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5月というにはあまりに暑く



そのくせ明け方はやたらと寒い日が続きますが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。ワタクシは先週ひいた風邪が完治しないというか、風邪の諸症状は緩和したのだが咳と痰が止まらない。特に夜、寝ている時の咳と痰が酷い。枕元にティッシュの箱とビニール袋を入れたゴミ箱が欠かせない。目が覚めると咳と痰、出た痰をティッシュで包んでゴミ箱に入れるという行為を何回繰り返すのか。気がつくと夜明けである。オレの人生の夜明けはまだ(by PANTA)なのだが、実人生では咳と痰で目が覚めると夜明けの日々。これは、もしや百日咳とか気管支喘息などの別の病気では無いかという疑惑の日々。

であるが、本日はロックバーの店番。先週も予定していたが、風邪で休んでしまった。今日は咳が出ないと全く問題無いので出てきました。出てきたらレコードプレーヤーの横にフェイセズと浅川マキとサン・ラという、まあ関係があるといえばあるが、無いと言えば無いレコードがある。スタッフの持ち込みである。本日、どのタイミングでどのレコードをかけるかが、元若手DJと呼ばれたワタクシの腕の見せ所。カップルが来たら「それはスポットライトではない」をぶちかましてやるかと、心の中で呟いた。



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今月初めての店番は



ジミー・クリフのライブなう。ミチロウの追悼でザ・スターリンのファーストとソノシートを持って来たけど、何となくその気分になれずメニー・リバース・トゥ・クロスやハーダー・ゼイ・カムなんかを聴いてる。円山の野音で田原さんやマス坊なんかと一緒に見たライブを思い出した。

しかし、ラストのシャボン玉はチンケだったな。ま、今夜は地震が来ない事を祈ろう。



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何にも思わずにここまで来たけれど、このまま許されるはずはないから

 しかし、あれはやはり何かの予兆だったのか。ノーテイでチーハクな我がポンニチ国民がやれ平成最後の日だ、令和元年だと大騒ぎしている間にミチロウは静かにこの世界から彼岸の国へと旅立って行った。

 僕はソフトバンクの携帯を長く使っているので、毎月期間限定のTポイントが貰える。ただ有効期限が一ヶ月なので、ついそのまま流してしまうことが多かった。先月メールで期間限定ポイントが失効するということと翌月分のポイントを加算しますというお知らせが来た。その他にもちょこちょこポイントが貯まっていたので何か買おうと考え、以前から欲しかった遠藤ミチロウ監督・主演の映画、『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』のDVDを註文した。2015年制作の映画なので、本来なら地元の映画館で大きなスクリーンと大音量で観たかったのだが、なんせ文化不毛のディープ・サウス・ザキミヤ。僕が観たい映画はまともに巡回することがない。『三里塚のイカロス』もいつになったら上映されるかと待ちわびて、いや待てど暮らせど上映の話は無いし、下手すると永久に来ないと判断してやはりDVDを購入した。もっとも若松プロの『止め俺』は観られたので、そう捨てたものじゃないか。いやいや、それでもミック・ロンソンの映画は無理だろうな。せいぜいがボへラかEC止まりだ。

2015.10.21

 DVDを註文したのが4月25日で、自宅に届いたのが28日。嬉しくてFBに『病気と闘っている遠藤ミチロウに連帯するために、DVD購入。ミチロウ、ゆっくりで良いから病に勝利し、もう一度ライブを見せてくれ』というコメントとともに写真をアップした。そして29日の夜にお酒を飲みながらじっくり鑑賞した。ミュージシャンとしてのミチロウと普段の遠藤さんちのミチロウ君の両方の顔が見られたことと、おまけについていたザ・スターリンの復活ライブも興味深く観ることが出来た。それなのに、実はDVDが届いた日にミチロウは既に亡くなっていたのだ。膠原病から少し回復しまたツアーを再開したと宮崎のライブハウスで話していたときから4年。今度は膵臓がんで入院し闘病生活を続けていたが、ついに力尽きてしまった。その訃報を知ったのは昨日、いや正確には今日の午前0時過ぎ、連休中お酒を飲み過ぎたので、今日はドライで寝ようとしたもののなかなか寝付けず、枕元のスマホを取り出してFBを開いたらPANTAがミチロウの死について投稿していた。あまりのことに目が冴えてしまい、何だか似たようなことを前に経験したなと振り返っていたら、清志郎の訃報もGW中だったことを思い出した。亡くなったのは4月25日だが発表を5月1日の未明にしたのはいかにもミチロウらしい。令和元年だと大騒ぎしている連中の頭の上から猫いらずをぶちまけてやったんだ。

 僕が遠藤ミチロウの名前を、正確にはザ・スターリンの名前を知ったのは1981年のことだった。その年の3月に6年在籍した大学を中退し、田舎に帰ってきた僕は、耕すべき田園も無いので、かといって家でゴロゴロできる身分でもないので、どこかに働き口は無いかと思案ロッポー。友人の父親のコネを使って市役所のバイトの仕事を得た。もっとも3ヶ月働いたら1ヶ月は休み。連続して働かせるとボーナスを出さないといけないとか組合がうるさいとか何だかよく分からないがそんな理由だった。もちろんアルバイトでずっと働くことは出来ないので、正社員としての仕事も探していたし、市役所や県庁の試験も受けろと親から言われていた。公務員なんかになる気はないと学生時代から口答えしていたが、中退して田舎に帰っていたので肩身が狭くハイハイと生返事していた。4月1日の初出勤日に気合を入れようと思い、自分の部屋のステレオでINUのアルバムをフルボリュームでかけたら母親が顔色を変えて飛び込んできた。いつまでも学生気分でいたら困る、隣近所の迷惑を考えろと、これはまあ当然の説教だ。しかしながら、こちらはこちらで今から薄汚れた資本主義社会に入っていくわけだから魂だけは染められないようにするつもりだったが、とりあえずその場もハイハイと言って役所に行った。心の中で頭脳警察の歌を口ずさみながら。もちろん♪ネクタイ締めて役所へ通えば、待つのは死んだ魚の目だけ、鼻水垂らしてグチグチ言う奴ぁ、犬小屋で残飯食べてりゃいいのさ~ってやつだ。

 その頃の話を以前書いたはずだと思って探してみたら見つかった。以下、コピペと記憶違いの部分を加筆訂正して入れておく。

> ミチロウと僕の最初の出会いは、いったいいつ頃だったか。ひとつはっきりしているのは、僕が大学を退学して地元に帰り、とりあえず堅気の仕事に就くためにアルバイトをしていた1981年の5月か6月くらいだと思う。それまでライブだ、イベントだ、あるいは集会だ、デモだと毎日大騒ぎだった学生時代とは打って変わって、南九州ローカルで変化も刺激もない毎日を過ごしている僕宛に届いた松原健君からの手紙だった。松原君は、今は鬼籍に入っており何度か拙blogでも故M原君と書いていたが、イニシャルで書くよりも実名で書いたほうが彼を知っている(知っていた)人からのアクセスがあるかもしれないと考えたことと、個人情報保護のためのイニシャルというのもちょっとオカシイ、個人情報は生存者の情報であるから、今後は彼についてはそのまま実名で書こうと思った次第だ。

スターリニズム

 その松原君からは、81年82年にかけてはちょくちょく電話を貰ったり、手紙のやり取りをしていたのだが、81年の初めの頃に来た手紙に、スターリンの『スターリニズム』とネオマティスの『No Chocolate』、後は射殺魔のレコードだったか、とにかく「借金してでも買って聴いたほうがいい」という文面と、それらのレコードの解説が彼独特の文体で書いてあった(ここは訂正。ネオマティスとポップ・ソング・ファクトリーと言って、もしかしたら僕もスタッフとして参加していたかもしれないPIL BOXというプライベート・ブランド所属のバンド、この2つはシングルで関西勢。ザ・スターリンはミニアルバムの『スターリニズム』)。正直、バイトでの収入はたかが知れているし、実家に食費も入れていて小遣いなんて雀の涙だったが、あの松原が勧めるのだから間違いはないだろうと思いお金を送ったら折り返しレコードが送ってきた。もちろん、どれも素晴らしいレコードで、ああ今頃関西のシーンはどうなっているんだろう、僕が一時期所属したPILBOXはどうなっているだろうとか、逆里心がついてしまい、ある日ついにそれまで通ってきた学校の校舎の白い壁に別れの歌刻み込んだり、窓ガラスをすべて叩き割って「留年からの卒業」などと絶叫したなどということはさらさらなくて、いかん、いつもの与太話に戻りそうなので再度巻き戻し。

 その松原君から送ってきたレコードは全て衝撃的で、それぞれの感想はあるものの、やはり一番驚いたのは、ザ・スターリンの『スターリニズム』だった。A面に針を落とすとシャリシャリという安っぽい音がしたかと思うと突然大音量で「ぶーたにしんじゅが、ぶーたにしんじゅが、のさーばってる~」とチープなバンドの音をバックに凶悪そうな歌声が響いた。歌詞は、当時の僕の屈折した心にまるで乾いたスポンジが水を吸収するように、一気に襲ってきた。「頭の上にマストを立てた学生どもには自殺入門書、傷つきやすいオジジやオババに永久不滅のホウレン草を!!」。なんだ、こいつらは、いやこの歌を歌っている男は。そして2曲目の「サル」である。「朕は××××」というモノローグから始まり、ものすごい歌詞が炸裂する。リフは「やり出したら止まらない、やり出したら止まらない」である。こいつらガイキチか?頭が半分真っ白になった(補足:歌詞カードには“天皇陛下 バンザイ!”としか印刷していない)。そのまま「コルホーズのタマネギ畑」である。ソフホーズとコルホーズ、ソ連の計画経済なんて社会科で習ったよな、などとぼんやり考えているうちにA面は終わっていた。

 大急ぎでレコードをひっくり返してB面を聴いた。「猟奇ハンター」は最初あまりピンと来なくて、何故かプガジャに連載していた川崎ゆきおのマンガを連想した。現実的には佐川一政の事件を連想させるとしてタイトル名を変えられたりもした。しかし、最初はあまり良く思わなかったその曲が、今では大好きな曲に変わっているから、感性というのは年齢によって随分変わるものだと思う。そして、問題の「スターリニスト」。おどろおどろしい歌詞から、演奏から展開されるイメージはミチロウのアジテーションで一気にボルテージが上がる。そして「増え続ける、増え続ける、増え続ける、増え続ける…」と煽っていき、最後は本当にあっという間に終わってしまう。これは強烈なインパクトがありました。このアジの部分を一生懸命ヒアリングして、後年入社したJEPという会社の全社員参加のグァム旅行の余興のステージで、九州を代表して僕はこのアジをぶちかました。一部の社員には大変受けたが、直属の上司は始末書を書かされたらしい。T岡さん、スイマセンでした。若気の至りです。

 この衝撃的なミニアルバムを購入後、アルバム『STOP JAP』を始めとして、一連のアルバムを購入し続けた。ザ・スターリンが解散する85年までの間というのは、僕が堅気の会社に入ってシホン主義のなんたるかをぶち込まれている時期で、ちょうど関東への出向時期とも重なっていて、毎日会社で説教食らい、仕事の何たるかを叩きこまれつつ、それでもオレは金のために体は売っても心は売らないぞと、思うそのバランスを取るために毎晩ウォークマンでミチロウの歌をフルボリュームで聴いていたのだ。当時の枕にはオレの涙とウォークマンのヘッドホンの痕がしっかり残っている(嘘だけど)。

 以上でコピペ終了。

 81年の欝々とした気分をミニ・アルバム、『スターリニズム』で発散させてもらった僕は82年に最初の会社に入社する。学校周りの視聴覚機器の販売と企画と騙されて入社した会社はカメラやコピーでおなじみのリコーが昭和40年代に大ヒットさせたマイ・ティーチャーという教材を訪問販売で一般家庭に売る会社だった。いわゆるセールスマンだね、最初はグループセールスと言って興味を持ちそうなお客さんを各家庭一軒一軒回ってアポを取るアポインターと商品説明(デモンストレーション、略してデモ)と契約締結(クロージング)をするクローザーと役割分担したグループセールスを経験し、その後は単独の飛び込みセールスもやった。いきなり子供の教材は要りませんかというセールスなのでけんもほろろにドアを閉められたり、居留守使われたり、ドア越しに要りません、しつこいと警察呼びますよ等さんざん断られると大きな声で♪手を引く優しいおふくろどもに頭の上から猫いらずを~などと歌ってストレス発散した。

 その会社の本社は当時は茨城県の水戸市にあった。市役所の隣のビルだった。九州の営業は甘いと社長と営業部長の鶴の一声で関東への長期出張が決まった。いままでは会社の寮に住んでいたが週末だけは自宅に帰れたのでレコードを聴く時間があったが、今度は関東の寮に入るからステレオがあるかどうかも分からない。水戸の寮にはステレオが無かったが、その時の仕事は水戸、下館、そして埼玉の大宮を1か月くらいずつ移動していくシート追註時期だった(業界用語で分かりにくいが、要は学年教材の切り替え時期だった)。大宮にはステレオがあったので、休日を利用してまずはメジャー・ファーストである『Stop Jap』を購入し、カセットに録音。最初のボーナスで買ったウォークマンで何十回、いや何百回聴いたことか。1曲目の「ロマンチスト」のイントロ聴いただけで脳天に衝撃が響いた。あのアルバムは全て名曲ぞろいだが、最初に好きになったのは「欲情」、「MONEY」、「MISER」などだ。あ、おまけについていたソノシートの「肉」も大好きで繰り返し聴いたものだ。しかし一番驚いたのは「ワルシャワの幻想」だった。不気味なサイレンの音、低重音のベース、そしてミチロウの叫び。歌詞を聴いて再度ぶっ飛び。INUのアルバムに「メシ食うな」という歌があるが、ミチロウは延々と「メシ食わせろ」と叫び続ける。後年、町田の「メシ食うな」に感動してミチロウが作った歌だと知ったが、アンサーソングというにはあまりにへヴィだ。まさにプロレタリア革命前の人民の叫びのようだった。

Stop Jap

 ファーストを繰り返して聴いていたが、実はザ・スターリンにはアルバム未収録のシングルがあることを知り、日曜を利用して大宮のレコード店で「アレルギー/No Fun」を購入。アレルギーはアルバム収録曲だがテイクが別。No Funはピストルズもコピーしたパンクの古典。しかしミチロウの紡ぐ言葉はナイフの様に突き刺さった。そして、その次のシングルはなんと12インチシングル。さらに驚いたのはB面の「先天性労働者」の歌詞。マルクスの「共産党宣言」から引用しているじゃないか。頭脳警察の「世界革命戦争宣言」は共産同赤軍派の宣言を「囁くように呟くようにやろう」と決めたものの、いざステージの上がるとアジテーションの絶叫になったというのは知る人ぞ知る話だが、こちらの古典的作品のミチロウの叫びは鋭い。最後のほうで「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。今日までのあらゆる階級闘争の歴史は敗北の歴史である」という部分は何度もかみしめた。労働組合も無いセールス会社で1日16時間働き詰めの自分の境遇を考えながら聴いていた。まあ、正直な話、当時の労働運動は賃上げ闘争ばかりで全く興味も関心も持ち得なかった。てめえらの給料上げるためには第三世界の人民の血と汗が流れることに気が付かないのかなどと毒づいて、一人仕事終わりの寮の布団の中でウォークマン聴くのが精いっぱいだった。

 メジャーでの次のアルバムは『虫』。鞍馬天狗の絵がレコードにある、いわゆるピクチャーレコードだった。とにかくこのミチロウという人は発想がユニークで、企画もとてつもない。顧客サービスの鬼でいろんなことをやってくれる。多分この頃だと思うが『イヤだと言っても愛してやるぜ』とかいうタイトルでムック本を出した。その中で売れないころは(いや、ザ・スターリンでデビューしたころも売れなかったと書いてあったが)、ビニ本のモデルのバイトで生き延びたという記述があった。ビニ本モデル、ええやん、なりたいわ~などというのはトーシロの考えで目の前にぶら下げられた人参をただ見ているだけ。蛇の生殺しそのもので、このバイトを経験してから女性の裸に不感症になったなんてことが書いてあったな。またザ・スターリン解散後だったか宝島からカセットブックを出したりした。これ当時は異才と言われていた蛭子能収のマンガが付いているが、グロテスクそのもので後年のバス旅などで性格は悪いが人間は良さそうな蛭子さんもこういう時代があったんだとちょっと感動させる。そのカセットブックにはパンク版「青ゲバと落し」ちがう「仰げば尊し」も収録されて、これは確か滝田修に捧げられていた。「お前の犬になる」は田名角栄に捧げられていたかな。さらにING-Oというミニコミ?やビデオ・スターリンといってレコードやソノシートではなくバンドの音源をビデオで出すなど当時としては考えられないような活動だった。

ベトナム伝説

 『虫』はジャケットのきらびやかさと反比例して音は非常に重たい。それ以前にあったグロテスク・ニュー・ポップという、その後、ミチロウのソロ活動のテーマになるようななんというのか変態的な明るさは影を潜め、ひたすら精神の内面に語りかけてくるようなアルバムだった。「365」や「天プラ」とか「アザラシ」のように聴きやすい曲もあるが、とにかく繰り返して聴くのはちょっとしんどいレコードだった。しかし、九州と関東を行き来しながらセールスの仕事をしていた、そうそうその頃はだんだんクレーム処理も任されるようになった僕にはコンスタントにアルバムを出してくれるミチロウはありがたかった。ちょうどPANTAがスィート路線だった頃と重なるので、自分の精神のバランスを撮るためにはザ・スターリンの音が、ミチロウの歌と叫びが必要だった。ロッキングオンから「バターになりたい」という対談本を出したのはこの後くらいか。吉本隆明を尊敬しているミチロウなので、対談の口調が柔らかく、何だこれと思ったが、後年、ライブのMCを聴いて実に人間の出来た方だと知った。しかし当時は鶏の首をはねたり、ステージで全裸になり客の女の子にフェ×チオさせたり、豚の首を振り回していたので、想像がつかなかった。

 メジャー3作目、バンドとして通算4作目の『Fish Inn』は通販で予約して購入した。もともとそういうシステムだったのと、その時は下館市にあったディーラーの会社に出向していたので受け取りをその事務所にして居た。事務員にちょっとカワイイ女の子がいたので、その子に近日中に僕あてにちょっとした荷物が届くので預かってくれと頼んだ。仕事から帰ると、その子が興味深そうにブツを出してきていったい何だと聴いてきた。今、一番大好きなバンドのレコードだと説明したら、聴き飽きたら貸してほしいという。ちょっとした下心もあったので、そのレコード全曲と予約特典のソノシート「バキューム」と「解剖室」をカセットに録音して翌日貸してあげたら、その翌日蒼い顔して返してきた。それ以来朝晩の挨拶以外は口をきいてくれなくなった。このアルバムは「バイバイ・ニーチェ」となんといっても「アクマデ憐レム歌」だろう。むろんメロディはストーンズのシンパシー・フォー・ザ・デビルだが、いきなり♪お袋の肉は不味いぞ、脂肪が厚くて噛みきれ無いのさ~と始まる。こんな歌を喜んで聴いている人間とは「付き合いたくない」のは当然か(笑)。

 などと思い出を書いていくと、僕の労働履歴がすべて分かってしまうのだが、この続きはまた改めて書きたい。しかし、今回のミチロウの訃報を知って自分の持っているアナログ、CD、DVDなどを調べてみたら結構あった。以下、忘れないために列記しておく。

ザ・スターリン~『Stop Jap』(アナログ、CD)、『虫』、『Fish Inn』(アナログ)、『For Never』(アナログ、DVD)、シングルで「アレルギー」、「GO GO スターリン」(アナログ)、ミニアルバム『スターリニズム』(アナログ、CD)

スターリン~『JOY』、『STALIN』、『殺菌バリケード』(CD)

遠藤ミチロウ~『ベトナム伝説』(カセット)、『THE END』(アナログ、CD)、Get The Help名義で『オデッセイ・1985・SEX』、『アメユジュトテチテケンジャ』、『GET THE HELP!』、『破産』、『TERMINAL』(アナログ)、『50 (HALF)』、『羊歯明神』(CD)

映画~『爆裂都市』、『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』(DVD)

去年と今年のジャズデイ反省日記

 そうだな、どこから話を始めたらいいのか。昨年の打ち上げのところから書き始めたほうがいいのか、もう今年に入ってからの方がいいか。ちょっと思案橋ブルースだ。とりあえず、昨年のジャズデイの話はどんなことを書いたかとFC2で探してみたが、何もなかった。え、そんなはずはないだろ。『空飛ぶ冷やし中華』を持って行って、山下主席にサインを貰ったことを写真と一緒にアップしたぞ…。これがSNSの落とし穴なんだな、ブログのエントリーに書く前に、ちょっとした話と写真をアップすると、即座に「イイネ」が付いたり、コメントが付いたりするので、なんとなくそれですべてが終わった気がする、まるでエントリーを1本書いたような気がするが、後から振り返ると何も残っていない(いや、もちろん、それぞれのSNSで過去ログを読めるが、同時進行のネタが次々上がるので、もう半年前の事だって振り返ったりしない)。

 そうか、去年のジャズデイの総括もせずに今年の話を書くと鬼が笑う、違うか。まあ、去年のイベントをざっと振り返り、それから今年の総括と行こう、と考えて、とりあえず去年の4月のエントリーとFBやインスタの過去ログ探したが、なんとジャズデイの打ち上げの写真と、その直前のストリート音楽祭、またストリート・ピアノとゴスペルシンガーの写真程度しかない。あ、あと真空管アンプの会のレコードコンサートか。うーむ、記憶には限界があるので、とにかく昨年の4月30日の記憶を辿ってみる。

2018年 レコードコンサート

 まず覚えているのは会場の市民文化ホールに9時半過ぎに入ったこと。音響関係者は8時半から準備開始だが、金と力の無いことで有名なワタクシ(もちろん色男は金と力が無い。だからと言って金と力が無い奴は全て色男かというとそうではない。ギャグは必ずしも真ならず、というやつだ)、ゆっくり楽屋に入ったのだ。それから午前中は簡単な打ち合わせと会場準備。ホワイエにポスターやパネル、その他もろもろのジャズデイに関する資料を展示した。午後はイベントのパンフレットにホール主催のイベントのリーフやアンケート用紙の挟みこみ。1800部くらいあるので小一時間、汗を流しながら準備する。洋輔さんの所属事務所であるJAM RICEからセットリストが来ていたので、楽屋に掲示。3曲目が「アイ・リメンバー・クリフォード」であることを確認。今回は残念ながら「幻燈辻馬車」は入っていないが、大好きな「グルーヴィン・パレード」と変則リズムの「クルディッシュ・ダンス」がラス前、オーラス連荘であることを確認。今年も会場警備をするが、3曲目と6,7曲目は絶対客席で聴くのだと心に誓う。

 午後3時半くらいに最終のスタッフ・ミーティング。実行委員以外にボランティアで協力してくれる人たち、学生バイトだがこの手のイベント警備は手慣れた若者たち、総勢30数名で1,000人からのお客様の相手するのだ。その前の年は4月の終わりだというのに初夏に近い暑さで、開場を待っているお客さんから苦情が出た。今年は開場待ちのお客さんの案内は4人のバイト君に任せたが、特段の苦情も無くスムーズに誘導する。僕は指定席と自由席の間に場所を取り、入ってきたお客さんに備える。こちらも間違って指定席に座っているお客さんを自由席に移動してもらったりしたが、スムーズな対応が出来たと思う。都城の小中学生の吹奏楽部員、そして第一回から参加している宮崎市の既に高校生になった子たちの演奏が始まり、そこから先はあっという間だった。途中、楽屋に戻り弁当を食べて楽しみにしていた類家さんのトランペットと山下カルテットの演奏を客席の床に座りこんで聴けたのは幸いだった。

 イベントが終わり、サイン会も終わり、楽屋の荷物も片づけて、いったん自宅に帰って打ち上げ会場のR亭に向かった。30人で満席の小さなお店だが食べ物も飲み物も美味しい。僕はとにかく疲労困憊していて、最初の30分ほどは黙ってビールを飲むだけだった。しかし、お酒は力水とはよく言ったものでだんだん力が蘇ってきて、ミュージシャンの座っていた席に乱入し手当たり次第に話しかけた。先ずはドラムの小笠原拓海だ。宮里陽太を山下達郎に推薦してくれた恩人だ。普段は人見知りして知らない人とは挨拶もロクにできない僕だが(誰だ、笑っているやつぁ。本当にそうなの。他人と話すときは清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちなの)、ビールの勢いを借りて「宮崎の心あるジャズファンは小笠原拓海に足を向けて眠れない」と叫んだ。当の小笠原さんはなんのこっちゃ、このオッサンは何やという顔でこちらを見る。陽太をよくぞ達郎に推薦してくれたということを延々と話していたら、「僕が推薦しなくても彼のサックスは必ず達郎さんが気に入ったと思う」などと謙虚なお言葉。嬉しくなって写真を撮り、配偶者のスマホに送ったら、もう一人イケメンがいるから写真を撮れと返信メールが届いた。類家さんに無理やり頼んで写真を撮る。

類家新平+山下洋輔

 その頃にはもうかなり出来上がっていたが、いやいや何の。山下御大と話をせねば、何しに来たのか、この俺は。で、ゆっくりしている山下さんに実は大学時代に阪急電車に乗るときの暇つぶしで買った本がワタクシの人生をある意味決定したとこれまた訳の分からない話をする。キョトンとした顔の山下さんの前に取りだしたのが、あの『空飛ぶ冷やし中華』である。「うわー、こんな本をまだ持っていたの?」と呆れられる。いやいや平岡正明、伊達政保の過激派理論で武装しておりましたと自己申告しサインをお願いする。さらに厚かましく写真もお願いしたが、山下さんガイキチに刃物という目つきでこちらを見て、いやいや、優しい笑顔でこちらを見て写真に写ってくれた。そこからどうやって家に帰ったのか。R亭を出たときに、どなたかのスキャンダルシーンを見たような気がするが、今は定かではない。

 てなことがあって、また1年が経過した。ただ単に経過しただけではなく、昨年のジャズデイの反省などを月1回の実行委員会で討議を重ねながら、2019年のジャズデイをどうするかと建設的な話もしたのだが、なんとワタクシ、昨年の7月の小林万里子ライブ・イン・ザキミヤが終了したとたん大腸に異常が発見され8月1日から緊急入院。そして3日には開腹手術。その後2週間以上の入院を経験し、おかげさまで腫瘍は良性だったのだが、8月から11月までは実行委員会はパス。健康回復に努めた。そして年末から復帰し明けて新年の1月には寺久保エレナ・カルテットのライブをジャズデイのプレイベントとして行った。当日はやはりスタッフとして参加、このカルテットのピアノの片倉真由子とドラムの高橋信之介は、大学の同窓で今はいぶし銀のジャズギターを弾く井上智のバンドのメンバーでもあるので、その辺の話をライブの合間に出来ればと思っていたが、そうは問屋が卸さない。バタバタしてあっという間にライブは終わって、後片付け。もっともお客さん用に準備していた輸入物のビールがかなり余ったので、どさくさまぎれに手土産とさせてもらった。瓶からラッパのみするビールが旨かった。

寺久保エレナ・カルテット

 で、いよいよ本番の今年のジャズデイだが、毎年会場として使っている市民文化ホールが改修工事のため今年は使えない。仕方ないのでメディキット県民文化センター、ま、僕たちは県劇ホールと呼んでいるクラシック専門のコンサート・ホールで行うことになった。しかし、このホールは宮崎国際音楽祭のメインホールなので、ジャズデイ当日の4月30日は会場が開いていない。仕方ないので14日の日曜日にイベントを行うことになった。例年より2週間以上も早い開催なのでとにかく月日の過ぎるのが早くあっという間に当日を迎えた。当日は8時半集合だったが、ちょっとした野暮用があったので9時半過ぎにホールに着いた。楽屋が分からずウロウロしたが、何とか裏手の楽屋入り口を発見。ここやここやと入っていったら、やたら黒のスーツで決めたお兄さんたちがいる。よく見ると本日別の会場で予定されている小堺一幾のトークショウのスタッフだった。慌ててそこを出てジャズデイの楽屋に入った。

 かなり広い楽屋で窓が全開だったので寒い。4月中旬だというのに、曇天模様だったせいもあってトレーナーを脱げない。ケータリングの飲食物が車で届いたので運んだり、なんだかんだ雑用をしているうちに都城の子供達がやってきて通路が賑やかになる。午前中の内に早弁して午後の準備に備えるが、だんだん雨模様になり客足が心配になる。ホールは2階が入り口になるので、指定席用と自由席用の通路を作り、それが終わったらプログラムに県劇のイベント用リーフを挟みこむ。今年はアンケート用紙が付いてないので、かなり楽。ある程度準備も済んだので、また楽屋に戻りコーヒーを飲んだ。人間というのは水分を吸収すると、それを排泄したくなるというのは自然の摂理である。ためらわずトイレに行ったら、用を済ませて出てきた人とぶつかりそうになった。大きな人だなと見上げると本田珠也さんだ。思わず「ZEKのセカンド発売おめでとうございます。なるべく早く宮崎に来てください」と話かける。にっこり笑って頷いてくれたので図に乗って「またZEKの黒ヘル被っていきますから」と付け加えると大笑いしながらトイレから出ていった。そうなのだ、もう4年ほど前になるがZEK3のライブのステージに黒旗が掲げられているのをFBで見て、これは我がザキミヤに来たときに何かせねばと思い、以前の仕事で使っていた工事用ヘルメットにマスキングテープでZEKの文字を作って貼りつけ、その上から黒のラッカーを吹きつけて即席黒ヘルを作った。それを持ってライブハウスに行ったら、一番喜んでくれたのがタマヤさんだった。おっと話が脱線した。

 JAM RICEの松村さんから本日のセットリストを10枚ほどコピーしてほしいと頼まれた。見ると今回も「アイ・リメンバー・クリフォード」が3曲目や。寺久保エレナがゲストなので山下さん作曲の「ノース・バード」もやるし、以前からのレパートリーである「キアズマ」も入っている。しかし、山下カルテットのリハの音を、いろいろな人の喧騒や様々な雑音がする楽屋で聴いていると、なんとなくこれがジャズだなという感じがする。ジャズデイ当日が例年より2週間以上早くなったこともあるが、開演時間も16時からと、いつもより1時間早い。最終のスタッフミーティングをして現場での割り振りを再確認。僕は昨年に引き続き会場内の整理担当。A席とS席、自由席の区分けが少しわかりにくいのでポケットに座席表と超小型の懐中電灯を入れて準備OKだ。開場も時間通りに始まった。

 このホールは中央真上にパイプオルガンが設置されていて、1階の座席、左右の2階、3階、4階と続く。1階の1列目から19列目が指定席で自由席は20列目以降と2階。3,4階は使わないという段取りだった。早い時間から入ってくるお客さんは自由席の人がほとんどなので、声をかけておかないと指定席に座ってしまう。「20列目以降が指定席です」と何回叫んだだろうか。最初は出足が鈍く、これで会場が埋まるか不安だったがパイプオルガンの模範演奏(サプライズ企画として準備していたのだ)が始まるころには何とか格好がついた。開場のベルが鳴り都城の子供たちと山下洋輔以下プロのミュージシャンがステージに登場した。1曲目はバド・パウエルの「クレオパトラの夢」だ。そこから子供達の演奏が終わり、山下カルテットが登場し待ちわびていた「アイ・リメンバー・クリフォード」までをA席の前から6列目あたりで座って聴けたのは幸いだった。

県劇ホール

 そこからいったん楽屋に戻り、夜の弁当を食べて、差し入れでいただいた筍料理などをつまんでいたら、あっという間に終盤になる。急いで会場に戻ったら、演奏を終えた都城の小学生の子らが数名、トイレにでも行っていたのか会場に戻れないでいた。ドア係のバイト君から演奏中は入れませんと言われたが、「もうアンコールだ。これで最後だから構わない」と言って子供達を会場にいれて、どさくさまぎれに僕も入った。しかし、このジャズデイ、1回目から4回目までは客として参加し、5回目からは実行委員として参加したのでじっくり演奏を聴けなかったが、過去最高の演奏だったのではないか。これは演奏が終わって会場を去っていくお客様から言われた。「最高だった」「素晴らしかった」「いいコンサートでした」などなど、これまでの1年間の努力(まあ、大してしていないけどな)が報われる瞬間だ。お客さんが引けた会場内の忘れ物チェックを終わらせ、ホワイエに行くとサイン会が大盛況。販売担当の某ツタヤのお兄さんが大きな声で呼びかけしてコンサート後のお客さんを捕まえていた。

 その中で母子の親子連れが「ファースト・ブリッジが収録されているCDはどれか」と尋ねていた。某ツタヤのお兄さんも分からないようで2人でぼそぼそ話している。「まさか演奏した山下さんに聞くのも失礼だよな」と困っていたので、その場でスマホで調べて『PICASSO』と『クレッシェンド』に入っていることを教えてあげた。子供の顔に見覚えがあった。先日のストリート・ピアノのイベントで飛び込みでジャズを弾いたI切君だ。お母さんもその時にゴスペル歌った人だった。そのことを話すと向うも覚えて居てくれたようだった。

8歳のストリート・ピアノ

 予定時間よりも早めに会場の片付けも終わり、打ち上げ会場は昨年も使ったR亭。僕が着いたときは、ほとんど全員そろっていて座る場所がない。同じ実行委員のN武さんがカウンター席を取ってくれてようやく座った。乾杯して飲むがミュージシャンの人たちが座っているテーブルに背を向けているので、去年のように話しかけることが出来ない。さらに今年は大学6回生の時に購入した山下トリオの『HOT MENU』というアナログレコードを持参しており、あわよくばサインを貰おうと思っていた。しかし、あまり広いと言えないお店で演奏後のミュージシャンと朝からスタッフで働いていた実行委員の興奮とどよめきで話らしい話もできない中、実行委員長のH高さんが一人一人の感想をみんなの前で発表するようにと言う指示が出る。もちろんミュージシャンも含めての、発表した人が次の人を指名するというやり方。大部分の人が話をしたので、僕はもう回ってこないと思っていたら、突然指名された。何を話すか全く考えてなかった僕はとんでもないことをやってしまう。

 「この場に結集したすべての戦闘的市民、学生、労働者に皆さんに文化団体連盟、文学部共闘会議を代表して僕のほうから若干のアピールと問題提起を送っていきたい」とアジをかましてしまったのだ。「ま、こんなこと言ってた時代から40年以上過ぎました。当時の僕の思想性に山下洋輔と殿山泰司という2人の偉大なるジャズ先達が与えた影響は強烈なものがあり、おかげで大学6年行って中退しました」などとも口走った。会場はどっちらけになるかと思ったら山下さんがとても喜んでくれて、「懐かしいな、全共闘の連中がよくやっていたな」とお声をかけていただいた。今がチャンスとレコードを取り出してサインを貰う。去年は「空飛ぶ冷やし中華」にサインを頂きました。元全冷中過激派ですとどさくさまぎれにアピール。そして一本締めで終わった。

山下元全冷中会長とツーショット

 総括だから、本当はチケットの売り上げが今回厳しくてとか、いくつかの問題点はあるのだが、これはこれからの会議でまたもんでいくだろう。とりあえず、無事終了の報告を。

告井延隆ライブ・レポート 11/4/19

 しかし、先週は充実した内容の濃い1週間だった。まず4月11日に告井軍曹のワン・アンド・オンリー・ハーツクラブ・バンドのライブに参戦。今年のライブ参戦は1月19日の藤井康一以来。そして14日の日曜日は宮崎国際ジャズデイのメイン・イベントである山下洋輔スペシャル・カルテット・フィーチャリング寺久保エレナのホール・コンサートに主催者側のボランティア・スタッフとして参戦。イベント後の打ち上げでハーフ・デッド状態になることを予測して本日は有給休暇を取得した。お国が音頭を取って行う「働き方改革」とやらを先取り実施、するわけねーちゅうの、何が悲しゅうて、アベの手のひらで踊る必要があるのだ、などと書き始めると話が大きくそれるので、もとい。この2つのイベントはどちらも大変嬉しいことがあり、忘れないためにもエントリーにアップする。先ずは時系列的に告井軍曹の一人ビートルズのライブの話を書いていきたい。

 今年初めてのライブは最初に書いたように藤井康一君のやつで場所は街中のビルの7階にあるガーラムというライブハウス。以前はウィーピング・ハープ妹尾や小林万里子もそこで見た。藤井君のライブ後の雑談の時だったか、あるいはハーフタイムだったかはあいまいだが、ガーラムの名物オーナーのリンダさんから「4月に告井さんがまた来ますよ」とお誘いを受けた。そうなのだ、去年もここで告井さんのライブを見た。その時はいつもの相方のY尾君が実にいい仕事をしてくれて、同じ職場の美人社員のI上さんを連れてきてくれた。ま、その1回だけだったけどな、連れてきたのは。Y尾君のいいわけを書くと、ビートルズ・ナンバーをやるライブだと聞いたから彼女を連れてきた。いつものフリー・ジャズや遠藤ミチロウ等のライブだと俺の職場での立場がやばくなるから、だってよ。

 ま、それはいいのだが実は僕は直接、I上さんにこのライブに行きませんかとメールをしていた。最初の返信は「あれから1年ですね。予定を確認します」で、お、これは脈ありやんけと思っていたら当日に「予定があって行けません」とのメール。うーむ、Y尾君が職場でセクハラかパワハラでもかましたのかもしれないが、残念至極西京極であった。去年の告井さんのライブも実に素晴らしかったのだが、客が僕達3人とネクタイ締めて仕事帰りのサラリーマン4人、そして開演後に何人か来たが10人超えたかどうかという非常に寂しいものだった。いつものオレなら(by Panta)、得意の情宣活動を展開するのだが、何しろ今月はその3日後に山下洋輔コンサートがあり、イベントを来年もやるためにはチケット販売が至上命令。友人、知人、ちょっとした顔見知りに次々声かけしたので、流石に連続の情宣は厳しい。それでも高校時代の友人で昨年の大腸手術の時にアドバイスと差し入れが大いに有難かった友人のS原君夫妻は来ると言ってくれた。

 当日のライブは20時からなので、18時過ぎ位から軽く飲み食いしようとY尾君と打ち合わせて、今回は久しぶりに地元ザキミヤでお父さんたちの強い味方、センベロ酒場の老舗である高砂で待ち合わせることにした。Y尾君の職場から近いので彼は17時30分から飲んで待っているとのことだった。僕は一旦自宅に帰り、バスに乗って街中に出るため、どんなに早くても18時過ぎ。今回、バスがタイミングよく来てジャスト18時に高砂に着いた。自動ドアが開いて店内に入ると、何やら雰囲気が違う。カウンターはほぼ満員だが、客の年齢層が非常に低くなっている。以前は50代から70代くらいがメインで20代や30代の若い連中が来てもけんもほろろの対応だったのに、これはどういうことだ。謎はすぐに解けた。いつもは年金貰い出してから確実に数年経過のおばちゃんが接客していたが、今日は長い黒髪にトレーナー姿がよく似合う若いチャンネーが二人いる。ちょっと驚いてぼんやりしていたらカウンターで飲んでいたY尾君が声をかけてきた。この前、クラプトンの映画を一緒に見たI切さんと二人だ。「ここは店の方針を変えた。客層も若いし店員も若い。その上、BGMに演歌がかかっていない。Jポップなんかが流れている。前は都はるみが一番若い歌い手だったのに」などと憤っている。確かに店の感じは大きく変わっていて、赤い鼻をしたおじさん連中がいない。ど派手な厚化粧水商売の大おねいさんもいない。さらに驚いたのは文庫本読みながらビールを飲んでる旅行者風の若者など、以前は絶対いなかった客ばかりになっている。僕とY尾君はI切さんにひとしきり、以前のこの店は宮崎のアル中天国だったと、この店で体験したエピソードを話して嘆いた。が、実は僕はそれほど悲しく無い。ていうか、若いチャンネーが持ってくるビールや焼酎が美味しいし、やっぱ、あれやんけ、おばはんが持ってくる酒・魚も悪く無いが、若い力と感激に燃えているチャンネーのほうが、な、ほら、やっぱ、うれしいやん。と似非関西弁になるのは何故だ。

 そうそう、お店のカウンターに地元のテレビ局の看板アナで今春からフリーになったK典さんもいた。ロックバーで毎回ストーンズを聴いているロック好きな人なので、取り急ぎ挨拶し、今日のライブを話したが、やはりビートルズ関連はあまり興味がないのか、今日は予定があるといわれた。あ、もしかして予定があるという表現は行きたくないときに使うものかもしれないと一瞬頭をよぎったが、都合が悪いことはすぐ忘れるようにしているので忘れよう。I上さん、次回断るときは予定があるという表現はしないでね(泣)。まあそれでもなんだかんだ言いながら、大いに飲み食いしていたら地元宮崎では珍しい日本酒メーカーの営業マンがはっぴ姿で登場。雲海酒造の初御代というお酒。丁度、焙りしめ鯖を食べていたときなので、美味しく試飲させてもらった。

 開演が近づいたので高砂を出てガーラムに向かった。ビルの前で告井さんのライブ看板を確認し、エレベーターで7階に行く。S原夫妻は既に来ていた。例によって最前列のテーブルを押さえる。隣の最前列のお兄さんがすぐに話かけてきた。YOU TUBEを見て告井さんのギターテクに驚き、そこからセンチの音楽をいろいろ聴いたという。ビリー・ジョエルがセンチの「夏の日の想い出」をパクったとやたら熱く語っていた。しかし、YOU TUBEを見てミュージシャンを知るという時代になったんだなと痛感。あの東北弁のシンガーソングライターの友川かずきが再評価されたのはナイナイの岡村が絶賛したおかげだ。病気で休んでいた時に見たYOU TUBEで友川かずきを見てぶっ飛んだなんてことをテレビでしゃべっていたな。しかし、客が少ない。僕達のグループが総勢5人、YOU TUBEのお兄さんと横に座ったちょっと年齢不詳な人。後は後ろのテーブルに2,3人いたかな。それでも時間になって告井さんはステージに登場した。もちろんギターを抱えて。

看板

 オープニングはサージェント・ペッパーならぬサージェント告井ズ・オンリー・ハーツ・クラブバンド。もちろん間奏部分ではちゃんと拍手を入れて少ない人数ながら盛り上げていく。オリジナルはそのまま「ウィズ・ア・リトルヘルプ」につながるが今回の告井さんは「俺はセイウチ」につなげた。あの幻想的なビートルズ・サウンドが、アコースティック・ギターのみで再現される驚き、いや驚きは初めて告井さんのライブを見てから何度も経験したが、ライブを見るたびにリピート・アフター・ミーである(なんのこっちゃ)。「俺はセイウチ」では卵男の歌詞のところでフー、フーっていう合いの手が入るのだが、その箇所に来ると僕以外にもフーと奇声を上げてるやつがいる。隣のYOU TUBEのお兄さんだ。なかなかしっかり予習してきたようで、ほとんどの曲をギターに合わせて歌っていた。そういえば去年のライブの時は僕も同じように小声で歌っていたのだが、お酒が入っていたせいか結構はっきり周囲に聴こえて引かれていた。ま、オレの歌を聴きに来たわけじゃ無く告井さんのギターを聴きに来たんだから当然だな(笑)。

 セイウチの次は犬というわけで「マーサ・マイ・ディア」の演奏が始まった。ポールの飼い犬の歌が終わってMCに入った。「セイウチって知ってますか?」という告井さんに対して隣のYOU TUBEのお兄さんが「ポールだ」と答えた。「ああ、ポールの事だって歌ってますね、ジョンは。ところでセイウチって何語か知ってます?日本語だと思うでしょ、違うんです」との問いかけに対して「ロシア語」と答えた客がいた。ドクターS原だ。「お、流石よく知ってるね。まあロシア語とモノの本で読んで知ったんだけど、僕が思うにはモスクワとか中心部のロシア語じゃなくてもっと日本から見て西側のカムチャッカあたりの言葉じゃないかと思っている」という話に「昔の日本の領土だ」と答えたのは意外にもY尾君。そういえば中学時代に天才O合に一度だけテストで勝ったことがあって、それは社会だったとか話していたような気がする。「うん、だから日本語と良く似ているところがあると思ってる」。しかし、以前のライブの時はリバプールの人間は奴隷商人の末裔でその奴隷が作ったブルースに憧れたビートルズがいたなどという非常に壮大な歴史の話が出たり告井さんは軍曹じゃ無いときは教授みたいだ。そういえば、このことをネタにコメント書いたら、ガチガチのビートルズファンから「ポールは奴隷商人の子孫ではありません」と逆切れされた。ああいうのは新興宗教の一種だな。いやいやシャレだよ、ネタもとはこれだよとリンク貼ったけどスルーされた。自分の信じることしか信じたくないのが人間なんだが、まあ本当にビートルズを神様にしているやつもいるんだな。当のビートルズはえらいな迷惑だろうが。

 「ところでロシア語、何か知ってますか」という問いかけに「キヨスク」とS原君が答えた。「キヨスク、え、キヨスクってロシア語なの」と質問した告井さんが驚いた。「オーストラリアにもキヨスクあったけど、ロシア語なんだ、じゃ他は?」との質問に再度S原君が「イクラ」と返す。今度は「イクラ、そうですね。イクラは魚卵ですね」と告井さんが話を始めた時に「ハウマッチ」と叫んだ奴がいた、あ、オレだった。「ハウマッチ、ああ、なるほど」と苦笑する告井さん。早速Y尾君から「つまらんこと言うたらいかん、謝れ」といわれお詫びさせていただく。「じゃ昔、ロシア人のことをロスケと言ってたでしょ」と告井さん、思わず「言ってたな、『おろしあ国酔夢譚』だったっけ」とうろ覚えの記憶をたどる僕の後ろで「ロシア人のことはロスキーっていうからね」と再度S原君。告井さんも驚いていたが、何を隠そうS原君はロシア人相手に医者の仕事もしたことがあるので、日常会話くらいは全然問題ないなどと聞かれもしない説明をするワタクシ(笑)。「いやいや、ロスケは小さい頃、爺さんたちがそう呼んでいて、蔑称だと思っていました。英語でジャップというみたいな感じでロスケと言っていると思っていました。でもロスケってあれロシア語なんですね」。「そう一番近い発音」とこれはS原君がフォロー。「まあ多分日露戦争の時にロシア人がロスキー、ロスキーというのを聞いて、ちゃんと発音できないのでロスケになったんでしょうね。蔑称じゃないんだ」。

 「マーサはポールの飼っていた犬で歌詞に”silly girl”と出てくるので雌犬ですね。もうとっくに死んでるけどメスだったから子供、孫、今はもうひ孫の時代かな。イギリスでは相当高額で取引されてるんじゃないかな、マーサの子孫は。血統書付きでマーサの子供って書いてあったら普通の犬の値段の倍くらいするとかありうるよね。犬好きなら飼いたいよね。ポールの飼った犬の子供を連れて歩いて、ポールになった気分で」。「買います。20万でも買います」というバカな奴がいて誰かと思ったらY尾君だった。「犬好きは買うよね、ちょっとした犬でも20万くらいするし」と告井さん。「その辺、誰か調べてくれないかな。イギリスの犬事情に詳しい人いないかな」と笑いを誘う。

演奏中_convert_20190415224419

 「じゃ今から動物シリーズで行きます」といって始まったのは「ブラックバード」。なんとエンディングのSEである鳥の鳴き声は口笛でこれまた完コピ。「ブラックバード、伴奏が素晴らしいですね。これ伴奏部分だけでも歌になってる、アコースティック・ギター売ってるお店で試しに弾かれる曲のナンバーワンらしいです。ちょっと弾けるようになると嬉しくて弾くんです。まあ伴奏部分弾く人は多いけど伴奏と歌と両方弾く人は珍しい」っておいおい自画自賛だ(笑)。しかし、本当にそんな人はいないな。「さ、また動物シリーズ続きますよ」。次は豚だ。ジョージの作った愛らしい「ピギーズ」を弾き始めた。終わりのところではもちろん”one more time”のナレーションとFOの音を再現する。続いてMCなしに始めたのは「ヘイ・ブルドッグ」。あ、もちろんフォーリーブスの♪にっちもさっちもどうにもブルドックではない。当然、RCの「ブルドッグ」でも無い。

 「それではもう一つ、今度は海の生物をやってみます」。ピンと来た瞬間に「タコ庭だ」と叫んだオレがいた。演奏が終わり「オクトパス・ガーデン。このオクトってのはオクターブとも言うように数字の8の意味があります。つまりオクトパス、八本足君ということ。いい加減ですよね。」。そのとき突然客席から「イカはなんていうんですか」とYOU TUBEのお兄さん。「イカはスクイッド(squid)。ただイカ料理はカラマリ(Calamari)。まあイギリス、アメリカはあんまりイカ料理やタコは食べない。ああいうの好きなのは地中海の連中、スペインとか、まあフランスは何でも食うよね、豚足も食うし。それでですね、このオクトパス・ガーデンが8だということを考えていたら、変なことに気が付いた。オクトが8ならオクトーバーは何月?8月じゃない10月でしょ」。「もともとは8月」とここでもまたS原君が正解を出す。「そうそう、じゃなんで8月が10月になったのか」と質問する告井さん。そこはS原君、「年の初めの数え方が違うから」と即答する。ライブハウス内が少しどよめいた。まじか、本当かなんて発言が飛び交う。「そう、その通り。いやローマ暦のせいだけど、このあいだチコちゃんに叱られるって番組見ていたら、あれでやってたんですよ。見ませんでした?ローマ暦では3月が1年の始まりだったって話をしていて、その理由が面白いんです。1月、2月は寒いから戦争しない。3月になると戦争を始める。ローマ帝国ってのは戦争が国で一番大事な仕事で、それであんなでかい帝国になったんですね。まあそういうことで戦争を始める3月が年の初めと決められていたそうです。チコちゃんがそう言ってました。セプテンバーもセプトは本来7、オクトーバーのオクトは8、ノーベンバーのノブは9、12月のディッセンバーは10」ここまで話したところでS原君が「Decade」とニール・ヤングのベスト盤のタイトルを言う。「じゃなんで1月が年の初めになったか」というところでリンダさんがチコちゃん人形を出して場をさらう。さらにどさくさまぎれに「僕はキョエちゃんのファンです」とカミングアウトしたのは普段はおとなしいI切さん。いやもう混乱の世界でしたね。

 「で、何で1月が年の初めになったかというと、これもローマ時代からですが、寒い時期だから戦争しなかったけど、そうなると相手国も戦争の準備をして居ないのでもっと戦争に勝てるんじゃないかと。まあそれで1月が年の初めになったという面白い話でした。あの番組ためになるよね、変な答えすると怒られるし。『ボーっと生きてるんじゃねーよ』、って言いたい人、いっぱいいます。自分もそうかもしれないけど(苦笑)。さあ、それでは動物シリーズ終わりにします」といって弾き始めたのは「涙の乗車券」。「これは『ヘルプ』というアルバムに入ってますが、あの映画を見た人」。当然、ほとんど全員がハーイである。「この曲は映画の中ではゲレンデでかかります。あれは多分、フランスのゲレンデですかね。で、ゲレンデにピアノを置いてます。でもレコーディングでは一切ピアノは使ってない。じゃなんでピアノを置いたか」一瞬の間があって出た答えは「意味は分からないけど、カネが余っていたとしか言いようがない」。一同ズッコケである。「最初の映画は白黒でどこにもいかずに映画撮ってカネもかからなかったけど、次のこの『ヘルプ』はカラーです。ロケ地もバハマやフランスなどに行ってます。で、この曲をスキー場で歌った後、ビートルズはスキーをしています。そのシーン覚えてますか。スキー、へたくそなんですよね。やっぱりイギリスの労働者階級なのでスキーに慣れていない。で、そのスキーやってゲレンデの下で何やってか覚えています?あれ、当時は全然意味が分からなかった。箒を持ってレレレのおじさんみたいなことをやっている。あれ、カーリングなんですよね。当時の日本人は誰もカーリングなんて知らなかったから分かるわけないじゃないですか。最近になってやっとカーリングも知られるようになったけど、初めてカーリングを見たのはあの映画です」

 「まあカーリングが人気になったのは北見の女の子たちが可愛かったからですよね、あれなんだっけ、あ、そうそう、『そだねー』ってやつ。試合中に、そだねーって言って笑い転げてる、あれが可愛かったし、あれを見てまたビートルズを思いだした。演奏しているとき遊んでいるみたいじゃないですか。何か笑いながら、ガム噛みながら、楽しそうじゃないですか。少年が遊んでるみたいで、あれがカッコ良くてね。あんなんでいいんだと思った。あんなふうに生きたいなとあの頃の子供たちはみんな思った。そうみんなビートルズになりたいと思った。決してビートルズみたいになりたいとかビートルズみたいな演奏したいと思ったんじゃ無くて、ビートルズになりたいと思ったんですよ」。この話は今回含めて過去3回、告井さんのライブを見たが毎回話す内容である。そう僕たちはビートルズになりたかった。ビートルズのコピーバンドはジョンのパートを弾いてるんじゃ無くてジョンになりきっていたし、ポールに成りきった人、ジョージに、リンゴに成りきっていたんだという話。「ビートルズって音楽が良くてカッコ良くてだけじゃない、それ以外のものなんです。カルチャーショックでした。ステージでは遊んでいる感じ、ステージ降りてインタビューの場面ではちゃんとした質問にはちゃんと答えて、つまんない質問の時は皮肉交じりのジョークで答える。あれは今考えると相当な大人だったんだと思います。あれがカッコ良くてね、あんな言いたいことを言っていいんだ。」

 「2年くらい前に『エイト・デイズ・ア・ウィーク』って映画がありました。インタビュアーがポールに『あなたお高く留まって無い?』って聞くわけですよ。その時に、ああそういう風に訳すのかと思ったけど、インタビュアーが”You’re so snobby people”って言う訳ですよ。うん、”snobby”、あれが『お高く留まる』って意味なんだな。で、ポールは『いや、俺は全然、”snobby”じゃないよ。あなたの質問にそのまま答えるとそうなるだけだよ』って反論するんです。普通の表情で言うんです。そうすると他に沢山インタビュアーがいるんですけど、全員拍手ですよ。ポールに向かって『お前の言う通りだ』とか『お前を支持する』という拍手ですね。自分の言いたいことを言って場をしらけさせないのが凄いですよね。あ、今思いだした。孔子、七十にして心の矩をこえず、それだよね。それでは『ヘルプ』の中の曲を何曲かやって休憩したいと思います」。こう言って演奏されたのは「おとといの夜(ザ・ナイト・ビフォー)」。自然とステージに向けて全員が手拍子をする。どこかで大きな声で歌ってる人がいる。見ると隣のYOU TUBEのお兄さんだ。あれは歌ってる方は気持ちがいいが周りで聴いているとちょっと迷惑だな。オレも反省しよう。続いて「恋のアドバイス」。このタイトルのエピソードは昨年聞いたので書かない。そしてファーストセットの最後はアルバムタイトル曲の「ヘルプ」。これにて第一部終了。」



 とまあ、こういう調子で書いているときりがないのでセカンドセットは演奏した曲と、これだけはというエピソードだけを書いておく。休憩時間中にYOU TUBEのお兄さんは告井さんのところに行って熱心に話しこんでいた。何かリクエストしたようだ。

 で、以下が後半のセットリスト。
① ノーウェジアン・ウッド(オリジナルタイトルは「鳥が逃げた」。意味は以前のエントリーで確認してください。
② サムシング、ポールのリードベースまで完璧に演奏するんだよな。
③ ドント・バザー・ミー、ジョージが最初に作った曲
④ アイ・ニード・ユー、ということでジョージの曲が続く、哀愁があるんだよな。
⑤ 恋をするなら、このあたりでジョージの作曲術についてMCがあった
⑥ タックスマン、ジョージの記念すべきアルバムA面の1曲目、前も書いたがチープトリックがこの曲に影響されて「税金泥棒」という曲を録音している。ここでは間奏部分の高度なテクニックが必要なところはポールが弾いているという説明アリ。ジョージもトライしたけど弾けなかったとのこと。自分で作って弾けないのは悲しいな。もっとも間奏部分を弾いたポールは家に帰ってしまい、後奏部分は録音忘れ。仕方ないので間奏部分を切って貼りつけたらしい
⑦ ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー、シタールの曲だが、告井さんのギターで改めてこの曲の良さを再認識。チューニングの質問をした客がいて、告井さんが説明。それと同じチューニングで有名なのは「青い目のジュディ」。ギターソロはスティーブン・スティルスだが、あるライブでソロの途中にこの「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」を弾いてるものがあるらしい。YOU TUBEで探してくださいって。
⑧ ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン、リクエストコーナーに入り、最初はYOU TUBEのお兄さんがセンチの「夏の日の想い出」と言ったが後にしますといわれ、僕がリクエスト。去年は「シーズ・リーヴィン・ア・ホーム」だったので、今回はジョンで。
⑨ いちご畑よ、永遠なれ、むろんストロベリー・フィールズ。しかしアコギ1本でやってるのよ、この難曲を。
⑩ シーズ・リーヴィン・ア・ホーム、うわー待ってました、だよ。去年リクエストしたのを覚えて居てくれたんだろうか
⑪ ア・デイ・イン・ザ・ライフ、ペパー軍曹つながりで行ったのかな。フル・オーケストラの部分もギター一本で表現するんだから腰を抜かす
⑫ 夏の日の想い出、センチが77年に出した3枚目のLP収録曲。出た当時、レコード会社から大ヒット間違いなしと言われたけど全然ヒットしなかった。「うちわもめ」はヒットしたでしょうと聞いたけど、ラジオでよく流れたけど3000枚くらいしか売れなかったらしい。学生時代にパンタにインタビューしたことがあったが、その時にも日本のロックは8000枚売れれば大ヒットと言ってたことを思い出した。この曲がビリー・ジョエルの「夜空のモーメント」にそっくりでビリーがパクったとYOU TUBEのお兄さんはしきりに訴えていた。



比較までにビリー・ジョエルの「夜空のモーメント」



そしてここからは再度詳しくレポしたい。実はセカンドセットに入るときに告井さんにセンチの『はっぴいえんど』というカバー・アルバムを持ってきていると見せたのだ。

「じゃ、さっきの『はっぴいえんど』というアルバムの曲をやりましょう」と告井さんが言ってくれた時はうれしかった。「『風をあつめて』をやりましょうよ」と言ったが却下された。「はいからはくち」も却下。「えー、このアルバムは80年くらいかな、全曲はっぴいえんどの曲を全く違うアレンジでやっています。」という告井さんの言葉に辛抱たまらずアルバムを持ってステージに乱入した男がいた。あ、オレや。客に「こういうところを写真に取ってSNSにアップしろ」と情宣活動を強制する。「はい、それでははっぴいえんどやりましょう。大瀧詠一氏、残念ながら亡くなられたけど、僕は大瀧さんとはずいぶん古くから知りあって、はっぴいえんどをやるかやらないかくらいの時に丁度知り合ったんですよ。あの時は大瀧さんじゃなくて詠一さんと呼んでました。で、大瀧という苗字も後ではっぴいえんどのジャケット見て知りました。あの頃の大瀧さんの下宿に遊びに行ったら大家さんが『キクチさん、手紙だよ』って叫んでました。あの頃はキクチさんだったはずです。何やら両親が離婚してから大瀧になったそうです。お父さんの苗字を名乗っていたけど、その後はお母さんの苗字を名乗ったと聞いたけど、それはよく分かりません。とりあえず僕はキクチ詠一さんだと思っていました。」

ステージ情宣


「まあ、そんなこともあって、一度、はっぴいえんどが終わった頃、遊びに行ったことがあります。正月だったですね、あの人、酒は一滴も飲まない人なんですが、『告井君がせっかく来てくれたので酒くらい一本付けてやろう』と言ってくれて、それからどれくらい音楽の話をしたか、それでそのあと将棋を指そうということになって、あの頃、将棋に凝っていたんですね、詠一さんは。そして何局か将棋を指して時間も遅くなり終電も間近なので帰ろうとしたら、大瀧さんが『告井、ちょっといいもんやるから待ってろ』って言うんですよね。で、部屋の奥から黄色い表紙の本を持ってきたんです。見た瞬間僕はそれが何だか分かりました。そしてこれをやるよと言ってくれたんです。それは詰将棋の問題集だったんですね。でも実はその時にですね、コートのポケットにその本を入れてあったんです。僕も持ってたんです。大瀧さんも偶然、その本を買ったんでしょう。そしてその本をくれようとした時に僕がポケットからその本を出して二人で大笑いしたことがありました。『何だ、お前も持っていたのか』って、それは記憶の中で相当楽しい記憶ですね。それであんなに早く亡くなるとは思わなかったので残念です」

「大瀧さんの曲ではっぴいえんどの『かくれんぼ』という曲があります。もちろん作詞は松本隆さん。その曲をやります」



しかし、これだけ感動的なライブなのに客がたったの10人前後。ザキミヤの音楽シーンはどうなっているんだ。

参考までに過去の告井軍曹のライブレポート貼っておきます。

昨年のガーラムでのライブの話 その1
昨年のガーラムでのライブの話 その2
昨年のガーラムでのライブの話 その3

初めて告井軍曹のワンアンドオンリーライブを見た話 その1
初めて告井軍曹のワンアンドオンリーライブを見た話 その2


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