帰ってきたぞ、帰ってきたぞ!ウルトラマン!

 本日、無事に宮崎に帰ってきました。しかし暑い。このねっとりからみつく暑さは何だ、などとたかが1ヶ月の不在でもう他所の人間のようなことを言うのは止めよう。帰ってきてすぐに配偶者と下の娘から都会もんぶってると指摘されたのもこんなことばかり言うからだ(悪意は全く無いのだが、つい比較するのは人間の出来ていない証拠である)。

 朝はしっかり「純情きらり」を見て、重いカバンをゴロゴロいわせながら保谷の駅に行った。必殺”石神井公園”で乗り換え”池袋”までノンストップ。山手線に乗り(ちゃんと上野方面であることを確認し)、浜松町へ。ここまでは前日調べた最短の乗り換え計画通り。浜松町からモノレールだが快速が一杯だったので、一便遅らせて羽田に着いた。そういえばチケットレスだったが、浜松町の機械で手続きをして、往復の航空券を入手した。羽田に着いたら、手荷物を預けて今回のパックに付いていたクーポンを使ってお土産を買った。

 と、ここまで書いたら疲れから眠気が襲ってきて続けられない。実は今回、往復の航空券とホテルの一泊、お土産のクーポンまで付いているサービスチケットで帰ってきたのだが、詳しい話はまた明日(タイトルに意味はありません。ただ帰ってきたウルトラマンを口ずさんでしまったので勢いでつけました)。
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あばよ東京 by 頭脳警察

 早いもので東京に出て来てから1ヶ月が過ぎた。明日は一旦、宮崎に帰る予定である。帰って何をするかと言うと病院に行ったり、支払い関係を済ませたりと野暮用ばかりである。まあ、また環境が変わるので、このブログも新鮮な気持ちで取り組める、と思いたい。

 ところで今日もまた正午過ぎに、光化学スモッグの注意報が流れた。外出する時は特に注意するようアナウンスしていたので、昼は買出しに行かず、昨日の夜食べなかったしょうが焼き弁当を冷蔵庫から取り出して食べた。ご飯が大変硬くて、食べにくかった。しょうが焼きは冷めても、そこそこ食べれたが、他のおかずはちょっとね。もったいないから最後まで食べたが、これで食あたりでもしたら目も当てられない。幸い、胃腸関係は何事も無かったみたいだ。

 ここまで書いてきて、明日帰る準備を何もしていないことに気がついた。購入したCDのほとんどは宅急便で送ったので心配ないが、衣類やもろもろの荷物をバッグに詰めないといけない。ということで今から大急ぎで帰り支度をするので本日は終了します。

ようやく洗濯機の話が完結したぜ!

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 今日も♪弱い光が流れる、初夏の昼下がり~(CHAR恥ずかしの歌謡曲時代の名曲『逆光線』より)であった。穴蔵生活者(この表現は非常に辛気臭いので今後は地下生活者と名乗ろうってどっちも辛気臭いって!)が何故そんなことを知っているかというと昼飯の買出しにSunkusに行ったからだ。Sunkusなどといかにも知ってるような素振りだが、宮崎には出店してないコンビニでこちらに来て初めて見た。また今日の日経に7/19から東京スター銀行とタイアップし関東の店舗のATMで昼間手数料ゼロにするという豪気な話を読み、ささやかながら連帯の意思を表明しようと昼飯を買いに行ったのだ。732円(内訳は冷やし中華とおにぎり2個、おかかとシャケ。それにコーヒーゼリーまで買えた。プチブルの気分である、ん?プチブルの意味が解らない?えー説明すると厄介なので、まあ、ちょっとした贅沢とでも言う意味で使ってます)の買い物で何を大げさなと言われるかもしれないが気は心というではないか。

 などとのんびりしたことを書いていたら、午後2時くらいに何か外から聞こえる。「…お出かけの際は…注意して・・・」途切れ途切れに聞こえる言葉がナニゲニ不安な感じで、良く聞いてみると西東京市に光化学スモッグが発生したので注意しろという内容。注意しろったって何を注意するんじゃ!光化学スモッグってまだあるんかい!と一人激怒してしまった。光化学スモッグについてはリンク先の記事を参照して欲しいのだが、ここ最近復活しているらしい。ガメラマイケル・ジャクソンも復活しているらしいが、何でも復活すれば良いというものでもないだろう。とかなんとか書いてイントロを稼ぐセコイ手はこれで2度目だが、本題の洗濯機の話に戻ろう(いつの間にか昨日の続きに入っている)。

 昨日は修学院のN井さんの下宿から無事生協の本部に行き一連の生活用品と共に帰ったところまでだったが、その時の荷物といえば布団・机・椅子・Zライト・ファンシーケース・電熱器(解る?ガスコンロでもなくニクロム線がジーっと音を立てて熱を持ち、じっくりと鍋やポットを加熱する電気のコンロ。これを使うと電気代がとんでもなくかかるのだが、京都の冬の寒さを乗り切る暖房器具としても重宝した)など、など。机や椅子、ファンシーケース(ビニールで出来た衣類ケース)等は自分で組み立てるようになっていたが、根が不器用な僕は上手く組み立てられず、同じ下宿のY岡さん(1歳年上で美術の専門学校に通っていた。大阪出身。この下宿で予備校に通っていたが、美大受験の時に進められた食事に当たって失敗したエピソードを持っていた)やK島君(こちらも1歳上で京大農学部。東京出身。隣のT島先生のやはり知り合いで、この下宿にはもうひとりM淵君という京大生もT島先生の紹介でこの下宿に入っていた。M淵君は模型の世界では有名なマブチモータースの親戚だった。これでは匿名にならんな)に手伝ってもらって、何とか組み立てた。 

 えーと、こんな話を書いているときりが無いので、”初めての一人暮らし、19の春”編は又改めてやるとして(誰も読みたがらねーよ!!そんな話)洗濯機のことだった。昨日も書いたが、乳母日傘で育った僕は(一瞬不安がよぎったが、オンバヒガサって意味解るだろうか。辞書とリンクしておくので、知らなかった人はちゃんと覚えておくように)洗濯機の使い方が解らず、洗濯物を風呂場で洗っていたが、下着以外の衣類はどうしようもない。たまたま僕の部屋が2階でその西側に共同の洗濯スペースがあり、洗濯機が2台置かれていた(N井さんのお宅は母屋とその離れの1,2階と間に通路を挟んでもう1棟、2階建ての下宿がある結構大きな下宿屋だった。下宿生全員で20名以上はいた。)。

 何事も出たとこ勝負でいい加減に見られがちな僕の性格だが、実は用意周到で極端に失敗を恐れる性格とは知らないだろう。その時も洗濯機を下々の者はどう使っておるのかと上から何回か見学をした。とはいっても他人が洗濯をしているさまを、あからさまに見ているわけにはいかないので、外の空気を入れ替える振りをしながらちらちらと見ていた。しかし見ているだけでは自分の汚れ物はきれいにならない。あるときついに意を決して洗濯しにいった。ここで2層式洗濯機の説明になるのだが、今の洗濯機はそのまま汚れ物をぶち込めば勝手に水が入り、時間も洗剤の量も教えてくれるが、2層式はそういうわけにはいかなかった。 

 まずメインのドラムに汚れ物を入れ、最初は予洗からということを知らず水と洗剤を多ければいいだろうと思い、ドベラボっとぶちこんだ。時間も長いほうが汚れが落ちると思い確か20分くらいにセットしたのではないか。時間が過ぎてドラムの中を覗いたらものすごい泡立ちだった。ここでもすすぎ等ということを知らず、水を抜きそのまま脱水のドラムにぶち込み、こちらも時間が長いほうが脱水されるだろうと思い最長時間をセットした。したのだが、あっという間にドラムから水浸しの衣類が飛び出してきた。ホ・ワ・イー?頭の中でビートルズのWhy don't we do it in the road?が大音量で鳴り響いた。もう一度トライしたがやはり洗濯物は飛び出てくる。しばしそこで固まっていたら、同じ下宿生の人が「上から押さえてないから、出来ないんとちゃう?」と教えてくれた。

 つまり脱水機にただ衣類を入れただけでは駄目で、ゴムの蓋のような物(洗濯機に付属していた)で上から押さえつけ、なるべく重心を低くすることが大事だと教えてくれたのだ。その通りにやってみると、脱水機はヒューンと軽快な音をさせて水を切っていった。嬉しかった。その後は色々学習し、洗剤も多ければ良いというものではないとか、ジーンズ類を洗うときは水を出しっぱなしですすぐと良いとか知れば知るほど嬉しくなり、洗濯が楽しくなった。なんてことは大嘘でやっぱりめんどくさいのでかなりな量を溜め込んで一気に洗濯したり、銭湯のオヤジの眼を如何に盗んで下着類を洗うかとかそんなことばかりやっていた。

 しかし僕の下宿は洗濯機が2台ありいつでも使えたし、当然料金などかからなかった。時代が時代なので全自動など無く、容量も小さいが一応は2層式であった。ところがサークルの先輩で一乗寺に住んでいたS賀さんのところは凄かった。なにがかというと洗濯機の使用量を1回につき30円取るというのだ。まあ、男の学生ばかりで扱いが激しく壊されたら困るというのなら解らない事も無い。ところがここはバアサンが一人でやっているボロ下宿で、洗濯機は1層式。つまり脱水機が無く、洗濯機の横にハンドルというか、ローラーみたいなのがついていて、洗い終わった衣類をその間に挟んで、水気を搾り取るという徳川家康的”百姓と菜種油は絞れば絞るほど出る”方式の洗濯機だったのだ。

 僕もこの先輩の下宿に遊びに行って、その洗濯機を見たときに懐かしさで一杯になった(これもウソだが、今時こんなものがあるのかと感心したことは事実だ)。ま、こんな洗濯機に金を取るのもいい根性だが、さらに凄いのは、洗濯中にちょっと離れると必ず水を止めてしまうという”モッタイナイ”の先取りババアであったことだ。とにかく油断してると何でもスイッチを切る人で、トイレの個室に入っている時に電気を切られるなどということは日常茶飯事だった。強烈なのは、他人の部屋の電気なども勝手に入り込んで消すなんてこともやったらしい。流石に人の良い先輩も怒って家賃はちゃんと払ってるし、電気代も自分で払うのだから勝手なことはするなと言ったらしいが、全然懲りなかったそうだ。

 実はこの話から、その時のS賀先輩の面白い話につなげていくつもりだったが、疲れたのでまたの機会に。しかし、こんなつまらないことに限って、我ながら良く覚えているな。ちょっと感心した。

自立する人、洗濯を語る。

 ここのところずっと鬱陶しい天気が続いたが、今日は珍しく朝から太陽の光があった。とはいうものの陽炎のような儚い力の無い日の光だった。毎日穴蔵みたいな生活をしているのにどうして日の光に反応したかというと、太陽の光のおかげで昨夜洗濯した衣類がきれいに乾いたのだ。そう、洗濯である。今日のテーマは洗濯。お掃除オバちゃんならぬお洗濯オジちゃんなのだ。

 こちらに来てから、料理・掃除・洗濯とほとんど学生時代以来のことをやっている。その中でも掃除や、料理はたまにしていたが洗濯は多分15,6年ぶりである。今では全自動で乾燥機付きというのも珍しくないのだろうが、僕が生まれて初めて洗濯らしい洗濯をしたのは今から30年以上も前の京都・修学院時代である。当時コインランドリーなどは無かったのでアパート(下宿といったほうがあの時代の雰囲気は出るが、最近知ったのだが下宿と言うと賄いつきの賃貸の部屋と思われるようだ。飯なんか付いてる訳が無い。4.5畳1間の何も無い部屋だ。当然トイレや流しは共同。風呂は銭湯が当たり前である)に備え付けの共同の2層式洗濯機である。正直に言ってその洗濯機の使い方がよく解らなかったので、最初のうちは下着類はお風呂で洗っていた。銭湯でそんなことをやったらペナルティものだが、その頃は住んでいたアパートの向かいがそのアパートを紹介してくれた、えーどう説明すれば良いのか、話は高校2年の頃に戻る。

 当時一ツ葉にS原君という仲の良い友人がいて、その日は多分土曜日だったので僕は彼の家に遊びに行っていた。彼の部屋は8畳くらいの洋間で勉強机の他には本棚しかないという、正に理想的な部屋であった。その本棚にはありとあらゆるミステリ小説が所狭しと並んでおり、その背表紙を引っ張り出しては、お互いいろんなミステリの話や音楽の話、時には女の子の話などを際限なくするのが当時の僕たちの息抜きだった。その日も例によって2人であれこれ話していたら、突然ドアが開いて彼の母親と2人のオババが入ってきた。実は僕が遊びに来ていることを、彼の母君はご存知無かったようで、自慢の息子を客に紹介しようとしたら出来の悪い友人の僕がいたのでややひるんだようだった。

 しかしそこは大人の配慮でその2人のオババは友人の母君の学生時代の恩師で、一人の人は京都で高校の先生をしていて、下宿屋もやってるという話を伺った。その時にお世辞であろうが「京都で何か困ったことがあったらいつでもおいで」などと言われたのだ。その時はまさか自分自身京都に行くなどとは夢にも思っていなかったので、適当に返事をしていたと思う。その後、僕が京都に行くことが決まった時にS原君のお母さんがわざわざ、その時の先生(確かT島先生といったと思う)の名前と連絡先を教えてくれて、何でも相談したら良いと言ってくれた。

 ま、そんなことがあっても、ご厄介になることは無いと思っていたが、いざ京都に行き大阪の親戚が申し込んでくれていた大心院の下宿に行ったら窓が無い土壁の部屋で天井にポツリと明り取りの窓があった。おー、風流やのー、エドモン・ダンテスの気持ちが良くわかるワイなどと気取っていたが、ちょうどそこに住んでいた女子学生が卒業で引っ越すところで話を聞いたら(このころは人見知りをしなかったらしい。見知らぬ人に、それも異性に話しかけるなど今ではとても考えられない)、夏は暑くて死にそうになり冬は寒くてとても居られない、気のせいかここに住んでいた間に風邪を引きやすくなったなどと脅かされた。

 そういうことを聞いたらとてもじゃないが住みたくない。かといって今更、他に住むところもないしなどと考えていた時にひらめいた。そう「京都で困った時はいつでも…」の話だ。早速T島先生がお住まいの修学院に飛んでいった。余談だが、当時父もまだまだ元気で一緒に行ったのだが、場所を電話で聞いたとき”修学院プラザ?”が目印と聞き、タクシーの運転手に「修学院プラザというホテルか何かが目印で~」と話したが運ちゃんは「そんなホテル聞いたことありまへんで」と素っ気無かった。現地について解った。プラザ修学院とは商店街のアーケードの名前だった(一番街とか若草通りのもっとこじんまりしたもの)。

 行って相談したものの、もう3月末でT島先生の下宿(2階に10部屋ほどあり、九州人であることが入居の最低条件であった)も全室決まっている。どうしようもないかなと思っていたときにT島先生が「そうだ。向かいのN井さんの下宿は今まで予備校生しか入れてなかったけど、今年から大学生も入れるって言ってたから、もしかしたらまだ部屋があいてるかも…」とのことで、わざわざお向かいに聞きに行ってくれた。WOO,WOO,WHAT A LUCKY MAN HE WAS!(ここEL&P風にって、誰も知らんか)ま、天は自ら助くる者を助くとでも言いましょうか、悪銭身につかずというか(なんのこっちゃ)、おかげで4.5畳一間だが角部屋で2面が窓というまずまずの部屋に入居できたのだ。

 ただ九州から出てくる時に、生活用品は全て生協に頼んでいたのと親しい友人たちに連絡先として大心院の住所を教えていたので、それからちょっと面倒なことになった。まず第一に布団やコタツ、机といった生活用品が全く無い(布団だけは大家さんが好意で生協の荷物が届くまで貸してくれた。僕はこのとき初めて下に敷く毛布があることを知った。南国九州では一年中毛布なんか使わないってまた大嘘こいてるぞ、オッサン)。そして最初は何も言わなかった大家さんだが、日にちが過ぎても荷物の来ない僕の部屋に来て「いつまで人の布団つこてんの!」と怒られ、慌てて生協の本部に行き軽トラ一杯の荷物と共に生還したのだ。

 ところで洗濯機の話は?いやー、すっかり忘れ取ったな。それでは続きは又今度ということで。

疲れ果てていることは、誰にも隠せはしないだろう

 今日は終日室内にいた。いつもだと夕方には息が詰まりそうになり、買い物を兼ねて散歩に行くのだが今日の天気が鬱陶しくて、そんな気にもならなかった。こんな風に外に出ないでいると世間の動きと言うものが解らなくなってくる。いやテレビや新聞やネットで情報は入手できるから、何が起こっているか解らないということではなく、いわゆる風向きが解らないということだ。

 風向きと言えば世間では、今回のワールドカップの戦犯追及が始まったようだが、物事が終わった後に四の五の言う奴にろくな奴はいない。他所の国のことは知らないが、悲しいかな我が国のマスメディアのワールドカップ前の盛り上がり方(盛り上げ方と言うべきか?)、第1戦を落とした後、第2戦を引き分けた後、そして王者ブラジルとの対戦当日、いや試合中も、おっとなんだかんだいいながら自分自身がその轍を踏みそうになったので止める。

 とにかく今日は何も無い一日だったのだ。ここのところの疲れも溜まって頭の中がめちゃくちゃだよ!ざくろになってぐちゃぐちゃだよ!ぐちゃぐちゃぐちゃ…とスターリンの歌詞を引用して今日は終わる。明日はすっきりして楽しい話をアップするのだ。

続吉祥寺ぶらり日記

 金曜日に続き今日も吉祥寺をぶらついてしまった。昨日も3時過ぎから池袋のCDショップをうろうろしたが、CHARの”OSANPO”と高田渡の”FISHIN' ON SUNDAY"の2枚を購入しただけで終わってしまった。ここのところCDを買うのはいいのだが、碌に聴いていなかったことに気がつき、今日はお昼くらいからCDをかけてのんびりしていた。高田渡のアルバムは当時フォークソングが好きで、自分自身もギターを弾いていたK町君という立命館の友人が3畳一間の彼の下宿でよくかけていた。当時はカッタルク感じてあまり良いとは思わなかったが、改めて聴きなおすとダルでいつもの高田節でいいなと思う。

 ごろごろしていて出かけるタイミングを逃してしまいそうになったが、せっかく東京に出てきているのだからと自分に叱咤激励して出かける準備をした。渋谷か新宿かと考えたが、どうにも気が重い。そういえばここのところ運動をしてなかったと思い、自転車で吉祥寺に行こうと思いついた。ルートは以前T地君に聞いていたので、何とか解ると思い自転車を出した。ペダルをこぎ始めてすぐ雨がぱらついてきた。一瞬考えたが、道も不案内な上に雨も降ったのでは大変だと思いバスに乗っていくことにした。

 前回もバスだったので、通り過ぎる風景も親しみやすく気がついたら吉祥寺に着いていた。さてどこへ行こうかと思ったがバス停からガード沿いに行ったところにDISK INNという文字が見えた。CD屋さんだと思い歩いていったら吉祥寺のLONLONというビルの1階で2階がユニクロだった。入ると結構広いお店で、海外のロックのコーナー、クラシックのコーナー、ジャズ・R&B・PUNK・J-POPと各ジャンルごとにコーナーがあり、輸入盤も結構あり1時間ほど滞在してしまった。ちょっと嬉しかったのは、ブルースやフォーク(アメリカやイギリスのもの)の単独コーナーがあり、そこでアーロ・ガスリーやエリック・アンダーセンのCDが置いてあり、購入はしなかったがジャケットを見ている(読んでる)だけでも至福の時間だった。新譜ばかり見ていてもきりが無いので、そこを出て適当に街中を歩いてみた。

 日曜日の夕方近く、沢山の人出と客引きの声、チラシ配りの人達を見て思わず”They just look away…"とPFMの『通り過ぎる人々』を口ずさんでしまった。さて2時間ほど歩き回って発見したCD屋さんはRARE(前回下地勇のCDをゲットしたお店)、BOOK OFF、DISK UNION(残念ながらジャズとクラシックのみの取り扱い)、バナナレコード(その名の通りアナログレコードやレーザーディスクがメイン)といったところ。レコファンもあるはずだったが見つけられなかった(帰ってチラシを見たら、気づかず通過していたようだ)。結局最初のDISK INN(SHINSEIDOが店舗名のようだが)に戻り定価の20%引きでギルバート・オサリバンのベストと清志郎の”GOD"、そして紙ジャケのロギメシのベスト(マイミュージック=放課後のロックンロールパーティが大好きなのよ)を購入。

 ふと気がついたが僕は東京に出てきてから、うろつくのはCD屋さんばかりということに気がつき愕然とする。おいおい、名所旧跡とまでは言わんが少しは観光地みたいなところに行けよと自問自答し、吉祥寺の観光地はここだと足を進めたのは「いせや」である。流石に入らなかったが外から一瞬の憩いを求める人達が立ち飲みをしている姿を見て心が和んだ。さて帰りもバスである。そういえば行きしなのバスの中でリュックを背負い、目が右上45度の方向を見ているお兄さんが何かブツブツ呟きながら乗り込んできた。吉祥寺に近づくにつれ声がだんだん大きくなり、それははっきりと「君が代」という歌の歌詞であることが解った。ああいうときの周りの反応は面白い。みんなそのお兄さんが次に何をするか凝視しているのに、表面上は何も無い振りをする。と、何事も無かったからこんな無責任なことが書けるのであって、万一『どえりゃおうー』とかなんか叫びながら包丁を振り回されていたら笑い事ではすまなかったろう。僕もそのお兄さんが降りるのを注意してみていたが、彼は相変わらず「君が代」をハミングしながら軽快なステップで降りて行った。

 そうそう帰り道のバスの中のことである。80過ぎぐらいのおばあさんがいきなり、運転中のドライバーに「青梅街道はまだですか?」と大声で質問した。ドライバーはあと3つ先の停留所とかなんとか答えた。おばあさんは不安そうに回りを見回していた。その時、耳にピアスをした茶髪のアンチャンの連れの長い髪の女の人(残念ながら僕好みではなかった、どんなにバスや電車が混んでいてもこの手のチェックは欠かさないのだ!!って何を威張ってるのだ)がおばあさんに話しかけた。「青梅街道なら私も降りるので一緒に降りましょう」 と。

 僕は耳を疑った。新手のキャッチセールスか、オレオレ詐欺か。こんな大都会で見知らぬ他人に親切にする人間がいるはずが無い。オババ危機一髪と思ってみていると、それから何度も女がおばあさんに話しかけている。おおかた健康器具の話か、健康食品、わけのわからん水その手の話だろうと聞いていたが、どうも様子が違う。おばあさんに安心するよういろいろ話しかけているのだ。そうこうする内におばあさんとカップルはバスを降りて会釈をして右と左に分かれた。なんだ、親切な人達だったんだ。でもこの人として当たり前の行為を犯罪じゃないかと気をつけていかないといけない世の中。嫌な渡世だな~。

吉祥寺ぶらり日記

いせや 店内

 昨日、予定していた仕事が早めに終わったので吉祥寺の「いせや」に焼き鳥を食べに行こうと誘われた。勿論”異議なしっ!!”である。こちらに来て初めてバスに乗ったが、地元宮崎と違い、前乗りで運転手に目的地を告げて料金先払いと言うシステム。整理番号券を取り、降りる時に料金を払う地元システム(やはり大都会では乗り逃げする奴が多いのだろうか?これも一種の偏見かな)からするとちょっと妙な気分だったが、”ドゥーインローマ、アズザローマンズドゥー”早い話が『郷に入っては郷に従え』と心の中で呟きながら乗車させて頂く。

 考えてみると、今まで何度か東京に滞在しているがバスの移動は初めてだった。青梅街道に出るまでは片道一車線の細くて、踏切の多い道を走るので心配だった。30分ほどして吉祥寺に到着。街の雰囲気にどこか70年代の風を感じる。某君の案内で駅周辺を散策。ハーモニカ横丁と言う看板を見つけ覗くと、そこには戦後焼け跡闇市の世界が広がっていた(ウソ)。ちょうど6時過ぎで人手の多い時間帯だったが、ぼちぼち歩いていくうちにガードが見えてきて、白い煙がたなびいている。どこか美味しそうな匂いが、あったーーー!「いせや」だーーー!

 赤信号を待ってる間に気持ちははやり、昨日の記事にアップした写真を撮影。立ち飲みしているオヤジも沢山いてウキウキしてくる。入り口から「2人だけど2階いい?」と某君が聞くが、あっさりNG。満席状態のようで、「こりゃ出直すか?」と僕。その声が聞こえたのか、入り口で一人で飲んでた30過ぎの男の人が「詰めましょうか?」と席を譲ってくれた。なんとか席を確保し、ビールと適当につまみを頼む。僕は普段は飲まないのだが(昔は浴びるほど飲んでいた。このあたりのことは又改めて…)この日ばかりは、タカダワタルの霊が降りてきたのか、ビールが進んだ。枝豆とか、生野菜といった前座が終わり、いよいよ焼き鳥を注文。「塩?タレ?」と聞かれ、「タレ」と答える。ここで『焼き鳥は塩だろ』と通ぶる若者に一言。塩はオジサン達にとってその名の通り塩分取りすぎになるの!血圧が上がるの!成人病(今は生活習慣病と言うのか、どおりで小学生もかかるはずだってそれが世の中狂ってる証拠だぜ)の原因になるので極力塩分は控えめ、よって焼き鳥もタレ。ただこのタレが良くあるような甘ったるいタレではなく、醤油の味がぴりりと聞いた大人の味だった。

 食った、食った、食いました。めちゃくちゃ美味しいというわけではないが、料理一品一品に味がしみていて、周りの雰囲気も香辛料として美味しく頂けた。ちょっと落ち着いてから、中を見回すと結構若くて可愛いオネーサンたちもいる。家族連れも、仕事帰りの人もコンパの学生も、そして吉祥寺文化人的な髭や雪駄履きのおっさん達も、様々な人々が結集して、思い思いに飲み、食い、語りあっている。どこかで見た風景だと記憶を辿ると、20代の時に行った返還前の香港の屋台の雰囲気とそっくりだった。厨房の中を見ると大勢の若い人達が焼き鳥を焼いたり、ビールやウーロン茶の栓を抜いたり、一瞬たりともじっとしていない。時々「シューマイ、ハナー」とか「水割り、ハナー」とか叫んでいる。”ハナ”とは何だろうか?ハリアップの意味だろうか?ハンナァと歌えば甲斐バンドの”杏奈”に聞こえなくも無いが、ここで甲斐バンドは関係がなさそうだ。

 えてしてこういう場ではお店の人に『はなって何のこと?』などと聞いて、それを薀蓄のネタにするいやらしい人間が多いが、こういう場では、符丁というか職場スラングというかその関係者でなければ解らない専門用語はあって当たり前であるし、それを今日来たばかりの人間が意味を知ろうとしたり、ましてやどこかで使おうなどと考えるのはみっともないこと夥しい。という僕の美学でそのまま謎として置いておく。そうこうする内にトイレに行きたくなり、見当つけて入ってみるとこれは又ものすごい。トイレのペーパーホルダーが針金、それもぶっとい針金が天井から下がっていて、そのL字になってるあたりにペーパーが刺さっている。和式の、大をするときは一段上がってやる旧式のトイレである。

 ちゃんとロック(押しボタン式)して入ったのだが、用を足してる最中にノックされあっという間にドアが開けられた。みんなが飲食してるところで思い切りトイレのドアを開ける奴はどんな奴だとにらみつけて出てきたら、ネクタイ姿の気の弱そうなオッチャンが「すいません」と誤ってきた。客の人数の割りにトイレが狭いし汚いのはどういうわけだろう。その後可愛いオネーチャンがそのトイレに行き顔を真っ赤にして「私には出来ません!」と絶叫して店を出て行ったが気持ちはよく解る。1時間ほどいてお店を出たが、その間人の出入りはひっきりなし。入り口で何人かかたまると「お客さん、何人?」と店の人が聞き、空いてれば案内、空いてなければ待たせるという非常に明快なシステムであったが、ちょっと気の小さい人は自分から声も出せず、店の人もその姿に気づかずそのまま放置されると言う大都会の人間砂漠状況を何度も見た。

 食うだけ食って、お店を出たがせっかくなので2階も冷やかしてみた。1階もにぎやかだったが、2階はそれに輪をかけたような状態。ただし1階は男の店員と僕に向かって「お待たせ、お兄ちゃん」と平気で言えるオババしかいなかったが、2階はそれなりに若いオネーチャンがいた。チラシをもらったがそこに”ご商談、ご接待、名刺交換会…”と書いてあったのにはびっくりした。あそこで商談や、名刺交換は無理だろう。

 おなかも一杯になり幸せな気分で駅に向かったが、体全身に焼き鳥の煙が染み付いたようだった。ただ決していやな気持ちにはならなかった。帰り道に中古CD屋さんを見つけナニゲニ(はい、もうみんな慣れたね)入ったら、下地勇の4thAlbumの「また夢でも見てみるか」とシングルCDが2枚入手できた。どちらも未開封だが、サンプル盤だった。嬉しかった気持ちが少し暗くなった。それでも楽しかった吉祥寺、また日を改めて来てみよう。

何も無かったことにしましょうってのは友部の”一本道”だな。

吉祥寺 「いせや」

 今朝は3時30分に起きた。何か大事な用があったはずだが、どうにも思い出せない。4時から6時までの間に、随分喜怒哀楽が激しかったような気がする。一喜一憂という言葉があるが、一喜百憂したような夢でも見ていたのだろうか?ということで昨日の予告通り”何も無かったこと”にする。

で、夕方から吉祥寺に行って、行って来ました。「いせや」。満足しました、が、レポートは明日アップします。なにせ色々あって今日は疲れた。とりあえず写真だけ。

明日は明日の風が吹く、ライクアローリングストーン!

 えー、起きれるかどうかは自信が無いが、今20時30分。これから寝て明日の3時30分に起きるつもりである。理由は聞かないで欲しい。何も無かったことにするかもしれないので。それではおやすみなさい。

Touch me 今どんな気分だい?

 只今、18時40分である。ずいぶん早い時間にブログを打ち始めているが、これにはわけがある。昨日、正確には本日の午前1時40分ごろキーボードを叩いていたら、寝ていたはずの某君が『安眠妨害だ』と言って起きて来た。僕のENTERを打つ音がうるさくて目が覚めたと言う。これは異なことを、僕のタイピングは昔からフェザータッチ、つまりダウンフェザーのように柔らかく軽いタッチであることは有名なのだが、もしうるさいと言うなら都会の生活のストレスが原因ではないかと思ったが、弱い立場なので黙っていた。すると『この音なら下の階の人にも迷惑がかかるかもしれないので、夜は12時までにしてくれ』と言われた。

 鉄筋のマンションなんだから、たかがPCのENTERを叩く音が階下に響くはずが無い。もしそうなら鉄筋量が少ない、今流行の(流行ってないって、あれは犯罪!)アネハ物件ではないかと思ったが、僕のことを快く思っていない人たちが、訓練校の頃僕のタイピングの音がうるさいなどと言っていたことを思い出した。最初の頃隣の席にいたS藤さんは『何か怒ってるんですか?』と聞いてきたことがあった。何のことか解らなかったのであいまいな返事をしたが、良く考えると(良く考えなくてもそうだが)僕のタイピングの音がうるさいと言う意味だったのだろう。そう言えば結婚したばかりの頃、不覚にもピアノの弾き語りなどに憧れ、配偶者にピアノの弾き方を習ったが、5分もしないうちに指がつった。配偶者から『何故そんなに力を入れるのか?』と聞かれたが、自分でも理由が解らない。しいて言えば、軽いタッチだとちゃんと音が出ないのではないかと、つまり心配性なのだ。

 さらに付け加えれば今の世の中、何を信じていいのか解らない、混迷と停滞の時代に確実なタッチこそが自己を確認する唯一の手段ではないかと本能的に感じていたと思われる。ここまで来て、僕のPCのタッチがフェザータッチと正反対であることがバレてしまった。どうしてこんなにすぐバレるウソをつくのか、これまでの人格形成上に何か大きな問題があったとしか思えない。と言うことで回りに迷惑をかけないよう、平日のブログは夜の12時までに終わらせることにしたので、ちょっと短めなものが続きますが、そこのところ宜しく。最後はP-MODELの歌で”タッチミー”、それではどうぞ。

誰も彼もが知らん振りして
僕を踏んづけたりなんかなんかして
僕の血反吐は広がり
あなたの せめて 足元届いて欲しい
Touch me 確かめて Touch
胸の鼓動が止まりそうだよ
Touch me ためらって Touch
虚ろな視界 かすかに Touch
by 秋山 勝彦


最近頭にきたこと(そんなにないけど)、

 昨日あんな記事を書いたせいで今朝は寝坊してしまった。はっと思った時は9時30分過ぎで既に仕事は始まっていた。いかんいかん。遅刻は欠勤よりいけない事だと新人時代(いつの話や、おっさん。歴史年表で調べてみないと解らんこと言うたらアカンでぇ)に、教わったではないか。だが僕が寝坊したのは確かだが、もとを糺せばみんながメールやコメントをくれなかったことが原因ではないか。高度に発展した資本主義社会(こればっか)では人間は個に分断・疎外され自己の存在の確認・認識を求めて連帯を欲しサークル活動へ結集するってなんか学生時代のアジみたいになってしまったが、自分の失敗を人のせいにしてはいけません。『実るほど頭を垂れる稲穂かな(みのるほど、こうべをたれる、いなほかな、って読むんだよ。稲の実がついてくると自然と頭を下げてくるように、人間が出来てくると自然と頭を下げるつまり謙虚な慎み深い人になるものだという、まあ願望だな。そんなことが出来りゃ苦労はせんわ!!)

 ということで、実は今日はブログをパスして12時前には寝ようかと思っていたのだが、MITIYAMA氏から来たコメントを読んで、その返事を書いているうちに怒りがこみ上げてきたことがあって、職業訓練校の孔子と呼ばれた僕(怒らない、物事に動じない、常に君子である。ま、悪いがこの3点はキープしてたね)だが、ここはひとつ声を大にして皆さんに問題提起をしたい。というのもコメントをくれたMITIYAMA氏だが、学校の修了の頃『タバコは止めます。必ず!drac-obさんに出来ることが、自分に出来ないはずが無いですから~』と、最近見かけないギター侍みたいなことを言ってたのだが、本日のコメントに”私の一日は、朝6時頃に目覚め、紫煙の中で新聞を読み、コーヒーを飲むことで始まります。”などと書いてあった。ナニゲニ(もうすっかりこの言い方が定着しちゃっちゃってさ。気分はヤングだぜってその言葉が死語だってーの)見落としてしまいそうだったが、『紫煙ってなんや?マリ○○ナ?違う。タバコやろ。止めきらんかったんやろー!おーい、みんなー、MITIYAMAがタバコよう止めんかったぞー』などと小学生みたいなことを言いたいのではない。以下のYahoo!のニュース記事を読んでのことだ。

 禁煙学会:JTキャンペーン、白石さん登場に「待った!」という内容のもの。詳細はここを見て欲しいのだが、要は喫煙マナーを守ろうと言う趣旨で白石さんが答えたコメントを、「JTの~営業活動であり…中略…『たばこ規制枠組み条約』に違反する…以下略」などと横槍を入れてるアホ団体がいるのだ。

作田理事長は「本当のマナーは禁煙して初めて分かるもの。たばこの広告に大学が利用されるのは情けない」と話す。


おかしいだろ!論理が破綻してるだろ!『喫煙マナー』と言うのはタバコを吸う時のマナーで、当たり前だがポイ捨てをしないとか(スマン、喫煙者の頃は良くやっていた。時にはゴルゴ13を気取って人差し指でピンと弾いたこともあった。赤面)、周囲に人がいるときは許可を貰ってから吸うとか、病院や赤ちゃんのいるところでは吸わないとか、そんなマナーじゃないの。禁煙してしまったら喫煙マナーもへったくれもないだろ。また『タバコの広告に大学が利用』されてるの?白石さんは大学生協職員だろ。広義の意味では大学の組織に属するのではあるだろうが、それでもって『大学が利用される』と言うのはフレームアップではないか。ま、この作田理事長サンも大学に権威と価値観を持つあっち側の人なんだろうが。僕がタバコを止めてかれこれ1年半が過ぎるが、ここ最近の禁煙ファシズムの喧(かまびす)しいことはなはだしい。何かが狂っているとしか思えない禁煙騒ぎが多すぎるのだ。喫煙も禁煙もあくまで個人の嗜好の問題であり、確かに健康面にはプラスになることが多いからタバコを止める人が増えているのだが、だからと言ってそれを他人に強制するのは大きな間違いだ。先ほどの僕のように、禁煙できない人間をおちょくって、共存すればいいではないか(決して褒められた態度ではないが)。

 所詮、人間は何かに依存して生きている存在である以上、お酒はいいけどタバコは駄目とか、酒もタバコも駄目、Hも子孫繁栄以外の目的では駄目とか何でもかんでも禁止していくと最後はビッグブラザーに支配された社会になってしまう。またはカルト宗教(宗教は大なり、小なりカルト的ではあるが)に治められた国が望みなのか、小太りで腹の出た”偉大なる首領様”の国がいいのか、どうして”自由”から人は逃げたがり、”束縛”を求めるのだろうか。そういえば今日のテレビでジーコが”自由にやるサッカー”を広めようとしたが、組織プレーが好きな、ということは個人としての責任を持ちたがらない日本サッカーには浸透しなかった、いや拒絶されたといったことを放映していた(いい加減に見てたので細かなニュアンスは違うかもしれないが)。

 こちらの駅や、駅前の通りは完全禁煙とか歩きタバコは条例違反とかなんかえらく刺々しい社会になったもんだと良く感じる。もうタバコは止めたから関係ないという人もいるが、そうではないのだ。なんか燃えてきたな。つい2時間前はもう毎日更新は止めようかとも考えていたのに、気がついたらまた2時前まで必死に入力している。

 今、気が付いた。僕は怒りでやる気が出るタイプなのだ。

特にオチはありません、独り言みたいなもんです。

 ここのところ夜遅く、ブログを書く癖がついてしまい、今日も20日の午前0時30分過ぎてから19日付の記事を書いている。仕事は夕方には終わるのでさっさと書いてしまえばいいのだが、ついメールチェックをしたりネットのニュースを見たりお気に入りのブログを読んだりしているとこの時間になってしまう。また昨日買ったCDも聞く時間が必要なので、ますますブログを書く時間が遅くなるという悪循環だ。しかし今気がついたが、こちらに出てきてからは新聞以外の活字をほとんど読んでいない。僕の今までの生活パターンからは考えられないことなのだが、本屋にもここ2週間行っていない(正確には昨日池袋の西武デパートで書籍館に行こうとしたが、そこに行くまでの道のりがあまりに遠いため挫折した。ザロンガンワインディンロー、ジャジャージャジャー。えービートルズのロングアンドワインディングロードでした)。

 ここで僕の一日を振り返ってみると、朝は8時過ぎに起きてコーヒーを飲んで新聞を読む。9時から仕事は始まるが大抵はPCの電源を入れることから始まり、曜日によって終日PC相手のときもあれば、商品の出荷(ピッキングなどと言ってるが、僕は他人のドアの鍵を開ける趣味はない。そのピッキングじゃないの!拾い上げる意味のピッキングって自分で突っ込んでどうする)や整理で汗まみれになる事もある。ただ残業など無いので18時過ぎには一日の仕事は終わる。それから食事して入浴して、ちょっとテレビなど見ても時間はあるはずなのに、気がついたらこの時間である。

 まあひとついえるのは僕は昔から(そう中学校の時くらいから)夜一人でぼーっとする時間が必要な子だった。次の日に楽しいことがあったら眠れないというのは誰しも経験があるだろうが、僕は特別何も無くても夜寝つきが悪く、朝はなかなか起きられないタイプだった。若い頃は低血圧でなどと言い訳も出来たが、しっかり高血圧のクスリを10年以上飲むようになっても変わらないところを見ると、若い頃も低血圧ではなかったのだろう。世間一般で言う”怠け者”とか”生産性の低い人間”である。

 しかし好きでこうなったわけではない。と書いて何か原因を見つけ出し、この傾向は高度に発展した資本主義社会とりわけ競争や改革などに一心不乱となり、経済性の追求即ちオールユーニードイズキャッシュオンリー(カタカナだとかえって解り難いかな。ALL YOU NEED IS CASH ONLY!金のみが全てという意味だ。ここでのONLYの発音は以前何かのCMであった”ちきんぷりーず”、”ふぃっしゅおんりー”のONLYをイメージして欲しい)という社会、コイズミのじゅんちゃんが作り出し、その手に乗った大多数のニポン低国民が望んだ社会に特有の病だと結論付けようと思ったが、無理があるので止めた。しょーがない。生産性が低くて怠け者であることは否定できないからだ。

 だからといって嘆いても仕方が無いので、何とか楽しく人生を生きていく方法を見つけて上手くやっていこうとした結果、音楽と読書と70年代のカウンターカルチャーが僕の楽しみで、僕が僕であるための内省の時間が深夜の一人の時間なのだって、話がもとに戻ってしまった。

 閑話休題。今日は久しぶりにクラスのみんなにメールを送った。O合さんとT本さん、M野さんは返事をくれた。この人たちには暖かい加護に包まれた幸せな将来が待っているだろう。その他の人は地獄に落ちろきっと忙しかったのだろう、暇な時にでも返事をくれるだろうと考えながらも、たかがメールじゃねぇか、2~3分あったら送れるだろ、そんなに仕事が忙しいのかい、忙しいと言う字はココロが滅ぶと書くぞなどと悪態をついてしまうイケナイおじさんであった。とここまで書いて何とか長さの体裁がついたので一安心。しかし、こう毎日更新してもみんな読んでくれてるのかね。特にこのブログはパスワードで読者を限定してるので、一日に一人も読んでくれないと言う事があるのではないかと疑い始めるときりが無いのだ。別に誰からも頼まれてはいないけど、少しは読まれているという手ごたえが欲しい。場合によってはパスワードを外して一般公開してしまおうかとも考えてしまうのだ。それはさておき、明日こそは建設的な話を書くぞとココロに誓い今日は終わる。

ちょっと音楽随筆風に(そんな羊頭狗肉でっせ)

 今日は日曜日。昼近くまで寝坊して、小雨が降る中を保谷の駅に向かった。狙いはもちろん、先週中止した渋谷へのCDショップ巡回である。各駅停車に乗り、石神井公園で準急に乗り換えるなどと言う小技を使い、池袋まで出る。そこから山手線で渋谷まで。途中、池袋の通路で青いTシャツを沢山売っていたがあれは何かのおまじないなんだろうか(そのまじないが効かない事を深夜知る)。

 さて何か面白いものがあれば写真を撮り、子供にメールしてやろうと思い、渋谷に行くがどんな写真が見たいかとメールすると、ハチ公が見たいと来た。あんなもの見てもしょうがないだろうと思いながらも、了解したと答えた。渋谷は前回の友人たちとの待ち合わせで来たばかりだったし、以前地図も調べていたので楽勝で解るつもりだったが、やはり半端な人込みではないのでちょっと戸惑った。

 今日はHMVとTSUTAYAとタワーレコードに絞って行くつもりだったが、人の多さに気を取られて道がわからない。とりあえず西武デパートに入り地図を見たところすぐ隣がTSUTAYAと解り直行した。なんと6階建てのビル丸ごとがTSUTAYA(コーヒーショップなんかがテナントで入っていたが)だったのにビックリ。大いに期待して入ったが、中古CD(生意気にリサイクルなどと表示してあったが、中古は中古じゃねぇか。気取ってんじゃねぇよ)の掘り出し物は全く無かった。子供に写真を送ったので、びっくりしたと言うような返信が来るかと思ったら『へぇ、東京にもTSUTAYAがあるんだ。』みたいなリアクションでがっくり来た。全国ネットだよ!!

 そこからHMVに行くと1階が日本の音楽のコーナーだったので、じっくり検索。購入予定のCDは50音順に石川セリ『ときどき私は…』をまずセレクト。セリは陽水の奥さんとして有名だが、この頃は独特なけだるい唱法、アンニュイという言葉がぴったり来るシンガーで一部のファンを引き付けていた。毎回選曲のセンスがいいというか、いい作曲家が楽曲を提供してくれる。デビュー曲から最近の曲までのベスト盤は持っているが、このアルバムには”なんとなく…”が入っているし、1曲目のイントロ(ユーミンの曲で”ミスリム”あたりに入っていても全く違和感の無いような曲)からラストナンバーの”遠い海の記憶”(NHKの少年ドラマ”つぶやき岩の秘密”のテーマソング、”いつか思い出すだろう~”で始まる詩は何度聞いても少年期の切なさが詰まっている)まで一気に聞けるので購入。

 次は忌野清志郎の『冬の十字架』。『君が代』をロックにアレンジしたとのことでメジャーはビビッてしまい、インディーズで出たといういわくつきの物。ネット通販でウィッシュリストには入れておいたが、現物があれば即購入するのは当然である。まだ聞いてないのでコメントなし。聞いた後でまたコメントをアップしたい。そのほかオッと思ったCDは色々あったが最終的に購入したのは、木村充揮&大西ユカリのシングル”それから”(二人で飲んでる時に出来た歌ということで、紙のコースターがオマケについていた)。最後が吉田美奈子の『MINAKO』の紙ジャケ。

 洋盤のフロアに行ったが、いまいち欲しいものが無い。無くは無いのだが、いつでも買えそうな物が多くて、せっかく渋谷まで来たかいが無い。次のタワーレコードに行こうと思い雨の中を歩き始めた。雨は降っているが人通りは全く途切れない、というか傘を差して歩くのも結構大変な状況だった。そんな中でキャッチセールスのオネーチャンや各お店の店員さんが一生懸命客引きをやっている。その中でちょっと妙な客引きを見つけた。

 「今日が閉店、店じまいです。安くなってますよ~」との声に足を止めると、池袋では大外れだったレコファンだ。雨宿りのつもりで入ったら、これが大正解。今回の東京出稼ぎの旅の目的のひとつであったニルソンの『俺たちは天使じゃない』を発見。ついでに『ハリーの真相』と『シュミルソン2世』も買ってしまう。いわゆる大人買いってやつですね。2階が洋盤のコーナーだったがレジは1階とのことで下りて、何気に(表現が若い!といって自分を褒める)国内盤のところをうろうろしていたら、なんとパンタの『NAKED』と頭脳警察の未発表曲の入った2枚組みライブを発見。こちらは衝動買いしてしまった。

 かなり疲れたので帰ろうかと思ったがせっかく出てきてるのだからタワレコまでは行こうと思い直しトボトボ歩いていったが、やはりパワーを使い果たしていたのかタワレコではいいものを見つけ切れなかった。帰りに約束していたハチ公の写真をとって送ったら、石像と思ってたが銅像だったのでびっくりしたと返事が届いた。しかし我が娘ながら常識が無いのにあきれる。とにかく都会の人込みの多さを再三写真に撮り、メールしたので東京に出ることを思いとどまらせることは出来そうだ。

 ちょっと話に切れが無いが、炎天下90分フルタイムで戦って、勝てる試合を引き分けにしたゲームを見てしまったせいではないかと愚考している。だめだ、眠い。只今の正確な日時は19日午前1時55分、以上です。

酔っ払いの話のようにまとまり無く。

オコゼの薄造り

 今朝のブログの記事は眠くてしょうがなかったので、何の話かよく解らなかったと思う。実は3日連続で食べ物の話なのだが、その前に昨日の記憶を辿る事から始めよう。

 そもそも宮崎からS藤君が保谷に来る所から話は始まるのだ。このS藤君は僕の高校時代からの友人で、大学卒業と同時に高校時代からの(正確には中学の頃からだったか?)彼女と結婚し、プリンターで有名なCノンという会社に勤め、その後宮崎に戻って奥様の実家の測量会社を経営しているやり手の人物である。お子さんも大変優秀で上の二人は東京で大学院と大学に通っている。下の子供も水泳の能力はずば抜けていて、コーチから県の記録更新も夢ではないと言われているが、父親譲りの『努力嫌い、練習嫌い』がその夢を夢のままで終わらせそうだという事を聞いた。DNAとはかくも残酷なものである。母親のほうに似ればまだ救いはあったのだろうが。

 そのS藤君がせっかく出てくるのだからということで、もう一人高校時代のクラスメートのN原君と僕と、我が雇用主で毎度飲酒してはブログのネタを提供してくれる某君の4人で渋谷でご飯を食べて、70年代の雰囲気を色濃く残しているお店になだれ込もうという計画が決まった。待ち合わせは7時に渋谷の南口改札前と決まった(N原君とは事前にメールで約束していた)。こういうところが花の東京なのである。待ち合わせは一番街のミスド前とはちょっと違うのだ(って、宮崎の人じゃないと解らん喩えであるが)。

 その南口の改札に着く前、N原君から5~10分くらい遅れると連絡があった。彼は携帯を持たない主義なので公衆電話からわざわざ電話してきたのだ。当然待った。10分待ったが来ない。某君の携帯に再度電話があり、どうももう少し遅れそうだとのこと。せっかちなS藤君は改札を出て外で待っている。また公衆電話から連絡が入り、どうも待ち合わせの南口の位置が食い違ってるようだ。何度か某君とやりとりして判明したことがあった。N原君は新宿の南口にいた。いくら待っても会えないはずだ。

 ようやく全員合流出来たのは8時近かった。食事をするところを決めてなかったので、とりあえず東急プラザの9階に行く(なんてカッコつけてるが金魚のフンでくっついていっただけ、ああた右も左もわからんとこで迷子になったらどうします?)。何を食うか意見が分かれたがショウウインドウの鰹のたたきが美味しそうだったので、”活魚関西料理”と謳ってあった『味の田や』というところに入る。和服の女性が接客してくれ、とりあえずタタキやちょっとしたものを注文していたら、今日はオコゼのいいのが入っていると言われた。

 えー、この食事会は某君の会社の経費で落ちることをリサーチしていた僕は流れに任せた。他の3人は即座にそれを食わせろと言わんばかりの勢いである。そこに大きな皿に生きてるオコゼ(昨日の記事の写真を参照)を、この道30年てな感じのオジサンが持ってきた。曰くオコゼは豊後水道産が一番、ほかはぐんと落ちる。またオコゼは飛行機に酔うので一度えさを吐かせてから空輸するのだなどと薀蓄をたれる。身は薄造りにして、皮の所は唐揚げに、最後に残った頭は味噌汁にすると力強く宣言して下がった。

 根が貧乏性で物事を素直に取れない僕は、今のオコゼはデモ用で実際は古いオコゼを使うに違いない等と言ったが、みなさん立派な大人になっており全く無視した、などと書けると良いのだが、所詮は僕の友人たちである。そうだそうだ、さっきの親父は調子が良すぎるなどとお店の雰囲気を考えずに盛り上がった。流石に出てくる料理すべて上品で美味しかったが、鰹のタタキが絶品であった。オコゼは美味しかったが、オジサンがあまりにも上手いだろ、美味しいだろ、絶品だろという割にはフーンてな味だった。ところでそのオジサンと話している時に、我々が宮崎人だと言ったとたん『うちにも延岡の子がいるんですよ、今日は休みだけど』などと口を挟む。こんな時はどんな反応をすればいいのかがよく解らない。

 「それがどうした」、などというと喧嘩を売ってるようだし、「へー」と言った後「いや延岡も旭化成の景気が悪くてね、そうそう、今度の大合併で北浦や北方も延岡市になったんですよ」などと話しても、盛り上がるわけは無い。結論、あの手のお店では必要以上の営業トークはいらない。

 なんだかんだ言いながらその店を出て、某君が是非紹介したい(S藤君は以前も行った事があるらしいが)というGRANDFATHER'Sに乱入する。金曜日の10時前だったので(だったのにと言うべきかよく解らないが)ほとんど満員。WAITING SEATと書かれている入り口の狭いテーブルに4人座った。周囲を見回すと、各テーブルにはペンダント型の照明が下がっていて、壁はすべて木製、紫の煙漂う中でロックがかなりなボリュームで響いている。書き忘れたが、地下へ急な階段を下りていくところがBASEMENTというかSHELTERと言う感じで入る前から期待感は高かった。いや、しかし懐かしいですな。この雰囲気。確かに70年代のロック喫茶やジャズ喫茶はこんな感じでした。ウェイターに注文するのにもステレオの音に声がかき消されてしまうのだ(そうなんです。このお店はアナログのLPレコードのなかの1曲だけかけ続けている、えー、解りにくいかな、つまりプレーヤーが2台以上セットされていて1曲かけたら次のレコードの中の1曲をかける、また…という風にエンドレスでロックのヒット曲や有名な曲が流れ続けているという僕にしてみたら『天国に一番近い島』状態なのだ)。

 頼んだボトルがジンだったので僕以外の3人は完璧に酔っ払っていて、話がかみ合ってるのか、かみ合ってないのかよく解らないが、ちょっとした将来の計画などを話した。実はここである人間がとんでもない事を言い出すのだが、本人の名誉と家庭の安定のために伏せることにする。この店でカーリー・サイモンやスティーリー・ダン、ディラン、S&Gなんかをいい気持ちで聞くうちにN原君は終電があるので帰ることになった。彼のこの判断は『その時歴史は動いた』並に正しい判断であった。その後3人で店を出たら12時をとっくに回っていた。S藤君は「ホテルのチェックインをしないと…あー、娘から携帯に電話が入っていた。また明日怒られる、あー」と嘆きの言葉を連発し、片や某君は「ラーメン食おう、怪しい店に行こう、タクシーでぶっ飛んでいこう」とこの世のものとは思われない発言を連発していた。

 結局タクシーで新宿に行き、カマが客引きしている危険地帯を突破し、S藤君は執拗なT地君の誘いから隙を見て脱出。僕は帰るにも帰れないのでこの後、歌舞伎町のスナックにつき合わされ、ハングルが乱れ飛ぶ通りを抜けて居酒屋に入り、ぐずる某君をスナックのママと二人で説得してやっとタクシーに乗せ保谷へ向かった(実はこの間の話が大変面白く、お酒は身を滅ぼすという教訓になるのだが、あまりブログには書かないで欲しいと言われているので、次の機会にする)。

 帰りのタクシーに乗ってる間、運転手が信号待ちのたびに地図を開いていることに一抹の不安を持ちながら、夜明け前の空を眺めていた。ある交差点でついに恐れていたことを運転手が聞いてきた。「お客さんここからどう行けばいいんですか?」オレに聞くなー。田舎から出てきたんじゃ、知らんぞーと絶叫したかったが、つい都会人のふりをして「こう行って、ああ行って」と今までの乏しい記憶を辿りながら、しかしそのような素振りは一切見せず、かといってホントに帰れるか不安になりながらも、無事保谷駅が近づいてきて今朝のブログに繋がるのだ。

これだから酔っ払いは嫌いだ!!

オコゼ before

 ただいまの正確な日時は17日午前4時44分である。また今回も毎日更新を継続するため、アップの日時を1日遅らせねばならない。何故こんな時間にブログを書いているかは、賢明なる読者諸君のご想像の通り(というかあきもせず、いやより正確に言うと学習能力の欠如により)酒飲みの友人達に付き合ったからである。今日、正確には昨日高校時代の友人達と渋谷で待ち合わせ(残念ながら安藤組には会えなかった→いい加減しつこい)して、写真のような立派な生きているオコゼを頂いた。このブログ史上初の”グルメレポート”が出来ると思ったが、もう寝る。続きは明日また。 

蓼食う虫も好き好きってこのこと?

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 昨日は食べ物の話を書いたが、今日はその続編として、「大勝軒」レポートをお送りしたい。夕方、例によって晩飯はどうしようか考えていたが、駅前を歩く時いつもイリコのニオイが気になっていた、かの椎名誠が絶賛し東京ラーメンのガイド本に名物ラーメンとして必ず掲載されているかの「大勝軒」に行ってみようと決心した。ところでここでイリコと書いたが、煮干とイリコはどう違うんだと言う素朴な疑問が出てきて、ネットで調べたところカタクチイワシを主体としたイワシ系がイリコでアジやサバその他系が煮干なのかなと思ったがここを読むとそうでもないようだ。まあ、じゃまくさいので以降はイリコで統一する(何故かって?イリコ好きなんです。生まれが漁村だったのでおやつ代わりにポリポリ食ってたと言うか、食わされていたの。あと頭が良くなるからといって昆布も良く食べさせられた。その結果はみなさんご存知の通りです。ま、昆布などは可愛いモンで、僕の知ってる芦屋の医者の次男で、一浪したが医学部に行けず、関西の某私大の工学部にようやく入ったT畠君(タカブタと言う愛称だったことから、彼の若かりし頃の体型が容易に想像できるであろう)などは、カシコクなるからと言って母親から毎日Aの素(化学調味料、今はうまみ調味料と言うのか)をスプーン一杯飲まされたそうだ。それもご丁寧にオブラートに包んで。彼の兄は言いつけをちゃんと守ったので浪人はしたものの見事医学部へ進んだが、根が反抗的で可愛げの無かったタカブタ君がちゃんと飲んだかどうかは察しがつくでしょう。しかし医者の家庭でやることかな。ものは試しで僕も一度学食でAの素の一気飲みを試してみたが、気分が悪くなった。

 えー、ここで『オブラートって何?』とかぬかしとる若いモンへ。オブラート言うのは昔クスリをそのまま飲むと苦くて飲めないので、半透明のでんぷん質の紙みたいな膜みたいなやつで包んで飲んでいたんです。その膜みたいな紙みたいなもののことだ。と言ってもさっぱり解らないだろうから今度はここを読むか、おじいちゃん・おばあちゃんがお元気だったら聞いてみよう。ただオブラートという物そのものは知らないかもしれないが、『オブラートに包んだ(クルンダと読むようにね、ツツンダなんて読んじゃ駄目だぞ)』という言い回しぐらいは知ってて損はないと言うか、年上の人から「おっ、こいつは若いのに品のあるものの言い方をするじゃないか」なんていう評価に繋がるかも…いや、年上の人もこの言い回しを知らない事だってあるよな…ま、とにかく知ってて孫のないじゃなかった、損のほうだ。悟空や正義サンの話をしているのではなかった。知ってて損のない表現であると言うこと。ああしんど。

 などとなかなか本題に入らないのは何故か?えー、ま、そのーとにかくエグかったの。まだゲップするとイリコの味とにおいがこみ上げてくる。もう3時間以上たつのに苦しい。気を取り直してA列車で行こう(意味は無い、ちょっとでも軽快な気分になりたかった)。

 本日の雨が幸いして、7時30分くらいにお店に入ったら席が開いてたので並ばずに済んだ(日曜のお昼なんかは、みんな我慢強く並んで待ってるんだ)。カウンターが15,6人、4人がけのテーブルが4つというこじんまりした店内。外見の古ぼけた感じとミスマッチな綺麗な内装だった。理由はすぐわかった。「タバコ吸うな」のプレートがあちこちに張ってあるせいだ(文面はもっと丁寧にご遠慮下さいなんて書いてるが、要は吸うなって事)。隣に60歳くらいの女の人が顔を洗っていた。というのは当然間違いで、そんな感じでラーメンを食べていた。メニューはラーメンかチャーシューかワンタンか、早い話ラーメンオンリー。ギョーザもチャーハンも無い正統派ラーメン店なのだ。こういうところはすっきりしていて好感が持てる。なまじメニューの品数が多いラーメン屋は碌なところではない、などと気分は海原雄山である。海原雄山がラーメンを食べるかどうかは定かではないが。

 当然(量の多さは聞いていたので)、並を頼み30歳くらいのご夫婦とお母様が調理しているところを覗きながら待った。「おまちどおさまでした」。洗面器並みの丼に2玉間違いなく入った麺にメンマが7~8本、厚めのチャーシューが1切れ。ナルト1切れ。ネギぱらぱら。気合を入れて食う。食う。食う。メンマを齧る。この動作をどのくらい繰り返したか。途中でレンゲにスープを入れて飲む。どこまで食べてもスープは熱い。見るとスープの表面に油膜が張っている。食うことに必死で何も考えなかった、考えられなかった。隣に若いカップルが座った。入り口側には小学生の女の子とその母親と友人らしき人。みんな丼ラーメンを食っている。僕の後ろの席に座った男の人。「生卵、ゆで卵、ねぎ、らーめん」。何の恨みがあってそんなに卵ばかり食うんだよ、しかも丼ラーメンも食うんだろ。腹も身のうちと言うぞ。

 何も考えなかったと言いながらも、そのようなことを考えているうちに、とりあえず麺は完食した。スープは半分以上飲めなかった。結論から言うと駄目、苦手ですね。イリコの味は解るんだけど、ラーメンのスープとは思えない。あ、誤解ないよう書いておきますが、九州人ですが関東の鶏がら醤油ラーメンも大好きなので、関東ラーメンに馴染めなかったという話ではないのです。何というか、合わないとしか言いようが無い味でした。食べた後軽く目眩がした。考えてみると今全身の血液が胃に隊列を組んで集合しているはずなので、頭には血は回らないのも当然なのだ。

 食べ終わって店を出たら雨は上がっていたが”雨上がりの夜空に”を口ずさむ元気も無かった。とぼとぼと歩く帰り道、あることが気になった。それはメニューにあった大盛(そば3玉)の文字だ。僕は単純に並がそば2玉で大盛は3玉と思っていたが、もしかしたら並(そば2玉)に大盛(そば3玉)だから、合わせてそば5玉では無いのか?2,3秒考えたが、人生には生涯謎のままのことがあったほうがいいと結論付けて、大勝軒再訪の道は永遠に閉ざされた。この話は完結。続きません。次回こそ、本当のグルメ話を書くぞー!!

華麗なる美食の日々(であって欲しかった)

Breakfast in America

 今日は何となくカレーが食べたい気分だった。例によって仕事が終わり、材料を買ってきて作るかとも考えたが、友人から290円で食べられるカレー屋があると聞いたのでそこに行ってみた。こちらの人にとっては何だと言われそうだが、そのお店「松屋」は宮崎にはない。入り口が例によってタッチ式の自動ドアで一瞬戸惑う(オラァ人間が真っ直ぐだから、入り口で立ち止まるのは嫌いなんだよ)。入ってすぐ食券の自販機があり、確かにチキンカレー(並)290円と書いてある。チケットを買って、客の回転効率のみを考えた固定式の丸椅子に座る。夕方の忙しい時間帯で、客もほぼ満席なのにカウンターの中には”ブレックファスト・イン・アメリカ”のジャケットそっくりのオバちゃん(もしかすると見た目よりずっと若いのかもしれないが)一人で調理して給仕している。

 正直言って290円だろ、ま、味はと思っていたが、これがうれしい誤算で美味いじゃないか。もちろんカレー専門店の気取ったカレーの味とは比較にならないが、十分『美味でございます』でした。もうひとつ感心したというか、”へー”っと思ったのはお味噌汁が付いていたことだ。カレーに味噌汁はあわんだろうとは思うのだが、ここのところインスタントしか飲んでないので結構嬉しかった。そういえば宮崎の城ヶ崎にも以前Zラーメン(某ミシンメーカーと同じ名前だった、ブラザーやリッカーではない)という所がカレーに味噌汁が付いていた。その店のカレー(正確にはカツカレーしか食べたことは無いが)も、少し甘くて昭和30年代のライスカレーてな味だったが、いつの間にか看板が無くなり、大工さんが出入りしついには美容室が出来てしまった。お昼の弁当なんかも作っていたからつぶれたのじゃないと思ってたが、どうなんだろう。一頃と比べてお客さんは減ってたような気がするので、誰か知ってたら教えて下さい。

 さて『290円のカレーと言ったら学食のカレーぐらいの値段だな』とその時は興奮して友人に話したが、良く思い出してみると180円でカレーを食っていた記憶がある。カツカレーが230円だったよな。ついでに言えば学生会館の食堂ではSランチが250円、Aランチが200円最も安い定食がBランチで180円だった。味噌汁は別売りというかオプション(そんなエエもんか)で10円だった。僕は月末はSランチ、月初はAランチ、10日から15日くらいまではBランチと所持金が減るにしたがってランチのグレードが下がって、仕送り前の5日くらいは『艱難汝を玉にす』などと呟きながら昼を抜いていた。

 流石に昼は抜いても晩飯は抜くわけに行かず、お金が乏しくても(もちろんゼロでは駄目だが)たらふく食えるお店や方法を確保していた。まず多少はお金があるときは河原町近くの中島食堂、ここは壁中に単品メニューが所狭しと張ってあり、入り口というか受付に小汚い兄ちゃんがいてこちらが注文するおかず(ご飯と汁は何は無くても付いてくるのだ)をマイクを使って厨房にオーダーすると、しばらくして別の薄汚い兄ちゃんが「○○と××のお客さ~ん」と注文したおかずを大声で読み上げて持ってくるという効率的なのかそうでないのかよく解らないお店だった。今はどうか知らないが従業員も客も99.9%が男であった。僕は出町というところに2年間住んでいたので、良くお世話になった。朝は8時からやっていたので徹夜明けのモーローとした頭で「ハムエッグ定食」などを食べ、帰って新聞を読み朝9時からの昭和30年代の日活映画のリバイバルをテレビ(ごみ置き場で拾った、当然白黒)で見て崩れるように寝るという生活パターンだった。そりゃ留年するわな。

 出町時代は『餃子の王将』にも助けられた。当時餃子が120円だったと思うが、このお店は餃子の無料券を配布しており、そのチケットに現金をプラスして食事代にすることが出来た。ただし京都市内の各店舗につき1枚だったので、タダの餃子を食うためにわざわざ遠くまで出かけ、行き帰りだけでまた腹が減ったりもした。ホイコーロやムースーロ、エンザーキーにソーメン・ソーハンなど怪しげな料理名もここで覚えた。王将のメニューのヨミガナは外大の中国語専攻の学生がアルバイトで作ったなんていう都市伝説めいた話もあった。このお店も入ったら「ホイコーロとギョーザ」と言えばどんぶり飯とギョーザはマッハ3で出てきた。またお店の開店記念日にはビール大瓶1本がサービスで出たり、夏の暑い時期は”夏バテ対策サービス”として飯は無条件で大盛りにするという力技の男子学生御用達のお店であった。

 また夏の時期だけの楽しみで通称”出町のレーメン”と呼んでいた所があり、店の名前は全く覚えてないが今出川通りぞいで看板に『京風ラーメン』と書いてあり、急な階段を上がると正方形のテーブルに窮屈な椅子が置いてあり、レーメン(いわゆる冷やし中華、むかし我が家では冷やしラーメンと呼んでいた事があった)の種類が沢山あるお店もあった。ここはそこそこの値段(それでも焼き豚レーメンが450円位だったか)だったがボリューム満点でおなかに溜まった。

 とここまで書いてきて、僕の学生時代の食生活はなんと悲惨だったのかと、少し悲しくなってきた。こうなったら(どうなったらや?)意地でもこの話は続ける。こぎれいなお店で可愛い女の子とディナーなんてことも、えー、あったような気がする。いやそれもそうだが、グルメ・食通と言ったジャンルにも挑戦するのだ。修学院の朝日食堂は6時半までが勝負だとか、一乗寺の”天々有”はその昔修学院で屋台をやっていてその頃は丼に”萬来軒”と書いてあったとか、お金が無い時のウルトラテクとして喫茶店で連れと待ち合わせしてとりあえず食べ物を注文しておくとか次回は夢とロマンあふれる話をアップしようと心に誓うのであった。

まみーぶるーかさむらいぶるーか。

マミーブルー(ポップトップスバージョン)


 今日も終日内勤作業で(毎日そうなのだが)、仕事が終わって外出したのは夕方6時30分過ぎだった。保谷の町にもずいぶん慣れて、踏み切りを渡って大勝軒のある通りに出ると落ち着くようになってきた。東京とは言ってもこの辺りの風景はどこの地方都市にもあるようなこじんまりした景色が続く。つまりドラッグストアがあり、書店があり、コンビニや銀行、飲食店が軒を連ねるというやつだ。

 それでも夕方の人手は多く、特に電車が通過した後は一気に増える。その慌しい時間帯に、スーパーに入ると仕事帰りのOLやサラリーマン、主婦、ちょっと正体不明のおじさんなどでいっぱいだ。人のことは言えないだろう、僕も傍から見ると毎日夕方7時前後に出没する怪しいおじさんとしか見られてない可能性がある。この界隈でちょっと怪しい事件があったら真っ先に疑われる。例えば通常のコンビニには置いてないカバヤのチョコレートに”どくいりきけん。たべたらアホになるで”てなコメントが書かれお菓子のコーナーにさりげなく配置されていたなどという事件だ。

 私服刑事があちこちに聞き込みに回る。『あー、この人。昨日なんか妙な本を買っていきましたよ。一般の人が読まないような、なんてったっけ、確か”紙”とか”爆弾”とか表紙に書いてあったような…』ここでデカは”紙”を”神”と聞き間違え「さては、オウムの関係者か?どこかに爆弾を仕掛けようとしてるのか」などと呟く。弁当屋に聞き込みに行くと『ああ、良く買いに来ますよ。たいてい幕の内ですかね。初めて来た時は自動ドアの前で固まってましたね、いえ、うちの自動ドアは手でスイッチに触らないと開かないんですが、知らなかったみたいですからどこか他所の、そうですね地方から来られたんじゃないですか?』てなことをレジのアンチャンは平気で言うだろう。

 飲食店関係にも調べが入るに決まってる。『ア、コノヒト、シッテルdrac obサンヨ。カルビトキムチトアトチヂミガスキネ。ナニカワルイコトシタカ、コンドキタラスグレンラクスルヨ』ちくしょー、あの韓国料理屋め、今日初出場のトーゴに勝ったからっていい気になってんじゃねーぞ、国歌を2回も流したり、人が少ないのをいいことに好き放題やりやがって(ワールドカップである、忘れたいのに)。『あー、このひと、前来た時おかしな人だなって思ってたんですよ。なんせオーダーがウーロン茶と麦茶でそれを交互に頼むんですよ。挙句には”悪酔いした”か、なんか言って、カラオケで”男らしいってわかるかい”とか”アンジェリーナ”とか妙な歌ばかり歌うんですよ』PUBのねーちゃんはきっとこう言うはずだ。

 しかしこうやって考えてみるとホントに胡散臭いというか怪しいな。挙動不審で職質など受けないように注意しよう。万一このブログの更新が何日も止まった時は、冤罪で拘置所に入れられてるかもしれないのでその時はヨロシクって、普通そんなこと考えねーだろ。

 実は今日のブログはこちらのスーパーの野菜や魚・肉いわゆる生鮮食品が意外なくらい新鮮で美味しいのは何故かという記事にする予定だったのだが途中で大きく曲がってしまった。まぁ、毎度のことではあるのだが昨日のニッポンの敗戦のショックがまだ続いているので勘弁してください。今、気が付いた。サムライブルーというのは侍が真っ青になる、または言葉通り憂鬱(blue)になるという意味だったのか。おーまみ、おーまみまみぶるー、おーまみーぶるー(これは呪文ではない、71年に辛気臭いのに何故か大ヒットした”マミーブルー”という曲である。わからない子はおとうさんおかあさんに聞いてみよう!!ちなみに今日もアップの時間を誤魔化してしまった。ただいま14日の1時10分をお知らせいたします。)

勝つと思うな、思えば負けよ~by 美空ひばり

 ワールドカップ初戦の結果については書かない。たった今まで見ていたが、書かないったら書かない、チクショー。1-0でリードしておきながら、何度もファインセーブしていながら、同点にされた後の精神的な弱さは何だ!今”どうてん”と入力して変換したら”動転”と出てきた。PCも僕も動転してるようだ…。書かないと言いながら、ぐちぐち愚痴を書いてしまいそうなのでスパッと話題を切り替える。

 ここのところ仕事が忙しくて、終日事務所というか倉庫と言うかマンションと言うかタコ部屋と言うか、早い話が室内にずっと居る。そんな生活をしていると、外の様子とりわけ天気等が解らなくなる。もちろん雨が降ってるのは(雨音で)解るのだが、曇り空なのか青空なのかベランダに出ても一瞬解らなくなっている。まあ梅雨入りしたので、ピーカンに晴れることはまずないだろうが。こんな天気の時は僕は偏頭痛持ちなので、気が重くなることが多いのだが、こちらに来てからは幸いなことに頭痛薬のお世話にはなっていない、と言うか今の今まで偏頭痛のことを忘れていた。やはり街の空気があっているのだろうか、それとも”都会の絵の具”に染まりつつあるのだろうか…と書いてみたがやはりいらいらが取れない、開き直ってワールドカップと言うかサッカーの話題で行ってみるか。

 僕は世代的に”巨人・大鵬・ビートルズ”(by 松村雄策)の人なので小学校の頃まではクラスで一番人気があった球技は野球だった。なんせ”巨人の星”をリアルタイムで読んだ(少年マガジン、同じ頃”明日のジョー”も連載していた)し、テレビでも見ていた。したがって星飛雄馬が星雲高校の1年生エースとして甲子園に出場した初戦の相手ピッチャーが超高校生級のフォークボールを投げる太刀川選手だったことや、その太刀川投手との投げ合いで片や三者連続三振を取り、我らが飛雄馬は打たせて取るピッチングを披露するのだが、それを観戦していた花形満(安藤組じゃないよ、あちらは敬さん)は、何故か油汗を流しながらバックを信じて投げる恐ろしいピッチャーに成長したなどと呟いたのを今でもはっきり覚えている。

 それと原作の梶原一騎は好意的に描いていたのだろうが、左門豊作のおかげで九州の男はみんな”兄弟が多く、貧乏で、親戚の家に預けられて、そこでいじめられるが悪いことは絶対にしなくて、普段から方言丸出しなのはしょうがないとしても何か精神的に高ぶると小便をちびる”といった特性を有していると思われたのもいい迷惑だった。そういえば同じ原作だった”柔道一直線”の車周作は薄汚い大衆食堂で弟子たちの活躍をテレビで見ながら(コップ酒を飲みながら)、テーブルにつっぷしたまま死ぬのだが、飛雄馬の親父の一徹はまだ生きてるのだろうか。案外バブルの時に地上げ屋を上手くだまくらかして、小金を貯めてのうのうと生きてるような気がするのは僕だけだろうか。

 おっとサッカーの話が出てこない。サッカーは中学校の頃最初のブームが来ました。”赤き血のイレブン”ですよ。”玉井真吾は変なやつ、馬鹿か利巧かわからない~”とかいったエンディングテーマがお気に入りでした。何のことか解らない?メキシコオリンピック銅メダルの日本サッカーですよ。ヤンマーの釜本ですよ、杉山ですよ。メキシコオリンピックが1968年、その時にサッカーがちょっとしたブームになったのだが、まぁたとえて言えばボーリングの中山律子さんとかローラーゲームの佐々木ヨーコさんくらいの人気の長さだった。そのココロは、短くてあっという間に過ぎて、ほぼ完璧に忘れ去られる。

 それでも我々こそがサッカーを見ること、プレーすることが好きなほとんど最初の世代ではないかと思う。僕個人はそれほど熱心ではなかったが、当時のロックの中心地であるイギリスなどはライブの時にバンドがサッカーボールを客席に蹴り込み、客は大喜びで蹴り返す(ロッド・スチュワートがいたフェイセス)なんて言う記事を読んでは、サッカーこそがワールドワイドなスポーツなのだなんて思い込んでいた。またジョージ・ベストやベッケンバウワー(余談だが”べっけんばうわー”を今変換したら別件場宇和となった)なんて名前にすぐ反応するのは高校の時の同級生の影響である。

 高校の頃からアナウンサーになってワールドカップの中継をするのが夢だといっていたS尾君は、国富町は本庄出身で3浪して早稲田に行っても国富弁を忘れないナイスな男だった。中学・高校とサッカー部で大学時代は流石に同好会だったが、それでもサッカー一筋の男で卒業後は見事NHKに採用された。石川県や沖縄、そして東京とあちこちでアナウンサーをやっていた。一番最近では教育チャンネルであの東ちづると一緒に番組をやっていたらしいが(僕は残念ながら見ていない)、放送中にこりともせず、手元のノートパソコンを見つめており、東ちづるが話題を振ってもシカトしていたらしい。それ以来テレビに出てこないらしい。当然と言えば当然である。

 そのS尾君も今日の試合には激怒しただろう!!チクショー、やっぱり最後まで引き摺ってしまった。

時はものを壊していく・・・by The Mods

 ここのところ夜更かしの癖がついてしまい、ブログを書くのも日付が変わってからと言う有様で、毎日更新を継続するためにアップする日付や時間を微調整している。昨日も週末の開放感から午前3時くらいまで起きていたので、今日目が覚めたらお昼近かった。せっかくの日曜日なので恒例の(って先週行っただけジャン、いーんだよ黙ってりゃ解らないからって誰と話してるんだ?)CDショップ巡回訪問を決行するつもりだったが、雨が降り止まず、それどころかだんだん激しくなってきたので、今回のCDショップ巡回訪問渋谷編は来週まで延期となってしまった。

 渋谷に行って安藤組に挨拶してくる(これは以前使ったネタだけど、安藤組って知らないよね。故大宅壮一をして”男の顔は履歴書”と言わせしめた人だがって、余計解らないか。ま、履歴書は自分を上手にアピールできるものを選ぶのが鉄則だとさりげなく訓練校の先生の受け売りを入れておく)と言う計画は翌週に流れたので、とりあえずソファにごろごろしながら先週買ってきたPFMの”ライブインジャパン2002”のDVDを見た。実は昨日夜更かししたのはこのDVDを見てたからなのだが、とにかく素晴らしいの一語に尽きる出来だ。

 なんせメンバーがステージに登場するところから、アンコールを終えて観客やスタッフにお礼を述べるところまでたっぷり2時間以上あるのだ。単に時間が長いだけじゃなく、演奏内容もメンバーそれぞれの頭と腹が如実に物語る時間と言う残酷なしかし誰にでも訪れる外観の変化にもかかわらず、いや外観の変化に正確に比例して円熟のプレイを見せてくれた。最初に聴いたのは多分高3の頃、74年と思うがその時の感動をまざまざと思い出した。

 僕は何故かマンティコアレーベルから出た2ndアルバムを最初に聞いたのだがA面の1曲目の混声合唱からB面ラストのちょっとジャズっぽいインストゥルメンタルの曲まで一気呵成に聴いた、というか少し大げさだが震えながら聴いた。とここまで書いて、アナログ時代だからA面、B面の楽しさがあったことも思い出した。

 つまりLPレコードなのでA面とB面があり、そのサイドごとに表現を変えるミュージシャンや各サイドにテーマを持たせて意識的なアルバム作りをするミュージシャンがいて、聞き手の側もココロして聞いてるところもあったのだ。たとえばA面の1曲目にはインパクトがありながらポップな曲(つまり印象に残る曲)を入れるとか、B面の1曲目にはそれまでと全く違った実験的な楽曲を入れるとか、書いていけばきりがないほどアルバムを聞かせる工夫やテクニックがあったのだ。CDの場合A面、B面というのがなく、言葉は悪いがノッペラボーなのでよほど強いインパクトがないとアルバムすべてを気に入ることは少ない(少なくとも僕の場合は)。こうやって考えてみると90年くらいから2003年くらいまでの僕の”音楽あんまり楽しくないよ、聴く音楽もないよ”時代もあながち年齢のせいで感性が鈍っていただけではなさそうだ。はっきりいってその期間はマイフェイバリットミュージシャン以外の情報は一切無視していたのだ。

 このほかにもアルバムジャケットの問題もあるが(CDのジャケットは小さすぎて見づらいのよ。老眼のせいちゃうでー。かといってアルバムサイズのデカジャケというのもなんかいじましい)、話がややまじめになってきたので今日のところは勘弁してやる(って誰に言うとんのや、おっさん)。話がそれたが、とにかくPFMのDVDは良かったってことです。

 その後続けて頭脳警察のDVDもセットしたのだが、途中から携帯やPCのメールチェックを始めたので集中できなかった。メールは久しぶりの人が多かったが『東京暮らしはいかがですか』とか『ブログちゃんと見てますよ』などの心温まるものが多かった。やっぱ人徳ですか?一番笑ったのはM島さんに”都会の絵の具に染まりつつある元青年から”とコメントして送信したら”染まらないで帰って~♪染まらないで帰って~♪”と返信が来た。いい年して『木綿のハンカチーフごっこ』をしてしまった。

 その後先日行ったPUBの女の子と友人と韓国料理のお店に行き、食事した。以前の記事でやたらきれいだと評価したお店のママさん(Bさん、軍事独裁政権時代の大統領と同じ姓)だったが今日見たら、疲れが溜まっていたのか、やせこけたアグネスチャンみたいで、それほどでもないことが判明した。その代わり新しく入った従業員の子や前回もいた従業員の子ははっきりいって美人であるとあえて言わせて頂く(そんなに力を入れなくてもいいが)。え、PUBの女の子?コメントは控えさせて頂こう。女性を外見や体型で比較したり、ましてや態度を変えるなどというのは人間として大変悲しいことです、と正論を言って逃亡する。

 えー、話がぐちゃぐちゃになってきたので今日はここでオックマーイ(我が家の長女が2,3歳くらいの時に絵本を読んであげた終わりに言っていた。多分、おしまいと言えなかったのだろうが、今では『馬鹿親父居る?』などと平気で言っている。このように時は残酷である。今日のタイトルとエンディングはザ・モッズの”バラッドをお前に”でした。)

こういうのを、竜頭蛇尾という。イベント編パートⅢ

 山口フジオ氏がバドワイザーと街中では目を合わせたくないタイプのお友達数人と、タダで会場に入った後は予想通り誰もホールには来なかった。ホールのキャパの半分以下の入りではあるが、それなりにバンドは熱い演奏を繰り広げていた。オープニングアクトはINUで、町田は独特のMCでごく一部の客を乗せていた。この時の演奏が気に入り(もちろんその後も様々なイベントやライブハウスで見たが)翌年のEVEはメインアクトとしてコンサートに招くことになる。射殺魔は流石落ち着いたライブで良かったのだが、マネージャーのM君に言わせると”愛して欲しい”のカウントの数え方が重苦しい、もっとSSみたいにカッコ良く決められないのかと検討課題が増えたステージだったらしい。

 残念だったのはスピードで独特の重さを持ったタイトな演奏だったが、ほとんどの客が次のP-Modelを早くみたいためにアンコールを求めなかった。したがってアンコール用の名曲”Boys I Love You"はついに学生会館ホールに流れなかったのである。楽屋をフォローしたサークルの女の子に後から聞いたのだが、ライブが始まる前から怖かったけど、終わったあとはもっと怖くて声もかけられなかったそうだ。そりゃそうだな。

 P-Modelはこの日まで僕はライブを見たことがなく、ファーストアルバムを聞いただけだったので、どんな演奏をするか正直不安があった。YMOなんかが出てきた頃で、テクノポップのバンドとして位置づけられており、ロッキング・オンには比較的好意的に書かれていたので大丈夫だろうとは思っていたが、1曲目の”サンシャインシティ”のイントロでその心配は吹っ飛んだ。レコードよりかなりハードでどちらかと言えばテクノバンドと言うよりパンクバンドと言ったほうが正しいと感じた。

 歌詞が結構辛らつと言うか、毒のあるものが多く大笑いしたのは”モモ色トリック”と言う曲の中でレコードでは『ユージさんにはわかるまい』と歌っていたところを、ずばり名指しで『K野Y二にゃわかるまい』と歌っていた事だ。ただこれも説明が必要だろう。当時11PMという深夜番組の草分けがあり、毎週金曜日は金曜イレブンと言って映画の紹介をしていた。そこにレギュラーで出ていたのがP-Modelに”アホのリノでも見に来るぜ”と歌われたKせRの(後に肉体派女優になりました)とK野Y二がコンビで紹介していたのだ。ま、このK野Y二さんはかわいそうな人で、ブライアン・フェリーからも”TOKYOジョー”とおちょくられたり、自業自得と言えばそれまでなのだが。

 アルバム未収録の曲も何曲かやり(それらは次のアルバム”ランドセル”にアレンジを変えて入っていたが)、アンコールにも応えてP-Modelのライブは終わった。楽屋での応対も良かったようで、世話をした女の子たちの全員がファンになった。その後関西ツアーに来るたびになるべく見に行くようにしていたが、一番びっくりしたのは確かその次の年、僕らの第2BOXと呼んでいた銀閣寺のライブハウス、サーカス&サーカスの時。最前席で見ていたら急に反対側の入り口のドアが開き悲鳴とも絶叫ともつかない声がした。リーダーの平沢氏が「何があったの」と客に聞いたら「デビッド・ボウイが来てる」との事。なんとお忍びで京都に来ていたボウイが日本のライブシーンを見にわざわざ来たらしい。演奏終了後ボウイが会ってくれたらしいが、後日『日本のバンドはオリジナリティが弱い、イーノやDEVOに似ている』と結構シビアなことを言われていた。

 さてコンサートも無事に終わり売上金の精算と収支報告をEVE実(学園祭の実行委員会)にするのだが、誰が馬鹿正直にするものか。予想より入場者は少なかったが、それでもある程度の売り上げは確保出来たので、バンドのギャラも気持ち増やして渡すことが出来た。経費を差っぴいた残りを折半だったか六四だったか忘れたがとにかくEVE実と分配する決まりだったので、ごまかせるところは目一杯ごまかしてサークルの裏金にしてやった。これを基金として翌年のオリテのコンサートやEVEのコンサートが出来たのだ。

 「いやぁ、僕自身(イベントで)儲けようという気は全くありませんから」と目がギョロっとして福耳で会見中に口を膨らます人物のようなことをその当時は良く言っていたが、正直に告白すると、その時の売り上げの一部でスタッフ一同パーっと飲みに行きました。ま、貧乏学生だったから大したところには行ってないけど。

”前夜”の続き、果たして”当夜”は来るのか…

 1日中断したのでどこから話せばいいかちょっと解らなくなって来た。そうそう79年の6月、学園祭のイベントにP-Modelを呼ぶことになった所からだった。理由は良く覚えていないのだが(本当はある程度覚えているが、ここに書くのはちょっとどうかなと思ったので)、その年の学園祭の目玉企画として予算も押さえる事が出来たし、何よりも自分たち自身の手でイベントをやることにサークルのメンバー全員が燃えていた。

 企画会議は段取りよく進み、イベント名は”前夜”と決まった。一部”武装蜂起前夜”などとカゲキなことを口走っていた連中もいたが(オレのことです。すいません)、「今の我々を取り巻く音楽状況は、いつ明けるとも知れない白夜のような状況である。悪しき商業主義に毒された、いや毒にも薬にもならない大衆迎合音楽としての商業ロックが我々の日常の至る所に侵食している。この状況はまさしく”前夜”であり、果たして夜明けは来るのか、我々が待ち望む夜明けはまだ来ないのではないか。いや、東京ロッカーズがそういった状況の中で…」みたいなでっち上げのアジテーションと共に僕たちは活動を開始した(こんなわけの解らない理屈付けは留年生の先輩にやらせておけばいいと、ほとんどのサークル員が思ったそうだ、今にして納得)。

 バンドとの出演交渉は例のM君に任せ、コンサートのポスターとチケットは広告研究会にいたT田君(彼は3号でつぶれたミニコミの同人だった)に頼み、モスグリーンを基本色とした立派なものが出来た。出演バンドは関西からINU(かの芥川賞作家、というより高校生の癖に僕からハイライトを貰い、体育の出席回数を心配していた印象が強い、町田町蔵の率いた伝説的なパンクバンド)、連続射殺魔(M君がマネージメントをしていた日本のアングラロックシーンの長老バンド)、そして関東からはスピード(沖縄出身じゃないよ、元村八分の青木真一のいたバンド)そしてP-Modelというラインナップであった。

 夏休み明けから情宣活動を本格的に行った。チケットは各プレイガイドに置かせてもらい(売れても売れなくても手数料を取るのだから、言わば親方日の丸の商売である、このイベントの清算の時は泣いた)、あちこちの大学近辺の喫茶店やレストラン、ライブハウス、ロック喫茶等を回ってポスター掲示やチケット販売の言わば営業をやった。これはミニコミをやってたので僕は全く抵抗なかったが、当時の1回生で身長は1.8メートル以上ありながら、一人で行って交渉して来いというと、8時20分の眉毛になり困惑する男もいた(sugarmountain君、君のことだよ。覚えているかね)。

 当時はメディアを利用すると言う考え方はなかったし、また自分たちで文化を創造するのだといった青臭い使命感に燃えていたので、仮にそういったチャンスがあっても乗らなかっただろう。チケットの売れ行きは芳しくなかった。当時電話は各サークルのBOXにはなく、4階は文連本部にあるだけだった。コンサート1ヶ月前からしょっちゅう文連本部でM君と「売れてないな」「いや最初はこんなもんやで」などと言っていたが、日にちが近づくにつれ「当日は行列が出来るで」とか「今、阪急のプレイガイドで団体客がチケットこうてるで」などと現実逃避の会話をするようになった。

 いよいよ当日である。1,000人キャパの学生会館ホールに400人くらいの入りだったか。熱狂的なロックファンがホールを二重にも三重にも占有するはず、だった。十何人かは関西でニューウェーブ系のライブがあると必ず顔を見かける連中がいた。こいつらが一人100人ずつツレを呼んでいたら、ホンマニ役にたたん糞パンクス共やと、僕は未練たらしく、最初のバンドの演奏が始まっても受付にいた。ふと人の気配がしたので見上げると、短めのドレッドヘアにギョロメ、色の黒い男の人がガラの悪そうなアンチャンを3,4人連れて僕の前にいた。

 「連れのバンドが出るんやけど、入ってもええやろ」手には缶入りバドワイザーを持ち、目は明らかにクスリをやっている感じだ(もちろんクスリと言っても正露丸やバッファリンではない、いわゆるドラッグだ、ちなみに僕のいたサークルはドラック)。

 僕はうなずいて、その明らかに公序良俗に異議申し立てしている人たちを無料で会場に入れた。「何でチケット持ってないやつ入れるんや、しかもビール持ち込んだやんか」情宣には何も協力しなかったくせに関係者面した文連役員のI出が言った。「フ、フ、フジオちゃんやー」裏返った声は僕。あの村八分のリードギタリスト、その後悪いクスリをやってパクられた山口フジオ氏であった。周りにいた何人かのロックファンの連中は口々に「サイン貰えば良かった」「でもサイン下さい言うたらどつかれそうやったで」とやや興奮気味。村八分というと閉鎖社会の悪しき因習だと思っているI出は何のことかわからない。ええざまや。

 さてパートⅡで終わるはずだったが、色々と楽しかったことや、チクショーあのやろうと忘れていたことなど次々に思い出したので、パートⅢに続く。しかしそれが明日のブログかどうかは、神のみが知る。ゴッドオンリーノウズやー。おっちゃん睡眠不足でおかしくなったんとちゃうか?!ちゃうちゃうって犬かー

また午前様かよ、それも素面で。

 今日は昨日の予告編のとおり、79年のP-Modelのコンサート企画の続編を書くつもりだった。が、夜8時47分シャワーを浴びて出てきたら携帯が鳴っている。出ると友人からで、今日は取引先と6時から会食だったが、早く終わり物足りないので付き合えとのことだった。「アホぬかせ、オレはこれからブログを書いて、PFMのDVDを見て寝るんじゃ」と言いたかったが、悲しいかな守ってくれる組合もない零細アルバイトとしては、雇用主の声は天の声、二つ返事で飛んでいきました(本音は、またブログのネタが拾える事を期待して)。

 出る前に携帯を見たらM野サンから近況を知らせるメールが届いていた。前に来たメールで電話での聞き間違いで失敗したことが書いてあったが、今回もまたちょっとしたミスをした模様。”気にすることはないぜ、みんなデタラメ”って言うのは遠藤ミチロウの歌の文句だが、ホント、そんなこと気にすることじゃない。ただ確認と復唱する癖がつけば解決するって。てなことは書かなかったが、返事のメールを打ったりしてたので友人と合流したのは9時をとっくに回っていた。

 前回行った韓国料理はやめておこうと言うことで、保谷の駅近くでスナックのあるところをうろついた。雑居ビルで飲み屋さんが10数件入っているところがあったが、看板といい、店の名前といい戦後焼け跡闇市派かと言いたくなるような感じだったのでパス。駅の歩道橋近くに1軒だけポツンとあったPUBに入った。

 結局ここで2時前まで飲んで(僕は健康的にウーロン茶と麦茶、でもチャンポンしたから二日酔いに…、なる筈がない)、歌い、お店の人たちと大いに盛り上がったのだが、友人が頼むからブログには書かないでくれと懇願するので、真に残念ながら割愛する。ただ次のエピソードは大丈夫だろう。

 昨日のブログでレコードコンサートのことを少し書いたが、多分今の人たちに言っても想像がつかないだろうなと考えていた。いまやみんな自宅にちょっとしたオーディオ機器(CDプレイヤーやMD、ラジカセなんか使っているのかな?)はあるし、外出する時も携帯や、ミュージックプレイヤー、iPodなんかで『個人』として音楽を楽しんでいる。しかしながら70年代後半では、自宅にオーディオはあっても下宿先やアパートにステレオなどを持っている人は決して多くはなかった。僕が所属していたサークルに入ってくる人の動機に「大音量で周りを気にせず音楽が聞きたい」と言った声も多かったのだ。

 それはさておき、そのお店で21歳の女の子と友人の会話で「今までプレーヤーがなかったのでアナログのレコードが聴けなかったけど、今日注文していたプレーヤーが届いてやっと聴けるようになった」と言った友人に対して、女の子が不思議そうな顔をしていた。多分プレーヤーと言う言葉が解らないのだろうと思い「蓄音機のことだよ」と右手をぐるぐる回すしぐさをしながら僕が解説した。「あー、蓄音機。知ってます。こう手で回して、レコードの上にものを落として聴くやつでしょ」と言うので、こいつマジだと思った僕が「蓄音機って冗談だよ、ステレオのプレーヤーって解らない?」と聞いた。

 「知ってます。昔、白と黒のブチの犬が耳を傾けて聞いてた音の出る機械ですよね」って、それが蓄音機じゃい!お前はビクターの回しモンかと突っ込もうかと思ったが、その後の話を聞いていると本当にステレオプレーヤーの存在を知らないし、理解できてないようだったので止めた。その時に昨日のレコードコンサートの話が解る人はある程度の年齢以上の人だったなと少し反省した次第でした。

 あー、やっぱり面白くないな。せっかく面白いネタと言うか友人の失敗談があるのだが、ま、今日はやめとこ。明日はちゃんとP-Modelのコンサートに至るまでの話、アップします(多分)。毎日の更新を形式として残すために、このブログの投稿時間を本当の日付より1日遅くしています(6月9日22時31分)。

前夜、前夜つったら前夜なの、当夜もある(予定)

2nd Album ”ランドセル”

 2,3日前に池袋で購入したCDやDVDの事を書いたが、実はその前にすでに、こちらに来て最初のCDを買っていた。それが6月1日の記事のタイトルになったP-Model(の”ランドセル”)である。1980年の作品だが、このアルバムはリリース直後すぐに購入した。なぜなら、前年の79年に同志社の今は無き学生会館ホールで、学園祭の目玉イベントとして彼らのコンサートを主催したからだ。

 当時僕が所属していたサークル(DRACというのは前に説明した)にとっておそらく初めての大きなイベントだった。それ以前はレコードコンサート―信じられるかな、広い教室をカーテンで暗くしてBOX(部室のこと)からプレーヤー(パイオニア、品番は失念)とアンプ(名器サンスイのAU-7900)とスピーカー(これがOBの人の手作りで重たいの何の)それに当然レコードを持ち込み、司会者が簡単な説明をしてただレコードをかけるだけのものなのだが、今ほどオーディオ機器が普及してなかったせいか少ないながらもお客さんはいたのだ。あるいは映画の上映などをオリテ(オリエンテーション、4月の進学・進級時期)期間やイブ(同志社の学園祭でメインは11月末の3日間だが、10月からイブ期間として色々な企画が行われる)期間に行った。

 ただレコードコンサートは問題なかったが、映画はそれなりの企画書(趣意書と言ったかな?)を立てて持っていかないと、許可が下りなかった。特に文化団体連盟という組織の傘下にいたので、そこのえらいさん達に気に入られるようにしないとイベントの許可を取ることは難しかった。ある時ビートルズの”イエローサブマリン”のフィルムが安くで借りられることを知り、大急ぎで企画書を提出したがすぐNGが出た。理由は何かよく解らないが、とにかくビートルズは××(ここにはある嫌われ者の党派の名前が入るのだが、大人の配慮で自主規制する)だからだめと言われ、企画した僕は文連(文化団体連盟のこと)のBOXに呼び出され始末書を書かされた覚えがある。

 あまりこういうことは書きたくないのだが、文連の実力者(というか権力者だな)のT井がストーンズファンだから横槍が入ったとの事だった。このレコードコンサートや映画の話は僕がまだ2回生の頃だから76年くらいの話。それから苦節3年、文連での立場も確固たるものを築き上げ、ついには東京からバンドを呼んでイブにライブを企画するようになったのだから大したものだ。もちろんその間には、人には言えない色々なことがあったのよ。この辺のことは一度整理してからブログに書くかどうか判断したい。

 さてそのイベントだが、当時5回生だった僕は、サークルで企画班のリーダーをしていた。ロックを聴くだけではなく、ミニコミを発行したり(これはサークルとは別にやっていたが見事に3号雑誌で終わってしまった)、イベントを企画したりと言えばカッコいいのだが、実際はセミプロのイベンターのパシリみたいなものだった。でも今考えると、マイナーではあったがいろんなミュージシャンにインタビューしたり、ライブハウスや女子大でDJ(言葉本来の意味のDJ。ディスクを回す間、ビデオを流す間にロックに関するコメントを喋るのだ)をやったりしてこのまま音楽に関わって生活できればと甘い夢を見ていた(もちろんそれは見事に”砕けては手のひらから落ちた”っとここはハマショーのパクリだ)。

 さて話は一気に79年の6月になるのだが、企画班の外部協力者だったM君(僕の1年後輩だったが残念ながら故人、合掌)と打ち合わせする中で、当時先見的なロックファンにはすでにカリスマになっていたリザードを京都に呼ぶ計画を練っていた。M君は2回生まではサークル員だったが、言葉も行動も尖っていてサークルのぬるま湯に収まるタイプではなかったが、何故かいつも僕たちと行動を共にしていた。彼が京都の連続射殺魔と言うバンドのマネージャーをやっていた関係でリザードを呼べそうだと言うのだ。

 結論から言うとリザードの話は流れたが、P-Modelというアルバムリリースもしていないが、確実に時代を変えるバンドがいると言う話を、M君からも又当時入り浸りだった銀閣寺のライブハウス、サーカス&サーカスのブッキングメーカーのO釜さん(長ったらしい説明だな、しかも匿名になってない、そのまま発音すれば名前が解る)からも聞き、じゃP-Modelを呼ぼうと決めた。一緒にスピード(おいおい、皆が知ってるスピードじゃないよ、Boys I Love Youのスピードだよって誰も知らないか)も呼ぶことが決定した。

 ここでこの話は休憩し次回に続く。予告編をしておきます。
※このライブ当日受付をしていた僕はチケットなしの客を入れてしまう。何故か?
※この話に唯一の有名人が次回登場か?
※バンドのギャラとEVE実(学祭実行委員会)への報告書に疑惑が、「決して儲けるつもりでやったんじゃない」とどこかで聞いたような言い訳が。
等、等。今だから明かす真実のレポートに注目せよ!!って、誰も読んでくれないかも…

昔の記憶で書いてます(ちょっと小林アキラ風)

 このFC2ブログのサーバーがおかしくなっていたみたいで、なかなか記事が書けなかったどころか管理画面に入れなかった。僕のブログの書き方は、とりあえず書ける所まで書いて一旦保存してその後書き続けるというパターンなのだが、今日は『昨日』と2文字書いただけで保存し、その時に”下書き”にしてなかったので、ブログ画面に昨日の文字だけがタイトルも無く不気味にアップされていたようだ。この書きかけの内容を公開してしまうチョンボはしょっちゅうやる。最近では”愉快な大冒険イン秋葉原”(嘘っぱちのタイトルです)の時にやってしまいsugarmountain氏に指摘されてしまった。

 さてこちらに出てきてから1週間が経過し、ようやく仕事にも少しずつ慣れてきたのだが、徒然草の高名の木登りの話ではないが、こう言う時が一番危ない。高名の木登りというのは以前国語の時間に習ったのだが、早い話、木登り名人のオジジが人を指図して高い木に登らせていたとき(普通に考えれば、現場作業が出来なくなったジジイが活きのいい若いモンの現場管理をしているといったところであろうか)、傍から見ても危険がいっぱいの時には何も言わず、作業が終わって、さあ降りようかという時に、まさに軒の高さ(飛び降りられるよな、若いモンなら)になった時に『注意して降りろ』と声をかけたてなお話。

 なんでやねん、危ない時は知らん振りで、セーフティゾーンに来たらイカにもわしも仕事しとるぞと、言わんばかりのデモンストレーションか、やらしいジジイやな。と思うのは素人の浅はかさ。やはり疑問に思った人がその理由を聞くと『失敗というのは簡単なところで犯すもの、誰が見ても危険なところは緊張するから失敗しないが、もう大丈夫と思った時に油断して皆失敗するんです』とおじいさんお答えになったそうな(ジジイからおじいさんへ評価アップ)。吉田兼好君の落ちは身分の低い者でもその道を極めた者の言うことには価値があるものだと言う、封建的身分制度万歳のコメントで締めている。

 とまあ、国語の時間の受け売りで例によって、文字数を稼いだが、今日危なく失敗しかけたのは、商品出荷の時に、サンプルと商品を最初は分けて置いていたのに、気を利かせて整理して(つまりごっちゃにして)商品を出荷しなければいけないところに、サンプルを混ぜてしまったのだ。作業の途中、入荷伝票をたまたま見たおかげで、気がついて事なきを得たが危ないところであった。もしそのまま出荷されていたらクレームブリンガー(こんな言葉があるかどうかは知らないが)になるとこだった。

 これと同じようなお話が、村上バンドじゃない、村上ブントでもない、村上ファンドであったようで。ドザエモンじゃなかった、オリエモンでもない、ホリエモンと一蓮托生というか一生刎頚の友として二度と社会の表舞台に出て来ないでと思うのはいけないことだろうか、いやそんなことは無い(こういうのを反語って習ったよね)。と何となく話がまとまらないのですが、これもサーバーが悪いせいと責任転嫁して今日はおしまい。そういえばこの責任転嫁をresponsibility rolling brideと見事な英訳をしたO原君は元気だろうか。

酔っ払いの話よりやっぱり音楽の話がしたい!

3rd Album

 一日遅れで昨日の活動結果を報告したい。こちらに来て最初の日曜日。もちろん狙いはCDショップ訪問である。ネットの普及のおかげで、地方に居ても欲しいCDは入手し易くなったが、やはり自分の足で店舗を回り気に入ったCDや掘り出し物を見つける楽しみは別格だ。今回は第1ラウンドということで、とりあえず池袋の駅周辺を回った。事前にネットで中古店と新譜のお店をセレクトして行った。中古はレコファン、ディスクユニオン、新譜は毎度おなじみのタワーレコードとHMV(結果的にはタワーレコードまでは行けなかった)。

 しかし日曜日の午後、池袋の東口に出て腰を抜かした。なんちゅう人の多さや、これでは自転車が通る隙間も無い。地図を携帯に転送していたのだが人ごみにまぎれて確認できない。適当に見当つけて歩き始め、まずレコファン池袋店を発見、突入、失望。期待したCDが全く無いし、単価も意外に安くない。『しゃーないな、ブクロもこんなもんか。渋谷まで足を伸ばすべきだったか』などと生意気なことを考えていたが、次のディスクユニオンで180℃態度を変える。

 まずDVDで頭脳警察のROOTS MUSICから出たスタジオライブ、確かこれは廃盤になったはず。アコースティックナンバー中心でインタビューも入っている。頭脳警察は大学に入った75年に解散ツアーで同志社に来たのだが、何故か見逃したという苦い記憶がある。その後パンタ&HAL時代にミニコミをやっていた関係で2回インタビューする機会があった。非常にミーハーなインタビューになったが、今でもその時のカセットは大事にしている(そういえば、その時マネージャーの石井氏の名刺をもらったが、彼もリタイアとの噂が)。DVDはもう1枚、こちらは新品だったがPFMの”LIVE IN JAPAN 2002"。昨年、かってのプログレバンドがマイブーム(あまり好きな言葉ではないが)になり、ちょうど紙ジャケットで再発になっていたので聞き直したが、やはり独特の個性のあるバンドだ。地中海サウンドを楽しませてもらおう。

 CDではキンクスの「ソープオペラ」、アルバムが昼メロ(昼間やっていたメロドラマ、今は死語)仕立てになっていて楽しめた。このアルバムで動詞+動名詞と動詞+不定詞の使い方が、高校で習ったのと違うことを学んだ。つまりstop to thinkは不定詞なので本来は考えるために止まるなのだが、このアルバムの曲では考えることを止めるの意味で使っていた。ほかにも9to5でお決まりの仕事という意味も学んだ。ロックも勉強になるのである。ただこんなことばかり勉強していると、大学を6年行った上に中退する羽目になる。

 それはさておき他のCDはニルソンの「サンドマン」眠りの精である。西洋では子供が眠くなるのは砂男(安部公房みたいだな)が目に砂をまくからだという言い伝えがあることを、「エミールと探偵たち」か何かで読んだ記憶がある。砂が目に入ったら痛くて眠れないではないかと子供心に思った。また日本で砂を撒くのはババアなのに、西洋はジジイかい、そんな事だから妖怪大戦争(キヨシローとヨースイがテーマソングを歌ったあれではない、本家「墓場の鬼太郎」のほうだ)になると日本の妖怪に勝てないのだなどと訳のわからない事を考えたりもした。あとはクラプトンの「安息の地を求めて」、前作が大ヒットしたので忘れ去られたアルバムだが、いいのである、少し地味なところが。最近の活躍ぶりはすごいが、個人的にはデレク&ドミノスから”NO REASON TO CRY"の頃までが一番好きなクラプトンだ。そういえば学生時代にボブ・マーレィの”NO WOMAN,NO CRY"のメロディに乗せて「のーりーずんとぅくらい、のー、りーずん、とぅ、くらい」と大声で歌っていた僕はアホそのものでした。

 そうこうする内にサンシャインシティの近くまで来て、偶然HMVを発見。エスカレーターで3階に突入。ミュージシャンの分類は多いのだが、このミュージシャンだったらこのCDというのが弱い。多少、食指が動いたものもあったが、今買わないという気は起きなかった。しかし神は見放してはいなかった。出る間際に目に入ったワゴンの中を探ってみると、何と欲しかったLOBOのベストが。70年代前半に結構ヒットを飛ばした人だが、何故かシンガーソングライターとしては過小評価されてるのではないか。これといったアルバムが無かったせいかもしれない。でも「僕と君のブー」とか”I'D LOVE YOU TO WANT ME"とか心に沁みるんですよ。BOOが犬の名前ということを教えてくれた人でもありました。それとサンタナのベスト。これはちょうどその日故松本勝男氏のことをメールに書いたのが頭に残っていて、急に「君に捧げるサンバ」が聴きたくなったのだ。 

 さて結構買うものも買ったし、腹も減るので2階のJ-POPのコーナーはパスしようかとも思ったが、もしかしたら下地勇のCDがあるかも、と思って入ったら…。ありました、ありました、写真の「開拓者」が1枚だけ。このブログの最初の記事がカンタローと下地のライブレポートから始まったのも何かの因縁かもしれないなどと考えながら、いそいそと保谷に帰り、早速CD聴いてみました。 

 えてしてライブを見た後のアルバムは失望することが多いのだが(やっぱり生には勝てないってこと)、いやーそんなことありません。ZUMI,ZUMIです(ズミ=宮古島方言で最高という意味)。知らなかったがカンタローが2曲参加している。言葉の意味は解らないが、熱い心とほとばしる感情が伝わってくる。音楽の魔法はすごい。下地勇のHPに試聴できるとこがあるので聴いて欲しい。ちょっと今までに居なかったタイプのミュージシャンじゃないだろうか。しかし同じ日本語を話すミュージシャンなのに歌詞カードを読まないと意味がわからないというのも凄い話ではある。

 ということで充実した半日でしたが、まだまだ探しているものは沢山ある。次の休みは一気に頂点の渋谷に行くか、でも安藤組がブイブイ言ってると聞くが…(いつの時代の話だよ!今の人たちは安藤昇そのものを知らないぞ、ということは花形敬も知らないのだろうか、ま、当然だな) 

酒とニンニクと国際交流と…

 今朝起きたのは10時30分である。立派に朝寝坊だが、前日の記事にも書いたように寝たのは午前3時30分くらい、しかも最初の3時間はソファの上で寝ていたのだ。予兆はあった。6/2に取引先の接待に出かけた友人がその日帰って来ず、翌朝チャイムとともに帰宅、いわゆる”朝帰り”である。あちこちに怪我はしてるし、メガネや鍵を入れていたバッグをなくし、ようやくマンションの入り口にはたどり着いたがオートロックのエントランスの所で力尽きそのまま寝込んでしまったらしい(土曜の朝である。何人かの入居者が彼の倒れている姿を見たに違いない。それを放置されたままというのは都会の人間の冷たさというより、彼がこのマンションでどのような評価をもらっているかを如実に物語っている。人間こうはなりたくないものである)。とにかく呂律は回らないわ、体はふらふらしてるわ、言ってる事は要領を得ないわで相手をするのも面倒だったのですぐ寝てもらった。間の悪いことにその日は彼の奥さんが来る日で(彼は今まで住んでいたマンションを事務所兼商品倉庫にして奥さん・子供は別のマンションに住まわせている。世間ではこういう状態を別居というが、本人は家族関係が新鮮でいいと楽天的というか能天気である)、10時過ぎに来られて僕がPCの前にいるのを見て驚いていた。もっと驚いていたのは旦那さんが布団に包まってうなっていたのを見たときだ。

 いったいどういうことかと目で訴えてきたのでここは男同士の友情、「彼は疲れて寝ているのであって、決して朝帰りで二日酔いなんかではない」ということを説明しようとしたが、生来の口下手のため上手くいえない。どうにも気まずかったので、昨日の記事のように”大泉学園”までの長く苦しい旅が始まったのだ。いや、この年で朝帰りする友人も友人だが、その苦しむ姿を見て即座に現実を理解する奥さんも奥さんである。今までに何度と無くこのような修羅場が繰り返されたのであろう。と、酒を飲まなくなった僕は気楽に考えていた。

 朝帰りの男はそれでも夕方から元気を取り戻し、晩飯を食いに行こうと誘われた。近くに美味しい韓国料理店があるというのだ。7時30分くらいにその店に着いた。まだ新しくて(今年の1月にオープンしたとのこと)従業員もみんな韓国の方で、片言の日本語で熱心に説明してくれる。テーブル席と座敷とあり、掘り炬燵形式の座敷に座った。お客は他に2組でどちらも家族連れ、小さい子供連れであった。ふざけすぎたのか小さい子の一人が掘り炬燵に頭から突っ込んでしまった。ウェイターのお兄さんは「哀号」と叫ぶやすぐ飛んで行ってケアしていた。こういう対応も気持ちが良かったし、何といっても給仕してくれる女性が目がキツメの美人で、その上料理も美味しかったので言う事なしだった。友人としゃべりながら食べているうちに、僕の配偶者に友人が電話して元気でやってる旨話したのだが、この状況を間違えて伝えたらしく、下の子からこんなメールが来た。

件名;ざけてんヂャねぇヨ
M子(下の子の名前)だけどぉ、ちょ母が言ってたんですけど若い女といっしょてホント~。おめ~いい気になってんじゃね~!自分の頭かくにんしてからはしゃぐんだな…以下略


我が家は僕以外は女3人組で普段はお互い仲が悪いくせに、こういう時だけは一致団結する。

 そうこうする内に10時30分も過ぎ、そろそろ帰ってブログをと思っていたら友人がこの店のママさん(美人、もういいか。いい加減しつこい)に近くの飲み屋を紹介してもらいそこに行くことになった。最初は次の店にママさんが電話してくれると言ってたのだが、友人の名前が呼びにくかったのでそのまま一緒に連れて行ってくれた。いかにも場末のスナックで入ると同時に60過ぎのオジジとオババが興味深そうに目を向けてきた。

 そのうちカラオケが始まり、飲まない僕は適当にオジジ、オババの世代にあわせて荒木一郎などを歌っていたのだが、オババがやたらと絡んでくる。友人はこういう人の相手が得意なので任せていると、オババがやたら馬鹿、馬鹿言い始めると隣のオジジが激怒して「馬鹿という人間が馬鹿だ」と至極当たり前だがおよそ成人した大人が言う言葉では無い様な事を言い始めた。一旦は収まったのだが、30分もしないうちにオババが店のマスターが止めるのも聞かず、再度馬鹿馬鹿言い始めついにプッツンした(死語、もはや死語か)オジジがオババの胸倉を掴んで「てめぇは出て行け」とか「もういっぺん言ってみろ、お前がどんな人間か知らないが、人には言って良いことと悪いことがある」などとちょっとした修羅場が始まった。

 店のマスターが何とか間を取り持ち(友人もかなりフォローした)、やっとオジジは帰ったが、どう考えてもこのオババがイカン。暴言壁のある危険人物と見た。ただ店のマスターもましてやママは何も言えない所を見るとよっぽどお金持ちか危ない関係か(これは無いな)。1時回っていい加減帰りたくなり、その旨を友人に伝えると、焼肉屋のママさんがまだ来てないとか訳のわからない事を言い出した。マスターが気を利かせてさっきの韓国料理店に電話するようママに指示した。「もうあの店終わってるからママいないと思うよ」

 「コンバンワ」来た。韓国美人だ(いい加減くどい)。美人のママさんと「哀号」のお兄さん(この人は本当にママさんのお兄さんとのこと、そういえば顔が良く似ていて美男、美女である)、それに居酒屋を経営しているという鹿児島出身のおっさん、この3人と合流して大いに盛り上がる。ママさんが隣に座っていろいろ話しかけてくるのだが、日本語が片言なのと時々韓国語が混じるのでうまく話が続かない。名前を聞かれたので教えると「drac-obさんは××か?」と聞く。聞き取れないので何度か聞きなおすと、あちらの言葉で「drac-obさんは私たちの国の人か?」と聞いていたようだ。確かに僕の本名はあちらの人の苗字に一部使われている。「遠い先祖はどうかわからんが、とりあえず違うと思う」と答えたらさびしそうな顔をしていた。しまった。そうだソウルは明洞の生まれだぐらい言っておけばもてたかも知れんと思ったが後の祭りであった。

 「朝鮮語と韓国語は違うの、ねぇねぇ」おい、まだあの暴言オババがいたぞ。流石にマスターがすぐ間に入り、オババが家に帰るよう諭した。1時間くらい一緒に歌い、話し、楽しい時間をすごしたが、友人の酔い方がかなりひどくママさんからも「モウカエタホウガイイ、アルキダメヨ、タクシ、タクシ」と小声で言われる始末。僕がタクシーで帰るというと断固歩いて帰ると言い張るので、仕方なく歩いて店を出た。帰り道は彼しか知らないのだ。

 信号を渡って歩き出すと二人乗りの族のバイクがブイブイ言いながら反対方向から走ってきた。それをじっと見つめていた友人が一言。「やっつけるぞ」勘弁してくれ。やっつけられることはあっても、やっつけることは無理だと何回も説明して納得させた。歩いて10分位してまた友人が叫んだ。「この道はおかしい。こんなまっすぐな道は無い」まっすぐな道でさびしいという種田山頭火の句があったがそんな悠長なことは言ってられない。ここまで来て道が違ってたら泣くに泣けない。何とか記憶をたどり、あちこち彷徨ったが人間に備わっている帰巣本能のおかげで3時前には部屋に着いた。布団を引いて友人を寝かして、僕はブログを入力した。終わって寝ようとしたら、友人が僕の布団の上で寝ている。意識はもう無い。仕方ない。ソファで寝るか。

 以上が昨日のブログを入力中に予告した真実である。実はもっと凄まじい話があるのだが、書いているうちにこちらの気分が悪くなってきたのでもうやめる。この日友人はソフトボールの練習に11時から出かけたが気分が悪いと言って5分で帰ってきた。賢明な行動だったと思う。花の日曜日、すがすがしい気分でソフトボールの練習をしている場所に、酒とニンニクの臭いをばら撒きに行くことは決して賞賛される行為ではないのだから。

健康維持のための散歩だったが、結果的には。

 今朝は休日なので寝坊しようと決めていたが、結局いつもと変わらないくらいに目が覚めてしまった。もう一度寝ようとしたが、30分もしないうちに目が覚めるので起きてしまうことにした。まだ若かった頃『寝るのにも体力がいる』と年長者の人から聞き、『そんなことがあるものか、1日24時間いつでも寝られるぞ』と思っていたが間違いであったことに気づいた。

 さて午前中はのんびりTVを眺め村上ファンドもいよいよガサが入るか、などと野次馬気分でいたが、せっかくの休みなので少し散歩をすることにした。Yahoo!の地図でこの周辺をチェックしていたのだが、先日電車の窓からBOOK OFFの看板を見つけたのでその場所(大泉学園)に行ってみることにした。保谷の駅から歩き始め踏切を渡り、ひたすら歩くとすぐにバス停に”南大泉”の名称があり、先のほうには先日電車から見えた高層マンションが見える。あの辺りが大泉学園の駅の方面だと見当をつけて歩いていった。

 左手に神社の鳥居が見えてきたところで右カーブになり、そこから大泉学園の中心部につながっていた。最初駅方面の入り口が解らず通り過ぎたが、何とか引き返して駅に出た。何といっても交通手段はon footであるからして、早い話が歩きなのであっちうろうろ、こっちうろうろしてしまう。ようやく目指していたBOOK OFFを見つけて入ったが、特に収穫なし。お昼は途中の蕎麦屋で盛りそばを食べたのだが、つゆが辛かったのでのどが乾いてしょうがない。しょうがないのでセブンイレブンに入った。

 しかしコンビニで感心するのは日本全国店内レイアウトが一緒ということ。ここで入ったセブンイレブンも自宅のそれと商品配置が同じなので一瞬どこにいるのか解らなくなった。帰り道に来る時目印にした神社に寄ってみた。北野神社と書いてあり、木立や鳥居も立派で由緒あるような感じのところだ。入って右手に菅公千年祭記念の石碑があった。菅公とくれば学生服、などといってはばちが当たる。受験生に霊験あらたかな菅原道真公である。とりあえず手をすすぎお参りする。小銭が無かったので心の中で『気持ちだけです』と断りながら20円投入、さて今後の霊験が楽しみである。

 そうこうしている内に保谷に戻り、途中スーパーを見つけたので予備の靴下と下着類を購入。無事帰途に着いた。

 さて実はただいま6/4午前3時である。何故こんな時間にブログを書いているのか、心なしかニンニク臭いのは何故か、ふと面影をよぎる韓国美人は誰か、お楽しみは明日(正確には次回の)のブログだ。そうそう忘れないうちに皆さんに報告を。先日、コメントでご紹介したsawyer氏のブログに当ブログが紹介されています。ここです。

A Day In The Life In "保谷"or"練馬"

純情きらり 出演者

 慣れない環境のせいか疲れが溜まってたようで今朝は8時の目覚ましの音でやっと目が覚めた。肉体的に大して疲れる様な仕事はしてないが(バイト君だし)、それでも気持ちが張っていたようで精神的な疲労が重なって起きれなかったようだ。ここ保谷商品管理センター(僕が勝手にネーミングしたのだが)の朝は8時20分15分(最初20分と書いていましたが、雇用主からクレームが付いたので訂正します。6/6現在)の「純情きらり」から始まる。  

 僕の雇用主の友人はNHKの朝の連ドラを見ないと1日が始まらない、朝見落としたら昼の再放送を見て、ストーリーを把握すると言っていたが理解不能である。ちなみにいま”朝の連ドラ”を一度に変換したら”朝暖簾ドラ”と出てきて笑えた。朝暖簾とは何だろうか、それを「どら」と言って動かすのだろうか、それともマージャンの新ルールで特別な役が付くドラ牌であろうか、などと書いて行数を稼ぐ。

 今までNHKの朝の連続ドラマは続けて見たことがないので、かえって新鮮に見ることが出来る。もちろん学生時代や、朝が早い勤務をしていたときはたまにチラッと見たことはあったが、それらはあくまでも朝の時計代わり(音声が出る)に過ぎなかった。しかし主役の宮崎あおいは13.4歳くらいかと思っていたら、全然違っていた。まあ、どうでもいい話だが。コーヒーを飲みながら、主人公の宮崎あおいとその彼氏が、その周囲の善人たちが戦争に巻き込まれて人生が大きく変わっていく様子を眺めていた。

 そうこうするうちに9時になり仕事が始まる。まだこれと言って仕事らしい仕事もなく、今日は契約書の整理や、ちょっとした事務作業をやる。商品の検品や出荷であれば体を動かすので健康にもいいのだが(実際はマスクして作業しないと咳が出るが)、今日は出荷の予定は無いとのこと。DELLに注文していたパソコンが今日届いたので、その後はソフトのインストゥールで午前中が終わる。

 午後からそのパソコンを使って顧客リストの整理を頼まれたが、な・なんとExcelの使い方をかなり忘れている。PHONETIC関数を使って、ヨミガナを出したのはいいが、その後検出の方法で固まる(コンピュータが、ではない。僕自身が、だ)。結局自分の目で探したので、眼の筋肉が痛くなった。何のために学校で学んだのかよく解らない。しかしやっていくうちに少しずつ思い出すだろう。ジョンレノンも"Remember when you were young..."と歌ってるではないか。

 本日も友人は取引先と食事なので、夕飯を買いに駅前に出た。ここ保谷市は去年の悪名高き”平成の大合併”で西東京市になったばかりで、町のあちこちにぴかぴかの「西東京市」の看板が付けられている。ただ東京といっても23区内ではないし、埼玉に近いほうなので結構畑や緑があり落ち着いた雰囲気である。町もこじんまりしていて、5分ほど歩くともうお店など無く、アパートや一軒屋といった住宅街になる。

 昨日の夜はお蕎麦で済ましたので今日はご飯ものをと思ったが、作る元気も無かったので、スーパーでパックのお寿司とちょっとした惣菜(ここのメンチカツが昨日買って食べたらおいしかったのでまた今日も買ってしまった)を買って道路に出たら、電柱に看板がありそこには”練馬区”と書いてあった。練馬区といえば昔山上たつひこが大根を盗んで捕まったと言うデマが流行ったな、などとつぶやきながら帰途につくのであった。

 

オハヨウ、オハヨウいつまで続くの寂しいオハヨウ by P-Model

 昨日はsawyerさんやsugarmountainさんがこのブログに来られてちょっとびっくり。アドレスなどは僕が連絡していたので、驚く事はないのかもしれないが、それでも”お客様”というのは嬉しいものだ。頂いたコメントを読んで、その返事を書く時に、あーこのブログやってて良かったなと思うのだ。その気持ちをみんなと共有したくて、何度か「コメント投稿してよ」とお願いしたが、さすがはみなさん栄光ある元1月生。授業中にK屋敷先生やF田先生が何度呼びかけても、徹底して反応しなかった反骨精神はいまだ健在なりと言ったところか。

 さてここのところおちゃらけた内容しかアップしてなかったので、今日は少し真面目に行こう(どこまで行けるか自信はないし、またこのブログを読んでくれている人たちからブーイングが出そうだが、僕はこう見えても結構真面目なのだ。真面目が服を着て歩いている、ミスターシリアスなどと若い頃は呼ばれたものだ。誰も知らないからと言って過去をでっち上げるのは歴史の改ざんと言われます)。

 気を取り直して進めよう。こちらに来て最初に感じた違和感は、電車(公共交通機関といったほうが良いのか)に乗っているときの回りの人の様子だった。学生時代といっても今から約30年近く前だが、1ヶ月ほど東京に遊びに来た事があって、そのときも「東京の人はみんな電車の中で新聞読んでるな」と思ったのだが、今回、電車の中を見渡してみると、ヘッドホンをしている人、携帯を凝視している人、本や新聞を読んでいる人、携帯ゲームをやっている人、勿論これらの複合技もある。

 ヘッドホン(イアホン)で音楽を聴きながら本や雑誌を読むという技だ。まさか携帯でメールしながら新聞や雑誌を読んでる人はいない…事もないか。30年前もやっぱ都会の人は”コミュニケーションブレイクダウン”なんだなと思ったが、今回はもっと強烈なのだ。新聞や雑誌を読んでる人には話しかけにくいが、どうしても必要があれば何とか話せる、ような気がする。ヘッドホンの人や携帯(ゲームもメールも)の人には話しかける必要があっても我慢してしまう、ような気がする。

 どちらも僕の勝手な思い込みで、何も電車に乗ってまで他人に話しかける事もないじゃないかと考える人も多いと思う。ただ狭い空間内だからちょっとしたトラブルや行き違いは嫌でも起こりうる。足を踏んだ、身体が触れた、服のボタンが引っかかったetc,etc...こんな時「ごめんなさい」「スイマセンでした」「申し訳ない」などといったお詫びの言葉と「いえいえ」「大丈夫ですよ」「気にしないで」といったお返しの言葉があって人はコミュニケーションできるのだ。もっと簡単に言えば「おはよう」と言えば「おはよう」と返すのが人間なんだと言う事。

 昨日の電車の中のモニターでワンポイントの英会話レッスンをやっていた。僕らがスターに貰うサインは英語でautographといいsignは”標識”の意味だから間違わないでという内容だった。成るほど、それでサイン下さいは”Could you gimme your autograph?"と言うのかと納得したが、電車の中でニュースや情報番組やる必要あるの。そこまでして収集する、しなければならない情報って何の役に立つの。それよりちゃんと前見て挨拶しようぜ。

 群衆の中の孤独におびえる中年ロックおじさんの独り言でした。

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