黄金週間2日目

高鍋湿原入り口

 昨日、エントリーにあんなことを書いておきながら、というか、あんなことを書いた反動でというべきか、昨日、今日と連日家族のお抱え運転手但しノーギャラという役が振られた。昨日は、久しぶりのエントリーを午後2時前にアップして、さてこれからは本を読むか、音楽を聴くか、いやいやこのところHDに溜めているテレビ番組(ほとんど音楽関係、チューリップとかカーペンターズとか、このところNHKでいい番組やってるよね)をもう一度じっくり見るかと考えていると、配偶者が「パパ、この連休は何処に行くのですか、どこにも行かないのですか。だったら都城に墓参りに行きたいのですが」とコミュニケーションブレイクダウン(by ツェッペリン)を地で行く発言をしやがった。しかし、良く考えるとここ最近は義父の墓参に行ってない事を思い出し、まあ今日は敵の墓参りに、明日は僕の実家の墓参りをしてこの連休なんとかお茶を濁して、あとは好き勝手出来るのではないかとの計算が働いた。

 一度決断すると僕の行動は早い。車中で聞くCDも配偶者と子供の好みを考えて吉田拓郎の「元気です」、荒井由美の「ひこうき雲」「ミスリム」そしてジューシーフルーツの「ベスト」と70年代フォークからニューミュージックへそして近田春夫の復権とテーマを決めて準備した。子供達にも「ほら、チャッチャッと着替えて出ろ。遅いことはブタでもするぞ」と急がせて、車に全員乗ったのが2時10分過ぎだった。いつもは国道を走るのだが、その日は夕方レンタルしていたDVDを返却するとか、細かな用事があるとのことで、それなら行きは高速で行こうということになった。4月の終わりの宮崎はもうほとんど初夏の雰囲気で、エアコンをかけながら高速を走った。車内では「春だったね」のイントロが流れている。すると下の子が「これ昭和の音?」と聞いてきた。その質問の仕方はとても好意的なものとは思えなかったが、いきなり怒るのも大人気ないので「そうだけど、どうした」と答えると「ううん、やっぱり昭和の音はあれだね。すぐ分かるね」と何か奥歯に物が挟まったような言い方をした。それを聞いていた上の子が「止めなよ、これはお父さんとお母さんの青春の音楽なんだから」などといいやがった。

 ちょっと不愉快なものの言い方だったが、まあ所詮はコドモの言うことだからと無視して、CDにあわせて歌っていたら、何か妙な音がする。なんだろうと思って横を見ると、配偶者が携帯にイアホンをさして何か聞いている。その音が漏れているのだ。ナニゲニ、ルームミラーで後ろを見るとバカ娘達もそれぞれ携帯で音楽を聴いている。父が岡林が提起した「我々のうた」を拓郎が否定して「私のうた」にしてしまい、それをさらにユーミンが「何も考えないワタシ」の「うた」にしてしまい、皆が中流志向・プチブル志向を持ち、未来の問題解決よりは目先の快感・快楽を求めた結果、今の「美しい国」が出来てしまった、というか作られてしまいそうになっているのだ、ということを音楽を流しながら解説してやろうと思ったのに、誰一人耳を貸さない。いや正確にいうと携帯のイアホンに耳を塞がれている。正しく「コミュニケーションブレイクダウン」である、あれ2度目か。

 まあ、そんなこんなで無事お墓参りが終わり、帰りはゆっくり国道を走って家まで帰った。家に帰ったら疲れて晩御飯を作るのは億劫だろうと、途中のお店でお惣菜を買い、DVDも返却して家に帰ったのは、夕方6時くらいだった。お風呂に入り、晩御飯を食べて、さあ明日も休みだから、今日は何をして夜更かししようかと楽しみにしていたのだが、なんと9時になったら急に眠気が襲ってきて、じゃちょっとだけ寝てそれからまた起きようと思いながらも、熟睡してしまった。はっと目が覚めたら朝の6時である。頭にきてまた寝てしまった。しかし今度は目覚ましが鳴り始めて、良く考えたら今日は月曜である。このまま起きてしまおうとも考えたが、「世の中に寝るより楽は無かりけり、浮世のバカが起きて働く」という人生の真実をついた言葉を思い出し、再度爆睡した。

 次に起こされたのは実家の母からの電話で、午前中に墓参りに行きたいので来てくれと言って来た。「ハイハイ」と生返事しながら起き出すと、外からなにやらスピーカーの声がする。よく聞くとテレビやパソコンなどを無料で引き取りますなどと言ってる。我が家の倉庫には昔使っていたテレビや、古いスピーカーやビデオなどがスペースを取っていたことを思い出し、外に出ると既に車は次の団地に行こうとしている。ダッシュして呼びとめユーターンしてもらい、古い家電品を引き取ってもらった。もっともテレビは94年製以降のものでないと2,000円費用がかかるといわれたが、リサイクル券を買ったり、家電店に持ち込むことを考えたら安いものなので、まとめて引き取ってもらった。そういえば昨日のニュースで関東のベ○ト電器がお客からリサイクル料を受け取りながら、処分してなかったといっていたが、あれは誰かがリークしたのだろうか。それとも国内でリサイクルせずにどこかの国に高くで売りつけてるのだろうか、などと寝起きのモーローとした頭で考えた。

 ようやく家電品の処分も終わり、大急ぎで家族を連れて実家に行った。車中にかけたCDは今日はユーミンで「魔女の宅急便」でおなじみの曲もあり、昨日ほどクレームはつかなかった。お墓に着いたら、意外なほど人は少なくゆっくり墓参ができた。もっとも水道のところで古くなった花を捨てて、バケツに水を汲んでいたら、大きなクマ蜂が飛んできて一瞬肝を冷やした。5~6センチはあっただろうか、子供達も相当ビビッていた。墓に参った後、お昼に何を食べようかという話になり、こういう時は一番発言権のある下の子が「ラーメン」と言ったので、家族で○来軒に行った。ラーメンを食べながら家族で喋っているうちに、以前行って入れなかった高鍋湿原に行ってみようかという話になった。僕はこの湿原が好きで去年は子供達をつれて何度か行ったのだが、1月から3月までは入園できないことを知らず、前回は門の所まで行きながら入れなかったことがあったのだ。母も行ったことがないとのことだったので、「よし、これで親へのサービスも完了」と内心思いながら車を走らせてた。
湿原の中 遊歩道があり池の回りを散策できる

 走り始めてどれくらい経っただろうか。いきなり配偶者と子供達が叫び始めた。「ハチ、ハチ、お墓からついて来ている、ギャー」と、なんともけたたましい。「窓、窓、窓を閉めて」と下の子が半泣きで叫んだ。僕は訳が分からず窓を閉めた。どうしたのか聞いてみると、お墓で見た大きなハチが車を追いかけてついて来ていたというのである。そんなアホなと思って、「お墓からラーメン屋さんまで行って、ラーメン食べてる間は待機していて、この車が走り出すと同時に追いかけてきたんか、そんなアホな話があるか」と一喝したが、母子は聞かない。しかもそのハチの足が窓に挟まって、怒って針を窓にぶつけている、などといい始めた。ハチじゃなくてアブだろうと母が言うと、下の子が「違う、ゼッタイ違う。だってお尻から針みたいなのが出ている」と叫ぶ、助手席にいた母も、「針が見えた、確かにハチが窓に挟まっている」という。信号で止まるたびに覗いてみたが良く分からない。丁度喉も渇いたので、コンビニで止まってそのハチを何とかすることにした。

 まず配偶者が「お父さん、スプレーがある、スプレーが」と言ったので、お、感心に殺虫剤を車に積んでいたのかと聞くと「ううん、くもり止め」などという。アホ、くもり止めをかけたらハチが目を回すのかと聞くと、「何も無いよりはましだわ」と逆切れしやがった。上の子に至っては「この車はか弱い女ばっかりだから、こういうときはたった一人の男の子が犠牲になればいいちゃが」などという。オレは男の子だったのかと、覚悟を決めて、とりあえず反対側の窓のところに行った。2センチくらいのアブが足を挟まれて、苦しそうにもがいていた。僕は無言で運転席に戻り、黙ったままパワーウィンドのボタンを押した。「ぎゃー」と家族が悲鳴を上げる中、アブはようやく得た自由を二度と手放すまいと必死で逃げていった。その飛んでいく姿を見て母が「やっぱりアブだった」というと、後の3人も「アブよ、アブ」とか「お墓のハチがついてくるわけが無いと思った」とか、好き勝手を言い始めた。その様子を見て僕は、拓郎のある歌を口ずさんでいた。♪人間なんて、ららーらーらららららー人間なんてららーらーらららららー…

 このあと一行は無事湿原に着いたのだが、疲れ果てていた僕はただぼんやりその景色を眺めただけだった。ああ、連休だと言うのに2日も続けてアッシーか。いや、とりあえずこれで家族への義務は果たしたと解釈して、次の4連休は有意義に過ごすぞ、と考えていたら、母が「のんびり温泉に1泊したい」とか下の子が「潮干狩りに行った事がない、釣りをしてみたい」とか言い初めて、僕が大慌てで今更何処へ行っても予約で一杯、泊まるところなど絶対無いと打ち消していたところに、配偶者が「こんな時こそ、ネットで調べたらいい」などといい始めた。…どこがか弱い女なんだろうか。僕はまた拓郎の歌のタイトルを口ずさんでいた。「どうしてこんなに悲しいんだろう」~♪悲しいだろう、みんなおなじさ、おんなじ夜を迎えてる… 


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黄金週間の入り口で

ショーン・プィリプスって同じ名前のサッカー選手がいるとは…

 今日は日曜日だと思っていたら、「昭和の日」なんだそうだ。おかげで明日は月曜日なのに振り替えで休日になる。先週は何かと忙しかったり、疲れたりしたのでエントリーの更新も滞ってしまった。しかも自分の能力も省みず『70年代のフォークを年代記風に書いてみよう』というテーマをぶち上げたものだから、いろいろ調べたり思い出したりすることが多く、そんなことを繰り返しているとフォークより自分自身の過去を思い出してしまい、なんとも中途半端なエントリーを書いてしまったとの反省が出てきて、ちょっと筆が鈍ったというかキーボードを打つのにためらいがあったというのが真相だ。もちろん「気まぐれ連載」は続けるが、今日はちょっとその話から離れていつものグダグダ日記を書いてみよう。

 初っ端に書いたが、恥ずかしながら今日が「昭和の日」になったのは知らなかった。以前は「TENTAN」だったはずだ。それが「みどりの日」になったと思っていたら、いつの間にか5月4日にシフトしていた。どうもこの休日とか祝日というやつは分かりにくい。この日を休みにしようというのはいいのだが、その裏づけとしてこの国独自のシステムがからんでくるとあまりいい気分ではない。「はい、この日はみんなで休みましょう。でもタダで休めるわけではありませんよ。この日は○○に感謝しましょう。それと××について深い思いをめぐらし美しい国の立派な国民になれるようがんばりましょう」などとどこかでプロパガンダしている連中がいるのではないか。

 よくよく考えてみるとこのゴールデンウィークというのもお上が下々のものに、『ほれほれキミタチは普段は働きアリみたいな生活をしてるんだから、この期間中はちびっとばかし羽根を伸ばしてガス抜きしな。ただ引きこもってはダメだぞ。交通手段を使ってあちこち出かけたり、美味しいものを食べたり、我が家以外のところに泊まったりしてお金をバンバン使って経済を活性化するのが君達臣民の役目だぞ。はい、考えることは止めてみんな同じレールに乗って行こうね。』などと旗を振りながら煽っているのが真の姿ではないのか。いかん、この手に乗っては。戦前の二の舞だ。どおりで最近は「いつも3丁目で朝焼けのズィンクアロイを見るのが最高(えー、長いわりにわかりにくいというか、『オールウェイズナンたらの夕焼け』とマークボランのアルバムタイトルを引っ掛けた思いつきなので、ご容赦を)」とかいうマンガや映画が流行って、テレビのCMなんかでも「昭和はモノはなかったけど、心にゆとりがあった」とかなんとか、やたら「昔は良かった」的な風潮が満ちている。

 しかし、本当に「昔は良かった」のか?いや、僕自身も反省をこめて書いているのだが、確かに70年代は良かった的なエントリーを書いてはいるが、それではイカンゾ、敵の思う壺だ。などといった理論構築で我が家の『ゴールデンウィークは家族旅行が無理ならどこか連れて行け』要求を粉砕しようとしていたのだが、女子供にはこの反権力の戦いの意義が理解できないようで、ひたすら不満の声をあげている今日この頃である。ここで再度声を大にして言いたい。連休だから遊ばないといけない、どこかに出かけなければいけないというのは一種の強迫観念であり、その大元は国家の国民に対する愚民政策だ。ゴールデンウィークに遊びほうけてるうちに下心を持った連中が着々と準備を進めているぞ。

 と、ここで話はジャガーチェンジ(by山下洋輔)する。実は2月の28日にHMVに注文して、メーカーの在庫切れでもう多分入荷しないと思っていたショーン・フィリプスの「ブライトホワイト」が今日届いたのだ。もちろん2日ほど前にメールで連絡があったのでそろそろ届くかと期待していたが、本日無事到着して今その音楽を聞きながらキーボードを叩いている。この人もデビューした頃はアコギ1本で延々歌い続けるアルバムを出したりして、フォークというか異色のシンガーソングライターとして捉えられていたが、このアルバム以降はロックやフュージョンぽい音作りに移行した(洒落だよ)。73年に出たアルバムだがポップな曲が多く、さらにヤマハの第4回世界歌謡祭で歌唱賞を受賞した「遥かなる道(All The Kings and Castles)」が入っている。そうそう、このときの世界歌謡祭のグランプリを取ったのが小坂明子の「あなた」である。太目の乙女がヤノピの前で幻想を歌うというしょーもない曲だったが、当時この歌の悪口を言ってクラス中の女子から総すかんを食らったのも、今はよき思い出である。けっ、所詮人間は死ぬ時は一人よ!!

 この世界歌謡祭は何故か偶然テレビで見た。昼間見た記憶があるので、土曜か日曜だったのだろう。「歌謡祭」に相応しいドレスアップした男女のシンガーが登場する中で、彼だけは腰まであろうかという長髪とジーンズスタイル(違ったかも知れないが、とにかくラフな格好だった)で登場し、あのドラマチックな曲を歌い上げ、見事歌唱賞なるものをゲットしたのだ。ショーン・フィリプスは1枚目を友人の家で聞かせてもらったことがあり、最初は気持ちが悪いというか、辛気臭くて好きになれなかった。しかし何度か友人宅で聞かされるうちにだんだんその辛気臭いメロディや彼のスキャット唱法が気に入り、詩も読んでみると現代詩みたいなところもあり徐々に関心が湧いてきたのだ。そこにテレビで見た雄姿(?)である。1も2もなく「ブライトホワイト」を買って聞いた。その後の「Furthermore」や「Do You Wonder」はもう大学に入った後だったが、連続して購入した。この2枚のアルバムはまるでクルセイダーズかE,W&Fかと思わせるようなファンキーミュージックになっていたのには驚いたが。

 その後はぷっつり縁が切れてしまい、アルバムもアナログしか持ってなかったのでもう何十年も聞いていなかったのだが、今日聞きなおしてみるとこれがいいんだな。世界歌謡祭で日本に来ていたので「ビクトル・エマニュエル(世界史で出てきたような名前だが、何をやった人か忘れた。プロシアかどっかの人だったような…)」なんかは日本のミュージシャンと一緒に演奏している(CDのクレジットには記載されてない)。しかしそれ以上に驚いたのは、物凄いメンバーがセッションに参加していたのだ。キーボードのピーター・ロビンソンは毎度おなじみでアレンジも担当しているが、彼とは別にポール・バックマスターがアレンジしている曲もある。アコースティックギターにラリー・カールトンの名前があった時は見間違いだろうと思った。ホーンセクションにはジム・ホーン、ジム・プライスそしてボビー・キーズの名前がある。

 以下、セッション参加のミュージシャンをランダムに書いてみる。チャック・レイニー、リー・スカラー、ダニー・クーチマー、ラス・カンケル、ウィリー・スミス、いやはやこんな人たちと一緒に作ったアルバムだったとは知らなかった。

 と、ここまで書いてきてあることにハタと気づいた。なんと今日はいくつかのメモリアルデイである。まずは狸さんのコメントで教えてもらった、ミック・ロンソンの命日である。偉大なグラムロックギタリストに合掌。それと「いせや」つながりで知り合った澪さんの誕生日です。おめでとうございます。「世界」の原稿もう少し待ってください。そして、なんと当ブログの誕生日でもありました。思い起こせば1年前のこの日「人生はさすらい」のブログタイトルで始めたのが、いつの間にか「別館4階のBOXから」と名前を変え、それから色々な人たちの応援(特にコメントは感謝しています。マジでオレのエントリーより面白いからね)のおかげで、ここまでやってきました。さてこれから何処へ行くのやら。
「あしたはどっちだ!!」

気まぐれ連載~フォークソングクロニクル その2

ガッツ 加川良が若い、当然僕はもっと若かった

 前回のエントリーの最後でようやく71年に岡林のベストを買ってフォークに目覚めるところまで話が進んだ。この71年というのは、僕が生まれて初めて受験生なる立場に追い込まれた時期で、そういう時期であるからかえって勉強以外の音楽や文学その他のいわゆるカルチャーに興味関心が湧き始めた時期である。今更若ぶってもしょうがないが、誤解無いよう説明すると「高校」受験である。断じて「大学」受験ではない。また、もうひとつ僕の個人史的に大きな出来事がこの年にあった。中2まで育ってきた(生まれは違うが)延岡市から県都宮崎市に父が異動になり家族で引っ越すことになった。当然、学校は転校である。もっとも定例の人事異動だったので、学期の初めには間に合った。巡る因果は糸車(by坂本九)か、僕がそのときに入った中学に今、下の子が通っている。現在はそれほど大きな学校ではないが、71年当時は確か1学年が10クラス以上ある大きな学校であった。

 転校するや否や修学旅行があった。今の中学生は生意気に飛行機に乗って京都・大阪に行くらしいが、冗談ではない。足元を固めずして世界が分かるものか。九州を知らずして関西は分からない(はずだ)。僕達の頃は長崎・熊本・福岡の北九州3泊4日の旅行であった。もっとも延岡にいた頃、つまり中2の時に既に修学旅行に行ったので、今回はパスだと親に言ったが、クラスの皆と打ち解ける良い機会だから行って来いといわれ2度目の修学旅行に行くことになった。原田真二は高校のときに修学旅行に行かず、そのお金と時間をデモテープ作りに回し、見事フォーライフのオーディションをパスするのだが(それが「てぃーんずぶるーす」なんだから、やっぱ天才だね)、楽器の能力も才能も無い僕は、一度行ったルートだけに知ったかぶりをしてガイドのセリフを奪ったりして受けを狙うのが関の山だった。

 そのまま学校にも馴染んでいけば問題は無かったのだが、当時住んでいたところが山を二つ越えないと町に行けないし、買い物も出来ない辺鄙なところだったので、車の免許をもたない母が父に頼んで、また引っ越すことになった。このあたりは以前別のエントリーに書いたので端折る事にする。そんなこんなでまた新しい中学校に入ったのだが、今度は1学年が4クラスという小学校並みの小さな学校だった。1年に2回も学校を変わったので、友達も出来にくかったし、出来てもうわべだけの付き合いでたいていは家に帰って本を読むか音楽を聴くのが楽しみな生活だった。もっとも音楽といってもポップスや歌謡曲でまだまだロックやフォークに親しむところには至らなかった。

 僕が軽音楽を聴くきっかけになったのがラジオである。68年にゲルマニウムラジオが学校でブームになり、僕もお年玉を貯めて買いに行ったら既に売り切れており、代わりにイアホンで聞く安いトランジスタラジオを買った。それから嬉しくて、暇さえあればラジオを聞いていた。特に夜寝る前は必ずイアホンをして寝ていた。当時NHKが夜10時過ぎくらいに「夢のハーモニー」という番組をやっており、まあ「ジェットストリーム」のNHK版みたいな番組だったが、その日のテーマに合わせて女性のアナウンサーが曲の説明をするというような番組だった。毎晩のように聞いていたので、パブロフの犬ではないがそのオープニングのテーマ曲を聴くと眠くなるという癖がついた。後年、ジャズのジム・ホールのライブレコードを買い聴いていたら、いきなり眠くなった。「今宵のあなた」がテーマ曲だったのだ。他にも前田武彦と小橋玲子が掛け合いで喋る「ヤングヤングヤング」や大橋巨泉の「ポップスナウ」などを聞いていくうちにいろんなポップスナンバーやフォークソングを覚えた。

 もうひとつのきっかけは中3の誕生日に安いガットギターを自分で買ったことだ。それまでの誕生日は、欲しいものを親に買ってもらうというパターンで、確か69年はナショナルのワールドボーイというトランジスタラジオ、70年はカセットテープレコーダー、これはラジオ付ではなく、スイッチも回転チャンネルのようなタイプで今考えると大層ダサかったが、当時は嬉しくて何でも録音したものだ。テレビで再放送していた「コンバット」のテーマ曲を録音するために、マイクをテレビの前に置き、家族に一切物音を立てないでくれと懇願し綺麗に録音できたと思ったら、最後に雑音が入って口惜しい思いをした。マイクで録音すると外部の音が入ってしまうので何か方法はないかと考えていた時に、LINEの端子を見つけて録音コードを使って録音する方法を知った時は嬉しかった。また同時にイアホンジャックにイアホンを入れると、音声を聞きながら録音できることを知って、驚いたりしたものだ。

 おっと、ガットギターだ。その誕生日の日にクラスの友人と一緒に繁華街に出かけ、レコードも置いている楽器店で、LPレコードを買うか(当時、ミッシェル・ポルナレフが好きでファーストアルバムを買おうかとも考えていた。もし買っていれば生まれて初めて買ったアルバムはポルナレフのはずだった)ガットギターにするか散々迷ったが、教則本とソフトケース付で2,000円という破格値だったので、思い切ってギターにしたのだ。当時、何を弾きたくてギターを買ったのか良く覚えていないが、特定の曲というよりギターそのものに憧れていたのだろう。ところが買って帰ったはいいが、ギターはチューニングが必要だということすら知らず、またラジオで聞くギターの音となんとなく違う、ボディも何処と無く違うなという違和感があった。テレビや雑誌で見ていたギターは、所謂フォークギターであるから、ガットギターとは全く違うのは当たり前である。

 しかも教則本に出ているのは「影を慕いて」とか、「湯の町エレジー」とかの懐メロナンバーばっかりで、今にして思えばそれはそれで味があるのだが、ナウでチャレンジでヤングな15歳が弾く曲ではないだろう。しょうがないので本屋で若者用のギター本を買ってきた。それが「ガッツ」である。72年1月号から買い始めたのだが、当時はこの手のギター本が「ヤングギター」とか「新譜ジャーナル」とか、あとは「明星」や「平凡」の歌本というやつが出回っていた。その中で何故「ガッツ」を選んだか、理由ははっきり覚えていない。ただこの72年の1月号はいろんな意味で面白く定期購読しようという気持ちになった。まず特集が何故かソロアルバムを出したばかりのロッド・スチュアートだった。当時ロックのロの字も知らなかったが、どんな音楽か聴いてみたいと興味を抱いた。さらに小室等が深沢七郎とギター対談したり、加川良がブライテストホープとして記事に載っていたり、もちろんギターのコードや奏法の説明も色々書いてあった。しかし、一番気に入ったのは加藤和彦のレコード批評のページだった。この頃の加藤和彦はもうフォークルのイメージは無く、「あの素晴らしい~」のヒットや「家を作るなら」のCMソングのイメージで、まさにフォークシンガー、シンガーソングライターのイメージだった。このすぐ後にサディスティック・ミカ・バンドを結成するのだが。

彼の記事は、ライ・クーダーの「紫の峡谷」を大絶賛していたり、ある時は「バングラディシュのコンサート」の海賊盤を手に入れて、音は非常に悪いのだが公式盤以上にディランやジョージの息遣いが伝わって同窓会みたいだったとか、エルトン・ジョンの家にミカと二人パーティがあるからと誘われて行ってみたら、バスルームに等身大の人形やぬいぐるみが山のようにあり驚いたとか、楽しい記事を彼独特のシンプルなくせに品のある文章でまとめてあり、毎月読むのが楽しみだった。

 しかし、ギターの話に戻るが、クラシックギターというとナイロン弦でピックガードも無くネックも太い。周りに教えてくれる人はいないし、最初の教則本は「影を慕いて」であるから無視したが、チューニングというやつだけはどうしようもない。チューニングが出来ないと何しろ楽器として機能しない。四苦八苦しながら音を合わせて、まずは5弦の第3フレットが「ド」だからと、単音で弾く練習をしていたが、「ガッツ」などを読むとコードなるものの存在が書いてあった。ほうほう、こう押さえるとCか、これがGね、Amはこうか、と段々覚えていき右手もストローク以外にスリーフィンガーやアルペジオなるものを練習して徐々に弾ける様になった。ところが大きな山が待ち受けていた。Fである。左手の人差し指で1~6弦を押さえて中指、薬指、小指でそれぞれまた弦を押さえると、どこかがきちんと押さえられずに音が濁るのだ。泣きました。何回やってもうまく押さえられない。

 それでも何度も練習しているうちにミスも少なくなったが、右手のフィンガリングはなんとか出来ても左手のコードチェンジがうまくいかないとか、試行錯誤の繰り返しだった。その頃練習したのはジョン・レノンの「ラブ」(実際はレターメンが当時ヒットさせた)。レターメンの「ラブ」を初めて聞いた時はなんというかったるい歌だと小ばかにしていたのだが、例の「ガッツ」にコードが載っていて、比較的簡単だったのとアルペジオで弾くと感じが出るので、練習しているうちに段々好きな曲になった。あ、もちろんジョンのバージョンが、です。レターメンはその次の「オーマイラブ」もあわせて、ジョンの名曲をどうやったらこんなにつまらなく出来るのかと、一方的に嫌っていたのだ。中3の12月から練習を始め、高1の1学期までは結構練習はしたがやはり能力の限界というか、ギターを弾くより歌うほうが簡単だったし、それ以上に話すほうが何でも表現できるではないかという結論に落ち着き、ギターは遠ざかってしまった。もっともガットギターにスティールの弦を張って、ピックでガシガシ弾くなどということを発作的にやっていたことがあったが、父母兄弟から頼むからやめてくれと言われるわ、近所のオバサン連中からも夜中に突然金属音がして飼っている犬が遠吠えするという話を聞き、以後一切手にしなくなった。こうして71年の夏に余りに早過ぎたパンクスは消えていったのだ。

 ちょっと話がそれたが、ようやく71年に入りフォークと出会いつつある。この年フォークのヒットははしだのりひこの「花嫁」、シモンズの「恋人もいないのに」、エンケン「カレーライス」岡林「俺らいち抜けた」泉谷「帰り道」かぐや姫「酔いどれかぐや姫」あがた森魚「赤色エレジー」拓郎「人間なんて」加川良「教訓Ⅰ」高田渡「生活の柄」はっぴいえんど「風をあつめて」そして大ヒットしたのが上条恒彦と六文銭「旅立ちの歌」である。こうやってみると歌謡曲っぽいものから独自のものまで幅広いし、それぞれの曲についてのコメントも入れるとなると、すこし気が遠くなってきたが、まだまだ、こんなところでくじけるわけにはいかん。RCが「僕の好きな先生」で衝撃のデビューを果たすのは72年、古井戸の哀愁漂う「さなえちゃん」やケメの「通りゃんせ」など次回も70年代フォークの心だー(でもちょっと疲れたのでお口直しにショートショートか何かでお茶を濁すかも知れん、予め謝っておく。すまん)!!

大阪行き急行の話~ナニワエキスプレスとは関係なし

 昨日、『フォークソングクロニクル その1』を書き上げて寝たのは1時半過ぎだった。普段は零時過ぎると目が開かなくなって寝てしまうのだが、昨日は少年時代の大阪旅行話を書いてるうちにいろんなことを思い出してきて、目が冴えてしまったのだ。しかし、その報いはてきめんで、今日の病院の注射はやや手間がかかった。僕は睡眠が足りないと血管が浮き出なくなるタイプらしく、何度も手を叩いたりさすったりしてもらってようやく血管に針が入った。優しいナースさんは「4月は忙しいんですか」と聞いてくれて「3月に比べるとまだマシです」などと喋っていたら、突然「年度ってニホンだけなんですかね」などと聞かれた。こういう時に「知りません」と素直に言えないのが僕の性格の悪いところである。もっともこれくらいの瑕疵がないと余りに性格が良すぎてイカン、などと書いていて恥ずかしくなるようなことは止めよう。人間正直が一番である。

 「そうですね」とか適当に流しておけばいいのかも知れないが、仮にも人格を持った人間が質問しているのである。その回答に全身全霊で努めるのが「ひと」というものだ。人という字をみてごらん。ほらお互いに支えあってるだろう、つまり人間は一人では生きてはいけないんだ、などと説教臭くて足が短くて、髪が汚らしく長い、フォークバンドのボーカルが言いそうなことを寝不足の頭で考えた。また続けて、そういえば竹内まりやに「セプテンバー」という歌があって、あれはアメリカの新学期を歌っていたなと思い出しこういった。「ニホンだけじゃないですかね、アメリカは9月から学校始まるし、ほら、『セプテンバー』って有名な曲がアース、ウィンド&ファイアにあったでしょ」と竹内まりやというつもりがついE,W&Fのほうを言ってしまったので、ナースさんは何かあいまいな笑顔を浮かべて「あ、終わりました。あとはしばらく押さえておいて下さいね」と会話を強制終了させてしまった。

 『セプテンバー』といえば高校時代の同期生で外語大に行った男(友達づきあいはなかった)がいて、あるときその男のことをたまたま同級生の女の子と話していたら、急にその女の子が「だって彼はセプテンバーキラーだから」などと口走った。『9月の殺し屋ってどういう意味だ』と追求したら、『女の子を泣かせる悪いやつだ』と教わった。後日、別の男の同級生に「セプテンバーキラーってどういうモノなんだろう」と聞いたら「そりゃ、ベッドでもオールイングリッシュ違うか」と言われ、よし、オレも英語を学ぶ以上は『セプテンバーキラー』になってやろうと決意したのだが、僕の関心は『ブラックセプテンバー』のほうに行ってしまい残念ながら、ベッドで英語で国際交流する機会は無かった。どこで道を間違えたのか、「一本道」(by友部正人)のはずだったのに…。などとややシーモネータ的な話になりそうなので、このあたりで話を昨日の続きに戻そう。

 大阪旅行の話で書き忘れていたことがあった。特急電車に乗って大阪に行ったのだが、たしか14,5時間かかった。宮崎(正確には延岡)から門司までと下関から大阪まではどちらが遠いか、お時間のある方はニホン地図などでお調べいただきたい。どう見ても九州内の移動距離より本州に渡ってからのほうが長いでしょう。しかし、かかる時間はなんと正反対。九州を抜け出すまでにかかる時間の長さったら、とんでもない。何故このような摩訶不思議なことが起こるか。答えは簡単。我が日豊本線は『単線』なのだ。つまり線路がシングルというか「単」、1対というのか、要するに1台の電車が走るとそれと反対方向から別の電車が走ることは出来ない。しょうがないからどこかの駅でやり過ごして、線路が空いてから走るという仕組みである。ダイアグラムなどという言葉、最早死語になっているのかもしれないが、単線の電車が時刻表どおり進行するために緻密に練り上げられていた国鉄の智慧だった。

 そういえば大学の頃、後輩から「先輩の田舎は単線ってホンマですか」と聞かれ「おう」と答えたら、「うそやー、そんなんやったら電車がぶつかるやん、有り得へんわ。ボクラのとこは生まれたときから、複々線で、その後すぐ複複々線になったから、単線て理解できんわ」と激しくバカにされたことがあった。あんまり頭にきたので「ふざけるなよ、今とりあえず電車といったけど、正確にはディーゼル機関車だ。D51やC62なんかまだまだ現役や」と答えてしまい、南九州は未だに炭鉱があり、ボタ山があり、そこで取れる石炭を燃料として列車は走っているという、アンチ石油資本主義理論を展開してしまい、もちろん冗談で言ったのだが、ほとんどマジで取られてしまい南九州は文明の未開地と思われてしまった。まあ、確かに当時はそういう部分があったことは否定しないが…。

 しかし単線の電車に、それも各駅停車、平たく言えば鈍行列車に乗っていると、電車内身分制度というものが良く分かる。どういうことかというと、各駅停車の電車も走っていればそこそこ速いのだが、やたら停車、通過電車待ちが多いのだ。一駅走ったと思ったら「登り急行待ち合わせのため15分停車致します」などのアナウンスが流れ、こちらはひたすら待つだけ。ようやく時間が来たなと思うと反対側から、電車の音と小さな影が見え始める。じっと見ていると一陣の風のようにやってきて、すれ違う瞬間相手の電車に乗っている人の姿が一瞬映る。どういうわけかたいてい、その姿は笑っているようだ。そんなはずは無いと思うが、こちらは線路を譲って待っている身なのに、あちらは一気呵成に駆け抜けていく。そういうところから笑われているような気がしたのかもしれない。何かに似ていると思っていたが、江戸時代の大名行列に似ているのだ。特急や急行、場合によっては快速なんかに線路を譲り、こちらはひたすら待っているだけ。長距離の移動なら、知らない駅に途中下車してぶらつくなどという楽しみもあるが、毎度毎度走っているルートだとただボーッと窓の外を眺めているしかしょうがない。

 いつの間にか旅ブログみたいになったので、大阪話の残りを急いで書いておく。今回はフォークの話が出るのかな。

 前回の日記で冷凍蜜柑ほど美味いものは無いと確信したが、深夜大阪の親戚の家に着いて、おにぎりをご馳走になった。梅干やおかかの何の変哲も無いおにぎりだが、長距離の旅をしてきた人間のおなかには大変優しく、無心にぱくついた。麦茶を飲みながらひたすらおにぎりを食べていたら、遠くで何だか哀愁のあるラッパの音がする。「あれは何だろう」と呟いたら、親戚のおじさんが「あれは夜鳴きそばや、どや、食べてみるか」と言われ、一もにもなく頷いた。しばらくすると丼から湯気を出したものが届けられた。確か丼をもっていくとそこに中華そばをついでくれる仕組みだったようだ。焼き豚とシナチク(ベサツ語だなどと言わないで下さい。イシハラのオッサンが言う意味で使ってるのではなく、呉智英理論に賛成しているだけです)、それにナルトとノリが具にのっていたように思う。焼き豚というものをその頃は知らなかったので、普通の豚肉と思って噛み付いた。甘くて美味しい。こんな美味しいものが世の中にあるのだろうか。

 夢中で食べて気がついたらスープも残さず食べていた。おそらくあれが生まれて初めて食べたラーメンであろう。もちろん即席ラーメンは既に登場していたし、オバQで小池さんが食べているのは、チキンラーメンだと知っていたし、地元ではかのアベックラーメンやサンポーラーメンも既におなじみであったが、生麺をゆでて具を盛り付け、そこにスープを注ぐラーメンを食べたのは生まれて初めてだったと思う。生まれて初めてついでの話では、この旅行の時に初めてプロ野球のナイター見学に連れて行ってもらうのだが、なんと今は亡き日生球場(漢字あってるかな)で、阪急対近鉄という関西ローカルの試合だったが、そこでは発泡スチロールの丼に入った天麩羅うどんを食べさせてもらった。発泡スチロールで丼を作るという発想に大変驚いた。そうそう、当時九州ではまだボンカレーが出ておらず、レトルト食品も未知との遭遇で驚いた。

 あー、それと今まで忘れていたのだが、連れて行ってもらったデパートでお菓子か何を自分で買ってお金を払った時に、僕は板垣退助の百円札(by加川良)を出してしまうのだ。当時、大阪は既に百円玉の時代になっており、あの赤茶色の小さいお札を出したことで僕は、その売り場で人気者になってしまった。お店のおねーさんが記念にするから、もっともっていないかと言われ、確かあと2枚ほど持っていたのを硬貨に換えたことを覚えている。しかし、こんなことばかり書いていたらいつまでたっても71年に行けない。フォークに出会えない。今日のエントリーは途中下車ということで、次回こそ、70年代のフォークソングのココロだー。

気まぐれ連載~フォークソングクロニクル その1

 狸さんとbarrett_hutterさんのコメントに触発されて、「私とフォークの出会い~70年代サブカルチャー批判~風は吹かなかった」みたいなタイトルでエントリーを書こうと決心した。決心したのはいいのだが、正直記憶が混乱しているところが多い。あんまりウソや事実誤認が多いのもいけないと思い、手元に本や資料を揃えているうちに、僕のブログを読んでくれる人たちは「正確な記述」や「歴史の生き証人」的なことはあまり、というか、ほとんど期待しておらず「正確さと面白さを量りにかけりゃ、そりゃもちろん面白さが最優先」的なノリを期待してくれているのではないか、いや、そうに違いない、とパラノイア的確信が生まれてきたので、例によってヨタ話から始めて行く。まずは僕とフォークの出会いを書いておこう。

 僕が始めてフォークと出会ったのは、68年の夏休みに父に連れられて大阪の親戚の家に遊びに行ったときだった。当時宮崎大阪間はまだ飛行機が飛んでおらず、あれ、そう教え込まれていたから、今まで疑問に思わなかったがちょっと待てよ。今Wikipediaで調べてきたら、宮崎空港は60年代の新婚旅行ブームから「日本一のローカル空港」などといわれて、当然68年には大阪まで飛んでおったわ!!クソッタレ、今まで騙されていたのか。♪みんなビンボが悪いんや~(by岡林信康「チューリップのアップリケ」)ほらフォークがからんできた。まあ、しがない地方公務員の父であったので大阪まで飛行機で行くなどという考えは毛頭無かったのだろう。もちろん僕自身も飛行機など論外で、当時はまだフェリーも通ってなかった上に、山陽新幹線も開通していなかったので、朝方日豊本線の特急電車に乗り、そのままひたすら九州を北上して関門トンネルを抜けて、そこからまた山陽道をひたすら走り「線路は続くよ、どこまでも」というのは決して単なる歌詞ではないということを体験しながら、目的地の大阪に「たどり着いたらいつも雨降り」ではなかった、たどり着いたのは深夜に近かった。

 丸々半日も電車に揺られていたので、歯茎の付け根はがくがく言うわ、運動不足で身体のあちこちが痛かったのを覚えている。しかしまだガキの頃だったので、大都会大阪に出てきたという興奮で目がらんらんとしていたはずだ。そういえば、その行きの電車の中で面妖な食い物に出会った。7月の終わりだから、夏の真っ盛りで冷房がギンギンに効いている車内に、えーと売り子さんというと失礼なのか車内販売のおねーさん(当時はローティーンのクソガキ時代だったから文字通りおねーさんのはずだ)がお弁当やビールやジュースなどを売りに来るのだが、あるとき父が手を挙げて呼びとめ、何かを買った。赤いネットに入ったそれは50センチくらいの数珠繋ぎ状で白い煙が出ていた。ネットを破ってその中のものをひとつ取り出してくれた。冷凍蜜柑であった。60年代末は、果物そのものが比較的高価なものというイメージがあったし、第一季節のものはその季節にしか口に入らなかったので、真夏に食べる蜜柑というシチュエーションに随分驚いた。

 更に驚いたのは、その冷たさである。冷凍してあるのだから当たり前といえば当たり前なのだが、甘いとかすっぱいとか味わう前に、その身も凍るような冷たさが美味しく感じられた。しかし2,3個食べると口が冷たくなりすぎて寒いくらいだったので、そのまま食べるのを止めて窓のところに置いていた。その旅行にはいとこも一緒に行ったので、二人で騒いでるうちに蜜柑の存在を忘れて、小一時間経ってから窓辺のしずくに気がついた。冷凍蜜柑が自然解凍されており、みずみずしい果物本来の感触を取り戻していた。思わず口に入れたら甘かったこと、甘かったこと。それからしばらくの間は、世の中で一番美味しいのは冷凍蜜柑だと固く信じ込んでいた。

 さて、フォークとの出会いであるが、その大阪旅行の時にあるデパートに連れて行ってもらった。これは何回考えても何処だったか思い出せないが、宮崎(当時は延岡市という宮崎県の北側に住んでいたが、そうそう、「坊ちゃん」でうらなり君が飛ばされた「日向」の「延岡」である)のデパートとは比べ物にならないくらい大きくて陳列している商品も多かった。そのデパートで、書籍売り場をうろついていた時に、父が「好きな本をどれでも1冊買ってやる」と言った。我が家はビンボーだったのでこのようなことは滅多になく、完璧に僕はぶっ飛んでいたのだが「マンガはダメじゃろ」と「JAROってなんじゃろ」みたいな質問をしてしまった。その言葉を発した後「シマッタ、せっかく父が大盤振る舞いしてくれると言うのに余計なことを言った、怒られる」と覚悟したが、父も機嫌が良かったのだろう「巨人の星ならいいわい」とアンビリーバブルなことを言い出した。

 話は脱線するが(って、もう随分脱線してるんですが、という声なき声が聞こえる。この国の為政者達もこのような声なき声を聞こうとする気持ちを持って欲しいものだ、などとアリバイ的な発言をかましておく)、我が家ではマンガはご法度。父が教員だったため、家の中にはマンガ類は一切無かった。後年弟が「ハレンチ学園の映画を見に行く」と言ったところ父から「おなごんこのスカートをまくるような映画を見るとは、何を考えちょっとかー」と一喝され、しばらくはげん骨と説教が続いた。オレは誤爆されたが、友達の家や床屋でジャンプの「ハレンチ学園」は欠かさず読んでいたので、バチが当たったとそのときは思った。そのような、家庭環境にいた僕なので父親公認でマンガが買えるというのは夢のような話で、巨人の星の単行本を何度も何冊も見比べ、ついに星雲高校が甲子園に行く話が出ているものを買ってもらった。

 デパートから帰るや否や僕が、包装紙を破って単行本のページを開いたのは、ご想像のとおりである。その巨人の星のストーリーは、伴とバッテリーを組んだ星が弱小星雲高校を率いて、甲子園の第1試合を闘うところから始まっていた。星の相手は高校名は忘れたが、超高校生級のピッチャー太刀川が率いるチームだった。1回の表、太刀川はその落差の鋭い変化球で三者連続で三振を取った。かたや星は三者凡退に討ち取るが、全て打たせて取るピッチングであった。それを観客席から見ていた花形は「我が宿命のライバルは、一段と恐ろしい男になって甲子園にやってきた。取ろうと思えば取れる三振をバックを信頼して打たせて取るとは、恐ろしくてションベンばちびりますたい」となぜか後半は左門豊作が出てしまったが、たしかこんな感想を言うのだが、僕は納得がいかなかった。『なんでや、バックの選手がエラーしたり悪送球したりしてピンチになったり、万一点を入れられたら、星雲高校は点数取れるやつはおらんぞ』と考えたのである。たかがマンガに感情移入しすぎだが、こういう性格なのでしょうがない。こういう思い入れがあるからロックやフォークにうつつを抜かし、近所の団地のオバハンに「○○さんとこの息子は、親は先生なのにバカ息子」と陰口を叩かれるようになるとは、その当時は夢にも思わなかった。さらに成長すると「アカ息子」と言われて…、ま、その話は良いか。

 えーと、いつフォークと出会うのだと怒りのまなざしで見ている皆様へ。フォークはもう出ました。超高校生級の太刀川が投げる変化球がフォークだったのです。そりゃ、フォークボールだろ、村田兆治だろ(例えが古くてすいません。ここ何年もプロ野球見てないモンで)、と、突っ込まれそうなので、少しフォークとの出会いを書きます。初めてフォークをフォークとして意識して聞いたのは岡林信康のベスト盤「岡林信康の世界」を友人に借りて聞いた71年だったと思う。もちろん流行歌としての「バラが咲いた」や「帰ってきたヨッパライ」「受験生ブルース」「白いブランコ」などは当然知っていたが、それらはちょっと変わった歌謡曲という認識だったと思う。岡林はラジオで聞いてその歌詞に驚き、こんなことを歌にしていいのかという気持ちとそれでいいのだというバカボンのパパ的気持ちが合体して、すぐに友人からレコードを借りたわけだ。その友人も兄がフォークが好きだったので岡林のアルバムを持っていたわけだが。

 そのビックリした歌詞は今聞き直すと、少し苦しいところがあるが60年代末の「何かが変わるかも知れない」という時代の息吹を表していたと思う。

「くそくらえ節」

ある日学校の先生が生徒の前で説教した
テストで100点とらへんと
りっぱな人にはなれまへん
くそくらえったら死んじまえ
くそくらえったら死んじまえ
この世で一番えらいのは
電子計算機

ある日会社の社長はん
社員を集めて説教した
君達ワタスを離れては
マンズ生きてはゆけない身の上サ
くそくらえったら死んじまえ
くそくらえったら死んじまえ
金で買われた奴隷だけれど
心はオレのもの



電子計算機などという言葉が哀愁を誘うが、この歌の最後の2行は未だに職場で呟いている、進歩の無いオレであった。次回は真面目に70年代フォークについて語るのココロだー!

共同幻想論~言語にとって美とは何か パート2

 昨日はあれから、「太陽の塔」の残りを一気に読み、その後「亀渕昭信のオールナイトニッポン 35年目のリクエスト」を読んでしまいPCを立ち上げることはしなかった。それで、今日はどうしようかと思ったが、昨日のエントリーは筆の誤りというか筆が滑ったというか、正確にはキーボードの勢いで書いてしまったところがあったので、本来書こうとしていた内容を、駆け足で書いておこうと思う。

 雨も降り飽きて 風もやんだようだね
 つい今しがたまで ドンチャン騒いでた街が
 ひっそりかんと ひざを正してさ 
 静かだね(ウーウ) 
 静かだね(ウーウ) 
 夢でも食べながら もう少し起きてようよ


 白石ありすの詩に吉田拓郎が曲をつけた「伽草子」である。アルバム「元気です」の大ヒットの後に出したアルバムタイトルにもなっている曲である。随分昔の深夜放送で、拓郎本人が「自分でもどうしてこんな良いメロディが浮かんできたのか信じられない」みたいなことを言っていた。まるでポールが「スクランブルエッグ=イエスタディ」を作った時のようだ。などと、気取ったことを書いてしまったが、実は僕はこの歌に出てくるフレーズ「ひっそりかんと」の部分を、つい先日まで「ひっそりたんと」と思い込んでいたのだ。どれくらいの期間かというと、この歌をはじめて聞いたのが73年のはずだから、えーと34年間か、わっはっは、恥ずかしいわ!!どうしてひっそり「たんと」などと聞こえたのか、またひっそり「たんと」とはどういう意味なのか。今になって考えると「ひっそり」した状態が「たんと」ある、つまりひっそり「フル」という意味で理解していたのであろう。

 それでは34年間も思い込んでいて、下手すると一生そのまま覚え違いしていたかも知れない言葉に何故気がついたかというと、「太陽の塔」のおかげである。新潮文庫版の164ページの10行目にこうあった。

 やがて私はひっそり閑と静まった民俗学博物館へ足を向けた。


 この部分を読んだ時、頭の中で「ひっそりたんとひざをかかえてね~」と歌詞すら間違っていた「伽草子」のメロディが浮かんできて、「ああ、『ひっそり閑と』、が正しい言い方のなのだ」と理解したのだ。いや、「ひっそり閑と」という言い方は聞いた覚えがあったが、それがあの「伽草子」の詩とつながらなかったのだ。この経験は大変うれしいというか、恥ずかしいというか、いやいや間違いを訂正して正しく覚えることは幾つになっても大事なことだと思い、似たような経験で「とりつく島が無い」という言い方(慣用句かな、これ)も長いこと間違っていたなと思い出したのだ。

 以前、エントリーで書いたかもしれないが「とりつく島が無い」という言い方を僕は長い間「憑りつく暇が無い」と思い込んでいた。つまり、物の怪が「憑りつく=憑依する」暇も無いほどつっけんどんなやつとか、忙しいやつと思っていたのだ。わはは、ああ、恥ずかしい。これで文学部だったとは神をも恐れぬ所業じゃ。てなことを、基にしてエントリーを組み立てていくつもりだったが、何故かエイデンのキセル話になってしまった。まあ、あの話はいつかは書こうと思っていたし、かのS戸君のアンチ武勇伝はまだまだいっぱいあるので、続きはまたいつかアップしたい。

 そうそう、エントリーのタイトルだが吉本ばななの父君の著作からパクらせて頂きました。

京都幻想論~言語にとって美とは何か パート1

やはり太陽の塔は異形である 作った人間も異形だったが
 
 先日から、森見登美彦の「太陽の塔」を読んでいる。文庫で230ページほどの薄さだが、出てくる人物や風景が楽しくて、夜寝る前に2,30ページくらいずつ読んでいる。昔は面白い小説や本に出会うと、時間を気にせず一気に読んでいたのだが、これが年輪を重ねるということなのか、最近は読み終えるのがもったいないという感じが強く、少しずつ読み進むことが多い。この「太陽の塔」は京都市は左京区がストーリーの背景になっているので、懐かしい地名や単語が飛び交うのだ。例えば、吉田神社、百万遍、京大西部講堂、元田中、叡山電車などだ。もっとも最後の叡山電車は僕が学生生活を送っていた70年代後半は京福電車、京福電鉄と呼んでいた。

この京福電車だがその名の由来は、福井県出身の友人に聞いたのだが、はじめは京都と福井を結ぶ電鉄会社として立ち上げたらしい。ところが資金が続かず福井県の一部と京都の一部、比叡山に向けて走る叡電(エイデン、僕達はこの電車に乗ることを「テイクジエートレイン」、つまり「エイデンで行こう」、などといっていた。なにつまらぬ洒落だ)と嵐山方面を走る嵐山線が、その京都~福井間制覇の夢の名残として残ったという話だ。ウソか本当か知らないが、2両編成の小さな電車で、そうそう大学に入った75年にはまだ京都の街中に市電が走っていたが、その市電と比べても遜色の無いくらい小さな電車だった。1,2回生のころは左京区の修学院に住んでいたので、キャンパスのある烏丸今出川に行くには、出町柳から多少歩くものの、本数が多いのと運賃が安いことで重宝していた。

話が脱線するが(毎度のことなので、一々断らなくてもいいのでは、とも思うが、そこはそれ気は心というか、一応挨拶だけはきちんとしないと、人間としていかんのではないか、ってこの言い訳のほうが長くなってしまった)、僕の同級生で後に栄えあるDRACの幹事長という重責を担う、岩倉在住のS戸君という男がいた(彼の名誉のために付け加えると、3回生からは北白川、5回生からは下賀茂の当時は珍しい学生マンションに住んだ)。何度かこのブログにも登場した、「お百姓さんの気持ちが分かるから、野菜ドロボーは二度としない」なる名言を吐いた男である。その彼があれは2回生の頃だったか、3回生になっていたか、今になっては定かではないが、妙に浮かない顔をして僕に「おい、○○(僕の本名)。ちょっと聞いてくれや」と話しかけてきたことがあった。なんだろうと思って話を聞くと、エイデンでキセルがばれて捕まったというのだ。

彼の話はこうだった。前期試験の真っ最中に、例によって岩倉からはるばる花のキャンパスに専門の試験を受けにやってきた。当然、エイデンには定期券で乗った。乗るときも降りる時も定期だから、駅員もチラッと見るだけでフリーパスである。彼も「バラの木にバラの花咲く何事の不思議なけれど」とも思わず、無邪気に学校に来た。試験を終えて、さあまた人外魔境の岩倉に帰ろうと思って定期を取り出した時、その有効期限が前日で切れていることに気がついた。性格の良さと外見の人懐こさ(何しろかまやつひろしそっくり、豊田勇造にも瓜二つ。かの中山ラビが豊田勇造と間違えて挨拶をしたという事件もあった)だけで幹事長になった男だけに、すぐに定期の更新をしようと思った。しかし、我がD大学の前期試験は夏休みの前にある。ほとんどの大学は前期試験は夏休みの後にあるのだが、何故かD大学は違っていた。そのことが、彼の心に眠っていた悪魔を呼び起こしてしまった。「おいおい、今さら定期を更新しても後数日で夏休み。それから9月まで定期は使わないぞ。そのお金で、河原町に行ってナンパしたらどうやろ。アカン時は雄○にも行けるでぇ」多分、悪魔はこんなことを囁いたのだろう。

再度、彼の名誉のために付け加えると、一度はこの考えを彼は否定した。しかし、今日、期限切れの定期に乗ってタダでエイデンに乗ったのは事実だ。このまま使ってばれた時に、謝ってお金を払えばいいではないか。浅はかな考えである。しかしながら、この浅はかな考えどおりに行動しておけば悲劇は起こらなかった。彼は、自分の運命を流れに身を任せるような、レットイットビー的な生き方を否定する人間であった。彼の定期の日付は1桁の日付である。その数字の前に「1」と書き加えれば、あーら不思議。有効期限があっという間に10日間延びて、彼は安心してエイデンに乗れるのである。早い話が、定期の期限を偽造したというわけです。彼は元来手先が器用なほうで、もちろんやる以上はすぐばれないように、根気よく、丁寧にボールペンで定期に「1」と書き込み、自分で見ても判断できないと思い、クラスの何人かに「おい、ちょっとこれ見て、何かおかしい事ある?」と聞いた。

その定期を見た全員が何もおかしいところは無いといったので、彼は安心して、それでも初めてその定期でエイデンに乗る時はどきどきしながら、改札をくぐった。出町柳で乗るときも岩倉で降りる時も、駅員は全く興味を示さなかった。この事実は彼を勇気付けた。翌日も試験があり、彼は往復偽造定期でエイデンに乗ったが何事も無かった。彼はますます自信をつけ、最早自分が定期を偽造していたことすら忘れていたようだ。悲劇は突然起こった。その日彼は、いつものように定期を出してエイデンに乗り、終点の出町柳に降り立った。改札を抜けようとしたとき、若い駅員に「あ、お客さんちょっと」と呼び止められた。そのときの心境を後日S戸君はこのように語った。「あの時、立ち止まらずに聞こえない振りをしてそのまま駅を出てしまえば良かったんや。バカ正直に止まったばっかりに…」

駅員は試験に急ぐ学生達を改札から送り出した後、件の定期を凝視して首を二三度横に振った。それから、無線で何か話したと思ったら、やや厳しい目つきで「お客さん、ちょっと駅員室に来てもらえんかな?」と口調とは裏腹に、S戸君の腕を抱きかかえた。駅員室に連れて行かれた彼は、落ちるのも早かった。権力にパクラレたら完黙こそが唯一身を守る術であることを、ノンポリだったS戸君は知らなかった(またもや余談だが、街中で自転車をパクッたあるサークルの活動家が警察に偶然「その自転車は誰のだ」と聞かれて「完黙する」と言ったために2泊3日でぶち込まれたことがあった。何でもかんでも完黙するのも考えモンだ。というより、活動家の癖に人民のチャリ盗むな!!)。結局、彼は定期を偽造した罪でエイデンの往復運賃の3倍だったか、ちょっと記憶はあいまいなのだが(どなたか法律に詳しい方フォローお願いします)、とんでもないペナルティを払わされた。そのお金は彼が、運転免許を取るために色々なバイトをしてようやくためた金額とほぼ同じだった。

彼は最後の抵抗を試みた。「うちの実家は農家でその手伝いするのに、車の免許がないとアカンのです。そして、ようやくこつこつと貯めたお金なんです。罰金は払いますけど、何とか分割で少しずつというわけには、いきまへんやろか」。ウソである。実家が農家というのは本当だが、免許は女の子にもてるためという下心行動委員会である。この言い訳は余計に駅員を激怒させ、ついには大学にも通知する、実家の親にも連絡するなどと脅されて、彼はようやく諦めた。改札を出てすぐに銀行に行き、泣く泣く預金をおろしてペナルティを支払った。その罰金をもって行った時、自分を捕まえた若い駅員が「ワシ今月こいつで3人目や」とキセル犯捕縛件数を自慢していた。その言葉を聞いた瞬間S戸君は燃え上がるような殺意が怒り、それを抑えるのに大いに苦労したらしい。しかし、抑えて良かった。有印私文書偽造くらいなら罪は軽いけど、駅員を殺害したら…。

彼のアンチ武勇伝を聞きながら、僕は彼の悔しさと駅員の横暴な態度に満腔の怒りを表明し、それを具体的な行動に起こした。つまり大爆笑したのであった。あまりにおかしくて腹の皮がよじれながらも、「でもS戸、なんでその駅員はおまえの定期がニセモノと見破ったん?」と聞くと「月と日の間に黒い横棒が書いてあるやろ。あれは日付が一桁の時は丸い点が打ってあって、二桁の時だけ横棒になってるんやて。そやから、最初にオレをパクッた駅員も最初は定期券のミスプリントと思ったらしい。駅員室で来る駅員、来る駅員みんな『これはよう出来とるな、ワシやったら見落とすな』って言いよるねん。それ聞いてたらワシ口惜しくて口惜しくて…」彼の嗚咽はエンドレスで続くのであった。

ということで、例によって70年代の京都で起こった話をアップしてしまったが、本当はこの話を書くつもりではなかった。実は、「太陽の塔」を読んでいる中で、長年、間違って覚えていた言葉の正しい表現を知ったことをアップするつもりだったのだ。ヒントは御伽草子である。ちょっと疲れたので、これから夕食を取り、元気があったら続編を書きます

本日の疑問点~ちょっとVOW風に

※今回もやや下がかった話になりそうです。お嫌いな方はパスして次回のエントリーにご期待下さい。
漢字で書くと「税所」なんだが、ひらがなだとどうしても「最初」と読んでしまう。

最初が「歯科」で、次が「眼科」そうなれば最後は「泌尿器科」か…。この謎が解ける人のオヤジ度は高い。ヒント、古より「ハ・メ・マ~」と申します。いえ、僕は至って頑丈です。

バックは最近出来た天満橋です。

前のクリニックに後ろのホスピタル、前門の虎に後門の狼みたいです。余談ですが、今日、宮崎のジミン党の県連会長がタイーホされました。容疑は息子を当選させるために票を金で買ったということです。ちなみに息子さんは12人が定員の県議選に12位で当選。次点との票差は131票差だったそうです。親の心子知らず、あれ、違った?
「な」を「ず」と変えて、読まないように。

ノーコメントです。誰だ、そこでニヤニヤしてるのは!?なんだ「鳥肌音楽」の管理人か。ちなみに「坊ちゃん」に出てくるのは「うらなり」君です。京都は「はんなり」です。大阪はこれに瓢箪がつきます。

いつの間にか出来ていた病院ストリート

やけに病院の看板が多いと思ったら、病院街が出来ていたのか…。ウソです。上の3つの看板とこのバス停は全く方角違いです。しかし、こうやって見ると、おかしな看板っていっぱいあるな。おつ、ひらめいた。これからは写真ブログでもいけるか、いやいやシーモネータブログでもやっていけそうだ。…こんなことばっかりやってると愛想つかされそうだから、次はちゃんと書きます。いや、もちろんエントリーですが。初心に戻って70年代極私的ロック史やろうっと。

ほな,どないせぇゆうね パートⅡ

※今回のエントリーはやや上品さに欠ける面があります。予め警告いたします。
あれ、女の人の横にも誰かひとりいるぞ。

 先日、昼飯を食った蕎麦屋のトイレに貼ってあった厚生労働省のステッカー。宮崎弁で書いてあるが、各地方の方言版があるのだろうか。これを見る限り、お国はエイズを治療する気は毛頭無く、予防しろ、罹患するのは「パートナー」とやらを、無差別に選んだからだとでも言いたいのだろう。予断と偏見を撒き散らす、人を小ばかにしたステッカーである。よって、剥いで破り捨ててやった(と、日記には書いておこう、っていうフレーズが一時期流行ったよね。と力なく同意を求めるのであった)。  

 今日車の中で聞いた、あるアナウンサーの発言。「この時期は、初々しい新人さんが多い時期ですよね。仕事に慣れるのも大変ですが、一番大変なのは仕事場での人間関係ですね」。この後に「汚職場のおなか間のお名前を…」。目が点になった。一瞬、考えて「お職場のお仲間のお名前」ということだと気がついた。何でもかんでも「お」をつければいいってモンじゃない。今年から敬語の種類が増えて「美化語」なるものができたというが、言葉を職業としているアナウンサーがこれでは♪ニホンの未来は真っ暗、日本の未来は真っ暗(byアナーキー)である。ところで、シモの話で恐縮だが、オシッコというように「小」には「お」をつけることがあるが、オウ○コ(今、そのまま露骨に書いてみたが、あまりにお下劣だったので、伏字にする。こういう自己規制が表現の自由を殺して…、いない、と思う)という言い方はしない。何故だろうか。医学用語でも「お小水」という言い方はあるが「お大便」とは言わないようだ。どなたか、なぜ大は美化語になじまないか教えて欲しい。

今回も、ショートショートで決めてみたが、sugarmountain君や黒木燐さんが泣いて喜ぶような下品なネタになったところが反省点である。 

時には饒舌を止めて

電柱にこんなこと書かれてもなぁ ノアの箱舟を待つのか?

今日、車で移動中に発見。思わず車を停めて眺めてしまった。口から出た言葉は「ほな、どないせいゆうね(by町田町蔵)」。頭の中を駆け巡ったイメージはこのイメージだった。再度口をついて出た言葉は「どうすることもアイキャンノット、アイキャンノット、アイキャンゲットノーサティスファクション」

花見でワシも考えた

寒々しい文化公園 でも人は多かった

 夕方、コメントくれたもりさんのブログを読んでいたら、無性に森見登美彦の「太陽の塔」が読みたくなった。ここ4,5年ほどほとんど小説は読まなくなっていたが、この作家の「夜は短し歩けよ乙女」は、新聞の書評でも好意的に取り上げられていたし、本屋で手にとってぱらぱらめくった時も興味はあったのだが、なんとなく買いそびれていた。とりあえずタイトルと表紙の版画(?)がココロに訴えるものがあったので、カレー作りを配偶者にバトンタッチしてM林堂に行った。ところが「夜は短し歩けよ乙女」は、あったものの「太陽の塔」がない。しょうがないから「乙女」を先に買って読もうかとも考えたが、せっかくなのでもう一軒、K海堂(鹿児島本社のローカルチェーンの書店です)に行ってみた。行って見るモンです。お目当ての本は新潮文庫で購入できたし、そのついでに亀渕昭信のオールナイトニッポン「35年目のリクエスト」も買ってしまった。

 さらに、併設しているCDコーナーでワゴンセールをやっており、1枚315円とか500円(税込み)などのポップが踊っていた。早速覗いてみると、随分以前から値引きしていた古い(もちろん未開封の商品ではあるのだが)、あまりぱっとしないものが多かった。それでもしつこく3つあるワゴンを順番に見ていると「お、ジェファソンのシュールリアリステック・ピローが315円、ゲット」とか「ジャクソン・ブラウンのネイキッド・ライド・ホームが500円、ゲッツ」、「げろっぱ、ジェームス・ブラウンのオーガスタライブ、ゲッツ」などとダンディ坂野みたいになりながらしきりにゲッツを連発して、都合3枚を購入するかとレジに向かいかけたその時、あるものが目に止まった。『1枚で315円(2枚で500円)』という文字だ。つまり、1枚単品だと315円だが、その315円シールのついてるCDを2枚選ぶと500円になるという、ありがちな商法である。

 別にそのまま購入してもいいのだが、そういう条件だと後1枚足して500円にしたほうが得だという打算が働く。だって1枚315円、2枚で500円ということは、2枚買えば1枚の単価は250円になり、1枚だけ買うより65円得することになる。という考え方は実は、テキに踊らされているわけで、必要でないものを買うこと自体が損をする、マイナスであるはずなのだ。しかし、しかしながら相手はCDである。音楽である。僕が何とかまともな社会人でいられるのも音楽のおかげ、といえなくも無い。理屈はともかく、どうせならもう1枚何かいいのがないかと探すのが、岩石生活者である(ホンマか?)。しかし、そうやって探してみると帯に短し、恋せよ乙女じゃない、たすきに長しだ。色々選んで、最終的にスザンヌ・ヴェガにするかボブ・ジェームスにするか迷ったのだが、ボブ・ジェームスはソロ&デュエットピアノ作品でジョー・サンプルや松居慶子などのゲストも魅力的だったので、こちらに決定。ヴェガちゃんとはまたご縁があればということでサヨナラしてきた。

 家に帰って自分で作った(最終仕上げは配偶者であるが、涙を堪えて玉ねぎを切ったり、安い肉を少しでも美味しくするために赤ワインにつけたり、丁寧に灰汁をすくったのは僕だ、と声を大にして言いたい)カレーと、中華だしのコンソメ味のスープ(これも自己流ね)を「マイウー」といいながら食べ、「太陽の塔」をパラパラめくり、おっとそうだ、今日の花見で考えたことをエントリーにアップせねばと思い、今キーボードを叩いている。イアホンからはボブ・ジェームスのアコースティック・ピアノが流れている、春の宵である。

 昨日の発作的花見が流れたせいではないが、本日は昼前から職場の連中と花見をする約束であった。場所は文化公園という、ま、日本全国どこにでもあるような名前の公園である。11時半集合ということでチャリで行ってみると、花の日曜日ということもあってかなりの人出であった。公園の南側の道路にはワゴン車や軽トラが10台近く停車中で、花見用の飲食物やテントなどを出し入れしていた。平日だと交通取締りの小役人モドキがすっ飛んできてすぐにチュウキンなどとやり始めるのだが、流石に今日はそんな無粋な真似はしないようだ。僕はといえば、花見はかれこれ10年ぶりくらいで、それも以前は夜桜というやつで昼間にやる花見は一体いつからご無沙汰か、歴史年表で調べないと分からないくらい前の話だ。もっとも僕の歴史年表には鎌倉幕府は1192年になってるので、今現在の学校では通用しないかもしれない。ちなみにニホンで一番大きい古墳は仁徳天皇陵だと教わった、何が悪いんだよ、何がおかしいんだよ(by ウシャコダ)。

 話が現在の学校教育批判になりそうなので(ならないことはオッサンが一番わかっとるやろ!!)、元に戻るが、いや舐めてました。現地に行けばすぐ同僚達と合流できるだろうと思っていたが、人出の多さで結局、公園を1周してようやく合流できた。公園のど真ん中にブルーシートが敷いてあり、オードブルが並べられ、ドラム缶の上で網がジュージュー、いや網じゃねえ、肉がジュージュー音を立てて焼かれて、早速宴が始まった。しかし、いつの頃から花見にバーベキューというスタイルが浸透してきたのだろう。とにかく公園で花見をしているグループのほとんどが、焼く道具の大小はあるものの、バーベキューをしているのだ。おかげで公園の周辺もそのにおいでいっぱいだ。どこかで見た、体験した風景だと思ったら、吉祥寺の今は無き「いせや」の界隈のにおいだ。去年、解体前の「いせや」に行けたのは僥倖だった。これも天国の高田さんのお導きだろう、合掌。

 などとセンチなことを考えていたら、急に「ただいまより抽選を行います」というハンドマイクの声が聞こえてきた。一体何事かと思ったら、僕たちが座っている場所のすぐ横に、巻尺でラインが引いてあり、これからゲートボールの試合が始まるようだ。ゲートボールのコートは3面あり、ジジ・ババが結集している。手に持ってるのは昔は木槌の化け物みたいなラケットというのかクラブというのか、とにかくボールをひっぱたくアレである。と、思ったが良く見ると、皆、手にしているクラブがピカピカしている。木製ではない。カーボンシャフトではないか?いや、ゲートボールもオシャレになったなと感心していると、またもやハンドマイクから「試合開始10秒前です」と絶叫する声が聞こえてきた。10,9,8,7…と心の中でカウントダウンしていると、いきなり「第2班、何をしているか、コートの中に入れっ」とハンドマイクが喚いた。どうやら選手がコートの外でおしゃべりしていたのが気に入らないようだ。どうでもいいが、どうしてああいう場で仕切ろうとするジジィは自分が常に正しい、みたいな喋り方なのか。その後もやたら「10秒前」とか「試合開始」「中断」とか喚いていた。あまりに10秒前が多いので、時計を見ながら確認していると10秒をとっくに過ぎても合図が無かったり、逆に5秒くらいで「試合開始っ」と喚いたり、デタラメであった。

 まあ、それでも和気あいあいとゲームが進んでいたので、そのうち気にならなくなり、次に気になったのは、先ほども触れたが花見におけるバーベキュー普及率と、仕出弁当屋の衰退について但しホカ弁関係は除く、というテーマだ。それと、この場を借りてもうひとつ触れておきたいのは、何でバーベキューをBBQと略すのか、という疑問だ。初めてこの略字を見たときは、「踊るぽんぽこりん」かと思った。つまり、ビービークィーンズのことだと思ったのだ。またある時は、ベック・ボガードアンドクィーン、なんじゃそりゃと思ったこともあった。最近では九州電力のビビックと間違える。何でも略すな、責任者出て来―い(by 故人生幸朗)。

 と、バーベキューに関するよしなしごとを考えていたら、すぐ隣のブルーシートを敷いていた場所に、青いTシャツを着た男性3,4人が現れ、てきぱきとテーブルをセットし、ビールサーバーを置き、バーベキュー用のドラム缶というのか、あのキャンプなんかでよく使う炭を入れるコンロみたいなやつに足を組み立て、あっという間に火炎放射器みたいなやつで炭を熾し、最初に組み立てたテーブルに肉・野菜・飲み物・紙コップ・紙皿などを手際よく配置した。配置したかと思うとさっとその場から立ち去り、いや、一人を残して立ち去った。何事かと思って見ていると、その場所に20代から30代くらいの男女が5,6人現れ、一人残った青Tシャツの男となにやら話をしている。1,2分立ち話をしたかと思うと、青Tシャツは「ありがとうございました」といって深々と頭を下げて公園から出て行った。残った男女は何事も無かったように、ビールサーバーからビールを注ぎ、焼いた肉を食べ始めた。

 その一連の流れをぼんやり見ながら「これが噂に聞くケータリングサービスというやつか」と思わず口にしていた。花見に手ぶらで来て、バーベキューをたらふく食って、飲み物もお好みでガンガン飲めて後片付けは一切気にしなくていい。こりゃお客は楽でいいな。また、この手のイベントの時に飲み物や食べ物を調達したり、炭やコンロを買ってきて火を熾しセッティングするのは大変だから、という点に着目してビジネスとして確立したのは凄いな、こういうのが隙間産業というのか、と感心していたのだが、心のどこかに引っかかるものがあった。一体なんだろうと考えていたのだが、ひとつにはそのケータリングサービスを利用していた連中の顔色が暗いというか、あまり楽しそうではなかったことが印象的だった。色々考えているうちに、これは過剰な便利さではないかという考えが湧いてきた。

 確かにこの手のイベントでは場所取りとか、買出しとか会場のセッティングとか、場合によっては余興の一つも考えないといけない。要するに宴会を楽しくするための準備が必要なのだ。そして往々にして、その手の準備というのは歳が若いとか、社歴が短いとか、要するに弱い者(一般的な弱者とちょっとニュアンスは違うけどね)にお鉢が回ってくることが多い。中には普段気に食わないやつと一緒に買出しに行かされる事もあるだろう。買ってきたビールが上司のお好みのメーカーのものでは無くて「仕事も出来ねーやつは何やらせてもダメだな」などと嫌味を言われることもあるだろう。でも、そういうこと全てをひっくるめてこの手の宴会、イベントは成り立つのではないか。普段気に食わないやつと一緒に買い物に行って、何気なく喋ったら実はいい奴だったなんてことは人生にザラにある。嫌な作業も何人かで協力してやると、意外なやつがリーダーシップを発揮したり、普段ドンクサイと思ってたやつが実は使えるやつだったとか、いろんな発見や出会いがあったりするのだ。

 また、もう一点。この手のサービスを利用する連中というのは、金さえ払えば汚れた仕事はしなくて良いと平気で錯覚する連中ではないか。以前のエントリーにも書いたが「お客様は神様じゃない!!」。僕たちは便利さに馴れ過ぎている。24時間営業のコンビニは本当に必要か。夜、電球が切れたら暗いのを我慢して、翌日お店が空いてから買えば良い。夜は暗いという当たり前のことを再認識できると同時に、電気の光のありがたさがわかるだろう。こんな、ほんのちょっとの不便も我慢できない人間が大杉栄だ(やっちまったよ、せっかくマジで書いていたのに、このギャグを入れるという誘惑に勝てなかった。あ、つまりオレも笑いの不自由さに我慢が効かない現代病患者なんだろうか?多分、違うと思う)。

 まあ、花見に行ってこんなことばかり考えているから、僕が現実社会で、つまり会社でどんな人間と思われているか想像がつくかもしれない。しかし、僕は引かない。全冷中過激派のスローガンは「孤立」を求めて「連帯」を恐れないのだ!!連帯を求めて、孤立を恐れていたダンコン(冗談ですよ、ちゃんと団塊=ダンカイって知ってます)世代とは明確に一線を画すのだ!と、最後はやや錯乱してしまったが、花見で見たのもさくら、錯乱も似たようなもんじゃ!!あ、ところでこのエントリーのタイトルはシーナマコトのエッセイのタイトルからパクっています。

明日ありと思う心の仇桜

 先月からずっと忙しくて、土日連休など夢のまた夢だったが、今日はどうにか休みになるはずだった。なるはずだったということは、そうはならなかったということで、誰が悪いかというとオレだ。昨日、連休を勝ち取るために事務所に夜一人残って、PCと闘っていたのだが、ついに矢は尽き刀は折れて、ザセツ。♪あしーたがある、あしーたがある、明日があるさ~とメロディとは裏腹の悲しい心持で、春の月に照らされて家に帰った。早い話が、終わらなかった仕事を、休日出社でカバーしようという腹だ。せっかくの休みだけどしょうがないなと思っているうちに、あることに気がついた。このブログをスタートするきっかけになった職業訓練が修了して、そろそろ1年ではないか。去年の今頃は、卒業制作でパワーポイントを使ったプレゼン作成で悪戦苦闘していた頃ではないか、ということを思い出したのだ。

 そのプレゼンだが、20人ほどのクラスの人間を4つのグループに分けて、それぞれテーマ(就職に関することという制約はあったが)を決めて、データを集めて分析しスライドを作って発表するというもので、やりようによっては結構すごいものも作れる。僕は「亀の甲より年の功」というやつで、あるグループのまとめ役を任されたが大変だった。というのも最初の話し合いでそれぞれがやりたい項目がかなりな広範囲で、まあ何とかなるだろうと思って、各自の判断に任せたら、個々の作品としてはちゃんと仕上がっているのだが、全体的なまとまりというか、統一感が全然出来なかった。そもそも、僕はそのときに「人は何のために働くのか」などというとんでもないテーマを掲げてしまったのだ。

 頭の中で、大きな流れは作っていた。まずはマズローの欲求5段階説を出し、人は「生存欲求」から働き、それらが満たされてくると認められたい、尊敬されたい(権力志向じゃねえか、こんなもん)さらには「自己実現の欲求」という崇高なものを求めるのだ、というのは嘘っぱちのルンバだと斬って捨て、その根拠としてニホンの高度経済成長時代からオイルショック、そしてバブル、ジャパンアズナンバーワンという幻想、ついには勝ち組・負け組と平気で言える格差社会の成立とそれを認める圧倒的なマジョリティ(もうひとつ言えば、いつかはなりたいIT長者といった腐った性根が蔓延する社会、みんな口では色々言うが本音は楽して儲けたい、株で一山当てたいという山師根性が浸透した社会)、その背後になし崩し的に行われる表現に対する抑圧、「個人情報」という名の権力の隠れ蓑常用、いつの間にか(このいつの間にかというのが一番危険)橋を渡った憲法と軍隊、といった歴史と経済の流れを抽出して、それらのターニングポイントが9.11ではないかという展開をするつもりだった。最終最後の結論部分にはRCの音楽とスライドを流す。曲はもちろん「いい事ばかりはありゃしない」。所詮、おれたちゃ金が欲しくて働いて、眠るだけさ、という結論だ。

 まあ、こんな話誰もまともに相手にせんわな。その前からクラスの準最長老として煙たがられていたが、プレゼンの発表後から、講師の先生方をはじめ若い人たちから敬遠されるようになった気がする。ちょっと被害妄想気味かな。もっとも何人かの人が、そんなものの見方があるとは思わなかったとか、興味深かったというコメントをくれて力づけてくれた。もっとも僕が一番へこんだのは、そのプレゼンのスライドでキヨシローとチャボの写真をアップしたら、誰一人知らなかったことだ。うそだろ、天下のRCだぜ。

 そんなことを取りとめも無く思い出したりしていたのだが、良く考えてみると、去年の今頃は社会的には失業者という身分だったので、お金はないが時間だけはたっぷりあった。いくら時間があってもお金がないと不自由なことが多い。まあ、それからいろいろあって、今は一応ロードーシャという身分だが、お金は相変わらずないが、今度は時間さえない。これは一体どういうことだ。この格差社会では中途半端に働いているほうが、生活は苦しいのではないか。いや、生活の苦しさは変わらないとしても、精神的なゆとりの無さはニッチもサッチもどうにもブルドッグ(byフォーリーブス、但しここでは近田春夫バージョンで)である。

 それはさておき、久しぶりに訓練校時代の連中と話がしたい、できればこの春宵一刻、値千金のこのときを共にして、お互いの近況を語り合ったらどうだろう。桜も咲いてるではないか。と勝手に思い込み、とりあえず、こういう時に真っ先に声をかけやすい、マイミクのチョママに電話した。「おー、久しぶり。元気か。明日花見をやるぞ。皆に連絡してくれ」しかし、むちゃくちゃな電話ではある。チョママもビックリしていたが、もともと宴会好き、祭り好きな体質なので、どっちが皆にメールするかでややもめたが、最終的には携帯メールで一斉配信してくれた。僕は僕で、家に帰って夜11時くらいにPCから、元クラスメートにメールを送った。すると12時前には3件返信が合った。「ぜひとも参加させて下さい、もしなんなら会費は二人分でも三人分でも言われるままに払います」というようなものではなく、一人は「ホントニ急なんですね!」とややお怒り気味で、また一人は「(子持ちの)主婦は忙しいんです」、最後の一人は「行きたいけどその日は夜勤」と当然といえば、当然の断りメールが届いた。でも嬉しいモンなんです。かれこれ半年以上音信不通だった人たちがメールで返事をくれたわけだから。

 それでも、もしかしたら何人かはOKの返事が来るかなと期待していたのだが、この手のイベントは大好きなメンバーが二人早々と不参加の連絡をしてきたとチョママからメールがあった。あ、この時点でもう今日になってるわけです。今日は土曜日なので、先週行けなかったATLの病院に行かねばならない。眠い目をこすりながら起きて、病院にたどり着いたのは10時過ぎだった。例によって週刊誌を読んでいたら、頭の中で突然ロッド・スチュワートとフェイセスの「ステイウィズミー」が大音量でなり始めた。一体どうしたのかと思って、週刊誌の記事を見たら見出しに「馬の耳に念仏」と書いてあった。えーと、ここの部分は分かる人だけ笑ってくれればいいから。いや、つまりフェイセスのライブアルバムに「馬の耳に念仏」という邦題のものがあって、そのアルバムのラストナンバーが「ステイウィズミー」という最高にゴキゲンなR&Rナンバーなんです。こういうことありません?ある言葉が音楽(歌)や季節や情景とリンクしていることって?この部分は改めてブログのネタにすっかな。

 などと、脱線したのだが、病院が終わり会社に直行して着いたのが11時過ぎ。2時間もあれば終わるだろう、というのはあくまでも希望的観測であって、終わったのは4時過ぎでした。その間に来たメール、全て「ゴメン」「また今度」「花見の様子今度教えて」などなど。要は皆都合がつかないということ。4時過ぎに会社を出る時にチョママに電話して「どうする、二人だぞ」というと、一人この日が会社の花見で夕方からは合流できそうだという子がいたことを思い出した。結局、その子(M野さん)と連絡取れたら、花見をするかということにした。しかし、M野さんの勤める会社のボスは、その日何故か機嫌が良く、談論風発酔って大いに語り謡い、もって周囲を飽かすことが無い、かどうかは知らないが、やたら乗って「夫婦とはどうあるべきものか」などという話を延々と始めたらしい。しまった、もっと早く教わっていたら我が家における僕の立場も随分違っていたのではないか、などと考えても詮無い話で…(以下略)。

 えー、結論でございます。思いつきで人を振り回すのは止めましょう。物事は計画的に。安心はシ○ワかレ○クのような落ちになったが、本当そうだぞ。次はしっかり計画を立てて、一人でも多く参加できるようなイベントをやりたいと思うのであった。ところで、今日のエントリーのタイトルの続きは「夜半に嵐のふかぬものかは」です。親鸞の言葉だぞって、豆知識だよっ。あ、最後にお詫びを一発。みんなのメール勝手にネタにしてゴメンね。クレームは直接メールでお受けします。スマソ。

恋と饅頭は破れたほうが美しい

 今日は比較的早く家に帰って来れた。とは言っても8時半過ぎであったが。ただいまと言って部屋に入ると、母子3人がテレビにかぶりつきである。ただいまと、もう一度大きな声でいうと誰一人こちらを振り返らず「おかえり」と心の全くこもっていない、というか心ここにあらずといった風な返事が来た。何をそんなに一生懸命見てるのだろうと、僕も覗き込んでみたら、何かドラマをやっており、画面の下に字幕が出ていたのでNG集の特番かと判断がついた。5,6人男の子がかたまって出ていたが、カメラが引いて一人がアップになった。「城みちる、か」と思わず声に出したら、3人とも「シッ」と大声で喚く。おかしいな、「イルカに乗った少年」がそんなに、好きだったのかと考えながら、もう一度テレビの画面を見た。城みちるは、なんだか随分目が大きくなっていた。しかし、彼もいい年のはずだがと思い、恐る恐る誰が出てるか聞いたら子供たちが「マツジュン」とか「ハナダン」とか訳の分からないことを言う。

 「ミホジュン」とか「クボジュン」なら知ってるのだが、「マツジュン」は知らないので、「マツカタジュンジの略か」と聞いたら、マジで敵意のこもった目で睨みつけられ、「ウルサイ」とか「しゃべるな」とか「黙れ」とか、もう好き放題言いやがった。人が疲れて帰っているのに、その態度はなんだと怒鳴りつけようかと思ったが、大人気ないので止めた。そうそう、ジュンシリーズでは「フブジュン」もイガッタなー。「フブジュン」すなわち風吹ジュンである。もっとも彼女のアルバムは聞くに堪えなかったが(って、アルバム持ってるんかい!!)母子が3人でワーキャー言いながらテレビを見ているので、その間に風呂に入ろうとすると、配偶者が「まだ誰も入ってないお湯だから、汚さないでね」とまたもや、人の神経を逆なでするようなことを言う。

 一日働いて、汗をかいた身体でお風呂に入るのだから、多少はお湯も汚れるわい、それとも何か、おまえらは汚れを落として風呂に入るのかと怒鳴ったら、当たり前だといわれた。浴槽に入る前に身体を綺麗に洗ってから、お湯に入るのがマナーだとかぬかしやがったので、オラァ西部の暮らしが長くてとにかくすぐ湯船につからないとダメだと抗弁したが激しく却下された。やはり、湯船に入る前に身体を洗うしかないか。しかし、それだと銭湯と同じである。せっかく家で風呂に入るのだから、好きに入れさせればいいのに、我が家は女子供だけの家庭なので、人間がみんな非常に小さい。ここまで書いてきて、何故風呂の順番の最後がボクなのか理由がうっすら分かってきた。そうか、みんなしてオレのことをキタナイと思ってるな。ま、しかしそれも分からないわけでもないが。

 と、まあ帰ってきてからの日常をスケッチしたのだが、何が言いたいかというと僕もそれなりに生きてきたが、人生において意外に知らないことがまだまだあるな、という教訓めいた話である。先ほどの風呂の入り方もそうだ。僕の家は中学校に入るまで、住んでいた家(借家だったが)にお風呂は付いておらず、近くの祖父の家にもらいに行ってた。この「お湯をもらう」という表現も今では死語だろうか。「もらい湯」などという風情のある日本語が消えていくのは悲しいことだが、ある面仕方が無い、かな。でも、としつこく食い下がってもどうにもならないので話を元に戻す。だから、お風呂に入る前はどんな順番で身体を洗うのか結構うるさく言われた覚えがある。身体を綺麗に洗わずに湯船に入ろうものなら、物凄く怒られた。何でばれたのだろうと子供心に不思議だったが、何のことはない。浴槽に石鹸の泡が浮くので、綺麗に洗っていないとすぐ親に分かるのだった。あれ、そう考えると、子供の頃はちゃんと身体を洗って入ってたのだな。

 それから中学、高校と時代は進み家でのお風呂に入っていたが、大学に行ってからは銭湯ばかりだった。最初に住んだところが学生の数が、浜の真砂の数より多いといわれた(ちょっとウソっぽいけど、事実といえば事実)、京都市は左京区だったので、湯船に入ることより洗い場(正確にはシャワー場)を確保するのが大変だった。とにかく夕方6時から9時半くらいまでは、湯船から洗い場までウンカの如く人がいるのである。それも薄汚い(自分も含めてだが)学生ばっかり。僕が学生の頃は長髪が当たり前の時代で、それも今の若い人たちのようなオシャレなロンゲと違い、ヒッピーだのフーテンだのを自称している半ガイキチの(以下自粛)。それで空いてる時間と思って10時前くらいに行くと、それでもそこそこ人はいる上にお湯が何だか濁ったような感じでキモチ悪かったので、一度で懲りた。遅くなったら風呂入らない、を鉄則にしていた。

 えーと、また話がボケてきたが、要はこの頃もまずは身体をしっかり洗い、髪も洗ってから湯船に入るという日本の常識的入浴をしていたのだ。その後、上京区の出町に引っ越したが、ここの銭湯事情も左京区に比べるとやや劣ったが、それなりきに人は多かったので、良く洗ってから入るようにしていた。銭湯事情が大きく変わったのは、その後だ。同じ上京区の烏丸中学前に引っ越してからである。どう変わったかというと、僕が昼間の時間のほとんどを過ごした学生会館から、歩いて2,3分のところに銭湯があったのだ。また烏丸中学前の下宿から学生会館までは、やはり歩いてほんの5分くらいだったので、下宿から銭湯に入る道具一式(洗面器からシャンプー、石鹸、タオル、着替えetc)を大きなジーンズ製の袋に入れ、あたかも大学の教科書やノートが入ってるような振りをして持ってきて、銭湯が一番湯を立てたその時間を見計らって飛び込むというパターンを開発してからだ。

 どういうことかというと、4時から銭湯は開くのだが、その10分くらい前から入れることを何かの拍子で知り、たまたまその時間に行ってみると、広々としたお風呂が独占できて、髪を洗う場所を確保する心配もいらないし、第一浴槽のなかで大の字になって浮かんでいることだって出来る。場合によっては入る前に必要最低限の場所だけ洗って、そのまま湯船にどぶんと飛び込むことも出来たのだ。あ、この頃からだ。湯船に入る前に十分身体を洗わなくなったのは。そうそう、この別館生活が終わり、地元に帰り就職をして、また何が悲しいのか、茨城や栃木あたりに飛ばされたり、九州に帰ったと思えば鹿児島勤務が続いたり、熊本に営業所が出来たり、それをたたんだり、色々なことがあったが、基本的には銭湯ではなく内風呂であった。仕事も朝早くから夜は11時12時はザラだったから、風呂に入る頃はもう半分眠っていて、お湯につかるだけという生活が続いたのだ。

 結論、お風呂マナーが悪くなったのは、ニホンの政治の貧困が原因である。ロードー者が1日16時間も働かなくてはならないような競争社会を作ったジミン党政治のせいである。もっとゆとりある、人間らしい生活を。憲法に保障された生存権を勝ち取るのだ。などと全く説得力の無い、responsibility rolling brideである。え、この言葉の意味?responsibilityは責任、rollingは転がる、brideは花嫁。つまり責任転嫁ということである。オリジナルは広島は福山地方の言葉らしいが…。あ、それと今日のエントリーのタイトルは破れ饅頭というお菓子を作っている延岡市の虎○というメーカーのキャッチコピーです。別段意味はありません。うん、今日のエントリーはお料理ブログとも社会派ブログともいえる内容だな(って、オッサン頭大丈夫か?)。

休みなのに何故だー!!

 今日は2週間ぶりのお休みということで、前日久しぶりに遅くまで起きていた(といっても25時過ぎた段階でもう既にまぶたはクローズエンカウンターズオブザサードカインド、つまり第3種接近遭遇って長いわりに面白くない、「未知との遭遇」のパクリでした。オレの毎日は「無知との遭遇」ばっかりだけど)。その分朝は思いきり寝坊してやろうと思っていたが、ナニゲニWCに起きたら、まだ7時半。くそったれ、バカ野郎、満足だろう~と「ふざけるんじゃねぇよ」のフレーズを口ずさみながら、また床に入った。しかし、今度は喉が渇く。起きて水を飲むと今度は携帯の着信ランプが点いている。見るとエントリーにコメントが入ってる。何々と開いてみると、もう目は冴えてしまい眠れない。

 昔はこんなことは無かったのに、これが歳を重ねるということなんだろうか。ついこの前までは休みの日は午後までガーガー寝ていたのに、と思ったが、良く考えてみるとせっかくの休日に寝てばかりいるのも勿体無い話なので、さっさと起きることにした。さあ、そうなると今度は誰かが寝ていると不愉快なので、まず配偶者を見ると流石に起きていた。次はバカ娘達だ。案の定二人して寝ている。「起きろー」と叫んだが、全く無視された。懲りずに話しかけたり呼びかけたりしているうちに上がまず起きて来て「クソオヤジ」と一言。下はそれでもしつこく寝ている。「この寝起きの悪さは誰に似たのだ!」と叫んだら母子が醒めた目でオレを見ていた。何のことはない。父親譲りであった。♪てなこと言われてその気になって~とこれは「ハイそれまでョ」だった。

 そうこうするうちに家族全員がテーブルに座って、それぞれ適当にお茶を飲んだりしていたが、下の子供が腹が減ったと喚き始めた。配偶者は買い置きしていたチヂミを温めて食べていたが、朝っぱらからチヂミはちょっとという雰囲気だったので、蕎麦でも食うかということになった。もっともみんな腹ペコだったので乾麺を買ってきて、さっとゆでて食べることにした。料理というほどのことでもない。インスタントラーメンを作るようなもんだ。冷蔵庫の中を見ると蕎麦が2把しかない。そばつゆもちょっと心もとない。しょうがないので古井戸の「インスタントラーメン」を口ずさみながらチャリで近所のお店に買いに行った。

 蕎麦は信州そばと書いてある乾麺を2束買った。そばつゆは何か適当なメーカーのものが無いかと探したが、毎度おなじみの桃屋は薬品臭いので却下して、大手メーカーではなく地方のメーカーのものを探した。ひとつは東北のメーカーで、南国宮崎とは味覚も違うだろうし、第一塩分が多いのではないかと、トーホグの人が読んだら地方サベツだと怒りそうなことを考えて候補から落とし、高知のシ○ヤという出汁の素なんかを作っているメーカーのものにした。ピーマンとプロ野球のキャンプ開催地で敵対関係にある高知だが、フェリーの共同乗り入れや、学生時代世話になった先輩や友人の故郷なので、ここはひとつメンツを立てて選ばせていただいた。

 家に帰り、誰が食べるかと聞いたら、子供二人と僕の3人だけ。頭の中で「このバカ娘達も育ち盛りだから一人1把では足らんだろう。こういう時にみっともないのは3人で食べるには少ない分量を作ったりすることだ。何しろオレは大きいことはいいことだ(by山本直純、もっともこの人の思想信条とは共に天を戴かずであるが)の世代ではないか」と考え、子供二人に3把、僕の分が2把の合計5把を鍋に入れてぐつぐつ煮始めた。そばつゆは以前100均で買っていた缶入りのものと、今日買ってきたシ○ヤのもの両方を用意した。茹で上がった蕎麦を蒸篭に上げ、小皿につゆと小ネギを入れ、僕の分にはたっぷりワサビをつけて食し始めた。親子3人無言である。以前も書いたがこういう時は「えぐりこむように食うべし(by明日のジョーというか丹下段平のおっちゃん)」である。

 最初は100均のつゆで食べていたのだが、どうにも美味しくない。いや積極的にマズイ。子供たちに感想を聞くと、それほど悪い反応は無い。所詮、女・子供の味覚であるから聞いたオレがバカだったなどとまた良識ある人達から非難されそうなことを書いてしまったが、いやどうしてもつゆがマズイ。そうだ、さっき買ったシ○ヤのつゆがあったと思い、食べかけのつゆを子供たちの器に入れた。当然ブーイングが起こったが、おまえ達は食べ物を粗末にするのか、モッタイナイ精神はどうしたと恫喝して、不平を抑えた。満を持してシ○ヤのつゆを器に入れて蕎麦を手繰った。………マ・ズ・イ、というかショッパイ。3倍希釈だったのを2倍で薄めたからだと思い、水を継ぎ足したがそれでも辛い。高知の人間はみんな塩を不必要にありがたがっていないか!?多ければいいというもんじゃないぞ。赤穂の塩を密輸入していた頃の価値観を平成の時代までひっぱるんじゃねーよ、などと八つ当たりするのであった。

 こりゃ失敗だった、と思ったのはつゆの選択だけではなかった。5把の蕎麦というのは予想以上の大量であった。子供二人も健闘して食べたし、僕も頑張った。しかしどう見ても2食分はある蕎麦が残ってしまった。もったいないから丼に入れてラップして冷蔵庫に入れた。そのときに冗談半分で下の子に「ザル蕎麦はイマイチだったから夜は温かい天麩羅蕎麦を作ろうか?」と聞いたら二つ返事で「ウン」と答えた。以前きれーなおねーさんのいるうどん屋に一緒に行った娘である。『こいつもホンマ麺食いや』とつくづく思った。

 腹ごしらえしたら、母子連合がツ○ヤとブック○フに連れて行けと言いはじめた。今日返却予定のDVDがあるのと、母親は仕事で折り紙作りの本がいるとのことであった。ここしばらくツ○ヤには行ってないし、CDをまとめてレンタルしたり、モップスなんかのCDが中古で入ればと思い、家族を連れて出かけた。ツ○ヤはCDを5枚選ぶと1週間1,000円なので今日は日本のCDコーナーをうろついた。まず手に取ったのはクレイジー・キャッツのベスト盤。植木等のベストも何枚かあったが、こちらは「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」名義で「アッと驚く為五郎」も入っていたので選んだ。その流れで渥美清のベスト、ハマショー、大瀧御大、キヨシローなどをセレクト。渥美清は「いつかはきっと」が聞きたくて前から借りようと思っていた1枚だ。この人は「泣いてたまるか」時代が一番好きで以前DVDのシリーズで出たのは全巻そろえた。ところでこの「いつかはきっと」だが74年にテレビドラマでやっていたのをご記憶の方はいらっしゃらないだろうか。

 小倉一郎と兄弟役でコメディ仕立てのドラマ。主人公の渥美清が困ったことになると「ヨイショ」と呟き、毎回なんとか乗り切るストーリーで、かぐや姫の山田パンダ(当時はこういう名前だった)がゲストで出てきたりしたんだが。そうそう、ドラマのタイトルも「ヨイショ」ではなかったか?ブック○フに行く途中の車中でこの曲をかけて、ドラマのことを話したら、配偶者から「そんなビンボー臭い番組は知らない。何故そんなビンボー臭いドラマばっかり好むのか」と聞かれ、アホンダラー、日本のテレビドラマは「豆腐屋の四季」にしても「記念樹」にしてもみんなビンボー臭いんじゃ、こちとら木下恵介教室の出身じゃと叫んでしまった。あ、いや、そういうビンボーなドラマばっかり見ていたわけではない。「お荷物小荷物」は確か運送屋の話だったし、「おやじ太鼓」の主人公は会社の社長だったはずだ。と、ここまで書いて、一体いつの時代のドラマか訳が分からなくなった。トレンディドラマなんか知らないからな…。

 そうしてるうちにブック○フに着いたが、お目当てのものは無くそのまま100均の店に行った。ここは24時間スーパーやジーンズショップ、PCショップやいろんなお店が、所謂ショッピングセンターのミニチュア版みたいなところで、車はいっぱい。家族を先に下ろして、駐車するところを探す羽目になった。100均で細々した買い物を済ませ、スーパーで惣菜を買って帰った。時計を見るともう4時半である。貴重な休日の半分が終わってしまった。大急ぎでレンタルしたCDをPCに落としていたら、下の娘が「天麩羅そばはまだか、早くしないと塾が始まる」などと言い始めた。彼女が通う塾の費用対効果を考えると、まともな経営者であればさっさと撤退するのであろうが、本人が行きたいというものをやめるのは良くないとずるずると通わせているのだ。それはさておき、昼間食べたシ○ヤのつゆを8倍くらいに薄めて鍋に入れ、沸騰したら蕎麦を入れて買ってきた天麩羅を載せて作ったら、うまそうな天麩羅そばが出来上がった。食べた子供に聞いたら、昼とは比べ物にならないくらい美味しかったといったので、まあ、今度ばかりは許してやろう(何を、誰が?)。

 しかしここ数日は頭痛がひどくてブログの更新が出来なかったが、その間色々な方に「大丈夫」とか「お大事に」とか心温まるメッセージを頂き、感謝感激でした。皆様の人生に何のお役にも立たないブログですが、これからもヨロシクお願いします。そうそう、さっき植木等の特別番組を見ていて気がついたのだが、ディスクの歌に比べて映画やライブの歌声の生き生きしていること。今度はサントラかライブ盤を探して聞いてみよう。モップスは「」が聞きたいなぁ。

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