物で先着50名までしか販売しません。などというクソッタレ、オンリーワンよりナンバーワン、じゃねーやナンバーワンよりオンリーワン戦略かとも思ったが、たかが幕の内で騒ぐのも大人気ない。世の中には次善の策というものがあるではないか。と、しばし考え、ここは宮崎名物のチキン南蛮弁当で行こうと決めた。しかし、弁当だけではちょっと物足りないので、大枚130円でサラダも付けた。また僕は喉が細いのか水分がないとご飯が喉を通らないのでカップの味噌汁もつけた。

 レジでお金を払おうとすると、サラダのドレッシングはどれにするか聞かれたので、ナニゲニ見ると、ドレッシングは別売りではないか。コンビニがそのシステムになってるのは知っていたが、現場労働者の見方であるべきホカベン屋まで、そのような搾取をするのか。クソッタレ、ドレッシングなんかいるか、生で食っちゃると思ったが、すかすかのキャベツやにんじんはつらいので泣く泣くシーザードレッシングとかいうのを買った。おまけにブルータスドレッシングは付かないのかと言いたかったが、多分歴史の勉強は苦手そうな顔をした店員(そうだ、鬱陶しいアンチャンだった)だったので黙っていた。

 事務所に帰り、予定した電話も肩透かしみたいにすんなり終わり、ではでは楽しいランチをと思い、カップ味噌汁の蓋を開けた。味噌の入っている袋と具が入っている袋を出した瞬間、あれと思った。「うき具?」思わず声にしてしまった。海水浴をするときに車のタイヤみたいなのをもっていくことがあるが、ああ、あれは浮き輪か。うき具ってなんじゃい。カップ麺には「かやく」と書いてあるが「うき具」は初めてだったので、じっと考えてしまったけだるい午後であった。人生はまだまだ解明できていない謎が多いことを思い知った日でもあった。
見よ、栄養のバランスを考えた究極のランチだ、海原雄山出て来い!

 しかし「かやく」というのも学生時代に関西に行ってから知ったんだけどね。はじめて「かやくごはん」なる単語を見たときは「火薬ご飯」と頭で変換してしまい、食ったら爆発するのか、随分心配したが、所謂「炊き込みご飯」というか「釜飯」みたいなもので、その手のミックスライスというかジャミングライスは大好きなので、以来「かやくごはん」大好きである。

ざくろの花のオレンジを六月の雨がそっとたたく時

雨に煙る町並みを~あ、これは甲斐バンドの「裏切りの街角」だ

 6月に入り、こちらは入梅したようだ。毎日しとしとと雨が降る。時には叩きつけるような雨も降る。雨が降ると、いや正確には雨が降る前は頭が痛くなるので、ブログの更新も停滞していた。去年の今頃は保谷でバイトしていたのだが、空梅雨だったのか、あまり頭痛に悩まされた記憶は無い。まあ、季節の事なので愚痴ってもしょうがない。今日は、ここ最近の身辺雑記でも書こう。 

 先日の日曜日は、9時過ぎまで布団の中でごろごろしていたら、実家の母から電話が入り、親戚を延岡まで車で送ってくれと依頼があった。丁度、車検の代車が軽ではあるが、まだ5000キロくらいしか走ってなかったので、配偶者と母と、親戚に僕という大人4人でもいけるのではと思い、トライしてみた。スズキのワゴンRだけど、いや、そこそこ車内は広いし、シフトレバーもサイドなので足元がゆったりしている。そして何より肘掛があるので運転が楽だった。その日も小雨模様だったがお気に入りのCDを適当に流しながら、片道80キロをひたすら走った。

 出発したのが11時前だったが、宮崎方面に向かう車は多かったものの、北上する車は少なく1時前にはT領うどんに着いた。延岡はもともとは内藤藩で7万石であったが、日向は幕府直轄の天領だったので、その名をつけた美味しいうどん屋さんがある(オイヲイお店の名前をイニシャルにした意味がないのでは?)。県北にいったときの楽しみの一つがこのT領うどんを食べることなのだ。僕は海老天うどんにおにぎり2個という、『日常の食生活を非日常においても貫徹することこそが真の革命家の道である』というゲバラの鉄則を守って注文した(あの、真に受ける人いないと思うけど、ゲバラはそんなこといっとらんからね)。おにぎりには佃煮風なものが皿に載っていた。オマケというかサービスである。いいな、得した気分だ。うどんが来た。見よ双頭の海老の旗の下に結集せよ、♪いえすうぃらりぃらうんざ~とライ・クーダーとランディ・ニューマンが一緒にやった「旗のもとに集まろう」を思わず口ずさんでしまうほど、ぷりぷりの海老さんが二匹合体したお姿で、衣をまとって麺の上に鎮座ましましているではないか。これで450円だー!!

 えー、やや取り乱したが、久しぶりに少年時代を過ごした延岡にやってきて、何をしたかというと祖父母の墓参である。祖父は僕が社会人として生活を始めた頃まで、生きていたのでその典型的な明治男としての頑固さや、教条主義的な様子はしっかり覚えているが、祖母は僕が小学2年の時に亡くなったので、覚えていることはあまりない。祖父は躾や行儀に厳しい人であったが、祖母は優しく穏やかな人だった、という印象しかない。僕は家庭の都合で4歳の時一人だけ祖父の家で半年暮らしたことがある。父母と会えるのは月に1回あるかないかであった。といっても、今流行の「ガバイ」なんたらというような話ではなく、生まれつきおっちょこちょいの僕が、祖父から「○○(僕の本名)、じいちゃんと一緒に延岡に行くか」と誘われ(当時、僕が住んでいた村から延岡に行くにはがけっぷちの切り立った道を走るバス、または焼玉エンジンのポンポン船に乗って1時間という子供にとっては、天城越えのような世界であった)、何も考えず付いていったせいである。おかげで当時通っていた保育園中退という立派な学歴をしょってしまった。

 その頃の話はまた気が向いたらネタにするかもしれないが、4歳の僕が親恋しさにべそをかいていた時、いつもなだめてくれたのが祖母だった。祖父は「男がメソメソするな」と一喝するだけだったので、余計祖母は優しいと感じたものだ。その祖母が僕が小学校の2年になるかならないかのうちに病気になり、ずっと家で寝たきりの状態になった。もっとも身体は動かせるのだが、きついので日がな一日布団をかぶって寝ているのだ。今考えれば、どうして入院させなかったのか。多分、自分の死期を悟っていた祖母が、家にいたいとの重いがあったのだろう。ああ、その優しい祖母に実は僕はとんでもないことをしていたのだ。

 当時、昭和30年代後半ではコドモがお金を持つことは滅多に無かった。いや10円くらいはオヤツ代で持ってるのだが、50円、100円というお金を持っているのは大ブルジョワジー(当時はそんな言葉知らなかった、当然だが)として遇せられた。大分の県境の漁村生まれの僕が、延岡市の小学校に行くことになり(そのときには父母も延岡に引っ越していて、また家族揃って暮らしていたのだ)、当然ヨソモノなので、なんとか近所のガキどもと対等、いやそれ以上の人間関係を持つためには経済力しかなかった。そして僕に毎日10円のオヤツ代をくれていた祖母は病気で寝たきりだったのだ。

 これ以上書くのは、気が引けるが、実は祖母は昔かたぎの人で、財布は必ず自分の枕元に、いや枕の下に入れて休むのである。そして、僕のその行為は一体いつから、どういうきっかけで始めたか、思い出せないが、なんと僕は、祖母が寝ているのを確かめた上で、その枕の下の財布を取り出し、小銭を盗むことをしてしまったのだ。それも1度や2度ではない。祖母も多分気がついていたと思う。時々は僕が手を突っ込んだ瞬間に寝返りを打って、財布を取れないようにしたこともあったのだ。祖母は半年くらい寝たきりの生活をして亡くなった。

 財布から小銭を盗んでいることを知りながら、祖母は僕と母を前にして「私が死んでも泣いてくれるのはあんた(母)と○○坊(僕の小さい頃の呼び名)だけじゃね」といって、悲しそうな顔をしたことが何度かあった。僕はそれ以来小銭ドロボウはやめた。それから、ある朝目が覚めたら母から祖母が亡くなった事を告げられた。良く意味が分からなかった。寂しいとか、悲しいとかいう感情の前に、いつの間にか親戚が集まっていて、普段会えないいとこたちとも会えて、そして学校は行かなくていいのである。正直うれしいという気持ちのほうが強かったのではなかったか。

 そんなことを思い出しながら多分10年ぶりぐらいになる祖父母の墓参をした。雨に煙る延岡の町を見下ろしながら、何度かため息をつきながら僕は公園墓地とは名ばかりの山の中の墓地を歩いた。

 えーと、こんな話を書くつもりではなかったのだが、指が勝手に走ってしまった。次回は、いつものエントリーに戻ります。

小噺その2

 小学校の算数で分数を習いましたよね。最近では分数計算の出来ない大学生がいるなんてマスコミが利用されて、しょうもない「教育改革」とやらの起爆剤にされていますが、ってそんな話ではなく、分数、特に帯分数の呼び方で年代が分かるという話を一発。映画ファンならフェリーニの81/2をご存知だと思うが、さてこの「81/2」をナンと読みますか。整数の8と真分数の1/2がくっついてるので「8と1/2」と読んだあなた。あなたはこれから先の話は、歴史上の話になるから読むのはやめておやすみなさい。「なにぬかしとるんじゃ、ボケェ。こんなもんハッカニブンノイチやんけ」という同志、友人、学友諸君に本日の話は読んでいただきたい。と、まあえらそうなことを書いたが、気にしなくてダイジョブです。まいどまいどの思い出話ですから。 

 ま、しかし先ほどの帯分数の読み方は、昔、教育産業で働いていた時に知って、中教審もつまらん事を決めるもんだと思っていたのだが、実は81/2というのは東京ロッカーズのバンドにもいたのだ。無論フェリーニの影響で付けたバンド名なのだが。このバンドはソニーが出した「東京ロッカーズ」には入ってなくて「東京ニューウェーブ‘79」に入っていた。当時この2枚のアルバムを持っている(聞いている)ことがパンク少年・少女の証だったのよ。と、過去を懐かしんでいるようではいけない。一体全体なんでいきなり分数の話などを始めたかというと、このまえ、「リトル・キッズ・ヴァイブレーション」をのぞいてみたら「3/4GUMBOS」というタイトルのエントリーがあり、なんとどんと亡き後のボ・ガンボスの残り3人がライブをやる、しかも場所は磔磔だと。しかも東京ではこの3/4GUMBOSに元ローザの玉城と三原が加わって、ボガンボローザなる特別グループとしてライブをやるとのことだ。

 いやー、どっちも見たいな。しかしあれほど行きたかったウシャコダにも行けない運命なのであるから、人生諦めが肝心。サヨナラだけが人生さ。と、ひねくれても可愛い年頃はとっくに過ぎたので、ここはひとつボ・ガンボスとローザ・ルクセンブルグの小噺でも書くとしよう。このバンドどちらも今は亡きどんとがボーカルの素敵なバンドだった。時代的にはローザで有名になったどんとが、ボ・ガンボスという、日本にはちょっと無かった独特のリズムとメロディを持ったバンドを作った、と言えるだろう。ニューオーリンズの野外で演奏したビデオやタクシーの運転手をしていたボ・ディドリーと一緒に曲を作ったビデオなんかは繰り返し何度も見たものだ。どんとのボーカルは最高だったが、僕はときどき照れたように歌うKyonのボーカルも好きだった。

 ところで、ローザ・ルクセンブルグの名前をはじめて知ったのはいつだったか。滝田修の京大パルチザンの映画を見た頃だったか、などととぼけてはいけない。いえ、実は尊敬する女性革命家の名前をつけたロックバンドが出てきたというのは、本屋でロック雑誌を立ち読みしていた時だと思うが、なにせその頃は基地外のように働く(働かせる)会社に勤めていたので、ほとんどロックを聴いていなかった。何しろ朝は8時に出社して、掃除をしてミーティングなる名目の営業数字必達の叱咤激励(オレの場合叱咤叱咤であったので、付いたあだ名がゴータマ・シッダルタだった、と書いてみたらあまり面白くなかった)、上司の罵倒が飛び交う中「イッテキマス」と大声上げて営業現場に行き、朝、昼、晩と駆け回り、ようやく9時過ぎぐらいに現場を終わろうとすると、必ずその日売り上げが届かず「納得がいかん」と言い出す先輩社員や上司がいて、早くて11時近く、一番遅かった時は深夜3時近くまで営業をしたこともあった。

 当時の住まいは会社の寮で、寮というと聞こえはいいが3DKの賃貸マンションに少ない時で6人、多い時は10人近くが生活していたので、プライバシーも何もあったものではなかった。ウォークマンで寝る前にちょっと音楽を聞くくらいで、連休で実家に帰ったときくらいしかレコードは聞けなかった。早い話がタコ部屋生活であったのだ。なぜそのような環境で働いていたかというと、自分自身はシホン主義社会なるものはいずれフンサイせんといかんと思っていたのだが、しかし、そのためにはシホン主義社会を知らねばならない、ならば一番熾烈な教育産業の営業で己を鍛えよう、というとちょっとエエカッコしいだが、まあ、そういう気持ちと大学6年間を自由にさせてくれた親に対して、ちっとばかしツミホロボシをしておこうという考えからだった。しかし、こういう生活をしているとだんだんその社会に馴染んでくると言うか、ものの考え方が影響されてくる。ちょっとカゲキハっぽい言い方になるが『ブルジョワイデオロギーを注入され、洗脳される』と言う感じだ。

 えー、話が妙な方向にそれたが、まあ、そんな環境にいたのでロックは雑誌からと、たまに聴くFM、それと深夜のテレビ番組(ezテレビとかいってエピックソニーのミュージシャンが良く出ていた土曜深夜の番組ありましたよね)くらいしか情報源が無く、ローザの名前は強烈なインパクトがあったもののたまたま知った曲のタイトルが「おいなり少年コン」とか「在中国的少年」とか「バカボンの国のポンパラスの種」などというものだったので、「なんじゃこりゃぁ」と松田優作的コメントを残して、音はまったく聞かなかったのだ。ところが、何かの拍子で多分「ライブオーガスト」だったか、演奏を聞く機会があり、「なんじゃこりゃぁ、ただしこちらはプラスの驚き」とコメントして、ボ・ガンボスのデビューアルバムを即購入したのであった。そういえば、それまで徹底してアナログレコードしか買わなかったのだが、このあたりからCDを買うようになってしまった。まさにシホン主義的堕落である。

 ボ・ガンボスの1枚目は凄かった。どう凄かったかというと1曲目からラストまで息つく暇も無く一気呵成に聞かせてしまう、そのノリ、ビート感。どんとの個性的なボーカルに絡むバックのギター、キーボード、ドラム、、ベース、つまりバンドサウンドが1枚目にして完成したものになっていたことと、歌詞のシュールさだ。なんせ、「ヘルプフラワーマン」で「どろんこ道を二人で」で「魚ごっこ」で「ずんずん」で「ワクワク」で、ってキリが無いのでやめるが、まあ凄かった。ちなみに以前勤めていた会社で社長を交えた飲み会があり、カラオケで「ダイナマイトに火をつけろ」を歌った所、次の日から僕に話しかけてくる人間が一気に減ったという、微笑ましいエピソードがある。

 えー、一体何処が小噺だとお叱りを受けそうだが、実はここからまた僕の京都時代の話になる。毎度毎度登場するライブハウスのサーカスだが、ここにはピンボールが置いてあった。30円で1ゲーム、50円では2ゲームという近江商人あたりが考え付いたような料金設定だったが、ちょっと凝った仕掛けのゲーム機だったので、ライブ前のミュージシャンや、常連客がいっつも占有していた。しかしただゲームをやるだけではつまらない。みんなコドモじゃないから、1点10円で賭けようかということになり、ピンボールの周辺には怪しい常連や店のスタッフが常駐するようになった。僕は自分で「ピンボールウィザード」と自称していたが、腕はイマイチだった。口惜しいが店員のS戸君やジュン(こいつはKyonがリーダーだったドクターというバンドのベースをしていた)にしょっちゅうカモられていたのだ。

 そのバクチ場ライブハウスに新しいバイトが入った。目がくりくりして愛想のいい男だった。確かS大の学生といってたような気がする。髪の毛は見事なアフロで丁度パンタが「マラッカ」を出した頃で、お店でそのアルバムをかけて「ブリキのガチョウ」という曲のところに来たら、♪アフロでちりぢりゼンマイヘアー、と大声で歌い彼の頭を指差して笑ったりした。ピンボールも最初は上手くなくて、僕も勝てるくらいだったのだが、何せ彼らは毎日やってるのでいつのまにか敵わなくなり、賭けも負け始めた。バクチというものは勝ったら現金でもらい、負けたら何だかんだいって払わないというのが唯一の必勝法である。いや、これは僕が言ったのではなく小島武夫大先生のお言葉である。

 そういうことだから、彼に負けても「ツケだ、次来たら払う」などといってうるちに結構な金額になった。ある日その彼がニコニコしているのでS戸君が「どうした」と聞いたら「drac-obさんに貸してるピンボールのお金がそろそろツェー万になるんですよ」と答えたらしい(ちなみにツェー万は1万のこと、コードのC,D,E~のドイツ語読みでスラングにするのがこの業界なのよ)。それを聞いたS戸君は「アホやな、お前。あいつがバクチの負け金払うかい」と一言。彼は「いや、そんなことないすよ、あの人は払いますよ」と言っていたらしいが、僕は彼に目先のお金にこだわるな、人生はこれからだなどと訳の分からないことを言って言いくるめた。それでも深夜2時くらいにお店が終わると彼の車で僕のボロ下宿まで良く送ってくれた。車はスカイラインジャパンである。こいつエエトコのボンやなと思った。僕の下宿は一方通行の路地を入ったところなので、いつも路地の手前で降ろすよう言うのだが、彼は「バックでいけます、ダイジョウブです」といって下宿の前まで送ってくれた。

 それから十数年たって、僕は本屋でロッキングオンジャパンを立ち読みしていた。特集記事にローザを解散した玉城の近況「組曲レッドツェッペリン」の特集があった。見開きのページに映ったもじゃもじゃヘアーの男の顔を見て僕はビックリした。「タマキや」。そう、ローザのリーダー、ギタリストの玉城はあのサーカスでバイトしていたタマキだったのだ。これには本当にビックリした。タマキー、ごめんな。あの時の掛け金は社会勉強になっただろう。あ、そうか、彼らがローザ・ルクセンブルグなどという革命家の名前をバンド名にしたのはシホン主義社会で痛い目にあっていたからだ(んなこたぁないって)。

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